川田稔 『満州事変と政党政治  軍部と政党の激闘』 (講談社選書メチエ)

『浜口雄幸と永田鉄山』(講談社選書メチエ)と同じ著者。

本書は満州事変前後に焦点を絞った本。

まず、1928年張作霖爆殺時点で、日本の対中政策に三つの構想があったことを指摘。

(1)田中義一政友会内閣=中国本土の国民政府統治を容認、満蒙特殊地域では張作霖の勢力を温存。

(2)浜口雄幸と野党民政党=国民政府の中国全土統一を容認、日中の友好関係・経済協力推進。

(3)関東軍首脳=満蒙分離、張作霖排除と独立新政権樹立。

ただし、3番目の立場においても、満蒙の中国主権存続を前提にしていることに注意。

(張作霖爆殺の実行者河本大作ですらそう。)

これに対して、1927年陸軍中央少壮幕僚グループが結成した木曜会の満蒙領有論は中国主権を完全に否定するもの。

木曜会は陸軍士官学校21~24期が中心でメンバーは石原莞爾・根本博・鈴木貞一ら、少し年長の16期永田鉄山、岡村寧次(やすじ)、17期東条英機も会員。

さらに軍閥の系譜を遡ってみると、1921年第一次大戦後のドイツにおいて、永田・岡村・小畑敏四郎がいわゆるバーデン・バーデンの盟約を結ぶ。

派閥解消・人事刷新・軍制改革・総動員体制確立・長州閥打破をその内容とする。

この三人が中心となり、木曜会と同年、1927年に二葉(ふたば)会が陸軍15~18期を中心に結成される。

永田・岡村・小畑以外のメンバーでは河本・東条・板垣征四郎・土肥原賢二・山下奉文(ともゆき)と、史書でしばしば名前を見る面々が並んでいる。

二葉会と木曜会の両者が1929年合併して一夕(いっせき)会を結成。

武藤章、田中新一らも同時に加入。

この一夕会が30年代初頭、日本政治を揺るがすことになる。

田中政友会内閣と浜口民政党内閣での陸相は白川義則と宇垣一成で、両者はともに長州閥主流派。

この時期の陸軍最有力者は宇垣とみなせる。

これに対して一夕会は、荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の非長州系三将官を擁立することを目指す。

(後に皇道派の代表者となる荒木・真崎と、統制派の傀儡で首相にもなった林の名前が、この時期の陸軍革新運動の表看板としてすでに出てくることを頭に入れておく。)

政党政治に比較的親和的な長州閥の流れを汲む宇垣派の首脳部を、革新派の一夕会系中堅幹部らが押し流していく構図を、人名をチェックしながら、以下しっかり把握していきましょう。

1929年岡村寧次が陸軍省人事局補任課長に、30年永田鉄山が軍務局軍事課長に就任し、徐々にポストを掌握。

1931年9月18日、ついに柳条湖事件で満州事変勃発。

(これは日付まで覚えましょうか。基礎的過ぎて、中学レベルですが、日中戦争の端緒となった1937年7月7日の盧溝橋事件とは当然しっかりと区別。)

主導者は関東軍高級参謀板垣征四郎、作戦参謀石原莞爾らで、当時の関東軍司令官は本庄繁。

関東軍が、奉天・長春など満鉄本支線沿線を制圧、当時の石原は中国本土主要部をも日本の勢力下に置くことを目標にしていたと記されている。

ここで当時の陸軍の主要ポストを示す表が載っているので、名前を階級と共に一部書き写してみる(赤字で記した人名は宇垣派)。

まず陸軍省では陸相南次郎大将、次官杉山元中将。

軍務局長小磯国昭少将、その下に軍事課長永田鉄山大佐、人事局長中村孝太郎少将、その下の補任課長が岡村寧次大佐。

次に参謀本部では、参謀総長金谷範三大将、参謀次長が二宮治重中将。

総務部長が梅津美治郎少将、その下の編制動員課長に東条英機大佐、第一(作戦)部長建川美次少将、その下の作戦課長が今村均大佐、第二(情報)部長橋本虎之助少将。

最後に教育総監が武藤信義大将、本部長が荒木貞夫中将。

上記の通り、最上層ポストはほぼ宇垣派で占められているが、その下に一夕会幹部がおり、下剋上的に国策を動かそうと企てる。

(ただし陸相・参謀総長が宇垣派であるのに対し、教育総監の武藤信義は反宇垣派であるとされている。また宇垣派にも満州での武力行使賛成への傾きや、同31年の三月事件への関与などの動きがある。)

面倒なので、事変の細かな経緯についてはメモしないでおきましょう。

一夕会擁立将官の一人である林銑十郎朝鮮軍司令官の増援軍独断越境の事実だけをチェック。

当時、関東軍独走の動きに対峙したのは、浜口内閣を継いだ、第二次若槻礼次郎民政党内閣。

主要閣僚は外相幣原喜重郎、蔵相井上準之助、内相安達謙蔵、陸相南次郎、海相安保清種(あぼきよかず)。

宮中重臣は、元老西園寺公望、内大臣牧野伸顕、宮内相一木喜徳郎、侍従長鈴木貫太郎、侍従武官長奈良武次。

この時、事変不拡大を目指す内閣の方針を支持する先帝の発言が出されるが、これは先帝個人の考えであるだけでなく、重臣らのバックアップもあったであろうと推測されている。

これに対して陸軍は反発、先帝を「現人神」扱いしておいて、実質はその指示に従うつもりは一切無く、天皇の権威などただ反対派を黙らせるための方便としかわきまえない連中に対して、終戦に至るまで先帝と側近らは針の穴を通すような微妙なバランスで行動することを強いられる。

本来、天皇の直接的政治介入が好ましくないことは言うまでもないが、当時は非常事態で政党政治自体が深刻な危機に瀕していたとの判断から、著者はこれを容認している。

ここで、本筋とは一時離れて、浜口と永田の政治構想を比較した章がある。

大体、最初にリンクした前著と同じ内容。

第一次大戦は史上初の総力戦となり、先進国間の全面戦争はそのコスト・犠牲がどのような戦争目的をも超えることが誰の目にも明らかになった。

日本国憲法第九条第一項の戦争放棄規定は、第二次世界大戦ではなく、第一次大戦後、戦前政党政治の時期に日本自身も主体的に加わって締結された不戦条約をベースにしたものだとされている(ただし第二項の戦力不保持規定は別)。

浜口は抑止効果を持ちうる一定の軍備と国力があれば戦争防止は可能であるとみなしたのに対し、永田は戦争不可避論と中国資源確保による自給自足体制構築を主張。

話を戻して、9月下旬南陸相、金谷参謀総長は関東軍に満鉄付属地外からの撤兵を指示するが、10月には撤兵拒否・新政権工作容認の流れが強まり、同10月には満州を追われた張学良政権が存在していた遼寧省西部の錦州爆撃が行なわれる。

一夕会系中堅幕僚の突き上げによって陸軍中央は動揺し、内閣も南満州軍事占領と新政権樹立容認方針へと向かう。

通常、先の朝鮮軍増派の事後承認をあわせて、これを若槻内閣の弱腰・無策の表われとするのが一般的解釈である。

だが、著者はこれを南・金谷ら宇垣派陸軍首脳を内閣に引き付けるための譲歩であり、言わば戦線の建て直しだとする。

宇垣派と関東軍・中堅幕僚層との間に楔を打ち込み、後者を内閣と宇垣派の連携によって封じ込め、制御することが若槻ら政党政治家の戦略であり、同時期に起こった再度のクーデタ未遂である十月事件にも関わらず(著者はこの事件の影響を過大に見積もっていない)、それは以下にみるように実際かなりの効果を上げた。

この辺の著者の解釈は非常に独創的で、本書で最も特徴ある部分である。

11月北満チチハル侵攻の動きが出てくるが、一時占領後に撤退、錦州攻撃も中止される。

この時期、陸軍中央は関東軍首脳部の更迭すら示唆している。

当時朝鮮総督となった宇垣が南らに影響力を行使し、南・金谷・杉山・小磯・二宮・建川ら宇垣系幹部は満蒙での新政権樹立には賛同するが、中国主権を否定した独立国家には反対し、北満・錦州への軍事行動拡大にも同意せず。

南満州占領(錦州を除く)と張学良を排した新政権樹立までは、永田ら一夕会は建川・小磯など宇垣系内部での強硬派を巻き込んで、南・金谷を動かし成功するが、しかし北満州チチハルおよび西南部錦州侵攻と独立国家建設問題では首脳部を動かせず。

この時点で、若槻内閣はひとまず一夕会系軍人を抑え込み、小康状態を確保したと言える。

また前著の記事で少し触れた今村均が、南・金谷ラインで動いていたと書かれていて、ああやはりこの人は穏健な立場を守っていたんだと知って、ほっとする思いがした。

この政治と軍との均衡状態を破ったのが、12月の若槻民政党内閣崩壊と犬養毅政友会内閣成立。

その端緒となったのが、安達謙蔵内相が10月末に政友会との大連立、協力内閣運動を提起したこと。

この構想に当初若槻も賛成。

今から見ても、軍部抑止のためには悪くないアイデアに思える。

著者も指摘するように、同時期の英国で、31~35年のマクドナルド挙国一致内閣が大恐慌後の混乱を乗り切った例もある。

しかし井上蔵相、幣原外相が反対。

政友会との政策の違いなどを挙げてのことだが、そもそも緊縮財政と金解禁自体が完全に間違った政策だったんだから、そんなこと言ってもしょうがないでしょう、まったく硬直した理想主義者にも困ったもんだな、などと考えながら少し先を読み進むと、何やら様子が違う。

安達内相の企図は、実は軍部を掣肘することではなく、むしろその意を迎えることであり、大連立運動は実質親軍的行動だと井上・幣原は考えたとされ、著者もおそらくそうだったであろうとその判断を首肯している。

閣内での対立が進行し、結局12月11日に若槻内閣総辞職。

当時の首相には閣僚の罷免権はなく、閣議は全員一致を原則としており、閣内不一致となれば政策決定は不可能に陥るため、総辞職するほかなかったのである。

ここでも書きましたが、以上の事実は中学・高校の歴史の授業でもう少し強調して教えてもらった方がいいと思います。

安達が単独辞職しなかったことについて、安達直系の中野正剛を通じた一夕会との関係を著者は疑っている。

(安達は32年民政党を飛び出し中野らと「国民同盟」を結党。明治期の吏党の系譜として、1890年大成会[杉浦重剛・元田肇]→92年国民協会[西郷従道・品川弥二郎]→99年帝国党[佐々友房]→1905年大同倶楽部となり、安達はこの大同倶楽部の指導者。以後1910年中央倶楽部となり、それが、第一次護憲運動に対抗する目的の桂太郎の指導の下、13年立憲国民党の一部と共に立憲同志会結成。)

政友会は、金輸出再禁止と国際連盟脱退も辞せずとの決意を表明、党首の犬養も党内世論に押し流されたか、大連立には応じず(ただし犬養自身は連盟脱退は考えていない)。

政友会が積極財政と強硬外交、民政党が緊縮財政と協調外交という政策の対比は、高校教科書でも出てきますが、もし民政党政権が積極財政を採り社会不安を和らげることに成功した上で協調外交を継続していれば、あるいは政友会・民政党の大連立政権が軍部を抑え込んで危機の時代を何とか乗り越えていれば、というのはたとえ後知恵と言われようと、どうしても考えたくなる「昭和史のイフ」である。

それにしても、鳩山一郎や森恪(つとむ)ら政友会の一部政治家が、今村・永田に倒閣を依頼するかのような発言をしているのを読むと、深く嘆息してしまう。

戦前の民主主義は軍国主義によって倒されたと決して単純に言えるものではない。

政党よりも軍部に世論の支持があったというだけでなく、政党政治家自身が矯激な世論に媚び、党派心の虜になって議会主義を破壊したのだから、民主主義は自壊した、あるいは民主主義自体が軍国主義を生み出したと解釈する方がよほど実態に合っている。

若槻内閣総辞職時に、若槻への大命再降下が一時検討されたが、軍と世論の攻撃が宮中に向かうことを懸念したため、元老西園寺が断念したと書いてある。

建前上は至高の権威であるはずの皇室が(加えて元老・重臣、まともな政党政治家、多数派世論の尻馬に乗らない穏健派軍人も)、実際は常に過激な衆愚的匿名世論に怯えざるを得ない状況だったことがよくわかる。

「民意」がこれほどの力を持っていた戦前の日本は、すでに「高度」に民主的だったとみなすべき。

だから日本は結構だと言うんじゃないんです。

戦前日本の破局はあくまでデモクラシーがもたらしたものだということを誤魔化すべきではないと言いたいんです。

日本は「非民主的政治制度」のせいで滅んだのではなく、そうした抑制装置があったにもかかわらず、デマゴーグと衆愚の支配を防ぐことができずに破滅したんです。

若槻内閣崩壊と犬養内閣成立で事態は一気に流動化。

陸相には荒木貞夫、参謀総長には皇族の閑院宮載仁親王が就任、32年1月に真崎甚三郎が参謀次長になり実権を握る。

2月には一夕会に批判的になっていた今村均が更迭され、小畑敏四郎が後任作戦課長、軍務局長に山岡重厚、4月永田が第二部長、山下奉文が軍事課長、小畑が第三部長、後任には鈴木率道、と一夕会系が続々昇進(上記の満州事変勃発時のポスト表と見比べて下さい)。

宇垣系の杉山・二宮・建川は中央から追われ、小磯のみは2月に陸軍次官になるが、5ヶ月で更迭、柳川平助が後任次官に就任、結局陸軍中央より宇垣派は追放される。

(この柳川と荒木・真崎・山岡・山下・小畑・鈴木が皇道派の中心。)

31年末より錦州再攻撃、32年年頭占領、2月ハルビン占領、31年12月よりチチハルも長期占領態勢が敷かれ、満州全域の主要都市が関東軍支配下に置かれる。

32年1月第一次上海事変、2月リットン調査団来日、3月満州国建国宣言。

永田による、小川平吉・森恪を通じた、与党政友会への政治工作について記述あり。

当時の政友会内部では、鈴木喜三郎派と久原房之助派が主流派として犬養を擁立し、非主流派の床次(とこなみ)竹二郎派(旧政友会派=党歴の古いグループ)と対立。

鈴木派・久原派とも親軍的で、それに担がれた犬養が軍を抑止しようと努めるというねじれ現象が存在。

犬養は大勢に逆らって、満州国を即時承認せず、中国主権を認めた上での満蒙独立政権を模索するが難航し、そのうちに五・一五事件によって殺害されてしまう。

鈴木喜三郎後継総裁に大命降下せず、西園寺は後継首相に海軍穏健派の斉藤実を推挙。

ここでも政党内閣に否定的な一夕会系軍人の威嚇があった。

軍の圧力が高まる状況下で、政党勢力も元老西園寺と対立することはできず、戦前の政党内閣は終わる。

日本の政党内閣が1924~32年の8年間しか続かなかったことは中学・高校の歴史の授業で必ず教えられます。

しかし1925年普通選挙法成立から、軍の暴走の端緒となった1928年の張作霖爆殺事件までを取れば、たったの3年です。

3年ですよ、3年。

教科書的理解では、普通選挙法に危機感を強めた支配層が同時に治安維持法という稀代の悪法を同時に制定し、軍の専横に歯止めが効かなくなって、未成熟な民主主義が圧殺されたということになるんでしょう。

しかし、本当にそうなんでしょうか?

上記の経緯を見れば、大正デモクラシーと昭和の軍国主義がこうまで年代的に近接している真の理由は、両者の関係が実は「原因と結果」だからじゃないんでしょうか福田和也『昭和天皇 第四部』)。

やっと終わった・・・・・・。

最初取っ付きにくいが、じっくり読むと有益なのは前著と同じ。

しかし前著を読めば、強いて取り組む必要は無いか?

1930年代初頭の政治史の比較的詳細な見取り図を得ることはできるが・・・・・・。

この記事で、興味の持てそうな部分があれば、手に取ってみて下さい。

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佐々木隆 『明治人の力量  (日本の歴史21)』 (講談社学術文庫)

同シリーズ20巻鈴木淳『維新の構想と展開』の続き。

「不羈独立」をキーワードにした明治後半(1889~1912年)の歴史。

最初の方に以下の文章有り。

なお近年、「国民」「民族」「国家」などはある種の政治的意図をもって作為された概念だとして、「国民国家」の虚構性をことさらに強調し、否定的に捉える議論が流行している。「家」「家族」なども槍玉にあげられているようだ。しかしながら大多数の人々が受け容れ認め、信じ目指したものは、仮に究極的にはそれが共同幻想であり虚構であっても「歴史的現実」に他ならない。そもそも人間社会の制度・規範・諸価値は、すべて「幻想」であり「擬制」である。「個人」「自由」「人権」などの近代的価値についても検証した上で議論しないのは不公平かつ知的怠慢というものであろう。

この文章だけで、本書を読む価値があります。

全く同感。

今、何よりも相対化すべき価値は「自由」と「民主主義」であり、それを享受する資格がある自分たちだけで社会を永遠の進歩の過程に載せることができると考える民衆の固定観念のはず。

なお、明治政府の「超然主義」について、(1)全党排除型、(2)全党参加型、(3)良民政党型、(4)国民政党型という四つの類型を提示し、通常、政党を通じた国民の政治参加拒否と解釈される超然主義は、それ自体が目標なのではなく、「不羈独立」→「富国強兵」→「公正な政治運営」→「超然主義」という重層的目標の一部であり、恒久的理念でもなく時限的概念だったと指摘し、それを実際の史実描写の中で表現している。

普通対蹠的に扱われる明治憲法と現行憲法について、制定当時の国際社会への参入条件という外発的事情による拘束、設計主義的性格、一種神聖視される硬性憲法であること、制定時の外国人の関与と非公開性(このうち前者の点では旧憲法の方がマシ)、実際の条文と運用の乖離(旧憲法の天皇大権と新憲法の戦力不保持)など、数々の共通点を持っているとの指摘には思わずニヤリとしてしまう。

この天皇不親政という不文律と実際の条文のズレを埋めるための重要な柱が元老の存在だったわけだが、その資格が維新と明治国家建設への貢献という一回性の現象に拠っていたため、旧憲法は元老の死去・消滅という時限爆弾を抱えていたと評されている。

元老の名前は全て憶えましょう。

まず長州から伊藤博文山県有朋井上馨

薩摩から黒田清隆松方正義西郷従道大山巌

まずこの7人の名がすぐ出てくるようにすること。

彼らが、20世紀に入って、1901年第一次桂太郎内閣成立とともに政界の第一線から退きつつも、首相選任権を行使して大きな影響力を保持し続ける(後述の通り、黒田のみはそれ以前に死去している)。

それ以前には、「元老」ではなく「元勲」と呼ぶのが普通。

本書によると、他には、長州の山田顕義が元勲、公家の三条実美は準元勲扱い(両者はそれぞれ1892年、91年に死去したため元老には数えない)。

以後、元老には長州閥で山県直系の桂太郎と、公家出身で伊藤博文から政友会を引き継いだ西園寺公望が加わる。

1885年内閣制度設立以来、20世紀までの首相は、1898年の第一次大隈内閣以外、全て上記7人のうちから選ばれた(自ら組閣しなかったのは井上・西郷・大山)。

1901年から明治末年までは桂園時代なので、結局元老は「(大隈重信を除いて)明治時代に総理大臣になったか、なってもおかしくなかった人」ということになる。

史上、9人しかいない。

(本書では大隈も元老に追加されたと書いてあるが、それは他の本ではあまり聞かない。)

よく知られているように、この元老には、憲法その他、いかなる法的根拠もありません。

しかし、こういう「非民主的な重石」が消えると同時に、議会政治が崩壊に向かったんだから、意図的にそうした存在の継続を保障することが必要だったんではないでしょうか。

著者は、明治の「建国の父たち」が死去していき、「建国者の息子たち」がそれに劣る権威しか持てなかったのは不可抗力でやむを得ないとしているが、首相経験者が「重臣」という曖昧な形ではなく、確固とした地位を占めて議会・軍部・世論の上に立つという体制にならなかったものかと考えてしまう。

あと、具体的史実に関する叙述から、気になったものを以下抜書き。

大成会・国民協会・帝国党・大同倶楽部・中央倶楽部という吏党が唯々諾々と政府に従ったのではないことが印象的。

有名なのは、日清戦争直前、第二次伊藤内閣と自由党の接近に反発して、改進党と国民協会が協力して政府を攻撃した、「対外硬」派連合で、これは教科書に載っている。

首相権限が縮小した1889年の「内閣官制」(伊藤博文についてのメモ その1)は、年代から言って、同年成立の第一次山県内閣で制定されたと私は考えていたのだが、本書によると、黒田内閣と山県内閣の間の暫定内閣である三条実美内大臣兼任首相時期の制定だとのこと。

これは、しかし・・・・・細か過ぎるか。

この暫定内閣自体、めったに出てこないし、軍部大臣現役武官制・文官任用令改正・文官懲戒令および文官分限令制定と並んで、山県内閣の施策として憶えてもいいかと思う。

外交面では、明治国家の成立当初から続いていた厳しい国際環境が義和団事件を機に好転していく様や、日本の独立を十全に保障できる形での日露戦争回避の可能性は極めて少なかったとの判断(この点伊藤之雄『伊藤博文』と異なる)、ハリマン計画を受け入れて満鉄経営にアメリカが参加していたとしても、同時に同国が西太平洋でのシー・パワー拡張と覇権確立を目指している以上、日米対立を回避することは不可能だっただろうとの見解が興味深い。

内政に話を戻すと、いわゆる「藩閥」の系譜について。

長州閥が、政党への態度によって、山県系と伊藤系に分裂。

山県系は官僚政治家の大部分と長州系陸軍軍人が参集、日清戦争後には郷党色を超えて保守的勢力を結集した「山県系官僚閥」というべきものに進化。

伊藤系は立憲政友会という大政党を生むが、政府・官僚内においては大きな勢力にならず。

一方、薩摩閥は1900年黒田清隆死後、黒田派は解体、松方派も求心力が弱く、多くの人材が山県系に合流、海軍と警視庁、および両者に劣るが陸軍でもそれなりに有力な人脈が存在したが、上記の事情により日露戦争後には「薩派」と格下げして呼ばれることが多いとの事(ということは、黒田も桂内閣成立以前に他界しているわけである。でも元老から黒田を外すようなことはまず無い。なお、他の本では黒田が健在な時期でも「薩派」と書いているのを読んだ覚えがある)。

また、第二次内閣における日韓併合と大逆事件のマイナスイメージが大きい、桂太郎について、その立憲主義と社会政策上の功績を高く評価しているのが注目される。

素晴らしい。

前巻とは打って変わって、政治史と外交史中心で、昔ながらのオーソドックスな通史という印象だが、どの概説書および伝記作品にも劣らない内容を持っている。

100%の確信を持ってお勧めできます。

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引用文(西部邁8)

西部邁『大衆への反逆』(文芸春秋)より。

経済成長は虚妄であるということについて貴方に同意してもらわなければならない。なぜなら、それは、市場における金銭計算以外の何ものをも意味しないからである。経済成長は福祉の手段にすらなりえない。なぜなら、目的(福祉)と手段(成長)とは内面的にも結びついているのであって、経済成長という手段を公認すれば、そこから思いつく目的は(手段の性質に相応した)市場的富の増大にすぎない。市場的富が技術的次元をこえた価値をもちうるのは、それが人々の(文化的)価値観、(社会的)慣習・伝統および(政治的)イデオロギーと合致している場合である。もちろん、市場の金銭計算においてたたき出されてくる数字そのものが価値であり、慣習であり、イデオロギーであると人々がみなすような状況も考えられる。むしろ、現実はそうした徴候を露わにしつつあるといえよう。

 

しかし、この種の心性は健康であろうか、それとも病的であろうか。それを判断する基準などア・プリオリにあるわけがないという意見がむろんありえて、それによって、現在において人々が価値だとみなしているものが価値なのだという刹那主義の立場が強められもしよう。ただ、私には、次のような想像が思いのほかリアルである。つまり、まったく仮の話であるが、もし、われわれの祖先が生き返ってきて、われわれの生活をみたら、かれらのうちの相当の部分が、自分たちが精神病院に舞い降りたのだと思うにちがいない、という想定である。貧窮のうちに四〇歳で生を終えた農奴ですら、自分の子孫がカップヌードルを食し(私も妻が病気のときは子供といっしょにウマイ、ウマイとほおばるのだが)、夜十一時をすぎれば裸身の女たちの映る小さな四角い画面に見入り(私は、ごく最近になって、テレビを放逐することに成功したのだが)、翌朝となればけたたましい自動車の騒音と満員電車の押し合いへし合いのうちに顔も心も体も歪ませているという様を見やれば、哀れな子孫のために涙するのではないか。

 

ある価値観を絶対視することは危険であり煩わしくもあるが、あらゆる価値を極端にまで相対化してしまうのもどうかと思う。エドワード・ミシャンという経済学者が、「失楽園」と「スーパーマン物語」のあいだに質の高低・優劣をつけるべきではないという類の価値相対主義を批判したそうだが、私もその批判に同意せざるをえない。シェークスピアの劇は、よほどにこれ見よがしの演技の場合は別として、やはり、ストリップ・ショウよりも高級なものだとしなければ、演劇の概念やそこにおける秩序すら不明になるのではないか。経済成長の生み出してきているもののうちには、公害などの負の財はもちろんのこととして、いわゆるgadget(ちょっとばかり工夫をこらした、主としてメカニックな、しかしガラクタとよばれても仕方ないような附属品)が多すぎるのである。その生産・流通・消費のために有限の資源が費消され、社会がいっそうテンスになり、おまけに大衆の選好が低級になっていくのだとしたら、経済成長の意味を懐疑しない方が不思議なのである。かりにわれわれの子孫が未来から帰ってきてわれわれと対話するとしたら、われわれを呪うものも少なくないであろう。先祖はもういないし、子孫はいまだにいないという現在だけをみれば、何ひとつ憂うべきことはないと貴方がいうのなら、私は次のようにいいたい。過去から未来を回顧・展望し、そして他者と自己との広い繋がりを意識せざるをえないところに人間の特徴的条件があるのであって、その能力を喪失する傾向はやはり狂気の症状なのだ。狂気といって言いすぎであれば、極楽蜻蛉だということである。

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引用文(西部邁7)

西部邁『大衆への反逆』(文芸春秋)より。

マルクスの暗さ

私がマルクスの著作とふれあったのはごく短い期間であった。そのせいか、彼のことを想い起こそうとすると、まず念頭を横切るのは彼のあれこれの言説ではなく、それらの総体によってかもしだされている雰囲気である。マルクスをつつむ鬱陶たる気配が今なお私の心によどんでいる。「ここ二十年来、マルクス主義の影は歴史を暗くしてきた」とサルトルはいった。しかしそれは、スターリンに代表されるようなマルクス主義者たちの暗さのことであった。私には、マルクスその人が、明るさよりも暗さのなかに、快活よりも苦悩において、そして解放よりも幽閉のうちに生きていたように思える。彼がブルジョア社会にたいしにえたぎる敵意をもっていたからそうしたマルクス的の症状が生じたのだ、といいたいのではない。マルクスのもつ桁外れの真面目さ、それが彼の肖像を無彩色にみえさせるのである。

「今日まで、ある世紀が自己自身を、また存在のすべてを、物々しい真面目さで受けとったことがあったとすれば、それはこの十九世紀にほかならなかった」。このホイジンガのいう意味において、マルクスは前世紀の典型といえよう。彼の著述のところどころに諧謔や機知が顔をのぞかせてはいる。しかしそれすら、犬儒の臭いによって相殺されているのだ。ケインズは「他の新興宗教と同じように、レーニン主義も、日常生活からその色どりと娯楽と自由を奪い去り、そのかわりに、その帰依者たちにまったく無表情な顔をした単調な代替物を与えているように思われる」と記している。同じことがこの宗派の始祖マルクスにもいえるのではないか。“遊び”の要素がはなはだ少ないのである。私もケインズにならって、マルクスのもつ「雰囲気の緊張度は、人が普通に耐えられる範囲を超えており、ロンドンの軽薄な気軽さが恋しくなるほどである」といいたくなってしまう。

マルクスがみたと思ったのは、物質的安楽という日常平俗のことがらを「自由・平等・所有・ベンタム」の名の下に聖化するブルジョアの世紀であった。この新時代にたいする驚きと怒り、こうした自分の感情とマルクスは真面目にとりくんだのである。彼にとって、いわゆる価値形態をときあかすことは、商品物神に魅入られた資本主義の神話と、その神話のうえになりたつ市場交換の儀式とを解釈することであった。その神話の語り部であり、その儀式の司祭でもある経済学を批判することをつうじて彼は近代の幻想をあばこうとしたのである。この幻想は、印度のジャガンナート神の山車のように、幻覚におぼれるものたちを無残にひき殺してゆくとマルクスは想像した。その思いは彼にとって受苦であり、その極まるところ、「大切なのは世界を解釈することではなく、それを変革することだ」という真面目なテーゼが出てきたわけである。

世界は人間の「自己疎外」にあふれていると彼は考えた。つまり、自分の活動が自分にとって疎遠なものになってしまっているというのである。そして世界は「物象化」につらぬかれていると彼は考えた。つまり、人間の意識が物のごとくに制度化されて、その結果、人間の「類的本質」の発揚が妨げられているというのである。疎外からの解放そして物象化の克服、マルクスの世界変革とはこのことらしい。このおそろしく真面目な提案が私をほとんど窒息させる。疎外や物象化から自由になった自分を想像することなぞ、私にはできない。

ざっくりいえば、どんな文化も幻想の産物なのであり、幻想であるとわかったからとてどうなるものでもない。むしろ、「自己が失われたと感じる能力およびその不快感は、人間の悲劇的な宿命であり、輝かしい特権でもある」(オルテガ)と考えるべきではないだろうか。“遊び”とはこの宿命に身をゆだね、この特権を行使することなのだと思われる。少なくとも真剣な遊びには、たとえば真剣な言論戦におけるように、厳格な規則がつきものであり、そしてその規則が私たちを束縛する。その束縛にすすんで応じることによって、かえって非日常の遊びを創意ゆたかに演じることが可能になる。このおそらくは受苦と享楽が相半ばする遊びのなかで、私たちの奇態な能力に、つまり生物学的には過剰とも異常ともいうべき幻想の能力に、捌け口が与えられ、そして限界が画される。

しかし、“遊び”の概念をかるがるしく弄ぶのは危険である。前世紀が遊びを極小化したのにたいし、今世紀は遊びを小児病化しているというのがホイジンガの診断であった。「たやすく満足は得られても、けっしてそれで飽和してしまうことのない、つまらぬ気晴らしを求めたがる欲望」に今世紀はひたっている。要するに、人々は真剣な遊びに退屈するか、あるいはどう真剣に遊んだらよいかどうかわからなくなっているわけである。これがブルジョア的安楽の帰結なのだとしてもマルクスの真面目さ、そしてそれに何層倍かするマルクス主義者たちの真面目さが、遊びの能力を減退させるのに一役買ってきたのだと思わずにはおれない。

ただ、怠惰な遊びと真剣な遊びを区別するのはむずかしい。そうである以上、どうすれば遊びの小児病化をふせぐことができるかは厄介な仕事となろう。ひょっとして、物々しい真面目さで振る舞うのが遊びの小児病化に抗するための最後の真剣な遊びなのだろうか。もしマルクスの真面目さがすでにそうした覚悟もしくは諦観にもとづいていたのだとしたら、私ごときマルクス知らずが口をはさむ場合ではない。

マルクスの風貌には黒く底光りする迫力がある。それにあえて類型を与えてみれば、戦闘的無神論者の顔相とよぶのが適切なようである。いわゆる科学的社会主義の理論なるものもこの戦闘的無神論の信仰とはりあわされてはじめて、革命の舞台にのりだすことができたのだと思われる。

いうまでもなく革命家たちの思惑どおりに事態が進んでいるわけではない。東ヨーロッパで教会が庶民の集会所になっているというのは、単に、共産党の官僚支配からの避難所というような意味合いにおいてばかりではないだろう。そこでは、どれくらい明瞭に意識されてのことかは知らぬが、神の存在をめぐる信仰と懐疑が魂の奥底で今もうごめいているのではないか。「恐怖は神々をつくれり」(ルクレティウス)というのが無神論の出発点である。そして、恐怖が誰かの迷妄もしくは作為によって捏造され強制されたのだとみなし、したがって次に、迷妄からの覚醒と作為の除去を決断したとき、無神論は戦闘性をおびる。マルクスの迫力とは、良くも悪くも、そのことである。

彼にとって、国家もまた神々の祭壇にあって、いずれ破棄されるべきものであった。国家は、支配の恐怖とその恐怖を正当化するための支配階級のイデオロギーによってつくりだされた、というのである。なるほどそうかもしれない。しかし、支配が支配者の恣意に発しているとみなす点で、彼は軽率であった。

「幻想的普遍的利害」という虚構のうえに国家が成り立つというマルクスの見方は正しいであろう。だが、その幻想は支配者の恣意によってつくられたものだろうか。そして、それを虚構として投げ棄ててよいのだろうか。もしそうなら、国家は支配のための抑圧装置、つまり“機械としての国家”にすぎぬということになり、私もまた「国家の死滅」というマルクスのテーゼに賛同しなければならない。

社会主義諸国の実例がいやというほど示してくれているように、国家の死滅をめざした人々が機械としての国家をより完備させている。このような国家が、やがて、「社会の髄まで吸いつくした後は、痩せおとろえ、骨だけになり、命ある有機体の死よりもはるかに気味悪い、あの錆びはてた機械の死をとげる」(オルテガ)のかどうか、先のことは私にはわからない。

いずれにせよ、社会主義の現在は歴史の大きな皮肉である。これを世界状勢やスターリン主義やらのせいにする前に、マルクスの国家観そのものを疑ってみてよいだろう。戦闘的無神論が一種の過激な宗教であるのに似て、国家死滅論がその強化論を招いているのかもしれないからである。

このようにいうときに危険なのは、社会主義を批判することによって、リベラル・デモクラシーの現在を安直に弁護しようとする護教論が頭をもたげることである。さらには、民族や国民が、うるわしい人倫・習俗によって、国家が命ある有機体のごとき連帯の下にあるとする古びた幻想を蘇らせることである。私のみるところ、高度大衆社会におけるリベラル・デモクラシーは、勝手気儘の自由と多数決の民主とのために、少しずつ擬似独裁への傾きをつよめつつある。また、“生命としての国家”という考え方が個人の生命をおびただしく傷つけてきたことも、私は知っている。

マルクス的無政体、ロック的政体そしてヘーゲル的国体のあいだの比較はあってしかるべきだろう。そのうちいずれかを採れといわれたら、いやいやながら、私は自分をロックの徒に、つまりリベラル・デモクラットに分類したい。自由民主がひとつの幻想であるとは承知しているが、マルクスの階級国家の死滅とかヘーゲルの有機体国家とかといった過激な幻想に身をまかすほど、私の体質は強靭ではない。

しかし、こんな比較よりも、三者の根本における同一性の方が気がかりである。それらはみな、人間というものにたいする希望と信頼を前提している。もしくは偽装している。要するにヒューマニズムの信仰に立っている。それはたぶん、キリスト教の流れにおける原罪説の否定であり、人間学の流れにおける性善説の肯定ということなのだろう。

むろん、原罪説や性悪説をふりかざすのは馬鹿気ている。ただ、国家の体制そしてそれを支える法という禁止の体系は、人間にたいする五割の絶望、五割の不信のうえに成立つものではないだろうか。ホッブス流にいえば、人間が人間にたいして狼でありうること、シュミット流にいえば、政治が友と敵との闘いにみちていること、そしてオルテガ流にいえば社会が人間にとって地獄でありうること、国家の片足はこうした残忍な事実のうえにおかれている。この恐怖すべき事実はほかならぬ私たち自身の幻想のうちにあるのだから、国家の死滅や国家の繁栄どころの話ではないのだ。

国家幻想をふくめあらゆる幻想は、私たちの私たち自身にたいする希望と絶望そして信頼と不信が交わるところに発生する。この交差をつらねたのが私たちの幻想の物語(ストーリー)であり、それが同時に、人間の歴史(ヒストリー)なのだろう。この歴史に場所をもたないのが“何処にもない国”つまりユートピアである。

マルクス死後百年にまたしても確認しなければならないのは、ユートピアをつくろうとする戦闘精神が歴史によって復讐されるという、いくぶん悲しい真実である。

(毎日新聞 昭和五十八年二月二十一~二十二日夕刊)

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西部邁 『大衆への反逆』 (文芸春秋)

1983年刊。

西部氏の最初の評論集。

本書は、結局、高坂正堯氏の『外交感覚』(中央公論社)と並んで、大学時代に一番頻繁にページを手繰った本だと思う。

全体が五部に分かれていて、第1部は「状況」。

最初にロッキード事件で逮捕された田中角栄元首相の裁判という時事的話題に民主主義(批判)論を絡めた文章がある。

これも含蓄があるが、素晴らしいのがそれに続く、十数編の短い思想的エッセイ。

何度も何度も読み返して、今に至るまで自分の物の考え方に強い影響を受けていると思う。

第2部「知識人」では、「“高度大衆社会”批判」と題された、冒頭のオルテガ論が圧巻。

本書の核心とも言える文章。

オルテガの著作を縦横に引用しながらの、精緻かつ迫力ある力強い文体にひたすら圧倒される。

続くマルクス、レヴィ=ストロース、ハイエク、ケインズらについてのエッセイも高尚かつ実に有益。

この記事で一部を引用済み。)

第三部「体験」で、大平正芳首相のブレーン機構で著者が報告したテキストに加えて、著者の人生の興味深い断片がいくつか記されている。

その中でも、在日朝鮮人の親友との交友を語った、特に印象深い「不良少年U君」という文章については、別に、『友情 ある半チョッパリとの四十五年』(ちくま文庫)という、これまた素晴らしく感動的な本があります。

第四部「書籍」では、三つの書評が載せられているが、最後の、新自由主義者ミルトン・フリードマンの著『選択の自由』を強く批判した文章が最も面白い。

こちらで一部を引用済み。)

最後の第五部「文明」では、まず「文明比較の構造  ひとつの日本主義批判」という硬い論文がある。

西部氏の著作は、『知性の構造』(角川春樹事務所)という、私程度では絶対に手に負えない、完全に別レベルの抽象性を持つ作品を別にすれば、ほとんどが明晰かつ平明であり、(素直に読み取り学ぶ気持ちさえあれば)容易に理解できるものばかりなのですが、この論文は、T・パーソンズのAGIL図式がどうこうというような文章が出てきてやや難解。

とは言え、日本・米国・西欧・ソ連の各社会を比較・分析し、経済大国としての絶頂期にあった日本を大衆社会論の観点から批判する論文は、わからなければわからないなりに読み通せば、それなりに有益です。

末尾の「反進歩への旅」と題された紀行文もずしりと胸にこたえるものがある。

その中盤、自らの思想的立場を説明した文章は、7、8ページに亘りますが、可能ならば全文を引用したいくらい、あまりにも深い内容に満ちています。

久しぶりに、一字一句飛ばすことなく再読してみたんですが、やはり素晴らしい。

この方は、表面的に、野卑で粗暴な単細胞・脊髄反射的右派と同じ主張をしているように見える時があったとしても、実際には、この十年で異常繁殖した、群集心理と市場原理に対する警戒を最初から放棄した自称「保守」派とは、根本的に全く異なった次元にいる。

最初に強い違和感や拒否反応を覚える人でも(私もそうでした)、機会があれば是非本書を含め、その著作を手に取ってみて下さい。

保守化の意味するもの

名は体を表すとはいうものの、保守および革新という名称くらい虚なるものも少ない。エスタブリッシュメントを守護するか打倒するかという対立が両者を分け隔てるとはいわれるものの、肝心の確立された体制なるものが何を意味するかということになると、その答えはたいして分明ではない。私思うに、枝葉を切り落としていえば、既成の体制とは進歩のイデオロギーを中心にして構成された価値世界のことである。資本主義と社会主義、競争と統制、自由と平等、効率と公正などの組み合わせ方において種々の差異はあるけれども、新しき変化の創造が善き事態へむけて進むであろうと楽観する点において、洋の東西(または南北)をとわず、そして党派の左右(または大小)をとわず、価値世界は単色である。

進歩と革新とはたがいに同義なのであるから、保守派とは革新体制を守る人々であり、革新派とは革新体制に逆らう人々であるということになろうか。このなんとも珍妙な語義にもとづいて、私たちは隣人を分類しあっているわけなのである。近年にわかに迸(ほとばし)り出した保守化の潮流においても、その底層をみれば、進歩のイデオロギーが動かず澱んだままでいる。ただ表層において、平和主義から軍国主義への、防衛的態度から攻撃的態度への、母性的心性から男性的心性への移行などがやかましく波立っているにすぎない。

この移行は人間理解を性善説から性悪説へ乗り換える企てなのであろう。説というほどに体系だてられた見解は少ないから、それはむしろ気分の問題なのかもしれない。時代の閉塞につれて気分が愉快から不快へ転落しているということである。いずれにせよ、これら両極端の説や気分が「すべてを単純化する恐ろしい人間」ブルクハルト)から発せられるものであることに間違いはない。

事態の不穏な成り行きを懸念する人々は、善悪あわせのむべく、現実主義の方向において気分を中和しようとする。レアリズムとは、その本来の語義が示すように、事態を「モノのようにとらえる」やり方である。もっといえば、現実をモノのごとき固さをもって肯定することである。しかし私たちの気分の落ち着きのなさが、進歩のイデオロギーによって醸成された幸福や平等やなにやかやといった幻影にたいする嫌悪であり不安であるのだとしたら、レアリズムのもつ肯定的な響きは私たちの気分と共鳴しない。他方、理想主義がユートピアを、つまり「何処にもない国」を、あれこれ提出してくれたとてどうにかなるものでもない。それら仮想世界と現実世界との距離が大きすぎるからではない。それだけならば、仮想世界へ一歩一歩と気長に進めばよいのだから。どこにもないような立派な国を構想し、ましてやそこに向かって着実に前進していくに必要な資質を決定的に欠いているのではないかという思い、それが私たちを不安にしているのであろう。

自分たちが知的にも道徳的にも不完全であることを知る苦痛はすでにして進歩主義にたいする疑惑である。その意味でならば、いま進行している保守化の流れは首肯されるべき自己覚醒の可能性をはらんだものといえる。しかし見渡すところ、その疑惑は深められずに、不安ゆえの勇気、疑惑ゆえの確信をポーズする回路へ短絡しているようである。

保守主義の本来の含意は進歩にたいする徹底した懐疑ということにあったはずである。革新にもとづいて進歩していくということを信じるには、それをつくり出す当の本人たちが余りにも不完全なのではないかという自己懐疑が、保守主義の真髄だったはずである。変化にたいする消極性と裏腹になって、保守主義者の積極性はまずもって自分および自分たちへのひたすらな懐疑として示されるのである。懐疑とは、この場合、優柔不断とか自己憐憫とはおよそかけはなれた態度のことである。スケプティシズムの元来の語義そのままに、それは「考察すること、探究すること」を意味する。

したがって、保守的懐疑主義は右翼の党派にありがちな復古主義とも異なっている。不完全な自分たちがかろうじてみつけうる住み処は歴史の大地のなかにしかないと見当をつけた上で、次にその大地の中から保守すべき耐久の足場を、つまり伝統を、いかに発見するかという努力を持続させうるか否かによって、保守における反動主義と懐疑主義が区別される。また懐疑の真偽は、懐疑の努力じたいにたいしても懐疑をそそぐかどうかにかかっている。懐疑にこめられる知識や気分や利害の総体についても考察し探究するということである。

こういう努力がやすやすと実行されるとは思えないが、その予想される困難の前にすっかりたじろぎ、ついに懐疑することを放棄してしまった人々が大衆とよばれるのであろう。この大衆の定義はド・トックヴィルやミルやオルテガによる最も良質な大衆論の意を汲みとるものだと思われる。大衆とは資産を持たぬ人々のことでもないし指導される人々のことでもないし、教育をうけぬ人々のことでもない。懐疑の心性を失った人々の支配が進んで受容されるような価値世界、あるいは価値喪失の方向に止むことなく進みつづける世界が大衆社会である。かれらの信奉する進歩のイデオロギーの司祭たちが、たとえば有名な政治家が、高名な学者が、著名な経営者が大衆であってむしろ自然なのである。

現在の保守化にたいして、私が強い抵抗を感じるのは、福祉削減や軍備拡張や憲法改正やについて私の代案があるからなのではない。様々の自称改善策がいとも手軽に自信ありげ主張されるという、いわば保守主義の大衆化が、率直にいって、怖いのである。マイネッケによれば、ヒットラーはいったそうである。「宗教だって? 神だって? 恐怖政治こそ最上の神だ。このことは、現在ロシア人においてみられる。さもなければ、ロシア人はこんなに戦うことはないだろう」と。美しいパンドーラの運んできた手匣を不注意に開いてしまえば、数限りない災厄が飛び出し、あわてて蓋をしても、あとには希望だけが空しく封じこめられてしまったという神話のことが思い出される。人間はいつまでもパンドーラに惚れたエピメーテウスのごときもの、つまり「後から思うもの」にすぎないのか。兄のプロメテウスには、つまり「先に思うもの」にはなれないのか。

おおいにそうなのかもしれない。しかし、たとえ後知恵であっても考えないよりはましであろう。それに、私たち大衆人にそれしか能力がないのだとしたら仕方のないことでもある。エスタブリッシュされた制度の、人間の、言説の意味をしつこく解釈し直す営みのなかから自分自身を再発見するという媒介項を経るのでなければ、今の保守化にみられるような国家の再発見はいずれ人間不在の国家を産み落とさずにはいないであろう。

(毎日新聞 昭和五十六年一月十九日号)

上記引用の文章は、それが書かれた1981年におけるよりも、三十余年を経た現在の方が、はるかに切実かつ深刻な意味を持っていると思います。

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引用文(「聖書」4)

『新共同訳 聖書』(日本聖書協会)

「旧約聖書  詩編」より。

14章

神を知らぬ者は心に言う

「神などいない」と。

人々は腐敗している。

忌むべき行いをする。

善を行う者はいない。

主は天から人の子らを見渡し、探される

目覚めた人、神を求める人はいないか、と。

だれもかれも背き去った。

皆ともに、汚れている。

善を行う者はいない。ひとりもいない。

悪を行う者は知っているはずではないか。

パンを食らうかのようにわたしの民を食らい

主を呼び求めることをしない者よ。

そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。

神は従う人々の群れにいます。

貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても

主は必ず、避けどころとなってくださる。

どうか、イスラエルの救いが

  シオンから起こるように。

主が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき

ヤコブは喜び躍り

イスラエルは喜び祝うであろう。

64章

神よ、悩み訴えるわたしの声をお聞きください。

敵の脅威からわたしの命をお守りください。

わたしを隠してください

さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。

彼らは舌を鋭い剣とし

毒を含む言葉を矢としてつがえ

隠れた所から無垢な人を射ようと構え

突然射かけて、恐れもしません。

彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け

「見抜かれることはない」と言います。

巧妙に悪を謀り

「我らの謀は巧妙で完全だ。

人は胸に深慮を隠す」と言います。

神は彼らに矢を射かけ

突然、彼らは討たれるでしょう。

自分の舌がつまずきのもとになり

見る人は皆、頭を振って侮るでしょう。

人は皆、恐れて神の働きを認め

御業に目覚めるでしょう。

主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い

心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。

73章

神はイスラエルに対して

心の清い人に対して、恵み深い。

それなのにわたしは、あやうく足を滑らせ

一歩一歩を踏み誤りそうになっていた。

神に逆らう者の安泰を見て

わたしは驕る者をうらやんだ。

死ぬまで彼らは苦しみを知らず

からだも肥えている。

だれにもある労苦すら彼らにはない。

だれもがかかる病も彼らには触れない。

傲慢は首飾りとなり

不法は衣となって彼らを包む。

目は脂肪の中から見まわし

心には悪だくみが溢れる。

彼らは侮り、災いをもたらそうと定め

高く構え、暴力を振るおうと定める。

口を天に置き

舌は地を行く。

  (民がここに戻っても

   水を見つけることはできないであろう。)

そして彼らは言う。

「神が何を知っていようか。

いと高き神にどのような知識があろうか。」

見よ、これが神に逆らう者。

とこしえに安穏で、財をなしていく。

わたしは心を清く保ち

手を洗って潔白を示したが、むなしかった。

日ごと、わたしは病に打たれ

朝ごとに懲らしめを受ける。

  「彼らのように語ろう」と望んだなら

   見よ、あなたの子らの代を

   裏切ることになっていたであろう。

わたしの目に労苦と映ることの意味を

知りたいと思い計り

ついに、わたしは神の聖所を訪れ

彼らの行く末を見分けた

あなたが滑りやすい道を彼らに対して備え

彼らを迷いに落とされるのを

彼らを一瞬のうちに荒廃に落とし

災難によって滅ぼし尽くされるのを

わが主よ、あなたが目覚め

眠りから覚めた人が夢を侮るように

  彼らの偶像を侮られるのを。

わたしは心が騒ぎ

はらわたの裂ける思いがする。

わたしは愚かで知識がなく

あなたに対して獣のようにふるまっていた。

あなたがわたしの右の手を取ってくださるので

常にわたしは御もとにとどまることができる。

あなたは御計らいに従ってわたしを導き

後には栄光のうちにわたしを取られるであろう。

地上であなたを愛していなければ

天で誰がわたしを助けてくれようか。

わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが

神はとこしえにわたしの心の岩

  わたしに与えられた分。

見よ、あなたから遠ざかる者は滅びる。

御もとから迷い去る者をあなたは絶たれる。

わたしは、神に近くあることを幸いとし

主なる神に避けどころを置く。

わたしは御業をことごとく語り伝えよう。

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鈴木淳 『維新の構想と展開  (日本の歴史20)』 (講談社学術文庫)

この講談社版「日本の歴史」シリーズは、文庫化されつつあった頃、通読しようかどうか迷った末、結局読みませんでした。

情けない話ですが、前近代の日本史については、教科書の『詳説日本史』と参考書の『石川日本史B講義の実況中継 1』『同 2』『同 3』を気の向いた際に時々読み返すだけという状態。

相変わらず高校日本史レベルもおぼつかない状況です。

2011年のセンター試験では一問間違えただけで済みましたが、今ならポロポロ取りこぼすんじゃないですかね。

せめて近現代史の巻だけでもと思い、立ち読みしたところ、この巻と次巻のみ手に取る気になりました。

明治初年から1889(明治22)年憲法制定まで、二十余年の明治前半の歴史。

目次を眺めるとさほど網羅的には思えないが、通して読むと教科書に出てくるような重要事項は漏れなく叙述されているという作り。

社会史・経済史的記述が多く、一部は砂を噛むような文章もあるが、その辺は細部を気にせず、飛ばし読みでいいでしょう。

この明治前期は諸改革が集中している時期ですので、一年ごとに何があったのか、教科書でバラバラに出てくる事項を自分で手書きしてメモしてみるといいかも。

なお、近現代史では、私はあまり年号の語呂合わせは使いません。

西暦の下二桁をじっくり眺めて、その数字と歴史用語を印象付けることを、面倒がらずに何度でもやります。

それしかない。

以下、ほんの数行の内容紹介。

第一章「明治の『藩』」。

公議という概念の諸相についてあれこれ。

事実関係として明治初年の立法機関のみ整理。

1868年政体書で定められたのが議政官。

議定・参与で構成される上局と藩代表の貢士からなる下局に分かれる。

下局から替わった貢士対策所が翌69年公議所となり、それが同年集議院となるが、集議院は諮問機能のみとなり、73年左院に吸収、75年大阪会議後元老院が設立、それが90年帝国議会開設まで存続。

第二章「戸長たちの維新」。

民法上の「戸主」ではなく戸長。

廃藩置県後に敷かれた大区小区制について。

数町村をあわせた小区と数小区からなる大区を府県のもとに設置。

小区あるいは村の長が戸長と呼ばれた(大区の長は区長)。

その戸長が、郵便・学制・徴兵令・地租改正などの改革を担い、政府と住民の橋渡しをした様が記述される。

第三章「士族の役割」。

外交・内乱・秩禄処分の他、国立銀行設立における士族の役割について。

(この「国立銀行」は、明治史においては1872年国立銀行条例に基づいて設立された民間銀行の意。)

第四章「官と民の出会い」。

民権運動、軍人勅諭、明治十四年の政変。

大久保利通暗殺後、十四年政変までの政府内最有力者は大蔵卿の大隈重信だったとされている。

第五章「内治を整え民産を殖す」。

殖産興業、経済史、条約改正、内閣制度。

第六章「憲法発布」。

一般では人民の権利保護が憲法の中心と捉えられていた。

新憲法との比較や戦前昭和の記憶から、旧憲法は国民の権利に法律の制限が付されていたことが普通強調されるが、民選の衆議院を通過しなければ法律が成立しない以上、民意に依らない権利制限はなされないのが原則であった。

言われてみると盲点だが、本当にそう。

緊急勅令という手段があっても、議会の事後承諾が必要な限り、乱発できるはずもない。

議会の選出が制限選挙で有権者が限られていたといっても、選挙権が徐々に拡大するのを止めることは誰にもできず、一度与えた参政権を再び剥奪するなんてことはほとんど不可能なのだから、国民の権利保護について明治憲法と現憲法の間に根本的な差異があるとは認めがたいのではないかと個人的には思う。

憲法発布に際して、河野広中、大井憲太郎、片岡健吉、星亨など民権活動家への大赦が行われる。

五箇条の御誓文から憲法制定に至るまで、反政府活動家をも包含して、皇室による国民統合を図るという意志は一貫していた。

それが明治期には有効に機能していたが、反対者がほぼ絶無に等しい反面、同じ概念が矯激な在野勢力によって反政府運動の武器に使われる危険もあり、その弊害が昭和に入って噴出することになる。

一冊でわずか二十数年を叙述した本だが、それでも相当簡略に感じる。

一方、経済史関連ではややだるい部分も。

ごく普通の評価です。

教科書と併読して、年号をチェックしながら読めば効用は高いかも。

ざっと立ち読みして、そこそこいいと思った方だけどうぞ。

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谷喬夫 『ヒムラーとヒトラー  氷のユートピア』 (講談社選書メチエ)

2000年刊。

著者の下のお名前は「たかお」とお読みするそうです。

本書において、20世紀は世俗的イデオロギー(擬似宗教)をめぐる宗教戦争の時代と捉えられる。

18、19世紀以後、啓蒙時代に社会の意味と共存していた理性が、自然科学の発達と共に対象の数量化のみに係わる「道具的理性」に変質し、世界全体の意味との結びつきを失う。

社会的には、伝統的信仰を失い、情緒的・欲動的・非合理的に行動する大衆が台頭し、彼らは技術合理的産業社会の成果に依拠しながら、ナショナリズム・社会ダーウィン主義・人種主義などの擬似宗教にのめり込む。

それら低劣なイデオロギーを煽るブラック・ジャーナリズムがほとんど制限無しに許容され、大衆・モッブ(無頼の徒)をますます悪質な存在にしていく。

こうして科学と非合理的イデオロギーが矛盾せずに共存、「文明の再野蛮化」ともいうべき事態が進行。

ナチズムの持つ合理性はあくまで19世紀進歩思想の後継者であり、無限の進歩と完璧な社会を目指す意味では両者は同根。

(しかしここで著者がナチズムの特性として「反近代」という言葉を用いていることには違和感を持った。)

19世紀の科学技術発展が物質的繁栄を導き民主化が進行、加えて帝国主義の風潮が高まる。

それらを支持したのは産業社会形成により解放された、ブルジョワジーより下の階層に属した大衆であり、こうして社会全体の欲望が無限に解放されたが、同時に不平不満も鬱積。

民主化により、大衆・モッブの意向を無視して何事も行い得なくなり、彼らが俗流ダーウィン主義や人種理論に染まれば、それを止める手段が全く存在しなくなってしまう。

有史以来、何千年も人間精神を律してきた宗教的信仰が後退すると、大衆は即、このような醜悪な世俗的イデオロギーに捕われたわけである。

加えて、君主や貴族の消滅は、野卑で粗暴なナショナリズムを振りかざす大衆による、史上最悪の殺戮戦争に繋がった。

「自由・平等・進歩・革新・デモクラシー・世論・民意・合理・世俗化・個人主義」と「宗教・伝統・慣習・保守・世襲原理・身分制秩序」を比べて、どちらが全体主義と親和的かと尋ねたら、通俗的イメージからして、ほぼ全ての人が後者だと言うでしょうが、本当は全く逆なんですよね。

むしろ後者の抑制要素を破壊し続け、前者の奇麗事に身の程知らずに没入した民衆が全体主義を生み、世界戦争を引き起こしたと言うべき。

とは言え、(本当に無念で嫌悪すべきことですが)やはり民主化は歴史の必然ですから、もう人類に救いの道は無いでしょう。

あと200年程もてばいい方じゃないでしょうか。

全般的思想的解釈の後、ドイツ史の具体的事例が叙述される。

気になったところを何点か取り上げると、まずナチ支持者の中での若年層の比率の高さが指摘されていた。

100年以上の単位でなくても、わずか一世代で、古い世代の伝統的信仰を「迷信」と嘲笑った若年層が、自分たちはそれより遥かに醜悪な擬似宗教を軽信して、その愚かさに気付きもしないという現象が見られるのは興味深い。

上述の対比に「若さ」と「老成」も加えるべきでしょうか。

あと、人種至上主義のヒトラーは国家そのものには決定的重要性を認めず、この点でドイツの伝統とは完全に異質だと述べられている。

考えてみれば、ヒトラーの人種主義をナショナリズムの現われと誤認した保守派の致命的錯誤がドイツを破滅に導いたとも言える(ニッパーダイ『ドイツ史を考える』ナチについてのメモ その5)。

さらに具体的記述でナチ親衛隊組織について。

頂点に親衛隊帝国指導者兼ドイツ警察長官のハインリヒ・ヒムラーがいる。

その下に作戦本部と帝国保安本部があり、作戦本部下に一般親衛隊と武装親衛隊が存在し、武装親衛隊にいわゆる髑髏部隊が属する。

帝国保安本部から保安部(SD)と特別行動隊(アインザッツグルッペン)とジポ(保安警察)が分かれ、ジポの下に悪名高いゲシュタポ(秘密国家警察)がある。

あとは、反ユダヤ主義と生存圏構想、戦時の東方住民強制移住や「最終的解決」についてあれこれ述べられているが省略。

本文はここまでだが、あとがきに以下の重要な文章がある。

ナチズムを批判しつつコミュニズムを擁護するという進歩主義が完全に破綻したことを記したあと、

ナチズムとコミュニズム、すなわち、人種・民族のユートピアとプロレタリアート世界革命の国際主義ユートピアは、なるほど人類の歴史にかつてない蛮行の痕跡を残した。それでは、今日そのどちらも批判的に考察しうる立場は、巷にいわれるように、両者に勝利した自由主義と市場経済ということになるのであろうか。しかし、思想的にみた場合、自由・民主主義は、フランシス・フクヤマ(『歴史のおわり』・・・・)のいうように、歴史の終焉を意味するほど普遍的かつ魅力的な思想なのであろうか。

わたしは、昨今の自由主義と市場経済の生み出した精神とは、競争と効率の物神化、生を金と名誉に還元する俗物根性の肯定でしかないのではないか、という疑念を払拭することができない。なるほど自由主義が伝統を有する所では、リベラリズムには、大衆民主主義にはない精神の自立性と優れた秩序感覚が継承されている。

しかしわが国のように(同じような国が多数派だと思うが)、リベラルな細胞を発見するためには、顕微鏡でも覗かねばならないような所では、自由主義が単なるエゴイズムの代名詞にしかならない可能性は限りなく大きい。わが国では、自由主義は、その内部に、それ自身に対する原理的、超越的批判を絶えず組み込んでおかない限り、とんでもない俗物精神に転化するしかないのである。

いずれにせよ、「先進」諸国の公共空間では、当分ユートピアの電圧は低下したまま推移するであろう。それに代わって、自由主義と市場経済の低俗さに飽き足らない心情は、行くあてもなく、群小の新興宗教やカルト集団などのなかで、ますます奇形的な夢を紡ぐことになるのであろう。

素晴らしく透徹した認識。

実はこのあとがきを先に読んで、通読する気になった。

しかし中盤で、プラトン『国家』を全体主義的ユートピアの例として挙げているのは極めて不適切に感じる。

カール・ポパーが『開かれた社会とその敵』という著作で、プラトンを全体主義の祖として非難していることは、無知な私でも仄聞しているが、それに準じる形で何の留保も付けずそう記すのは、上記引用文とも整合的ではない。

コーンハウザーの社会の四類型を使えば、「多元的社会」から「大衆社会」、さらには「全体主義社会」への転落がほとんど必然とも思えるほど、歴史上に醜い惨劇が満ち満ちている以上、「多元的社会」を無条件で善と見なすのを止め、「共同体的社会」を可能な限りそのまま維持して「多元的社会」への移行を阻止すべきだという考えが生まれてきて当然である。

その「共同体的社会」を維持するための規制や拘束や束縛を、「全体主義社会」の抑圧と同一視するのは完全に倒錯している。

プラトンの思想もその文脈に沿って理解されるべきであり、むしろ自由民主主義への平板な肯定と民意への安易な信頼こそが、全体主義を生み出す素だと考えるべき。

むしろ以下の文章を読むと、われわれ民衆という生き物は、2500年前から何の反省も自己懐疑も無しに同じ過ちをますます大規模かつ深刻に繰り返して来ているんだなと思わざるを得ない。

「民主制国家は何を善と規定していると言われるのですか?」

「<自由>だ」とぼくは言った、「じっさい、君はたぶん、民主制のもとにある国で、こんなふうに言われているのを聞くことだろう――この<自由>こそは、民主制国家がもっている最も善きものであって、まさにそれゆえに、生まれついての自由な人間が住むに値するのは、ただこの国だけである、と」

「ええたしかに」と彼は言った、「そういう言い草は、じつにしばしば人々の口にするところですね」

「では、いま言いかけていたように」とぼくは言った、「そのようなことへのあくことなき欲求と、他のすべてへの無関心が、ここでもこの国制を変化させ、僭主独裁制の必要を準備するのではないだろうか?」

「どのようにしてですか?」と彼はたずねた。

「思うに、民主制の国家が自由を渇望したあげく、たまたまたちのよくない酌人たちを指導者に得て、そのために必要以上に混じりけのない強い自由の酒に酔わされるとき、国の支配の任にある人々があまりおとなしくなくて、自由をふんだんに提供してくれないような場合、国民は彼ら支配者たちをけしからぬ連中だ、寡頭制的なやつだと非難して迫害するだろう」

「ええ、たしかにそういう態度に出るものです」と彼は答えた。

「他方また」とぼくはつづけた、「支配者に従順な者たちを、自分から奴隷になるようなつまらぬやつらだと辱めるだろう。個人的にも公共的にも賞賛され尊敬されるのは、支配される人々に似たような指導者たち、支配者に似たような被支配者たちだということになる。このような国家においては、必然的に、自由の風潮はすみずみにまで行きわたって、その極限に至らざるをえないのではないかね?」

「そうならざるをえないでしょう」

・・・・・・・

「そういうことのほか」とぼくは言った、「次のようなちょっとした状況も見られるようになる。すなわち、このような状態のなかでは、先生は生徒を恐れて御機嫌をとり、生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育掛りの者に対しても同様の態度をとる。一般に、若者たちは年長者と対等に振舞って、言葉においても行為においても年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分を合わせて、面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために、若者たちを真似て機智や冗談でいっぱいの人間となる」

「ほんとうにそうですね」と彼。

・・・・・・・

「すべてこうしたことが集積された結果として」とぼくは言った、「どのような効果がもたらされるかわかるかね――つまり、国民の魂はすっかり軟らかく敏感になって、ほんのちょっとでも抑圧が課せられると、もう腹を立てて我慢ができないようになるのだ。というのは、彼らは君も知るとおり、最後には法律さえも、書かれた法であれ書かれざる法であれ、かえりみないようになるからだ。絶対にどのような主人をも、自分の上にいただくまいとしてね」

「よく知っています」と彼は言った。

「それではこれが、友よ」とぼくは言った、「僭主独裁制がそこから生まれ出てくる、かくも立派で誇り高い根源にほかならないのだ。ぼくの考えではね」

「たしかに誇り高くはありますね」と彼は言った、「しかし、それから後はどうなるのですか?」

「寡頭制のなかに発生してその国制を滅ぼしたのと同じ病いが」とぼくは言った、「ここにも発生して、その自由放任のために、さらに大きく力強いものとなって、民主制を隷属化させることになる。まことに何ごとであれ、あまりに度が過ぎるということは、その反動として、反対の方向への大きな変化を引き起こしがちなものだ。季節にしても、植物にしても、身体にしても、みなそうであって、そして国家のあり方においても、いささかもその例外ではない」

「当然そうでしょう」と彼。

「というのは、過度の自由は、個人においても国家においても、ただ過度の隷属状態へと変化する以外に途はないもののようだからね」

「たしかにそれは、当然考えられることです」

「それならまた、当然考えられることは」とぼくは言った、「僭主独裁制が成立するのは、民主制以外の他のどのような国制からでもないということだ。すなわち、思うに、最高度の自由からは、最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくるのだ」

プラトン『国家 下』より)

非常に読みやすい。

中盤の具体的事例はあまりメモしなかったが、それなりに有益。

それより全般的史観の点で教えられるところが多い。

しかも高校レベルでも十分取り組める難易度。

お勧めします。

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引用文(豊﨑由美1)

豊﨑由美『ニッポンの書評』(光文社新書)より。

粗筋や登場人物の名前を平気で間違える。自分が理解できていないだけなのに、「難しい」とか「つまらない」と断じる。文章自体がめちゃくちゃ。論理性のかけらもない。取り上げた本に対する愛情もリスペクト精神もない。自分が内容を理解できないのは「理解させてくれない本のほうが悪い」と胸を張る。自分の頭と感性が鈍いだけなのに。そういう劣悪な書評ブロガーの文章が、ネット上には多々存在する。それが、わたしのざっと読んでみての感想です。

不思議でならないのですが、匿名のブログやAmazonのカスタマーレビュー欄で、なぜ他人様が一生懸命書いた作品をけなす必要があるのでしょうか。卑怯ですよ。他人を批判する時は自分の本当の顔、どころか腹の中の中まで見せるべきでありましょう。都合が悪くなれば証拠を消すことのできる、匿名ブログという守られた場所から、世間に名前を出して商売をしている公人に対して放たれる批判は、単なる誹謗中傷です。批判でも批評でもありません(精読と正しい理解の上で書かれた批判は、この限りではありません。というのも、そういう誠実な批判の書き手の文章は、たとえ匿名であっても“届く”ものになっているからです。届く文章は、前段で挙げた劣悪な批判がまとう単なる悪口垂れ流しムードから逃れ批評として成立しうるものです)。

批判は返り血を浴びる覚悟があって初めて成立するんです。的外れなけなし書評を書けば、プロなら「読めないヤツ」という致命的な大恥をかきます。でも、匿名のブロガーは?言っておきますが、作家はそんな卑怯な“感想文”を今後の執筆活動や姿勢の参考になんて絶対にしませんよ。そういう人がやっていることは、だから単なる営業妨害です。

「まともなリテラシーを備えたブログ読者は低レベルの悪口書評なんか真に受けない」「コメント欄を設けているんだから、被害を受けた作家やその作品を擁護したい読者はそこで反論すればよい」という意見は一見もっともなようですが、「まともなリテラシーを備えないブログ読者も多々存在する」「なんで作者自身が、そんな程度の低いブログのとこまでいって、わざわざ反論なんていう面倒臭いことをしなきゃならないのか。そもそも、その書き手は当該作品を誤読、もしくは全然読めてないのだから、議論は不毛に終わるに決まっている」と答えておけば十分でしょう。

・・・・・・

これまでやってきたように、ネット上からいろんなタイプの評を拾い、引用しながらブログ書評について考えてみたいと思っていたのですが、それは編集部からストップがかかりました。素人の原稿を勝手に引用するのは問題があるのだそうです。ほら、守られてるじゃん。ブログで書評を書いている皆さん、あなたがたは守られてるんです。安全地帯にいるんですよ。そして、安全地帯に身をおきながらでは批評の弾が飛び交う戦争に参加することはできないのですよ。

・・・・・・

「何を書いてもオレの自由じゃん」

そのとおりです。けれど、自由の怖さや自由が内包する不自由さを自覚しない人間は、ただの愚か者とわたしは思います。

この前の、『ローマ人の物語』最終巻の記事でちょっと言い過ぎたかなと思いまして、主に小説を念頭に置いたものですがこの文章を引用しました。

自分のことを振り返ると忸怩たるものがあります。

ここ2、3年では、「酷評」に近い内容の記事でも、「こちらの感覚の方がおかしいのかもしれない」ということを少しは滲ませた書き方をしているつもりなんですが・・・・・(例えばこの記事とか)。

いずれにせよ、十分自戒したいと思います。

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塩野七生 『ローマ人の物語41・42・43 ローマ世界の終焉』 (新潮文庫)

ついに最終巻になりました。

単行本刊行時からはもちろん、文庫化されてからでもかなり日にちが経ってますが、正直積極的に読む気がしなかったんですよ。

買う気も無いので、図書館の棚にあるのを見かけるまで放っておきました。

本巻はテオドシウス1世の死後から始まります。

全編の末尾がいつの時点なのかが、ずっと気になっていたんですが、結局476年の西ローマ帝国滅亡ではなく、6世紀後半ユスティニアヌス1世の死と7世紀イスラムの膨張まででした。

地中海が内海ではなく、文明の障壁となったことで、ローマ文明は完全に消滅したとしている。

登場皇帝について、西ローマは、ホノリウス、コンスタンティウス3世、ヴァレンティニアヌス3世、ペトロニウス・マクシムス、アヴィトゥス、マヨリアヌス、セヴェルス、アンテミウス、オリュブリウス、グリュケリウス、ユリウス・ネポス、ロムルス・アウグストゥルス、東ローマは、アルカディウス、テオドシウス2世、マルキアヌス、レオ1世、レオ2世、ゼノン、アナスタシウス、ユスティヌス1世、ユスティニアヌス1世。

(一部本書表記と変更あり。)

ただし、これまでの巻では細かな帝位移動が記されていたのに対し、西帝国ではヴァレンティニアヌス3世以後、東帝国ではテオドシウス2世以後はかなり省略気味。

上記のうち、アンテミウスとネポスは東ローマから派遣された皇帝。

セヴェルスは、本書末尾に付されているコインに刻まれた皇帝肖像リストでは「セヴェルス3世帝」と書かれている。

細かすぎる話ですが、『終わりの始まり』に出てくるセプティミウス・セヴェルス、および『迷走する帝国』に出てくるアレクサンデル・セヴェルスと区別するにはこれでいいのかとも思うが、考えてみると『最後の努力』のフラヴィウス・ヴァレリアヌス(ヴァレリウス)・セヴェルスもいるのだから、「3世」はおかしくないでしょうか?

何とか正確に区別する名前は無いかと『古代ローマ人名事典』を引いても、本文には該当項目が無く、冒頭のローマ史年表でやっと「リビウス・セヴェルス(461-5)」と書かれているのを見つけた。

「リヴィウス」じゃなくて「リビウス」か、というのが気になりますが、初心者がこれ以上こだわってもしょうがないので、以上でやめておきます。

帝国最末期のこの時期になると、特に西ローマでは(マヨリアヌスをやや例外にして)傀儡的な皇帝が多くなり、主に蛮族出身である軍の実力者名を憶える必要がある。

スティリコ、ボニファティウス、アエティウス、リキメール、オレステス、オドアケルなど。

加えて、主に西ローマを侵食した蛮族王のうち、西ゴートのアラリックとアタウルフ、ヴァンダルのガイセリック(本書のゲンセリックという表記は馴染みが無く違和感)、フンのアッティラ、東ゴートのテオドリック、フランクのクローヴィスを最低限チェック。

さらに宮廷内で勢威を振るった女性たちも。

ヴァレンティニアヌス3世の母ガラ・プラキディア、アルカディウス帝の娘でテオドシウス2世の姉、そしてマルキアヌスの妻になったプルケリアはとりあえず押さえておく。

このプルケリアは、ササン朝ペルシアと安定した関係を築き、曲がりなりにも蛮族の侵攻から東帝国を守ったとして、女性の権力者にしては珍しく著者の評価はやや高いようである。

それに対してガラ・プラキディアはボニファティウスとアエティウスという有能な軍人を使いこなせなかったということであまり好意的に描かれていない。

この点、藤沢道郎『物語イタリアの歴史』の描写とは大違いである。

人物評を続けると、何といっても評価が高いのはスティリコ。

テオドシウス1世からホノリウス帝を託され、東奔西走、獅子奮迅の活躍で西ローマ帝国を支え続けたが、彼が処刑された後、ローマは西ゴート族アラリックに劫掠され、没落の一途を辿る。

スティリコは半分蛮族の血が混じっていたにもかかわらず「最後のローマ人」として後世讃えられることになる。

この「最後のローマ人」という賛辞は、私はアッティラをカタラウヌムで撃退したアエティウスに捧げられたものかと思い込んでいたが、勘違いでしたか?

そのアッティラはローマ末期の蛮族王の中では、最も恐れられた人物ですが、本書では長期的戦略を持たず、恒久的な統治体制を打ち立てる能力の無かった人物として、意外なほど冷淡な描写。

末尾を飾るのはユスティニアヌス1世によるヴァンダル、東ゴート征服ですが、帝自身よりも名将ベリサリウスが評価されている。

これはギボンと同じで、まあオーソドックスな描写ですね。

なお、東帝国の宗教について「カトリック」と記されていますが、東西教会分離とギリシア正教会確立の前で、ニカイア信条に基づく信仰がカトリックなのだから、違和感を感じても別に気にする必要は無いわけです。

さて、全巻完結を機に、このシリーズ全体の感想を書いてみます。

高坂正堯氏の傑作歴史評論、『文明が衰亡するとき』の前半三分の一はローマ帝国の衰亡が扱われており、塩野氏も『ハンニバル戦記』の冒頭で、歴史そのものを叙述するのではなく自己の主張の例証として歴史を使うという形式の、自分とは違うタイプの名著であるとして触れていた。

その高坂氏著では、「蛮族侵入説」「人種混淆説」「気候変化説」「専制政治説」「奴隷制農場経済衰退説」「財政破綻説」「技術限界説」など、様々なローマ衰亡論が検討された後、現在の我々にとって間違いなく最も切実だと思われる「大衆社会化説」が取り上げられている。

実際、群衆の君臨と専政[ママ・引用者註]、民主政治と独裁政治は案外親近性を持っている。それは二十世紀の半ばに提出された大衆社会論の中心的テーマとなったものである。たとえばコーンハウザーは、大衆社会の批判者たちを貴族主義的批判者と民主主義的批判者とに分けた。前者は悪平等あるいは反貴族主義を以て大衆社会の特徴とする。すなわち、それは以前には少数者のために留保されていた領域に、多数者が介入する機会が著しく増大した社会であり、そのため、政治や文化基準の決定がその能力を持たない多数者によってなされることになる。大衆の圧力がものごとを決めるので、自由が破壊され、社会生活の質的低下がおこるのであり、それ故、社会は文化的頽廃と政治的暴政への抵抗の道徳的基礎を欠くものとなるというのである。しかし、多くの人間が政治や文化に参加するようになることだけで、そうしたことがおこるとは限らないと民主主義的批判者は言う。そうした危険はあるものの、大衆は普通、彼らの属する集団やその価値によって自己を規制している。そうしたものがなくなったとき、大衆は手取り早い方法で欲するものを得ようとするのであるから、個人が原子化されているのが大衆社会の特徴である。当然そこでは、大衆は操作されやすい。

そのどちらを強調するのかは別として、大衆社会がこの二つの特徴を持つことは間違いない。そして、ローマの社会にもその二つの傾向があったと言ってよいであろう。政治の質の低下、文化的頽廃、そして政治的専政は相互に関連し、したがって容易に克服できないものとして帝政ローマに存在し、次第に進行した。こうして、大衆社会化にローマの衰亡の原因を見ることは的外れではない。

彼[ロストフツェフ]は「すなわち、高度の文明を、その水準を落としたり、質を薄めて消失させてしまうことなしに、下層階級にまで広げることは可能であろうか、・・・・・いかなる文明も、それが大衆に浸透し始めるや否や、衰微せざるをえないのではなかろうか」という問いでその主著『ローマ帝国社会経済史』を終えているが、彼の言わんとするところはきわめて明白である。

引用文(西部邁1・高坂正堯5)

この『ローマ人の物語』シリーズにおいても、以上のような、多数派の下層民衆による国家破壊(「文明の再野蛮化」「蛮族の垂直的侵入」)という観点から、帝国の衰退と滅亡が叙述されるかと考えていたのだが、その期待はほぼ完全に裏切られた。

シリーズ後半でローマの衰亡要因として明示されているのは、市民権の既得権化による公的献身と蛮族のローマ化へのインセンティブ消滅、および文民キャリアと軍人キャリアの分離による指導者層の劣化の二つ(加えて官僚制肥大化と重税の悪循環くらいか。他にもあるのかもしれないが、私の頭では読み取れない)。

このように、人民全体の精神的腐敗と堕落の様相を無視して、問題を単に「統治システムの機能不全」に帰する見方には、何か根本的な欠落があるのではないかと思われてならない。

(精神的要因について著者は「多神教的価値観の後退と一神教的信仰の制覇」を挙げているが、これに甚だしい違和感を感じるのは『キリストの勝利』の記事で述べた通り。)

加えて、あれこれ考えると、著者の帝政に関する捉え方にも疑問を持つようになってきた。

一番凡庸でつまらない立場は、「共和政は民主的だからいいが、帝政は非民主的だからよくない」というもの。

それに比べれば、「政治体制の比較においては、その形態ではなく、善政かそうでないかを唯一の基準にすべき」、「元老院主導体制の共和政下で反映されていた民意は首都および首都近郊市民のそれのみであり、カエサルによる帝政樹立によって、その利益が代表される人々の数はむしろ飛躍的に増大した」、「ローマの帝政は被統治者の委託を受けて権力を行使する存在であり、臣民の盲目的服従を強要する東方的専制とは全く異なる」とする著者の立場の方が数段マシである。

また、著者は「『パンとサーカス』のみを求め、無為徒食する堕落した集団という帝政期民衆のイメージは誇張であり、国家から支給されたものは餓死しない程の、最低限度の社会保障にすぎなかった」という意味のことも述べている。

しかしそこからさらに一歩進めて、以下のような見方もあり得るはず。

フランス革命といいロシア革命といい、「民衆の熱狂」によって開始されたことを見逃すわけにはいきません。熱狂した民衆によってタイラント、ディクテーター(独裁者)あるいはトータリテリアン(全体主義者)が生み出されるという事例は、歴史上、枚挙に遑(いとま)がないといえるでしょう。そしてその系列の発端あたりに、かの「シーザー殺し」があるのです。

我が国では、シーザーはローマ帝国の「偉大な指導者」、という像が定着しています。しかし、たとえばウィリアム・シェークスピアの『ジュリアス・シーザー』では、「民衆の訳のわからぬ熱狂」によって「良識にもとづく議論」の場である「元老院」を圧殺せんとする「癇癪持ちの変な奴」、として描かれているといってもさしつかえありません。それにたいし暗殺者のブルータスのほうは、策略が下手だという点では政治家の資質に欠けるとしても、公明正大な人物とされております。そうみなすのが、シェークスピアの時代(十六世紀末)の常識でもあったのです。

シーザーによって扉を開かれた帝政ローマは、プレブス(「平民」というよりも「自由浮浪民」)にたいして福祉としての「パン」と娯楽としての「サーカス」とを供給するのが皇帝の主たる仕事でした。そのようにして文明が堕落していく様子をウェルギリゥスが詩に認(したた)めてもいます。その詩のなかに「パンとサーカス」という表現があるのです。

なぜここでの民主主義論において古代ローマのことに触れるかというと、「ヴォクス・ポプリ、ヴォクス・デイ」(「民の声は神の声」)というのがその帝政の合言葉でもあったからです。政体の表面だけをみれば帝政は民主制の対極にあります。しかし、政策という面でみれば、「民衆の欲望」を、とりわけ「民衆の喝采」を期待するという意味での民主主義的な傾向は、あらゆる国のあらゆる政体に一貫している、といって言い過ぎとは思われません。「民の声」は世論にほかならず、為政者の理解するかぎりにおいての世論という限定がつくとはいえ、世論が政治を動かしてきたといえなくもありません。

第一の問題は、世論にたいする「為政者の解釈」ということです。ローマの共和制はその解釈を「貴族の討論と決議」に委ねました。皇帝政はそれを専制君主に、皇帝の地位に就く者に(ネロのような)暴君や(コンモドゥスのような)狂王がいたにもかかわらず、任せたのでした。

第二の問題は、「民の声」は、大いにしばしば、エンシュージアズム(熱狂)として表現されるということです。そうであればこそ、民衆の熱狂の意味するところについての「為政者の解釈」が必要だということになります。その熱狂には真剣に斟酌すべき意味が込められている、ということがもちろんありましょう。しかし、『ジュリアス・シーザー』に記されているのは、やはり「パンとサーカス」を為政者に求める民衆の声なのです。漢語の「民」という字の原義は(精神的に)「盲目の人」ということですが、たしかに、民衆の声は、それが熱狂に近づくにつれて、精神的な盲目者にありがちの狂声に変じていくものなのです。それは国家なるものが成立して以来、不変の傾向だといってさしつかえありません。

第三の問題は、民衆の熱狂を煽るデマゴーグ(煽動者)がつねに存在するということで、『ジュリアス・シーザー』では(シーザーの副官)アントニーがその役を果たしています。デマゴーグとは、読んで字の如く、デーモス(民衆)にたいするアゴゴス(指導者)ということです。ここで留意しておくべきことがあります。デマゴギー(民衆煽動)には(日本語でいうところの)「デマ」が、つまり「煽動のための嘘話」が、たっぷりと込められているのです。

デマゴギーという言葉が古代ギリシャのものであったことを思うと、「民の声が煽動の嘘話に乗りやすい」というのはどうやら古今東西に普遍的と思われてなりません。デモクラシーとデマゴギーとが親近しているというのは、現代人の日常感覚でもよくわかるところです。

結局、民衆の熱狂のうちに全体主義的な傾向が宿っている、それゆえ民主主義(少なくとも「民の声」)が全体主義を招来する可能性は少なくないのだ、と認めなければなりますまい。このことを見過ごしにする民主主義論は、それ自体として、すでにデマゴギーに転落しております。

[西部邁『文明の敵・民主主義』(時事通信社)より]

私自身、こうまでカエサルとその事業を否定的に見ることに、かなりの抵抗を感じる。

しかし上記の文章は重大な示唆を与えてくれると思う。

「帝政は君主制で、共和政より非民主的だからよくない」という通俗的見解が、塩野氏によって「帝政への移行は広大な領土と膨大な人口を統治するための必然だ、皇帝は被支配者の信託に基づく利益代表者であり、現代国家における終身大統領のようなものだ」とたしなめられ、なるほどと思うが、しかしもう一捻りして、「ローマの帝政は伝統・慣習と貴族身分によって支えられた正統的な君主制ではなく、愚かで無責任な民衆の熱狂的世論に支持されて生まれた奇形的君主制=民衆的独裁だ、だからこそ否定されるべきなんだ」というわけ。

そもそも、高校の世界史の授業でこの辺を習った時、妙な感じがしませんでしたか?

民衆派(平民派)のカエサルと閥族派に転じたポンペイウスが争って、民衆派が勝ったのに、やって来たのは共和政の再興ではなく帝政の樹立だったということに。

ここから(真の)共和政に近いのは民主制ではなく、貴族制(と象徴的意味での君主制)だという真理が見えてくる。

高校世界史レベルの史実でも、少し黙考すれば貴重な示唆が得られる例だと思います。

高坂氏も上記著書で、ローマの帝政を基本的に大衆の支持にのっかった独裁制と表現している。

同書にはその他にも、帝政ローマにおいて貴族階層の多くが暴帝・愚帝の恐怖政治の犠牲となり、驚くほど永続性が無かったこと、「喝采屋」ともいうべき存在の出現によって公的言論の崩壊と文化の質的低落が止めどなく進行してしまったことなど、100ページ足らずの分量の中によくもここまでと思われるほど貴重な指摘が記されています。

これらを考え合わせると、世論の力で皇帝という独裁者を生み出し、「パンとサーカス」を一方的要求し、国家の要たる元老院議員という貴族たちが暴君の犠牲になることに対し、卑しい嫉妬の感情から喝采を叫び、その悲劇を「見世物」として愉しみ、無責任な批判的言辞と誹謗中傷、物質的快楽の追求のみに憂き身をやつし日々過ごす民衆という像が浮かんできて、帝政ローマが俄然醜悪なものに見えてくる。

ギボンも、五賢帝などの有徳と聡明さは認めつつ、帝政自体に否定的に思われるが、彼のフランス革命に対する態度についての以下の文章を読むと、それは進歩的啓蒙思想によるものではなく、民衆的独裁に対する嫌悪と軽蔑からそうなったのではないかと思える。

なにゆえに、この皇帝専制政の敵がフランス革命をあのように徹頭徹尾敵視したのかという理由が問われなければならない。フランス革命に対するギボンの理解については後に触れるが、ここで一言いっておきたいことは、ギボンは君主のむきだしの権力が与える恐怖と変わらぬ気持ちを抱いて、大衆支配や扇動の行く末を見ていたのだということである。「多数の者の放恣な自由」は「災い」でしかありえない。バークのように(「私は彼の雄弁を賞賛し、彼の政見に賛同し、彼の騎士道精神を称える」)、ギボンは極論を恐れていたし、大衆の手にあれ、君主の手にあれ、絶対権力は必ず腐敗することも知っていた。「平等で際限のない自由という荒っぽい理論」のもとで、ギボンは文明のもたらす緩和作用を保証する社会の諸制度や抑制と均衡が消滅することを予想したのである。

「すべての階級、秩序、政府の転覆が生み出したのは、すべてを貪り食らった挙句に、結局はおのれ自身を貪り食らうことになる大衆という怪物なのである。」

ギボンの革命への敵意は徹底していた。彼はローザンヌを本拠とする「その地の王」として「狂信的な空想家」、「危険な狂信者」、そして「社会の秩序と安寧を乱そうとする新野蛮人」といった言葉をまき散らしたのである。この自由の愛好者にして専制権力の敵を不安に陥れたのは、革命をとおして、個々の君主の独裁政治ではなく群集の意志に基づいた新しい専制政治が出現するのではないかということであった。

「今では狂信的な扇動の徒輩が不満の種を一面に蒔き散らしている。すでに数多くの個人そして一部の共同体は、平等で無制限な自由というフランス病とも言うべき途方もない理論に冒されているように見える。」

われわれがギボンのバーク理論への転向をいかに評価しようとも、フランス革命に対する彼のおびえた反応が現代ヨーロッパの政治体制の本質的な安定についての彼の記述を無効にしたと結論するのは愚かなことである。フランスに対する反応においては、彼は決して盲目的な反動主義者ではなかった。ネッケル夫妻のこの友人はもちろんフランスには変化が必要だということは承知していた。しかし彼は前進の正しい道は憲法上の自由の保証を促進することだと信じていた。

「もしフランス人が専制権力とバスティーユ監獄の廃墟に自由な立憲君主国を樹立する輝かしい機会を有効に活用していたなら、私は彼らの高潔なる努力を買ったものを。」

しかしその機会は生かされず、悲惨な結果になるのは確かであった。というのは、「奴隷民族が突如として暴君と人喰い人種の国民となった」からである。このような怪物じみた政治体制が長続きすることはありえなかった。そして歴史はギボンの分析を擁護した。ジャコバン主義は自らを食いつくし、帝国(第五王国というべきか)のもとにヨーロッパを統一するというナポレオンの夢は、ギボンがそれ以前に非常な信頼を寄せたまさにあのヨーロッパ諸国の挙国一致の協力で阻止された。現代ヨーロッパの優れた政治的安定についての記述は洞察に富むものである。それは民族国家、発展した商業社会、富の拡散と勢力の均衡の上に成り立つものであった。

ロイ・ポーター『ギボン 歴史を創る』より)

ギボンの反教権的姿勢は啓蒙史観そのものとも思えるが、彼が嫌悪する、異端教義をめぐる恐るべき闘争と社会動乱も、結局キリスト教信仰が民衆に浸透し、彼らの群集心理と党派根性が宗教の場に持ち込まれた結果だと考えるならば、上記の政治面での態度と繋がる。

するとカトリックという正統教義の確立と普及も、(塩野氏のように)「“暗黒の中世”と非寛容の始まり」と否定的に捉える必要はないように思える。

少し話を戻すと、私にとってもカエサルとアウグストゥスは依然好きな歴史人物だし(この両者と20世紀以降の全体主義国家の独裁者とでは、個性や人品に差があり過ぎる)、後期帝政(ドミナトゥス・専制君主政)のみならともかく、前期帝政(プリンキパトゥス・元首政)を含めてトータルに帝政を否定するというのは、常識的に考えてやはり行き過ぎの面があるんでしょう。

しかし、(直接)民主制を政体の軸に据えたためその必然的帰結として衆愚政治に陥り破滅したアテネに対し、元老院体制という堅牢な貴族制と(エトルリア系王を追放したがゆえに必然的に採用せざるを得なかった)執政官制度という擬似的君主制の下で大を成したローマだったが、紀元前後ついに下層民衆の圧力に屈し、愚昧・卑劣・低俗を極める無産大衆の多数性を自党派の力に変換することを覚えた煽動政治家によって独裁制(帝政)に移行、賢帝の統治下ではしばしの小康状態を得たが、伝統的多神教への信仰を薄れさせた民衆はありとあらゆる愚行と醜態に耽って社会を荒廃の極に追い込み、ついに蛮族の侵入と文明の全面的崩壊という破局を迎える、しかし帝国後期に普及したキリスト教がその破滅的事態の中で緩衝材として作用し、後代のヨーロッパ文明への再生を準備した、という(塩野氏の史観と後半部がかなり異なる)イメージは頭の中から消えそうにない。

ローマ史には人類が経験したあらゆる政治的営みが含まれているという意味の言葉があり、本シリーズでもどこかで引用されていた覚えがあるが、多数派の民衆が、かつては持っていた従順さと敬虔さを失い、驕り高ぶった愚かで卑しい大衆と化した後、(その身分に本来相応しい資質を持っている場合の)君主や貴族などの、主に社会的上層部に属する賢明な少数派を押し潰し、社会と国家を破滅させるという、世界史上の不幸な鉄則は徹頭徹尾無視されているようです。

また、「魚は頭から腐る」(国家の腐敗と堕落は指導者層から始まる)という言葉がよく使われ、本シリーズでもどこかで言及されていたかなとも思うが、歴史上表面的にそう見えることがあったとしても、それは実際には、指導者層がその資質と品位を失い、被支配者層と同化した結果堕落したのであって、「頭」(既存の支配層)が腐敗している一方、「身」(民衆)が全く健全だなんて状況はあり得ないんじゃないでしょうか。

それどころか、おぞましいことに、下層民衆が、自分たちの底無しの邪悪・低俗・卑劣を完全に棚に上げるくせに、統治階層へは無制限で一方的な道徳的非難を浴びせかけて社会の機能を麻痺させ、無秩序状態を招来し、国家を破滅させるということすらあるのではないか。

世界史上の一大変革、中国の易姓革命やフランス革命、ロシア革命、ナチ体制確立、さらにあえて言えば、日本の先の大戦もそうやって始まったと言えなくもないと個人的には思う。

ローマの帝政移行もそうだと断言したいわけではないんです。

しかしそうした面を一顧だにせず、この時期の歴史を、現実の変化を直視せず伝統的制度を旧套墨守で擁護する愚鈍な元老院階層に対し、賢明・鋭敏・果断な英雄カエサルが勝利し、民衆の利益と欲求に即して国家体制を変革することに成功した、という物語一色で塗りつぶして叙述する本シリーズの史観にかなりの疑問と違和感を感じてしまう(もっとも私自身、『ユリウス・カエサル ルビコン以前』『同 ルビコン以後』の巻を読んだ時には、塩野氏の見方にほとんど何の疑問も持たなかったわけですが・・・・・・)。

それに、上記のような観点を頭の片隅にでも入れておけば、現代のポピュリスト的政治家をカエサルになぞらえて礼賛するというような(塩野氏の時事的エッセイにも散見されなくもない)穢い行為から距離を置くことができるのではないでしょうか。

長々と書いてきましたが、結論です。

結局自分にとって、この『ローマ人の物語』シリーズは、私のように教科書レベルの知識しかない日本人読者にローマ史の中級的な史実を面白くかつわかりやすく教えてくれる、有益で手頃な啓蒙書という位置付けであり、それ以上でもそれ以下でもないです。

もちろんそれだけでもきわめて貴重で重要な作品であると評価すべきですが、本シリーズからローマという文明の興隆と衰亡について精緻な知識と深遠な教訓が得られるというふうには、どうしても思えなかった。

20年前、第1巻を感動と興奮のうちに読み終えた際、まさか全巻完結時にこのような感想を持つことになるとは夢にも思いませんでした。

ちょっと言い過ぎかもしれないし、単に私が著者の意図を読み取れていないだけという可能性も大いにあります。

さらに、ローマ史のカテゴリから本シリーズを除いた場合の貧弱なリストを見て、「そもそもお前にそんな偉そうなことを言う資格があるのか?」と言われれば、俯いて口をつぐむしかない。

しかし、もし正直な感想を述べることが許されるのなら、やはり以上のような結論になってしまいます。

初心者にとって、ローマ史の具体的史実を頭に入れるためには、やはり必読に近いレベルのシリーズだと思いますが、ギボンや高坂正堯氏の著作ほどの内容的重みは、私には感じ取れませんでした。

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