引越しします。

年一回も更新するかわからないのと、万一自分が急死することを考えて、以下に引っ越すことにしました。

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ココログのこのブログは、一定期間が過ぎれば削除する予定です。

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井上寿一 『山県有朋と明治国家』 (NHKブックス)

近代日本の本、多いなー。

「世界史ブログなのに」と言われれば、「日本史も世界史の一部です」という理屈で全て押し通すつもりですが、カテゴリ別で記事数が「近代日本」より多いのが「中国」しかないのは、バランスがいいのか悪いのか・・・・・。

今は書名や著者名の検索機能が手軽に使えるのだから、本当は手薄な分野を意識して重点的に補強していくべきなんでしょうが、どうもやる気が出ない。

最近は書店や図書館で見かけた本を適当に選んで読了し、記事にしているだけです。

できるだけ多様な分野の本を取り上げようと思ってはいたのですが、現在とてもそういう余裕の無い状況ですので、ご容赦下さい。

2010年12月刊。

井上氏の著作では、以前、『昭和史の逆説』(新潮新書)『吉田茂と昭和史』(講談社現代新書)を読了済み。

近代日本における軍国主義の源流というイメージは正当なのか再検証する本。

冒頭、松本清張の山県論を林房雄が酷評、清張の反論を受けたことで、中間小説家だった林が『大東亜戦争肯定論』執筆に向かったエピソードが記されている。

本書の問題関心と分析視覚は三つ。

(1)欧米の19世紀秩序崩壊と大衆社会形成への対応。

(2)欧米政治社会への鋭敏な観察と、それを反面教師にしての君主制の危機への対応。

(3)明治国家形成において、「必要悪」としての「強兵」を担った役割。

まず、その政治的キャリアの出発点となった奇兵隊について、封建的身分制の枠に囚われない、被差別部落出身者をも含む擬似的国民軍だったと評されている。

帝国主義時代の荒波を乗り切り、国家の独立を維持するためには、近代的国民軍の創出が必要であり、そのための民衆動員が欠かせないが、同時に軍に民衆のイデオロギーが浸透する危険を冒さねばならないというジレンマがあった。

欧州視察で、大衆社会化と立憲君主制の危機を目撃し、1878年竹橋事件に遭遇した山県は、この難題をしっかりと認識。

それに対して、出した答えが、統帥権の独立およびそれを通じた軍の政治的中立性確保であった。

1878年軍人訓戒、同年参謀本部、82年軍人勅諭を手始めに、政治から独立した軍の建設に邁進する。

しかし、一般的イメージとは異なり、明治初期におけるこれらの諸措置を文民統制の崩壊とは言えないと著者は主張。

そもそも維新間もない当時の指導者層では文官と武官が未分離であり、山県自身もリアリズムに徹し、軍備拡張よりも「民力休養」「富国」優先を受け入れる余裕を持っていたとされている。

陸軍省、内務省、宮内省など、明治国家の中枢で要職を歴任。

1883年内務卿(のち内務大臣)に就任、88年市制・町村制、90年府県制・郡制公布。

これも、軍と同じく、地方自治が政党勢力に左右されないことを企図。

1889~91年第一次内閣時、第一議会での「主権線」と「利益線」提唱について、これらの概念は膨張主義の表われというより、当時の客観情勢に沿ったリアリズムであることが説明され、(結局失敗したものの)山県自身は国内の強硬論を抑制し、朝鮮永世中立国化戦略を推進していたことが記される。

1898~1900年第二次内閣は超然内閣とはいえ政党の協力は不可欠であり、憲政党(隈板[第一次大隈]内閣崩壊後、憲政本党を結成して飛び出した進歩[旧改進]党系を除いた、旧自由党系勢力)と連携し政局を運営。

この憲政党を中心にして伊藤博文が1900年立憲政友会を結成し、以後政友会と「山県系官僚閥」が政界を二分することになるが、選出勢力と非選出勢力の対立とは言え、伊藤と山県の対立は相対的なものだと評されている。

両者とも国家優位の強力な行政指導でなければ内外の厳しい情勢は乗り切れないと理解しており、政党を基本的に排除するのか(山県)、政府に従属的に協力させるのか(伊藤)という、手段の違いのみ。

確かに、「開明・進歩的な伊藤」と「頑迷固陋な山県」という対比は誇張であり、もっと言えば完全に的外れとも思える。

トクヴィルを愛読していたという伊藤が、自由民主主義の進展に楽観的な考えを抱いていたはずがない(瀧井一博『伊藤博文 知の政治家』(中公新書))。

愚かで無責任で、しばしば邪悪ですらある大衆の進出に深刻な懸念を持ち、それに備えなければ国家自体が破滅しかねないという問題意識は両者に共通していたのではないでしょうか。

山県は正面からその荒波を堰き止める防波堤としての、政治から独立した中立的軍隊を創ろうとし、一方、伊藤はそれら大衆の生み出す世論を矯正・善導し、少しでも害の無いものにするために自ら政党結成に向かった。

結論を言えば、残念至極にも、両者とも失敗したわけです。

矯激で異常な世論に政治が支配される事態となっても、それに左右されず穏当で正常な国家機関として機能するようにという意図で、山県の創った政治的に独立した軍は、直接的に世論に浸食され、恐るべきことに大衆が既成支配層を脅迫・支配する道具と化してしまった。

伊藤の創った政友会は、民衆世論を批判・矯正・善導するどころか、大衆迎合という病に取り付かれ、こちらも昭和に入るや衆愚政治の手先に成り下がっている(戦前昭和期において、ほとんどの場合、民政党(憲政会)が政友会よりもマトモに見えるのは、それが「進歩的」だったからではなく、多数派大衆を煽動するためにデマゴーグが利用したスローガンと異なる政策を掲げていたから)。

結局、民主主義という立場から、山県を全面否定し、伊藤を部分的に肯定するような見方は、上記の視点を考慮すれば、皮相でほとんど意味を成さないように思える。

話を戻すと、日露戦争後、維新以来の目標が一応達成された時点での山県の外交戦略は、対米協調と対中警戒。

そのうち、「対中警戒」というのは、中国を軽視・蔑視し特殊権益拡張の対象としてのみ見るような、のちの日本をしばしば誤らせた主流派世論に沿うものでは全く無く、中国ナショナリズムを正当に評価し、その敵意が日本に向けられた場合の危険を警戒するというもの。

こういう慎重さが世論と政治指導部で共有されていれば、日本帝国は今も続いていたんじゃないですかねえ。

1907年赤旗事件、1910年大逆事件において、司法官僚平沼騏一郎を駒にした、強硬な弾圧策の山県と柔軟な桂という最近の説に対し、山県も社会政策の必要は認めており、これらの措置が後の治安維持法の原型だとは言え、当時の欧米でも思想統制的法規は存在していた、国際標準の取り締まり法規から硬軟両面で逸脱しないことが山県の意図だったとしている。

大逆事件を受けて、山県は以下のように詠んでいる。

「天地をくつがへさんとはかる人  世にいづるまで  我ながらえぬ」

わずか数年後には近代的価値観を完全に実現するためには暴力と独裁を極限まで追求する他ないとする狂信的イデオロギーに基づく国家が生まれ、以後数十年にわたって数千万人の犠牲者を生み出したことを、後世の我々はすでに知っている。

もちろん大逆事件で死刑になった人々の多くが直接的には無関係であり、それが明治日本の一大汚点であることを認めないわけではない。

しかし、ただ「明治国家の抑圧性」のみを強調するような(たとえ左翼的でなくても自由民主主義を金科玉条として「思想の自由競争」のメリットを絶対視するような)史観からは、今となっては大きな心理的距離を感じます。

言いにくいことですが、そのような「思想の自由競争」の利点を享受してより良い社会を創り出す資質が、私を含めた民衆にあるとは全く思えない。

大正期に入って、第一次世界大戦に際しては、対独参戦への慎重論を唱え、対中政策の不明確さを批判。

後者については、二十一カ条の要求によって、中国ナショナリズムの標的となり、英米との関係が悪化したことで懸念が的中。

前者についても、1918年、ブレスト・リトフスク条約後のドイツ軍大攻勢を挙げて、協商国(連合国)の勝利は(結果のわかった現在ではそう考えがちだが)自明視できるような状況では無かったと著者は指摘している。

なお、伊藤之雄『山県有朋 愚直な権力者の生涯』(文春新書)で、この時期の山県は白色人種同盟が日本と敵対してくることを懸念しており、それを山県が必ずしも鋭敏な外交感覚を持っていなかった実例としているが、本書ではこれは中国の袁世凱政権との協調を主張する上で内外を説得するためのレトリックに過ぎず、本心からのものとは言えない、これを真に受けると山県の常識的なリアリズムを見逃す恐れがあるとしている。

こうした外交面での相違から、第二次大隈内閣およびその外相加藤高明と対立、むしろかつての政敵である政友会総裁原敬と接近。

「軍閥の巨魁」山県と、「普選尚早論を主張した“裏切りの平民宰相”」原の両者が、世論と軍部の反対を押し切っても、旧ドイツ利権の膠州湾を中国に返還することに合意した(ワシントン会議後、実際そうなった)と書かれているのを読むと、「近代日本では、民主主義が力を持てず、権威主義的な少数支配層の統治を崩せなかったから、無謀な戦争に至って国が滅んだ」という、小中高の歴史の授業で頭に刷り込まれた物語を改めて根本から疑いたくなってくる。

二十一カ条要求が出された初期の段階では、あの吉野作造ですら「最低限の要求」として是認していたし、それより無思慮で短絡的で付和雷同することしか知らない衆愚的民衆については言うまでもない。

はっきり言ってしまえば、あまりにもしばしば、「多数派民衆の世論こそが悪」なんです。

この時期と昭和前期で何が違うのかと言えば、幸いにも客観的な国際情勢が未だ日本に厳しく危険な選択を求める状況になかったことだけでなく、下層民衆に由来するのではない、社会の上層部からの権威に支えられた山県ら元老と、原のように世論に迎合しない見識ある政治家がまだ存在していて、国政を正常な範囲に留めていたことです。

完全な失敗に終わったシベリア出兵支持は、山県が帝政派への同情を持っていたことも一因だが、一方で対米国を始めとする列国協調を最優先するリアリズムは手放さなかったとしている。

ここでちょっと脇道に逸れます。

現実問題として干渉戦争による帝政復活は不可能だったでしょうから、確かにシベリア出兵は愚行と言えるでしょう(と言うか、各国の政策担当者にとって当初はあくまで対独戦線維持の観点からの出兵だったようですが)。

しかしボリシェヴィキ政権を打倒すること自体に道義的問題があったとは思えない。

「もし可能ならば」武力を用いても、ソヴィエト政権を打倒できるのならそうした方が良かった。

マーティン・メイリア『ソヴィエトの悲劇』(草思社)では、帝政派白軍、社会革命党右派による農民反乱、英仏日米による干渉戦争、ポーランド・ウクライナ等の旧帝国構成民族の攻撃など中で、ブレスト・リトフスク講和以前のドイツ軍の進撃が、ボリシェヴィキ政権を打倒する可能性が最も高かったとされている。

惜しいなあ・・・・・と本当に思う。

第一次世界大戦は何重もの意味で、人類文明にとって自殺的です。

それ自体がもたらした莫大な破壊に加え、(特に中欧における)形式的民族自決と急激な民主化による混乱を通じて第二次大戦への道を準備したこと、さらに共産主義体制の発生を許し、それを萌芽期の内に圧殺することに失敗したこと、と並べれば、各国の上層指導者が、下層民衆のナショナリズムに対抗できず、自滅的な戦争を続けざるを得なかったことに慨嘆してしまう(マイケル・ハワード『ヨーロッパ史における戦争』(中公文庫))。

大戦が無ければロシアの帝政崩壊も、共産主義政権の成立も無く、平時において革命があったとしても、列強による武力介入によって、パリ・コミューンのような、「短期間の不幸なエピソード」ということで終わっていたかもしれない。

本来は、民意に依るのではなく、伝統的身分に則った上層階級が確固たる地位を占め、大衆が作り出すナショナリズムの興奮に押し流されず、文明全体を破滅させる狂信的イデオロギーに基づく体制が生まれたことこそを直視し、その撲滅のために全ての国家が協力すべきだったはずなんですがね。

閑話休題。

米騒動を受けて、かつてあれほど敵視していた政党内閣を容認、原政友会内閣成立。

「ポスト明治国家の政治的軟着陸」が、曲がりなりにも順調に進むかに思われた。

これで元老の地位が原らに引き継がれ、デモクラシー深化の悪影響を何とか制御した上で昭和の御世に入っていれば・・・・・と思わずにはおれない。

佐々木隆『明治人の力量』(講談社学術文庫)の記事で、元老の名前は全部憶えましょうと申し上げましたが、何も見ずにすぐそらで言えますでしょうか?

長州から伊藤博文、山県、井上馨、薩摩から黒田清隆、松方正義、西郷従道、大山巌とまず7人、それに長州の桂太郎と公家の西園寺公望の2人が加わって、合計9人でしたね。

いい機会ですので、没年もチェックしましょう。

まず日清・日露の戦間期に、1900年黒田清隆、1902年西郷従道が死去。

日露戦争後、1909年伊藤博文が安重根に暗殺。

大正政変後、1913年桂太郎が失意のうちに他界。

第一次大戦中、1915年井上馨、1916年大山巌没。

大正後期から末年にかけて、1922年山県、1924年松方正義が世を去る。

昭和に入ってただ一人の元老となった西園寺公望は1940年日独伊三国同盟を締結した日本の行く末を案じながら逝去し、元老は消滅する。

もし原が暗殺されなければ、元老となっていたんでしょうか。

そうなれば昭和史もよほど変わったものになった可能性がある。

しかし他の政治家でも、不思議でならないんですが、例えば山本権兵衛なんかはなぜ元老待遇にならなかったんでしょうか?

山本は1933年まで生きて、32年五・一五事件で先帝に拝謁している(福田和也『昭和天皇 第四部』(文芸春秋))。

西郷従道を継ぐ、日本海軍のトップであり、大正期に二度総理大臣も務め、経歴としては申し分無いように思える。

内閣辞職の経緯は、シーメンス事件に虎の門事件と、確かに二度とも不祥事としか言い様がないが、首相を務めた人物にはとにかく特別の地位と権限を与えて、政党・議会・世論・軍部から超越した立場から国政全般を指導するという形になるべきだったんじゃないでしょうか。

明治政府に準ずる、そのような体制は「非民主的」と言えばその通りだが、極端から極端に走る世論の影響を受けない分、実際の戦前昭和期のような非常識・無分別な政策決定が行われる危険性は格段に低かったはず。

そういう意味で、1921年の原敬暗殺は本当に痛恨の出来事と言える。

確かに政友会の利益誘導的な積極政策に数々の腐敗が付きまとっていたのは事実でしょうし、それに対して原に全く責任が無いとは言えないでしょう。

しかし、その利益誘導を享受したのも(少なくとも一部の)国民ですし、「政党政治の腐敗」を悲憤慨嘆して(あるいはその振りをして)政策責任者を罵倒攻撃し、ついには暗殺行為のようなテロリズムに至るような世論が結構なものとは、私は全く思わない(決まり文句のように政治家への軽蔑を語る現在の世論に対しても同じ)。

そんな凡庸な世論が、間違いなく当時最優秀で今後15年は国家の舵取りをすべきだった政治家を抹殺してしまった。

以後も過激な民衆世論はあらゆる極論を政府に押し付け、原に続く政治家たちもしばしば暗殺の対象にすらして、当然の結果として内外政策の行き詰まりを生じさせた挙句、世論が熱狂的に支持したのは近衛文麿という「カリスマ」であり、この無責任な宰相が日本を決定的に誤らせたわけです。

それにしても、原や加藤友三郎、彼らよりやや落ちるにせよ加藤高明など有為の人材が昭和に入るまでに次々死去していくのには、何ともやるせない気分にさせられる。

それに比べて、(わざわざ名前を出すのは気が引けるが)伊東巳代治や金子堅太郎みたいな人物は長生きするんですよねえ・・・・・(伊東は1934年、金子は42年没)。

そりゃ両者とも明治憲法制定での功績は大きいでしょうし、金子についてはポーツマス条約締結に向けた活動も高く評価されるべきでしょうが、それ以後はねえ。

伊東は枢密顧問官として、ワシントン会議や台湾銀行救済問題、ロンドン海軍軍縮条約について、時の政府の穏当な政策の足を引っ張ることばかりしていて、それに金子も同調しているようですし。

本来一般論としては、枢密院のように民選ではなく、議会の動きを掣肘する機関はあってしかるべきと私は考えていますが、実際にはその役割を果たさず逆に単純粗暴な在野の世論と連動して、政府を無責任に揺さぶることをしてしまっている。

「非民主的」機関としての役割も果たさず、世論に迎合しちゃいかんでしょう。

伊東・金子の政治上の師で、枢密院設立者の伊藤博文もあの世で嘆いてますよ。

また話がズレてる・・・・・。

山県は社会主義の脅威を直視したが、かと言ってそれを過大評価してヒステリーじみた対応を採り、返ってその勢力を伸張させるような愚は犯さず、冷静さを保っていた。

むしろ、皇太子(後の昭和天皇)婚約についての宮中某重大事件、および訪欧問題では、山県自身が右派の攻撃対象になった。

そうした矯激な右派の一員によって1921年原が暗殺され、同年皇太子摂政宮就任。

1922年山県も死去。

同年死去した大隈重信の葬儀が盛大だったのに比べて、山県のそれは寂しいものだったことがよく語られるが、大衆社会化状況に対峙し、それと戦い続けた山県は、自身の葬儀に多くの国民が集まることなどそもそも期待していなかっただろうと著者は評している。

さて、ここで記事冒頭の問いに戻りましょうか。

山県の推進した「統帥権の独立」が軍国主義の原因であり、政党内閣に長年反対し続けた山県こそが悲惨な戦争の最大の責任者か再検討するという問いです。

では、仮に明治期に文民統制が確立し、政党政治が定着していたと想定してみましょうか。

その状態で1930年代を迎えていたとしたら、どうでしょうか?

(在野の世論と知識人と民党が往々にして政府より遥かに急進的な対外強硬論を唱えていたことからして、明治期に急速な民主化が進行し本格的政党内閣が成立していたら、致命的外交失策を犯すか、あるいは国内の党派争いが制御不能となり内戦が勃発し諸外国の介入を許して、その時点で独立自体を失い、欧米列強の植民地に転落した可能性が高いのではないかという見方はひとまず措きます[福田和也『昭和天皇 第四部』]。その場合、植民地支配によって伝統的諸価値と諸制度がすり潰され、国民統合の核となるべきものを失ったまま、独立運動において共産主義勢力が主導権を握り、独立達成後も圧政と貧困に苦しむことになるか、そうでなくとも党派争いの恒久化と政治的報復の繰り返しで国の安定が一向に望めないという第三世界諸国のお定まりのパターンに陥ったんでしょう。)

上述の通り、私には戦前日本の軍国主義の根本的原因は民衆世論の暴走としか思えない。

たとえ政党内閣制と議会政治が完全に確立していたとしても、その場合は(ドイツやイタリアにおけるように)過激なナショナリズムを旗印にする全体主義政党がデマゴーグを擁して議会に進出し、政治を支配するだけの話じゃないでしょうか。

ここで山県が考えたような「統帥権の独立」が存在していたと仮定してみます。

外では国際協調を無視して止めどない膨張主義を採り、内では偏狭・過激なイデオロギーで仮想敵を迫害するような、衆愚政党が議会政治を支配している。

ドイツにおいてプロイセン・ユンカーを中心とした軍参謀本部がヒトラーに対して最後まで抵抗力を保持し暗殺計画を(未遂に終わったが)実行したこと、イタリアで国王の命でムッソリーニが逮捕されたことなどから類推すると、衆愚に支えられたデマゴーグ的政治家に対して、自立性を持った軍が天皇の権威を借りて対抗するという事態も十分考えられる。

この場合、「統帥権の独立」は貴重な救済手段ですらある。

日本においても、実際の史実で類似した例が無いわけではない。

1944年東条内閣末期、首相と陸相を兼務していた東条が参謀総長をも併せた時、講和模索派を含む反東条派が持ち出した理屈が「統帥権干犯」だった。

(ヒトラーと比較するのはいくらなんでも東条に気の毒だが)かつて矯激・愚劣な大衆が反政府運動に利用したのと同じ概念が、ここでは好戦論に画一化された世論が惰性で進めようとするのは別方向の事態をもたらすための梃子になっている。

要するに、「統帥権の独立」という一つの法理的政治的問題を「諸悪の根源」視することには無理があり、そうすることで結果として、民意の暴走という、より根本的な問題に目を瞑ることになるのではないでしょうか。

もっと言えば、統帥権問題だけを特に強調する必要が無いだけでなく、戦前日本の大衆運動が、極右的国粋主義という形をとる必然性すら無かったように思える。

社会の近代化・平等化・大衆化が進むと共に、大衆心理の底にある、現状否認意識・革新志向・嫉妬心・攻撃欲・破壊衝動・嗜虐感情など、様々な暗い情念が解放されていく。

それらの情念は、戦前日本では(こういう言い方はほとんどの方にとって抵抗感があり、受け入れられないものでしょうが)治安維持法を始めとする取り締まり法規の「おかげで」左翼的方面については堰き止められていたが、その分右翼的方面に過激な形で噴出した。

戦前の軍国主義も、戦後の左翼運動も、現在の右派的ポピュリズムも、結局全て「民意」「国民の声」の名の下に正当化される、大衆社会の群集心理を原因とするものである。

「戦前の破局が果たしてデモクラシーの結果かはともかく、戦後は民主主義が致命的結果をもたらさなかったじゃないか」と言われれば、国政選挙において左翼勢力が完全に勝利することは無かったものの、それは戦後保守政権の慎重な利益配分政策のおかげであって、言論の自由が自動的に穏健・正当な多数意見を形成したわけではない、それどころか、民衆世論の平均的レベルでは左派的偏向がほぼ常に圧倒的であり、それが今世紀初頭に至るまで半世紀以上国家を脅かし続けたんだから、本当に危ういところで、民主主義の致命的悪影響を退けられたというのが実態であり、自由民主主義に基づく政治を楽観し礼賛する根拠なんて全く無いはずだ、と言いたいです。

そして、我々民衆が、所詮左翼思想に数十年にわたって惑わされるような、愚かな存在に過ぎないんだという真剣な反省と自己懐疑が無い限り、その反動として現在見られるような「保守化」は、卑劣な排外的ナショナリズムと低俗な経済エゴイズムの奇怪・醜悪な結合である右派的ポピュリズムを生み出すだけであり、脊髄反射的な反左翼感情からそれに対する懐疑と批判を放棄すれば、結果、戦前のそれを上回るような破局をもたらすでしょう。

(残念ながら、もう手遅れでしょうね・・・・・。デマゴーグによっていとも簡単に操作される群衆心理が全ての価値判断の基準になり、一昔前なら間違いなく左翼的たわ言を述べていたであろう程度の人間が、全く同様の愚かしさと軽信によって、にわかに「愛国者」を僭称して、方向性が違うだけで、かつての左翼と同じくらい偏向した言動の押し付けによって政治と社会を混乱・荒廃させ、内外ともに支離滅裂な行動を取り致命的な失策を犯し続け、自らの錯誤がもたらす当然の被害を受けると、さらに狂信的になり、その憂さを晴らすため、気分のおもむくままに様々な少数派を迫害して集団リンチによってもたらされる卑しい快感に身をゆだねつつ、国が滅びるまで同じ行為を繰り返す、というのが今後の日本の運命のようです。[と、偉そうに書いていますが、ほんの5、6年前の私が赤字で記したような人間でした。]皇室には適切な時期にイギリス辺りに亡命して頂くとして、我々国民はもう地獄を見るしかないでしょう。この先何があっても100%自業自得です。)

日本だけじゃありません。

独ソ伊も、煽動イデオロギーの違いはあっても、大衆の狂信を基盤にした民衆的独裁であることに変わりは無い。

そのうち最も「軽症」と思われるイタリアで王制が存続していたこと、ナチス・ドイツにおいてほぼ唯一効果的な抵抗を行い報復裁判にかけられた人々の多くが貴族階級に属していたこと(ナチについてのメモ その1での引用文で名前に“フォン”と付いてる人の多さを見て下さい)、そして日本が非民主的・前近代的な制度と価値観を比較的保持し続けているがゆえに、独ソ伊のような完全な全体主義国家ではない、という見解があること(レーデラー『大衆の国家』引用文(ノイマン1))などは示唆的である。

「ノーマル」な政治体制と思われている米英仏も、あくまで相対比較においては、であって、民主主義国家である以上、いつ左右の全体主義に堕するかわからない不安定な状況にあるに過ぎない。

と言うか、少し時間軸を延ばせば、その三ヵ国もそれぞれ南北戦争、ピューリタン革命、フランス革命とパリ・コミューンという破局と野蛮への転落を経験しているわけである。

米英仏の体制が「ノーマル」なのは、「民主的だから」ではなく、民主主義がもたらす悪影響を早期に経験し、それへの免疫を付けたというだけの話ではないか。

しかも、その「免疫」は決して永遠のものではありえない。

また、中国を始めとする戦後新興国においても、同種の民衆的独裁による惨劇はひきもきらない。

結局、近現代の世界史におけるほぼ全ての悲劇の根底には、民衆の権力拡大とそこから生まれた独裁が横たわっている。

我々は普通、「文明の成立当初に、人々の無知未開に乗じて一部の人間が特権的地位を占め、数千年にわたって人類はその圧政に苦しめられてきたが、近代に入って自由と民主主義が生まれ、その善なる概念が普及することで、ついに古代における過ちの残滓に過ぎない君主と貴族という上層身分を打倒して民衆が権力を握るようになり自らを解放した、以後ファシズム(と共産主義)などの紆余曲折はあったが基本的に人類社会は全世界的に進歩し続けている」と考えている。

この見方では、フランス革命を出発点に、19世紀を通じて民衆の政治参加と言論の自由が拡大し続けた後、20世紀が人類史上最悪の大量虐殺の世紀になったこと(引用文(ニスベット1))、その主因である世界大戦と収容所国家をそれぞれ生み出したナショナリズムと左右の全体主義が、まさに民主主義から派生したものであることを完全に無視している(戦前昭和期についてのメモ その4)。

そもそも今の世界が、20世紀において全体主義が完全な勝利を収め全人類が独裁国家の下で悶え苦しんでいるか、核戦争が勃発した結果、文明社会が完全に壊滅し、わずかに生き残った人類が動物以下の存在となって人肉食すら行いながら細々と生き延びるという地獄絵図となっていても不思議ではなかった。

ほんの僥倖でそうした事態を免れたに過ぎないのに、なぜ自由の発揚による、自動的かつ永遠の進歩など信じられるのか。

人類社会が身分制秩序と宗教意識という自己抑制手段を失い、民衆の自由拡大と科学技術の発達という近代化の二つの「成果」が本格化した途端、それらが制御不能となって殲滅戦争と独裁国家を生み出し、人類滅亡の瀬戸際まで行って、ようやく踏み止まったというのが、20世紀の実像です。

様々な先入見を捨て、長い時間をかけて形成された伝統的常識という唯一真に有益な先入見をもって歴史を眺めれば、民主主義という政治制度は事実としてすでに失敗してるんです。

あるいは、古代アテネにおける惨状をみたプラトンの時代で、もはや民主主義の失敗は明らかだったのに、それを全く無視して、自分たちにはそれを享受する資格があると身の程知らずに軽信した民衆が全世界的に自由化・民主化という社会的実験を強行したせいで、文字通り破滅的事態がもたらされたと言うべき。

君主や貴族という少数者による統治は、たとえどれほど理不尽で耐え難いように思えても、実際は多数者たる民衆による支配という、それよりはるかに大きな悪を防ぐために、半ば無意識の社会的な智慧によって採られたものであって、そもそもそれが無ければ文明自体成り立たないのではないか、あるいは控えめに言ったとしても、(ある時期までの英国のように)君主制と貴族制と民主制それぞれの要素が均衡し抑制し合うのでない限り、文明の長期的存続は有り得ないのではないかと、最近考えるようになっている。

そもそも、世襲の君主や貴族の権利を制限することは、実は普通考えられているよりも遥かに簡単なんじゃないでしょうか?

前近代における世界のどの時代、どの地域の国家でも、少数の統治層によって、民衆が文字通り無制限に抑圧・搾取される一方だったなんてことは、ごく稀な例外を除いて、ほとんど有り得なかったように思える。

科学技術の未発達もあり、前近代国家の民衆支配には必ず一定の限界があったはずであり、もしあまりに過度の抑圧を統治層が行えば、民衆反乱によって王朝は滅び、その後また新たな統治層が形成されるということを、人類は繰り返してきたのであって、それ自体は良くも悪くもない成り行きと言える。

だが、人民主権の理念普及および科学技術と産業主義の発達という二つの理由によって、民衆の大規模かつ恒常的な政治的動員が可能になった後に生まれた、大衆社会におけるデマゴーグ支配とそこから派生した全体主義社会におけるエリート支配は、同じ少数者支配でも、世襲君主と貴族の統治に比べて覆すことが遥かに難しく、そのもたらす被害も桁外れである(コーンハウザー『大衆社会の政治』)。

前近代において実際には限られた権力しか振るえなかった王朝と近現代で無制限の独裁権力を握った全体主義政権の対比では、ブルボン朝「絶対王政」とジャコバン独裁、ロマノフ王朝とソヴィエト体制、ドイツ帝国とナチス・ドイツ、中華帝国と中華人民共和国、といった主要国に加え、李朝と朝鮮民主主義人民共和国、シアヌーク王政とポル・ポト政権、ハーシム家王政とサダム・フセイン政権、イドリス朝とカダフィ体制、ハイレ・セラシエ帝政とメンギスツ政権と、小国まで含め実例を出していけば枚挙に暇が無い。

これらを「旧体制の非民主性が容易に払拭できず、正常なデモクラシー形成が妨げられた」と解釈することは全く的外れに思える。

いずれの国でも、デマゴーグが狂信的イデオロギーの煽動によって、多数派の民衆に旧来の価値観・制度・慣習を破壊し尽くすことを促した結果成立した体制である以上、それを民主主義の名の下に根底から非難することはできないはず。

その前段階である大衆社会でのデマゴーグ支配については、常に自らを「無答責の客観的批判者」に仕立て上げ、統治にふさわしい資質を何一つ持っていないにもかかわらず、他者へ無制限な攻撃を繰り返して「世論」の背後から事実上の支配権を握り、社会を混乱と荒廃の極に追い込み、ついに寄生する対象である国家が滅び、自らも因果応報の破滅を迎えるまで傲岸・不遜の限りを尽くす卑劣で醜悪な煽動者と追随者を、キルケゴール(『現代の批判』)やヤスパース(『現代の精神的状況』引用文1引用文2引用文3)がこれ以上無いほどの迫真の筆致で描いています。

何度も同じことを書きますが、民主主義を全体主義の反対概念として対置することは絶対に間違いです

このブログにもし政治的主張らしきものがあるならば、それは上記の認識のみです。

これは本来、右とか左とかの問題ではないはず。

右派的ポピュリズムがこれほど跋扈している現在では、むしろ左派的考えをお持ちの方こそ、このような認識と警戒を持つべきじゃないでしょうかと申し上げたいです。

だいたい、「民主制への移行が近現代世界史の正常な趨勢」と言ったって、その割には成功例が少なすぎるじゃないですか。

これまで致命的破局を経験しなかったのは、まあ、(ピューリタン革命をあえて除けば)英国と北欧諸国ぐらいのもんでしょう。

アメリカだって、他国では文明の進展によって自然に消えていった奴隷制度を廃絶するために国家を二分する凄惨極まりない内戦を必要として、20世紀においては気儘な世論が指示するままに双方とも思慮分別に欠ける孤立主義と好戦主義・帝国主義の間を右往左往し、桁外れの国力のお陰で自国の被害は受けずに済んだものの、戦後は急進的対抗文化がもたらす闘争に突入し、政治・性・人種・宗教・階級その他ありとあらゆる分野で社会の分極化と相互不信に苛まれ、その混乱に耐え得なくなると宗教的原理主義と自由至上主義の不寛容な押し付けで形式的な国民統合を再生しようと図り、その結果、外交面では賢明さと慎重さに欠ける軍事的単独行動主義で他国に多大の被害と混乱をもたらし、内政面では金融資本の暴走を制御できず、大恐慌以来の投機バブルを破裂させ、もう少しで世界経済を破滅に導くところだった、という次第なんだから、「これが成功した民主主義のお手本です」と言われても、はいそうですねなんて到底肯けません。

むしろアメリカも、「真の共和政」(塩野七生『ローマ世界の終焉』佐伯啓思『アメリカニズムの終焉』)を確立することが出来なかった、近現代史で無数にある、民主主義の失敗例だとした方がよほどすっきり得心できる。

独立後わずか半世紀余りのジャクソニアン・デモクラシーで建国理念を決定的に変質・歪曲させ、「民主的になればなるほど、共和的(公民的)でなくなっていく」アメリカ(と日本を含む民主主義国)については、トーマス・マンが『非政治的人間の考察』で、これ以上ないほど的確かつ辛辣な皮肉と嫌味を放っています(あるいは引用文(平川克美1)参照)。

民主主義の失敗例である戦前日本が、民主主義の失敗例である米国に「非民主的」という理由で断罪され、戦後は両国が民主主義のさらに深刻な失敗例であるソ連に対して「民主主義を守るために」同盟し、冷戦後も自称「保守」派がその同盟を絶対視し、同様に民主主義の深刻な失敗例である中国を「民主主義の価値観を共有していない」として同国に対抗しようとしているが、その実、日米とも伝統・慣習・常識の最後の一片まで捨て去り、市場と言論空間における底無しに卑しい群衆の無制限の放縦を讃美する以外の価値観を全て失い、革命で伝統的価値をすでに破壊し尽くした後で共産党の支配が徐々に緩んできた中国に対して真の優位性を持つことなどできず、それどころか衆愚的であるという意味では類似した社会に収斂しつつすらある。

何重もの虚偽と倒錯に眩暈と吐き気を覚えます。

19世紀の進歩主義が、戦争と革命の次世紀で決定的に裏切られたように、冷戦終結後の「自由民主主義の最終的勝利」という幻想が破綻し、今世紀が20世紀をなぞりつつあるのではないかという恐怖を覚える。

先触れとして、全世界的に、史上最悪の衆愚政治が始まる気配がします。

その中で(最近はかなり怪しいとは言え)イギリスのような国は「軽症」で済む可能性があるでしょうし、せめて日本が少しでもそれに近いものであって欲しいと思いますが、残念ながらむしろ重度の集団ヒステリーに罹っているということでは(中国や韓国と並んで)世界でも一番酷いんじゃないかと思えてしまう。

言うまでも無く、私も九割九分九厘九毛、そうした衆愚の一員です。

残りの一毛でも、何も出来ずに、「自分の生きているうちはこれ以上致命的事態が起こりませんように」と卑怯な望みを抱くか、こんな場所で愚痴をこぼすのが関の山です。

 

「軍の独立性」という手段は適切ではなかったかもしれないが、山県は上記のような民主化・大衆社会化現象と戦い続けたわけである。

にもかかわらず、山県は、大衆に「軍国主義の首魁」とのレッテルを貼られ、今も辱しめられている。

そう考えると、あまり端整とは言えない、あの山県の肖像が俄然輝きを帯びてくる感を覚える。

本の分量の割りに、異様に長い記事になってしまいました。

本書自体は楽に読めて、有益な啓蒙書です。

この方の作品は、ハズレは恐らく無いと思います。

良質で効用の高さは申し分なし。

いろいろなことを考えるきっかけを提供してくれます。

なお念のため、一言申し上げておきますが、この記事で書いたような歴史解釈はあくまで本書を材料にして他の本も参考にしながら、私個人が記したものです。

上記文章を読んで、「なんだこりゃ???」と思って、本書を読む気が失せるということにはならないようお願い致します。

本書後半部分は史観にやや鋭敏さが減じたかと思えましたが、私がそう思えるということは一般的史観には近いということでしょう。

我ながら万人に一人も同意してもらえないようなことを書いてるなあという自覚はありますので。

とは言え、とりあえず当ブログで載せられているような本を読んで、馬鹿は馬鹿なりに二十年以上考えた結果ですので、今のところ自分の意見を変えるつもりはありません。

異論に耳を傾ける余裕と謙虚さは持っていたいと考えておりますが、単純に、そんな意見は多数派と全く異なるから間違っており捨て去るべきだと言われても、それは無理ですと申し上げるほかありません。

その分、ブログ読者の方にはいろいろ不快な思いをさせてしまったかもしれませんが、どうかご容赦下さい。

普段にも増して独断的な言い方が多い記事になっておりますので、なぜ自分がそう思うに至ったかという根拠を示す脚注の感覚で、一応他の記事のリンクを頻繁に貼っておきました。

あとは全般に、思想・哲学フランスドイツのカテゴリの記事でも眺めて頂ければ、と思います。

と言っても、この記事自体、最後まで読んで下さる方は二十人に一人もいないでしょうから、そこまでお時間を割いて下さることを期待は致しません。

さて唐突ですが、本日より更新を停止させて頂くことにしました。

私事ですが、大震災以降、生活環境が激変しまして、それでも何とか続けていたのが、いよいよ困難となってきましたので。

個人的な苦手分野を反映して、ごく貧弱な書名リストに過ぎない一部の手薄なカテゴリを補強できておりませんし、紹介したい新刊本が今も続々出ていまして、自分でも不満足な思いがあるものの、すみませんが、とりあえずこれで一区切りとさせて頂きます。

このブログが果たしてタイトル通りの効果があるのか、疑わしいとは思いますが、世界史に興味のある方にとって、ほんの少しでもお役に立てれば幸いです。

閉鎖するつもりは無く、年1、2回の更新は続けるつもりでおります。

もしお気が向いたら、忘れた頃にでも覗いて頂ければ有り難く思います。

それでは、皆様御機嫌よう。

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木崎喜代治 『幻想としての自由と民主主義  反時代的考察』 (ミネルヴァ書房)

著者については、本書を手に取るまで何も知らず。

略歴を見ると、『マルゼルブ フランス18世紀の一貴族の肖像』(岩波書店)という著書とマルテーユ『ガレー船徒刑囚の回想』(岩波書店)という訳書が載っている。

本書は、「シリーズ現代思想と自由主義論 3」だそうです。

1995年に書かれた草稿を元にして2004年刊行。

以下、内容をよく示している章名・節名を挙げる。

([ ]内は私の補足。)

「『自由』は絶対的権威を持っている」 [が]

「人間は自由ではない」

「かつて『自由』は悪であった」

「すべては信仰の自由から始まる」 [そこから]

「人間万能主義の世界観が生まれる」

「自由と放縦は同じものである」

「自由のうちに積極的なものはない」

「種々の拘束のうちのどれを選ぶか」 [こそが真に問われるべきことである]

「自由な人間は社会性を持つことができない」

「自由は解体の原理であって、創出の原理ではない」

「自由を超えて自律を目指す」 [べきである]

「議会制民主政治は『賢人政治』である」 [議会主義と近いものは民主制ではなく貴族制である]

「『市民』と『大衆』とを区別する」

「民主主義の平等の原則は下降化作用を持つ」

「平等な人間は容易に自分に満足する」 [その結果]

「人間というものの水準は低いところに定められる」 [さらに]

「名誉の観念は消失する」 [結局のところ]

「民主主義は人間を上昇させる契機を持たない」 [そんな人間性の真実を直視すれば]

「表現の自由は最高の原則なのか」

文明が誕生してから、全ての人間社会では、宗教的基盤による自由の抑制こそが社会の基礎であり、その抑制が存在しなければ社会も有り得なかった。

ところが、文明の発達と人智の複雑化によって宗教改革と、教義をめぐる宗教戦争が戦われるようになり、その惨禍から「信仰の自由」という観念が生まれた。

それ自体はやむを得ぬ、切実な成り行きだと言うこともできるが、個人が自身の信仰を選択できるということになると、そこから人間が神の上に立つ存在だという、恐ろしく不遜な考えが生じてくる。

しかも、切実かつ高尚な、信仰面に限定されていた「自由」の観念が、私的欲望の追求を正当化するためにほとんど無限に拡大解釈され、その低俗化に全く歯止めがかからなくなる。

人間の不完全性を直視しない自由の称揚が社会の混乱と荒廃をもたらし、その必然的帰結が近現代における全体主義である。

これを自由と民主主義の名の下に非難することは根本的に歪んでる。

なぜならそれらの綺麗事こそが全体主義をもたらしたのだから。

[自由民主主義を批判し否認する著者に対する]全体主義との類似性という非難についてはつぎのように答えよう。自由とは拘束の不在のことであり、そして、個人主義とは、とくに現在の日本では、私的利益の追求とほとんど同義であり、そのゆえに、自由と個人主義の称揚は個人を孤立化させ、したがってまた弱体化させる方向へと引きずっていく。そして、このように孤立化し無力化した自由な個人こそが全体主義的権力の恰好の標的となり、その権力によって簡単に絡め取られてしまうのではないか。その権力が政治的であろうと、オカルト的宗教的であろうと、事情に変わりはない。自由な人間とは、これまで詳論してきたように、空虚な人間である。そのゆえに、かれらは他者と共感し連帯するための恒久的な絆を持ってはいない。そして連帯とは拘束以外のなんであろうか。自由な人間は連帯を嫌悪し、孤立化し、無力化し、そして、そのゆえに外からの権力に容易に絡めとられる。これを自由からの逃走と呼んでもよい。

それに反して、自律した人間は空虚な人間ではなく、かれ固有の積極的な原理を自分自身の中心に据えていて、その原理にしたがって強く生きている存在である。そのゆえに、かれはその原理を通じて他者たちと共感し連帯することができる。かれは孤立的人間ではなく、社会的人間である。全体主義的権力が、連帯している社会的人間を捉えるのは容易ではない。したがって、むしろ、今日では閉鎖的利己主義と一体化した個人的自由の高揚や個人主義の称揚こそが全体主義を呼び込んでいるのである。社会性の喪失の結果、個人は同胞に助けを求めることができず、その代わりに、上方の国家権力や宗教的権威に助けを求めざるをえないことになる。

また、以下の文章も、自分自身のことを振り返れば、実に得心のいくものである。

古来から、しばしば、人間とは弱いもの、間違いを犯すもの、邪悪なもの、愚かなものとして定義されることがあった。しかし、そのような定義はいわば消極的な性質のものであり、恥ずべき行為を犯してしまった人間を慰め励まし更正させるために用いられる秘かな口実であった。それが、いまや、そうした行為を弁護するために堂々と積極的に白昼のもとに掲げられるのである。この種の人間の平等の仮定が積極的原則となるやいなや、人間の精神の世界における果てしない下降過程が始まる。人間を計る尺度として、その生物学的特徴しか存在しないということ、あるいは、少なくともそれがもっとも強力な尺度であるということは、賢明な人間たちを計る尺度がうまく機能しないということである。したがって、人々は、卓越した考えを表明したり、立派な行為をしたりする人間を見てもただ困惑する以外にはない。どのように対応すべきかが分からないのである。そして、自分が理解できないことを未練なく忘れ去る最善の方法は、それを嘲笑することであるらしい。こうして人間の愚かな行為は人間的だとして容認され、他方では、美しい行為や見事な行為は理解を超えているゆえに嘲笑される。・・・・・・

他の叙述では、西欧(特に英国)の日本と米国に対する文明的な優位は、より「民主的」だからではなく、全く逆に、民主主義への抵抗力を持っているがゆえであると書かれているのが印象的。

また新聞からラジオ、テレビへと情報メディアが進歩すればするほど、情報の内容が空疎で愚劣化すると指摘している。

このくだりは、高坂正堯氏の『不思議の日米関係史』の中での、日露戦争後のアメリカにおいて、ハースト系の新聞がデマに等しいような対日警戒論を煽ったことを記した後の、以下の文章を思い起こさせる。

実際、アメリカでもヨーロッパでも、十九世紀末にはそれまでに考えられない大部数の新聞が出現し、世論に悪影響を与えたのであった。どうやら、情報産業というものは、新しい形態のものが現われるとき、必ず、なんらかの悪影響を及ぼすものらしい。

民主主義の発展によってこそ、社会的弱者および少数者が保護されてきたという見方については、それら被差別者の地位を向上させてきたのは、心ある少数派市民であり、多数派の民衆はむしろ彼らを迫害してきたのであって、大衆自身が権力者以上に迫害の主体であったと述べている。

これはたとえ嫌な事実であろうとも、真実を直視するなら妥当だと認めざるを得ない見解です。

加えて、参政権は、現状では酒や煙草を摂取する資格と同様にある一定の年齢に達するだけで与えられるが、車の運転免許にも試験があるのに、なぜ政治に関与する資格が何の資質も問われず、自動的に与えられるのかと疑問を呈している。

考えてみれば、本当にそうです。

政治に関わる言論においては、とにかく、ほとんど全ての国民が(その政治的立場の相違に関わらず)、下は一般公務員から上は政治家まで(もっと酷い場合は皇族に至るまで)、少しでも公的立場にある人々に対して、一方的に罵詈雑言、誹謗中傷、揶揄嘲笑を浴びせ掛ける傾向があります。

つくづく思うんですが、あれ一体何なんでしょうか?

言ってる本人の資格や資質が問われることは、ほとんど絶無でしょう。

自分たちは「納税者」で「主権者」だからということで、どんなに無責任で、非現実的で、理不尽で、皮相で、短絡的で、一方的で、バランスを欠き、ステレオタイプで、冗談半分に近いようなもので、愉快犯的で、真の切実さに欠けるくせにそれを装い、支離滅裂で、品性下劣で、自らのことを完全に棚に上げ、他人を攻撃すること自体を目的とし、それで自分の卑小さから目を逸らし、日常の憂さを晴らすための、卑怯極まりない非難であっても全てが正当化されてしまう。

しかし、「納税者」って、あなた税金いくら払ってるんですか、公務員一人の年収も到底賄えないんじゃないんですかと言いたいし、そんなことより、たとえ億万長者で莫大な額の税金を払っていようとも、これまでの何十世代にわたる努力と試行錯誤の結果である政治・社会・文化の上に立ってこそ、自身の経済活動があり得たんだから、個人として要求できる発言権なんて限りなく微少なものなんだとわきまえるのが、まともな大人というものじゃないでしょうか(たとえ少額の納税者でもその多数が寄り集まった集団的意志ならば絶対的に尊重されるべきだという理屈に対しても同様)。

「主権者」だから当然だって言うのなら、そんな民衆は君主や貴族という身分以上に、「生まれながらの不当な特権者」だと言いたいです。

私自身がそうだから書くんですが、「主権者たる国民」の平均的姿は以下に描写されているようなものじゃないでしょうか。

われわれは大衆人の心理図表にまず二本の線を引くことができる。すなわちその生の欲望を示す線、つまり大衆人自身の際限の無い膨張の線と、安楽な生存を可能にしてくれた一切のものに対する徹底した忘恩の線を。この二つの傾向は、例の甘やかされた子供の心理を作り上げているものである。

私は本書を読まれる方の多くが、私と同じようにはお考えにならないのを十分承知している。それもまた極めて当然なことであり、私の主張を裏付けてくれるのである。というのは、たとえ私の意見が決定的に間違っているという結果になっても、私と意見を異にする読者の多くが、このように錯綜した問題について、ものの五分間も熟考したことがないのだ、という事実は常に残るからである。そのような人たちが、どうして私と同じように考えるだろうか?
前もって意見を作り上げる努力をしないで、その問題について意見を持つ権利があると信じていることからして、私が「反逆的大衆」と呼んだところの、人間としての馬鹿げたあり方に属していることを典型的に表明しているのだ。それこそまさしく閉鎖的、密室的な魂を持つということである。この場合は、知的閉鎖性と言えるだろう。こうした人間は、まず自分のうちに思想の貯えを見いだす。そしてそこにある思想だけで満足し、自分は知的に完全だと考えることに決めてしまう。彼は自分の外にあるものを何ひとつ欲しいとは思わないから、その貯えのうちに決定的に安住してしまうのだ。これが知的閉鎖性のメカニズムである。

したがってわれわれは、ここで、愚者と賢者の間に永遠に存在している相違そのものに突き当たる。賢者は、自分がもう少しで愚者になり下がろうとしている危険をたえず感じている。そのため彼は、身近に迫っている愚劣さから逃れようと努力するのであり、その努力のうちにこそ英知があるのだ。
ところが愚者は自分を疑うことをしない。彼は自分が極めて分別に富む人間だと考えている。愚鈍な人間が自分自身の愚かさのなかに腰をおろして安住するときの、あのうらやむべき平静さはそこから生まれている。われわれがどうやっても、住みついている穴から外へ出すことのできない昆虫のように、愚者にその愚かさの殻を脱がせ、しばしの間、その盲目の世界の外を散歩させ、力づくで日ごろの愚鈍な物の見方をより鋭敏な物の見方と比較するように強制する方法はないのだ。馬鹿は死なねば直らないのであり、救いの道は無いのである。
だからこそアナトール・フランスは、愚かな者は邪悪な者よりも忌まわしいと言ったのだ。なぜなら邪悪な者は休むときがあるが、愚かな者は決して休まないからである。

ホセ・オルテガ『大衆の反逆』より)

個々の民衆の資質を問わずに、すべての個人が平等だとされれば、その平等な個人の多くが同意した多数意見が絶対視される。

「価値としての多数性」をトクヴィルは「知性に適用された平等理論」と名づけた。要約すると、「知性は各人に平等に配分されている」とすれば、「多数派のほうがより多量の知性を有している」という子どもの理屈である。そういう幼稚な判断に立つ者だけが「民主主義は多数決だ」と言い張って憚らないのである。

また、「国民は等しく主権者である」というヒューマニズムの前提に立てば、この子どもの理屈に到達するのも必然といってよい。と同時に、この前提から「少数派排除」という(いわゆる「いじめ」の論理と同種の)アンチ・ヒューマニズムが出てくるのであるから、民主主義は立ち往生せざるをえない。

[西部邁『小沢一郎は背広を着たゴロツキである。  私の政治家見験録』(飛鳥新社)より]

・・・・・民主主義にあっては、多数性に(主権と呼ばれる)至高の価値をすら宛てがっています。今日では誰もわざわざ問うことを止めたのですが、多数性が最高の価値であるという命題は、誰も信じていないのに誰もが信じた振りをしている大嘘なのではないかと思われます。

トックヴィルは、その嘘を「知性に適用された平等理論」と呼んで批判しました。こういうことです。第一に、すべての人が知性を等しい質量で所有していると想定します。すると第二に、多数派のほうが(足し算として)より多い知性を保有しているということになります。したがって第三に、多数派の判断のほうがより優れているという結論になるのです。

日常生活にかんする慣習的な判断についてならば、ひょっとして、その平等理論は正しいのかもしれません。しかし、国家の政策をめぐる判断についてまでそれを主張するのは、やはり、歴然たる嘘というほかありません。

多数性にジャスティファイアビリティ(正当化可能性)はありません。もしあるというのなら、あらゆる政体が多数派の動向を気にして運営されてきたのですから、何万年も閲(けみ)した人類史は今や真善美の間近にまで達しているとみてよいということになってしまいます。しかるに、現代の文明は到る処で没落の兆候をみせつけているときています。少々なりとも敏感かつ正直な人なら、多数派にあってこそ(虚偽とはいわぬまでも)誤謬が大きい、と認めるに違いありません。歴史に進歩があったのだとしても、その進歩のアイディアやプランやプラクティスはどちらかというと、少数派の手によって担われてきたということも、あっさり承認するでしょう。

歴史の連続を保つものとしての伝統、それに精神的生命を吹き込んできたのは少数派のほうです。伝統によって生み出される権威、それを纏(まと)うのがオーソドキシー(正統)と呼ばれます。多数派は伝統から離れようとし、権威に逆らうこととしてのヘテロドキシー(異端)となります。

いや、通常の異端は慣習に抵抗する破壊主義的な少数派として歴史に登場するのです。そのあとを多数派が追う段階になって、伝統までもが失念されます。

そのとき、別種の異端が伝統の権威と権威ある正統の(反革命と俗称される)保守に起ち上がるという経緯を辿ります。ですから、多数性は正統性とも無縁とみてさしつかえありません。「ヘテロ」は「異なる」という接頭語で、その原義は「選びとる」ことです。変化という過去とは異なれるものを「選びとる」のが多数派の変わらぬ習性だといえます。

「知性に適用された平等理論」というあまりにも低俗な理屈を拒否してみると、多数性には正統性と正当性のそれぞれ一片も付与されていないとわかります。少なくとも、多数性が価値となるのは、権威の次元のことではなく、権力の次元においてのことにすぎないのは確実です。多数性は露骨きわまるフォース(物理的な力)にすぎません。

 それが(多数派の支持によって作り出される)法律によって正当化されるとき、そのフォースがパワー(権力)になります。状況の進展のなかで、法律にたいする多数派の恣意的な解釈が罷り通るようになると、そのパワーはヴァイオレンス(暴力)に転じます。「数の暴力」といわれているのがそれです。

「真理は細部に宿る」といわれるのと同じく、「真理は少数派の手にある」とみて大きく間違うことはありません。それにもかかわらず「知性に適用された平等理論」のまやかしが、多数派の故意か無知かによって守護されています。そして権力はすでに多数派の手にわたったのですから、この誤謬もしくは詐術の理論を社会のなかでつき崩すことは、あっさりいって不可能なのです。

 そのことに絶望する者が少しでも増えること、それ以外に希望はないというのがトックヴィルのいった「多数派の専制」ということなのだと思われます。

 

[西部邁『文明の敵・民主主義  危機の政治哲学』(時事通信社)より]

実際には「前もって意見を作り上げる努力をしないで、その問題について意見を持つ権利があると信じている」人間の付和雷同に過ぎないものが、自立した諸個人が自由な討議を経て決定した賢明な結論だと偽装粉飾される。

そんな世論が全ての物事の価値判断の基準になれば、国や文明が滅びない方が不思議でしょう。

多数派の大衆が、良質な市民になることは全く期待できない。

そうである以上、民主主義を擁護して、「ポピュリズム」のみを批判することは無意味であり、やはり民主主義自体を否定する視点を持たない限りどうしようもない。

一人一人の国民が、伝統と慣習の束縛を脱し、かけがえのない平等な個人として自らの権利を自覚し、あらゆる物事を主体的に考え、自分自身の意見を持ち、その意見を何ものにも制限されず自由に表現し、異なる意見を縦横に戦わせ、その結果得られた多数意見だけを国家と社会の意志決定の基礎とする、という具合になればなるほど、社会は底無しの腐敗堕落に吸い込まれ、国家は確実に破滅への道をひた走ることになる。

様々な形態はありえるでしょうが、根本的に、社会の中で、できる限り長い時間をかけて自然に形成された、いくつかの階層に分かれ秩序付けられた少数者に特別な権利と義務を与える以外に、文明を安定させる方法は無いんじゃないでしょうか。

史書を読めば読むほど、上記の考えが確信に近いものになっている。

そういう真実を直視することを拒否して、社会を原子的個人のみからなる平板なものに再構成しようとする行為が、混乱と無秩序を通じて、かつて排除された伝統的階層性など及びもつかない、途方も無い格差を伴う独裁と社会自体の破滅を生むのではないでしょうか(コーンハウザー『大衆社会の政治』)。

しかも、そうして生み出された独裁が崩壊したならば、またもや民主主義の名の下に、平等社会を築こうとする運動が続き、結果として再び新たな独裁の土壌を準備することになってしまう。

文明社会が完全に破滅するまで、この種の大衆運動が永久に続き、誰も止めることができない。

結局、言論の自由や民主主義、人権、全個人の平等などが公認かつ自明の価値になってしまったら、どんな時代のどんな国も、不可逆な滅びの道に入るしかない。

1789年以降(今のアメリカを見れば、本当は「1776年以降」と言いたい)、5000年かけて文明を築いてきた人類社会全体が、遅かれ早かれ、その道に入ってしまったんでしょう。

極めて平易な表現で、自分が普段漠然と考えていたことを明確に叙述してくれている本。

ただ、事例が卑近過ぎたり、論理の運び方に鋭さが欠ける嫌いもあるが、それも私のレベルに合っているとも言える。

今日では、本書は、旧来型の左翼よりも新自由主義者・市場主義者・個人主義者への批判として読むべきと思われる。

非常に貴重で有益な書。

強くお勧めします。

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加藤陽子 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 (朝日出版社)

数年前、かなり話題になった本を今頃になって通読した。

同じ著者の『戦争の日本近現代史』(講談社現代新書)は既読。

栄光学園という進学校での五日間の講義を基にした本。

1章が日清戦争、2章が日露戦争、3章が第一次大戦、4章が満州事変と日中戦争、5章が太平洋戦争という、これ以上無いオーソドックスな構成。

上記リンク本と同じく主な内容は、戦争を国民に説明し正当化する論理の解明と当時の国際情勢の解説。

以下、各章のポイントを抜書き(あくまで一部)。

序章では、現代史上の総力戦体制が膨大な犠牲者を生み出し、それが新たな社会契約と平等主義の欲求をかき立てるメカニズムを指摘。

加えて、歴史の教訓が現在に確実に影響を与えること、それも往々にして政策決定者による歴史の誤用という形で、悪い影響を与えるということを述べる。

ここで挙げられているアーネスト・メイ『歴史の教訓』(岩波現代文庫)は読まなきゃいけない本だなあと思いつつ、現在も未読。

1章、アヘン戦争以来、列強に押されっぱなしの清朝が、1880年代よりイリ条約、清仏戦争、壬午軍乱、甲申事変など華夷秩序維持のための積極策を採るようになり、それが日本との衝突に繋がる。

日本国内では、民権論者は同時に国権論者でもあり、外交・軍事では政府と一致していた。

三国干渉を受諾した政府への不満が普選運動に繋がるロジックを述べているのだが、この対外強硬論から民主化への要求という流れは極めて不吉で危険なものに、個人的には思える。

2章、日露戦争における日本の戦争目的は安全保障上、韓国がロシアの支配下に入るのを防ぐことだったが、国際的には英米の支持を得るため満州の門戸開放を主張。

ロシアは日本が韓国をこれほど重要視していることを見逃した可能性があり、それにより日露開戦に至る。

欧米向けの戦争正当化の論理と、日本の実際的な死活的利益とにズレがあり、後々これが禍根を残す。

次に国内的な話。

明治日本は財産資格による制限選挙であり、近代化の原資と戦費負担のために地租をはじめ重税が課されたということは中学どころか小学生でも教えられるでしょう。

ここから「近代日本の抑圧性」みたいなイメージが容易に生まれるが、考えてみれば、この二つの事実を組み合わせると、増税で有権者が増えたという盲点に気付く。

1900年第二次山県内閣において納税資格が15円から10円に引き下げられ、有権者数は76万人と、最初の選挙法の倍になり、地主以外の商工業実業家が議会に進出。

戦争が平等化を推進するという、近現代史の普遍的法則が日本でも当てはまることを指摘。

3章、第一次世界大戦、開戦時と講和時における日本と米英の思惑のズレについてあれこれ。

4章、当時の国民世論において、「暴支膺懲」という感覚が極めて広範囲に見られた。

「条約のグレーゾーン」という問題があり、日中間に厳しい対立をもたらした満鉄併行線禁止は、実は確固たる条文はなく、日中会議録の中の文言にしか無いもの。

しかしこれが世論の煽動に使われる。

次に、連盟脱退における、1933年2月熱河作戦の悪影響について。

連盟規約16条の、紛争解決交渉中に戦争に訴えた国を全加盟国の敵とする条項を懸念して、日本は脱退を選択。

(一般的イメージと異なり、全権代表松岡洋右は脱退に慎重だった。)

国内では政党政治の行き詰まりから、陸軍による国政改革に世論の支持が集まっていく。

中国では、胡適が「日本切腹・中国介錯論」を唱えたことに象徴されるように、日本との全面対決路線を選択。

数年間日本に敗北し続け、国土の中枢部を占領されて、どれほど甚大な被害を蒙ろうとも、米英ソを巻き込み、日本を打倒するという考え。

胡適は、松本重治『上海時代 中』では対日強硬論を戒める立場だったはずだが、こういう人にまで敵意の抑制を不可能にしたのは、やはり日本の失敗だなと思わざるを得ない。

これに対し、汪兆銘は国土の荒廃と国民の疲弊が共産化の危険をもたらすとして反対したが(実際その通りになった)、不幸にして売国奴の汚名を着ることになってしまった。

汪のような人々にも、日本が報いるところが余りに少なかったのではないかと残念に思う。

5章、日ソ独伊ユーラシア四国同盟の幻想と、アメリカの潜在的国力の大きさについて。

面白く、読みやすい。

さすが、話題になっただけのことはある。

半藤一利『昭和史』より、こちらの方が良い。

予備知識がほとんど要らないのも長所。

ただし、上記『昭和史』と同じく、やはりこれだけ読んで、ああやれやれと思うのでは駄目。

以後、多くの本を読む取っ掛かりとして使うべき。

私の昭和史や日本近現代史についての見方は、福田和也『昭和天皇 第四部』の記事でほぼ言い尽くしていますが、本書の史観はそれと親和的な部分もあれば、そうでないところもある。

とは言え、特に気になる部分は無かったので、どんな考えの方が読んでも、強い抵抗を感じることは無いと思います。

機会があれば、是非お読みになることをお勧め致します。

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エリック・ルーセル 『ドゴール  (ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物7)』 (祥伝社)

このシリーズでベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』に続いてこれを読む。

ドゴールの伝記ではラクーチュール村松剛の著書を通読済み。

あと福田和也『第二次大戦とは何だったのか』での小伝も。

ドゴール家はパリのブルジョワ家系。

高祖父は高等法院検察官、革命で財産の大部分を失う。

曽祖父は国民公会によって投獄され、百科全書派思想に失望、のちにナポレオン軍の軍職に就く。

祖父ジュリアン・ドゴールはリールに移住し古文書学者になる。

以前、チャールズ・ウィルスン『オランダ共和国』の記事において、冗談半分で、南ネーデルラント継承戦争でリールを獲得してなければドゴール出現も無かったのだから、「ルイ14世の征服戦争」も利点があったと書きましたが、以上の経緯と年代を考えると、ジョークとしても的外れでしたね。

貧窮生活の中、一家は厳格なカトリック信仰を守り通す。

父アンリ・ドゴールは理工科学校(エコール・ポリテクニック)を経て内務省に入るが、第三共和政の反教権主義により辞職、教職に転ずる。

「ジョゼフ・ド・メーストルの言葉によれば、革命は宗教改革と同じく悪魔的なものであった。革命を愛することは神から遠ざかることである」

だが、ドレフュス事件にあたってはドレフュスの有罪を疑い、それを公言、極右団体アクシオン・フランセーズがヴァチカンから断罪されると、その日刊紙の購読を止める。

このアンリの次男として1890年に生まれたのが、シャルル・ドゴール。

1909年サン・シール陸軍士官学校に入学、卒業後入隊した部隊で当時大佐のフィリップ・ペタンと知り合う。

第一次大戦に従軍、1916年ヴェルダン攻防戦のドゥオモン保塁で三度目の負傷、捕虜になる。

なお、1966年になってドイツの旧兵士が、当時ドゴールは抵抗もせず降伏したとメディアで主張したが、ドゴールは無視した。

第二次大戦時に敵国が宣伝材料として利用しなかったことを見ても、これは虚偽の主張だろうと著者は判断している。

バイエルンのインゴルシュタット収容所に送られ、そこでのちの同志カトルーや、ソ連赤軍の英雄となるトゥハチェフスキーと知り合う。

ここでドゴールの政治思想の解説。

一言で言うと、不本意ながらの共和主義者。

家系が示すように18世紀啓蒙思想への不信を持つが、20世紀になっての王政復古の可能性は信じていない。

この点、クロワ・ド・フー(火の十字団)のラロックと類似している(剣持久木『記憶の中のファシズム』参照)。

モーリス・バレス、シャルル・モーラスなど、アクシオン・フランセーズの極右思想家の著作を読むが、反ユダヤ主義の領域に引き込まれることは拒否する。

1919、20年にポーランド軍顧問団への配属を志願し、ソヴィエト軍と戦う(これもラロックと共通)。

ペタンの推挙によって軍内で昇進を重ねる。

第三共和政への不信を持つが、軍によるクーデタなどは否定するリアリズムと賢明さを持つ。

ドゴールは、戦車を集中配備した機甲師団創設を主張(ただし空軍力の重要性は必ずしも十分に認識せず)し右派議員ポール・レイノーの賛同を得たが、ブルム内閣国防相のダラディエが反対、ペタンとも決裂する。

第二次世界大戦開戦、大統領アルベール・ルブランの下、1940年3月に首相がダラディエからレイノーに交代。

5月にドイツ軍が大攻勢、ドゴールは一部機甲師団を指揮し反撃。

最高司令官はガムランからウェイガンへ交代、ペタンが副首相、ドゴールは国防次官になる。

ドイツ軍の侵攻によって政府はパリからトゥール、さらにボルドーに移転。

ウェイガンとペタンは休戦を唱えるが、ドゴールはあくまで英国と連携し、米国の支援に期待をかけ徹底抗戦を主張。

このフランス降伏直前時に、フランスの抗戦意欲を維持するために、英仏の単一国家への合邦という驚きのプランが検討され、国民国家の独立を何より重視するドゴールも同意するが、これは全くの画餅に終わる。

首相レイノーは辞任、ペタンが後任となり、ドゴールはロンドンに亡命、6月18日BBC放送での史上有名な抗戦アピールを行う。

英にはフランス海軍力の後背への懸念と配慮があり、当初ペタン政権を完全に否認できなかったが、6月末ドゴールの自由フランス政府を承認、7月メルセルケビール作戦で仏海軍への攻撃に踏み切る。

ジャン・モネらのように抗戦派だが反ドゴールの立場を採った人物もいたが、ガストン・パレフスキー、ルネ・プレヴァン、ミュズリエ提督、ジャック・スーステル、カトルー(インドシナ総督を解任された)、ピエール・メスメール、ルクレール、ジャック・マシューらが参集。

7月ヴィシー政府成立、8月ヴィシーはドゴールに死刑宣告。

9月自由フランス政府によるダカール奪取作戦が失敗するが、チャド、ガボンは自由仏派へ。

ドゴールにとっては、フランスの正統性と代表権を主張し、国内レジスタンスの主導権を可能な限り共産系から奪うことが課題になる。

また、ヴィシーも完全な傀儡政権ではなく、対独協力の一方、水面下で英国と接触し、12月には親独派のラヴァルを解任するなど、微妙な舵取りを採る。

12月シリア・レバノンのヴィシー側高等弁務官との交渉で、当地域が英仏軍統治下に入る。

ドゴールは、同志たちの多くが抱いていた通俗的共和主義とは違い、第三共和政への軽蔑を隠さず、「自由・平等・博愛」の信条に「祖国と名誉」を加え、集権化制度への支持と革命前後を含むフランスの全ての歴史を許容するという立場を示し、モーラスの思想すら、政府の役割と世界におけるフランスの地位については受け入れた。

そのため、「反民主的」との疑念にさらされることにもなった。

自由フランス内ではミュズリエとの勢力争いが発生、同盟国のイギリスとの軋轢も絶えず、ドゴールを実権の無い象徴的地位に祭り上げようとする動きが起こる。

アメリカも、この時期ヴィシー政権の穏健化と対独離間策を主な政策としていた。

米国政府内でもリーヒー提督ら反ドゴール派が存在し、当時米国に滞在しており、後年ドゴール政権で外相・首相を務めるモーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィルもそれに異を唱えない状況だった。

41年に入り、独ソ戦が始まり、真珠湾攻撃で米国が参戦するなど、情勢が好転する中、現実政策の面からソ連へ接近、ジャン・ムーランによる国内レジスタンス統一に際しては、共産系へ譲歩。

42年11月米英軍がモロッコ・アルジェリアに上陸、本格反抗が始まるが、米国はドゴールよりむしろ、ドイツから脱走してきたジロー将軍を支持。

アルジェのダルラン提督は米国との交渉に踏み切りペタンによって解任、独軍は仏南部に侵入しヴィシーは完全に傀儡化。

12月にダルランが暗殺されるが、これにドゴールが関与していたかは不明とされている。

43年1月モロッコのカサブランカで、チャーチル、ルーズヴェルト、ドゴール、ジローの四者が会談、ジローのアルジェ掌握が決まるが、成立した国民解放フランス委員会は巻き返しがあり、11月にはドゴールの主導権が確立する。

戦勝国によってフランスに軍政が敷かれ占領扱いになることにドゴールは強硬に反対、イーデン、アイゼンハワーらの理解を得て主張を貫くことに成功。

44年6月ノルマンディー上陸作戦、同月国民解放フランス委員会は臨時政府に改組、8月パリ入城。

45年2月ヤルタ会談には参加できなかったが、国際連合安保理常任理事国の地位とドイツ占領権は得る。

戦勝国の一員となったものの、インドシナなどの植民地では反乱が続発(ここで高校世界史では出てこない人名だがチュニジアのブルギバ[1957~87年大統領]を覚えておきましょうか)。

45年秋の選挙で、共産党が国民共和運動(MRP)と社会党(SFIO)を抑えて第一勢力に。

46年1月ドゴールは臨時政府首班を辞任、社会主義者のグーアンが後任、10月憲法採択、社会党ヴァンサン・オリオール大統領の下、第四共和政成立。

47年3月社会党ラマディエ首相就任、5月に共産党閣僚を追放。

同年3月ドゴールは自前の政治組織として、フランス国民連合(RPF)を組織。

一時支持を集めたRPFだが、植民地の独立要望に対する曖昧な態度や、冷戦進行で非現実的になったドイツ分割政策への固執、51年調印(52年発効)のヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)など欧州統合への反対、過度の反共主義によって、徐々に党勢は後退。

不遇のうち、引退状態になったドゴールだが、アルジェリア危機に際して58年首相復帰。

59年大統領権限を大幅に強化した第五共和政樹立、初代大統領に。

(第五共和政は成立後50余年で、まだ第三共和政の方が長いが、おそらく近代フランス最長の政治体制になるでしょう。)

復帰してからの10年はよく知られているんで、流します。

UNR(新共和国連合)が与党、ミシェル・ドブレ、モーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィル、シャバン・デルマス、ジョルジュ・ポンピドゥー、ヴァレリー・ジスカールデスタンらが側近。

政権復帰の発端であったアルジェリア問題ではサハラの石油への固執も持ったが、結局独立を承認(しかし同時に、本書では親仏派現地人への冷酷とも言える対応についても記している)。

対米自立外交を繰り広げながらも、62年キューバ危機に際してはケネディ政権の対応を全面的に支持。

68年五月危機も乗り切ったかに見えたが、69年辞職、70年死去。

末尾辺りで、印象深い文章がある。

彼に言わせれば、国家の改革はきわめて困難である。なぜならば、1789年の絶対君主制の崩壊以来、国家は堕落したからだ。いま、国家に内在するただ一つのスケールの大きい能力は、直接普通選挙によって共和国大統領を選出することである。「それはフランスが大統領制を採用することを意味するのではない」と彼はさらに強調する。フランスは根底から君主制的な国家であり、そのことは政党や利害による避けがたい日常的な騒ぎを超えた行政権を要請する。

また、以下の述懐も。

「フランス人なんて、嗚呼、つまらないものだ。イタリア人でもアメリカ人でも同じことだ。ソヴィエト人も次第にそうなっていくだろう。それが時代の要請であり、法則だからだ。現代人は英雄ではない。私が去ってからというもの、国際レベルでは何もかも停滞してしまった。」

さらに、引退後の内輪での会話として記されている言葉。

「私の人生で心残りなのは、君主制をやらなかったこと、そのために必要なフランス王家のメンバーがいなかったことだ。実際には、私は10年間、君主だった。フランスの政治というものを持っているのは私だけなのだ。」

これはちょっと妙である。

20世紀初頭の時点で、父親の王党派的信念にも関わらず、王政復古はもはや現実的ではないと判断しているのに、さらに万に一つの可能性も無くなった20世紀後半に内輪話とは言え、このように発言しているのだが、どこまで本気なのかかなり疑わしい。

しかし、興味深い言葉ではあります。

細かな史実にも触れ、内容は充実しているが、少し読みにくい。

普通の日本人読者にとっては最低限の予備知識が無いとわかりにくいでしょう。

訳文もこなれておらず、文脈からすると肯定・否定が逆でないと意味が通らないのでは? と思われる部分もいくつかあった。

戦後史は、渡辺啓貴『フランス現代史』の方がいいかもしれない。

個人的には結構面白かった気がするが、是非お勧めしますと断言できないのが辛いところであります。

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木村幹 『高宗・閔妃  然らば致し方なし』 (ミネルヴァ日本評伝選)

同じ著者の『韓国現代史』(中公新書)を読了済みで、同シリーズではディキンソン『大正天皇』が既読。

昔は「李太王」などと呼ばれていた李朝末期の君主とその妃。

高宗の生年は1852年なので明治天皇と同い年。

傍系から養子として王になる。

李氏朝鮮の国王をやや遡ると、21代英祖→孫の正祖→子の純祖(1800年ちょうどの即位)→孫の憲宗ときて、外戚の勢道政治がはびこるようになり、続いて哲宗が傍系より即位、その次に本書の主人公高宗が、6代遡って19代粛宗につながるという傍系から国王に登極。

傍系からの即位なので実父は国王ではない。

この存命中だった実父が有名な大院君。

「大院君」という名は固有名詞ではなく、このような、現国王の父であり、かつ前国王ではない人物を指す普通名詞らしく、正式には「興宣大院君」というそうです。

この大院君は後に高宗の妻閔妃一族と激しく対立することになるが、実は大院君自身の母と妻も閔妃と同じ驪興閔氏の出身。

高宗の即位は教科書や用語集では1863年のはずだが、本書では1864年と読める記述がある。

即位式を挙げたのが64年ということかなとも思うが、よくわからず。

1864年と言えば、中国では太平天国が滅亡し、日本では禁門の変、第一次長州征討、四国艦隊下関砲撃事件と近隣諸国で激動があった年です。

即位当初は大院君の執政。

よく知られているように攘夷鎖国政策を遂行、1866年のフランス艦隊による江華島攻撃を退け、同年大同江を遡上したアメリカ船シャーマン号を焼討ちするなど、一応の成果を挙げるが、それも列強の朝鮮への関心の薄さゆえに成り立つ当面の成功だったと評されている。

国内では免税と軍役免除特権のあった儒教「書院」の制限を進めたため、攘夷政策で一致するはずの崔益鉉ら「衛正斥邪派」との距離ができる。

土木事業と軍備拡大による財政悪化とインフレが深刻となり、1873年大院君は失脚。

以後何度か大院君は短期間復帰するが、本格的に政権を担ったのはこの最初の10年ほどだけ。

外戚閔氏が勢威を振るう高宗親政時代が始まるが、清銭の流通禁止という政策は大院君時代のインフレによる混乱とは全く逆に、深刻なデフレを引き起こす。

江華島中心の対外防備から王宮近衛兵重視の軍制改革を進める。

この江華島は近代日朝関係の出発点である江華島事件で有名ですが、それ以前から高麗がモンゴルの侵攻を避け遷都したことからもわかるように、開城と漢陽(ソウル)の海への出口を抑える地点にあるということで、非常に重要な地位を占めているようです。

1875年(この年号は当然暗記)、その江華島事件と翌76年日朝修好条規により、閔氏政権がなし崩し的に開国。

それに反発する衛正斥邪派が高宗より離反、かつての敵大院君派に接近。

この時期の閔氏政権が採っていたのは「親日近代化」政策と言われているが、本書の叙述ではその性格は必ずしも明確ではない。

1882年壬午軍乱勃発。

閔氏政権が育成していた新式軍への反発がきっかけとされるが、この定説にも本書はやや疑問を呈している。

いずれにせよ開国・近代化を進める閔氏政権に対する大院君派の攻撃であり、日本大使館が襲撃され、閔妃も殺害未遂の危機に陥る。

ここで清が一挙に介入、軍乱を鎮圧、大院君を清国に拉致。

日本とは済物浦条約が結ばれるが、以後清による、従来の朝貢関係のレベルを超えた、実質的属邦化工作が激しくなる。

なお、この壬午軍乱の前後で、閔氏政権の立場が「親日」から「親清」へと変化していることは(上記の通り、本書の記述によるとそう単純化できるものでもないようだが)重要ポイントなので意識しておく。

ここで中学以来お馴染みの、親日的独立党と親清的事大党の対立が出てくる。

普通これは、閔氏ら保守派が事大党で、金玉均・朴泳孝ら開化派が独立党だとされる。

しかし著者は、日本党=金玉均・朴泳孝・洪英植・徐光範、清国党=趙寧夏・金允植・魚允中・金弘集という人脈を示し、上記二派はともに開化派であり、壬午軍乱以後清国介入の深化に伴い、それへの対応について、かつて一つだった開化派が分裂したものだとする。

前者が清との一切の関係断絶を主張する急進開化派であるのに対し、後者は一定限度の宗属関係を是認する穏健開化派(岡本隆司『世界のなかの日清韓関係史』)。

この両者が1884年甲申事変で激突、清国派が勝利。

(この甲申事変は壬午軍乱からわずか2年しか経っていない時点で起こったこと、日清戦争のちょうど10年前であることをチェック。)

同年清仏戦争の敗北もあり、清が一部譲歩して、1885年日清間に天津条約が結ばれる。

(これに絡んで、85年には大井憲太郎ら自由民権派による大阪事件あり。)

高宗は清の影響力が絶対的になるのを避けるため、「背清引俄(ロシア)」策を採り、ロシアと接近。

大院君が清より帰国を許される。

89年防穀令による軋轢などがありつつも、この時期は概ね清国覇権下の安定した十年となり、閔泳駿・閔泳煥らが率いる閔氏政権全盛期。

そして運命の1894年東学党の乱と日清戦争勃発、金弘集「開化派」内閣成立、大院君も日本に担ぎ出されたものの面従腹背。

95年三国干渉で日本が後退すると、高宗および閔妃、大院君、内閣という、三つ巴の権力構造になる。

閔妃は、まず日本を利用して大院君を排除、次に内閣の分断に成功し、実権を掌握。

ここで、同95年乙未事変と呼ばれる、閔妃暗殺事件が起こる。

日本公使三浦梧楼らの陰謀。

これはいくら帝国主義時代とは言え、やり過ぎでしょう。

明治日本の汚点としか言いようが無いし、個人的には大逆事件よりも腹に堪える不快感がある。

日本によってまたもや大院君が担ぎ出されるが(これで四度目の大院君政権)、親露派・親米派のクーデタ未遂などの動揺が続いた挙句、1896年高宗がロシア公使館に避難(「露館播遷」)、金弘集・魚允中らが殺害され、大院君は軟禁、朴定陽・李完用・李範晋らの内閣が成立(ただし閔氏勢力は回復せず)。

1897年高宗が王宮に帰還、同年国号を大韓帝国とし、清との宗属関係を完全に清算、高宗は皇帝に即位。

1898年に大院君死去。

同年、96年に結成されていた独立協会などによる、下からの国政改革運動が巻き起こり、後の大韓民国初代大統領の李承晩も選出されていた中枢院を拠点にした議会主義運動が激化するが、結局鎮圧される。

なお、1898年という年号ですぐ思い浮かぶ史実があるでしょうか?

日本では第3次伊藤内閣から憲政党の隈板内閣、第2次山県内閣という目まぐるしい政変、清国ではドイツの膠州湾租借に始まる中国分割、変法自強運動挫折と戊戌の政変、というのがすぐ記憶の引き出しから取り出せることが望ましいです。

奇しくも、日清韓三国で国内政局に混乱が見られた年ということになります。

その他、世界では米国のハワイ併合と米西戦争、アフリカで英仏間のファショダ事件があったことも暗記事項。

この時期、閔妃も大院君も開化派も清国派もなく、即位以来はじめて高宗は君権第一主義を貫くことを得るが、大韓帝国は日露の狭間に立たされ、国の独立自体が風前の灯となっていた。

1904年日露戦争勃発。

併合への道標となった四つの外交協定のうち、最初の日韓議定書と第一次日韓協約は、開戦の年である04年に締結。

内容は、前者が日本の軍事行動への便宜提供、後者が財政・外交顧問の設置。

翌05年、ポーツマス条約後に第二次日韓協約。

内容は外交権剥奪と保護国化で、これがおそらく最も重要。

統監府設置、初代統監伊藤博文。

この役職に関する伊藤の企図については、伊藤博文についてのメモ その2を参照。

1907年、列強に独立回復を提訴しようとしたハーグ密使事件が起こり、高宗は退位させられ、純宗(閔妃の子)が即位。

他に厳妃の子である英親王李垠がいる。

昔の教科書や概説書で、少年時代に日本の軍服を着せられて伊藤博文と並んだ写真がよく載せられていたのは、たぶんこの人。

後に梨本宮方子(まさこ)妃と結婚することになる。

同07年第三次日韓協約、内政権も日本が掌握、韓国軍隊は解散。

1909年安重根による伊藤暗殺、1910年韓国併合。

併合後、純宗が「李王」、高宗が「李太王」と称せられる。

ああそうか、まず元皇帝の純宗に李王の称号をあてがって、その父だから李太王か、そりゃ近年そう呼ばないはずだ、と得心しました。

1919年高宗死去、日本による毒殺の噂が流れ、同年の三・一独立運動に影響を与えたのはご存知の通り。

かなり細部に亘る本だが、読みやすく面白い。

明らかな誤植と思えるものが2、3箇所あったが、大きな問題ではないでしょう。

類書の呉善花『韓国併合への道』(文春新書)よりかなり詳しく、読み応えがある。

その分、通読に骨が折れるが、見返りも大きい。

十分お勧めできる良書です。

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川田稔 『満州事変と政党政治  軍部と政党の激闘』 (講談社選書メチエ)

『浜口雄幸と永田鉄山』(講談社選書メチエ)と同じ著者。

本書は満州事変前後に焦点を絞った本。

まず、1928年張作霖爆殺時点で、日本の対中政策に三つの構想があったことを指摘。

(1)田中義一政友会内閣=中国本土の国民政府統治を容認、満蒙特殊地域では張作霖の勢力を温存。

(2)浜口雄幸と野党民政党=国民政府の中国全土統一を容認、日中の友好関係・経済協力推進。

(3)関東軍首脳=満蒙分離、張作霖排除と独立新政権樹立。

ただし、3番目の立場においても、満蒙の中国主権存続を前提にしていることに注意。

(張作霖爆殺の実行者河本大作ですらそう。)

これに対して、1927年陸軍中央少壮幕僚グループが結成した木曜会の満蒙領有論は中国主権を完全に否定するもの。

木曜会は陸軍士官学校21~24期が中心でメンバーは石原莞爾・根本博・鈴木貞一ら、少し年長の16期永田鉄山、岡村寧次(やすじ)、17期東条英機も会員。

さらに軍閥の系譜を遡ってみると、1921年第一次大戦後のドイツにおいて、永田・岡村・小畑敏四郎がいわゆるバーデン・バーデンの盟約を結ぶ。

派閥解消・人事刷新・軍制改革・総動員体制確立・長州閥打破をその内容とする。

この三人が中心となり、木曜会と同年、1927年に二葉(ふたば)会が陸軍15~18期を中心に結成される。

永田・岡村・小畑以外のメンバーでは河本・東条・板垣征四郎・土肥原賢二・山下奉文(ともゆき)と、史書でしばしば名前を見る面々が並んでいる。

二葉会と木曜会の両者が1929年合併して一夕(いっせき)会を結成。

武藤章、田中新一らも同時に加入。

この一夕会が30年代初頭、日本政治を揺るがすことになる。

田中政友会内閣と浜口民政党内閣での陸相は白川義則と宇垣一成で、両者はともに長州閥主流派。

この時期の陸軍最有力者は宇垣とみなせる。

これに対して一夕会は、荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の非長州系三将官を擁立することを目指す。

(後に皇道派の代表者となる荒木・真崎と、統制派の傀儡で首相にもなった林の名前が、この時期の陸軍革新運動の表看板としてすでに出てくることを頭に入れておく。)

政党政治に比較的親和的な長州閥の流れを汲む宇垣派の首脳部を、革新派の一夕会系中堅幹部らが押し流していく構図を、人名をチェックしながら、以下しっかり把握していきましょう。

1929年岡村寧次が陸軍省人事局補任課長に、30年永田鉄山が軍務局軍事課長に就任し、徐々にポストを掌握。

1931年9月18日、ついに柳条湖事件で満州事変勃発。

(これは日付まで覚えましょうか。基礎的過ぎて、中学レベルですが、日中戦争の端緒となった1937年7月7日の盧溝橋事件とは当然しっかりと区別。)

主導者は関東軍高級参謀板垣征四郎、作戦参謀石原莞爾らで、当時の関東軍司令官は本庄繁。

関東軍が、奉天・長春など満鉄本支線沿線を制圧、当時の石原は中国本土主要部をも日本の勢力下に置くことを目標にしていたと記されている。

ここで当時の陸軍の主要ポストを示す表が載っているので、名前を階級と共に一部書き写してみる(赤字で記した人名は宇垣派)。

まず陸軍省では陸相南次郎大将、次官杉山元中将。

軍務局長小磯国昭少将、その下に軍事課長永田鉄山大佐、人事局長中村孝太郎少将、その下の補任課長が岡村寧次大佐。

次に参謀本部では、参謀総長金谷範三大将、参謀次長が二宮治重中将。

総務部長が梅津美治郎少将、その下の編制動員課長に東条英機大佐、第一(作戦)部長建川美次少将、その下の作戦課長が今村均大佐、第二(情報)部長橋本虎之助少将。

最後に教育総監が武藤信義大将、本部長が荒木貞夫中将。

上記の通り、最上層ポストはほぼ宇垣派で占められているが、その下に一夕会幹部がおり、下剋上的に国策を動かそうと企てる。

(ただし陸相・参謀総長が宇垣派であるのに対し、教育総監の武藤信義は反宇垣派であるとされている。また宇垣派にも満州での武力行使賛成への傾きや、同31年の三月事件への関与などの動きがある。)

面倒なので、事変の細かな経緯についてはメモしないでおきましょう。

一夕会擁立将官の一人である林銑十郎朝鮮軍司令官の増援軍独断越境の事実だけをチェック。

当時、関東軍独走の動きに対峙したのは、浜口内閣を継いだ、第二次若槻礼次郎民政党内閣。

主要閣僚は外相幣原喜重郎、蔵相井上準之助、内相安達謙蔵、陸相南次郎、海相安保清種(あぼきよかず)。

宮中重臣は、元老西園寺公望、内大臣牧野伸顕、宮内相一木喜徳郎、侍従長鈴木貫太郎、侍従武官長奈良武次。

この時、事変不拡大を目指す内閣の方針を支持する先帝の発言が出されるが、これは先帝個人の考えであるだけでなく、重臣らのバックアップもあったであろうと推測されている。

これに対して陸軍は反発、先帝を「現人神」扱いしておいて、実質はその指示に従うつもりは一切無く、天皇の権威などただ反対派を黙らせるための方便としかわきまえない連中に対して、終戦に至るまで先帝と側近らは針の穴を通すような微妙なバランスで行動することを強いられる。

本来、天皇の直接的政治介入が好ましくないことは言うまでもないが、当時は非常事態で政党政治自体が深刻な危機に瀕していたとの判断から、著者はこれを容認している。

ここで、本筋とは一時離れて、浜口と永田の政治構想を比較した章がある。

大体、最初にリンクした前著と同じ内容。

第一次大戦は史上初の総力戦となり、先進国間の全面戦争はそのコスト・犠牲がどのような戦争目的をも超えることが誰の目にも明らかになった。

日本国憲法第九条第一項の戦争放棄規定は、第二次世界大戦ではなく、第一次大戦後、戦前政党政治の時期に日本自身も主体的に加わって締結された不戦条約をベースにしたものだとされている(ただし第二項の戦力不保持規定は別)。

浜口は抑止効果を持ちうる一定の軍備と国力があれば戦争防止は可能であるとみなしたのに対し、永田は戦争不可避論と中国資源確保による自給自足体制構築を主張。

話を戻して、9月下旬南陸相、金谷参謀総長は関東軍に満鉄付属地外からの撤兵を指示するが、10月には撤兵拒否・新政権工作容認の流れが強まり、同10月には満州を追われた張学良政権が存在していた遼寧省西部の錦州爆撃が行なわれる。

一夕会系中堅幕僚の突き上げによって陸軍中央は動揺し、内閣も南満州軍事占領と新政権樹立容認方針へと向かう。

通常、先の朝鮮軍増派の事後承認をあわせて、これを若槻内閣の弱腰・無策の表われとするのが一般的解釈である。

だが、著者はこれを南・金谷ら宇垣派陸軍首脳を内閣に引き付けるための譲歩であり、言わば戦線の建て直しだとする。

宇垣派と関東軍・中堅幕僚層との間に楔を打ち込み、後者を内閣と宇垣派の連携によって封じ込め、制御することが若槻ら政党政治家の戦略であり、同時期に起こった再度のクーデタ未遂である十月事件にも関わらず(著者はこの事件の影響を過大に見積もっていない)、それは以下にみるように実際かなりの効果を上げた。

この辺の著者の解釈は非常に独創的で、本書で最も特徴ある部分である。

11月北満チチハル侵攻の動きが出てくるが、一時占領後に撤退、錦州攻撃も中止される。

この時期、陸軍中央は関東軍首脳部の更迭すら示唆している。

当時朝鮮総督となった宇垣が南らに影響力を行使し、南・金谷・杉山・小磯・二宮・建川ら宇垣系幹部は満蒙での新政権樹立には賛同するが、中国主権を否定した独立国家には反対し、北満・錦州への軍事行動拡大にも同意せず。

南満州占領(錦州を除く)と張学良を排した新政権樹立までは、永田ら一夕会は建川・小磯など宇垣系内部での強硬派を巻き込んで、南・金谷を動かし成功するが、しかし北満州チチハルおよび西南部錦州侵攻と独立国家建設問題では首脳部を動かせず。

この時点で、若槻内閣はひとまず一夕会系軍人を抑え込み、小康状態を確保したと言える。

また前著の記事で少し触れた今村均が、南・金谷ラインで動いていたと書かれていて、ああやはりこの人は穏健な立場を守っていたんだと知って、ほっとする思いがした。

この政治と軍との均衡状態を破ったのが、12月の若槻民政党内閣崩壊と犬養毅政友会内閣成立。

その端緒となったのが、安達謙蔵内相が10月末に政友会との大連立、協力内閣運動を提起したこと。

この構想に当初若槻も賛成。

今から見ても、軍部抑止のためには悪くないアイデアに思える。

著者も指摘するように、同時期の英国で、31~35年のマクドナルド挙国一致内閣が大恐慌後の混乱を乗り切った例もある。

しかし井上蔵相、幣原外相が反対。

政友会との政策の違いなどを挙げてのことだが、そもそも緊縮財政と金解禁自体が完全に間違った政策だったんだから、そんなこと言ってもしょうがないでしょう、まったく硬直した理想主義者にも困ったもんだな、などと考えながら少し先を読み進むと、何やら様子が違う。

安達内相の企図は、実は軍部を掣肘することではなく、むしろその意を迎えることであり、大連立運動は実質親軍的行動だと井上・幣原は考えたとされ、著者もおそらくそうだったであろうとその判断を首肯している。

閣内での対立が進行し、結局12月11日に若槻内閣総辞職。

当時の首相には閣僚の罷免権はなく、閣議は全員一致を原則としており、閣内不一致となれば政策決定は不可能に陥るため、総辞職するほかなかったのである。

ここでも書きましたが、以上の事実は中学・高校の歴史の授業でもう少し強調して教えてもらった方がいいと思います。

安達が単独辞職しなかったことについて、安達直系の中野正剛を通じた一夕会との関係を著者は疑っている。

(安達は32年民政党を飛び出し中野らと「国民同盟」を結党。明治期の吏党の系譜として、1890年大成会[杉浦重剛・元田肇]→92年国民協会[西郷従道・品川弥二郎]→99年帝国党[佐々友房]→1905年大同倶楽部となり、安達はこの大同倶楽部の指導者。以後1910年中央倶楽部となり、それが、第一次護憲運動に対抗する目的の桂太郎の指導の下、13年立憲国民党の一部と共に立憲同志会結成。)

政友会は、金輸出再禁止と国際連盟脱退も辞せずとの決意を表明、党首の犬養も党内世論に押し流されたか、大連立には応じず(ただし犬養自身は連盟脱退は考えていない)。

政友会が積極財政と強硬外交、民政党が緊縮財政と協調外交という政策の対比は、高校教科書でも出てきますが、もし民政党政権が積極財政を採り社会不安を和らげることに成功した上で協調外交を継続していれば、あるいは政友会・民政党の大連立政権が軍部を抑え込んで危機の時代を何とか乗り越えていれば、というのはたとえ後知恵と言われようと、どうしても考えたくなる「昭和史のイフ」である。

それにしても、鳩山一郎や森恪(つとむ)ら政友会の一部政治家が、今村・永田に倒閣を依頼するかのような発言をしているのを読むと、深く嘆息してしまう。

戦前の民主主義は軍国主義によって倒されたと決して単純に言えるものではない。

政党よりも軍部に世論の支持があったというだけでなく、政党政治家自身が矯激な世論に媚び、党派心の虜になって議会主義を破壊したのだから、民主主義は自壊した、あるいは民主主義自体が軍国主義を生み出したと解釈する方がよほど実態に合っている。

若槻内閣総辞職時に、若槻への大命再降下が一時検討されたが、軍と世論の攻撃が宮中に向かうことを懸念したため、元老西園寺が断念したと書いてある。

建前上は至高の権威であるはずの皇室が(加えて元老・重臣、まともな政党政治家、多数派世論の尻馬に乗らない穏健派軍人も)、実際は常に過激な衆愚的匿名世論に怯えざるを得ない状況だったことがよくわかる。

「民意」がこれほどの力を持っていた戦前の日本は、すでに「高度」に民主的だったとみなすべき。

だから日本は結構だと言うんじゃないんです。

戦前日本の破局はあくまでデモクラシーがもたらしたものだということを誤魔化すべきではないと言いたいんです。

日本は「非民主的政治制度」のせいで滅んだのではなく、そうした抑制装置があったにもかかわらず、デマゴーグと衆愚の支配を防ぐことができずに破滅したんです。

若槻内閣崩壊と犬養内閣成立で事態は一気に流動化。

陸相には荒木貞夫、参謀総長には皇族の閑院宮載仁親王が就任、32年1月に真崎甚三郎が参謀次長になり実権を握る。

2月には一夕会に批判的になっていた今村均が更迭され、小畑敏四郎が後任作戦課長、軍務局長に山岡重厚、4月永田が第二部長、山下奉文が軍事課長、小畑が第三部長、後任には鈴木率道、と一夕会系が続々昇進(上記の満州事変勃発時のポスト表と見比べて下さい)。

宇垣系の杉山・二宮・建川は中央から追われ、小磯のみは2月に陸軍次官になるが、5ヶ月で更迭、柳川平助が後任次官に就任、結局陸軍中央より宇垣派は追放される。

(この柳川と荒木・真崎・山岡・山下・小畑・鈴木が皇道派の中心。)

31年末より錦州再攻撃、32年年頭占領、2月ハルビン占領、31年12月よりチチハルも長期占領態勢が敷かれ、満州全域の主要都市が関東軍支配下に置かれる。

32年1月第一次上海事変、2月リットン調査団来日、3月満州国建国宣言。

永田による、小川平吉・森恪を通じた、与党政友会への政治工作について記述あり。

当時の政友会内部では、鈴木喜三郎派と久原房之助派が主流派として犬養を擁立し、非主流派の床次(とこなみ)竹二郎派(旧政友会派=党歴の古いグループ)と対立。

鈴木派・久原派とも親軍的で、それに担がれた犬養が軍を抑止しようと努めるというねじれ現象が存在。

犬養は大勢に逆らって、満州国を即時承認せず、中国主権を認めた上での満蒙独立政権を模索するが難航し、そのうちに五・一五事件によって殺害されてしまう。

鈴木喜三郎後継総裁に大命降下せず、西園寺は後継首相に海軍穏健派の斉藤実を推挙。

ここでも政党内閣に否定的な一夕会系軍人の威嚇があった。

軍の圧力が高まる状況下で、政党勢力も元老西園寺と対立することはできず、戦前の政党内閣は終わる。

日本の政党内閣が1924~32年の8年間しか続かなかったことは中学・高校の歴史の授業で必ず教えられます。

しかし1925年普通選挙法成立から、軍の暴走の端緒となった1928年の張作霖爆殺事件までを取れば、たったの3年です。

3年ですよ、3年。

教科書的理解では、普通選挙法に危機感を強めた支配層が同時に治安維持法という稀代の悪法を同時に制定し、軍の専横に歯止めが効かなくなって、未成熟な民主主義が圧殺されたということになるんでしょう。

しかし、本当にそうなんでしょうか?

上記の経緯を見れば、大正デモクラシーと昭和の軍国主義がこうまで年代的に近接している真の理由は、両者の関係が実は「原因と結果」だからじゃないんでしょうか福田和也『昭和天皇 第四部』)。

やっと終わった・・・・・・。

最初取っ付きにくいが、じっくり読むと有益なのは前著と同じ。

しかし前著を読めば、強いて取り組む必要は無いか?

1930年代初頭の政治史の比較的詳細な見取り図を得ることはできるが・・・・・・。

この記事で、興味の持てそうな部分があれば、手に取ってみて下さい。

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佐々木隆 『明治人の力量  (日本の歴史21)』 (講談社学術文庫)

同シリーズ20巻鈴木淳『維新の構想と展開』の続き。

「不羈独立」をキーワードにした明治後半(1889~1912年)の歴史。

最初の方に以下の文章有り。

なお近年、「国民」「民族」「国家」などはある種の政治的意図をもって作為された概念だとして、「国民国家」の虚構性をことさらに強調し、否定的に捉える議論が流行している。「家」「家族」なども槍玉にあげられているようだ。しかしながら大多数の人々が受け容れ認め、信じ目指したものは、仮に究極的にはそれが共同幻想であり虚構であっても「歴史的現実」に他ならない。そもそも人間社会の制度・規範・諸価値は、すべて「幻想」であり「擬制」である。「個人」「自由」「人権」などの近代的価値についても検証した上で議論しないのは不公平かつ知的怠慢というものであろう。

この文章だけで、本書を読む価値があります。

全く同感。

今、何よりも相対化すべき価値は「自由」と「民主主義」であり、それを享受する資格がある自分たちだけで社会を永遠の進歩の過程に載せることができると考える民衆の固定観念のはず。

なお、明治政府の「超然主義」について、(1)全党排除型、(2)全党参加型、(3)良民政党型、(4)国民政党型という四つの類型を提示し、通常、政党を通じた国民の政治参加拒否と解釈される超然主義は、それ自体が目標なのではなく、「不羈独立」→「富国強兵」→「公正な政治運営」→「超然主義」という重層的目標の一部であり、恒久的理念でもなく時限的概念だったと指摘し、それを実際の史実描写の中で表現している。

普通対蹠的に扱われる明治憲法と現行憲法について、制定当時の国際社会への参入条件という外発的事情による拘束、設計主義的性格、一種神聖視される硬性憲法であること、制定時の外国人の関与と非公開性(このうち前者の点では旧憲法の方がマシ)、実際の条文と運用の乖離(旧憲法の天皇大権と新憲法の戦力不保持)など、数々の共通点を持っているとの指摘には思わずニヤリとしてしまう。

この天皇不親政という不文律と実際の条文のズレを埋めるための重要な柱が元老の存在だったわけだが、その資格が維新と明治国家建設への貢献という一回性の現象に拠っていたため、旧憲法は元老の死去・消滅という時限爆弾を抱えていたと評されている。

元老の名前は全て憶えましょう。

まず長州から伊藤博文山県有朋井上馨

薩摩から黒田清隆松方正義西郷従道大山巌

まずこの7人の名がすぐ出てくるようにすること。

彼らが、20世紀に入って、1901年第一次桂太郎内閣成立とともに政界の第一線から退きつつも、首相選任権を行使して大きな影響力を保持し続ける(後述の通り、黒田のみはそれ以前に死去している)。

それ以前には、「元老」ではなく「元勲」と呼ぶのが普通。

本書によると、他には、長州の山田顕義が元勲、公家の三条実美は準元勲扱い(両者はそれぞれ1892年、91年に死去したため元老には数えない)。

以後、元老には長州閥で山県直系の桂太郎と、公家出身で伊藤博文から政友会を引き継いだ西園寺公望が加わる。

1885年内閣制度設立以来、20世紀までの首相は、1898年の第一次大隈内閣以外、全て上記7人のうちから選ばれた(自ら組閣しなかったのは井上・西郷・大山)。

1901年から明治末年までは桂園時代なので、結局元老は「(大隈重信を除いて)明治時代に総理大臣になったか、なってもおかしくなかった人」ということになる。

史上、9人しかいない。

(本書では大隈も元老に追加されたと書いてあるが、それは他の本ではあまり聞かない。)

よく知られているように、この元老には、憲法その他、いかなる法的根拠もありません。

しかし、こういう「非民主的な重石」が消えると同時に、議会政治が崩壊に向かったんだから、意図的にそうした存在の継続を保障することが必要だったんではないでしょうか。

著者は、明治の「建国の父たち」が死去していき、「建国者の息子たち」がそれに劣る権威しか持てなかったのは不可抗力でやむを得ないとしているが、首相経験者が「重臣」という曖昧な形ではなく、確固とした地位を占めて議会・軍部・世論の上に立つという体制にならなかったものかと考えてしまう。

あと、具体的史実に関する叙述から、気になったものを以下抜書き。

大成会・国民協会・帝国党・大同倶楽部・中央倶楽部という吏党が唯々諾々と政府に従ったのではないことが印象的。

有名なのは、日清戦争直前、第二次伊藤内閣と自由党の接近に反発して、改進党と国民協会が協力して政府を攻撃した、「対外硬」派連合で、これは教科書に載っている。

首相権限が縮小した1889年の「内閣官制」(伊藤博文についてのメモ その1)は、年代から言って、同年成立の第一次山県内閣で制定されたと私は考えていたのだが、本書によると、黒田内閣と山県内閣の間の暫定内閣である三条実美内大臣兼任首相時期の制定だとのこと。

これは、しかし・・・・・細か過ぎるか。

この暫定内閣自体、めったに出てこないし、軍部大臣現役武官制・文官任用令改正・文官懲戒令および文官分限令制定と並んで、山県内閣の施策として憶えてもいいかと思う。

外交面では、明治国家の成立当初から続いていた厳しい国際環境が義和団事件を機に好転していく様や、日本の独立を十全に保障できる形での日露戦争回避の可能性は極めて少なかったとの判断(この点伊藤之雄『伊藤博文』と異なる)、ハリマン計画を受け入れて満鉄経営にアメリカが参加していたとしても、同時に同国が西太平洋でのシー・パワー拡張と覇権確立を目指している以上、日米対立を回避することは不可能だっただろうとの見解が興味深い。

内政に話を戻すと、いわゆる「藩閥」の系譜について。

長州閥が、政党への態度によって、山県系と伊藤系に分裂。

山県系は官僚政治家の大部分と長州系陸軍軍人が参集、日清戦争後には郷党色を超えて保守的勢力を結集した「山県系官僚閥」というべきものに進化。

伊藤系は立憲政友会という大政党を生むが、政府・官僚内においては大きな勢力にならず。

一方、薩摩閥は1900年黒田清隆死後、黒田派は解体、松方派も求心力が弱く、多くの人材が山県系に合流、海軍と警視庁、および両者に劣るが陸軍でもそれなりに有力な人脈が存在したが、上記の事情により日露戦争後には「薩派」と格下げして呼ばれることが多いとの事(ということは、黒田も桂内閣成立以前に他界しているわけである。でも元老から黒田を外すようなことはまず無い。なお、他の本では黒田が健在な時期でも「薩派」と書いているのを読んだ覚えがある)。

また、第二次内閣における日韓併合と大逆事件のマイナスイメージが大きい、桂太郎について、その立憲主義と社会政策上の功績を高く評価しているのが注目される。

素晴らしい。

前巻とは打って変わって、政治史と外交史中心で、昔ながらのオーソドックスな通史という印象だが、どの概説書および伝記作品にも劣らない内容を持っている。

100%の確信を持ってお勧めできます。

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引用文(西部邁8)

西部邁『大衆への反逆』(文芸春秋)より。

経済成長は虚妄であるということについて貴方に同意してもらわなければならない。なぜなら、それは、市場における金銭計算以外の何ものをも意味しないからである。経済成長は福祉の手段にすらなりえない。なぜなら、目的(福祉)と手段(成長)とは内面的にも結びついているのであって、経済成長という手段を公認すれば、そこから思いつく目的は(手段の性質に相応した)市場的富の増大にすぎない。市場的富が技術的次元をこえた価値をもちうるのは、それが人々の(文化的)価値観、(社会的)慣習・伝統および(政治的)イデオロギーと合致している場合である。もちろん、市場の金銭計算においてたたき出されてくる数字そのものが価値であり、慣習であり、イデオロギーであると人々がみなすような状況も考えられる。むしろ、現実はそうした徴候を露わにしつつあるといえよう。

 

しかし、この種の心性は健康であろうか、それとも病的であろうか。それを判断する基準などア・プリオリにあるわけがないという意見がむろんありえて、それによって、現在において人々が価値だとみなしているものが価値なのだという刹那主義の立場が強められもしよう。ただ、私には、次のような想像が思いのほかリアルである。つまり、まったく仮の話であるが、もし、われわれの祖先が生き返ってきて、われわれの生活をみたら、かれらのうちの相当の部分が、自分たちが精神病院に舞い降りたのだと思うにちがいない、という想定である。貧窮のうちに四〇歳で生を終えた農奴ですら、自分の子孫がカップヌードルを食し(私も妻が病気のときは子供といっしょにウマイ、ウマイとほおばるのだが)、夜十一時をすぎれば裸身の女たちの映る小さな四角い画面に見入り(私は、ごく最近になって、テレビを放逐することに成功したのだが)、翌朝となればけたたましい自動車の騒音と満員電車の押し合いへし合いのうちに顔も心も体も歪ませているという様を見やれば、哀れな子孫のために涙するのではないか。

 

ある価値観を絶対視することは危険であり煩わしくもあるが、あらゆる価値を極端にまで相対化してしまうのもどうかと思う。エドワード・ミシャンという経済学者が、「失楽園」と「スーパーマン物語」のあいだに質の高低・優劣をつけるべきではないという類の価値相対主義を批判したそうだが、私もその批判に同意せざるをえない。シェークスピアの劇は、よほどにこれ見よがしの演技の場合は別として、やはり、ストリップ・ショウよりも高級なものだとしなければ、演劇の概念やそこにおける秩序すら不明になるのではないか。経済成長の生み出してきているもののうちには、公害などの負の財はもちろんのこととして、いわゆるgadget(ちょっとばかり工夫をこらした、主としてメカニックな、しかしガラクタとよばれても仕方ないような附属品)が多すぎるのである。その生産・流通・消費のために有限の資源が費消され、社会がいっそうテンスになり、おまけに大衆の選好が低級になっていくのだとしたら、経済成長の意味を懐疑しない方が不思議なのである。かりにわれわれの子孫が未来から帰ってきてわれわれと対話するとしたら、われわれを呪うものも少なくないであろう。先祖はもういないし、子孫はいまだにいないという現在だけをみれば、何ひとつ憂うべきことはないと貴方がいうのなら、私は次のようにいいたい。過去から未来を回顧・展望し、そして他者と自己との広い繋がりを意識せざるをえないところに人間の特徴的条件があるのであって、その能力を喪失する傾向はやはり狂気の症状なのだ。狂気といって言いすぎであれば、極楽蜻蛉だということである。

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引用文(西部邁7)

西部邁『大衆への反逆』(文芸春秋)より。

マルクスの暗さ

私がマルクスの著作とふれあったのはごく短い期間であった。そのせいか、彼のことを想い起こそうとすると、まず念頭を横切るのは彼のあれこれの言説ではなく、それらの総体によってかもしだされている雰囲気である。マルクスをつつむ鬱陶たる気配が今なお私の心によどんでいる。「ここ二十年来、マルクス主義の影は歴史を暗くしてきた」とサルトルはいった。しかしそれは、スターリンに代表されるようなマルクス主義者たちの暗さのことであった。私には、マルクスその人が、明るさよりも暗さのなかに、快活よりも苦悩において、そして解放よりも幽閉のうちに生きていたように思える。彼がブルジョア社会にたいしにえたぎる敵意をもっていたからそうしたマルクス的の症状が生じたのだ、といいたいのではない。マルクスのもつ桁外れの真面目さ、それが彼の肖像を無彩色にみえさせるのである。

「今日まで、ある世紀が自己自身を、また存在のすべてを、物々しい真面目さで受けとったことがあったとすれば、それはこの十九世紀にほかならなかった」。このホイジンガのいう意味において、マルクスは前世紀の典型といえよう。彼の著述のところどころに諧謔や機知が顔をのぞかせてはいる。しかしそれすら、犬儒の臭いによって相殺されているのだ。ケインズは「他の新興宗教と同じように、レーニン主義も、日常生活からその色どりと娯楽と自由を奪い去り、そのかわりに、その帰依者たちにまったく無表情な顔をした単調な代替物を与えているように思われる」と記している。同じことがこの宗派の始祖マルクスにもいえるのではないか。“遊び”の要素がはなはだ少ないのである。私もケインズにならって、マルクスのもつ「雰囲気の緊張度は、人が普通に耐えられる範囲を超えており、ロンドンの軽薄な気軽さが恋しくなるほどである」といいたくなってしまう。

マルクスがみたと思ったのは、物質的安楽という日常平俗のことがらを「自由・平等・所有・ベンタム」の名の下に聖化するブルジョアの世紀であった。この新時代にたいする驚きと怒り、こうした自分の感情とマルクスは真面目にとりくんだのである。彼にとって、いわゆる価値形態をときあかすことは、商品物神に魅入られた資本主義の神話と、その神話のうえになりたつ市場交換の儀式とを解釈することであった。その神話の語り部であり、その儀式の司祭でもある経済学を批判することをつうじて彼は近代の幻想をあばこうとしたのである。この幻想は、印度のジャガンナート神の山車のように、幻覚におぼれるものたちを無残にひき殺してゆくとマルクスは想像した。その思いは彼にとって受苦であり、その極まるところ、「大切なのは世界を解釈することではなく、それを変革することだ」という真面目なテーゼが出てきたわけである。

世界は人間の「自己疎外」にあふれていると彼は考えた。つまり、自分の活動が自分にとって疎遠なものになってしまっているというのである。そして世界は「物象化」につらぬかれていると彼は考えた。つまり、人間の意識が物のごとくに制度化されて、その結果、人間の「類的本質」の発揚が妨げられているというのである。疎外からの解放そして物象化の克服、マルクスの世界変革とはこのことらしい。このおそろしく真面目な提案が私をほとんど窒息させる。疎外や物象化から自由になった自分を想像することなぞ、私にはできない。

ざっくりいえば、どんな文化も幻想の産物なのであり、幻想であるとわかったからとてどうなるものでもない。むしろ、「自己が失われたと感じる能力およびその不快感は、人間の悲劇的な宿命であり、輝かしい特権でもある」(オルテガ)と考えるべきではないだろうか。“遊び”とはこの宿命に身をゆだね、この特権を行使することなのだと思われる。少なくとも真剣な遊びには、たとえば真剣な言論戦におけるように、厳格な規則がつきものであり、そしてその規則が私たちを束縛する。その束縛にすすんで応じることによって、かえって非日常の遊びを創意ゆたかに演じることが可能になる。このおそらくは受苦と享楽が相半ばする遊びのなかで、私たちの奇態な能力に、つまり生物学的には過剰とも異常ともいうべき幻想の能力に、捌け口が与えられ、そして限界が画される。

しかし、“遊び”の概念をかるがるしく弄ぶのは危険である。前世紀が遊びを極小化したのにたいし、今世紀は遊びを小児病化しているというのがホイジンガの診断であった。「たやすく満足は得られても、けっしてそれで飽和してしまうことのない、つまらぬ気晴らしを求めたがる欲望」に今世紀はひたっている。要するに、人々は真剣な遊びに退屈するか、あるいはどう真剣に遊んだらよいかどうかわからなくなっているわけである。これがブルジョア的安楽の帰結なのだとしてもマルクスの真面目さ、そしてそれに何層倍かするマルクス主義者たちの真面目さが、遊びの能力を減退させるのに一役買ってきたのだと思わずにはおれない。

ただ、怠惰な遊びと真剣な遊びを区別するのはむずかしい。そうである以上、どうすれば遊びの小児病化をふせぐことができるかは厄介な仕事となろう。ひょっとして、物々しい真面目さで振る舞うのが遊びの小児病化に抗するための最後の真剣な遊びなのだろうか。もしマルクスの真面目さがすでにそうした覚悟もしくは諦観にもとづいていたのだとしたら、私ごときマルクス知らずが口をはさむ場合ではない。

マルクスの風貌には黒く底光りする迫力がある。それにあえて類型を与えてみれば、戦闘的無神論者の顔相とよぶのが適切なようである。いわゆる科学的社会主義の理論なるものもこの戦闘的無神論の信仰とはりあわされてはじめて、革命の舞台にのりだすことができたのだと思われる。

いうまでもなく革命家たちの思惑どおりに事態が進んでいるわけではない。東ヨーロッパで教会が庶民の集会所になっているというのは、単に、共産党の官僚支配からの避難所というような意味合いにおいてばかりではないだろう。そこでは、どれくらい明瞭に意識されてのことかは知らぬが、神の存在をめぐる信仰と懐疑が魂の奥底で今もうごめいているのではないか。「恐怖は神々をつくれり」(ルクレティウス)というのが無神論の出発点である。そして、恐怖が誰かの迷妄もしくは作為によって捏造され強制されたのだとみなし、したがって次に、迷妄からの覚醒と作為の除去を決断したとき、無神論は戦闘性をおびる。マルクスの迫力とは、良くも悪くも、そのことである。

彼にとって、国家もまた神々の祭壇にあって、いずれ破棄されるべきものであった。国家は、支配の恐怖とその恐怖を正当化するための支配階級のイデオロギーによってつくりだされた、というのである。なるほどそうかもしれない。しかし、支配が支配者の恣意に発しているとみなす点で、彼は軽率であった。

「幻想的普遍的利害」という虚構のうえに国家が成り立つというマルクスの見方は正しいであろう。だが、その幻想は支配者の恣意によってつくられたものだろうか。そして、それを虚構として投げ棄ててよいのだろうか。もしそうなら、国家は支配のための抑圧装置、つまり“機械としての国家”にすぎぬということになり、私もまた「国家の死滅」というマルクスのテーゼに賛同しなければならない。

社会主義諸国の実例がいやというほど示してくれているように、国家の死滅をめざした人々が機械としての国家をより完備させている。このような国家が、やがて、「社会の髄まで吸いつくした後は、痩せおとろえ、骨だけになり、命ある有機体の死よりもはるかに気味悪い、あの錆びはてた機械の死をとげる」(オルテガ)のかどうか、先のことは私にはわからない。

いずれにせよ、社会主義の現在は歴史の大きな皮肉である。これを世界状勢やスターリン主義やらのせいにする前に、マルクスの国家観そのものを疑ってみてよいだろう。戦闘的無神論が一種の過激な宗教であるのに似て、国家死滅論がその強化論を招いているのかもしれないからである。

このようにいうときに危険なのは、社会主義を批判することによって、リベラル・デモクラシーの現在を安直に弁護しようとする護教論が頭をもたげることである。さらには、民族や国民が、うるわしい人倫・習俗によって、国家が命ある有機体のごとき連帯の下にあるとする古びた幻想を蘇らせることである。私のみるところ、高度大衆社会におけるリベラル・デモクラシーは、勝手気儘の自由と多数決の民主とのために、少しずつ擬似独裁への傾きをつよめつつある。また、“生命としての国家”という考え方が個人の生命をおびただしく傷つけてきたことも、私は知っている。

マルクス的無政体、ロック的政体そしてヘーゲル的国体のあいだの比較はあってしかるべきだろう。そのうちいずれかを採れといわれたら、いやいやながら、私は自分をロックの徒に、つまりリベラル・デモクラットに分類したい。自由民主がひとつの幻想であるとは承知しているが、マルクスの階級国家の死滅とかヘーゲルの有機体国家とかといった過激な幻想に身をまかすほど、私の体質は強靭ではない。

しかし、こんな比較よりも、三者の根本における同一性の方が気がかりである。それらはみな、人間というものにたいする希望と信頼を前提している。もしくは偽装している。要するにヒューマニズムの信仰に立っている。それはたぶん、キリスト教の流れにおける原罪説の否定であり、人間学の流れにおける性善説の肯定ということなのだろう。

むろん、原罪説や性悪説をふりかざすのは馬鹿気ている。ただ、国家の体制そしてそれを支える法という禁止の体系は、人間にたいする五割の絶望、五割の不信のうえに成立つものではないだろうか。ホッブス流にいえば、人間が人間にたいして狼でありうること、シュミット流にいえば、政治が友と敵との闘いにみちていること、そしてオルテガ流にいえば社会が人間にとって地獄でありうること、国家の片足はこうした残忍な事実のうえにおかれている。この恐怖すべき事実はほかならぬ私たち自身の幻想のうちにあるのだから、国家の死滅や国家の繁栄どころの話ではないのだ。

国家幻想をふくめあらゆる幻想は、私たちの私たち自身にたいする希望と絶望そして信頼と不信が交わるところに発生する。この交差をつらねたのが私たちの幻想の物語(ストーリー)であり、それが同時に、人間の歴史(ヒストリー)なのだろう。この歴史に場所をもたないのが“何処にもない国”つまりユートピアである。

マルクス死後百年にまたしても確認しなければならないのは、ユートピアをつくろうとする戦闘精神が歴史によって復讐されるという、いくぶん悲しい真実である。

(毎日新聞 昭和五十八年二月二十一~二十二日夕刊)

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