石川晶康 『NEW石川日本史B講義の実況中継 5』 (語学春秋社)

このシリーズ、全4巻じゃなくて、文化史のこの巻を含め、全5巻なんですよ。

それでもって、これも一応買ったんですけどね。

嫌だ・・・・・。

頭痛くなってくる・・・・・。

人物と作品名・建物名・宗派名などの羅列がひたすら続く。

中宮寺と広隆寺それぞれの半跏思惟像の判別法として、頭に宝珠が2個載っているのが中宮寺で、宝冠を被っているのが広隆寺だとか、室町時代禅宗の京都五山が天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺で、それに加えて南禅寺が「五山の上」で、鎌倉五山が建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺だとか、大和の猿楽四座が金春座・金剛座・宝生座・観世座で、そのうちもともと結崎座といった観世座から観阿弥・世阿弥親子が出たとか、もう本当に頼むから勘弁して下さいという感じ。

(以上、確認したら結崎座の名以外は全部『詳説日本史』に脚注や図版・写真で載っている。)

他の巻に比べて、読物としての面白みに極めて乏しい。

漢字やその読み方も鬱陶しいことこの上ない。

一般常識として知るべきことが多く含まれているのは認めますが、とにかくキツイ。

やる気が全く出ず、ごく粗く読み飛ばしたのみ。

だから何も書くことが無い。

毎度毎度同じことばかり書いてますが、これで世界史より日本史の方が楽だと考える人の気が知れない・・・・・。

それとも私の感覚がおかしいのか・・・・・。

もう、ただそれだけ。

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石川晶康 『NEW石川日本史B講義の実況中継 4』 (語学春秋社)

3巻の続き。

範囲は大正から平成までの近現代史。

この巻でも引き続き内閣在任順のチェックを行うが、昭和に入ってからの内閣は他の本でかなり読んでいるので、とりあえず大正期のみを以下にメモ。([  ]←は与党・出身など。)

まず1912年が明治45年で、この年明治天皇崩御、大正天皇即位で大正元年、よって1911年を起点に何年経ったかで西暦を大正○○年に換算(あるいは西暦から11を引く)。

大正は15年間で、1926年まで。

大正天皇崩御が12月末なので昭和元年は一週間ほど。

昭和最後の64年(西暦1989年)も一週間でしたね。

寝坊して居間に下りて行ったら、家族が特別番組を見ていて、「ああ、とうとう亡くなったのか」と思ったのを思い出します。

閑話休題。

1911年  西園寺公望(第2次)[政友会?]  陸軍2個師団増設問題

1912年  桂太郎(第3次)[立憲同志会]  第1次護憲運動・大正政変

1913年  山本権兵衛(第1次)[政友会]  軍部大臣現役武官制廃止 シーメンス事件

1914年  大隈重信(第2次)[立憲同志会]  第一次大戦参戦・21カ条要求

1916年  寺内正毅[陸軍・超然内閣]  シベリア出兵・米騒動

1918年  原敬[政友会]  平民宰相・パリ講和会議  

1921年  高橋是清[政友会]  ワシントン会議

1922年  加藤友三郎[海軍・政友会]  山梨軍縮

1923年  山本権兵衛(第2次)[海軍]  関東大震災・虎の門事件

1924年  清浦奎吾[貴族院]  第2次護憲運動

  同年   加藤高明(第1次)[憲政会・政友会・革新倶楽部]  普通選挙法・治安維持法 幣原外交・宇垣軍縮

1925年  加藤高明(第2次)[憲政会]  政友会総裁田中義一、革新倶楽部合併

1926年  若槻礼次郎(第1次)[憲政会]  昭和改元

以上、期間が短いので覚えやすい。

年代と任期中の大まかな出来事を頭に入れる。

存続期間一年ほどの短命の内閣が多いが、大隈内閣・原内閣・加藤(高明)内閣がやはり重要。

これを機に政党史を整理。

板垣退助の自由党と大隈重信の立憲改進党という二つの系譜が1955年保守合同と自由民主党結成まで、ずーっと繋がっている。

1881年自由党・82年立憲改進党結成。

細かな経緯は省いて、1896年立憲改進党が進歩党と改称。

1898年自由・進歩両党が合併して憲政党結成(同年隈板内閣)。

すぐに解党して自由党系の憲政党・進歩党系の憲政本党に分裂。

憲政党が伊藤博文に接近、伊藤を総裁に1900年立憲政友会結成、この政友会は敗戦まで続く(指導者は伊藤→西園寺公望→原敬→高橋是清→田中義一→犬養毅[五・一五事件時]→以後省略[覚えなくていいと思う。ただしこれ以前の六人は要記憶。])。

ここまでで一区切り。

1910年憲政本党は立憲国民党に改称、1913年桂太郎を支持して立憲同志会を結成するが、犬養毅らはこれに反対して立憲国民党に留まる。

桂死後、同志会は加藤高明が指導、1916年憲政会と改称。

1922年犬養が革新倶楽部結成、清浦を支持して分離した政友本党を除く、憲政会・政友会・革新倶楽部の護憲三派が24年加藤高明内閣を成立させる。

25年政友会総裁に田中義一、革新倶楽部併合。

第1次若槻憲政会内閣が倒れた後、田中政友会内閣時代の1927年憲政会と政友本党が合併して立憲民政党結成。

これでやっと政友会・民政党の二大政党が揃うが、1932年の五・一五事件までの5年(加藤内閣から数えて8年)しか政党内閣の時代は続かない。

昭和の内閣についてはまたの機会に。

この巻も、まあいいんじゃないでしょうか。

後半になるにつれ、他の本で読んだ部分が多くなり、内容が粗く退屈に感じるが、これは個人的感想に過ぎないでしょう。

受験生だけでなく、社会人が日本史を復習するために十分使える本だと思います。

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引用文(タルド1)

ガブリエル・タルド『世論と群集』(未来社)より。

・・・・・パリ・コミューンの際にも、おなじような例が見られた。最後の週に、囚人たちはヴェルサイユ宮につれてゆかれ、群集にとりかこまれた。リュドヴィク・アレヴィによると囚人のあいだには「かなり美しい娘がいて、後手にしばられ、赤いラシャを二重にした将校用の頭布つき合羽にくるまれていた。髪毛は乱れていた。群集は、『大佐夫人、大佐夫人!』と叫んだ。この騒ぎに、娘は頭をもたげ、嘲笑をもってこたえた。するとそこらじゅうから『死刑!死刑!』という大きな叫び声があがった。すると一人の老人が『むごいことはいけない。なんといっても相手は婦人じゃないか』と叫んだ。一瞬のうちに、群集の怒りはこの老人に集中した。みんなが彼をめがけて押しかけた。この群集こそ、火つけもいとわぬコミューン派の暴徒だ。老人は生きた心地もなかった。ところが、突然、甲高い声がひびいた。パリ野郎の陽気な、人を食った声である『お年寄りをいじめちゃなんねえぞ。あの娘っ子はこのおっさんのスケなのさ。』とたんに、老人のまわりは笑いの渦だった。彼は助かった。・・・・・群集はこのうえなくはげしい憤怒からさえ、あけっぴろげの陽気さへ、それもまさに一瞬のうちにとび移った」。

この事件の観察記録は、はじめから終りまで全部を引用する値うちがある。自分を殺害しようとする人びとをさえ物ともしないこの美しい女丈夫を、群集のなかの人びとがもしも一人きりで見たのだったら、その人がフランス人であるかぎり、彼女への讃美の念しか示さなかったろうことは確かだ。ところが集合していると、彼女への怒りしか感じなかった。彼らは、彼らの集団的なうぬぼれ――きわめて高い程度にまで高められ、過大になっていた彼らの異常なうぬぼれ――へ冷水をかけたこの勇敢な嘲りしか気にとめなかったようだ。ド・スタール夫人はその著『フランス大革命考』のなかで、「民衆のあいだにある傷ついたうぬぼれは、われわれのうぬぼれがもつ移ろいやすいニュアンスとは似ても似つかない。それは、人を死刑に処そうとする欲求である」と述べている。至言である。しかし実際には、うぬぼれへの強度の、あるいは軽度の打撃のために、殺人をのぞむまでに激化し、尖鋭になるのは、人びとが集団をつくっているばあいで、彼らが個人でいるときではない。しかも、単に集団一般のばあいというだけでなく、学識経験を積んだ上流人の集団でさえ、すべて例外ではない。集会は――たとえばすぐれた議会主義のたてまえをとる集会でさえ、弁士に侮辱されると、激しやすい性質のとりこになって、怒りゆえの殺人という光景をときとして演じてしまう。

どんな点からみても群集は、そしてもっと一般的にいうなら組織と訓練を欠いた集合体は、その構成員の大部分よりも移り気で、忘れっぽく、だまされやすく、残忍である。そういう状態にいる自分を想像するのはいつでもつらいものだが、証拠のほうはどんどんふえている。しかし、人びとはその事実を注視しようとさえも考えなかったようだ。

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ガブリエル・タルド 『世論と群集』 (未来社)

『正統の哲学異端の思想』の引用文で本書の存在を知る。

著者のタルドの名前は、それ以前にも聞いたことがあったような気がするが、よく覚えていない。

原書の初版は1901年で、時代的にはギュスターヴ・ル・ボン『群衆心理』の少し後に出た本。

全三部に分かれており、まず第一篇で、実際に同一の場所に寄り集まり肉体的接触を持つ集団である「群集」と、それぞれバラバラの場所に存在しながら新聞ジャーナリズムや通信・交通手段の発達によってあたかもひとかたまりの集団のように運動する「公衆」を区別している。

タルドは、公衆が群集と同じように、しばしば狂信的で暴力的行動に走ることを認めながらも、相対比較で言えば、公衆は群集よりも理性的で穏健な傾向があるとしている。

これについては、20世紀以降の歴史を見て、ちょっと楽観も度が過ぎるんじゃないですか、と言いたくなる。

第二編は、公衆が形成する世論とその土台となる個々人の会話についてあれこれ書いてある。

難しくはないが、内容は特にどうということもないので軽く流す。

第三編は犯罪群集と犯罪結社で、フランス革命やパリ・コミューンだけでなく、平時においても群集が犯した犯罪的行為を、無政府主義者の起こしたテロリズムと共に、いくつかの例を挙げて描写している。

比較的短くて、楽に読めるのは良い。

ただ内容については、期待したほどではなかった。

一読して損をした気は全然しないが、ル・ボン『群衆心理』とは違い、必読の書とまでは言えないと思います。

・・・・・群集は、起源においても、またそのほかの諸特性においても、きわめてさまざまだけれども、いくつかの点ではまったく似かよっている。すなわち、おどろくべき不寛容。グロテスクな高慢。病的な神経過敏。みずからの全能という錯覚から生れる狂的なほどの無責任ぶり。たがいに興奮させあった度はずれの動揺から生ずる、節度感の完全な喪失など。憎悪と賞讃とのあいだにも、嫌悪と熱中とのあいだにも、ばんざいという叫びとくたばれの叫びとのあいだにも、群集にとっては中間がない。ばんざいといえば、ばんざい千代に八千代にというわけだ。そこには神にも似た不死への願望と、なにかを神に祭りあげようとするきざしがある。しかもこの神格化を、永遠の呪いに変ずることも朝めしまえである。

さて、これらのたくさんの分類や考察は、指摘した諸特徴がいささか漠然としているにもせよ、さまざまな公衆にもまた適用できる。群集とおなじく公衆もまた、不寛容で、高慢で、のぼせがちで、生意気である。そして世論の威を借りれば、自分に反対するものは、真理でさえもすべて自分に屈服すると信じこんでいる。精神的交流が活発化したため、集団意識や公衆意識が、とりわけ群集意識が、現代社会にひろまるにつれて、節度感のなくなっていくありさまが目につく。人物なり作品なりを、賞めすぎるにせよ、くさすにせよ、まったくもって考えなしだ。文芸評論家さえ、読者らのこの傾向に追従するから、もはや評価をぼかしたり、やわらげたりはできない。彼らとしても、はやしたてて迎えるか、さもなくばみんなの面前ではずかしめる。サント・ブーヴのような、まばゆいほどの批評が聞かれた時代から、なんと遠ざかってしまったのだろう!この点では、群集も公衆も、いささかアルコール中毒患者に似ている。そして、じっさい、度のすぎた集団生活は、頭脳にとっておそるべきアルコールである。

・・・・・群集は最悪の指導者たちをむしろ選んで服従するというだけでなくて、最悪の指導者たちから発するいろいろの暗示のうちの、最悪の暗示をこそ選びかねない。なぜか?ちょうど、いちばん遠くまで音の響く鐘が、けっしていちばん甲高い鐘でもいちばん音色の澄んだ鐘でもなくて、要するにいちばん大きい鐘であるのに似て、いちばん伝染しやすい感情や思想は、いちばん強烈なやつだからである。さらに、いちばん強烈な思想とは、判断力よりは感覚に訴えるような、いちばん偏狭で、いちばん不正なやつだし、いちばん強烈な感情とはいちばん利己的なやつだからである。真実の抽象的概念よりも子供っぽい夢物語が、また推論よりは直喩が、先入主の放棄よりは一人物への盲信が、群集のあいだでずっとひろがりやすい理由はここにある。尊敬の念を捧げて楽しむよりは中傷する喜びに専念し、義務観念よりはおしゃべり好きの傾向が強く、歓呼よりは嘲笑のほうがずっとたやすくひろがり、勇気から飛びだすより恐慌におびえて暴発することが多いのも、みんな理由はここにある。

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川田稔 『浜口雄幸と永田鉄山』 (講談社選書メチエ)

今年の4月刊。

第一次世界大戦という大変動を受けて、国際協調主義に徹した代表的政党政治家と、総力戦体制確立にすべてを賭けた統制派軍人を対照的に描き出した本。

以下、年表風の内容メモ。

1924年第二次護憲運動の結果、加藤高明護憲三派内閣(憲政会・政友会・革新倶楽部)成立(外相幣原喜重郎・27年まで在任)。

(同年欧州ではドーズ案が成立し、以後五年間の「相対的安定期」に入る。偶然だが日本の政情と欧州情勢がリンクしているようにも見える。)

1925年加藤憲政会単独内閣、宇垣軍縮(陸軍四個師団削減)。

1926年加藤死去、若槻礼次郎憲政会内閣成立、12月大正天皇崩御、昭和改元、中国では蒋介石が北伐を開始。

1927年金融恐慌、若槻内閣総辞職、4月田中義一政友会内閣成立、上海四・一二クーデタ、第一次山東出兵、6月憲政会と政友本党が合併し立憲民政党結成、浜口雄幸が総裁。

同27年陸軍内の長州閥打破・総動員体制に向けての軍制改革を目指す陸軍中堅幕僚が二葉(ふたば)会結成。永田鉄山・岡村寧次(やすじ)・小畑敏四郎・板垣征四郎・河本大作・東条英機・山下奉文ら。

同年木曜会も結成。鈴木貞一・石原莞爾・根本博ら。永田・岡村・東条も会員。

1928年張作霖爆殺事件。第二次山東出兵・済南事件、パリ不戦条約調印、12月張学良が国民政府に合流(東三省易幟)、北伐完了。

1929年7月田中内閣総辞職、浜口雄幸民政党内閣成立(外相幣原・蔵相井上準之助・陸相宇垣一成)、世界恐慌。

同年木曜会と二葉会合流、一夕(いっせき)会結成。武藤章、田中新一なども加わる。宇垣を中心とする長州閥打破・人事刷新、満州問題武力解決、荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の非長州系三将官擁立などを主張。

別に橋本欣五郎らの桜会結成。

1930年金解禁・昭和恐慌、ロンドン海軍軍縮条約、統帥権干犯問題、中国で反蒋派の反乱(中原大戦)→張学良の支援などで鎮圧、11月浜口が東京駅で右翼団体構成員に狙撃され重傷。

外交面では非常な見識を発揮した浜口内閣だが、内政面では世界恐慌直後の最悪の時期に緊縮財政とデフレ政策を取って社会不安を昂進させ、急進的勢力を勢いづけたのが強く惜しまれる。

この時期野党だった政友会(総裁は犬養毅)の与党民政党攻撃は酷い。ロンドン条約での統帥権干犯を言い募るのは政党政治の自殺に等しい。高坂正堯氏が「大正末年から昭和初期の政党内閣時代の政友会は国益に反することしかしていない感がある」という意味のことを『世界史の中から考える』(新潮選書)で書いていたのを思い出す(もっとも民政党の方も田中内閣の不戦条約調印時には「人民の名の下に」という文言を捉えて政府攻撃をしているが)。

1931年三月事件(桜会のクーデタ未遂)、4月第二次若槻民政党内閣、9月18日柳条湖事件・満州事変勃発。

当時の陸軍首脳は、陸軍省では陸軍大臣南次郎、陸軍次官杉山元、軍務局長小磯国昭、軍事課長永田鉄山、補任課長岡村寧次、参謀本部では参謀総長金谷範三、総務部長梅津美治郎、第一(作戦)部長建川美次、作戦課長今村均、関東軍では高級参謀板垣征四郎、作戦主任参謀石原莞爾、奉天特務機関長土肥原賢二、朝鮮軍司令官林銑十郎など。

宇垣系の南陸相、金谷参謀総長を下部の一夕会系中堅幕僚が引きずる展開となっていく。

今村均という人は一夕会会員ではなく、後にジャワ島で現地住民の独立意思を尊重した穏健な占領統治を実現し、戦後の戦犯裁判で南洋で収監されている部下と共に服役し、釈放後も自宅庭の掘っ立て小屋で過ごして自らの責任を課したと聞いており、読んだ本のいくつかで非常に褒められていたが、そういう人でも当時は(ある程度は)拡大派だったのかと、複雑な気分になる。

十月事件、桜会の再クーデタ計画、永田ら一夕会系が同意せず、メンバーが保護検束を受けて失敗。

12月犬養毅政友会内閣成立、陸相は宇垣が推す阿部信行ではなく一夕会が擁立しようとした三将官の一人荒木貞夫に。

32年1月参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王、参謀次長に真崎甚三郎を据え、実権は真崎に。

宇垣に近い南・金谷系の杉山、建川が中央から追放。

ここまで書いて疲れました・・・・・・。

以後やや端折ります。

32年五・一五事件、斉藤実内閣成立、政党内閣時代終わる。

林銑十郎が教育総監就任、荒木陸相・真崎参謀次長と併せて一夕会が推す三人が事実上陸軍トップを占める事態に。

9月日満議定書、満州国承認。

33年3月熱河作戦、国際連盟脱退、5月塘沽(タンクー)停戦協定・満州事変終了。

この頃から一夕会系統内部での皇道派と統制派の対立が生まれてくる。

この陸軍内部の対立の経緯と人脈を述べている部分が、本書では一番役に立った(高橋正衛『昭和の軍閥』には、期待していたが、こういう記述が無かった)。

皇道派が近い時期での対ソ戦に積極的でそのため対中政策として現状の小康状態を維持しようとするのに対し、統制派は総力戦となることが必至の対ソ戦にはやや慎重で、その準備として華北・華中の資源獲得を目指したため対中強硬論に走り勝ちになる(対米戦については両派とも慎重)。

皇道派人脈は陸軍中央では荒木・真崎・小畑敏四郎・柳川平助・山岡重厚・山下奉文らでその下に隊付青年将校ら。

しかしこの両者はしばしば異なった理念と問題意識をもっており、例えば青年将校らが統制経済を主張したのに対し、真崎らはその種の国家社会主義には否定的。

当初、永田ら一夕会は、非宇垣系である真崎・荒木らを擁立して、陸軍の実権を掌握しようとした。だが、荒木が陸相となるや、逆に真崎・荒木は、一夕会における永田と小畑の個人的な対立に乗じて、一夕会の土佐系(小畑、山下、山岡など)、佐賀系(牟田口、土橋など)を一気に抱き込み、彼らを有力ポストにつけて皇道派を形成した。そのことによって一夕会に亀裂が入り、永田ら一夕会主流は、真崎・荒木らをコントロールすることが困難になり、皇道派がヘゲモニーを掌握することになったのである。・・・・・

一方、永田のもとには、東条英機、武藤章、・・・・・服部卓四郎、辻政信ら中堅少壮の中央幕僚が集まっていた。彼らがいわゆる統制派の中核となっていく。

その他、記されている人脈は、「永田に近い非皇道派一夕会メンバー」として板垣征四郎、土肥原賢二、宇垣・南系が建川美次、小磯国昭、阿部信行、「南系だが実務派」の梅津美治郎。

真崎らと疎遠になっていた林が統制派に担がれる形になる。

ちなみに、当時陸軍の有力な政治集団としては、永田らの統制派、真崎らの皇道派、南らの宇垣派の三派閥で、彼らが相互に陸軍の実権をめぐって、しのぎを削っていた。その他の実務型の軍事官僚は、横断的な集団を構成しておらず、個々のポスト固有の権限を行使しうるのみで、これら三派閥と一時的であれ連携しないかぎり、政治的な発言力をもちえなかった。実務型とはタイプが異なるが林もまた同様であったのである。

35年8月永田斬殺(相沢事件)、36年二・二六事件を経て、皇道派は中央から追放、宇垣派も力を失い、統制派とそれと相対的に近い非皇道派系一夕会員が主に残ることとなる。

長々と書きましたが、内容は穴だらけです。

我ながら、滅茶苦茶下手なまとめだなあと思います。

以上のメモはあまり信用せず、実際にお読み下さい。

浜口と永田を常に対比しながら叙述しているのかと思ったが、時代順に前半は浜口、後半は永田にページを割り当て、ごくごくオーソドックスに筆を進めている。

その分初心者でも取っ付きやすい形式。

教科書レベルのごく基礎的なことが曖昧にでも頭に入っていれば、十分読みこなせる。

文章は読みやすく、痒い所に手が届くといった感じの丁寧な叙述で、非常な好感を持てる。

戦前昭和期の前半十年間の政治史として、昭和軍閥の系譜を記した入門として、共に役に立つ。

かなりお勧めできる本です。

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臼井勝美 『満州事変 戦争と外交と』 (中公新書)

同じ著者の『日中戦争』(中公新書)がなかなか良かったので、これも手に取る。

北伐完了後も続く中国の混乱、満鉄(南満州鉄道)などの日本利権に対する圧迫、事変の先触れとして起きた1931年7月の万宝山事件と8月中村(震太郎)大尉事件、9月18日の柳条湖事件と満州事変勃発、奉天占領、11月チチハル占領、12月若槻礼次郎民政党内閣崩壊と幣原外交終焉、犬養毅政友会内閣成立、1932年1月第一次上海事変、錦州占領、2月ハルビン占領、リットン調査団来訪、3月満州国成立までが叙述範囲。

以下、気付いたことといい加減な感想の箇条書き。

本書は1974年刊なのだが、柳条湖事件が本文では「柳条溝」と書かれており、この時期にはまだそういう表記だったのかと意外に思った。

遼東半島先端の旅順・大連から瀋陽(奉天)を経て長春までが満鉄の路線。長春から北へ東清鉄道がハルビンまで延びハルビンを通ってさらに東西に敷かれている(この東清鉄道はロシアを継承したソ連が当時利権を持っていたはず)。チチハルはハルビンの北西。満州と中国本土・山海関の中間にある重要拠点が錦州。

事変を受けた列強の態度はしばしば揺れ動き、時には日本にかなり融和的。中国ナショナリズムが既存条約を無視した過激な利権回復運動を行なうことに欧米諸国も手を焼いており、それが上記のような態度に繋がったものと見られるが(マクマリー『平和はいかに失われたか』(原書房)など参照)、日本の軍事行動の拡大によって、そうした態度も変化してしまう。

関東軍などの、軍の不統制をありありと示す記述は読んでいて重苦しい気分になる。国際連盟での議論で日本側が中国は秩序ある近代国家ではなく、外国人の生命・財産を適切に保護することができず、それが今回の事態に繋がったと批判したのに対し、中国側が日本こそ自国の軍隊を統制できず、秩序ある国家の体を成していないと反論している(この話は他の本でも読んだ記憶がある)。後の日中戦争の泥沼化と無謀な日米開戦を考えると、もし仮に「大東亜戦争肯定論」のような立場に立つ場合でも、この点に関しては重々反省すべきではないかと思ってしまう。

しかもこういう軍の暴走は決して孤立した事象ではない。民衆世論の圧倒的支持を受けており、その意味では穏健な政党政治家や宮中側近グループよりも専横を極める軍の方が言ってみれば「民主的」である。以後も粗暴・矯激な多数派が穏健・中正な少数派を押し潰し続け遂に敗戦に至る。すると今度は世論の少なからぬ部分が、左寄りの、全く逆の教条に囚われ下から国家を揺さぶることになる。(数年ほど前にそれがやっと終わったかと思うと現在また方向だけを変えた、一昔前なら間違いなく左翼に行っていたような、頭のおかしな人達が暴れ回ることになっている。以前も書きましたが、全くバークは本当にうまいこと言ったもんです。)

半年以上前の朝日新聞の昭和報道特集紙面で、軍部・政治家・天皇・マスコミ・民衆のそれぞれに戦争責任がどれほどあると思うかというアンケートが載せられており、「民衆」に「大いに責任がある」という意見が確か3%くらいしかなかったのを見て、「ああ、また穢いもん見たな」と思いました。

日本だけでなくドイツもそうだと思いますが(村瀬興雄『ナチズム』ニッパーダイ『ドイツ史を考える』ドラッカー『傍観者の時代』等参照)、戦前の体制を危険なものとした要因と、それを抑制した要因が、一般的世論の中では全く逆に取り違えられているんではないかと感じられてならない。

(そんなこと偉そうに書くお前はどうなんだと言われれば、自分も似たような考えの偏りを経てきたし、これからもそうなんだろうなあと白状せざるを得ませんが。)

冒頭、1930年の中共紅軍による長沙占領と国民党の反撃、日本の国民党軍への好意的中立態度について記述されているが、これを読むと日中双方が民族感情を抑えて真の共通の敵たる共産勢力を撲滅するために協力するという展開になぜならなかったんだろうと慨嘆してしまう。

本書もかなり良い。

初級から中級レベルまでの史実を洩れなく取り上げ、極めてオーソドックスな形式で無難にまとめている。

同じ中公新書の、高橋正衛『二・二六事件』『昭和の軍閥』がやや程度が高く、取っ付きにくい本だったのとは違い、かなり読みやすい。

時代的に叙述範囲をもう少し前後に広げてくれれば、より良かったかとも思うが、このようにコンパクトな分量の方がいいのかもしれない。

初心者向けの良質な入門書です。

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根本敬 『アウン・サン 封印された独立ビルマの夢 (現代アジアの肖像13)』 (岩波書店)

「ビルマ独立の父」の生涯を中心にしたビルマ現代史。

まず冒頭でビルマとミャンマーという国名の問題について触れており、『謎の仏教王国パガン』での記述と同じく、改名を行なった軍事政権への態度とは関係なく、ミャンマーよりビルマが適当としています。

本題に入ると、独立運動の起源として、まず仏教青年会(YMBA)という組織が出来て、これを母体に1920年漸進的な穏健派団体としてビルマ人団体総評議会(GCBA)が結成される。

これに対して1930年、より若い世代の急進的ナショナリストたちが結成したのが、「我らのビルマ協会」、通称タキン党。

タキンというのは「主人」の意味で、党員同士が名前の前に付けて呼び合ったことから通称となった。

共産党の「~同志」みたいなもんでしょうか?

前者のGCBA系統の指導者は、1937年ビルマ統治法によりビルマがインドから分離した時にイギリス当局の下でつくられた政府首相となったバ・モオや、後に同じく首相となったウー・ソオなど。

後者のタキン党系統が、本書の主人公アウン・サンと、ウ・ヌー、バ・セイン、ネ・ウィンなど。

ただし、アウン・サンは党創始者ではなく、入党したのは38年。

ウ・ヌーと共にラングーン大学の学生運動で活動し、入党時若くしていきなり党ナンバー2の地位に就く。

39年タキン党内の党中党の形で共産党と人民革命党(後の社会党)ができる。

日米開戦前夜、アウン・サンは日本陸軍大佐鈴木敬司と接触、41年「南機関」と名付けられた組織で軍事訓練を受け、真珠湾攻撃後ビルマに進攻する日本軍と共に帰国。

1943年日本はビルマに独立付与、王制を主張するバ・セインを無視して、権限が集中した国家元首の地位にバ・モオを就ける。

アウン・サンも国防相として加わるが、強圧的な占領政策への反発や、敗戦直前の日本と「心中」して独立が無効になることを恐れ、1944年インパール作戦失敗後、「反ファシスト人民自由連盟」(AFPFL・ビルマ語略名パサパラ)を結成、抗日に転ずる。

それにより戦後もイギリスに独立勢力内の主導権を認めさせることに成功したアウン・サンだが、独立を目前にした1947年、ウー・ソオが放ったと見られる刺客により暗殺される。

暗殺された時、若干32歳というのに驚く(娘のアウン・サン・スー・チーは当時2歳)。

以後の歴史については、48年独立、短期間を除くウ・ヌー政権、経済不振・共産党武装闘争・少数民族反乱による国政混乱、62年軍事クーデタとネ・ウィン政権成立、社会主義計画党一党支配下のビルマ式社会主義と閉鎖的孤立的中立路線、88年アウン・サン・スー・チーらを指導者にした民主化運動とその弾圧、ソオ・マウン軍事政権成立、90年総選挙とスー・チー派の国民民主連盟(NLD)勝利、軍政の居座り、92年ソオ・マウン引退、タン・シュエ政権成立などを押さえておけばいいでしょう。

本書の刊行は1996年ですが、当時の状況からほとんど変化せず、現在に至るまで軍政が継続してしまっている。

類書が少ないビルマ史という分野で、手頃な内容と量なのは助かる。

結局この「現代アジアの肖像」シリーズは中国関係を除いて、刊行されたもの全てを読んだことになりますね(『李承晩と朴正熙』および『マルコス』は未刊)。

こういう現代アジア史の本で岩波刊となると身構える人がいるかもしれませんし、実は本書が一番その種の「岩波臭」を感じさせるのですが、本書を含め読むに耐えないほどの偏りを感じる、というものは一つもありませんでした。

東南アジアを中心にマイナー分野にも一冊を割り当てながら、長さは200ページほどとコンパクトにまとめられているのが非常に良い。

気の向いたものはどんどん手に取って通読されることをお勧めします。

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杉勇 『古代オリエント (世界の歴史1)』 (講談社)

次に何を読もうかと迷う。

手薄なカテゴリを補強しようと書名一覧を見渡して、やはりオリエントが弱いなと認識。

といって、特にいい本も見当たらず(見つけられず)、講談社旧版世界史全集の中のこれを適当に選んだ。

中公旧版の『古代文明の発見』、中公新版の『人類の起源と古代オリエント』および『オリエント世界の発展』、文春大世界史の『ここに歴史はじまる』、河出版の『古代オリエント』などは読了済み。

講談社旧版では他に『ペルシア帝国』の巻があるので、本書の叙述範囲はアケメネス朝の統一直前まで。

読み始めてみると、やはり先史時代の記述は砂を噛むようで辛い・・・・・・。

これは個人的趣味の問題なので、余程優れた特徴のあるもの以外、どの本読んでも同じだと思います。

だが、歴史時代に入っても大して変わらない。

歴史的人物の個性が発揮される物語が展開されるのではなく、考古学的研究に基づいた推測で都市名と王名がズラズラ羅列されるだけという印象。

全然面白くないが、これも時代の性質上仕方ないか。

しかし時代が進んだ、後半部に入っても同じ。

民族名と君主名の洪水が大量に押し寄せてくるような記述で相当苦しい。

はっきり言うと挫折しそうになったので、途中から精読するのを止めて、飛ばし読みに変更した。

折角なので、以下のような高校レベルの事項のみを確認(赤字は暗記した方が良いと思われる年代)。

まず、前3000年ごろという年代をチェック。

大雑把に言って、この頃エジプトのメネス王による統一国家とシュメールの都市国家が成立、これが一番最初の区切りになる。

古代エジプト人はハム語族、シュメール人は民族系統不明。

エジプトでは、前21世紀に古王国から中王国へ、前16世紀に中王国から新王国へ移行。

ヒクソスの侵入は、古・中王国間の第一中間期ではなく、中・新王国間の第二中間期。

シュメールの都市国家では、最初覇権を握った都市として本書の記述で頻繁に出てくるのはウルではなく、ラガシュ。

次いでウルクが少し出て来るだけで、ウルはアッカド王国滅亡後シュメール支配を復興させたウルナンム王のウル第三王朝時代まで目立たない。

私の誤読かもしれないが、上記河出版の『古代オリエント』でも似たような印象を持った記憶がうっすらとだがある。

前24世紀セム系アッカド王国(サルゴン1世)繁栄、一時ウル第三王朝でシュメールが復興した後、セム系アムル人の古バビロニア王国成立。

(ちなみにこれをバビロン第一王朝と呼ぶのは、個人的には馴染みが無くて嫌です。後述のカッシートのことをバビロン第三王朝と言うのも慣れない。)

古バビロニアでは有名なハンムラビ王の治世が前18世紀であるのを暗記。

前2000年ごろからインド・ヨーロッパ語族侵入、前18世紀にヒッタイト建国、前16世紀には古バビロニアを滅ぼし、他にミタンニ、カッシートも成立。

(この時期移動した印欧語族の一派がギリシア人で、前16世紀頃エーゲ文明のうちのクレタ文明を滅ぼし、代わってミケーネ文明を興す。)

この時期エジプトに侵入したヒクソスも印欧語族だと話は簡単なんですが、彼らは「アジア系遊牧民」とだけ教科書では書かれている。

ところで、本書の297ページにはこのヒクソスをミタンニ王国の多数派を構成していたフルリ人と見做す説があると書いてあって、「ええっ!?」と思った。

これは他の本で読んだ覚えがない(か忘れている)ので、本書の記述だけで鵜呑みにするのは危険な気がします。

前12世紀に民族系統不明の「海の民」が侵入、ヒッタイトが滅亡、エジプトも衰退。

(「海の民」とは妙な名前だが、固有名詞が無く他に通称も無いので、これ以外呼び様がない。)

この「海の民」はギリシアではミケーネ文明も滅亡させている(ギリシア史とオリエント史の対比のためこれは要記憶)。

高校時代ははっきり理解していなかったが、以後前9・8世紀にアッシリアが領土を拡大するまで指導的国家が無く、オリエントは小国分立時代と考えていい模様。

前13世紀末に地中海岸を震駭し情勢を大いに変化させた大民族移動は、政治や文化の状態を前後の時代とのあいだにはっきりと区別させることになった。内部的にはすでに衰えていたクレタ・ミケーネの文化も、ハッティ文化の向上した状態もこの大暴風雨のまえにまったく崩壊してしまった。ハッティの大帝国は滅亡し、ハッティ、バビロニアとの抗争を利用してその基礎をきずこうとするアッシリアの努力もたいした効果をあげるにいたらず、オリエント世界で四百年間政治上指導的地位を占めていたエジプトは、海上からの被害はデルタ地帯にとどまったけれども、文化的にはもえのこりの様相を呈し、しかも、このような激動のうちに新たに優位を占めようとする国もなく、前9世紀から前8世紀の半ばにかけてアッシリアがメソポタミア地方を統一するまでオリエントにはしっかりした体制は作られなかった。各地間の交易と戦争はないではなかったが、一般に各民族は約一世紀にわたり、いずれも孤立してしまい、諸国の歴史は疲弊しきった単調の中に経過した。それは小国家および地方にとっては平静なる生活の時期であって、こうした特質はアッシリア人が時々活動したにもかかわらず、根本的には変わらなかった。・・・・・・

しかしながら、大国の無力化によって小民族、小国家は自己の体制を固めながら、自由に発展しえたようで、フェニキアの商業と、民族の発展は航路の発見と開拓と植民地の建設をもたらし、またアラム人のシリア、メソポタミアへの伝播が可能となり、一方イスラエル人ならびにギリシア人は各々独立した精神文化を完成し各民族独得の宗教の勃興もこの時代の一つの特徴であった。

こうして前代とは異なった、個々民族の分立という点が前9世紀までの特徴となった。しかし、前8世紀の終わりにティグラートピレセル3世およびその子孫がアッシリア帝国を建設し、オリエントの世界の情勢はいちじるしく変わった。アッシリアは仮借するところなき峻厳な手段で、政治的に孤立した各民族をいたるところで滅ぼして一つの中央集権国家を完成した。

上記引用文の通り、この時期フェニキア・アラムの海・陸通商民族とヘブライ人という三つのセム系民族が間隙を縫って活発に活動。

前1000年頃という極めて切りのいい年代にヘブライ王国のダヴィデ王が即位したことを記憶しておくと便利(ちなみに中国では同じ頃殷周革命)。

なお本書の276ページには後に新バビロニアを建てたカルデア人は、メソポタミアに進出したアラム人であると書いてある。

確かに同じセム系民族だが、これも聞いたことが無かったので「本当かな」と思う。

セム系民族のアッシリアは前2000年頃北メソポタミアに建国してから細々と続いて、ハンムラビ王の服属国としても名が出てくるし、次いでミタンニにも服属。

前8世紀ティグラトピレセル3世時代から大膨張を開始。

新王朝を始めたサルゴン2世が前721年(教科書では722年)イスラエル王国を滅ぼす。

子のセンナヘリブを経て、孫のエサルハドンが前671年エジプトも征服。

その子が図書館(文書館)で有名なアッシュールバニパル(アッシュールバーンアプ)王で、この王の死後アッシリアは急速に衰退、前612年に都ニネヴェが新バビロニア・メディア連合軍によって陥落。

アッシリアによる史上初のオリエント統一が前7世紀前半、しかしその世紀の末にはもう滅亡と憶える。

その後の、印欧系のメディアおよびリディア、セム系の新バビロニア、ハム語族(ですよね?この時期も)のエジプトの四国分立の形成となるが、教科書で必ず載っている割には、この情勢は極めて短い期間存続しただけで100年も続いていない。

アケメネス朝のキュロス2世が、前550年メディアを、前546年リディアを、前539年(538としている本もあり)新バビロニアを滅ぼし、カンビュセス2世が前525年エジプト征服。

前500年とこれまた極めて憶えやすい年代にペルシア戦争が起こっているので、前612年のアッシリア滅亡から100年余りしか経っておらず、それを考えると歴史の展開が非常に速く感じる。

この四国対立時代のエジプトは昔、新王国だと思っていたが、前11世紀以降は普通「末期王朝」と分類するそうです。

なお、セム系新バビロニアの滅亡後はアケメネス朝ペルシア→ヘレニズム時代→パルティアおよびササン朝ペルシアとローマの対立という流れになるので、7世紀イスラムの誕生とアラブ民族の大膨張までの約一千年間、セム系民族は支配民族としては歴史の表舞台に出なくなると考えていいんだろうか。

(ユダヤ人はもちろん活動しているが。)

まとめ。

前3000年くらいに文明が成立して前2000年以後エジプト中王国と古バビロニア王国で(本書の表現では)オリエント古典文化の盛期を迎えるが、やがて印欧語族の侵入で分裂時代となり前1500年以降はヒッタイトとエジプト新王国が対立する形勢となるが、そこへ前12世紀「海の民」という民族大移動が重なってさらに混乱が数百年継続した後、7世紀にアッシリアのオリエント統一、短期間の四国分立を経て、6世紀にアケメネス朝ペルシアの再統一、前500年ペルシア戦争というのが、オリエント史の一番単純化された大きな流れ。

前3000年から、うまい具合に500年・1000年ごと区切って情勢を把握することが可能(特にエジプト史は)。

後は前24世紀アッカド、前18世紀ハンムラビ王などをイレギュラーで覚える。

前半はセム系、後半は印欧系の活躍が目立つ。

セム系民族は、アッシリアが大きな花火を打ち上げた後は舞台裏に退くようなイメージ。  

以上、高校世界史の復習のためにいろいろメモしましたが、本書の出来自体は、はっきり言ってよくありません。

やる気の出ない時にダラダラ読んだからかもしれませんが、一週間かけて飛ばし読みしながら、ようやく通読できた。

所々、上記引用文のような役に立つ視点が記されているものの、煩瑣な事実が工夫無く書き連ねてあるだけという部分が多過ぎる。

もともと苦手分野であることを差し引いても、初心者向けの平易で明解な入門書とはお世辞にも言い難い。

他の世界史全集に比べて、これを優先して読む理由はほとんど無いです。

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引用文(高坂正堯2)

高坂正堯『世界史の中から考える』(新潮選書)より。

・・・・・日本は近代国家への世界的な潮流にかろうじて間に合った。1860年代というのは異常な時代で、政治上の大変化が相ついだ。1865年に南北戦争が終わり、アメリカは真実に統一された。1866年にはイタリアが教皇領を残してほぼ統一された。通史ではイタリアの統一は1861年ということになっていて、それが間違いではないが、1866年までオーストリアはヴェネツィアなどをいぜんとして保有していた。それをオーストリアが失ったのは普墺戦争の結果なのである。同じ戦争の結果、プロシアはドイツの重要な部分を統一することに成功した。さらに、南部ドイツが統一されたのは、普仏戦争後の1871年である。一方、戦争に負けたオーストリアも1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国へと政治体制を変更し、近代化への歩みを開始した。しかし、それは結局挫折することになる。こうしてイギリスとフランスという早くから近代国家の制度を整えていた国を別として、その他すべての国が1860年代半ばに近代国家へと本格的に歩み出したことになる。

(高坂先生はここで触れていないが、1861年ロシアの農奴解放令もその一つの例か。)

日本の明治維新は1868年だから、同じ時代である。19世紀始めに日本人のだれがそのようなことを予測しえたであろうか。日本はぎりぎり――最近流行した言葉で言えば、“ジャスト・イン・タイム”just in time ――間に合ったのであった。私は、それが明治の成功の重要な理由であった、と思う。だれもそれを言わず、明治の人々の必死の努力を言う。たしかに、明治の人々はよく頑張ったが、最初に目立っておくれるならば、取り返しのつかないことが多いものなので、ぎりぎり間に合ったことが重要なのである。

前回記事で書いたように1867年を起点に西暦を明治○○年に換算すると、1894年日清戦争は明治27年、1904年日露戦争は明治37年である。

大政奉還から日清・日露の戦いまで、たった27年とプラス10年・・・・・・。

我ながら子供っぽい言い方だと思いますが、ちょんまげ結って刀挿して多数の藩に分かれて暮らしていた時代から四十年弱で、近代国家を完成させ、国の存亡を賭けた戦いに勝利。

現在から27年前が1982年、37年前が1972年。

そこから世の中、どれくらい良くなりましたかね。

上記引用文の高坂先生のような見解があるのは承知しつつ、とりあえず今まで警察のご厄介になったことがなくて一応働いて安い税金納めてる以外何の取り柄もなく、ただ、のんべんだらりと毎日暮らしている自分からすると、「やっぱり明治の人は偉かった」という感想を持つ。

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石川晶康 『NEW石川日本史B講義の実況中継 3』 (語学春秋社)

2巻から即座に続けて読む。

江戸中期から明治末まで。

教科書とは角度を変えた説明や、普通バラバラに出て来る事項を関連付けて解説したり、重点ポイントを記憶に残るように強調したりしているのは、この巻も同じ。

これと『詳説日本史』(山川出版社)の記述を行ったり来たりすると、かなり理解しやすい。

江戸時代では、「17世紀後半に入って3代将軍家光(武断政治)から4代家綱(文治政治)へ」とか、「1716年、家康が死んでちょうど百年目に吉宗が将軍就任」とか、「19世紀に入って大御所時代(11代家斉親政)」、「1837年に大塩平八郎の乱・生田万の乱・モリソン号事件が発生」など大まかな時代区分や、盲点となる年号などを無理なく記憶させようとするのが良い。

史料の解説も、どこに気をつけて読めばいいかはっきり指摘しており、わかりやすい。

この巻の後半から近代に入りますが、近代日本史を学ぶための基礎の基礎を、「阿呆か」と思われるのを恐れずブログタイトル通りの低レベルさで挙げると、まず中学程度の以下の年号を無条件で頭に叩き込む。

1868年  明治維新

1894年  日清戦争

1904年  日露戦争

1914年  第一次世界大戦

1931年  満州事変

1937年  日中戦争

1939年  第二次世界大戦

1941年  日米戦争(太平洋戦争・大東亜戦争)

1945年  敗戦

近代史の様々な本を読む上で、この九つの年号の間の、どの地点の話をしているのかを、常に意識しながら読む。

(あと、付け加えるなら、1853年ペリー来航、1932年五・一五事件、1936年二・二六事件も。)

本書にも書いてあるが、明治時代については、まず1868年が明治元年なので、1867年を起点に、そこから何年経っているかで、西暦を元号に換算(明治は45年=1912年まで)。

明治政治史に関しては、1867年大政奉還、1868年明治維新、1873年明治六年の政変(西郷・板垣下野、大久保中心政権へ)、1877年西南戦争、1881年明治十四年の政変(大隈下野、伊藤中心政権へ)辺りを初期の最重要の区切りとして憶える。

で、1871年廃藩置県(今気付いたが、ドイツ統一と同年だ)、1873年地租改正などの諸改革がどの時期に行われたかを確認。

そして1885年に内閣制度が発足した後は、やはり内閣の成立順と在任年度を暗記するのがいいんじゃないでしょうか。

結局初心者がある国の歴史を学ぶ際、何らかの時代区分を行い、その各時代に何があったのかを理解していくのが本筋と思われるし、その基準は前近代においては君主の在位期間、近現代においては首相・大統領の在任期間が一番自然だと思う。

そして世界的相互交渉が深まり、動きの激しい近現代においては、史実の流れの正確な把握のためには年代の暗記が避けられない。

(もちろんこんな細かいことが出来るのは、少数の主要国だけでしょうが。)

そんなわけで以下、明治時代の内閣を単純に並べてみる。

1885年  伊藤博文(第1次)

1888年  黒田清隆

1889年  山県有朋(第1次)

1891年  松方正義(第1次)

1892年  伊藤博文(第2次)

1896年  松方正義(第2次)

1898年  伊藤博文(第3次)

  同年   大隈重信(第1次)

  同年   山県有朋(第2次)

1900年  伊藤博文(第4次)

1901年  桂太郎(第1次)

1906年  西園寺公望(第1次)

1908年  桂太郎(第2次)

1911年  西園寺公望(第2次)

このうち、日清戦争を戦った第2次伊藤内閣と、日英同盟を締結し日露戦争を戦った第1次桂内閣が最重要で、この両者は例外的な長期政権になっている。

後は、1889年(フランス革命からちょうど100年後)帝国憲法発布の時は黒田内閣で、1899~1900年義和団事件に対応したのは第2次山県内閣で、といったふうに、どの内閣で何が起こったのかを地道に把握していく。

なお、1898年の第1次大隈内閣(いわゆる隈板内閣)というのは自由党と進歩党が合併してできた憲政党という巨大政党を背景に成立した日本最初の政党内閣(だから大正時代の原敬内閣は「最初の本格的な」政党内閣と呼ばれる)。

結局すぐに崩壊し、与党は旧自由党系の憲政党と旧進歩党(元の立憲改進党)の憲政本党に分裂、1900年には憲政党が伊藤博文と共に立憲政友会結成、昭和の敗戦まで続く保守的与党となる。

この1898年は日本では以上のように政界混乱の様相が強い年だが、世界史を見ると、この年は列強の中国分割(旅順・大連・威海衛・膠州湾・九竜半島・広州湾)、米西戦争、ファショダ事件などが起こっている。

直接の関連性は無いが、単純に同時代の比較として並べてみるだけで、個人的には結構面白い。

この巻もなかなか良いです。

江戸時代はもちろん、明治に入ってからも知識の乏しい内政面について勉強させられた。

高校日本史のレベルがあやふやな私のような方にはかなりお勧めです。

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