クリヴィツキー 『スターリン時代 元ソヴィエト諜報機関長の記録』 (みすず書房)

著者はオランダ・ハーグに駐在していた元ソ連秘密警察諜報員。

1937年10月に亡命、39年に本書を出版したが、41年2月にアメリカのワシントンでこめかみに銃弾を受けた死体が発見され、警察は自殺と発表したが、ソ連工作員による暗殺が強く疑われる。

こういう刊行経緯自体かなり恐いが、内容も凄まじい。

亡命した一工作員の手記という成り立ちが与える微視的で信頼性の低い暴露本というイメージとかなり異なる。

相当重要な情報に接する立場にあった著者が、凄惨な大粛清期のスターリン体制の暗部を迫真の筆致で抉り出している。

第1章、スターリンが、ヒトラー政権成立後、西欧民主主義国家との同盟を求めず、(ミュンヘン会談以後ではなく)ごく初期の段階から対独宥和を目指していた実態を暴露している。

第2章、コミンテルンにおけるソ連の独裁的支配と外国人共産主義者に対する弾圧。

第3章、結果としてフランコの勝利に貢献した、スペイン内戦中のトロツキスト・アナーキストに対する人民戦線内の赤色テロ。

第4章、五ヵ年計画中の外貨不足を補うため、ソ連が国家レベルで行なったドル紙幣偽造について。

ボリシェヴィキは政権掌握前にも、スターリンの指導で資金集めのため銀行強盗などの普通犯罪に手を染めている。

ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密』(これは必読書)では、メンシェヴィキや西欧社会主義者からの批判に対して、レーニンは表向き批判を受け入れたものの、陰では同様の活動を黙認し続けていたという叙述だったと思う。

第5章、秘密警察の内情。

名称はチェカ→合同国家保安部(OGPU)→内務人民委員部(NKVD)に変わる。

大粛清期にヤゴダ、エジョフ指揮下に全国民を恐怖に陥れたが、トップの両名も秘密警察構成員自身も次々に抹殺されていく。

冒頭、1926年に著者が秘密警察ではなく、赤軍諜報部に在籍していた時のエピソードが恐ろしい。

諜報部の許可証に押すための印章が紛失し、秘密警察が調査に乗り込み、アリバイのある、明らかに無実の通訳の青年が連行された。

数日後印章が見つかったが、著者はこれを赤軍内にもその権限を広げようとする秘密警察が仕掛けた陰謀だと確証している。

なお、連行された青年は「二度と帰ってこなかった」。

大粛清が始まる前ですら、ソ連社会がこのような状況だったことがわかる。

第6章、粛清された共産党幹部の心理状態について。

スターリンへの嫌悪にも関わらず、依然共産主義の教条に囚われており、客観的に反ソ勢力を利することと党支配体制を乱すのを避けるため、全く非現実的な自白を認めて銃殺されていった一部の幹部の心理を西側読者に解説している。

第7章、赤軍の粛清。

ソ連の内部攪乱の目的で、ゲシュタポが極秘に作成した偽情報であるのを知りながら、スパイ容疑でトゥハチェフスキーをはじめとする赤軍司令官を抹殺するためにそれを利用したスターリンの悪魔的策謀を記述している。

最後の第8章。

粛清の魔の手が著者自身にも迫り、一足先に亡命した親密な同僚の殺害に協力することを求められたのを期に、自らもスターリン体制と決別し、パリで亡命、暗殺者に怯えながらアメリカに渡る。

亡命直前、著者がソ連に一時帰国した際の出来事。

レニングラードの鉄道出札所で、わたしは旧友であり、同志である男にであった。

「ところで、どんなぐあいだね?」と、わたしは、かれに尋ねた。

かれは、あたりを見まわしてから、低い声で答えた。

「逮捕、ただ逮捕だ。レニングラード地区だけでも工場長の七割以上が逮捕された。軍需工場もふくめてた。これは、党委員会がおれたちに知らせた公式の情報だ。誰も安全じゃない。誰も、人を信用していないんだ。」

隣室に住んでいた親友は、徹底したスターリン主義者であり、著者に対して熱心に粛清を擁護したが、まもなく彼も逮捕・連行され姿を消した。

なかなか良い。

スターリン時代のソ連の実態を知るために適切な本。

コンクェスト『スターリンの恐怖政治』の前に読んでおいてもいいかもしれない。

以下、訳者解説より。

クリヴィツキー、ライスの同僚でロンドン駐在のハンガリー出身のテオドール・マリ(クリヴィツキー回想録中ではマンとなっている)が、モスクワへの帰途、パリにライスをたずねた。ベルジン、スタシェフスキーが、待ち受けている運命を知りながら、なぜ帰ったのだろうと、ライス夫人は信頼するマリに尋ねると「帰らねばならなかった」と繰り返して言った。「それで、あなたは帰るの」、という問いには「帰る」という答えが返ってきた。「なぜなの、何が待っているか、ご存じでしょう、銃殺されるわよ」、「わかっている。あちらであれ、こちらであれ、殺されるだろう、あちらで死んだほうが良い。他の者には違うだろうが、自分は連中に殺させるつもりだ」と言って、その理由を次のように説明した。

「第一次大戦中私は従軍牧師だった。カルパチア地方で捕虜になった。あらゆる種類の恐怖を体験した。塹壕で足が凍傷になって死んでいく若い兵士たちをみとった。収容所を転々として、飢えを経験した。皆虱にたかられ、多くはチフスで死んだ。神への信仰を失い、革命が勃発するとボルシェヴィキに加わった。過去とは完全に絶縁した。もうハンガリア人でもなく、牧師でもなく、キリスト教徒でもなく、誰の子でもなくなった。いわば作戦行動中行方不明の兵士となった。

共産主義者となっても、それ以来かわってはいない。白軍、人民の敵、僧侶から、革命を守るため作られたチェカに入り、国内戦を戦った。一日のうちに同じ村が敵と味方に入れ代わりたち代わり占領され、燃え落ちた。国内戦は恐ろしい。わが赤軍支隊は、白軍と全く同じやり方で、村を掃討した。白軍に協力したかどで村に残った老人、婦人、子供たちが機関銃で薙ぎ倒された。女たちの泣き声が我慢できなかった。味方が村を掃討する度に、猛烈な下痢に襲われた。掃討が終わるまで隠れていた。こうして自分は革命を守ったのだ。

集団農業化の時代には、どれだけの農民が収容所に送られ、また殺されたかを知っている。それでも、自分はチェカに残りつづけた。自分がしたことで、いつか罪を償う機会がくるものと希望していた。ある日、ジャガ芋を盗んだ罪で、一人の百姓に死刑を宣告した書類が回ってきた。よく読むと、その男は小さな袋にはいったジャガ芋を盗んだだけで、それも子供に食べさせるためだった。自分と一緒にチェカに入ったハンガリア人の上司の所に行って、男はもう十分罰を受けていると言い、男の妻に面会の許可を求めた。上司は書類を見て同意し、死刑の代わりに、禁固刑に減刑した。男の妻に夫が助かったことを告げ、これで自分は贖罪になったと思った。それから二週間、出張から帰ってきて、何よりも先に、この一件がどうなったかを調べた。書類は見付からなかった。上司と一緒になって書類の行方を追った。やっと見付けた書類には走りがきがしてあった。処刑ずみ、と。

秘密警察の外国部に行って、国外勤務を志望したのはその翌日だった。過去に何度も国外勤務を断ってきたが、もうとてもソ連で生活するのはたえられなかった。どこかへ逃げたかったし、牧師としての過去を蘇らせたいとさえ思った。銃殺されるために、帰る理由が分かるだろう。今となって、いったいどこにかくれるのか。」

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引用文(坂井榮八郎2)

同じく、坂井榮八郎『ドイツ近代史研究』(山川出版社)、「講演 啓蒙絶対主義と革命」の章、註より。

1794年ウィーン・ブダペストなどで「ジャコバン主義者」が「大逆的陰謀」の嫌疑で逮捕され、センセイショナルな「ジャコバン裁判」を経て、翌95年十人が処刑された。

ただし、オーストリアの啓蒙絶対主義の名誉のために、以下のことを付け加えておきたい。皇帝フランツは逮捕者を特別法廷で裁き、「大逆罪」で処刑しようとした。それに対して法学者たち、とりわけマルティーニ・・・・・が反対の論陣を張り、オーストリアの一般刑法では民間人に対する死刑はすでにヨーゼフの時代に(1787年の刑法改正)廃止されており、「大逆罪」は実行犯に対してのみ適用可能であり、特別法廷による裁判は法を曲げるものであることを主張、政府もこれを認めざるをえなかった。そのため、ウィーンでは軍籍にあった二名のみ(その後クライン州で逮捕された一名が追加される)処刑されるに止まった。他の七名は1793年に死刑が再導入されていたハンガリーでの処刑である。なお、ウィーンの「陰謀」首謀者リーデルは六十年(!)の重禁固刑、他も長期の禁固刑に処せられたが、リーデル以外はみな1802年に恩赦で釈放されている。・・・・・

この際、「ジャコバン独裁」下の「恐怖政治」期(93年9月~94年7月)のフランスでは、内戦もからんではいたが、「裁判」の判決によるものだけでも一年足らずの間に全国で一万六〇〇〇人の人間が死刑に処せられていること、裁判抜きの「処刑」も多数あり、「恐怖政治」の犠牲者は合わせれば四万にも上ること(柴田三千雄他編『世界歴史大系・フランス史2』山川出版社、1996年、386頁)を想起されたい。それに踵を接する時期の「ジャコバン裁判」である。啓蒙絶対主義の法意識は軽視されてはならないであろう。

クルトワ『共産主義黒書 ソ連篇』(恵雅堂出版)プティフィス『ルイ16世 下』(中央公論新社)記事の引用文など参照。

(上記の恐怖政治時代の犠牲者4万というのには、ヴァンデー地方の王党派反乱鎮圧の犠牲者はたぶん含まれていないと思われる。一説では30万人にも上ると言われているらしいその犠牲者については森山軍治郎『ヴァンデ戦争 フランス革命を問い直す』(筑摩書房)という著作があり、読もうとは思ってるんですが、未読のまま。)

全ての権力が人民の意志から発すると宣言した国民国家より、王権神授説に基づく世襲王朝国家の方が、実際は国家権力が制限されていたというのは現在の視点から見ると非常に奇妙に思えるが、一定の留保を付ければ事実だと思う。

20世紀になるとそれが一層悲惨な形で示されるが、これはテクノロジーの発達だけで説明されることではないと個人的には思う。

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引用文(坂井榮八郎1)

坂井榮八郎『ドイツ近代史研究』(山川出版社)、「帝国建設と自由主義の挫折」の章より(赤文字は引用者)。

・・・・・英独自由主義の比較においては、両者の発展傾向の基本的共通性とともに、ドイツの自由主義がイギリスのそれに比し、きわめて不利な条件下での発展を強いられたことが指摘されている。資本主義発展の後発性と工業化における国家のイニシアティヴ。貴族ホイッグの不在、あるいは力の弱さ。イギリスの自由主義が、議会政治の先進性と非民主的選挙権の組合せの下で、大衆の政治参加以前に「政権党」となりえたのに対し、ドイツでは条件の逆の組合せ(議会政治の後進性と最先端的な民主的選挙権)の下で、「自由主義時代」の最初から「下から」の、あまつさえ――実勢力はともかくイデオロギー的に――世界でもっとも革命的な社会主義政党の圧力にさらされていたこと。加えてドイツでは、自由主義がカトリック教会を最初から敵に回していたこと、等々。しかし自由主義が労働者層やカトリック教徒を統合しえなかったことについては、いわゆる「負の統合(Negative Integration)」への自由主義の加担からしても、自由主義自身がその責めを負わなければならないところが多い。

ここで「負の統合」というのは、大プロイセン的小ドイツ帝国に容易に同化しえない国民の一部に「帝国の敵(Reichsfeind)」の烙印を押し、この共通の敵に対する敵意をテコに他の相対的多数の国民を統合しようとする政治術策、ないし事実過程をさす。周知のように、その最初の大きな標的はカトリック教会であり、78年以降は社会主義者であった。「負の統合」をどの程度ビスマルクの意図的術策と見るべきかについては議論の余地があるが、文化闘争および社会主義者鎮圧法に、そう呼ばれうる事実過程が随伴していたことは確かである。他方、抑圧されたカトリック教徒はこの間――「負の統合」の反作用として――教会とカトリック諸団体の指導の下に、固有のサブカルチャーをもち、自由主義的=プロテスタント的市民文化世界とは隔絶した独自の生活世界をつくり出した。社会主義的労働者の生活世界もまた同じである。そしてこれが、自由主義的国民統合の課題と根底において相容れない事態であることはいうまでもない。

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坂井榮八郎 『ドイツ近代史研究 啓蒙絶対主義から近代的官僚国家へ』 (山川出版社)

『ドイツ史10講』(岩波新書)『ゲーテとその時代』(朝日選書)という二つの傑作啓蒙書の著者坂井榮八郎氏の論文集。

10本の論文と2つのコラムで構成されている。

そのうち、「クールヘッセンにおける農民と農民解放」という論文は専門的過ぎて初心者には非常に読みづらいので、極めて粗く飛ばし読みしただけ。

場合によってはこの章だけは完全に飛ばしてもいいかもしれない。

しかし、それ以外の章はどれも普通に読めて、有益な内容を含んでいる。

こういう論文集の形式にも関わらず、初心者が読了できて得るところがあるものを書けるというのは、余程明晰で優れた学者さんだけだと思います。

中身で印象に残っているのは以下に引用する部分などですが、他に一点だけ挙げると、「余滴 プロイセン皇太子とビスマルク」というコラムがある。

ヴィルヘルム1世治下にビスマルクがドイツ統一を成し遂げたが、ヴィルヘルム2世が即位すると対立し、1890年にビスマルクは退陣、以後ドイツは「世界政策」に乗り出し孤立の道へ、という流れは高校教科書にも出てきますが、ヴィルヘルム2世は同1世の子ではなくて孫である。

実はその間に1世の子のフリードリヒ3世の極めて短い治世が挟まっている。

ヴィルヘルム1世は、1797年(!)生まれで、1849年フランクフルト国民議会の差し出した帝冠を拒否したフリードリヒ・ヴィルヘルム4世の弟で、その後を継ぎ1861年即位。

異例の長寿を保った後、1888年死去、子のフリードリヒ3世が即位するが在位わずか99日で世を去る。

このフリードリヒ3世は英国のヴィクトリア女王の娘(母と同名のヴィクトリア)と結婚し、自由主義的・親英的で知られた人だったらしく、この人の治世が長く続いていたら、下から沸き起こってくるナショナリズムをある程度制御し得て、ドイツと世界の運命は全く変わっていたかもしれないとも言われている模様。

ヴィルヘルム2世はその子なので、ヴィクトリア女王からエドワード7世を経て王位を継ぎ、第一次世界大戦で敵国同士となった英国王ジョージ5世はヴィルヘルム2世のいとこになる。

水谷三公『王室・貴族・大衆』の系図など参照。)

ちなみにエドワード7世の妻とアレクサンドル3世の妻はデンマーク王家出身の姉妹なので、ジョージ5世とロシア皇帝ニコライ2世は母方のいとこになる。

こういう王家同士の婚姻関係も、民主化が進展しナショナリズムが野放しになった20世紀においては、全く緩衝材として働くことができなかったことに慨嘆せざるを得ない。

期待に違わぬ良質な本。

比較的硬い形式のものでこれだけ楽しませてくれるのだから文句無し。

買わなくてもいいかもしれませんが、図書館で在庫があれば是非借りてみて下さい。

以下、「講演 啓蒙絶対主義と革命」の章、註より。

プロイセンの改革者ハルデンベルク1807年9月のいわゆる「リガ意見書」でこう書いている。「フランス革命はフランス人に、流血と騒擾の下で全く新しい活力を与えた。あらゆる力が呼び起こされ、みじめさと脆弱さ、また時代遅れの偏見や疾患が――もちろん多くの良いものと一緒に――破壊された。[中略]だから、よい意味での革命、人間を高貴にするという偉大な目的に到達するような、そして内外からの暴力的衝動ではなく政府の英知によって導かれる[革命]――それがわれわれの目的、われわれの指導原理である」。同じことを同意見書の別の箇所ではこう言っている。「可能な限りの自由と平等――[しかし]フランス革命の血まみれの怪物どもがその犯罪の隠れ蓑にした無拘束の、当然非難されて然るべきそれではなく、[中略]国家市民の自然の自由と平等をその市民の文化の段階と彼らの福祉がそれを必要とする以上には制限することのない、君主国の賢明な法律によるそれである」・・・・・。

ここではフランスの事態に対する激しい批判だけでなく、この批判にもかかわらず、「よい意味での革命」という言葉遣いにもあらわれているように、「革命」という概念にまだ一定の積極的意味合いがこめられていること、またフランスでなされたのと同等のことが、フランスとは別の方途でなされなければならないことが強く意識されていること、この点が留意されなければならないであろう。これは、「プロイセン改革」を指導した文武の官僚たちのかなりの部分に(他国では、例えばバイエルンのモンジュラについても)言えることだと思われる。もちろん、すべてに妥当するわけではないが。

例えば、シュタインがすでに違う。「フランスの無政府状態と不道徳」をフランス人の国民性に帰し、これを倫理的に弾劾したシュタインにとって、フランスの事態は「軽率に企てられ、狂って犯罪的に押し進められて、最低の専制政治に成り果てた革命」以外の何物でもなかった・・・・・。もちろん改革はしなければならないが、革命から学ぶものなど何もない。われわれは「すべてを新しくつくり出そうとする1789年以降の立憲的原理は間違っていること、歴史的地点から出発し、[それを]修正もし、より完全なものにしてゆくべきであるが、それは転覆などではないこと」を知るべきである・・・・・。

(補三) なお先程、ドイツでは革命は二つの顔をもつものと観念されるようになったという話をしましたが、これもドイツだけのことではないでしょう。フランス自体においても実はそうだったということが、先年1989年――フランス革命200周年に当たって私たちにも明らかになった。フランスのいわば「正統史学」の立場を守ってきたジャコバン主義史学に対するフュレなどのいわゆる「修正派」の批判はすでに前からのことですが、私など門外漢がその重要性を知ったのは、やはり200周年の年にいろいろ紹介されたことであります。またあの大革命、特に1793年以降のジャコバン独裁ないし「恐怖政治」期の評価をめぐっては、学界のみならずフランスの国民世論あるいは国民感情の中に、いまだ埋め難いような亀裂が存在していることも、他ならぬこの200周年の機会に私たちに知られるようになりました。革命が明るい顔だけでなく、恐ろしい顔ももっているのは、ドイツだけのことではなかったのです。

・・・・・1989年のフランスにおける革命200周年の国家的祭典は、祝うのは1789年であって93年ではない、という諒解の下で、またその諒解の下でのみ行なわれえたと記憶する。

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秋元英一 『世界大恐慌 1929年に何がおこったか』 (講談社学術文庫)

アジア経済危機後の1999年に講談社選書メチエから出たものを、十年後、世界経済危機真っ最中の今年に文庫化したもの。

末尾の解説で、林敏彦(『大恐慌のアメリカ』(岩波新書)の著者)という人が、本書の特徴としてアメリカの大恐慌でも日本の昭和恐慌でもなく世界大恐慌を語っていることだと書いていて、確かにそう感じられるところもあるんですが、やはり叙述の中心的な視点は常にアメリカの置かれているようなので、カテゴリは近現代概説ではなくアメリカにします。

第一章がウォール街株価暴落の様相、それ以前の20年代アメリカ社会の繁栄、恐慌の原因論、フーヴァー政権の対応。

第二章で大恐慌下アメリカ社会の苦難の有様を描写。

第三章が銀行と信用システムの崩壊、経済再建策の系譜、金融システム再生のために採られた方法、金本位制からの離脱など。

第四章がニューディール政策の具体的対策・事業の記述。

第五章はケインズの大恐慌への見解、アメリカ財政政策の検討、日本の金融恐慌と高橋是清蔵相の手腕について。

それほど難解な内容ではなく、わかりやすく書かれているとは思うが、残念ながら私の能力では本書程度の叙述でも所々理解できない部分が出てくる。

文化史だけじゃなくて、経済史も本当に苦手なんですよね・・・・・。

細かなデータと因果関係の記述を読み解くのに苦労して、著者の評価や見解が明確に読み取れない。

幸い、エピローグで本書のまとめみたいな叙述がありますので、そこで復習しましょう。

ニューディール政策については、政治的にはとりあえず国民心理を安定させて左右の全体主義が台頭するのを防いだ功はあるが、純粋な経済対策としては失敗だったとの意見もあるようですが、本書では経済面でも比較的評価している方なのか?

すみません、私が理解した部分だけでは迂闊なことは言えませんので、実際にお読み下さい。

ただ、そんなに悪い本じゃないとは思います。

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『福沢諭吉全集 第5巻』 (岩波書店)

分厚い。

重い。

通勤電車内で手で持って読むのは相当辛い。

なぜこんなものを手に取ったかというと、普通啓蒙思想家と思われている福沢諭吉が近代文明批判を展開したという『民情一新』が収録されているため。

それに加えて『帝室論』を読んだだけです。

両方とも短いので、通読はさして困難ではありません。

ただ漢字が旧字体でルビが少ないのが苦しい。

一部難解な読みの漢字にはルビがあるが、それも基本的に初出の際だけであり、読み進めていくと「うっ」と詰まる部分がある。

内容については、『民情一新』の方はややすっきりしない読後感。

近代批判と読める箇所もあるが、行間を読まずに全体の論旨を表面的に捉えた感じからするとそういう主張は明確に浮かび上がってこない。

この点、やや予想に反しており、複雑な印象を持った。

『帝室論』はごく普通の読後感。

とは言え、『思想史の相貌』で近代日本の思想家のうち、福田恆存、夏目漱石と並んで稀に見る平衡感覚と成熟した思考の持ち主と評価されている諭吉の本領が良く表れている一品と言えるのではないでしょうか。

なお、末尾の解説で戦時中『帝室論』を再版・配布しようとして禁止されたみたいなことが書いてあって、「この内容の本で、何でそんな扱いを受けるの?」と驚いてしまった。

皇室を実質的権力の無い「虚器」に貶める意見とも読めるから、といった意味のことが書かれていたが、方向性に違いはあっても、いつの時代にも硬直して歯止めの効かない偏狭な世論というのはあるんだなあと思った。

『学問のすゝめ』や『文明論之概略』と同じく、かなづかいや字体の変更などで読みやすくした上で文庫化してもらいたいです。

近年出た、慶応大学出版会の著作集には両方とも収録されていないようですので。

(以下引用、字体等一部変更有り。)

蓋し英人の気象[ママ・引用者註]は古風を體にして進取の用を逞ふする者と云ふ可し。或は其度量寛大にしてよく物を容るゝ者と云ふも可なり。

彼の佛蘭西其他の人民が自由の改革と云へば、直に國王を目的として之を攻撃し、王室恢復と云へば直に人民の自由を妨げんとするが如きものに比すれば、同年の論に非ず。

・・・・・今英國の王室と人民との間は恰も此上等家族の如き者にして、嘗て相犯すの挙動なきのみならず、中心に之を犯すことをも忘れたる者なり。犯さゞる國王は益貴く、犯さゞる人民は益親しく、以て社会の秩序を維持するは人間最大の美事と云ふ可し。

文明は猶大海の如し。大海はよく細大清濁の河流を容れて其本色を損益するに足らず。文明は國君を容れ、貴族を容れ、貧人を容れ、富人を容れ、良民を容れ、頑民を容れ、清濁剛柔一切この中に包羅す可らざるはなし。唯よく之を包羅して其秩序を紊らず、以て彼岸に進むものを文明とするのみ。

區々たり世上小膽の人、一度び尊王の宗旨に偏すれば自由論を蛇蝎視して其文字をも忌み、一度び自由の主義に偏すれば國君貴族を見て己が肩に擔ふ重荷の如くに思ひ、一方より門閥一切廃す可しと云へば、一方は又民権一切遏(とど)む可しと云ひ、何ぞ夫れ狼狽の甚しきや。

事物の極度より極度に渡て毫も相容るゝこと能はざる其有様は、恰も潔癖の神経病人が汚穢を濯て止むを知らざる者の如し。其愚笑ふ可し、其心事憐む可し。啻(ただ)憐む可きに止まらず、世の乱階は大抵この輩に由て成るものなれば、此點に就て観れば亦恐る可きものなり。

王室の功徳は共和國民の得て知らざる所なれども、其風俗人心に関して有力なるは擧て言ふ可らず。人或は立君の政治を評して、人主が愚民を籠絡するの一詐術などとて笑ふ者なきに非ざれども、此説を作す者は畢竟政治の艱難に逢はずして民心軋轢の惨状を知らざるの罪なり。青年の書生輩が二、三の書を腹に納め、未だ其意味を消化せずして直に吐く所の語なり。

試に思へ、我日本にても政治の党派起りて相互に敵視し、積怨日に深くして解く可らざるの其最中に、外患の爰に生じて國の安危に関する事の到来したらば如何するや。自由民権甚だ大切なりと雖ども、其自由民権を伸ばしたる國を擧げて、不自由無権力の有様に陥りたらば如何せん。守舊保守亦大切なりと雖ども、舊物を保守し了りて其まゝに他の制御を受けたらば如何せん。

・・・・・斯る内政の艱難に際し、民心軋轢の惨状を呈するに當て、其党派論には毫も関係する所なき一種特別の大勢力を以て雙方を緩和し、無偏無党、之を綏撫して各自家保全の策に従事するを得せしむるは、天下無上の美事にして人民無上の幸福と云ふ可し。是れ我輩が偏に我帝室の独立を祈願する由縁なり。

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石川晶康 『NEW石川日本史B講義の実況中継 1』 (語学春秋社)

自分の日本史知識の薄さを痛感しているので、どこかの全集を一つ通読しなければなあと思っているのですが、近代の政治外交史を除く現在の知識は悲しいかな高校教科書のチョイ下レベルに過ぎないので、より基礎的な所から始めるべきではないかと考え、これを手に取りました。

ちなみにこういう学習参考書は当然図書館では置いていないので、わざわざ自分で買いました。

余談ですが、図書館ではこの種の本を所蔵しないのは当たり前だと言われれば何も言えないんですが、絶版になった参考書というのは再度手に入れるのが非常に難しいんですよねえ・・・・・。

ある種の資料性を考慮して蔵書に入れてもらえると有り難いと思うのですが。

この巻は原始から古代末期まで。

有名講師の著作だけあって、ポイントが明確に強調されていて、読んでいて面白い。

曖昧な理解に終わりがちの、氏姓制度や荘園制に関する説明は非常にわかりやすい。

なお、本書を読んでいて改めて思ったことなんですが、「世界史は日本史に比べて覚えることが多過ぎて嫌だ」とよく言われますが、私はこの意見が全く理解できない。

『詳説日本史』の記事での引用文でも触れたんですが、内容的には日本史の方がはるかに高度で細かいはず。

世界史は範囲こそ広いものの、言ってみれば中学の(場合によっては小学校の)日本史のレベルを世界の各国に関して浅く学ぶだけなんじゃないでしょうか。

本書で取り上げられている事項を例に取ると、天武天皇の「八色(やくさ)の姓(かばね)」を「真人(まひと)・朝臣(あそみ)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)」と順番も読み方も共に覚えよとか、律令の統治機構として「二官・八省・一台・五衛府」を押さえて、八省は左弁官管轄が「中務・式部・治部・民部」で、右弁官管轄が「兵部・刑部・大蔵・宮内」だとか、645年乙巳の変と646年改新の詔とセットで東北経営のための軍事拠点として647年渟足柵(ぬたりのさく)、648年磐舟柵(いわふねのさく)が現在の新潟県に置かれたことも暗記せよとか、その他いろいろやたら細かいことが書かれてある。

古代だと欽明から後白河までの天皇はほとんど覚えないといけないだろうし、こういうことを考えていくと、なぜこれで世界史の方が暗記の量が多いと言えるのかと不思議に思えてしょうがない。

一般常識としての歴史を学ぶ目的に照らせば、むしろ高校日本史の方が余分な細部が多過ぎる。

それに引き換え、もし高校で世界史を履修しなかった場合、義務教育までの歴史の授業だと世界史関連の知識が貧弱過ぎる。

そのままだと新聞・テレビの国際ニュースすらよく理解できないでしょう。

以前も同じことを書きましたが、やはり高校での世界史必修は続けるべきではないでしょうか。

途中から大幅に話が逸れましたが、本書は受験生だけでなく、社会人が日本史を学び直すために読んでもなかなか面白い内容を含んでいる。

気が向いたら書店で買ってみるのもよいでしょう。

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坂本勉 鈴木薫 編 『イスラーム復興はなるか (新書イスラームの世界史3)』 (講談社現代新書)

1巻2巻であれこれ文句を付けた本だが、結局シリーズ全巻読むことになってしまった。

叙述範囲は、中東・イスラム圏の近代の開始を画した1798年ナポレオンのエジプト遠征から始まるのは定番だが、終わりは本書が出た1990年代前半まで行かずに、実質1920年代まで。

トルコ、アラブ、イラン、中央アジア、と地域別の章が四つ続いた後はメッカ巡礼とネオ・スーフィズムというテーマ的な章が挟まって、最後に全巻の結言が入るという構成。

第1章オスマン帝国。

50ページほどで、衰退期のオスマン朝史を手堅くまとめてあるが、特筆すべき点は無く、ごく普通の記述。

しかし相変わらず在位したスルタン名と主要史実を結びつけて憶えていないことにショックを受ける。

高校時代からこの辺苦手なんですよ・・・・・。

今更だが、復習すると1789年フランス革命勃発と同年即位したセリム3世が、西洋式新軍隊ニザーム・ジェディットを創設、ナポレオンのエジプト侵攻、1803年ワッハーブ王国のメッカ占拠、ムハンマド・アリー自立など国難が続く中、守旧派によって廃位。

マフムト2世(在位1808~39年)、1821~29年ギリシア独立戦争、1826年イェニチェリ全廃、エジプト・トルコ戦争(第1回・1831~33、第2回・1839~40年)。

アブデュル・メジト1世(1839~61年)、タンジマート開始(ムスタファ・レシト・パシャ)、1853~56年クリミア戦争。

アブデュル・ハミト2世(1876~1909年)、この人が実質最後のスルタン、ミドハト憲法、露土戦争、パン・イスラム主義、青年トルコ革命。

以上四人のスルタンは憶えましょうか。

本書ではタンジマート改革は、中国の洋務運動、日本の明治維新、タイのチャクリー改革に先立つ非西洋世界の近代化運動として評価されており、ムハンマド・アリー治下のエジプト、フランスに植民地化されたアルジェリア、独立運動が続くバルカンを除く、帝国本拠のアナトリア、シリア・イラク・ヒジャーズ・イエメン・ペルシア湾岸・リビアにおいて再集権化に成功したと述べられている。

ただし、この時代のオスマン帝国の政治家たちは、外交面ではヨーロッパ列強と互角に渡り合う能力を持っていたが、明治日本の指導者に比べて経済への関心が薄く、「タンズィマート改革は殖産興業策とそれによる富国策を欠く強兵策であり」、改革の財源を安易に外債へ依存したことが、財政破綻と列強への経済的従属に繋がったとも書かれている。

第2章アラブ世界。

近現代のアラブの政治運動における理念として、イスラム主義・アラブ主義・国民主義の三つを挙げ、それぞれがどの地域・時代で有力だったかを述べている。

例えば、ムハンマド・アリー朝治下のエジプトは国民主義に基づく国家建設とされ、1952年のエジプト革命はそれをアラブ主義に切り替えたことを意味すると解釈される。

その他、シリアやイラクがアラブ主義に向かったのに対し、帝国辺境部のアラビア半島・スーダン・マグリブではイスラム主義が有力(ワッハーブ派・マフディー運動など)。

第3章イラン。

ここも特に無し。普通。

カージャール朝がこの時代の主要舞台になるが、この王朝は建国が1796年。

まさに西洋列強の本格的進出が始まろうかという時点で建国された王朝としては、他にタイのチャクリー朝(1782年~)、ヴェトナムの阮朝(1802~1945年)がある。

カージャール朝は1828年トルコマンチャーイ条約でロシアに治外法権を認め、アルメニアの大半を割譲しているから、盛期というほどの時期もなく、建国後すぐに衰退期に入っている観がある。

第4章中央アジア。

18世紀前半、カザフの遊牧民は西から小オルダ、中オルダ、大オルダの三つの部族連合に分かれており、東から仏教徒でモンゴル系のジュンガルの攻撃に脅かされて小・中オルダがロシアへの帰属を誓約したのが、ロシア支配の始まり。

1820年代に入ると小・中オルダのハーン権力に替え、ロシア統治導入、大オルダも南からのコーカンド・ハン国の脅威を受け、ロシアに服従。

以上のみメモ。

第5章メッカ巡礼と周辺地域。

聖者・聖地崇拝をイスラムが禁じたはずの偶像崇拝として激しく排斥するワッハーブ派の攻撃を受けたスーフィズム(イスラム神秘主義)教団が自己変革を遂げて、メッカのイドリース教団、中央アジアのナクシュバンディー教団などが生まれ、それらがヨーロッパの進出への抵抗運動を組織する様を描写している。

最後に全巻の結語。

特に感想無し。

全巻読んでもやはり、あんまり良いとは思えない。

中公新版全集の『イスラーム世界の興隆』を読んだ時のような爽快感と充実感が無い。

大きな欠点も無いとは思うが・・・・・。

紙数が少なくて、興味を持たせるエピソードや挿話の類いに乏しい。

手堅い教科書的著作という感じで、あまり記憶に残らない。

類書の少ないイスラム史入門書としては、まだしも貴重で有益としておくべきなんでしょうが。

積極的にお勧めする気はあまり起こりません。

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猪木正道 『軍国日本の興亡 日清戦争から日中戦争へ』 (中公新書)

著者の猪木氏は、大学時代から熟読していた高坂正堯氏の師として名前を知っており、文春大世界史講談社旧版世界史全集の戦後国際政治史の巻や、著作集を買って通読していた。

1914年生まれで未だご存命のはず。

著作集の近代日本政治史の部分は凡庸な教科書的通史ではなく、為政者の決断のポイントを明示し、それに対する明解な評価を下していく躍動感のある叙述で、強い印象を受けてはいたが、終戦後50周年に当たる1995年に出た本書は手に取ることがなかった。

その時期は、自分の考えが猪木氏の著作集を読んだ頃より相当「右傾化」していると自覚していたので、読んでも不快になるだけだろうと思ったので読まなかった。

それをなぜ今ごろ読む気になったのかというと、自分の考えがやや変わったというのもあるが、直接的には以下のブログの記事を読んだため。

先哲有言  猪木正道『軍国日本の興亡』中公新書、1995年

(↑こちらは、うちとは比べものにならない程、知的で高級なブログですが、残念ながら現在更新停止状態。)

近代日本の政治・外交史をざっと概観する本で、叙述範囲は、サブタイトル通り、主に日清戦争から始まり、最後は1945年の終戦までではなく日中戦争の勃発と泥沼化まで。

漫然と史実を並べただけの本ではなく、教科書では出てこない固有名詞や事実をピックアップして説明したり、著者独自の見解を交えながら話を進めていくので、飽きさせず記憶しやすい。

第一次世界大戦後の戦争観と国際世論の変化を重視し、自ら調印した九ヵ国条約とパリ不戦条約を破った日本の軍事行動とそれ以前の植民地大国の行為を区別し、前者を批判し自省する立場の本。

こうした価値観には、(現在では特に)大いに異論はあるでしょうが(私もあります)、これはこれで一つの見識であろうとも思います。

林健太郎氏も同じような立場でしたね。)

私自身、通読したところ、思った以上に反発を感じることが少なかった。

というより、そうした点がほとんど無かったことに我ながら驚いた。

「嘘つけ!!このチンケなネット右翼が!!!」と思われるかもしれませんが、本当です。

結局自分は「自虐史観」よりも民主主義の方が嫌いなんだなと、ここ数年つくづく思い知らされたので。

「右の左翼」とでもいうべき無思慮な過激派が世論の多数の支持を受け、下克上で国家を乗っ取り、帝国を破滅させた歴史を読んでいくと、先の大戦への評価はどうあれ、右とか左とか関係無しに反省すべきではないかと思えてくる。

最後の方がやや駆け足になるのが残念だが、悪い本ではない。

初心者は(自分含む)本書の見方にあれこれ反発する前に、事実関係の記述を学んで、昭和に入ってからの内閣順と在任年度とその時起こった主要事件くらいは頭に入れるべき。

ごく初歩的な段階での基本テキストとして十分推奨できます。

(ついでですが・・・・・。上記ブログで以下のように書かれてます。

余談だが、先日の「朝生」では、司会者から左の席の姜尚中氏や辻元清美氏が相手の意見を聞きつつも説得にまわる大人の対応する「体制側」に見え、右の席の西尾幹二氏が相手の意見を聞き入れず言いたいことだけを言う体制に反逆する革命家のようだった。

辻元氏は知りませんが、姜氏については『日本 根拠地からの問い』(毎日新聞社)や『憲法ってこういうものだったのか』(ユビキタスタジオ)などの対談集を斜め読みした限りでは、ブログ執筆者様と同じ感想を持ちました。)

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引用文(バジョット2)

『世界の名著72 バジョット ラスキ マッキーヴァー』(中公バックス)より。

君主の権限が不明確であるということは、皮相浅薄な自由主義的制度論から見ると、たしかに欠点である。民衆政治においては、すべての権限は、認知できるものでなければならない。このような民衆政治は、政治権力をもつ国民――統治者たる国民――が、みずから適当であると判断し、その判断に従って統治するという考えに立っている。この考え方からすると、各行政部門の行為はすべて、国民の判定を受けねばならない。国民はその行為の是非について監視すべきである。またその行為がよくないと思われる場合には、種々の方法で異議申し立てをすべきである。しかるに、どのような行為をしたかを知らされないなら、判定できないし、またどのような行為をしたかわからないなら異議の申し立てもできない。したがってこの考え方によれば、隠された大権は違法である。おそらく、最大の違法になるであろう。

しかしこの秘匿性は、現在のところ、イギリスの君主制が効用を発揮するためには必要なのである。なにものにもまさって君主は、尊敬されなければならない。君主について詮索しはじめると、尊敬できなくなる。君主に関する特別委員会ができると、君主制の魅力はなくなるであろう。秘密が君主の生命である。魔法を、白日の下にさらしてはならない。君主を政治葛藤の中に引きずり込んではならない。さもないと、君主は全闘士たちから尊敬されなくなるであろう。また君主は、多くの闘士たちの仲間入りをすることになるであろう。君主に秘密の権限が存在することは、抽象的な理論によれば、わが立憲体制の欠点であるとされている。しかしそれは、イギリス程度の文明国にはありがちの欠点である。このような国では、はっきりした役に立つ権力が必要であるとともに、尊厳な、そしてそれゆえに不可知な権力もまた必要なのである。

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