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ホセ・オルテガ 『大衆の反逆』 (白水社)

読んでもわからないので、普段は哲学のての字も読まない。

よってこのブログでも古典的思想書などは紹介しない(できない)のだが、これは別。

一読してものすごい衝撃を受ける。

難解な用語、概念などほとんど使わず、日常言語だけで20世紀の壮大な悲劇を招いた原因を余すところ無く指し示している。

われわれが疑いもない理想と信じている民主主義というものが、どれほど脆い基盤の上に立った危険なものであるか深刻に思い知らされる。

著者の圧倒的な言語表現に感服する他ない。

さほど長大なものではなく、文章も明快で、素人でも読める。

ちくま学芸文庫版、中公バックス版もあるが、できれば「フランス人のための序文」(これがまた含蓄がある)が載せられている白水社版を買ってください。

とにかく一度読んでみてくださいとしか言えないすごい書物。

「選ばれた少数者」について語られる場合、よくある悪意のために、普通この言葉の意味が歪曲されている。つまり選ばれた人間とは、他人よりも自分が優れていると考える厚顔な人間ではなく、自分では達成できなくとも、他人よりも多くの、しかも高度の要求を自分に課す人間であるということを、知っていながら知らないふりをしているのである。

というのは、人間を最も根本的に分類すると、次の二種類に分けられることが明らかだからである。
すなわち一方は、自分に多くのことを課して困難や義務を負う人々であり、他方は、自分には何ら特別なことを課すことなく、生きるということがすでにある自己を絶えず保持することで、自己完成の努力をせず風のままに浮かぶブイのように暮らす人々である。

したがって社会を大衆と優れた少数者に分けることは、人々を社会的な階級に分けることではなく、人間的な階級に分けることであり、上層階級、下層階級といった階層分けとは一致しない。
たしかに上層階級には、それが上層となり、真にそうである間は、その階級の中に「大乗の車」を選んだ人を見いだす可能性はより多く、それに対して下層階級は、資質に欠ける個人によって構成されているのが普通である。しかし厳密に言えば、各社会階級のなかに真の大衆と真の少数者がいるのだ。

私は近年の政治的変革は、大衆による政治の支配以外のなにものでもないと信じている。かつてデモクラシーは、自由主義と法に対する情熱という効き目のある薬のお陰で穏やかに生き続けてきた。これらの原則を遵奉するに当たって、個人は自己の上に厳格な規律を保持するように義務付けられていたのだ。少数者は自由主義の原則と法の規範の庇護の下に活動し、生活を営むことができた。デモクラシーと法は合法的共存と同義語であった。ところが今日、われわれは超デモクラシーの勝利に際会しているが、そこでは大衆が法を無視して直接的に行動し、物質的な圧力によって自分たちの希望や好みを社会に強制しているのである。この新しい事態を、あたかも大衆が政治に飽き、その仕事を専門家に任せているかのように解釈するのは間違いである。事実はその反対である。政治を専門家に任せていたのは以前のことであり、それは、自由主義デモクラシーのことである。当時の大衆は、政治家という少数者にはいろいろな欠点や欠陥があっても、こと政治問題に関しては、結局のところ彼らの方が自分たちよりは少しばかり良くわかるのだと考えていた。しかし現在の大衆はその反対に、自分たちには喫茶店の話から得た結論を社会に強制し、それに法的な効力を与える権利があると思っている。私は、われわれの時代におけるほど群集が直接的に支配権を振るうようになった時代は、歴史上かつてなかったのではないかと思う。それだからこそ、私は超デモクラシーについて
語るのである。

われわれは大衆人の心理図表にまず二本の線を引くことができる。すなわちその生の欲望を示す線、つまり大衆人自身の際限の無い膨張の線と、安楽な生存を可能にしてくれた一切のものに対する徹底した忘恩の線を。この二つの傾向は、例の甘やかされた子供の心理を作り上げているものである。

私は本書を読まれる方の多くが、私と同じようにはお考えにならないのを十分承知している。それもまた極めて当然なことであり、私の主張を裏付けてくれるのである。というのは、たとえ私の意見が決定的に間違っているという結果になっても、私と意見を異にする読者の多くが、このように錯綜した問題について、ものの五分間も熟考したことがないのだ、という事実は常に残るからである。そのような人たちが、どうして私と同じように考えるだろうか?
前もって意見を作り上げる努力をしないで、その問題について意見を持つ権利があると信じていることからして、私が「反逆的大衆」と呼んだところの、人間としての馬鹿げたあり方に属していることを典型的に表明しているのだ。それこそまさしく閉鎖的、密室的な魂を持つということである。この場合は、知的閉鎖性と言えるだろう。こうした人間は、まず自分のうちに思想の貯えを見いだす。そしてそこにある思想だけで満足し、自分は知的に完全だと考えることに決めてしまう。彼は自分の外にあるものを何ひとつ欲しいとは思わないから、その貯えのうちに決定的に安住してしまうのだ。これが知的閉鎖性のメカニズムである。

したがってわれわれは、ここで、愚者と賢者の間に永遠に存在している相違そのものに突き当たる。賢者は、自分がもう少しで愚者になり下がろうとしている危険をたえず感じている。そのため彼は、身近に迫っている愚劣さから逃れようと努力するのであり、その努力のうちにこそ英知があるのだ。
ところが愚者は自分を疑うことをしない。彼は自分が極めて分別に富む人間だと考えている。愚鈍な人間が自分自身の愚かさのなかに腰をおろして安住するときの、あのうらやむべき平静さはそこから生まれている。われわれがどうやっても、住みついている穴から外へ出すことのできない昆虫のように、愚者にその愚かさの殻を脱がせ、しばしの間、その盲目の世界の外を散歩させ、力づくで日ごろの愚鈍な物の見方をより鋭敏な物の見方と比較するように強制する方法はないのだ。馬鹿は死なねば直らないのであり、救いの道は無いのである。だからこそアナトール・フランスは、愚かな者は邪悪な者よりも忌まわしいと言ったのだ。なぜなら邪悪な者は休むときがあるが、愚かな者は決して休まないからである。

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