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ギルバート・チェスタトン 『正統とは何か』 (春秋社)

20世紀初頭に書かれたキリスト教的伝統擁護の書。

全編にわたって繰り広げられる逆説とユーモアによる伝統精神擁護のレトリックの見事さにほとほと感心してしまう。

何の予備知識も要りません。平明極まりない記述ながら、今までのモノの考え方を引っくり返すほどの力を持つ書物。

是非一読をお勧めします。

文明の最古の闇に帰って訪ねてみるがよい。文明の根は、何か聖なる石のまわりにからみつき、あるいは聖なる井戸のまわりをめぐっているのがわかるだろう。人びとはまずある一つの場所を尊崇したのだ。その場所のために栄誉が得られたのは実はその後のことなのである。人びとはローマが偉大であるからローマを愛したのではない。ローマは人びとがローマを愛したから偉大となったのだ。

十八世紀に勢力をふるった社会契約説は、今日では大いに批判の的となった。(もっともこの批判そのものにも大いに批判の余地がある。)社会契約説の意味するところが、ただ、すべての歴史上の統治の背後には諒解と協力の観念がある、ということだけであるのなら、その限りにおいてはこの説の正しいことは明らかである。

しかしもしその意味するところが、明確な利害関係の自覚から直接秩序と倫理が作られた、というところまで進んでくると、その限りではこの説は確実に誤っていると言うほかない。道徳の起源はそんなところにあるはずがない。

一人の人間が相手に向かって、「お前が俺をなぐらなければ俺もお前をなぐらない」と言ったなどという、そんな取引があった形跡はどこにもないのだ。ただ二人がお互いに、「われわれは聖なる場所ではなぐり合いはすべきでない」と言った形跡は厳として存在している。宗教を守ることで道徳が得られたのである。

人びとはわざわざ勇気をつちかったのではない。彼らは神殿のために戦い、気がついてみると勇気を持っていたまでである。彼らは清潔をつちかいはしなかった。ただ祭壇の前に立つために身を清め、気がついてみると清潔になっていたのだ。

たいていのイギリス人が共通に知っている太古の歴史の資料としては、旧約聖書に描かれたユダヤ人の歴史だけだが、これだけでも太古の事実を判断するには十分だろう。十戒というものも(事実上全人類に共通の戒律であるけれども)、要するに軍事上の命令にほかならなかった。つまり、砂漠を越えて聖なる箱を守って行くために発布された軍律だったのである。秩序の破壊が悪とされたのは、それが聖なるものを危険に陥れるからであった。そして、神のために休日を定めた時、彼らは人間のためにも休日を作る結果になったことを知ったのである。

・・・・聖職者が世界に暗闇と悪意をもたらしたという主張であるが、少なくとも私自身がつくづく世の中を眺めても、要するにそんな事実は一つも見当たらないのである。ヨーロッパの中で、いまだに聖職者が影響力を持っている国々というのは、暗いどころか正反対で、いまだに野外で歌い踊り、色鮮やかな衣装をつけ、芸術を楽しむまさにそういう国々にほかならぬ。

カトリックの教義や戒律は壁だと言うのなら壁としてもいい。しかしそれは遊び場を守る壁なのだ。キリスト教こそは、異教の快楽を維持してきた唯一の宗教である。たとえばこんな比喩はどうだろう。海の中に、断崖に囲まれた小島があり、島の上は平らな草原になっていて、そこで子供たちが遊んでいる。断崖のへりに壁がぐるりと立っている間は、子供たちは心の底から奔放にふざけまわり、どんな子供部屋もかなわないほどやかましく遊んでも安心だった。ところがその壁が急に壊され、断崖の危険がむき出しになってしまった。子供たちは海に落っこちはしなかったけれども、昔の友だちが彼らのところへ帰って来てみると、子供たちはみな、恐ろしさのあまり島の真中に身を寄せあってかたまっていた。彼らの歌声はもう絶えて聞こえることはなかったのである。

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