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福田恒存 『日本を思ふ』 (文春文庫)

著名な文芸評論家の批評集。

前半の日本文化論は深い内容を持っているし、「近代の宿命」と題された評論は私程度の頭にはちょっと難しいが、西洋思想史として重要なものと思われる。

後半の自由論・平和論・歴史論にも思わずはっとするような指摘が多い。

直接世界史と繋がる本ではないが、同じ文春文庫の『日本への遺言』と並んで、熟読することによって歴史のよりよき見方への大きな示唆を得られる書物だと思う。

・・・・自由についても、まづ言葉の吟味が必要である。資本主義と共産主義、自由主義と全体主義とは、一つ自由における程度の差を競つてゐるのではない。それを程度の差と見る時、既に相手側の自由の意味を採用した事になり、本来の自由を抛棄した事になる。・・・・それなら本来の意味の自由とは何か。人間の自由とは何か。そもそも人間に自由はありうるのか。

言ふまでもなく、人間に生れる自由、生れない自由は無い。死ぬ自由、死なない自由は無い。なるほど自殺の自由はあるが、それはキリーロフのそれのやうに最も自発的な場合でも、結局は他動的、受動的である事を免れぬ。生といふ出発点において自由のない者が死において自由でありうる訳がない。人間は与へられた条件の中に無意味に投出され存在するだけで、その存在そのものの中に如何なる目的もないのである。人間は在つても無くてもよい。個人は在つても無くてもよい。偶然に在らしめられたのであり、偶然に無くさせられるだけの話である。その点、人間は他の生物や物質と何の相違も無いのであるが、ただ人間は自己がそういふものである事を、つまり自由の無い物質である事を、自覚する事ができる。その自覚の働きが精神であり、その働きによつて、人間は精神と物質に分裂した二重の存在になる。同時にその事によつて、人間は自由になる。あるいは自由の意識を所有する。

それは言換へれば、人間には自由が無いといふ事の自覚に過ぎず、その自覚に徹した時にのみ、人間は人間としての自由を獲得するといふ事である。本来の意味の自由とはさういふものなのである。その意味で、自由とは人間存在そのものの二重性を端的に表してをり、人間である事と同義語をなすと言つてよい。人間は自由であつて自由ではない。人間は自由でありえないが自由でありえる。この自由といふ言葉の両義語的性格にまつはるアイロニーとパラドックスのために、私達はマクベスのやうに惑はされるのである。

共産主義、全体主義に限らない、既に十九世紀の自由主義がこの両義性に躓いてゐる。といふより、人間の理性がこの両義性に躓いた時に、自由主義を生じたのである。つまり、人間は人間の中に単に意識として内在するに過ぎぬ自由を外在化する事によつて、自由を本来の両義性から脱卻せしめ、一義的な単純化を計らうとしたと言へよう。その結果、自由は単なる可能性の問題に留らなくなつて、現実の問題として捉へられるやうになつた。自由とは欲する自由ではなく、実現する自由となり、しかもその事を誰も怪しまないやうになつた。また消極的・相対的な方法としての自由といふ考へは失はれ、自由そのものが積極的・絶対的な目的と考へられ始めた。自由は生き方ではなく、生の目的、あるいは生そのものとなつた。言換へれば生そのものが人間の目的となつたのだ。生そのものを目的とする時、生は生以外の何物にも仕へる必要が無く、完全に自由である。

要するに、人間は精神の自由をすべて物質の自由に飜訳し直す事に熱中し始めたのである。自由は精神の所管から物質の所管に、あるいは物質の原理を発見し、それに適応する大脳の所管に移され、人間は自己、即ち人格になる努力を止めて、自己を物と合一せしめ、物になる作業に全精力を傾け出したのである。既にラッセルがさうであるやうに、道徳は快適の法則に還元され、幸福は快楽の同義語になる。

が、それで人間は満足しうるのか。自由の両義性から脱卻して、それを一義的に対象化し、可能性の代りに自由の現物を手に入れる事によつて、人間は果して自由になつたか。その前に、一義化といふ事によつて、それが目ざした両義性の矛盾は本当に解消されたのか。否である。矛盾はただ合理性といふ厚いアスファルトの下に押し隠されてゐるだけの事で、監視の目を免れて統御されぬまま卻つて危険な状態にあると言へよう。一口に言へば、人間は永遠に自由でないといふ根本前提を解消しえた訳ではなく、この二三世紀間に次々と行はれた自由の現物支給に目が眩んで、その大前提を忘れてゐたといふ事に過ぎない。だが、追放された人間存在の二重性と自由の両義性は復讐をもくろむ。それはどういふ形で現れるか。言ふまでもなく、自由喪失がそれである。自由が現物として己れの所有に帰した瞬間、人間は自由の意識、即ち自由感を失ふのである。生そのものが目的となり、生が生以外の何物にも仕へる必要の無い完全な自由を得た瞬間、人間の唯一の生き方は生命の法則に随ふ事となり、生き方としての自由を失ふのである。

その意味において、全体主義は一見さう見えるのと相反して、自由主義の延長線上にあり、その私生児に過ぎない。それは自由、民主主義、平和、その他、父親が目標とした理想を悉く一義化し平面化することによつて、攻撃力の集中を謀り、父親に認知を迫る。その事自体、自由の両義性の復讐でなくて何であろう。自由主義は全体主義を化外の民と見る前に、まづそれを鏡として己れの目鼻の特徴をそこに見出し、自分の過ち、あるいは弱味に気附かねばならぬ。

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