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ジョージ・ケナン 『二十世紀を生きて』 (同文書院インターナショナル)

晩年のケナンが自身の政治的哲学とアメリカ社会への視線を披露した本。

民主主義、平等主義、技術革新、市場主義、理想主義的外交などアメリカ文明を特徴付ける様々な要因に対して深い懐疑を示している。

格調高く極めて意義深い文章ながら、晦渋なところは全く無い。

著者の人格と識見が生み出した、政治哲学と社会批評の素晴らしい傑作。

私の念頭にあるのは、スターリンとヒトラー政権の最盛期の暴虐が現出したような、二十世紀の全体主義の現象である。両政権は、西欧文明の歴史上の他のすべての種類の政府と、いくつかの本質的な面で違っていた。極めて権威主義的または専制的な政府が、その法律を犯したり、その権威を危うくしたり逆らったりしたと認めた者を過酷、残酷に扱った例は歴史上、数多い。これら二つの独裁制が他のすべての専制と違うのは、その残虐の規模そのもの(他の場合は数百、またはせいぜい数千人だったが、両者は何百万人に被害を与えた)だけでなく、さらに重要なのは、その残虐の犠牲者の圧倒的大多数が、有罪でなく無実の人々だったことだ。何百万人もが、何をしたかでなく、何であったか、またはそう思われたか、さらには、実際思ったり言ったりしたのではなく、思っていると疑われるという、自分の責任でないことのために、迫害、断罪されたのだ。・・・・・(私が「全体主義」という用語を使う時、念頭に置くのはこの性格の政権だけだ。これら両政権と、独裁的権威主義の普通の諸形態ともいうべきものとの間には大きな違いがある。

・・・すべての政府システムを縦断し、他のすべてに勝る意義を持つ基本的な相違がある。それは「民主的」と「非民主的」な政府の違いと説明すれば最もわかりやすいだろうし、米国では特にそうだ。私個人としては、この関連で「民主的」という用語を使うのが嫌いだ。この用語は、そもそも米国の建国の父の多くが、建設中のシステムを説明するのに使おうとはしなかったろう。当時ですら「民主主義」という言葉は相当多くの意味になり、代表制政府の制度の強力な支持者ですら、軽蔑的に用いることがあった。さらに近年になると広く乱用されて、かってどんな意味があったにせよ、その大半が失われるに至った。

私は自分の見聞から、しかもその多くは社会主義国に住んだ経験からいうのだが、少数の者がよい暮らしをするのを阻むことができれば、他の者の暮らしはすべてよくなるという想定ほど、現実の経験によって広く徹底的に論破されてきた想定を知らない。

平等主義の逆は、少なくとも多くの人々の考えでは「エリート主義」であろう。この言葉が米国の公の論調で、実に多くの場合必ず軽蔑的な意味に用いられることに私は驚きを告白せねばならない。・・・・オックスフォード英語辞典には「(社会、または何らかの団体ないし階層の)選り抜きの部分または精華」とあり、この方が本当の意味に近い。「エリート」という言葉はこの意味に使うべきだと私は思う。

そこで伺うが、このどこが悪いか?込められた意味は、きざな夜郎自大や不当な特権付与ではなく、ただ一般大衆の中から、社会の一定の有用な機能を果たす資格のある者を採りたて、それにともなう責任を負わせるだけのことだ。この種の選抜があり得ることを否定する者は、我が国が基礎を置くところの選挙の原則そのものに楯突くことになる。

人間は結局のところ、平等に生まれるのだろうし、法の前には平等でなければならない。だが、人間の平等は大体そこで終わりだ。・・・・肝心の問題は、エリートなるものが存在しなければならぬか否かではない。問題は当のエリートの質であり、また特に、エリートを選抜する基準と制度である。特権的エリート、ましてや不当な特権を持ったエリートである必要はない。だが忘れてはならないのは、いかに不完全に遂行されているとはいえ、特別の責任には特別の手段(時には特別の便宜や権威の必要条件すら)が必要になることが多い、ということだ。また上級の地位には、少なくとも外見上の尊敬を要求する権利がある。・・・・

こうした理由から、確立した権威への尊敬を否定し、それを打倒しようとすることによって、自分の自尊心の背伸びをしようとする者に私は我慢がならない。たとえば自分の卒業式に変な下らない衣装で出てきて、してやったりと思い込む学生。行為の人物の個人的な弱点を笑いものにして、自分は賢く優秀なところを見せたと思うジャーナリスト。訪米した指導者のリムジンに卵を投げる者ども、などだ。他人を尊敬することができない者は、普通、自分をも尊敬することができない。だれも尊敬に値しないというのは、自分も尊敬に値しないと、知らず知らず告白することだ。

「エリート主義」への非難(その一部から私も免れなかったが)が私自身の心中に呼び起こした考えは、以上のようなものである。エリートは是非とも持とう。他人に尽くすエリート、良心、責任感、自制心にすぐれ、自分を顧みず他人のためになろうと心に決めたエリートを。だがこのエリートを持ったからには、理想に遠く及ばずとも、これを尊敬し、そんなものはなくてもよいというふりはしないことにしよう。他人は私のエリート主義傾向をうんぬんするが、かくて私は懲りず、臆せず、それを追及するだけだ。

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