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堀川哲男 『林則徐』 (中公文庫)

宮崎市定『隋の煬帝』礪波護『馮道』寺田隆信『永楽帝』などと同じく人物往来社「中国人物叢書」の文庫化。

ごく平易な文章で、読みやすい伝記。

清廉潔白で有能な官僚として順風満帆の人生を送ってきた林則徐が、アヘン問題への対応をめぐって世界史の舞台に踊り出る経過がよくわかる。

嘉慶帝・道光帝時代を通じて、アヘンの輸入増加による銀の流出・高騰が、地丁銀制のせいで一般民衆の過重な税負担に直結し、アヘン問題は道徳的・衛生的問題から経済的・社会的問題にまで発展する。

その対策として、林則徐は黄爵滋が唱えた、一定の猶予期間を経た上でアヘン吸飲者の死刑を含めた厳禁論に賛同し、1838年欽差大臣に任命され39年広州に赴く。

林は両広総督鄧廷楨、提督関天培らと協力して、アヘンの没収・廃棄に乗り出す。

その過程で、39年中に起こった武力紛争では、中国側が優勢であり、イギリスの首席貿易監督官チャールズ・エリオットは一時撤退を強いられる。

当時の清朝官僚の中では例外的に西欧事情に強い関心を持ち、有能な軍事組織者であることを立証した林だが、それでもやはり限界はあった。

林は、「中国はすべての物産を自給自足できるが、夷狄は必需品を中国に求めるほかない」という朝貢貿易の建前を疑わず、全面的な貿易途絶が必ずイギリスの屈服を齎すと信じていた節がある。

しかしイギリスは反撃に出る。当時の政府はメルボーン内閣(ホイッグ党)でありパーマストンが外相を務めていた。

現在の視点からだけでなく、当時からこの戦争は評判が悪く、出兵案の議会での承認はわずか9票差で可決された。

若きグラッドストンは堂々たる派兵反対論を議会で語っている。(なお当時のグラッドストンは尾鍋輝彦『最高の議会人 グラッドストン』によると保守党に属していたようである。)

イギリス以外の欧州列強においても、アヘン戦争は不評を極めたが、中国の時代錯誤の貿易制限は打破したいとの思いは強く、それゆえにイギリスの軍事行動への牽制は弱いものとなった。

ジョージ・エリオット(チャールズ・エリオットの従兄)を総指揮官とした総兵力4000人、軍艦16隻、大砲540門、輸送船等32隻のイギリス陸海軍が1840年6月中国海域に到着する。

林則徐は民兵を組織し、海上でのゲリラ的戦法で対抗し、イギリス軍は攻めあぐむ。

そこで英艦隊は北上し、浙江省寧波の沖合にある舟山列島の定海を占領する。

こうして戦線が広州に止まらず、華中におよぶ気配を見せると、清朝宮廷で和平・妥協論が急速に強まる。

さらに、イギリス艦隊が続いて北上し天津沿岸に現れると、皇帝のいる畿内から一刻も早く夷狄を追い払うために安易な妥協論が高まるのだが、これは現代の感覚からするとちょっと理解に苦しむところである。

清朝の敗因としては、軍事技術の劣勢だけでなく、官僚指導層の内部分裂、道光帝の恣意的指令など、政治意志上の欠陥も大きいのではないかと思えた。

イギリス軍の状況も磐石ではなく、定海占領中にマラリア・赤痢などで実に総兵員の一割にあたる400人が戦病死している。

林則徐は持久戦による抗戦継続を訴えるが、道光帝に退けられ、和平派の琦善が新たに欽差大臣に任ぜられ、林の組織した民兵は解散され、兵船は削減され、港の防御施設も多くが撤去された。

俄然強気になったイギリス軍は香港の割譲を要求し、拒否されると12月広州の清側砲台を攻撃・占領し、1841年1月に香港割譲・広州開港・公文上の対等などを内容とする穿鼻仮条約が結ばれる。

ところが英艦隊の天津退去を見た清朝宮廷ではまたもや強硬論が高まり、イギリスに宣戦するが、再び砲台を破壊・占拠され、勇将関天培も戦死する。

その後新たにイギリス側全権委員となったポティンジャーは軍を北上させ、厦門、鎮海、寧波、上海を次々と占領し、南京攻撃態勢を整えたところで、清朝は屈服し1842年8月史上有名な南京条約が結ばれる。

内容は高校世界史でも習いますが、確認すると香港割譲、広州・福州・厦門・寧波・上海開港、開港場への領事駐留、賠償支払、関税協定権付与、公行廃止、対等の国際関係確認。

翌43年には、五港通商章程で領事裁判権を承認、虎門寨追加条約で関税自主権喪失、片務的最恵国待遇、開港場における土地租借と居住権を承認する。

44年清・米間の望厦条約、清・仏間の黄埔条約でも同内容を認める。

最後の章では、その後の林則徐の経歴にも触れられている。

一時新疆地方のイリに追放されるが、その後帰京を許され、陝西や雲南に地方長官として赴任する。

彼は1850年に亡くなるが、本書の末尾に、最晩年のあまり知られていない史実が記されている。

1851年太平天国の大規模武装蜂起の以前からすでに問題となっていた上帝会の洪秀全一派を鎮圧するため、林が再び欽差大臣に任ぜられ討伐に向かったのだが、その途中で病を得て亡くなった。

もし彼があと数年生きていたら、清朝を守るため、かつてイギリスに対したのと同じように、太平天国軍とも勇敢に戦ったのは間違いない。

そうならなかったが故に、幸か不幸か共産中国成立後も林は「民族英雄」として扱われ続けたのだった。

前から読もうと思っていた本書をこの度通読しましたが、内容はまあまあでした。

真ん中あたりまで、林の前半生の官僚コースを記した部分はややタルいし、その後も期待したほどの面白さは無かったですが、基本的にはまずまずの良書と言えると思います。

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