« 2007年12月 | トップページ | 2008年2月 »

金七紀男 『増補版 ポルトガル史』 (彩流社)

カテゴリは「スペイン」でいいですね。

建国はカスティリャからの独立という形だし、その後の経緯からしてカスティリャ・アラゴン・ナバラ・カタルーニャと同じくスペイン王国を形成してもおかしくなかったようだし、フェリペ2世時代から60年ほどは実際に併合されていたし。

先史時代からローマ、西ゴート、イスラム支配を経て、ボルゴーニャ朝の独立、アヴィス朝による大航海時代の飛躍、フィリペ朝の併合時代、ブラガンサ朝による再独立、1910年共和政移行とサラザール独裁、1974年国軍運動クーデタと自由化、1986年EC加盟から21世紀初頭までを満遍なく叙述。

経済史・社会史にも多く紙数を割いているが読みやすい。(文化史は読み飛ばしたところが多かったが。)

政治史的記述については、高校世界史ではジョアン2世(とエンリケ航海王子)以外全く出てこない歴代の国王をほとんど省略せず一人一人の治世を丁寧にたどっているのが非常に良い。

巻末に詳しい王朝系図が載っているのも実に親切。

初心者が読む通史としては相当優れているんじゃないでしょうか。

かなりお勧めできる本です。

| | コメント (0)

宮脇淳子 『最後の遊牧帝国 ジューンガル部の興亡』 (講談社選書メチエ)

最近は以前にも増して堪え性が無くなって、これも三分の二くらい読んだ時点で放棄しました。

内容としてはモンゴル帝国成立と元朝の崩壊および北元を経てオイラートとタタール(韃靼)の興亡へと進む。(著者によると後者は単にモンゴルと呼ぶべきであり、前者の正しい発音は「オイラト」または「オイラット」というそうです。)

この辺りの君主の系譜が細かすぎて初心者は頭が混乱する。

以後清朝によるチャハル部・ハルハ部制圧、康熙帝のジュンガル部ガルダン・ハーン攻撃と乾隆帝によるジュンガル部滅亡まで。

史実の意外な解釈が面白いところもあったし、悪い本ではないと思うが、初心者にとっては複雑すぎて厳しい部分がある。

一般向け啓蒙書としては、もうちょっと枝葉を省いて平易な内容にして欲しかったところ。

一度図書館で中身をご確認下さい。

| | コメント (0)

08年度世界史Bセンター試験について

暇だったので先日行われた大学入試センター試験の世界史Bの問題をやってみたところ、意外や満点取れました。

数年前にも一度やってみたのですが、その時はかなり取りこぼしがあったと思います。

最近比較的世界史関連本を読んでいる効果があったのかなと喜びました。

しかし難関大の論述問題になりますと難しくてお手上げです。

こちらのHPの過去問を見ても解ける気が全然しませんね。

中にはかなり骨のある問題もありました。

年代を正確に記憶してないと正答が難しい問題がいくつかありました。

上のブログ執筆者様も言及されていますが、13世紀ユーラシア世界の事件として、ブワイフ朝のバグダード入城(946年)、リトアニア・ポーランド合同(1386年)、靖康の変(1126年)、マムルーク朝成立(1250年)の中から選択させるのはかなりの難問。後の3個で迷います。

あとコルシカ島とサルディニア島の区別やシャイレーンドラ朝がジャワ島に、アチェー王国がスマトラ島にあったことを答えさせるのも結構歯ごたえがある。

他の選択肢から消去法で選べるにしても「柔然が、5世紀に強勢を誇った」という文章の正誤判定には「うっ」と詰まる人が多いんではないでしょうか(正解はマル)。

金曜日に関連本を記事にした太平洋の歴史も出題され、ニューカレドニア・グアム島・モルッカ諸島・マーシャル諸島の領有国が正誤問題で問われました(順にフランス・アメリカ・オランダ・ドイツ→日本)。

「皇帝レオン3世は、ビザンツ帝国に養蚕業を導入し、絹織物業を興した」という正誤判定文もずいぶん細かいところ突いてくるなあと思いました(正解はバツ。正しくはユスティニアヌス帝時代)。

受験時代の丸暗記世界史に嫌な記憶も持っている方もおられるかもしれませんが、たまにやってみると面白いもんです。

時には知識の確認として平易な受験問題に取り組むのも良いでしょう。

| | コメント (0)

増田義郎 『太平洋 開かれた海の歴史』 (集英社新書)

ミクロネシア(サイパン・グアム・マーシャル諸島・パラオ・ナウルなど)、メラネシア(ニューギニア・ニューブリテン島・ソロモン諸島・バヌアツ・ニューカレドニア・フィジーなど)、西ポリネシア(ツバル・サモア・トンガなど)、東ポリネシア(ハワイからキリバス・タヒチを経てイースタ島やニュージーランドまでを含む広大な領域)の歴史を概観したオセアニア史。

こういう分野はいくら貴重だといってもあまり分厚い本は読む気がしないので、新書版一冊で適度な知識が得られるのは有難い。

別に読みにくいところはなく、最後まで楽に読める。

本文を読む際、巻頭の地図をめんどくさがらず何度も見た方が良いでしょう。

その方が頭に入ります。

暇な時に一読しておくといいんじゃないでしょうか。

| | コメント (0)

松田壽男 『アジアの歴史』 (岩波現代文庫)

副題が「東西交渉からみた前近代の世界像」。

古代から近代の「欧勢東漸」までのユーラシア史を極めて巨視的な視点から概観した本。

ごく短い本でありながら、濃い内容。

著者が作成したいくつかの概念図が興味深くわかりやすい。

中央アジアに関しては細かな事実関係でも教えられるところがある。

誰でも簡単に読めて、世界史を俯瞰する上で役に立つ見方を提供してくれる優れた本。

岩波同時代ライブラリーに収録されていた時から知っていたが、当時は無視していた。

今読んでみて、その判断が間違いだとよくわかりました。

楽に読めてわりと面白い本なので、皆様にもお勧めします。

| | コメント (0)

アントニオ・ドミンゲス・オルティス 『スペイン三千年の歴史』 (昭和堂)

えー、すみません、これもです。半分も読んでません。

前書きと途中までの叙述から判断して、人為的な国民統合を目的とする古色蒼然としたナショナリスティックな一国史を否定しながら逆の極端に陥るのも避け、自国の現状を抽象的に理解するための前提や資料として現代史のみを重視し「何の役にも立たない」時代を無視するという「社会学偏重主義」に批判的で、「他の歴史の支えとなる政治史のスケッチ」を書こうとする著者の姿勢には、大いに賛同するものであります。

しかし、当たり前ですが、スペイン人が対象読者に想定されている以上、日本人がスペイン史の入門書として読むにはちょっとチグハグな印象を受ける。

細かな史実には深入りしない大まかな概説には違いないんですが、読者が元々ある程度の事実関係を知っていることを前提にしているようで、一番基礎的な政治史としては使いにくい。

ケルト人・ローマ化・西ゴートから始まり、711年のターリク率いるウマイヤ朝軍侵入、ペラヨによるアストゥリアス王国建国とそのレオン王国への発展、以後のレコンキスタの進行と、何とか辛抱してフェルナンド5世とイサベル女王の「カトリック両王」のところまでは読みましたが、以降はギブアップ。

フェリペ2世以後の国王の系譜などを我慢して読み進めればそれなりに役立つ気がしますが、むしろ以前記事にした茨木晃『スペイン史概説』をもう一度熟読した方がいいんじゃないかと思ってやめました。

もうちょっとレベルを落として、基本的な事実関係を重点的に記述した本が欲しいですね。

あまり決め付けるべきではないんでしょうが、中公新書の『物語スペインの歴史』と『同 人物編』がもう一つの出来なのが惜しまれます。

| | コメント (0)

『内藤湖南全集 第十巻』 (筑摩書房)

すみません、読んだのは三分の一だけです。

日本の東洋史学の巨人である内藤湖南ですが、恥ずかしながら今まで全く読んだことがありませんでした。

『清朝史通論』(平凡社東洋文庫)も『支那史学史』(平凡社東洋文庫)も『東洋文化史』(中公クラシックス)も読めそうにないので、全集の中で一番概括的な著作が三つ収録されているこれを手に取りました。

しかし、「支那上古史」は神話・伝説時代の記述が晦渋で読みづらく、「支那中古の文化」は苦手な文化史なのでパスして、結局最後の「支那近世史」だけを通読。

これは大正年間の講義ノートを基にしたとは思えぬほど非常に読みやすい作品です。

時代区分として、開闢から後漢の中頃までを上古(古代)、後漢の後半から西晋を第一過渡期、五胡十六国から唐の中期までを中世、唐末・五代を第二過渡期、宋以後を近世としており、これは宮崎市定氏などの京都学派にも受け継がれているようです。

こういう大上段に構えた時代区分論は今では全く流行らないそうですが、私はこの種の話が好きなので楽しく読めました。

これも作品ごとに文庫化してもらえれば一番いいんですが。

筑摩書房様、よろしくお願いします。

| | コメント (0)

塩野七生 『サイレント・マイノリティ』 (新潮文庫)

いくつかある著者のエッセイ集の中では、本書は内容が多岐にわたり面白い方だと思う。

世界史上の事件・人物に関わる文章や、著者の歴史叙述の方法論など。

他には、同じ新潮文庫の『イタリア遺聞』がお勧め。

・・・・いかに困難な作業であろうと、「なぜ」と「どのように」の二つから逃げるわけにはいかない。確実に真実であることしか興味はないという人には、いつ、どこで、誰が、何をしたかだけで満足してもらって、今のことならテレビ・ニュース、歴史上のことなら、大学入試必勝法の歴史編に眼を通せば解決するであろう。しかし、それでは、歴史を読んだり書いたりする理由も愉しみもまったくない。

歴史というものは複雑で細かいディテールの集合体であって、それを新書版風に整理整頓してしまっては、歴史を読む愉しみが台無しになる危険がある・・・・

学究の徒ではなくても私も人並みに本は買うが、ルネサンス、などと大仰な表題の本は絶対に買わない。それよりも、中世の寺院の建造中、大工や左官や彫刻師にどのように給料を払っていたかを調べたものや、ガレー船上の食事についての本などを見つけると、ただちに駆けつけて買う。ルネサンスがどんな概念でできあがったかなど、一度読めばたくさんで、こんなものばかり読んでいると、歴史の愉しみを味わう境地からはずれてしまうように思えるのだ。

「ファシズムが天下を謳歌していた時代は反ファシストとして敵視され、戦争が終って民主主義の時代を迎えるや、保守反動と非難された」イタリアのジャーナリスト、レオ・ロンガネージの日記より。

1938年12月15日

ファンファーレ、旗の波、延々と続く行進。

一人の馬鹿は、一人の馬鹿である。二人の馬鹿は、二人の馬鹿である。一万人の馬鹿は、“歴史的な力”である。

1944年1月14日

アメリカ製の缶詰の肉は、喜んでいただく。しかし、それについてくる彼らのイデオロギーは、皿に残すことにした。

| | コメント (0)

大杉一雄 『真珠湾への道』 (講談社)

同じ著者の『日中十五年戦争史』(中公新書)が非常に素晴らしいと思ったので、これも読む。

時代として前著と繋がっており、1938年1月「国民政府を相手にせず」との第一次近衛声明から1941年12月8日真珠湾奇襲攻撃まで。

この間の歴史を詳細に検討し、泥沼化した日中戦争を収拾することはできなかったのか、ドイツの表面的優勢に惑わされず破滅的な日米戦争を避けるために何か欠けていたのかを追求している。

版形はデカイし500ページを超える大著だが、手に取ってみると実に興味深く読みやすい記述で、集中して二日で読めた。

著者の意見をすべて鵜呑みにする必要は無いし、私も異議のある部分があるが、しかし考え方が違うという理由で捨てるにはやはり惜しい。

事実関係を楽々と頭の中に入れることができる。

この辺の歴史は年代だけでなく多くの場合月までも正確に把握しながら読み進める必要があるが、そのためのテキストとして非常に優れている。

前著と同じく、個々の史実への評価が明確で面白く、強く印象に残る。

これは分冊文庫化してもらいたいですね。

| | コメント (0)

F・W・ウォールバンク 『ヘレニズム世界』 (教文館)

すみません、挫折しました。

第一章の史料検討がタルいなあと思い、第二章のアレクサンドロス大王の事績が他の本で大体知ってることで退屈だなあと思い、第三章「諸王国の形成」に来た所でこれは面白いと思い直し、第四章の文化史で苦しいなあ、まあごく大まかな論旨だけ掴めばよいかと思い、読み続けましたが第五章であまりにめんどくさくなって放り出しました。

結局20ページ余りの第三章でディアドコイ戦争の過程がわかったことだけが本書の収穫でした。

本書に加え、森谷公俊『王妃オリュンピアス』を参考にしてその概略を記すと以下の通り。

前323年大王がバビロンで死去。

バクトリア地方の豪族の娘ロクサネが大王の死後生んだ子がアレクサンドロス4世として、大王の異母弟だが知的障害があったため目立たない存在だったアリダイオスがフィリッポス3世としてそれぞれ即位。

ペルディッカスが両王の摂政として諸将の中で首位を占める。

王国は分割され、エジプトはプトレマイオス、小アジアはアンティゴノス、エウメネス、レオンナトスら、トラキアはリュシマコス、マケドニアは大王東征中から留守を守っていた老将アンティパトロスがそれぞれ支配。(レオンナトスは直後反乱鎮圧の際戦死。)

ペルディッカスが大王の妹クレオパトラと結婚しようとしたことを契機に警戒を強めた他の将軍たちは連合して対抗(エウメネスのみはペルディッカスと同盟)。

まずエジプトに向かったペルディッカスだったが、部下に暗殺される。

前320年シリアのトリパラデイソスでの会談でアンティパトロスが新たな摂政になり、アンティゴノス(・モノプタルモス[独眼王])がアジアの将軍とされ、セレウコスがバビロニアを支配することになる。

前319年アンティパトロスが自分の息子カッサンドロスではなく、ポリュペリコンを後継摂政に任命して死去。

アンティゴノス、リュシマコス、プトレマイオス、カッサンドロスの反ポリュペリコン同盟成立(エウメネスはポリュペリコン派)。

カッサンドロス軍がギリシア侵攻。フィリッポス3世と妻エウリュディケはカッサンドロス支持を宣言。

対抗してポリュペリコンが大王の母オリュンピアスを招くと、オリュンピアスはフィリッポス夫妻を殺害。

マケドニアに侵攻したカッサンドロスはオリュンピアスを裁判にかけ処刑する。

アンティゴノスはエウメネスを攻め滅ぼし、バビロニアを任せていたセレウコスを追い出す(セレウコスはプトレマイオスの下に亡命)。

今度はプトレマイオス、カッサンドロス、リュシマコスの反アンティゴノス同盟が成立、アンティゴノスはかつての敵ポリュペリコンと同盟。

プトレマイオスはパレスチナでアンティゴノスの息子デメトリウスを撃破、その機を捉えてセレウコスはバビロンを回復。

前311年和平が結ばれ、カッサンドロスをアレクサンドロス4世の摂政とし、領土は現状維持が合意されたが、カッサンドロスは邪魔者となったアレクサンドロスとロクサネ母子を殺害。

その後はアンティゴノス包囲網を基本としながら、時には和解・同盟が試みられるが、最終的に前301年イプソスの戦いでカッサンドロス・リュシマコス・セレウコス連合軍がアンティゴノス・デメトリウス父子に決定的な敗北を蒙らせ、アンティゴノスは戦死、デメトリウスは逃走した。

(恥ずかしながらかなりの期間、私はこのイプソスをイッソスと混同しており、同じ場所で二度重要な戦いが行われたと勘違いしてました。)

カッサンドロス死後、デメトリウスは一時マケドニアを保持したが、リュシマコスによって追い出され、セレウコスの捕虜となり死去。

前281年リュシマコスはセレウコスに敗北し殺されたが、ヨーロッパに渡ったセレウコスもリュシマコスの一族のうち味方に付けていた人物に暗殺された。

その後弱体化したマケドニアにはガリア人が侵入、無政府状態に陥るが、デメトリウスの子アンティゴノス・ゴナタス(2世)がガリア人を撃退し王位に就く。

エジプトはプトレマイオス2世、アジア・東方領域はアンティオコス1世に引き継がれ、これで三王国の分立体制が確立する。

私はほんの一部しか読んでいませんが、最後まで通読すればそれなりに有益な本だと思います。

| | コメント (0)

F・フェイト 『スターリン時代の東欧』 (岩波書店)

第2次世界大戦後から1953年スターリンの死までの東欧共産圏の歴史。

著者の立場として、極端に粗暴な反共主義には同意していないが、この時期のソ連による強引な「上からの共産化」が冷戦の直接的原因であったとはっきり指摘している。

まず反ソ勢力をのぞいた連立政権をつくるが、その際、警察と軍隊は共産党がにぎる。そして、共産党の権力奪取にとって邪魔になる政党を、警察とソ連占領軍との協力によって弱体化させつつ、猛烈な干渉をともなう選挙をおこなって共産党の支配を確立し、共産党の権力がかたまった後で社会党を吸収合併するというものである。(高坂正堯『現代の国際政治』

以上のような手口でポーランドをはじめとする国々で人民民主主義という名の独裁体制が確立され、1948年2月には東欧で唯一議会が正常に機能していたチェコスロヴァキアでクーデタが起こり共産党が支配権を握る。

同じ48年の6月には前年結成されていたコミンフォルム(共産党情報局)からユーゴスラヴィアが除名され、以後ユーゴはソ連と衛星国からの猛烈な非難・攻撃の対象となる。

もともとチトー率いるユーゴ共産党はソ連に忠実であり、西側への強硬姿勢も徹底したものだったが、収奪に等しい経済合弁事業や党・軍・治安機関への親ソ分子浸透を拒否したためスターリンの逆鱗に触れ、体制崩壊を狙うソ連の圧迫を受けるが、チトー・カルデリ・ジラス・ランコヴィチらのユーゴ指導部はよく団結を守り政権を維持する。

以後衛星国の自主性を可能な限り抹殺しようとするソ連の方針はますます厳しくなる。

信じがたいが、この時期ポーランド系とは言え、れっきとしたソ連軍人であるロコソフスキー元帥がポーランドの国防相と軍最高司令官に就任している。

ユーゴ除名がソ連国内でのキーロフ暗殺と同じような役割を果たし、「チトー主義者、ファシスト・西側のスパイ」という名目で残酷な粛清が行われ、ハンガリーのライクやブルガリアのコストフ、チェコのスランスキーのような最高指導部に属した人間が見世物裁判の後死刑に処せられた。

ポーランドのビエルト、チェコのゴトヴァルト、ハンガリーのラコシ、ルーマニアのゲオルギウ・デジ、ブルガリアのディミトロフおよびチェルヴェンコフ、アルバニアのエンヴェル・ホッジャ、東ドイツのウルブリヒトなどの「小スターリン」たちが暴政を布く。

スターリン死後、ソ連の支配はやや緩み、ポーランドのゴムルカ(粛清に巻き込まれ逮捕されるが幸運にも死を免れた)に代表される、ある程度の独立性を持った指導者が政権に就くことになる。

史実を要領よく説明している読みやすい本です。

ただ初心者はまず上記の『現代の国際政治』や猪木正道『冷戦と共存』猪木正道・佐瀬昌盛『現代の世界』などの国際政治史の本を一冊読んでおいた方が良いと思います。

一読すれば、かなり多くのものが得られる良書です。

| | コメント (0)

山村良橘 『世界史年代記憶法』 (代々木ライブラリー)

私が高校生のころ使っていた本。

何でこんな絶版の受験参考書を挙げるのかというと、以下のようなことを言いたいため。

「歴史は流れがわかればよいのであって、細かな年代などを覚えさせるのはナンセンス」という意見に私は必ずしも賛成しません。

ある程度の大まかな年代がわかっていないと、「流れ」を覚える効用が激減する。

史実と史実の間の時間の感覚が全くつかめないと、物語としての歴史を覚えるのにも往生する。

特に変化の激しい現代史の場合、それこそ一年きざみで歴史の動きを見ていかないと正確な理解は不可能。

また同じ国家・王朝・文明圏内の歴史ならともかく、複数のそれに跨る同時代史や交流史になると、年代暗記の重要性はさらに増す。

高校生のころ、以下のようなポイントを押さえて同時代の比較に使った覚えがある。

「アレクサンドロス大王の北西インドへの侵入によって、その後のマウリヤ朝の統一活動が容易になった」

「エフタルの侵入によってグプタ朝は衰退し、そのエフタルをササン朝のホスロー1世は突厥と同盟して滅ぼした」

「カール大帝はアッバース朝のハールーン・アッラシードと使節を交換した」

「成立直後のアッバース朝は玄宗治下の唐軍とタラス河畔で戦った」

「三十年戦争直後で大陸諸国が疲弊していたので、ピューリタン革命下のイギリスは国王を処刑しても干渉を受けなかった」

この手の話は便利だしどんどん覚えていけばいいが、それだけでなく精選された最重要の年代を正確に記憶することが大切だと思う。

個人的にはこの種の暗記作業を馬鹿にすべきではないと考えます。

中谷臣氏は受験対策として高校教科書の「本文に」書かれている年号を覚えることを勧めていますが、これは一般人が世界史を学ぶ際にも一応の目安になると思います。

じゃあ私自身どれだけの年号を記憶してるのかと言われると心許無いですし、人に押し付ける気も毛頭無いんですが、一つの意見として書かせて頂きました。

| | コメント (0)

山本俊朗 井内敏夫 『ポーランド民族の歴史』 (三省堂選書)

1980年刊。類書が少ない中、比較的簡略な通史で読みやすい。

評価としてはまあまあだということをまずお伝えしておきます。

以下個人的備忘録のつもりで細かくメモした結果、異様に長い記事となりましたので、面倒に感じられる方は無視してください。

966年ポーランド王国初代君主ミエシュコ1世がキリスト教に改宗。次のボレスワフ1世の時に国土統一。

しかし王家の分割相続によって国の統一が弱まり、1241年にはモンゴル軍とのワールシュタットの戦いで国王ヘンリク2世が戦死する。

その後カジミエシュ3世(大王)(在位1333~70年)時代に繁栄を取り戻す。

領土を拡張し、クラクフ大学を創立、神聖ローマ皇帝カール4世とハンガリー王との争いを調停するほどだが、ドイツ騎士団の圧力に常にさらされる。

大王死後、ピアスト朝が断絶すると最後の後継者ヤドヴィガがカトリックに改宗したリトアニア大公国の君主ヤギェウォと結婚し、1386年リトアニア・ポーランド王国が成立。

現在はバルト海沿岸の一小国であるリトアニアだが、当時はロシア・ウクライナの住民を「タタールのくびき」から解放して、地図を見ると我が目を疑うほどの広大な領域をキエフを含む内陸部に占めていた。

1410年グルンヴァルト(タンネンベルク)においてヤギェウォはドイツ騎士団軍に圧勝し、以後両者の関係でポーランドは常に優位を保つ。

16世紀初めルター派に改宗した騎士団領が世俗のプロイセン公国となり、初代プロイセン公ホーエンツォレルン家のアルプレヒトはポーランド国王に臣従する。

しかし全人口の10%を占めるシュラフタという貴族身分の力が強く、ヨーロッパ各国が絶対主義体制を固める中で、中央集権化に遅れをとる。

著者はこの「シュラフタ共和国」を必ずしも衰退の原因とは見ず、16世紀はそれが有効に機能していた時代であり、その繁栄の上にコペルニクスに代表される文化の華が開いたとしている。

1573年ヤギェウォ朝断絶、選挙王制に移行。最初の国王はフランス王シャルル9世の弟アンリ(ヘンリク)・ヴァロワが選ばれたが、直後にシャルル9世が死去したため帰国、ヴァロワ朝最後の王アンリ3世となる。

以後の内政は無秩序な大貴族の寡頭制に堕し、国運は大きく傾く。

対外的にはイヴァン雷帝死後混乱が続きリューリク朝が断絶したロシアに侵攻し、スウェーデン出身でポーランド王に選ばれていたジグムント3世の子をツァーリとすることに一時成功するが、1613年ミハイル・ロマノフの即位によってそれも水泡に帰す。

直後のスウェーデン王グスタフ・アドルフの侵攻を退け、以後の三十年戦争では局外に立つが、1648年にウクライナのコサックが反乱を起こす。

蜂起したコサックがロシアに接近することによりウクライナはほぼ失われ、ロシア・スウェーデン両軍の攻撃を受け「大洪水」と呼ばれる混乱期となり、この時期プロイセン公国はポーランドの宗主権から離れる。

1683年オスマン帝国の第2回ウィーン包囲にあたって、ヤン3世ソビエスキが援軍として駆けつけキリスト教世界の救世主と称えられたが、内政は貴族の拒否権乱発と反宗教改革の勝利による偏狭なカトリック主義とで機能不全となり、都市は没落し農村は疲弊した。

ヤン3世死後、ザクセン選帝侯のアウグスト2世が即位、ロシアのピョートル1世と結んで1700年北方戦争に参戦。

スウェーデン軍侵入時、スタニスワフ・レシチンスキが一時即位するが、ポルタヴァ戦でロシアが勝利するとアウグスト2世が復位した。

18世紀初頭の二つの戦争――スペイン継承戦争(1701~14)と北方戦争(1700~21)――はヨーロッパの政情を大きく変えた。前者によってフランスのブルボン家は、スペイン王位を獲得したが、盛時の力を失った。一方マドリードを手放したオーストリアは、徐々に西ヨーロッパ問題から撤退し始め、バルカンへの進出を最大の政治目的とするようになった。他方、バルト海の覇権をめぐる北方戦争は、スペイン継承戦争を上回る変化を東ヨーロッパにもたらした。17世紀の強国、スウェーデンが消えた。これに代わってピョートル大帝のロシアが一挙にヨーロッパの政治舞台に登場した。

1733年アウグスト2世死去、その子アウグスト3世が即位すると、スタニスワフ・レシチンスキの娘と結婚していたフランス王ルイ15世は義父の即位を主張して、オーストリアに宣戦、ポーランド継承戦争(1733~35年)が勃発する。

本書では詳しい記述が無いので、ピエール・ガクソット『フランス人の歴史』吉川弘文館の『世界史年表・地図』などで補強すると、この戦争の結果ポーランド王位はアウグスト3世に、レシチンスキにはロレーヌ(ロートリンゲン)公の位が一代に限り認められる。(1766年彼の死後ロレーヌはフランスに併合された。ちなみにアルザスは三十年戦争後ウェストファリア条約でフランスに併合。ただし中心都市のストラスブールはやや遅れて違う経緯で仏領となる。ロレーヌのうちツール・ヴェルダン・メッツの各都市もウェストファリア条約での併合。)

以前のロートリンゲン公フランツはメディチ家断絶後のトスカナ大公国を与えられ、神聖ローマ皇帝カール6世の後継者マリア・テレジアと結婚する。

さらに先のスペイン継承戦争とラシュタット条約の結果、スペイン本国のブルボン家統治を認める代償としてオーストリアに引き渡された南ネーデルラント、ミラノ、ナポリのうち、ナポリがスペイン・ブルボン家に譲渡される。

なおラシュタット条約では、シチリア島はサヴォイ公国、サルディニア島はオーストリア領有だったが、1720年両者が交換され、サヴォイ公国はサルディニア王国となっていた。

1735年ナポリと共にシチリアも割譲され、この両地域は1860年ガリバルディに征服されるまでブルボン朝王国として存続することになる。

以上の領土の移動はかなり重要な史実のように思えるが、教科書には載っていない。

このポーランド継承戦争が高校世界史の範囲外なのは解せない。

読む方もウンザリでしょうが、書く方も疲れました。以後できるだけ簡単にいきます。

アウグスト3世死去後、ロシアの支持を得たスタニスワフ・ポニャトフスキが最後のポーランド国王として即位(在位1764~95年)。

彼は即位前ロシアに滞在中、エカチェリーナ2世の愛人だったという人物。

ポニャトフスキは国制改革を進めようと努力するが、ポーランドを緩衝国として利用しようとするロシアの政策が変化し、その姿勢は領土併合へと傾く。

1772年普・墺・露によって第1次ポーランド分割。

その後しばらく間が空き、国内の危機感の高まりを受け1788年の議会は改革を討議し、91年立憲君主制と議院内閣制、有産シュラフタ・上層市民の緩やかな融合を目指した「五月三日憲法」を制定した。

これはバークも賞賛したほどの穏和で漸進的な改革だったが、折悪しくフランス革命の混乱が引き起こされており、エカチェリーナ2世はこれに徹底した不信と敵意を示す。

1793年普・露による第2次分割。コシューシコは独立維持のため蜂起し、パリでジャコバン政権に援助を要請するが具体的支援は得られず、自らも捕虜になる。

1795年三国による第3次分割でポーランドは滅亡。

ナポレオン戦争時代、大敗したプロイセンとオーストリアの領土からワルシャワ大公国が作られるが、ナポレオン没落と共に消滅、ウィーン会議で大公国の元領土の多くがロシア支配下に入り、ロシア皇帝が国王を兼任するポーランド王国が作られる。

ロシア本国では影も形も無い憲法が王国には与えられるが、実質の運用は即停止され圧政が強まる。

1830年、46年、48年、63年の反乱は全て失敗。

19世紀末には近代的政党による反抗運動が始まるが、左派の「ポーランド王国・リトアニア社会民主党」のローザ・ルクセンブルクは階級闘争を最重要視し、独立運動の意義を認めなかった。

「ポーランド社会党」内ではやはり階級闘争重視の左派と民族独立重視の右派に別れ、将来の独立ポーランドにおける最重要人物ピウスツキはこの党の右派に属していた。

その他、漸進的・融和的方針を掲げるドゥモフスキの「国民連盟」「国民民主党」があった。

第一次大戦においてピウスツキは独・墺側で戦うが、ポーランド軍の独自性を強く主張したため当局に投獄される。

1918年ドイツ降伏によって釈放、ロシア革命後の混乱もあって独立を達成したポーランドの指導者となる。

1920年ソヴィエト・ポーランド戦争でワルシャワ前面に迫った赤軍を撃退し、有利な東方国境を制定するが、民族感情の対立からロシア白衛軍やウクライナ軍と協力せず、ソヴィエト政権打倒のチャンスを逃したのは、後世から見ると切磋扼腕せずにはいられない。

独立後も経済は不振で、訓練不足の議会制民主主義は機能せず、情勢が混乱を極めるとピウスツキは1926年クーデタを起こし、事実上の独裁権力を握る。

以後35年の死に至るまで政権を担当するが、ここで問題になるのが34年ドイツと結んだ不可侵協定である。

これも高校世界史では出ない事実だが、野田宣雄『ヒトラーの時代』によれば、これはヒトラー政権初の外交攻勢であり、ポーランドとの友好関係を誇示して、フランス・ソ連に圧力をかけることを可能にしたと評価されている。

それまでドイツ国防軍とソ連赤軍の秘密交流やラパロ条約のようにポーランドを敵視して独ソ間の連携が存在し、フランス・ポーランドがそれに対抗する形だったのが、以後35年の仏ソ相互援助条約のようなフランス・ソ連間の連携が生れた。

最終的な結果を見ればやはりこれは失敗と言えるのだろうが、ヒトラー政権成立時にフランスに対独予防戦争を提唱したが拒否されたピウスツキとしては自国の安全のために当時最善と思われる行動を取ったつもりだったのかもしれない。

第2次大戦と戦後の共産化以後の歴史も述べられていますが、自分がメモしたい部分は以上で終わりなので、これで止めときます。

最初に書きましたが、悪い本ではないです。

ただ中公新書の『物語ポーランドの歴史』が出る場合は、これ以上の出来を期待します。

| | コメント (0)

アンドレ・モロワ 『ディズレーリ伝』 (東京創元社)

明けましておめでとうございます。

本年最初の本は高校教科書にも太字で載っている19世紀イギリスの大政治家ベンジャミン・ディズレーリの伝記。

ネット上であれこれ検索していると、アンドレ・モロワがこういう本を書いているのに気付いたので読んでみた。

大英帝国絶頂期に保守党を率いて内閣を組織した大宰相とくれば、さぞかし由緒正しい名門貴族の出かと思うが、実際は全く違う。

祖父の代にイタリアから移住してきた改宗ユダヤ人であり(名前のディズレーリは「ド・イスラエリ」)、最初は小説家として世に出る。

ヴィクトリア女王即位と同年の1837年初当選を果たし、持ち前の雄弁で頭角を現すが1841年成立のピール保守党内閣ではポストを得られず冷遇される。

1846年ピールが従来の主張を棄て自由貿易主義に転向し穀物法廃止を決断すると、内閣は倒壊し保守党は分裂、ピール派は離党する(この時グラッドストンもピールと共に保守党を離れる)。

ディズレーリは分裂後の保守党内でダービー伯(スタンリー)に次ぐ地位を占める。

以後の政局は1846~52年ラッセル、52~55年アバディーン、55~58年パーマストン、59~65年第2次パーマストン、65~66年第2次ラッセルと自由党内閣が長期間続き、保守党政権は52年の短期間と58~59年の二度のダービー内閣のみ。

しかしその間ディズレーリは保守政治再興のために尽力し、保護貿易主義の党是を事実上放棄し、「進歩的」ではありながら新興産業資本家の利益を代表しがちな自由党に対抗して地主貴族を基盤とする保守党が労働者階級の利益を擁護すべきだとする「民衆的保守主義」を唱える。

1866年成立の第3次ダービー内閣では、67年自由党の機先を制し第2次選挙法改正を行い、都市労働者に選挙権を与える。

ダービーの禅譲を受けて1868年組織した第1次内閣は10ヶ月ほどの短命に終わるが、第1次グラッドストン内閣(68~74年)の後を継ぎ、1874年から6年間続く本格政権となる第2次内閣を成立させる。

任期中にスエズ運河株買収(75年)、インド帝国成立(77年)、ベルリン会議におけるロシア南下政策阻止(78年)、第2次アフガン戦争(78~80年)によるアフガン保護国化などを遂行。

元々ピール贔屓だったヴィクトリア女王は若い頃のディズレーリに強い不信感を持っていたが、その後は「小英国主義」を唱え英帝国の威信に無関心と思えるグラッドストンを嫌悪したため、ディズレーリに対しては深い信頼を寄せ、彼をビーコンズフィールド伯とし貴族院に移るように勧め議院での負担を軽くしてやる。

1880年総選挙で敗れ政権を再びグラッドストンに譲り引退した翌年に死去、国民各層に悼まれる。

4度内閣を率いたライバルのグラッドストンに比べると在任期間は短いが、保守党後継者のソールズベリは3次にわたる内閣を組織し、以後二大政党制が健全に機能していく。

読みやすくてなかなか面白い。手堅い作りの伝記作品。

こういう伝記を文庫版に多く収録して、いつでも手に入るようにしてくれる出版社がどこかないもんでしょうか。

以前なら中公文庫がそういう役割を比較的果たしていたと思うんですが。

「私はかれらの約束している自由主義よりも、われわれが享受している自由のほうを愛するし、人権よりも英国人の権利を愛する。」  ――ディズレーリ――

彼にとっては、保守主義者であるということは、もう時代おくれだと思われる制度を弁解めいた微笑を浮かべながら支持することではなくて、ロマネスクで誇りに満ちた唯一の聡明な態度であった。それだけが真のイギリス、領主の館を中心に集まった村々、小地主貴族の活力を持った根気強い連中、昔からのもので同時にたいへん開放的な貴族政治、それに加えて歴史というものを誠実に考える態度だった。「しばしば皮相な人間には嘲笑されるが、伝統に対する尊敬というものは、人間性の深い認識に根ざしているように私には思われる」。自由主義者や功利主義者の理論的な主張に対して、一個の現実的な主張を打ち立てねばならなかった。

彼にとっては近代政治の論争はすべて歴史派と哲学派の間の問題であった。そして彼は歴史派を選んだ。国家とは、単なる精神の操作によりそれがいかなる権利を持つかを演繹できるような抽象的存在ではない。「国家とは一個の芸術作品であり、時間の作品である」。国家にも個人と同じく気質がある。イギリスの偉大さについていえば、大したこともない天然資源にあるのではなくて、その制度から来るのである。イギリス人の権利は人権よりも五世紀も古い。

若い理論家はいつもこんなふうに考えた。一八三五年に彼は《ある気高い貴族に与える書簡形式のイギリス政体擁護論》なるものを公にしたが、この政治哲学の作品は、最も秀でた批評家さえもその形式の完璧さと思想の成熟を認めるほどの出来だった。選挙なしの代表を認めない者にとっては、貴族院の存在は不条理と思われるかもしれないが、ディズレーリは代表なしの選挙の危険のほうがもっと大きいことを示した。職業政治家の少数が選ばれて、その国を代表してもいないのに寡頭政治を布くこともあり得る。逆に貴族院は現実の勢力を代表している。それは大監督によって教会を代表し、大法官によって法を代表し、総督によって州を代表し、先祖代々の地主によって土地を代表している。衆議院については逆に、一八三二年のホイッグ党のごく僅かの改革よりもっとずっと大幅に補充されることを彼は望んでいた。保守党の長たる者の務めは、過去の未だに生命を持ち現に生きている部分を擁護すると同時に、党から時代おくれとなった偏見や理論をとり除き、とくに下層階級に対する愛情にはぐくまれ、これを獲得する能力を持つ寛大な政治へと党を勇敢に導く勇気を持つことだと彼には思われた。

封建制度が廃止されるのはいいが、人間は相互の義務により互いに結びつけられているのだと考える封建的態度が望ましいものであることは変わらなかった。《貴族たる者は身分にふさわしくあるべし》というのが生活の規準だった時代をかれらは懐しがったし、そしておそらく消えかけた火をかき立てることはまだ可能なのだ。

| | コメント (0)

« 2007年12月 | トップページ | 2008年2月 »