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トーマス・マン 『非政治的人間の考察 上・中・下』 (筑摩書房)

林健太郎『二つの大戦の谷間』で書名を知って以来、気になってた本書を通読。

トーマス・マンの作品で過去に読んだものと言えば、『ヴェニスに死す』か『トニオ・クレーゲル』のどちらか(それすら覚えてない)だけ。

『魔の山』も『ブッデンブローク家の人びと』も読んだことはないし、この先一生読めないままでしょう。

「それでいきなりこれかよ」と思われるでしょうが、これはっきり言って面白すぎます。

挫折してもいいから試しに手に取ってみるかという感じで読み始めたのですが、上巻の半ばくらいから全く目が離せなくなり、まさに巻置く能わずといった状態で普段の自分としては考えられないようなペースで最後まで読めました。

特に中巻が凄い。密度が濃すぎる。目から鱗が落ちるような文章の連続。

そもそも本書は、第一次大戦末期に反ドイツ的言論に反駁する目的で書かれた論文集。

言葉の定義として、著者はシュペングラーなど多くのドイツ知識人と同じく、「文化」を高貴な生と創造的精神に満ちた状態であるとするのに対し、「文明」は文化が堕落した、物質主義と凡庸で醜悪な精神の支配する社会と見る。

そういう視点から、米英仏の民主主義文明を排撃し、ドイツの非政治的市民文化を擁護する。

ドイツの西欧化・民主化を無条件に救いと見なしそのために祖国の敗北すら望む(実兄ハインリヒ・マンを含む)「文明の文学者たち」に激しい怒りをぶつけつつ、単純粗暴なナショナリズムに足元をすくわれることも避けた真摯な思索に深い感銘を受ける。

ゲーテ・ショーペンハウエル・(中期までの)ニーチェを導き手にして近代という時代の急所をズバリと突く思考の鋭さ、それを支える重厚な表現力の双方にひたすら圧倒される。

著者はワイマール共和国時代に入ると、ナチスを含む極右勢力のテロリズムに驚愕し、共和制と民主主義擁護の立場に転じ、ヒトラー政権成立とともに亡命、反ナチ運動に献身するわけですから、本書の立場は著者自身によって「乗り越えられた」とみるのが一般的理解なんでしょう。

ただ個人的には民主主義という立場に立たずに、本書のような立場でも反ナチであることはできるし、むしろその方がより本質的で有効なんじゃないかという気がしました。

もちろんこれは非常に大きな問題で、私ごときが偉そうに、したり顔で論じられることじゃありませんが。

いろいろ検索して見つけた以下の論文では、マンの政治的志向の変化は単なる「転向」と呼ぶべきものではないですよといったことが書いてあるようですので、興味のある方はご覧下さい。

「トーマス・マンとワイマール共和国」(PDFファイル)

とにかく凄い本です。是非お勧めします。

読み終えて数日経ちますが、未だに興奮がおさまりません。

今まで読んだ本の中でも一、二を争うほどの感動を与えてくれた本です。

息子のゴーロ・マンの『近代ドイツ史』(みすず書房)もそうなんですが、こういう無条件で推奨したい本に限って品切れで入手しにくいのが残念でなりません。

新潮社版『トーマス・マン全集』の11巻にも入っているようですので(ひょっとしたら抄訳かもしれませんが)、図書館で借りる場合こちらの方が探しやすいかもしれません。

筑摩書房におかれては、早急にちくま学芸文庫に収録し会社が潰れない限り在庫して頂きたいと切に願います。

あらゆる啓蒙主義道徳、人間の「真の利益」を説くすべての教義は、本来いかに精神的なものであろうとも、それどころか、初めのうちは人間の真の利益は「神のなかに生きる」ことだとさえ定義していようとも、ひとたび権力の座につき、大衆のこころを手に入れてしまうと、かならず権力獲得の程度に比例して堕落する。すなわち、物質化し、経済化し、非精神化する。他方、啓蒙主義道徳に忠誠を誓う大衆も、かならずますます欲の皮があつくなり、不満をつのらせ、ますます愚かになり、不信仰になる。そう、ますます非宗教的になる。宗教と政治とを分離できると考えているところに、自由主義の誤謬がある。宗教なしには、政治は、内的政治は、つまり社会政策は、結局のところやっていくことができない。というのは、人間という動物は、形而上的宗教をうしなうと、宗教的なものを社会的なもののなかに移しかえ、社会的生活を宗教的神聖さに高めようとするものであるが、その結果は、反文化的な社会的愚痴こぼしか、でなければ、社会的対立は解消できず、約束された幸福はいっこうに実現しないものだから、功利的争いの永続化と絶望か、そのいずれかに行きつくのがおちなのだ。宗教心は、たしかに社会的良心や社会的清潔欲とけっこう手をにぎりあえるものである。しかし、宗教心が発生するためには、まず社会生活の過大評価が消滅しなければならない。すなわち、和解は社会的領域以外のところに求めなくてはならぬという認識がうまれたときにはじめて、宗教心が生じる。社会生活の過大評価が精神を支配し、社会生活の絶対的神格化がはじまるところでは、宗教心は居場所をうばわれ、逃げだすほかない。あとに残るのは、絶望的な不和軋轢だけである。

普通選挙制を積極的に主張する人びとの議論は、それが精神的あるいは倫理的要求をかかげるかぎり、どれもこれも根拠のない議論であると思う。・・・・・ドイツ民族のように、いろいろな階層に分化し、それぞれの層の精神的格差が大きい民族にあっては、功績・年齢・教育程度・精神的位格などを考慮に入れ、よく考えた上で慎重に定められた多元的選挙制度が適している。・・・・・このような選挙制度の方が、普通選挙制度より相対的に公正であろう。人間社会の法秩序においてのぞみうるものは、いかなる場合でも、相対的公正でしかない。ところが、こういう選挙権は、すこしでも公正さに近づくために格差をつけるにあたっても十分に考えぬき、貴族主義的な品位をうしなわず、聡明であればあるほど、また、いろいろと工夫や創意を盛りこんであればあるほど、民衆には、それが公正な選挙制度であることがますますわからなくなる。民衆は、つねに最も単純な、最も稚拙な、最も原始的な種類の公正さしか、つまりまわりくどいことなどいわずに、すべての人に同じものをあたえてくれる公正さしか、公正な制度であるとはおもわない。しかも、その原始的な公正を絶対的な公正であると思いこんでいるために、貴族主義的な法律にたいしては、なんでもかでも情熱的に反対するのが道徳的であると考える。この情熱たるや、いかなる法秩序も完全ではありえないという意識をもつ者にはとうてい考えることもできないほど猛烈なものであって、おかげで、結局は民衆が勝利をおさめることになる。だから、今日なお政治をすることが可能だとすれば、民衆とその原始的にして反貴族主義的な法律熱にたよるほかない。・・・・・だが、精神や哲学やすぐれた思想も政治のなかには明らかにもはや求めることも言うべきことももたないということが事実であるからこそ、精神的生活を政治的生活から分離し、政治的生活にはおのれ自身の宿命的な道をすすむにまかせ、精神的生活をこのような宿命から解放し、晴れやかな独立性へと高めることが、どうしても必要なのだ。

デモクラシーとは、上から来るものであって、下から来るものではない。すくなくとも、そうあるべきである。デモクラシーは権利の要求であるべきではない。それは簒奪や不遜な要求ではなく、退位であり、恥じらいであり、断念であり、人間性であらねばならない。デモクラシーは、神の世界に政治が侵入してくる以前の姿に、すなわち、あらゆる差別を越えた、しかし、すべての差別を形式的には保持した兄弟愛に、もう一度もどるべきである。デモクラシーは(わたしは、一貫しておなじことをいっているのだが)、倫理であるべきであって、政治であるべきではない。それは人間が人間によせる善意、両方のがわからの善意でなければならない。というのは、奉公人が主人の善意を必要とするのとまったくおなじ程度に、主人もまた、奉公人の善意を必要とするからである。

自由――この否定概念は、実際、それ自身のなかにみずからの品位をふくんでいない(というのは、否定それ自体は、いかなる品位ももたないからである)。それは、その目的語によって、すなわち、それが否定し拒絶するものによってはじめて品位を獲得することができる。・・・・・自由を要求する人間の大多数がひそかに願っているのは羞恥と礼節からの自由ではあるまいかという猜疑がかならずしも不当なものではないと考えるには、なにもこちこちの人間嫌いである必要はない。自由概念の否定性は、まったく際限がない。それは一種の虚無主義的な概念であり、したがって、きわめて微量を服用した場合にだけ治療効果のある薬用毒物のごときものである。もう一度たずねるが、世界の、全世界の最も内奥の要求が自由概念によるよりいっそうの無政府化にではなく、新たな拘束にむけられているようなときに、そして、[進歩という―引用者註]信仰への信仰がさきにみたように心理的蒙昧主義に堕しつつあるときに、はたしてこの薬物を服用すべきであろうか。

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