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間宮陽介 『増補 ケインズとハイエク <自由>の変容』 (ちくま学芸文庫)

元は中公新書で出ていたものの文庫化。

1930年代の世界恐慌の後、財政政策を駆使し景気を刺激して経済を安定させることを説き、政府による市場経済への介入を肯定したのがケインズであり、その考え方が戦後の社会民主主義的福祉国家の背景を成していたが、1970年代以降の財政赤字とスタグフレーションによって挫折する。

そして80年代初頭から西側先進国で市場原理を重視し、「小さな政府」という言葉の下、規制緩和と競争強化を促す新自由主義的政策が現れてきて、その体現者がレーガン、サッチャー、中曽根の各保守政権。

国家による市場介入が非効率であるのみならず、圧政と独裁を生み出す根源であるとして、ファシズムや共産主義だけでなく、社会民主主義やケインズ主義も厳しく批判していた経済学者・社会哲学者フリードリヒ・ハイエクは、この新自由主義の思想的根拠とされ、時には現在の「市場原理主義」の祖ともされる。

ごく皮相なものではあるが、以上のような知識は事前に頭に入っていた。

そのケインズとハイエク、両者の自由観の相違と共通点を探るのが本書のテーマ。

まずアイザイア・バーリン(『ハリネズミと狐』の著者)にならって自由を、「・・・・・からの自由」(消極的自由)と「・・・・・への自由」(積極的自由)に分ける。

そもそも近代的自由は、恣意的強制からの自由としての前者の消極的自由として始まったものであり、ロックやスミス、バークなど主に英国系の思想家によって主張されてきた。

それが大陸系啓蒙主義的思想家たちが社会の実質的平等実現のために国家の社会への介入を肯定する後者の積極的自由を説きはじめると、国家権力の増大によって自由そのものが危機に瀕し、遂には破壊される。

ルソーやヘーゲルやマルクスがその流れにあり、ケインズ主義もその亜種と見なされる。

だから積極的自由を批判し、消極的自由を擁護して国家介入を可能な限り除くべしというのが普通の保守派の議論。

しかし、本書では自由を手にした人間が主体的努力行為を行なうということを前提にしていた消極的自由が、19世紀後半には単に私的領域での放恣な自由を享受することのみを絶対視し、社会を統合し安定させるための公的価値を一顧だにしない自由放任主義に堕落していたことを強調する。

社会的価値観の崩壊に伴い、経済面でも長期的視野に立った企業活動が衰弱し、無思慮な投機が幅を利かせ、社会を混乱に陥れる。

ケインズはそのような状況を前にして便宜として国家介入を主張しただけであり、また消極的自由の擁護者ハイエクも自由主義の自由放任主義への堕落をはっきりと認識しており、レッセ・フェールの標語を絶対視するような市場原理主義者では全く無かったというのが、本書の非常に大雑把な論旨。

福田恆存氏の『日本を思ふ』の記事で引用した部分とも関連するかと思えるが、私の頭では両者がどう繋がるか上手く整理できません。

この本は凄い。

以上のような、私の下手なまとめ方では本書の魅力は伝わらない。

是非現物をお手に取ってください。

第一章の導入部分はちょっと難しくて読みにくいなあと思ったが、第二章以後の自由論に入るとあまりの面白さに驚倒する。

目から鱗が落ちる。

本当に素晴らしい。

余計なお世話だが、本書のような傑作の版権はできるだけ手放さない方がいいんじゃないでしょうかと中央公論に言いたくなる。

人間の世界が皮一枚の実証の世界に縮減されてしまうと、その影響は「自由」にも及ばざるをえない。自由をめぐる問題の文脈は、自由か強制かという二者択一の文脈にすり替わってしまう。そのとき人間の自由意志をさえぎるものはすべて強制(実力)と見られることになろう。政府の施策はもちろんのこと、人々が長い間育んできた第二の自然たる慣習も、さらに人間の生活に規矩を与える形而上学的な理念さえも、個人の自由意志にとって何らかの拘束となる点で鉄の鎖と同類になってしまうだろう。

自由と放恣は紙一重の差である。自由主義はこの紙一重の差をはっきりと意識していた。自由主義の全重量はこの差にかかっていたといっても過言ではない。強制からの自由を唱えるといっても、それは好きなことなら何をやってもかまわないという自由ではなかったはずである。そもそも強制からの自由とは恣意的な強制からの自由のことであって、この恣意的な強制からの自由が恣意的な自由を表わすことでないことはおのずと明らかである。恣意を制約するものを消極的自由は内包していたはずである。

だが十九世紀後半以降、・・・・実証主義の興隆とともに、自由と恣意の区別は判然としなくなってくる。実証主義は自由を恣意から分かつ基準をもちえない。自由と恣意が互いに交換可能になるのは、鉄鎖や法が、さらには神さえも、互いに交換可能なものとなることの帰結である。「この時代の自由主義は」、とJ・H・ハロウェルは言っている、「自由主義の諸概念の形式をとどめてはいるが、その内容を棄てた一種の自由主義であるといったほうがよい。それは精神的内容に代って経済的内容を、自己超越の代りに自己内在を、永遠の救済の約束に代って自己充足的な「此処、今」を取る。それは一つの価値体系内での寛容に代えるに、精神的不可知論を以てする。それは「天職」の観念に代えるに富の蓄積、物質的快適および快楽を以てする。それはプロテスタント神学と密接な関係をもっていた初期資本主義の禁欲主義に代えるに、現世の財貨と快楽への飾り気のない耽溺を以てする」(『イデオロギーとしての自由主義の没落』石上良平訳)。そして彼はこう言うのだ、自由主義はナチスに破壊されたのではなく、むしろナチスは自殺した一個の思想体系の正当な継承者であった、と。

民主主義の陥りがちな多数者の専制という事態も、その元を辿っていくと、自然権に表わされるような人間の絶対視に行き着く。個々人が社会的な意見形成の究極の主体だとされ、しかもその個人が自己完結した不動の存在だとみなされれば、意見の決着には数を恃むよりほかなくなる。より良き見解に至ろうとすれば、相手を説得しようとするだけでなく、秀れた意見には説得される用意ができていなくてはならない。説得に応じるということは、自分より秀れた人間がいることを率直に認めることである。ところが、自足した人間には、これが不可能である。その結果、議論や討論は力と力の闘争に変じてしまう。数が力となり、勢い、人々は数を恃まざるをえなくなる。多数決は無限に長い意見形成過程に暫定的に終止符を打つための次善の策にすぎないのに、次第にそれは自己目的と化す。多いことは善いことだと考えられるようになる。こうして「本来、民主主義の理想はすべての恣意的な権力を防止することを意図したものであるのに、新しい恣意的権力を正当化するものになってしまう」(『自由の条件』)のである。

大衆社会とは自由主義と民主主義が化学反応を起こし、本来の自由主義と本来の民主主義を換骨奪胎して生まれた社会だとは言えないだろうか。つまり、大衆社会とは自足した個人や個性が様々な羈絆を脱し、強制からの自由を満喫している社会だということである。唯一無二の個性の名の下に、個人の一人一人があらゆる価値の究極の判定者となる。自分の外側にある価値に対しては不信を抱き、そのようなものは形而上学的妄想として軽蔑のまなざしを向ける。不信が高じて頂点に達すると、こんどはやすやすと軽信のほうに引き寄せられる。オカルティズムが魅惑的なものに変じ、宗教が一転してブームとなる。自由主義が内包していた懐疑と信仰の精神は、不信と軽信に変色してしまうのである。

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