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キルケゴール 『現代の批判 他一篇』 (岩波文庫)

久しぶりに来ました、知的身分不相応の本。

キルケゴールというと、19世紀前半を生きた実存主義の先駆的哲学者で、主著が『死に至る病』で、相手にわざと憎まれるような形で婚約破棄しちゃった人で、確かデンマーク人だったかな、と高校の倫理の授業で習ったこと以外何一つ知らないし、もちろんその著作も一行も読んだことがない。

『死に至る病』の方は読んでも絶対わからないだろうと端から諦めて、『思想の英雄たち』でその存在を知ったこれを読んでみた。

(タイトルに「他一篇」とあるのは、「天才と使徒との相違について」という文章ですが、こちらは読んでおりません。)

100ページ余りの短い作品で、さほど難解な用語が使われているわけでもなく、読みやすい。

ちょっと変った成り立ちの本で、ある小説の書評の一部が独立して扱われるようになったものらしい。

内容は近代社会批判で、現代を「反省と水平化の時代」としてそれを否定的に捉えるもの。

この「反省」というのは、価値相対主義あるいは平板な合理主義・功利主義とか、そういうことでしょうか?

本文を読んでいくと、とりあえず文脈はきちんと追えるし、どういうことを言いたいのか以上のように大体の推測もできるのですが、私の能力では完全に読みこなせたとはやはり到底言えない。

しかし、ところどころ「これは・・・・・・」と絶句するほどもの凄い文章に出会う。

わが身にに引き寄せて考えて恥ずかしく感じたり、自分の阿呆さ加減と情けなさを否応無く自覚させられたり、今の社会の酷い有様をこれ以上ないほど的確に眼前に突き付けられたりする思いがする。

私がここであれこれ言うより、とりあえず読んで下さいとしか言えない。

とにかく凄いです・・・・・。

専制政治の腐敗や革命時代の退廃はしばしば描写されてきたが、情熱のない時代の堕落もそれに劣らず危険である。ただそれが曖昧であるために、あまり目立たないだけのことである。

・・・・・自分自身ではなにひとつ理解せず、また自分自身ではなにひとつする気もない、この無精な群集、この立見席の観衆は、そこで、気晴らしを求めて、世間の人のすることはみなおしゃべりの種になるためにおこなわれるのだ、という空想にふける。

この無精者は、いかにもえらそうに足を組んで御輿を据えていて、働きたがる人間は、王さまだろうと役人だろうと、国民の教師だろうと有能な新聞記者だろうと、詩人であろうと芸術家であろうと、だれもかれもがみんな、他人はすべて自分の馬だと思ってえらがっているこの無精者を引っ張ってゆくために、いわば馬車の前につながれるということになる。

仮にわたしがこういう公衆をひとりの人物として考えてみるとしたら(思うに、少しすぐれた個人であれば、たとえ一時的には公衆に属することがあっても、自分自身の内に組織統合する凝集力をもっているはずで、彼らが最も高い宗教性を獲得するにはいたっていなくても、それが彼らをささえてくれるだろう)、わたしはまずローマ皇帝のだれかを思い浮かべるだろう。

でっぷりと太った大男で、退屈に苦しんでいて、そこで思いきり笑いを発散できるような官能の刺激ばっかり欲しがっているといった人物である。機知という神の賜物はどうも俗世間のものではないからだ。

そこでこういう人物は、悪人というよりはむしろ無精者なのだが、しかし消極的な支配欲があるので、目さきの変化を求めてあちらこちらとうろつきまわることになる。ひとりの皇帝が暇をつぶすためにどんなにいろんなことを考えだしえたかは、古代の作家たちの著作を読んだことのある人ならだれでも知っているだろう。

そんなわけで、公衆は退屈しのぎに一匹の犬を飼っておく。この犬は文学界の卑劣漢である。いまだれかちょっとした人物が現れたとする、傑出した人間ならおそらくもっとお誂え向きだろう。

するとその犬がけしかけられて、退屈しのぎがはじまる。この犬は人にかみつく癖があるので、その人の上衣のすそをひっ裂き、無礼ないたずらのかぎりをつくす―ついには公衆のほうが飽きてしまって“もうたくさんだ”と叫び出す。これで公衆は水平化をなしおえたことになる。

ちょっとすぐれた男、少し強い男はひどい目にあったものだ、―そして犬のほうはというと、むろん犬のほうはどこまでも、公衆自身でさえ軽蔑している犬のままである。してみると水平化は第三者によっておこなわれたわけである。

つまり、無である公衆が、その卑劣さゆえにすでに水平化以上の、そして無以下のものであった第三者を介して、水平化をおこなったわけである。しかも公衆は悔いることもない。だって公衆の仕業ではないからである―犬のやったことだからで、よく子供に向かって、猫がやったんだね、と言われるのと同じことである。

しかも公衆は悔いることもない。だって本当に侮辱を加えたわけではなかったのだから。―ちょっとばかり退屈しのぎをやっただけなのだから。つまり、水平化の手先に使われるものの方がずぬけて腕利きであったとしたら、そのときにはその手先自体が水平化の邪魔になるだろうから、無精者の公衆の方が自分の使った手先に愚弄される羽目に陥ったことであろうが、すぐれたものを卑劣なものによってこきおろし、卑劣なものを同類によってこきおろすというのであれば、勘定はゼロでなんの儲けにもなりはしない。

しかも公衆は悔いようともしないだろう。公衆はもともとその犬を自分で飼っているわけではなく、ただ予約購読しているだけのことだからである。それにまた、彼らは直接に犬をけしかけてかみつかせるわけでもない。また口笛を吹いて犬に合図をするというわけでもない。

裁判沙汰にでもなったら、公衆は言うことだろう、それは私の犬ではありません、のら犬なんです、と。そしてその犬がつかまって、獣医学校に連れて行かれて撲殺されることにでもなったら、公衆はおまけにこうも言えるだろう。あの困りものの犬が殺されたのは、ほんとうにたいへん結構なことです、そうわたしたちはみんな望んでいたんです―予約者のみなさんでさえそうなんです。

ひとりひとりの個人が、全世界を敵にまわしてもびくともしない倫理的な態度を自分自身のなかに獲得したとき、そのときはじめて真に結合するということが言えるのであって、そうでなくて、ひとりひとりでは弱い人間がいくら結合したところで、子供同士が結婚するのと同じように醜く、かつ有害なものとなるだけのことだろう。

昔は、君主や傑出者や卓越者は、それぞれ意見をもっていたが、その他の人々は、自分たちは意見などもとうとも思わないし、もつ力がないのだという、断固とした覚悟をもっていた。ところが今日では、だれでもが意見をもつことができるのだが、しかし意見をもつためには、彼らは数をそろえなければならない。どんなばかげたことにでも署名が二十五も集まれば、結構それでひとつの意見なのだ。ところが、このうえなくすぐれた頭脳が徹底的に考え抜いたうえで考え出した意見は、通念に反する奇論なのである。

無名性は現代では、普通に考えられているより以上に独特のいちじるしい意義をもっている。・・・・・同じ人間がまるきり正反対のことを言うことができ、その人間の口から出たのではその人間自身の生き方に加えられるこのうえない辛辣な諷刺となるようなことを、平気で口にすることができるのである。

その発言そのものははなはだ分別のあるもので、議会に出してもりっぱに傾聴されて、議論の種にもなり、ちょうど工場でボロから紙が製造されるように、その議論の種から相当なものが製造できるほどである。しかし、たくさんあるそんな発言を全部寄せ集めてみたところで、とうてい一個人の人間的な談話ほどのものにもなりはしない。

・・・・・なににでも手引きがある。遠からぬうちに、そういういろいろな手引きの教えてくれることを大なり小なりまとめてそれを覚えこんでしまえば、それで一般教養が身についたということになるだろう。こうして人々は、植字工が活字を拾い出すのと同じように、それぞれ自分の能力相応に、きれぎれの知識を拾い出すことに巧みになっていくことだろう。

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