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佐伯啓思 『増補版 「アメリカニズム」の終焉 シヴィック・リベラリズム精神の再発見へ』 (TBSブリタニカ)

初版は1993年刊、この増補版は98年に出たもの。

以前飛ばし読みはしていたが、この度じっくり精読してみました。

「もっと早くそうすべきだった」というのが、読み終えた後の感想です。

著者は西部邁氏の一番弟子といった感じの方で、いわゆる反米保守の立場に立った文明論ですが、そういう見解を同じくしない人にとっても、非常に大きな示唆を与えてくれる本だと思います。

刊行から10年経った今でも、その論旨はいささかも古びておらず、重要性は反って増しているのではないでしょうか。

冷戦後の世界を展望する上で、まず19世紀のパックス・ブリタニカと20世紀のパックス・アメリカーナを、リベラリズム・デモクラシー・キャピタリズム・ナショナリズムの絡み合いとして、思想的に分析し、次にアダム・スミスとアメリカ建国の父たちが持っていた(君主制や世襲貴族制に反対するというのとは別の意味での)「共和主義」的精神を考察し、再び現代の問題に戻るという構成。

最後の増補された章では、教条的な市場主義とグローバリズムがもたらす破壊的作用が語られている。

非常に良い。

難解な部分はほとんど無く、スラスラ読めるが、中身は異様なほど濃い。

間宮陽介『ケインズとハイエク』と読み比べるのも良い。

ここで触れられている意味での「共和主義」(著者はシヴィック・リベラリズムと呼ぶ)に関しては、本書の参考文献欄にも載せられているジョン・ポーコック『マキァヴェリアン・モーメント』(名古屋大学出版会)という本があって、大変な名著と言われているそうですが、残念ながらこれは私の頭では絶対に読めないレベルの本でしょうから、端から諦めてます。

知的体力のある方は挑戦して下さい。

デモクラシーはナショナリズムのうちから国家利益という観念をとり、ナショナリズムはデモクラシーのうちから主権という観念をとる。・・・・・こうしたナショナル・デモクラシーとでもいうものの出現によって、デモクラシーとリベラリズムの対立という事態も一層明確になってくる。リベラリズムは、本来、強制力からの解放という意味では、民主的であれなんであれ、無条件の「主権」という考えとは両立しないのであり、また他者の自由の尊重という意味では「人民」という抽象的な包括概念とは両立できないのである。だからリベラリズムの検閲を失ったデモクラシーは人民主権の名のもとに暴走する可能性を常に秘めていると見なければならないだろう。

アメリカン・デモクラシーの行き先に不安をもっていたトクヴィルは、それでもまだこの時代のアメリカ人の精神の中に、強い公共心を見て心を動かされていた。しかし、150年後にそのトクヴィルのみたアメリカ的精神を再び検証しようとした社会学者ベラーがみいだしたものは、バラバラに分断された個々人と競争社会の中での心理的葛藤をサイコ・セラピーによって癒す人達の群れであった。ここにあるのは、「公共的生活」と「私的生活」の緊張の中で自分の使命を見いだしてゆく個人ではなく、物質的生活のあくなき追及にはしる「功利的個人」と、リアリティーの希薄な世界で自閉的に自己充足してしまおうとする「セラピー的個人」であった。セラピー的個人主義者は、公共的生活に対して無関心なだけではなく、その結果として私的生活を支えることもできなくなってしまうのだ。

「自由」は、何物にも制約されない自主的な意思決定とか個人の利益の追求とかいうような子供だましの観念で理解できるものではない。自由をありうるものとするのは、嫉妬や恨みをいかに制御し、名誉や称賛にいかにしてそれにふさわしい内実を与えることができるかということなのである。「自由主義」の根本にあるのは、利害の自然的調和などではなく、権力の背後にある人間の情念の問題なのだ。スミスやヒュームのような「情念」の哲学者は、全体主義に反対し、政府の規模を縮小することが自由主義であると思い込んでいる今日の気楽で合理的な政治学者、経済学者などよりはるかに深い洞察をもっていたというべきであろう。

・・・・・ふつう「市民的(シヴィル)」というのは、公的権力に対して擁護された私的なものを権利としてもつ自由で平等な個人をさす。それは公的なものに対して私的なものを擁護し、国家の権力に対して個人の自由を対峙する。これに対し「公民的(シヴィック)」とは、あえて「国家市民的」と呼んだように、あくまでそれが国家的共同社会における公的事項に参与する市民というニュアンスをもっていることを注意しておこう。ところで共同社会の公的事項とは、なによりまず外敵からの防衛であり、正義と思慮に基づく統治であろう。だからそれは勇気、思慮、正義といった徳を要求する。これを、プラトンの「共和国」にならって「共和主義の精神」といってもよかろう。

「共和主義」というと、専制君主制に対する反対ということから、人民主権のデモクラシーとすぐに結びつくのだが、これは必ずしも正しくない。・・・・・すくなくともスミスにおける共和主義的傾向はそうで(スミスは共和主義という言葉を使っているわけではないが)、むしろ、スミスにとっては、プラトンと同様、デモクラシーは、ある意味で危険なものに思われた。

「イタリーの住民の大部分にローマ市民の諸特権を与えたために、ローマ共和国は完全に滅亡した。つまり、そうなると、ローマ市民とそうでない者とを見分けることがもはや不可能になった。・・・・・あらゆる種類の賤民が人民の集会にはいりこめたし、真の市民をそこから追い出せたし、まるで自分たちが真の市民ででもあるかのようにしてこの共和国の問題を決定することもできたのである。」(『諸国民の富』第四編)

スミスはこれをむしろ、アメリカの代議制を擁護するために書いている。しかし、今日のアメリカ的大衆デモクラシーを見たらスミスはどのように述べたであろうか。共和国の政治をおこなえるのは「真の市民」だけだ、という。むろん「真の市民」とは何か、ということが問題となる。現代では、ローマとは比較にならず、「真の市民」とそうでないものを見分けるのは難しい、というより、もはやそのような問題をたてることさえできない。

・・・・・抽象的な自由と同様、抽象的な個人もあまり実用的な概念ではない。すくなくともアメリカ革命を導いたのは、抽象的な個人という裸の人間に戻ることではなく、様々な社会的関係の中で生きていく人々という座標水準のうちに実用的な法と制度を構成することであった。具体的な個人は根源的な自由よりも日常の幸福を追求するものであろう。それは剥き出しの個人ではなく、法や制度によって他人とつながった諸個人なのである。だから、自由も幸福も剥き出しの個人の「権利」というよりも、共通の法や制度のもとで共同作業として作り出してゆくものなのである。人間は個人というより、法的存在であり、ある職業や役割と不可分なのである。個人が法を守り役割を果たすのではなく、法や役割が個人を作り出すのである。その意味では、一人の人(パーソン)であることは常に仮面(ペルソナ)をつけることなのだ。

「幸福」とはベンサムのような功利主義者が述べた快楽の総和というようなものではなく、ひとつの役割を果たすこと、その結果として他人からの称賛をえること、要するに「名誉」と深く結びついたものなのである。ここに「幸福の追求」が社会的(公的)活動への参加と結びつく理由がある。

規範や価値の意識は、個々人の好き嫌いによって形成されるものではない。それは、一つの社会の歴史の中で作られるほかない。そしてそれを、人はとりあえず受け継ぐ以外にない。・・・・・倫理や規範は、社会集団の中にしかない。とりわけ、習俗(モーレス)の中に根を下ろした規範は、特定の社会の文脈の中にしかない。そして実は、「自立した個人」も、もしそうしたものがありうるとすれば、それは実際には、倫理や規範の意識を強くもった存在であろう。この倫理や規範は決して外部から教義や倫理法や訓示の形で与えられ強制されるものではない。むしろそれは、まさにウェーバーが描き出したプロテスタンティズムの精神をもった近代人のように、規範を内面化した存在でなければならないであろう。とすれば、「自立した個人」を育てるためにも、国家や共同社会という、グローバリズムの流れに抗する集団の自覚が必要となるほかないのである。

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