引用文(ケナン1)
1939年、ケナンは第二次大戦下の在ベルリン米大使館に勤務する。
(41年12月の日本の真珠湾攻撃とヒトラーの対米宣戦布告の前なので、当然米独間は交戦状態にはない。)
・・・・・ベルリン市民たち―ただの市民たち―は、ドイツ国民の中でも、ナチ化されることの最も少ない人々であった。彼らはナチ流のあいさつなど絶対にしなかった。最後まで、お互いの日常のあいさつは“グーテン・モルゲン”で通し、押しつけられた“ハイル・ヒトラー”を使おうとはしなかった。
彼らはまた、戦争にはいささかの熱意も示さなかった。ポーランド攻略を終えて帰還した軍隊の凱旋パレードを、彼らが重々しい沈黙で見守っていた(この忘れられない日に大使館前のパリーザー広場に集まった市民たちの中に私もまじっていた)のを、私ははっきりと証言できる。職業的なナチの煽動家たちが気違いじみたいかなる演説を行っても、彼らを興奮させ喜ばせることはできなかった。
パリ陥落のニュースも、同じような謎の沈黙と自制で迎えられた。たまたまその日の午後、私はバスに乗ったが、二階の囲いのある席にいたので、乗客の話し声が聞こえた。私の耳に入ってくる話し声の中には、パリ陥落のことなどは一言もなく、すべて食料の配給カードや靴下の値段のことばかりであった。
戦時下のベルリンにあって驚かされたことは、市民たちが、ナチ体制の思い上がった戦争目的に対し、はっきりと目に見える形ではないが、間違いなく精神的断絶感をもっているようであり、戦時下、規律が日に日に厳しくなってゆく中でも、できる限り、日常の生活を維持してゆこうとしていることであった。公共出版物は戦争一色に塗りつぶされていたにもかかわらず、ベルリン市民や他の大都市の大多数の一般市民にとって、戦争は体制のためのものであって、彼ら一般市民のためのものではなかった。
土曜の夜も更けて、私はハンブルクのビンネンアルスター地区の酒場を出ると、真っ暗な街をわが家に向けて手探り状態で歩き出した。
ある街角で、一人の婦人が姿を現し私の方に近づいてきた。婦人は立ちどまると、「どこかへお伴しましょうか?」と言った。その声は楽しげで、またしとやかで、決してとってつけたような優しさではなかった。どこかで一緒に飲みましょうと誘うと、「おお、ノー」ときた。彼女にはそんなやり方で時間を潰すゆとりはなかったのだ。「何か外に興味はありませんか?」と彼女は聞いてきたので、ないと答えた。しばらく言葉のやり取りした揚げ句、私が普通のサービス料を払うかわりに、彼女が私の顔を立ててパブリック酒場に一緒に行くことで話が決まった。
そこで彼女が行きつけのバーに私を案内し、腰を下ろした。私はまずハイボール一杯を飲み、彼女は何かカクテルを注文し、タバコを買った。明るいこのバーの中で、私は初めて彼女をはっきりと見ることができた。まだうら若い女性で、容姿も美しく、きりっとした顔の持ち主であった。衣裳も上品な好みのもので、彼女がこんな商売をしているとは誰にも思えないほどだった。
彼女の話では、街に出るようになってもう四、五年―その間時々休むこともあったが―になるという。最近では昼間は仕事を持ち、毎夜一、二時間ほどしか街へ出ないとのことだった。昼間の仕事というのは、ある工場で荷物を包装する仕事で、一週間十九マルクの賃金をもらっているとのことだった。それは辛い仕事で、指の爪をすっかり駄目にしてしまったらしい。しかし強制収容所にいるよりはずっとましだった。もし彼女が愚図愚図していて、この仕事に前からついていなかったとしたら、自分も強制収容所へもっていかれたかも知れなかったという。
・・・・・外出禁止時刻がもうすぐだった。私は酒場の支払いをすませ、その釣り銭から彼女にサービス料を与えた。彼女は黙って受け取ったが、決して媚びた態度ではなかった。その時まで、私たちは真面目な友達同士だったのだ。
外へ出る時、私は彼女に言った。「このままでは、結局君は強制収容所行きになるかも知れないよ」
彼女は寂しげな笑いを浮かべ、「知ってるわ」と言った。彼女は暗闇の中を、すぐ近くのアパートに向けて歩いて行った。アパートの門口の鍵をあけると、廊下の薄青い光が見えた。彼女は白粉の匂いのする頬をおずおずと私にさし向けて、「キスしてもいいわ、ねえ」と言った。
家路をたどりながら北方の空を見上げると、サーチライトの大きな光束が四本、目標機を追って真っ黒な空をゆっくりと移動していた。
家に着いて初めて気がついたことだが、二人はいろいろたくさんおしゃべりしたが、結局、戦争のことは何一つしゃべらなかった。
このような経験をなめてきた私には、その後数年間、アメリカの世論が見境なく、その政治的敵対者に押しつけようとする極悪非道のイメージを、そのまま受け入れることができなかったのをわかっていただけるだろう。アメリカの新聞やワシントンの官辺筋の多くが、ドイツ国民を一括して、ヒトラーを熱烈に支持し、ヨーロッパ諸国の破滅と奴隷化の悪魔的野望に血道をあげる残忍な怪物集団だと決めつけることに同意するわけにはいかなかった。
ケナンは当初、ドイツの保守派と軍部による反ヒトラー運動に精神的支援を与えることに懐疑的だった。
しかし反ナチ人士との接触を重ねるうちにその意見は大きく変化する。
特に19世紀の著名な軍指揮者の兄弟筋の曾孫にあたるヘルムート・フォン・モルトケ伯や大宰相の孫であるゴトフリート・ビスマルクに対する強い敬意を語っている。
(モルトケは逮捕され1945年初めに絞首刑となる。ビスマルクも死刑を宣告され刑の執行が引き伸ばされているうちにドイツが敗北し釈放されるが、まもなく自動車事故で死去。)
このような経験に直面してきた私は、戦争の終わりごろ、フランクリン・ルーズベルト大統領と話した時、彼が第二次大戦を第一次大戦と厳密には区別できず、またプロイセンの大地主階級が、昔はカイゼルの権力の支柱であったし、あるいはそうだと言われてきたと同じく、今度はヒトラー権力の支柱となっていると考えている多くの人々の一人だと知って、驚いてしまった。実際には、ヒトラーはその中心の支持勢力を、下層中産階級と一部は新興財閥に求めていた。プロイセンの旧貴族階級は二つに割れていた。しかしこの貴族の中から、ヒトラーが相手にすることになった反対派の中でも最も進歩的で勇敢な人々が出て来たのである。
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