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三宅正樹 『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』 (朝日選書)

世界の運命を決した、1939年から41年までの極めて緊迫した国際情勢における主要史実の骨組みだけを表にすると以下のようになる。

39年3月   独、チェコスロヴァキア解体

   5月   ノモンハン事件

   8月   独ソ不可侵条約

   9月   独、ポーランド侵入 第二次世界大戦勃発

   11月  ソヴィエト・フィンランド戦争

40年6月   フランス降伏

   9月   日独伊三国同盟

41年4月  日ソ中立条約

    6月   独ソ戦

   12月   日米開戦  独、対米宣戦 

日本の内閣は、39年1月に、日中戦争を勃発させ泥沼化させた第一次近衛文麿内閣退陣、平沼騏一郎内閣成立、同年8月独ソ不可侵条約締結を受けて「欧州情勢は複雑怪奇」との声明を発して総辞職、阿部信行内閣成立、40年1月米内光政内閣、7月第二次近衛内閣、この政権が三国同盟を締結してしまい、41年7月第三次近衛内閣を経て、10月東条英機内閣成立、12月に真珠湾攻撃という流れになる。

39年8月から41年6月まで、ソ連が枢軸国寄りの中立を維持していた時期の、極めて密度の濃い外交史。

日独の一部で支持されていた、日独伊プラスソ連のブロックで米英仏に対抗するという構想を取り上げて検討している。

39年3月ドイツがチェコスロヴァキアを解体(ボヘミア・モラヴィア併合、スロヴァキア保護国化)、前年英仏に強要したミュンヘン協定を自ら破り、その結果英仏は宥和政策を放棄、ヒトラーと対決する決意をとうとう固める。

同年夏ヒトラーの次なる標的のポーランド防衛のための、英仏とソ連との同盟協議が行われるが、根強い相互不信と被援助国となるはずのポーランド自身が反独感情に劣らぬ反ソ感情からソ連軍通過を拒否したため同盟は不成立。

なお、同年7月日本の外相有田八郎と駐日英国大使ロバート・クレーギーの間で、日本軍による天津英国租界封鎖をめぐる問題を融和的に解決した有田・クレーギー協定の成立が、ソ連に「極東のミュンヘン」を想起させ、対独接近をスターリンが決意する一要因になったと、本書では記されている。

(この有田・クレーギー協定は、直後に日米通商航海条約廃棄通告を行った米国の圧力で、結局廃棄される。)

英国主敵論・独ソ提携論を持つドイツ外相リッベントロップの判断にヒトラーがこの時点では同意し、8月独ソ不可侵条約締結。

秘密議定書ではポーランド分割とエストニア・ラトヴィア・フィンランドはソ連の、リトアニアはドイツの勢力圏に置くことを定める。

同時期ノモンハンでソ連が大攻勢に出て、日本軍は甚大な被害を蒙り、北進論が後退。

平沼内閣総辞職、対独接近論が一時下火となる。

9月ドイツ軍はポーランド侵入、英仏が対独宣戦、第二次世界大戦勃発、ソ連も東側からポーランドへ侵攻、ワルシャワおよびルブリンをドイツに譲る代わりに、ソ連はリトアニア支配の承認を得る。

11月ソ連はフィンランドに最後通牒を突きつけて開戦するが、苦戦を強いられ、翌40年3月に休戦。

ソ連はカレリア地峡を手に入れるが、この時の赤軍の苦戦で、ヒトラーはソ連の軍事力を過小評価することになる。

40年春、ドイツが西部戦線で大攻勢に出てデンマーク・ノルウェーを征服、6月にはフランスも降伏させる。

同6月ソ連はルーマニアに強要してベッサラビアと北ブコヴィナを奪取、8月にはバルト三国を併合。

5月に成立したチャーチル政権の英国は屈しなかったが、ドイツの優勢は揺るぎないものに見えた。

フランス降伏後、英国支援を本格化させる米国に対し、ヒトラーは日本との軍事同盟をもってアメリカの参戦を牽制しようと目論む。

ドイツの優勢を見た日本でも再び対独接近論が力を得るが、ここでポイントは、日本が三国同盟締結に傾いたのは、ドイツの軍事的優勢という情勢判断の他、独ソ関係の安定を前提にして、実質日ソ独伊の四国同盟に発展するとの見込みがあり、それなら米国参戦を抑止するのに十分だと考えられたため。

米内内閣が倒れた後、第二次近衛内閣の下で、9月日独伊三国同盟が結ばれた。

しかし、すでにナチス打倒の決意を完全に固めていたルーズヴェルト政権は、むしろ対日敵視を強めたため、期待された同盟の効用は全く無かった。

この辺りから独ソ関係が悪化しだす。

8月に、ベッサラビアなどを奪われたルーマニアに独伊が領土保証を与え、9月にはフィンランドをドイツ軍が通過することを認める協定が結ばれる。

スターリンはドイツとの交渉で、ソ連にインド・イラン方面への進出を認める四国同盟構想に基本的に同意を与えるが、すでに英国と交戦状態にあるドイツに比べて自国の交渉上の立場の優位性を過信した。

40年11月のソ連外相モロトフのベルリン訪問で、ソ連は自らの勢力圏下と定められたはずのフィンランドでのドイツ軍通過とルーマニアの領土保証およびドイツ軍進駐を激しく非難、ソ連とブルガリアとの相互援助条約調印、ボスポラス・ダーダネルス海峡での基地建設などの強硬な要求を行う。

このバルカンでの勢力争いから独ソ関係は急激に悪化、英国が降伏しないのは米国の援助だけでなく、ソ連の対独姿勢が変わることに期待をかけているからだと判断したヒトラーは年来の宿願である共産主義国家打倒と東方での「生存圏」確保のため、40年末に対ソ開戦を決意する。

ソ連は独ソ戦直前までドイツに資源提供を続けるなどの融和策を取るが、本書ではスターリン自身が41年秋頃の対独開戦を決意し、その準備をしていたとの説が紹介されている。

日本はこの情勢変化を覚らず、41年4月外相松岡洋右のベルリン・モスクワ訪問時に日ソ中立条約を結ぶ。

41年6月独ソ戦が始まり、四国連合構想は最終的に破綻する。

日本はどうすれば良かったんですかね。

何があっても軽挙盲動せず、孤立を恐れず、ひたすら忍従し、諸大国がすべて参戦するのを待って嵐が過ぎ去るのを耐えれば良かったのか。

そうすればスペインのフランコ政権のように中立を保ち生き延びることもできたか。

その場合、300万人の同胞の死も無く、極右的な国粋主義は退潮し、議会主義が復活し、満州・朝鮮・台湾は徐々に自治に向かい、帝国は今も存続していたかもしれない。

かなり面白い。

一番基礎的な史実を頭に入れた後、是非読むべき本。

当時の国際情勢の中で、各国がどのような意図と思惑を持ってある行動に出たのか、それが各国指導者にどのような心理的影響を与えて次の行動を生み出したのかという、史実の意味付けを学ぶために十分使える。

なお、初学者はまず野田宣雄『ヒトラーの時代 上・下』(講談社学術文庫)を読んでおいた方がいいと思います。

(何度か書いてますが、この本の外交史が初心者にとって持つ効用は、本当にただごとではないです。)

朝日選書というのは今までノーマークに近かったのですが、『王妃エレアノール』にせよ、『ゲーテとその時代』にせよ、本書を含めて当たりが多いですね。

馴染みの無いレーベルでも出来るだけ気を付けて見ないといけません。

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