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カール・ヤスパース 『現代の精神的状況 (ヤスパース選集28)』 (理想社)

本書の存在を初めて知ったのは林健太郎『二つの大戦の谷間』の文章でだと思う。

この林氏の本は、時代的にはヒトラーが首相に就任するところで終わっているが、その後文化史を扱った章が続き、その末尾で注目すべきファシズム批判の書として、オルテガ『大衆の反逆』と本書が挙げられていた。

また西部邁『思想の英雄たち』におけるヤスパースの章で中心的に扱われているのも本書である。

そういうこともあって、ヤスパースの他の著作は全く歯が立たないにしても、この本だけは何とか読もうと手に取りました。

しかし、やはりつらいものがあります。

翻訳は「~するところの」といった表現が頻出する、いかにも昔の哲学書風の、やや古めかしく生硬な文体。

そのせいもあってか、一度読んですぐに意味を理解できる文章は少なく、数度読み返すことがしばしば。

一文一文慎重に意味を取りながら、これは大体どういうことを言いたいのかと推測し、現在の具体的状況に当てはめてみるとどんなことに該当するのか考え、著者がそれを肯定的に捉えているのかそれとも否定的価値を込めているのかを判断し、それでわからなければ仕方ないので飛ばして読むという作業を黙々と進める。

そういう調子だったのでなかなかはかどらず、主に通勤電車内で睡魔と戦いながら一日50ページ弱読み進むのがやっと。

それほど分厚い本ではないのに、通読するのに丸一週間かかった。

全体の半分くらいに到達するまでに何度か挫折しかけました。

そこら辺りから、じっくり読むと極めて示唆的で重要と思える文章に出会うことができましたが、やはり全体としては晦渋としか言いようがない。

上記、『思想の英雄たち』で、同じ大衆批判の書としてオルテガ『大衆の反逆』に比べると、よく言えば精緻、悪く言えば衒学的といった意味の評がなされていたが、本当にそうだと実感した。

同時期に現れた全体主義批判のホイジンガ『朝の影のなかに』と比較しても、本書の方がはるかに難しい。

私みたいに普段哲学など一切読みませんよという人間にはやや厳しいところがある。

とは言え通読してみると、やはり得たものは少なくなかった(と思う)。

これはどう考えても自分みたいな人間のことを言っているなと感じて、半分非常に嫌な気分になり、半分は深刻に反省させられるという文章が、特に後半部分に頻出する。

少々無理しても挑戦してみる価値はあると思います。

多数者は現存在の満足を栄養と性愛と自己主張に求めているのであって、それらのうちのひとつだけでも削られるなら、人生は彼らになんの喜びもあたえないのである。さらにまた、彼らは自分自身を知るひとつの知り方を欲している。彼らは導かれることを欲しているが、しかもそれは彼らの方が導いていると考えるような仕方でのことである。彼らは自由であることを欲しないが、自由であるとは見なしたがる。彼らの意を迎えるためには、事実は平均的なもの、平凡なものでなければならないのだが、率直に、またそのものずばりに名づけられてはならず、普遍人間的なものとして美化されるか、少なくとも是認されなければならない。彼らにとって近づきがたいものは、彼らにいわせれば生活に無縁のものなのである。

支配は、大衆組織においては、幽霊のように眼に見えないものになる。ひとは支配と名のつくものをおしなべて廃止したがる。ひとは、支配がなければ人間大衆の現存在もまた存在しないという事実に対して、盲目なのである。それがために、世間に見られるものは、分裂、表面の取りつくろい、取り締りであり、また取り引き、掛け引き、妥協、投機、ペテンである。いたるところに、私利ゆえの腐敗の、そのつど特有なあり方が存在する。関係者はみなそれを知っていても沈黙を守っているものだから、そうした腐敗は起こるがままである。ひとつの事例が公になると騒ぎが起こされるが、その騒ぎもすぐにまた、たまたまひとつの徴候にぶつかったのにすぎないのだという暗澹たる意識のなかで立ち消えになってしまう。

全体の精神にもとづいて教育が実体的であるところでは、青年はそれ自体として未熟なものである。青年は尊敬し、聴従し、信頼し、そして青年としては何の効能も持たない。というのは、青年は未来のために準備中のものであり、未来のための可能的な職能存在だからである。しかし、解体の事態にあるときには、青年はそれ自身の身にそくして価値を獲得する。青年から、この世のなかにおいてはすでに失われてしまったものが、端的に期待されるのである。青年は、当然、みずからを起源と感じる。児童たちでさえも、校則に嘴を入れることを当然とする。あたかも、青年に、教師たちがもはや所有していないものを自分たちから創り出せという要求が出されているがごとくなのである。国家の負債がきたるべき世代に荷を負わせるように、精神的な財の蕩尽の結果もおなじことで、その財を、次にくる世代はあらためてみずから獲得しなければならないのである。青年は不当に重んぜられて台なしになるにちがいない。というのは、人間は、何十年も連続して成長して厳格に一歩一歩の歩みの連続を通じて形成されるときにのみ、人間になることができるのだからである。

集団秩序の現存在においては、すべての人の教養が、平均的人間の要求に接近する。単なる悟性にとって無造作に、たちどころに判明するところまで持っていく合理化の働きが、知識のあらゆるあり方を零落させる過程を持ちだすとき、精神性は大衆のなかに広まることによって頽廃する。水平化する集団秩序と共に、教養のある人の層が消滅してしまう――その訓練にもとづいて彼らが精神的創造物の反響でありうることにもなろうという、考えることや感じることの訓練を、継続的な稽古の基礎の上で発達させてきたところの教養のある人の層が。大衆的人間は、ほとんど時間を持たず、全体にもとづく生活を生きるわけではなく、それを利益にしてくれる具体的な目的がなければもはや準備も努力もしようとはしない。彼は待って熟させることを欲しない。すべてが、即座に、現在的な満足でなければならない。そして、精神的なものは、そのときどきの瞬間的な楽しみになってしまっているのである。エッセイがすべてのことをあらわすのに好適な文学形式であり、書物の位置には新聞がとってかわり、生涯の伴侶になる作品にかわって不断に別のものになる際物的な読みものが登場するのは、このことに由来する。ひとは迅速に読む。ひとは短いものを欲し、しかもそれは、心に刻みこむ瞑想の対象になりうるものではなくて、ひとが知りたがってすぐにまた忘れても差し支えないようなものを迅速に取り次いでくれるものである。ひとは、内容と精神的に一致して本来の意味で読むことはもはやできないのである。

あの場合この場合と、しばしば場合が生まれてくるために、人々がもはや互いに理解し合うことができなくなるほどの、ひとが取る立場の無際限さは、もっぱら、誰もがせめて何かを意味したいと粒粒辛苦してつくった自分の意見を無責任にも語ろうとあえてすることの結果なのである。ひとは、いま思いついたばかりのものを「単に討議にかける」あつかましさを持っている。無数の印刷された合理性が、多くの領域で、遂には、かつて一度は生命ある思索であったものの今ではもはや本来の意味では理解されなくなっている残骸の、混沌たる乱雑な流れを、大衆的人間の頭脳のなかで陳列することになる。

真にこの世界のうちにとどまることのできる者といえば、いかなる場合にも拘束をとおしてしかもつことのない肯定的なものにもとづいて生きている者だけである。外的な拘束に対する反逆は、それゆえ、単なる<否>として真実ならぬものであり、内的な混沌におちいるのが落ちで、その反逆の対象がもはやまったく存在しないときになっても、まだきっと反逆しつづけるであろう。反逆が真実のものであるのは、自分自身を拘束する力であるからこそ正当とせられる自由が、みずからの空間を得ようとして戦うその自由の闘争としてだけである。

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