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松原隆一郎 『経済学の名著30』 (ちくま新書)

タイトル通り、経済学の古典的著作30冊について書かれた短い文章を並べたもの。

冒頭がロックの『統治論』で始まり、ケネー『経済表』とマルサス『人口論』が入っていないのを除けば、有名な著作が定番通り並んでいる。

だが、よくある凡庸な案内書だと思って手に取ると完全に間違う。

古典的著作のうち、現在の主流派経済学に受け継がれた部分のみを切り離して紹介するのではなく、その経済学者が生きていた具体的な時代状況の中で何を意図して書かれた著作なのかを忠実に辿りながら、その思考の本質を探る本。

経済学者の意図と歴史的状況を忠実に再現するという上記の目標は間違いなく本書で達成されているが、それに留まらず、古典から読み取られた思想によって現在の我々が何を学ぶことができるかを著者が示唆しているのだが、それが逐一的確で非常に面白い。

専門主義的な数理経済学に留まることなく、社会思想や政治哲学、社会心理学、言語学、記号論理学などの該博な知見を用いて、縦横無尽に現在の問題を論じる辺りは大変感心させられる。

数式がほとんど出てこないことも、私のような阿呆には助かる。

わからない部分は飛ばせば良いし、やや難解なところでも著者が何を示唆したいのかはぼんやりとわかる場合が多く、それがまた本書の長所を表わしていると思う。

これは素晴らしい。

是非読むべき。

強くお勧めします。

(ハイエク『自由の条件』の章より)

ハイエクは社会思想の歴史についても、対立する二つの流れを描いている。十七世紀イギリスで生まれた経験主義の系譜と、大陸型の合理主義から社会主義へと至る系譜とである。前者のスミスやヒューム、A・ファーガソンらは「市民社会がある賢明な最初の立法者あるいは『社会契約』によってつくられたという(大陸型の―引用者注)考え方を、終始一貫して攻撃している」。そして「『経済人』のような有名な虚構さえ、本来イギリスの進化論的な伝統に属するものではなかった」(ともに第四章)。新古典派の制度論では、制度は経済人が合意で設計するものとみなされるが、ハイエクはこうした後者の思考法を自由の敵として批判している。

「自由な社会の成功はつねにほとんどの場合、伝統に制約された社会であるというのがおそらく本当であろう」(同)という一節からは、自生的な制度である慣習法や裁判によって、政府の権力とともに個人の自由にも制約を課そうという意図が見て取れる。こう述べる以上、制度や慣行、規制などの「構造」を市場における個人の自由に対する介入ととらえ、その撤廃を訴える「構造改革」にハイエクが反対するのは自明であろう。彼の主張からすれば、「構造」こそが進化の過程を経て生き延びてきた有益なルールであり、漸進的な修正はなされるべきであるにせよ、国家が音頭をとって廃止するのは「反革命」なのである。

このようなハイエクの思想は、どう位置づけられるべきだろうか。J・ポーコックの『マキァヴェリアン・モーメント』(一九七五)は、立法と行政を分離し行政に気ままに権力を奮わせない立場としての「法の支配」を共和主義と呼び、それが十六世紀以降の西欧で、ギリシアに由来し民主主義を牽制する政治思想として再評価されていたことを明らかにしている。たとえばピューリタン革命に際しハリントンは『オシアナ共和国』(一六五六)で共和主義の現代化を試み、カントは『永遠平和のために』(一七九五)で、民主主義は不同意の少数者を無視し、立法者が思うままに執行できる専制をもたらすとして、君主制や貴族制に親和性を持つ共和主義を推奨した。

こうした流れを受け経済思想の分野では、ヒュームやスミスが市民に徳(civic virtue)を求める共和主義と、隆盛を誇りつつあった商業主義とを融和させる工夫を行なった。法の支配と権力の分立を説き民主主義に対する批判をも意図する本書は、共和主義と市場経済の両立を図った彼らに連なる試みだと言える。

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