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ローレンツ・シュタイン 『平等原理と社会主義 今日のフランスにおける社会主義と共産主義』 (法政大学出版局 叢書ウニベルシタス)

明けましておめでとうございます。

高校世界史でシュタインと言えば、ナポレオン時代にハルデンベルクと共にプロイセン改革を推進したカール・シュタインであって、本書の著者であるローレンツ・フォン・シュタインは教科書には出てこない。

むしろ高校教科書では日本史で出てくる。

「えっ!どこで?」と思われるかもしれませんが、1882(明治15)年伊藤博文が明治憲法制定前、調査・研究のため渡欧した際に、ベルリン大学のグナイストと並んで教えを受けたのが、当時ウィーン大学にいたこのローレンツ・シュタインです。

本書はそれよりもかなり早い著作で、原著は1842年刊。

フランスは七月王政下にあり、ウィーン体制が未だ存続していた、二月革命前夜の時代。

原著の書名は、サブタイトルの方だそうです。

これは確か、『猪木正道著作集』でその存在を知ったはず。

しかし、邦訳はどうせ無いだろうなあと思ってそのまま忘れていたのだが、たまたま検索してみたら2、3の翻訳がヒットしたので、驚いてとりあえず県立図書館でこれを取り寄せてみた。

しかし、分厚い・・・・・。

この硬い内容で、500ページ強の分量は自分にはきつ過ぎる・・・・・。

結局160ページ余りの第一部だけ読むことにしました。

第一部は平等原理の発展を大革命以後のフランス史に沿って叙述したもの。

第二部はいわゆる「空想的社会主義者」としてサン・シモンとフーリエの思想を解説。

第三部は「並列する著述家」として、プルードンやルイ・ブランなどを扱う。

第四部が共産主義で、バブーフに始まるその歴史を概観。

マルクスの名前はパラパラと見た限り、全く出て来ません。

1848年『共産党宣言』の前だからか?

(この『宣言』自体、当初はあまり広範囲に流布したわけでなく、同年二月革命への影響はほとんど無いと読んだことがあるが。)

詳しい年表が無いのでわからないのですが、吉川弘文館の『世界史年表・地図』には、それ以前のマルクス・エンゲルスの活動として、1845年『ドイツ・イデオロギー』刊とだけ書いてある。

まだ両者の名がそれほど知られていない時期だったということでしょうか。

E・H・カー『カール・マルクス』(未来社)を読み返せばわかるのだろうが、とりあえずパス。

本書の内容に戻って、第一部のみを読んだ限りで、著者の立場を極めて大雑把に要約すると、以下のようになるか。

革命によって解き放たれた人格的平等原理がナポレオン帝政・復古王政・七月王政を通じて猛威を振るい、社会の平準化を進めたが、産業分野における自由の発達は占有(資本)と非占有(労働)の決定的対立を招いた。

人格的平等原理のみを指導理念とすると、経済の自由競争が金科玉条視されるが、市場機構による利益の予定調和など実際にはありえず、虐げられた非占有者は所有権自体を攻撃し、社会は私利私欲が何の妥協も無しにぶつかり合う分裂と闘争の場に堕していく。

それを和らげる有機体的国家の役割や、現世を超えるものへの信仰を、革命以後のフランスは否定したので、どうにもならない袋小路に陥っている。

ドイツはそれを反面教師に国家が社会問題の解決に積極的に乗り出すべきである。

以上全くのデタラメは書いてないつもりなんですが、また例によって誤読やニュアンスの違いや語の不正確な使用があるかもしれませんので、鵜呑みにはしないで下さい。

何か間違っていたらご容赦願います。

なお、本書の主張については、トーマス・マン、ホイジンガ(ここここ)なども要参照。

第一部しか読みませんでしたが、それなりに面白い。

しかし全編読むのは、初心者には相当苦しい。

余裕のある方のみ、挑戦して下さい。

なお、本書と同じく読めない可能性の方が高いでしょうが、アダム・ミュラーやユリウス・シュタールなど、ドイツ系の保守主義者・国家学者の翻訳がどこかから出ないかなあと思います。

だが、国家秩序ならびに社会秩序の地盤が万人の足下で揺らぎ、精神がそこで生きるよう決められている有機体を、全体と個人に結びつけている絆がゆるんでいると人間精神が感じられるならば、人間精神に残っているものは、一つの内的な確信だけである。精神はこの確信にしがみつこうとするし、また、この確信は、失われたものについて精神を慰め、新たな始まりに向けてその勇気を強めるのに十分の力強さをもっている。それはより高い力の支配への信仰である。つまり、神の手が出来事をひき起こしたのであり、また出来事を喜ばしい結末に導くだろうという確信である。この確信が国民の中で生きているところでは、国民生活のどんな内的矛盾も力を増すことはないだろう。というのは、国民にはたしかに疑いがあるが、絶望はないからであり、また、人びとは最後に国民の中に、自らがなしかつ耐えるものに対する確信を見つけ、そして、他国民との戦いの中に、最後の、しかし同時に最高の結合点をみいだすからである。

歴史には、国家と社会の実際の解体が現在のフランスの解体よりもはるかに決定的で、かつ一見希望のないもののように叙述された事態があった。ここで、イギリス革命だけでも想起してみよう。この革命の共和主義者や平等主義者の中に、フランスの共和主義と共産主義の面影を再発見できるとしても、しかしこのイギリス革命には回復力が含まれていた。というのは、どの党派も、宗教を依然として最高の法規として認めていたからである。党派の闘いを導き、救ってくれるより高い権力についての意識が万人に共通に存していた。それで、このような意識がフランスに生きていたならば、フランスの内部抗争に一つのはっきりとした出発点が与えられ、それを通じてすべての問題を解決する可能性が与えられたであろう。というのは、或る確信を真にもっているひとは、その確信の中に、すべてのものの萌芽的な生命を発見するだろうからである。

しかし、フランスの国家は教会をもたないばかりか、国民も神をもっていない。この点では、われわれドイツとは無縁の世界に言及していることになる。フランスの神意識には、それ独自の歴史が求められる。それゆえ、個々の理解を得るのに全体的な探究が望まれるような領域にあえて踏み込もうとは思わない。しかし、宗教が国家や社会とどんなに密接に連関しているかを認識するためには、革命に一瞥を与える必要がある。歴史的な国家形態や所有の不可侵性を葬るのと同じ力が、古来の信仰を否定する。政治的組織を破壊するのと同じ打撃が、教会に命中する。すべての法的諸理念を、あらゆる側面から、種々の不統一な試みへと駆り立てたのと同じ時代が、国民の心情にある神意識を粉砕する。そして、その時代は新しい国家を自らの中から創りだそうと欲したように、また新しい神を獲得することを試みた。この現象にもっとも深く注目することが必要だ。本書では、ここに生じる問題をただ遠まわしに示唆することしかできない。しかし、現代の真の神をフランス国民の精神生活の中に探しても無駄であることは確かなことである。統一の意識がもっとも力強くあるべきところで、各人は自らに溺れている。

だがしかし、あの信仰の中には、国家と所有を攻撃することから生ずる諸矛盾を最終的に和解させるものがある。というのは、悟性が、ほかの国家形態やほかの所有配分の方がすぐれているだろうと理解し、しかしその一方で、平穏な発展過程の中にそれらを実現する方法を洞察せず、また暴力による前進を認めようとしなければ、人間は、依然として自分の神に希望と行為を伴って信心深く身を献げ、また神によって立てられた謎の解決をその神に求めることがありうるからだ。しかし、こういう事情はフランスには存しない。国家の組織および社会の組織を内的に持続させる最終的な基礎が、神とともに葬られた。そして、すべての肯定的な理念に代わって解決しがたい否定が、また、愛に変わって物質的利己主義が現れた。

しかし、このようにして滅び去った諸原理は――各人が自分の意識の審判の前で行動のために求める内的な実証との関係で、何を含んでいるのか。これらの諸原理は国民の道徳を形成している。これらから国家生活全体の人倫的理念の実践的側面が個人に明らかとなり、そしてすべての行為において個人を導くのである。だが、まさにこの道徳が葬られた。より高次の信仰が個人の歩みと希望を導く代わりに利己心が至るところで制約力のある契機となった。「たしかに」とルイ・レボーは言う。「この10年来、あらゆる感情、道徳的な基礎が、許しがたい仕方で足蹴にされたり、否定されたり、ゆがめられてきた。利益の尊重が説教され、また、今世紀には真の偉大さの感情が失われたように思える。国家においては、攻撃者が戦術と役割を変えても、つねに変らぬ攻撃対象となったのは、職と位である。産業と文学においては、行き過ぎがあらゆる制限を乗り越えた。そしてあらゆる誠実さと規則性の軽視がじかにわれわれを破壊と混沌に導くのである。古い道徳性は消え去り、しかも新しい道徳性をどこに求めたらよいか言うのは難しい」。

そんなことはないと、誰が信じたがらなかったか。またそれにもかかわらず、このような叙述が虚偽を含んでいるなどと誰が主張しうるだろうか。ここに誇張がなかったことは確かである。人倫は、そのもっとも深い根底においてさえ攻撃された。そして、利己主義すなわち平等原理のもっとも破壊的な、もっとも終局的な頽廃が、いまや、国家と社会における唯一の法則となるおそれがある。享楽とその満足がすべての階級の最高目的であること、また占有が無節操と、非占有が国家と所有への目先のきかない憎悪と手に手をとって進むということは、ドイツ人にはなんと理解し難いことだろう!それでいて結局、それ以外にないということも、あまりにも真実なのだ。――

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