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福田和也 『昭和天皇  第三部 金融恐慌と血盟団事件』 (文芸春秋)

1926年の即位から1932年五・一五事件直前の血盟団事件まで。

現在刊行されているのはこの巻までです。

単に第二部を読む前に『大正天皇』を挟んだからかもしれないが、何かこの第三部を読み始めると、二部との間に省略があるような感じがするのは気のせいか。

日本共産党の結成などが詳しく扱われていないのもあるんでしょう。

本文にじっくり取り組みながら、今何年の話をしているのか、常に把握しながら読むこと。

しつこいですが、現代史は年代を正確に記憶しないと絶対に駄目です。

前近代なら精選された最重要の年号を記憶すればいいでしょうが、現代史は一年刻みに何があったかを確認できなければ、歴史の流れも理解できない。

本書の範囲内で言うと、まず昭和改元が1926年。

大正天皇崩御が12月25日なので、昭和元年は約一週間。

この年は、憲政会内閣首相の加藤高明が病死、若槻礼次郎が後継首相となる。

アメリカではクーリッジ政権下、バブル的な空前の経済繁栄が続いている。

ヨーロッパでは前年のロカルノ条約を受けてドイツが国際連盟に加盟、ソ連ではスターリンがトロツキーおよびジノヴィエフとカーメネフに対する権力闘争でほぼ勝利を固めている。

以上の通り、欧米では戦間期の束の間の小康状態であり、大きな事件は起きていないが、日本の隣国、中国では大きな動きがありましたよね?

憶えていらっしゃるでしょうか?

国民党の北伐開始ですね。

西暦の下二桁を強く意識して、1926年北伐開始、26年北伐開始と、とにかく頭にこびり付くように記憶するようにしましょう。

次、1927年(昭和2年)には金融恐慌、若槻憲政会内閣崩壊、田中義一政友会内閣成立、東方会議、第1次山東出兵。

ヨーロッパ、アメリカでは前年と同じく格段の出来事は無し、ただしやはり中国では上海(四・一二)クーデタと国共分離という大事件有り。

若槻内閣総辞職は台湾銀行救済が枢密院で否決されたからですが、この昭和初期の内閣では何が原因で倒閣になったのかをしっかり把握すること。

1928年(昭和3年)には張作霖爆殺事件、三・一五事件(日本共産党大検挙)、第2次山東出兵、済南事件、パリ不戦条約、ソ連では第1次五ヵ年計画開始。

中国史で1924年第1次国共合作→25年孫文死、五・三〇事件→26年蒋介石国民革命軍司令、北伐開始→27年上海クーデタ、国共分離→28年北伐完了、張作霖爆殺事件、という一年刻みの流れは当然すぐ頭に浮かぶようにすること。

同時期ヨーロッパの23年ルール占領→24年ドーズ案→25年ロカルノ条約も同様。

イメージ的にあまり結びつかないが、不戦条約締結時は田中義一内閣であったことは要記憶。

野党の民政党が「人民の名の下に」という文言を捉えて政府を攻撃したことは、二年後同じく野党となった政友会がロンドン海軍軍縮条約で統帥権干犯を言い立てたのと同じく、政党政治の自滅行為と言わざるを得ない。

1929年(昭和4年)、四・一六事件、田中内閣辞職、浜口雄幸民政党内閣、世界では言うまでも無くウォール街株価暴落と世界恐慌、付け加えるならヤング案成立とラテラン条約、英第2次マクドナルド労働党内閣。

第一次世界大戦は休戦が1918年、ヴェルサイユ講和条約締結が1919年。

それからちょうど10年で世界恐慌と大動乱期突入と憶える。

1930年(昭和5年)、金解禁、昭和恐慌、ロンドン海軍軍縮条約、統帥権干犯問題、浜口首相狙撃。

1931年(昭和6年)、浜口首相辞任、第2次若槻民政党内閣、三月事件、満州事変、十月事件、犬養毅政友会内閣成立。

同年フーヴァー・モラトリアム、英マクドナルド挙国一致内閣、ウェストミンスター憲章、中華ソヴィエト共和国臨時政府。

満州事変が起こったこの1931年は、言うまでも無く日本にとって一大転機の年。

若槻礼次郎はいずれも前任者の死または遭難で急遽政権を担ったが、穏健で良心的ではあっても、万難を排して国家の運命を転回させるというほどの実行力は無かったという印象だったが、本書での評価もやはりそんな感じ。

9月18日に柳条湖事件、同年それを挟んで前後に三月事件・十月事件という軍部によるクーデタ未遂が起こっている。

1932年(昭和7年)、第1次上海事変(第2次は1937年の日中戦争初期)、満州国建国、五・一五事件、オタワ会議とイギリス連邦のブロック経済化、アメリカ大統領選挙とドイツで二度の総選挙があり、翌33年のルーズヴェルト、ヒトラー両政権成立に繋がる。

以上、すべて高校レベルの事項なので要確認。

歴史解釈の面で、本書の特色を挙げると、張作霖爆殺事件の処分問題で田中義一が辞職したことについての記述がある。

この時、当初真相発表と断固とした処分を奏上していた田中が変節し、それを先帝が強く叱責したため内閣が崩壊したが、普通この事件の関与者への不処罰が軍の暴走と下克上を招いたとされる。

西園寺公望なども当初は事件の徹底解明を主張していながら、腰砕けになっており、昔は「全くとんでもない、それでも元老か」と思っていた。

しかし、本書では先帝と側近の善意を認めながら、これは経験の乏しかった治世初頭における先帝の失策であったと論じている。

中立的調停者としての天皇の役割を踏み越えており、その権威低下をもたらしてしまった。

後任の浜口雄幸への過度の肩入れや、ロンドン海軍軍縮条約で艦隊派(条約反対派)の加藤寛治軍令部長の(手続き上は何ら問題ない)上奏を侍従長が拒否したことなどと併せて、以後反対勢力が「君側の奸」を排除すると称して急進化・暴力化することに拍車をかけてしまった。

相当数の世論の支持を受けた軍人などの一筋縄ではいかない凶暴な連中を制御するには、善意や誠実さだけでなく、狡猾な権力意識や悪辣さすら必要だったのだが、先帝や牧野伸顕内大臣、鈴木貫太郎侍従長にはそれらが決定的に欠けていたとする。

鈴木の前任者で、1929年初頭に死去した外交官出身の珍田捨巳侍従長が存命であれば、同年の田中首相への問責は違った形となり、昭和の歴史は全く変っていたのではないかと書かれている。

明治国家がかなりの程度民主化され、大衆社会が成立した後、得体の知れない粗暴・矯激な世論に煽られ少壮軍人を中心とする急進的勢力が下から国家を揺さぶる。

二大政党(特に政友会)は衆愚的世論に引きずられ、愚かにも、野放図な対外強硬論を競い合い、党利党略のためには政党政治のルール自体を破壊することも厭わない。

国家の最上層の指導部に重厚・老獪な人材は払底し、ただ無思慮な多数派が形作る状況に流されるままとなる。

あとがきで著者は改めて、昭和初期における原敬と加藤高明の不在を嘆いている。

なお昭和唯一の元老西園寺に関して、いずれ読もうかと思っている伊藤之雄『元老西園寺公望』(文春新書)では、この事件で西園寺が取った態度をむしろ評価しているような記述だったはず。

以上の見解については、「へえ、そういう見方もあるのか」と非常に興味深く思った。

面白い。

相変わらずスラスラ読める。

さすがに同時代の世界史についての叙述には穴が目立つが、背景説明としては十分。

時間をかけて熟読する価値有り。

しかし3巻まで来て、1932年冒頭ですか。

やはり5巻までなら、昭和20年にも達しないでしょう。

以下、十月事件首謀者たちの描写。

「御上!」といって哄笑する声があった。「近衛の兵隊が御所で夜間警備についていた時の話だ。遅くまで、御座所の灯りがついている。大変なご勉強だと感服したら、皇后相手に麻雀の研究をされていた・・・・・」

「参謀総長や陸軍大臣が拝謁すると、御上は、嫌な顔をするらしいぞ・・・・・」

ケッ、と誰かが舌打ちをした。

だらしない声で至尊を揶揄する。それが「皇道」を唱える革新派将校たちの実態だった。兵隊たちに陛下のためにすべてを投げ出せと教えながら、君主にたいして一片の崇敬心ももっていない。

美しい理念としての「皇道」が、高く掲げられれば掲げられるほど、現し身の天皇が軽視されるという、無惨な逆説が昭和初年を象徴していた。

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