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夏目漱石 『私の個人主義』 (講談社学術文庫)

漱石の講演だけを集めた本。

「道楽と職業」、「現代日本の開花」、「中味と形式」、「文芸と道徳」、「私の個人主義」の5編。

そのうち「現代日本の開花」は、高校の現代文の教科書で見た覚えがあるが、今の教科書でも載せられているんでしょうか。

どれも極めて平易で楽に読める。

それでいて中々考えさせられる部分が多い。

『思想史の相貌』では、福沢諭吉、福田恒存と並んで高く評価されている数少ない人。

本書を読むと、「中庸の徳」、「健全な平衡感覚」、「安定した常識」といった印象を強く受ける。

誰でも読める本なので、一読しておくと良いでしょう。

今までの論旨をかい摘んで見ると、第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに付随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重じなければならないという事。つまりこの三ヵ条に帰着するのであります。

これを外の言葉で言い直すと、いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。それをもう一遍いい換えると、この三者を自由に享け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起って来るというのです。もし人格のないものが無暗に個性を発展しようとすると、他を妨害する、権力を用いようとすると、濫用に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。随分危険な現象を呈するに至るのです。・・・・・

話が少し横へそれますが、御存じの通りイギリスという国は大変自由を尊ぶ国であります。それほど自由を愛する国でありながら、またイギリスほど秩序の調った国はありません。実をいうと私はイギリスを好かないのです。嫌いではあるが事実だから仕方なしに申し上げます。あれほど自由でそうしてあれほど秩序の行き届いた国は恐らく世界中にないでしょう。日本などは到底比較にもなりません。しかし彼らはただ自由なのではありません。自分の自由を愛するとともに他の自由を尊敬するように、小供[ママ]の時分から社会的教育をちゃんと受けているのです。だから彼らの自由の背後にはきっと義務という観念が伴っています。England expects every man to do his duty といった有名なネルソンの言葉は決して当座限りの意味のものではないのです。彼らの自由と表裏して発達して来た深い根柢をもった思想に違いないのです。

それで私は何も英国を手本にするという意味ではないのですけれども、要するに義務心を持っていない自由は本当の自由ではないと考えます。というものは、そうした我儘な自由は決して社会に存在し得ないからであります。・・・・・

それからもう一つ誤解を防ぐために一言しておきたいのですが、何だか個人主義というとちょっと国家主義の反対で、それを打ち壊すように取られますが、そんな理屈の立たない漫然としたものではないのです。一体何々主義という事は私のあまり好まない所で、人間がそう一つの主義に片付けられるものではあるまいとは思いますが、説明のためですから、ここには已むを得ず、主義という文字の下に色々の事を申し上げます。ある人は今の日本はどうしても国家主義でなければ立ち行かないようにいい振らしまたそう考えています。しかも個人主義なるものを蹂躙しなければ国家が亡びるような事を唱道するものも少なくありません。けれどもそんな馬鹿気たはずは決してありようがないのです。事実私共は国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時にまた個人主義でもあるのです。

個人の幸福の基礎となるべき個人主義は個人の自由がその内容になっているには相違ありませんが、各人の享受するその自由というものは国家の安危に従って、寒暖計のように上ったり下ったりするのです。これは理論というよりもむしろ事実から出る理論といった方が好いかも知れません、つまり自然の状態がそうなって来るのです。国家が危くなれば個人の自由が狭められ、国家が泰平の時には個人の自由が膨張して来る、それが当然の話です。いやしくも人格のある以上、それを踏み違えて、国家の亡びるか亡びないかという場合に、疳違いをしてただ無暗に個性の発展ばかり目懸けている人はないはずです。私のいう個人主義のうちには、火事が済んでもまだ火事頭巾が必要だといって、用もないのに窮屈がる人に対する忠告も含まれていると考えて下さい。

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