« 伊藤之雄 『山県有朋 愚直な権力者の生涯』 (文春新書) | トップページ | 山県有朋についてのメモ その2 »

山県有朋についてのメモ その1

伊藤之雄『山県有朋』(文春新書)の記事続き。

1891年第1次松方正義内閣。

大津事件で青木周蔵外相の条約改正交渉挫折。

この時期から政党に妥協的な伊藤とそれに批判的な山県との対立。

1892年第2次伊藤内閣。

この内閣で日清戦争を戦う。

山県は第一軍司令官として出征するが病気もあり帰国。

戦後、山県はイギリスを警戒し、ロシアと談合することを説くが、実際にはロシアが中心となって露・仏・独の三国干渉が行われ、その方針は全く的外れとなる。

山県には鋭い外交感覚があったとは言えず、この時も政党政治の発達したイギリスへの嫌悪が判断を濁らせたと書いてあり、そういう価値観は全くわからないでもないが、やはりこれは大きなエラーだなと思ってしまう。

96年ニコライ2世戴冠式出席するため訪露、山県・ロバノフ協定締結、朝鮮における日露対等の地位を認める。

この時期の国内政局では伊藤が自由党と、松方が進歩党(改進党)と連携し、山県が藩閥官僚の頭首となる(96年には板垣退助が内相として入閣)。

1896年第2次松方内閣。

外相大隈。

このように、明治政治史をやや細部まで見ていくと大隈・板垣の政党勢力がしばしば入閣している。

少し後の隈板内閣以外にも、こうした積み重ねがあって大正の原敬内閣があるんだなと実感。

ここで動きの激しい、1898(明治31)年の政局が来ます。

1898年第3次伊藤内閣。

山県の子飼いで後継者の桂太郎が陸相就任。

ロシアと西・ローゼン協定。前述の山県・ロバノフ協定と同じく朝鮮での日露対等を定めるが日本の経済進出を認めるやや有利な内容。

1898年自由・進歩両党が合併して絶対多数政党、憲政党を結成、第1次大隈重信内閣。

陸海相以外の閣僚は憲政党員、初の政党内閣、内部対立で短期間で崩壊。

自由党系の憲政党と進歩党系の憲政本党に分裂。

1898年第2次山県内閣。

板垣ら土佐派から星亨に主導権の移った憲政党と連携。

文官任用令改正・文官分限令制定、勅任官の自由任用制限、政党の官僚進出阻止。

軍部大臣現役武官制。

1900年北清事変(義和団の乱)。

ここで非常に注目すべきだなと思ったアモイ(厦門)事件というものの記述が出てくる。

本書を読むまで全く知らなかったのだが、義和団事件の際、当時の児玉源太郎台湾総督がドサクサ紛れに対岸の福建省支配を狙ってアモイで意図的な騒乱を起こし、小兵力を本国から派兵させた事件。

イギリスなど列強から撤兵要求がきて、児玉はアモイ占領に固執したが、伊藤博文は強く撤兵を主張。

山県は児玉と同じく大陸進出に同意する意見も持つが、列強からの孤立を恐れる慎重さも持ち合わせており、首相の山県と軍中央は撤兵に応じる。

児玉源太郎といえば、司馬遼太郎『坂の上の雲』(文春文庫)では、精神主義が空回りする乃木希典に対して、日本陸軍のリアリズムと合理性を象徴するヒーローとして描かれているが、本書でのこのアモイ事件や後述する日露戦後の満州軍政継続問題での動きを見ると、危ういなあという感想を禁じえない。

旧軍の悪しき部分の萌芽は、乃木ではなくむしろ児玉にあったのではないかとさえ思うというのは言い過ぎか。

同じ1900年には治安警察法制定、これは主に労働運動取締りのためで、1875年讒謗律(←つぶれていて読めないかもしれませんが「ざんぼうりつ」と読みます。「ざんぼう」の読みで一発漢字変換できたのに驚いた。)と新聞紙条例、1880年集会条例、1887年保安条例が政党勢力を抑圧するためのものであったのとは異なる。

文字を大きくしましたが、これでも見にくいですね。→讒謗

第2次内閣まで来ましたが、本格的にメモしだすと止まらない。

まだ続きます。

|

« 伊藤之雄 『山県有朋 愚直な権力者の生涯』 (文春新書) | トップページ | 山県有朋についてのメモ その2 »

おしらせ・雑記」カテゴリの記事

近代日本」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。