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引用文(ポラニー2)

カール・ポラニー『大転換』(東洋経済新報社)より。

ファシズムによる自由の完全な破棄は、実際のところ自由主義哲学の必然的な結果である。自由主義哲学は、権力と強制は悪であり、自由には人間社会における権力と強制の消滅が必要であると主張する。しかしこのようなことは不可能であり、複合社会においてこれは明白となる。自由主義哲学のような立場をとれば、次の二つの選択肢しかなくなる。すなわち、幻想にすぎない自由の観念を固守して社会の現実を否定するか、あるいは社会の現実を受け入れて自由の観念を拒絶するかである。前者は自由主義者の結論であり、後者はファシストの結論であった。これ以外の選択肢はないように見える。

・・・・・・

このディレンマの根本にあるのは、明らかに自由の意味それ自体をめぐる問題である。自由主義経済はわれわれの理想を誤った方向に導いた。それは、本質的にユートピア的な期待が実現できるかのように思わせたのである。しかしいかなる社会も、権力と強制がなければ存在できないし、力が威力を発揮しないような世界もありえない。人間の意志と希望だけで形成された社会を想定することは幻想であった。ところがこれが、経済を契約的関係と、そして契約的関係を自由と同一視した市場的な社会観の結果であった。こうした社会観から、人間社会において個人の自由意志から生み出されなかったものはなく、したがって再び個人の自由意志によって取り除けないものはないという、根本的な誤解が生じたのであある。

洞察は、市場によって限定を受けた。市場は生活を、自己の製品が市場に到達したときに終了する生産者部門と、自分のためのすべての商品が市場から生じる消費者部門に「分断」した。一方は、自分の所得を市場から「自由に」引き出し、他方はそれを市場で「自由に」使った。全体としての社会は、目に入らぬままであった。国家権力は何の重要性ももたなかった。というのは、国家権力が小さければ小さいほど、市場メカニズムは円滑に機能するからである。有権者にも資産所有者にも、生産者にも消費者にも、失業や貧困にともなって発生する容赦ない自由の制限の責任を負わせることはできなかった。普通の人間なら誰でも、自分が個人的に拒んだ国家による強制行為や、個人的に恩恵をこうむることのなかった社会における経済的な苦難について、自分はまったく責任を問われることはないと考えることができた。自分は、「一人でやってきた」し、「誰にも迷惑をかけてもいない」のであり、権力と経済的価値決定の悪に巻き込まれなかった。それらについて自分に責任がないことは明白である。したがって彼は、自己の自由の名において権力と経済的価値決定が生み出した現実を否定したのだった。

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引用文(ポラニー1)

カール・ポラニー『大転換』(東洋経済新報社)より。

労働を、人間生活においてなされるそれ以外の活動から切り離して市場の諸法則に従わせるということは、人間のありとあらゆる有機的な存在形態を壊滅させ、それをタイプの異なる、個別・細分化された、個人主義的組織に置き換えることであった。

こうした破壊的企てには、契約の自由の原理を適用することがもっとも有効であった。実際のところ、この原理を適用するということは、血縁、隣人、同業者仲間、信仰集団という非契約的な組織を解体しなければならないということであった。これらの組織は、個人の忠誠を要求し、したがって個人の自由を制限していたからである。経済的自由主義者は、契約自由の原理を非干渉的な原理であると説明するのを常としていたが、実はそれは、ある特定の干渉、すなわち個人間の非契約的関係を破壊し、そうした関係の自生的な再形成を妨げるような干渉を好ましいとする根深い偏見の表明にほかならなかった。

盲目的「進歩」の一世紀ののち、人間はみずからの「住処」を回復しつつある。もしも産業主義が人類を絶滅させるものでないとすれば、それは人間の本来的な要求に従うものでなければならない。市場社会に対する正当な批判は、それが経済に基づいていたということにあるのではない。ある意味では、いかなる社会も経済に基づかざるをえないだろう。そうではなくて、批判の要諦は、市場社会の経済が利己心に基礎をおいていたということである。経済をそのように組織することは、どう考えても不自然であり、また厳密に経験的な意味で例外的であった。

19世紀の思想家は、次のように想定した。人間はその経済活動において利潤を得ようと努め、その物質主義的な傾向によって、最大の努力ではなく最小の努力を選択し、自己の労働に対する報酬を期待するだろう。要するに人間は経済活動において、19世紀の思想家が経済合理性と名づけたものに従う傾向があり、それに反するあらゆる行動は外的な干渉の結果であるにすぎないのだ、と。このことからすると、人間にとって市場は本来的な制度であり、人間を自由にさせておけば市場は自然発生的に生ずることになろう。かくして、諸市場によって成立し、市場価格の支配のみに従う経済システムよりも正常なシステムは存在せず、こうした市場に基づく人間社会があらゆる進歩の到達点と見えたのである。そして、道徳的見地から見てこのような社会が望ましかろうがそうでなかろうが、公理であると想定されたその実現可能性は、人類不変の特性に基づいているとされたのであった。

しかし実際には、すでにわれわれが知っているように、人間の行動は、その未開の状態にあってもあるいはその歴史のあらゆる過程を通じてみても、右に述べたような見解が意味するところとはほとんど正反対であった。フランク・H・ナイトの「人間に特有な動機には、経済的なものなどない」という命題は、広く社会生活一般だけでなく、経済生活そのものにも当てはまる。アダム・スミスがみずからの著作で未開人を描写する際にあれほど自信をもって拠り所とした取引性向は、人間が経済活動に従事するときの普遍的な特質であるどころか、きわめてまれな性向なのであった。

近代人類学の示す証拠がこうした合理主義的なモデルの誤りを立証しているばかりでなく、交易と市場の歴史もまた19世紀の社会学者が説く調和に満ちた教説が想定するものとはまったく異なっていた。経済史によれば、全国的市場の出現は、けっして経済領域が政府の統制からゆっくりとひとりでに解放されていった結果ではなかったことが明らかとなっている。それどころか市場は、政府による意識的でしばしば暴力をともなう介入の結果であった。政府は、非経済的な目的のために社会に対して市場組織を推しつけたのである。そして19世紀の自己調整的市場は、仔細に検討してみれば、その調整を経済的利己心に依存しているという点で、その直近の経済システムとも根本的に異なるものであることがわかる。19世紀社会の先天的な弱点は、それが産業社会であったということではなくて、それが市場社会であったということであった。産業文明は、自己調整的市場のユートピア的な実験がもはや過去のエピソードにすぎなくなったときにおいても存在しつづけるであろう。

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カール・ポラニー 『[新訳] 大転換  市場社会の形成と崩壊』 (東洋経済新報社)

1944年刊行の著作。

著者のカール・ポラニー(ポランニー)については、経済人類学の祖として栗本慎一郎氏の著作などで、名前だけは知っていた。

松原隆一郎『経済学の名著30』でも紹介されており、去年この新訳が出たので、試しに手に取ってみた。

しかし長い・・・・・。

でかい版形で500ページ超。

60ページほどある、末尾の「文献に関する注解」をとばしても、470ページ。

訳注がかなりのページを占めるので、本文はやや短くなるが、それでも自分にとってはかなりきつい。

途中、挫折しそうになりながら、気合を入れて何とか通読した。

冒頭、ノーベル経済学賞受賞者で、よく新聞・雑誌にも登場するジョセフ・スティグリッツの「序文」と、社会経済学者のフレッド・ブロックという人の「紹介」が載せられており、どちらも本書の理解に極めて有益。

各章の始めにも、訳者による梗概が載せられており、これが驚くほど要領良く本文の内容を要約している。

実を言うと、途中でこの梗概だけ読んで済まそうかという誘惑に駆られた。

本書の主張の核心は、19世紀文明が依拠した「自己調整的市場」という考えは全くのユートピアであり、それを是正しようとする社会の保護的手段との軋轢のうちに20世紀の悲惨な混乱がもたらされたというもの。

以下、あまり整理されていない内容メモ。

まず、19世紀に確立した市場経済の特異性を強調。

それ以前の人類社会の経済は、「互酬」、「再分配」、「家政」の三つの行動原理で運営されており、利得を求めて「経済人」が活動する市場によって支配されていたことは無かった。

また、市場の発展は正統派経済学者が考えるように「局地的市場」→「国内市場」→「遠隔地市場」といった順序ではない。

まず戦争や掠奪に起源を持つ遠隔地交易が存在し、「局地的市場」はあくまで副次的経済パターンに留まり、慣習やタブーによって市場の発展は抑制されていた。

近代的「国内市場」は「自然に」誕生したものではなく、15・16世紀に「外交において自国の力を十分発揮できるよう国家の全領域に存在する諸資源を動員することが要請された」ため、当時の中央集権国家の人為的干渉によって生れたもの。

ただし、この段階でも社会の安定を維持するため、市場への様々な規制や干渉が行われており、結局都市や農村単位の規制が一国規模に広がっただけ。

その種の干渉として、イギリス・テューダー朝王権による第一次囲い込み運動への抑制姿勢がある。

主流派経済史家はこれを土地制度近代化への無益な抵抗として批判するが、これがあったがために囲い込みのスピードが緩み、農村での混乱と困窮が何とか持ち堪えられるものになったのであり、そうでなければこの時点で社会は完全に崩壊していた可能性があったとされている。

18世紀末から登場した自己調整的市場は労働、土地、貨幣も市場の構成要素としようとするが、これらは本質的に商品ではない。

これら「擬制商品」を市場化の波に晒すことによって、社会は甚大な打撃を蒙る。

市場メカニズムを、まさに人間とその自然環境の運命を左右する唯一の支配者とすることは、あるいは購買力の大きさと用途の唯一の支配者とすることでさえ、社会の壊滅をもたらすであろう。なぜなら、いうところの「労働力」という商品は、たまたまこの独得の商品の所有者となっている人間個人に影響を与えることなしには、それを無理やり推しつけることも、手当たりしだいに使うことも、あるいはそれを使わずにとっておくことさえできないからである。市場システムが人間の労働力を処理するということは、それによって、「人間」という名札に結びつけられたその人自身の物理的、心理的、道徳的特性を、市場システムが処理することを意味しよう。人間は文化的諸制度という保護膜を奪われ、社会的にむき出しの存在となることに耐えられず、朽ち果ててしまうだろう。すなわち人間は、悪徳、堕落、犯罪、飢餓による激烈な社会的混乱の犠牲者として死滅するのである。自然は元素にまで分解され、街と自然景観は冒涜され、河川は汚染され、軍事的安全性は危地に陥れられ、食料と原料を生産する能力は破壊されるだろう。最後に、購買力を市場が支配すれば、企業は周期的に整理されることになるだろう。というのは、貨幣の不足と過剰は、未開社会における洪水や旱魃のように、事業にとって災厄となることが明らかになるからである。労働、土地、貨幣の市場が市場社会にとって必須のものであることに疑問の余地はない。しかしいかなる社会も、その中における人間と自然という実在あるいはその企業組織が、市場システムという悪魔のひき臼の破壊から守られていなければ、むき出しの擬制によって成立するこのシステムの影響に一瞬たりとも耐えることができないだろう。

1795年イギリスで、労働市場を創出しようとする動きへの抵抗として、スピーナムランド法が制定される。

一定の賃金水準に達しないものに救貧税を原資として給付金を支給するもの。

結果、雇用主はこの法を賃金を引き下げる口実とし、労働生産性は低下し、独立心と自尊心に欠けた寄生的大衆が生まれ、救貧税を納める中間層だけが窮迫した。

結局1832年選挙法改正によって参政権を得た中産階級の手によって34年スピーナムランド法は廃止される。

この種の悪平等主義が破綻したのは当然だったが、そこから逆の極端が横行し、労働者は何の保護も無いまま、産業革命の荒波に放置されることになってしまう。

われわれは、初期資本主義の忌まわしい物語を「お涙頂戴ドラマ」として割り引いて考えることに慣れてしまっている。しかし、こうした考え方が正しいという理由は何もない。・・・・・ある恐ろしい破局によって人間の像そのものが汚されてしまっていると信じた点において、誰も間違っていなかった。だが、詩人や博愛家から発せられた苦悶や怒りの爆発よりもはるかに印象的なのは、マルサスやリカードの氷のような沈黙であった。彼らは沈黙を守ることによって、自分たちの現世地獄の哲学を生み出した光景に対して見て見ぬふりをしたのである。

・・・・・学者たちは異口同音に、人間世界を支配する法則を疑問の余地なく示す科学が発見されたと宣言した。憐憫の情が人間の心から取り払われ、最大多数の最大幸福の名のもとに、人間の連帯を放棄しようとの禁欲的決意が世俗的信仰の威厳を獲得したのは、この法則の命令によるものであった。

市場メカニズムは、自己を主張しつつ、その完成を声高に要求していた。すなわち、人間の労働は商品化されねばならない、と。反動的な温情主義は、この必然性に空しい抵抗をしていたわけである。人々はスピーナムランド体制に対する嫌悪と恐怖から、庇護を求めてユートピア的な市場経済のもとへと盲目的に駆け込んだのである。

19世紀を通じて市場化を推し進めようとする市場自由主義と、それから社会を防衛しようとする保護主義的対抗運動という、「二重の運動」が生れる。

保護主義は自由主義者が言うような「集産主義者の陰謀」の結果ではなく、利害を異とする様々な国家、階級による、社会防衛のための止むに止まれぬ行動と見るべきだと、著者は書いている。

そうした不可避な行動が帝国主義に繋がり、国際対立が第一次世界大戦で爆発、1920年代に自己調整的市場の国際的表現である金本位制を維持しようとする無理な努力が大恐慌とファシズムの台頭を招いたとか、以後はそんなことが書いてあるのか。

とんでもなく下手なまとめですが、私が読み取ったのは以上のようなことです。

かなりきつかったが、何が書いてあるのか全く意味が取れないという部分はほとんど無かった。

これは初心者でも何とか読めます。

「自由市場に規制・干渉を一切加えないのが保守」みたいな出鱈目な風潮に対する解毒剤として読む価値あり。

しかし、読み終えた後、上記栗本氏が1980年代末から90年代初めに展開していた市場至上主義的評論は一体何だったのかと不審に思う。

もちろん時代錯誤の教条的社会主義者の残党すら健在だった当時は今と全く状況が違いますし、同じことを70年代、80年代に主張するのと、今そうするのとでは意味が全然違うでしょうが。

気楽に読める本でもないが、各章梗概を頼りに飛ばし読みする気持ちでいいので、一度手に取ってもいいかもしれない。

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田中芳樹 『蘭陵王』 (文芸春秋)

世界史関係の読書を趣味にしていて思うことで、日本史が好きな人は読む本の選択肢が多くていいなあというのがあります。

普通の史書・伝記だけでなく、司馬遼太郎を始めとする歴史小説が読みきれないほどあって、選び放題。

世界史だと、こうは行きません。

とは言え、世界史の中でも中国史だけは日本でも一般読者向けの歴史小説が多数ある。

これまで記事にした分では、宮城谷昌光『長城のかげ』塚本青史『呂后』陳舜臣『小説十八史略1』などがそれに当たるか。

しかし、私は正直こうした類いの本は好きではありません。

内容が通俗的過ぎて感心しないものが多く、一般的史書でもその歴史対象について十分面白みは感じられるのではないかと思うことが多いので。

吉川英治『三国志』はある意味基本書なのと、司馬遼太郎『項羽と劉邦』および『韃靼疾風録』は面白過ぎるので例外。)

著者の田中芳樹氏については、高校生の頃『銀河英雄伝説』を通読したことがあり、また中国史関係の歴史小説を多数書いていることも知っていたが、これまでそれらを手に取ることは全く無かった。

たまたま本書が図書館で目に付いたので、表紙のイラストにやや閉口しながらも、試しに借りてみた。

南北朝時代、6世紀の中国、北斉帝室の一員であった蘭陵王高長恭を主人公にした歴史小説。

後漢滅亡後、三国時代を経て西晋の統一が成るが異民族の侵入により短期間で破れ、五胡十六国時代に突入、その中から北魏が華北を統一、江南の宋・斉・梁・陳と共に南北朝時代が始まり、北魏が東西に分裂、それがさらに北斉・北周になって・・・・・という流れはもちろん要記憶。

「周」は昔西安を都にしていたから西で、北周は西魏の後継、「斉」は山東半島を含む国だから東だ、だから北斉は東魏の後継王朝、と覚える。

北魏が東西分裂した時点ですでに実権は帝室になく、西の宇文泰と東の高歓が対峙する情勢であり、西魏・東魏の王朝は実質傀儡に過ぎない。

宇文泰・高歓ともに生前は禅譲・即位を行わず。

西魏では宇文泰の子の代で北周王朝が成立し、三人の子が相次いで即位するが、実権は常に宇文泰の甥、皇帝たちにとっていとこにあたる宇文護が握る。

三代目の武帝が宇文護を殺害、英明の才を現し、弟の宇文憲らの助けを借りて北斉を滅ぼし華北統一。

武帝の息子宣帝と結婚した娘の父親が、次王朝隋の開祖である楊堅。

北斉滅亡→北周から隋へ→陳滅亡という順番。

三国時代の蜀滅亡→魏から西晋へ→呉滅亡という流れと似ている。

両者とも、「全国統一の前に簒奪された」と記憶。

ちなみに北周の武帝は仏教弾圧を行い、これがいわゆる「三武一宗の法難」の一つ。

(他は北魏の太武帝、唐の武宗、五代後周の世宗。)

肝心の北斉の話をすると、高歓の後を息子の高澄が継ぐが、この人も帝位には就かず。

代替わりの際、反乱を起こした武将侯景を破り追放。

この侯景が南朝に降った後、反乱を起こし、梁の武帝時代爛熟の極みにあった江南を大混乱に陥れることは、吉川忠夫『侯景の乱始末記』参照。

蘭陵王はこの高澄の息子。

高澄が側近によって不慮の死を遂げると、弟の高洋が継ぎ、この高洋が東魏を正式に滅ぼし、北斉王朝樹立、文宣帝となる。

ところがこの初代文宣帝は前帝室の元氏(拓跋氏から華化政策で改名したのか、確か)を皆殺しにし、酒色に溺れて悪政を敷いた後、若くして死去。

息子の廃帝が後を継ぐが、直後文宣帝の弟高演が位を奪い、孝昭帝として即位。

北斉ではこの孝昭帝だけはまともな名君だったようだが、わずか一年ほどで落馬して死去。

また兄弟継承で、孝昭帝の弟高湛が武成帝として即位するが、これが文宣帝に輪をかけたとんでもない暴君。

和士開などの奸臣と共に暴虐の限りを尽くし、孝昭帝の息子や蘭陵王の兄弟も死に至らしめる。

その死後、息子の高緯(後主。本書では無愁天子)が即位するが親譲りの暗君で、北斉はこの代で滅亡。

こういう異常天子が在位し国政が乱れに乱れる状況の中、名将斛律光および段韶と共に国を支えた蘭陵王の活躍を本書では描写している。

予想していたよりもかなり面白かった。

話の展開が速いので、読んでいてダレない。

どうでもいい情景描写をダラダラ続けられるとウンザリするが、本書にはそうした部分はほとんど無い。

複雑で馴染みの無い時代の歴史を、登場人物の個性描写で印象付けることによって無理なく理解・記憶させるという、歴史小説の役割を十分果たしている。

著者がきちんと『北斉書』などの正史にあたっていることがわかる。

この人は日本人の中国史に関する知識が三国時代ばかりに集中していることに不満で、他のマイナーな時代についての歴史小説を意図して書いているようですので、他の著作も読んでみると面白いのかもしれません。

私も機会があれば、また手に取ってみます。

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引用文(伊藤之雄2)

伊藤之雄『伊藤博文』(講談社)408ページより。

都合よく、非常に適切にまとまった文章なので、少々長いが以下にメモ。

すでに述べたように、大久保利通が暗殺された後の1878年から第二次伊藤内閣が倒れる1896年まで、伊藤は伊藤体制を維持し、政府を主導し、「憲法政治」(立憲政治)を定着させていった。それが可能であったのは、(1)明治天皇の信任を得、薩摩系の有力者とすら協調できる明朗な人柄、(2)英語力や中国・日本の古典などに裏付けられた法律や経済・歴史などに対する深い洞察力と西欧の規範への理解、(3)現実主義の立場から内政や外交を処理する実務能力と、「剛凌強直」な性格による政治への決断力、などがあったからだった。

ところが、わずか五ヵ月半で第三次伊藤内閣が倒れたように、伊藤体制は明らかに機能していない。20年近くも続いた伊藤体制が凋落したのは、なぜだろうか。

それは第一に、政党が台頭したからである。

伊藤の目指す「憲法政治」(立憲政治)とは、より多くの国民に教育を普及させ、国民の自覚を促し、少しずつ国民の政治参加を拡大することである。その結果、政府(行政府)と議会(立法府)とが、合理的な議論を積み重ね、自覚した幅広い国民の意思を反映した国策の決定ができる、と伊藤は考える。これが、伊藤の理想とする政府と議会の調和した体制である。これは、国力を強めるための源泉となるのみならず、日本が「文明国」であるとの実績を列強に誇示でき、条約改正などの外交交渉にも役立つ、と伊藤は考えた。

初期議会以来、伊藤は日本の政党の状況に不満を持っていたが、右の目的のため、政党(議会)側と妥協し、その要求もできる限り受け入れようとした。また、政府が暴力的に政党を抑圧しようとするのを阻止した。

このため、政党が着実に力をつけ、日清戦争後には、自由党、次いで進歩党が政府与党となり、それぞれ板垣退助や大隈重信の入閣を実現し、党員を高級官僚に就官させた。自信をつけた自由・進歩の二大政党は、藩閥政府と提携する見返り条件をさらに膨張させ、伊藤の統制から離れていった。

伊藤の腹心だった陸奥宗光が、伊藤から精神的に離れ始めたのも、陸奥の病気の進行に加え、政党が台頭したことが大きい。

伊藤体制が凋落した第二の理由は、政党の台頭への対応をめぐって藩閥内で意見の対立が生じ、各勢力が自立し始めたことである。

その最も大きなできごとは、日清戦争後に、山県有朋を盟主とする山県系官僚閥が形成されたことである。

1880年代まで、山県は同じ長州の伊藤や井上馨に支えられて、薩摩の大山巌と連携して陸軍を統制し、近代化を図った。しかし、山県の狙いは、専門家集団としての陸軍が、なるべく政府から干渉されない形で自立することだった。陸軍は、日清戦争に勝つことで威信を高めて自立を強め、日清戦争後は伊藤ですら人事等の重要事項に関与できなくなっていった。

また、初期議会以降に藩閥政府と政党が対立した際に、伊藤が政党に融和的な姿勢を見せたことも、山県系官僚閥の形成を促進した。1892年の第二回総選挙における品川内相の選挙干渉問題や、日清戦争後の第二次伊藤内閣と自由党の接近によって、内務官僚は山県の下に結集するようになった。

それのみならず、薩摩系も伊藤から離れていくようになった。

伊藤が品川内相の選挙干渉をとがめて、薩摩系閣僚の多い松方正義内閣を倒したことで、松方など薩摩系の有力者は、伊藤と冷ややかな関係になっていった。たとえば、それまで松方は、薩摩出身ながら「伊藤味噌」と言われるほど、伊藤に従っていた。ところが、第一次内閣を倒されて以降、伊藤からの自立を強め、第二次伊藤内閣でも、財政上の意見の違いで、わずか五ヶ月余り蔵相を務めただけで辞任した。その後、大隈重信と連携し、伊藤の再度の入閣要請に応じず、松隈内閣として第二次松方内閣を作った。

また、大久保亡き後、薩摩の最有力者であった黒田清隆とも、伊藤は比較的良好な関係にあった。しかし、1889年に伊藤が大隈条約改正を中止させるため、黒田内閣を倒すことになって以降、伊藤と黒田はしっくりいかなくなった。また黒田は政党に対して元来否定的な感情を持っていた。そのことにも関連し、伊藤が影響力を及ぼせる薩摩系有力者は、海軍の長老西郷従道ぐらいしかいなくなった。

盟友井上馨も、伊藤に自分の主張を強く述べて通そうとするという意味で、伊藤からの自立を始めた。第三次伊藤内閣への入閣に際しても、1898年1月、井上は伊藤と対立し、伊藤が山県有朋に助力を求める手紙を書くほどであった・・・・。井上は、蔵相として副総理格で入閣したが、かつて板垣が不正事件で井上を失脚させようとして以来、板垣とは不仲であった。同年四月にはその感情をむき出しにし、板垣が入閣するなら蔵相を辞任する決意すら示した・・・・。

この頃までに藩閥の有力者は、ほとんど組閣を経験している。まだ組閣したことがないのは、兄の西郷隆盛に関する責任から組閣を辞退し続けている西郷従道を除けば、井上馨だけだった。年齢を考えると、井上もそろそろ組閣したいと願うようになった。重要閣僚であっても、伊藤を助けるためのみに入閣することに、以前のように張り合いを感じられなくなったのである。

以上のように、伊藤の権力、すなわち伊藤体制は衰えていたにもかかわらず、伊藤はそのことを十分に自覚せず、第三次伊藤内閣ではかなり強引な政権運営を行おうとした。これが伊藤体制の凋落をさらに早めることになる。

・・・・・・・

いずれにしても、伊藤体制が凋落した状況では、伊藤が藩閥勢力に立脚しながら政党をも従えて「憲法政治」の定着を図ることは困難になる。「憲法政治」の定着のためには、政党創立を土台作りからやる必要がある。伊藤がこのような考えを持つようになるには、もう少し時間が必要だった。

以上の文章の意味が、内閣の成立順と年代を思い浮かべながら理解できれば、本書の内容の重要部分は咀嚼できたと言っていいんじゃないでしょうか。

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引用文(伊藤之雄1)

伊藤之雄『伊藤博文』(講談社)224ページ、1888年枢密院での憲法草案審議の記述より。

伊藤は第一に、ヨーロッパにおいては「憲法政治」が「千余年」前に形成が始まり、「人民」が制度に習熟しているのみならず、「宗教なる者」があって、それが「機軸」となり深く人心に浸透して人心が一つになっているが、日本では宗教の力すら微弱で、国家の機軸になるものはない、とヨーロッパと日本の違いと、「憲法政治」を行うにあたっての、日本の条件の悪さを強調した。

第二に、日本において「機軸」とすべきは、「皇帝」[天皇]があるのみで、憲法草案では「君権を尊重して成るべく之を束縛せざらんことを勉めり」と、天皇を機軸として人心を一つにするため、天皇権力をなるべく制約しないようにしたことを説明した。

第三に、君権が大変強大である時は濫用されるおそれがあるという者がいるが、もしそのようなことがあったら「宰相」[首相]が責任を持つし、その他にも濫用を防ぐ道がないわけではないので、いたずらに君権の濫用を恐れ、「君権の区域を狭縮」しようとするのは、道理のない説であると論じた。

この伊藤議長の発言の裏には、枢密顧問官の中の保守派が、天皇大権を憲法で制約するのではないかと警戒しており、伊藤への感情的な反発もあったことへの配慮がある。彼らの疑心を解き、枢密院の審議を内実のあるものにしたかったのだ。それと同時に、ヨーロッパの実情や歴史も十分に知らず理想論ばかり述べる在野勢力への不信感が続き、彼らが多数を占める可能性がある衆議院への強い警戒心もあった。

そこで伊藤は、憲法で天皇大権をなるべく強く規定しておき、状況の進展に応じてそれらを他の機関に委任するという形で、行使しないようにしてゆけばよい、と考えたのである。元来、日本では、大久保利通・岩倉具視など有力閣員が実権を持ち、天皇が権力濫用をすることはなかった。しかも、明治天皇はすでにシュタインの君主機関説的考え方を身につけており、そんな心配はまったくない、むしろ当面警戒されるのは衆議院の「権力濫用」だ――。伊藤はこのように考えたのだろう。

・・・・・・・

天皇は神聖にして侵すべからず(第三条)という有名な条文は、天皇が法律上や政治上の責任を問われないというものであり、君主が自由に様々なことに関与できるという意味ではない(伊藤之雄『明治天皇』270~271頁)。

さらに、伊藤が立憲君主制としては強い天皇大権を憲法に規定したのも、当面は政府(行政府)がそれを委任され、在野勢力が「憲法政治」に成熟するに従い、衆議院(立法府)への委任を増大させていくことになるだろう、という見通しのもとであった。

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伊藤之雄 『伊藤博文  近代日本を創った男』 (講談社)

半年ほど前に出た伝記。

同じ著者の『山県有朋』(文春新書)も長かったが、これも分厚い。

単行本で600ページ近くにもなる。

副題の通り、近代日本で最重要・最優秀の政治家の伝記だから、やむを得ないとも思うが、やはり通読には相当骨が折れる。

途中でかなりダレ気味になり、10日ほどかけてようやく読み終えた。

上記『山県・・・・』の記事でもやったので、この際明治政治史の総まとめのつもりで内容をメモしようかなと思ったのですが、あまりに面倒臭いのでとりあえず1885年初代総理大臣に就任するまでの最初の部分だけ。

伊藤博文は長州藩の農民、林家の子として1841年に生れる。

幼名は利助(のちに利介・利輔)。

父親が跡継ぎのいない足軽の伊藤家の養子となり、自身も伊藤姓を名乗るようになる。

以後、幕末の活動については軽く流す。

この辺、歴史小説などで好きな人は多いんでしょうが、私はあまり興味が持てません。

吉田松陰、木戸孝允に見出され、後に最も親密な盟友となる井上馨と出会ったことだけチェック。

明治前半の歴史も苦手です。

1868年明治に入ってからは、この記事で書いたように、1873年明治六年政変、1877年明治十年西南戦争(と翌78年大久保利通暗殺)、1881年明治十四年政変の三つの区切りを念頭に置き、それぞれの間に何が起こったのかを把握しましょう。

まず明治初年においては木戸孝允の下にあって、大隈重信と共に急進的な近代化路線を主唱する新進大蔵官僚として出発。

大蔵卿の大久保利通とは対立していたが、1871年岩倉遣外使節団に同行することで大久保と意気投合し、逆に木戸との仲が微妙になる。

帰国後、1873年明治六年の政変では岩倉具視と連携して征韓論を押し止める。

この間、1871年廃藩置県、73年地租改正・徴兵令という大改革有り。

74年台湾出兵、民撰議院設立の建白書、佐賀の乱、75年台湾出兵に反対して下野していた木戸が大阪会議後復帰、立憲政体樹立の詔、讒謗律と新聞紙条例。

初期の外交では71年日清修好条規、72年琉球藩設置、75年江華島事件と日朝修好条規、樺太・千島交換条約、76年寺島宗則外務卿の条約改正交渉、79年沖縄県設置(琉球処分)。

大久保亡き後、政府の中心になり、1881年急進的国会開設論の大隈と激しく対立し、政府外に追放(明治十四年の政変)。

1882年憲法調査のため訪欧。

民権派はイギリス的な議会制憲法を制定すれば良いとし、政府内では逆にドイツ的な君権の強い憲法を作れば良いとする井上毅(こわし)らの法務官僚がいた。

その双方と異なり、伊藤は単なる外国の模倣ではオスマン朝のミドハト憲法のように必ず行き詰る、日本の伝統に合った調停的君主としての天皇を中心とした憲法を作成し、それが与野党の妥協と慣習的議会運営ルールの定着によって、着実に運営されることが何より重要だと考えた。

著者はこうした伊藤の姿勢を高く評価している。

1882年朝鮮で壬午軍乱、84年甲申事変、85年天津条約。

これにより開国後日本と接近していた閔氏政権は清国寄りに。

甲申事変と同年に清仏戦争が起こっているが、同じ「日清戦争の十年前」の事件でも、清はヴェトナムでは宗主権を失っているが、朝鮮では日本を押さえ込んでいることにご注意。

1885年内閣制度樹立、伊藤が初代首相に就任。

疲れるので、メモするのはここまでにします。

以後は、とにかく首相の名と任期を丸暗記。

普通教科書でバラバラに出てくる政権移動・自由民権運動・国会開設過程・政党結成・法典整備・外交交渉・条約改正交渉・対外戦争などをとにかく内閣在任期間で横にぶった切って、どの内閣時代に何があったのかを憶える。

この時期、明治政府内では伊藤派と山県派と薩摩派(黒田清隆・松方正義・西郷従道・大山巖ら)、政党勢力では板垣の自由党、大隈の改進党が存在。

憲法制定と国会開設後は、政党勢力に連なる陸奥宗光、星亨、西園寺公望、原敬らとも協力し、幾たびかあった憲法停止の危機を乗り切る。

これら政治的プレイヤーの連携・離反の過程を、本文を読みながらしっかり把握するようにしましょう。

他には、1895年閔妃暗殺事件の概要、日露戦争前に伊藤が推進した「満韓交換論」と「日露協商」路線への評価、1905年ポーツマス条約と第2次日韓協約後の統監としての対韓方針などの叙述が興味深かった。

閔妃暗殺については計画・実行は現地日本大使館の仕業であり、伊藤を含む日本の中央政府指導者の承認があったとする、最近の韓国での学説が史料を踏まえて具体的に批判されている。

日英同盟と日露戦争が近代日本における最も輝かしいサクセス・ストーリーと見做されているせいで、伊藤が強くこだわった「日露協商」路線はえてして非現実的で危険な一時凌ぎの策と評価されがちだが、当時のロシアの政策決定にはぶれがあり「満韓交換論」にも可能性があったこと、一度日露間の妥協が成立した場合、ヨーロッパでドイツと、中央アジアでイギリスとの対立関係を抱えたロシアが協定を破って再南下する可能性は低かったことが述べられ、伊藤の交渉が決して当を失したものではなかったと著者は書いている。

また当初韓国併合慎重論だった伊藤が容認に転じるが、それは植民地議会開設と一定限度の自治を前提にしたものであったと書かれている。

なお私生活でよく話題に上る「好色」だが、確かに外で子供をつくったとかいう記述がよく出てきて「お盛んですなあ」という印象を受けるが、岩倉具視の娘を強姦したなんて滅茶苦茶な話は反対派が流した悪質なデマだと強く否定されている。

悪くはないが、やはり長すぎる。

伝記を書こうとすれば、明治全史を語らざるを得ない超重要人物であるから、無理な注文なのかもしれないが、もう少しコンパクトにまとめられないものかなあと思ってしまった。

だが、註で他の本の様々な説を検討して穏当な結論を出そうとしているところなどは面白い。

まあ一度気合を入れて、本文を読みながら教科書や年表を確認して明治史を復習するのもいいのかもしれない。

以上、いつにも増して変な記事になってますが、この本は初心者でも何とか読めます。

叙述形式自体はオーソドックスだし、じっくり取り組む価値のある本だと思います。

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ブラジル史についてのメモ その2

金七紀男『ブラジル史』(東洋書店)より。

1945年から64年の軍政開始まで、右派の全国民主同盟と左派の社会民主党・ブラジル労働党が対峙する政治情勢の模様。

1946~51年クーデタを起こしたドゥトラ将軍が大統領。

保守的で全国民主同盟寄り。

51年ヴァルガスが大統領復帰、左派的ポピュリズム政策を取るが行き詰まり54年に自殺。

暫定的なフィーリョ政権を経て、56~61年クビシェッキ政権(社会民主党・労働党)。

野心的経済開発計画を推進、60年ブラジリア遷都を行うが、インフレ進行。

以後も経済の調子が良くなるとインフレが進み失速するというパターンの繰り返しとなる。

61年小政党出身のクアドロス政権、全国民主同盟の支持を受け国内政策では左派から批判を受けるが、容共的な外交政策では右派からも反発され、政権運営が行き詰まり8ヶ月で辞任。

61~64年ゴラール政権(労働党)、経済危機と党派対立が続く。

64年軍事クーデタ勃発、軍政が開始(85年まで)。

大統領間接選挙導入、既成政党廃止。

与党として「国家革新同盟」(元全国民主同盟、社会民主党)、官製野党として「ブラジル民主運動」(元労働党)結成。

64~67年カステロ・ブランコ政権、67~69年コスタ・エ・シルヴァ政権を経て、69~74年最も抑圧的なメディシ政権が続くが、経済的には躍進を遂げ、「ブラジルの奇跡」と呼ばれる。

74~79年軍内穏健派のガイゼル政権を経て、79~85年フィゲイレード政権。

79年政党結成が自由化され国家革新同盟は民主社会党に、ブラジル民主運動はブラジル民主運動党になり、民主社会党から自由戦線党が分離、他に野党として労働者党、民主労働党などが結成。

軍政終了後、85~90年サルネイ政権、元民主社会党出身で軍政とも深い関わりを持つが、権威主義体制からの脱却に成功、しかし経済は混乱。

90~92年コーロル政権、経済政策の失敗と汚職で辞任。

92~95年イタマール・フランコ政権、蔵相カルドゾが新通貨レアル導入。

95~2002年カルドゾ政権、ハイパーインフレ収束、経済自由化を進め、高成長達成。

このカルドゾは中道右派のブラジル社会民主党所属と書いてあるが、上記民主社会党が改名でもしたのか?、それとも軍政以前の社会民主党が復活したのか?

残念ながら不明。

2003年以後労働者党出身のルラ現政権。

左派政権ながらインフレ抑制策と経済安定化策は前政権を継承、ただし所得格差是正に力を入れる。

最後に政党の勢力分布が載っているが、多党分立の上、名前だけだとどれが左派・右派でどんな立場かわからない。

新聞の国際面でたまにブラジル政治に関する記事が載っていても、わかりずらいのはこれが原因。

有力四政党のうち、ブラジル民主運動党と労働者党が与党、ブラジル社会民主党と民主党(自由戦線党から改称)が野党。

他に進歩党、共和党、ブラジル社会党、ブラジル労働党、共産党、(共産党から分かれた)社会民衆党など。

多すぎてよくわからん・・・・・・。

思ったより短くて読みやすい。

マイナー分野でこれくらいなら充分使える。

しかしやはり中公新書で『物語ブラジルの歴史』を期待したいものです。

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ブラジル史についてのメモ その1

金七紀男『ブラジル史』(東洋書店)より。

ペドロ1世統治時代が第一帝政。

君主権の強い欽定憲法制定。

新大陸では長年唯一の君主制国家。

メキシコとハイチがごく短期間帝政だったと書いてあったと思うが、メキシコは思い出せるが、ハイチがどういう状況だったのかは忘れた。

広大な領土が旧スペイン領地域のように分裂せず一体性を保ったのは帝政の求心力によると『ラテンアメリカ文明の興亡』で書かれていたが、本書ではそれを認めながらも、各地で分離独立の武装反乱が多く起こったことを挙げ、中央政府による軍事鎮圧で統一を維持したことも事実だとしている。

連合王国時代に併合していた最南部のスペイン系住民地域がアルゼンチンの支援を得て、ブラジルから分離、1828年ウルグアイとして独立。

この時の戦費負担増大から財政破綻・経済危機が起こり、1831年ペドロ1世退位、息子のペドロ2世即位。

9年間の摂政期を経て、1840年から第二帝政、これが1889年まで約半世紀続く。

1850年奴隷貿易廃止(国内の奴隷制度は維持)。

実証主義の影響を受けた革新的軍人台頭。

帝政の支持基盤で奴隷制を必要としていたリオデジャネイロの「コーヒー男爵」から、賃金労働者を使用して奴隷制維持に関心を持たないサンパウロのコーヒー・ブルジョワジーへ経済力が移動。

共和主義運動と奴隷制廃止運動が連動し始める。

1888年奴隷制が廃止されると、リオのコーヒー男爵も反君主制へ。

1889年フォンセッカ将軍のクーデタ、帝政崩壊、共和政移行。

以後の大統領名などは細かいのでパス。

要は、コーヒー生産州であるサンパウロ州とミナスジェライス州が連携して寡頭政治体制を確立。

この体制が1930年まで続く。

この年、前年の世界恐慌以後の混乱と軍事反乱の中でヴァルガスが政権を握り、ブラジルは新時代に入る。

このヴァルガスは高校世界史では名前の出る唯一のブラジル大統領、というか唯一のブラジル史の人物か。

なお細かいことですが、スペイン語の「V」音は「ヴ」とは発音しないそうで、例えばセルバンテス、ベラスケス、ベネズエラはこの日本語表記が適切らしいです。

ポルトガル語の場合は、「ヴァルガス」の表記でいいようです。

30~34年臨時大統領、34~37年正規大統領、37年に独裁色の濃い新国家体制に移行、以後45年まで、実に15年にわたって政権維持。

ファッショ的インテグラリズモ(統合主義)党と共産党の、極右・極左両党を弾圧した後、全政党を廃止して権威主義的支配体制確立。

ヴァルガスの権威主義は、ファシズムの影響を受けたが現状打破を目的に大衆を動員するファシズムそのものではなく、陸軍を後ろ盾に独裁政治を行ったが軍事独裁でもなかった。新国家体制の支持基盤は一枚岩ではなく、軍部のほかに工業ブルジョワジー、都市の中産階級と労働者に支えられていた。工業ブルジョワジーは工業化重視政策によってさまざまな恩恵を受け、中産階級は官僚組織の肥大化によるポストの増大や工業化による雇用の拡大で新体制を歓迎した。そして労働者階級は共産党の壊滅で牙を抜かれ、ヴァルガスの提示する労働者保護策を受け入れて新国家体制を容認し、体制のなかに組み込まれてしまった。世界の全体主義的な傾向も国民に独裁体制を抵抗なく受け入れさせる要因となった。

44年保守的反ヴァルガス派が「全国民主同盟」結成。

ヴァルガス派は「社会民主党」、「ブラジル労働党」結成。

ヴァルガスが子飼いの労組幹部らに作らせた労働党など左派勢力に軸足を置いて政権延命を計ると、社会民主党が反ヴァルガス派軍部に接近したとかなんとか、そんなことが書いてあった気がするが、ここのところはっきり読み取れない。

45年軍事クーデタでヴァルガス退陣。

まだ終わらないので、戦後史は続きで。

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金七紀男 『ブラジル史』 (東洋書店)

09年7月刊。

この国でまず押さえておくべきことは、中南米諸国のほとんどがスペイン語圏なのに対し、最大の国家ブラジルがポルトガル語圏であるということ。

(著者には『ポルトガル史』も有り。)

ハンチントン『文明の衝突』で、ブラジルの言語的な孤立がラテン・アメリカの地域大国の座を阻むと書いてあった。

本書ではまず地理的知識の確認をしてくれている。

南米大陸の約半分の面積を占めると書いてあって、そんなにもなるのかと思った。

隣国は北の方から、ギアナ三国(という言い方はしないのか)、西からガイアナ、スリナム、仏領ギアナ。

続いてベネズエラ、コロンビア、ペルー、ボリビア、パラグアイ、アルゼンチン、ウルグアイ。

南米諸国で国境を接していないのはエクアドルとチリのみ。

自然環境では、北からアマゾン川、サンフランシスコ川、ラプラタ川の三水系があることを確認。

地理的区分として、北部、北東部、南東部、南部、中西部。

それぞれの州名は憶えなくてもいいでしょう。

ただ最重要都市のリオデジャネイロとサンパウロおよびその北にあるミナスジェライス州が南東部に属することと、1960年に現首都ブラジリアが中西部に建設されたことだけは暗記。

あと暗記の必要は無くとも、本文中に州名が出てきた時は、面倒臭がらずその都度巻頭地図で位置を確認した方が良い。

歴史部分に入って、まず1493年アレクサンドル6世の教皇子午線でスペイン・ポルトガルの新世界分割。

翌1494年トルデシリャス条約で境界が西方に移動、これで南米大陸の出っ張った部分がポルトガル領に。

この変更が、ポルトガル国王ジョアン2世がブラジルの存在に気付いていたが故の意図的行為なのか、それとも単なる偶然なのかは現在も不明。

1498年ヴァスコ・ダ・ガマのカリカット到着に続いて、1500年ちょうど、カブラルのブラジル「発見」。

カ「ブラ」ルから「ブラ」ジルを連想するのは、高校世界史で定番の語呂合わせ。

以後のポルトガル植民地時代は主要産品で時代区分。

1500~50年代  パウ・ブラジルの時代(国名の由来にもなった赤色の染料剤に利用する樹木)

1570~1670年  砂糖の時代

1690~1760年  金の時代

(独立後)1830~1930年  コーヒーの時代

ここで最初の目次に戻ると、大きく分けて第1部が植民地ブラジル、第2部が独立以後の近代ブラジル、そして第3部現代ブラジルの最初は帝政から共和政への移行ではなく、1930年後述のヴァルガス政権成立に置かれているのが特徴。

植民地時代の経済・社会史は軽く流します。

独立の前段階として、ナポレオンの圧迫を受けたポルトガル王室が英海軍に護衛されながらブラジルへ1807年に避難(本書で評されている通り、独立のいきさつもそうですが、このこと自体前代未聞で非常に特異な経緯を辿っています)。

ナポレオン没落後も王室はヨーロッパに帰らず、ブラジルを植民地から昇格させ、ポルトガル・ブラジル連合王国を形成。

1820年本国ポルトガルで自由主義革命が勃発、国王は新政府の要請を受け帰国。

自由主義新政府がブラジルを再び実質植民地の境遇に落とすことを通達すると、ブラジル社会各層が反発。

残留していた国王の長子ドン・ペドロを担ぎ、1822年ブラジル帝国として独立。

初代皇帝ペドロ1世、首都はリオデジャネイロ。

人口は400万近く、この時点ですでに宗主国のポルトガルを上回っていたという。

あるところで、ポルトガルとブラジルの関係について、旧植民地の方が旧宗主国よりもはるかに重要になってしまった珍しい例だと書かれていて、そう言えばそうかと思ったが、独立当初からかなりの程度当てはまることだったのかもしれない。

また長くなりそうなので、独立後は後日。

(追記:続きは以下

ブラジル史についてのメモ その1

ブラジル史についてのメモ その2

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中谷臣 『世界史論述練習帳new』 (パレード)

発行はパレード、発売は星雲社。

東大、京大、一橋、筑波などの論述試験対策の参考書。

問題を実際解いたわけではないが、読んでいくと結構面白い。

まず問題文が要求しているものを厳密に読み取ることから始めて、簡単な概念図である「構想メモ」を作り、そこですぐには思いつかない空白の部分を、基本的に教科書にある知識だけで埋めていく説明過程が、非常に興味深い。

挙げられている例題では、第11問「唐から宋への時代の政治・軍事制度の変化」(京大)、第13問「西ヨーロッパ・イスラム・南アジアの10~17世紀の政治体制の変化を略述」(東大)、第32問「“古代”“中世”“近代”というヨーロッパ史をモデルに設定された時代区分をイスラム世界に適用した場合の“中世”という時代の政治体制・思想状況の特徴を『マムルーク』『スーフィー信仰』という言葉を使って述べる」(一橋)などが非常に面白かった。

末尾別冊の「基本60字」は盲点となる史実や歴史の因果関係を簡潔に記してあり、知識の整理・確認のために大変有益。

加えて、補足説明では時にはっとするほど鋭い指摘がある。

一部首を傾げたり、納得しにくいようなところがあるが、基本的には良い。

社会人が読んでも役に立つ本。

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引用文(内田樹3)

内田樹『こんな日本でよかったね  構造主義的日本論』(文春文庫)より。

社会制度のうち、もっとも本質的なものはその起源が知られていません。言語も、親族制度も、交換も、私たちはその制度の起源を知りません。神話や呪術や通過儀礼や葬礼がどうして世界中の社会集団にあるのか、その理由も私たちはうまく説明できません。そういう「太古からあるもの」、言い換えれば「それがあることで人間が人間になったもの」については、それが合理的であるとかないとか、収益率がいいとか悪いとか、政治的に正しいとか正しくないとか、そういう賢しらなことはあまり言わない方がいいというのが私の考えです。もちろん、どうしてそういう制度が存在するのかについて学問的に考究するのは有用なことですけれど、考究すれば「わかる」というものではありません。私がこの本で言いたかったことは、その出自や機能がよくわからない社会制度に対して、私たちはもっと「謙虚」になった方がいいのではないかということです。

例えば、学校教育や医療のような制度は本質的に惰性の強いもので、その基礎構造や、従事者のエートスは時代を超えてあまり変わらないように制度設計されています。そういうものが直近の選挙で多数派をとった政党のイデオロギーや、あるいは株価の高下でめまぐるしく変わる方が私たちに大きな利益をもたらすだろうという判断に私は与しません。

・・・・・・

私が提唱しているのは、「系譜学的に思考する」ことです。ある社会制度がうまく機能していないとき、いきなり「ぶっこわせ」と呼号したり、「最善のソリューションはこれである」と非現実的な夢想を語り出すのを少しだけ自制して、「このような制度が採用されるに至った」時点まで遡及し、そして、そのときのリアルタイムで「ほかにどのような選択肢があったのか」を(想像的に)列挙してみること、それがさしあたり私が心がけていることです。

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岡倉登志 『ボーア戦争』 (山川出版社)

やっと5冊目のアフリカ史で、個別テーマの本は初めてか。

イギリスカテゴリに入れられないこともないが、もったいないので当然そうしない。

著者名をどこかで見た覚えがあるなあと思っていたら、『サウジアラビア現代史』の著者岡倉徹志氏と一字違いの別人でした。

1899~1902年の南ア(南アフリカ・ボーア)戦争に関する本。

南アフリカに最初に到達したヨーロッパ人は、当然1488年喜望峰に達したポルトガルのバルトロメウ・ディアスなわけですが、結局ポルトガルはこの地に勢力を築けなかったようで、1652年全盛期のオランダがケープ植民地を建設。

それが1815年ウィーン議定書でイギリス領となる。

ウィーン会議で、オランダはナポレオンに占領されていたのが解放され、一応戦勝国の立場のはずなのに、ナポレオン戦争中にイギリスに占領されたこのケープ植民地とセイロン島という重要拠点を奪われてるのが妙な感じ。

代わりにオランダは旧オーストリア領の南ネーデルラント(ベルギー)を併合、オーストリアはロンバルディア・ヴェネツィアの北イタリア併合というのはもちろん要記憶。

しかし16年後には七月革命の影響でベルギーは独立するんだから、オランダはやはり大損ですよね。

ボーア(ブール)人とは、オランダ系を中心とする非イギリス系白人のこと。

イギリス統治に不満を持つボーア人が北東部沿岸沿いに移動、ズールー族の黒人王国と戦い、ナタールを手に入れるが、独立は認められず1842年ナタールも英領となる。

一部のボーア人はさらに移動し、1852年トランスヴァール共和国(正式名称は南アフリカ共和国)、1854年オレンジ自由国成立、この二つの国の自治権は認められる。

ここで位置関係を確認。

ナタールからやや内陸に入ったところにバストランドというソト人の黒人国家があり(1868年イギリスにより保護国化)、これが現在の南アフリカ共和国に周辺を囲まれたレソト王国。

その西にオレンジ自由国が広がり、その北、ヴァール川を挟んでトランスヴァール共和国。

ナタール北東にズールーランド、さらに進むとスワジランド、この二つもトランスヴァールと接する。

バストランドとスワジランドが保護国として存続し、現在も独立国なのに対し、ズールーランドは完全に併合されて現在も南アフリカ共和国の一部のようだ。

1879年イギリスとのズールー戦争で敗北、97年ズールー王国はトランスヴァールとナタールに併合されると書いてある。

(ちなみにズールー戦争では、イギリス軍に加わっていたナポレオン3世の遺児が戦死している。)

現代史ではズールー人を支持基盤にするインカタ自由党という政党があって、アパルトヘイト時代には白人政権に妥協的姿勢を取り、ANC(アフリカ民族会議)と対立。

このインカタ自由党というのは昔はよくニュースで名前を聞きましたが、最近とんと耳にしなくなりましたねえ(気のせいか?)。

オレンジとトランスヴァールの西にはベチュアナランド(現ボツワナ)があり1885年イギリスの保護領に。

ボツワナと言うと、十年ほど前に格付け会社のムーディーズがこの国の国債を日本国債より上位に格付けして、日本政府要人が抗議したとかいうことが記憶に残っています。

実際アフリカ諸国の中では、かなり安定して順調に経済発展している国らしいですが。

トランスヴァールの北にはローデシア(現ザンビアとジンバブエ)で1890~94年に英領。

北がザンビア、南がジンバブエ。

ジンバブエはムガベ大統領の下、経済が完全に破綻してしまった国ですね。

ちなみにこのムガベ大統領と南アフリカの前大統領ムベキ氏を混同しないようにご注意。

なお、この手のごく最近の事項は外務省 各国・地域情勢で確認すると良いと思います。

個人的にウィキペディアは一切使いたくないので。

現在の主要都市として喜望峰近くにケープタウンがあり、ヨハネスブルクは当時トランスヴァールの領域、その少し北にプレトリアがあり、これが現首都の模様。

自治権取り消しから1880~81年に戦争勃発、これを第一次ボーア戦争と呼ぶようです。

結局イギリスの実質宗主権の下での自治確認という結果になる。

1886年トランスヴァールで金鉱発見、開発のため入国したイギリス系を中心とする外国人の権利問題をめぐるボーア人との対立。

1895年末トランスヴァール共和国政府転覆を狙ったジェームソン侵入事件。

失敗に終わり、翌96年ケープ首相セシル・ローズ辞任(有名なローズは1890年から首相だったがこの事件で辞任したため肝心のボーア戦争自体にはあまり大きく関わっていない)。

同96年ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世のクリューガー祝電事件(クリューガーはトランスヴァール大統領)。

その後もケープ当局とトランスヴァールとの交渉が続くが、ついに決裂。

本書の叙述ではイギリスと主に相対していたのは常にトランスヴァールで、オレンジ自由国は同じボーア人の誼でトランスヴァール側についたことになっている。

ケープ総督ミルナー主導で1899年開戦。

細かな戦史は適当に流す。

ボーア側のボータ(1910年南アフリカ連邦初代首相)、スマッツ(1919年南アフリカ首相に)、イギリス側のキッチナー(マフディーの乱鎮圧、ファショダ事件指揮官)の名前にだけ注意。

イギリス軍は苦戦しながら1900年プレトリア・ヨハネスブルクを占領し、普通ならこれで終戦となるはずが、ボーア側は地の利を生かしたゲリラ戦を展開、イギリスは大いに苦しめられ、農家焼き討ちや家畜殺害などの焦土作戦、女性・子供を含むボーア人非戦闘員を強制収容所に閉じこめるなどの策を取り、国外だけでなく国内の反戦世論を刺激する。

結局、1902年講和条約締結、戦争終結。

その後の章では、コナン・ドイル、チャーチル、ガンディー、タゴール、幸徳秋水、内村鑑三といった人々の、ボーア戦争との関わりが記されてあって中々面白い。

初心者にはちょっと苦しい部分もあるが、全然読めないというわけではない。

類書の少ない、貴重な本ではあると思う。

一読して、マイナー分野の穴を少しでも埋めるのもよいでしょう。

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