« 田中芳樹 『蘭陵王』 (文芸春秋) | トップページ | 引用文(ポラニー1) »

カール・ポラニー 『[新訳] 大転換  市場社会の形成と崩壊』 (東洋経済新報社)

1944年刊行の著作。

著者のカール・ポラニー(ポランニー)については、経済人類学の祖として栗本慎一郎氏の著作などで、名前だけは知っていた。

松原隆一郎『経済学の名著30』でも紹介されており、去年この新訳が出たので、試しに手に取ってみた。

しかし長い・・・・・。

でかい版形で500ページ超。

60ページほどある、末尾の「文献に関する注解」をとばしても、470ページ。

訳注がかなりのページを占めるので、本文はやや短くなるが、それでも自分にとってはかなりきつい。

途中、挫折しそうになりながら、気合を入れて何とか通読した。

冒頭、ノーベル経済学賞受賞者で、よく新聞・雑誌にも登場するジョセフ・スティグリッツの「序文」と、社会経済学者のフレッド・ブロックという人の「紹介」が載せられており、どちらも本書の理解に極めて有益。

各章の始めにも、訳者による梗概が載せられており、これが驚くほど要領良く本文の内容を要約している。

実を言うと、途中でこの梗概だけ読んで済まそうかという誘惑に駆られた。

本書の主張の核心は、19世紀文明が依拠した「自己調整的市場」という考えは全くのユートピアであり、それを是正しようとする社会の保護的手段との軋轢のうちに20世紀の悲惨な混乱がもたらされたというもの。

以下、あまり整理されていない内容メモ。

まず、19世紀に確立した市場経済の特異性を強調。

それ以前の人類社会の経済は、「互酬」、「再分配」、「家政」の三つの行動原理で運営されており、利得を求めて「経済人」が活動する市場によって支配されていたことは無かった。

また、市場の発展は正統派経済学者が考えるように「局地的市場」→「国内市場」→「遠隔地市場」といった順序ではない。

まず戦争や掠奪に起源を持つ遠隔地交易が存在し、「局地的市場」はあくまで副次的経済パターンに留まり、慣習やタブーによって市場の発展は抑制されていた。

近代的「国内市場」は「自然に」誕生したものではなく、15・16世紀に「外交において自国の力を十分発揮できるよう国家の全領域に存在する諸資源を動員することが要請された」ため、当時の中央集権国家の人為的干渉によって生れたもの。

ただし、この段階でも社会の安定を維持するため、市場への様々な規制や干渉が行われており、結局都市や農村単位の規制が一国規模に広がっただけ。

その種の干渉として、イギリス・テューダー朝王権による第一次囲い込み運動への抑制姿勢がある。

主流派経済史家はこれを土地制度近代化への無益な抵抗として批判するが、これがあったがために囲い込みのスピードが緩み、農村での混乱と困窮が何とか持ち堪えられるものになったのであり、そうでなければこの時点で社会は完全に崩壊していた可能性があったとされている。

18世紀末から登場した自己調整的市場は労働、土地、貨幣も市場の構成要素としようとするが、これらは本質的に商品ではない。

これら「擬制商品」を市場化の波に晒すことによって、社会は甚大な打撃を蒙る。

市場メカニズムを、まさに人間とその自然環境の運命を左右する唯一の支配者とすることは、あるいは購買力の大きさと用途の唯一の支配者とすることでさえ、社会の壊滅をもたらすであろう。なぜなら、いうところの「労働力」という商品は、たまたまこの独得の商品の所有者となっている人間個人に影響を与えることなしには、それを無理やり推しつけることも、手当たりしだいに使うことも、あるいはそれを使わずにとっておくことさえできないからである。市場システムが人間の労働力を処理するということは、それによって、「人間」という名札に結びつけられたその人自身の物理的、心理的、道徳的特性を、市場システムが処理することを意味しよう。人間は文化的諸制度という保護膜を奪われ、社会的にむき出しの存在となることに耐えられず、朽ち果ててしまうだろう。すなわち人間は、悪徳、堕落、犯罪、飢餓による激烈な社会的混乱の犠牲者として死滅するのである。自然は元素にまで分解され、街と自然景観は冒涜され、河川は汚染され、軍事的安全性は危地に陥れられ、食料と原料を生産する能力は破壊されるだろう。最後に、購買力を市場が支配すれば、企業は周期的に整理されることになるだろう。というのは、貨幣の不足と過剰は、未開社会における洪水や旱魃のように、事業にとって災厄となることが明らかになるからである。労働、土地、貨幣の市場が市場社会にとって必須のものであることに疑問の余地はない。しかしいかなる社会も、その中における人間と自然という実在あるいはその企業組織が、市場システムという悪魔のひき臼の破壊から守られていなければ、むき出しの擬制によって成立するこのシステムの影響に一瞬たりとも耐えることができないだろう。

1795年イギリスで、労働市場を創出しようとする動きへの抵抗として、スピーナムランド法が制定される。

一定の賃金水準に達しないものに救貧税を原資として給付金を支給するもの。

結果、雇用主はこの法を賃金を引き下げる口実とし、労働生産性は低下し、独立心と自尊心に欠けた寄生的大衆が生まれ、救貧税を納める中間層だけが窮迫した。

結局1832年選挙法改正によって参政権を得た中産階級の手によって34年スピーナムランド法は廃止される。

この種の悪平等主義が破綻したのは当然だったが、そこから逆の極端が横行し、労働者は何の保護も無いまま、産業革命の荒波に放置されることになってしまう。

われわれは、初期資本主義の忌まわしい物語を「お涙頂戴ドラマ」として割り引いて考えることに慣れてしまっている。しかし、こうした考え方が正しいという理由は何もない。・・・・・ある恐ろしい破局によって人間の像そのものが汚されてしまっていると信じた点において、誰も間違っていなかった。だが、詩人や博愛家から発せられた苦悶や怒りの爆発よりもはるかに印象的なのは、マルサスやリカードの氷のような沈黙であった。彼らは沈黙を守ることによって、自分たちの現世地獄の哲学を生み出した光景に対して見て見ぬふりをしたのである。

・・・・・学者たちは異口同音に、人間世界を支配する法則を疑問の余地なく示す科学が発見されたと宣言した。憐憫の情が人間の心から取り払われ、最大多数の最大幸福の名のもとに、人間の連帯を放棄しようとの禁欲的決意が世俗的信仰の威厳を獲得したのは、この法則の命令によるものであった。

市場メカニズムは、自己を主張しつつ、その完成を声高に要求していた。すなわち、人間の労働は商品化されねばならない、と。反動的な温情主義は、この必然性に空しい抵抗をしていたわけである。人々はスピーナムランド体制に対する嫌悪と恐怖から、庇護を求めてユートピア的な市場経済のもとへと盲目的に駆け込んだのである。

19世紀を通じて市場化を推し進めようとする市場自由主義と、それから社会を防衛しようとする保護主義的対抗運動という、「二重の運動」が生れる。

保護主義は自由主義者が言うような「集産主義者の陰謀」の結果ではなく、利害を異とする様々な国家、階級による、社会防衛のための止むに止まれぬ行動と見るべきだと、著者は書いている。

そうした不可避な行動が帝国主義に繋がり、国際対立が第一次世界大戦で爆発、1920年代に自己調整的市場の国際的表現である金本位制を維持しようとする無理な努力が大恐慌とファシズムの台頭を招いたとか、以後はそんなことが書いてあるのか。

とんでもなく下手なまとめですが、私が読み取ったのは以上のようなことです。

かなりきつかったが、何が書いてあるのか全く意味が取れないという部分はほとんど無かった。

これは初心者でも何とか読めます。

「自由市場に規制・干渉を一切加えないのが保守」みたいな出鱈目な風潮に対する解毒剤として読む価値あり。

しかし、読み終えた後、上記栗本氏が1980年代末から90年代初めに展開していた市場至上主義的評論は一体何だったのかと不審に思う。

もちろん時代錯誤の教条的社会主義者の残党すら健在だった当時は今と全く状況が違いますし、同じことを70年代、80年代に主張するのと、今そうするのとでは意味が全然違うでしょうが。

気楽に読める本でもないが、各章梗概を頼りに飛ばし読みする気持ちでいいので、一度手に取ってもいいかもしれない。

|

« 田中芳樹 『蘭陵王』 (文芸春秋) | トップページ | 引用文(ポラニー1) »

思想・哲学」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。