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田中芳樹 『奔流』 (祥伝社)

『蘭陵王』『海嘯』に続く田中氏の歴史小説。

今回の舞台は6世紀初頭の中国南北朝時代。

華北を統一して久しい北魏と建国間もない南朝梁との間で起こった「鍾離の戦い」を主に記す。

登場人物はまず、梁の初代皇帝・武帝(蕭衍)。

その下の若き将軍陳慶之が主人公。

梁側では他に韋叡、曹景宗など。

北魏は孝文帝死後の宣武帝時代。

帝室の一員である中山王・元英、猛将・楊大眼、梁の前王朝斉の元皇弟だった蕭宝寅などが北魏側登場人物。

以上のうち高校世界史では、孝文帝を除けば、梁の武帝がまあ何とか出てくるかなといった感じで、他は主人公含め完全に高校教科書範囲外。

こういうマイナーな時代と人物を題材にしながら、初心者が読んでも十分面白い歴史物語を本書でも展開してくれている。

以下魏晋南北朝時代についての復習。

常に重要年代を意識して、時代の大まかな長さを把握しながら基礎事項をチェック。

後漢滅亡が220年、隋の統一が589年。

西晋の統一が280年、八王の乱がそのちょうど十年後、290年。

西晋の統一崩壊から数えて約300年、黄巾の乱(184年)から数えると約400年間、中国がぐちゃぐちゃだった時代ということをまずイメージ。

(なお八王の乱は教科書では290~306年とあるが、『世界史年代ワンフレーズnew』ではその勃発を300年としている。最中の何かの史実をその基点としているのだろうが、教科書と合わない年代はやはりまずい気がしないでもない。)

西方でローマ帝国が崩壊するより少し早い4世紀初めから中国は大混乱に陥り、304~439年間が五胡十六国時代。

江南に逃れた東晋が317~420年と、およそ百年存続。

前秦・苻堅の一時的華北統一が破れた後、鮮卑・拓跋氏の北魏が439年華北再統一。

北魏の存続年代は386~534年だが、五胡十六国時代の終わりを画す439年華北統一の年代を憶えた方が良いか。

うまい具合にこの少し前420年に東晋が滅んでいて、中国の南北で時代の転換点を迎える。

よってこれ以後隋の統一まで南北朝時代となる。

南朝の王朝名順序、「宋・斉・梁・陳」は高校生もそれ以外の人も、とにかく理屈抜きで憶えるしかない。

声を出して、「そう、せい、りょう、ちん」「そう、せい、りょう、ちん」・・・・・と20回くらい繰り返したら暗記できるでしょう(病院に連れて行かれないように、周囲に誰もいないことを確かめた上で)。

(五代の後梁・後唐・後晋・後漢・後周、デリー・スルタン朝の奴隷王朝・ハルジー朝・トゥグルク朝・サイイド朝・ロディー朝も同様。)

宋(420~479) 劉裕が建国  吉川忠夫『劉裕』(中公文庫)があり。

斉(479~502) 蕭道成

梁(502~557) 蕭衍(武帝)

陳(557~589) 陳覇先

上記の通り、斉と梁の帝室は同姓(武帝は斉帝室と血縁あり)、陳は国号と国姓が同じことに注意。

梁の武帝時代が南朝最盛期。

梁は一応6代続くが、最初の武帝時代が502~549年と在位半世紀に近く、以後は反乱でガタガタになりますから実質一代か。

次に北朝について。

北魏の孝文帝は南北朝時代通じて、高校教科書で唯一太字で載せられている重要人物だが、幼少で即位し33歳で死去したため在位29年のうち親政は最後の10年間のみ。

(死が499年なので、孝文帝時代が終わって、斉滅亡→梁の武帝となることを少しイメージしておきますか。)

即位後かなりの期間は祖母の馮太后が執政。

史上有名な均田制・三長制の実施などは、実はこの馮太后の政策であって、孝文帝自身の治績は衣服・言語・習俗・帝室改姓(拓跋→元)などの漢化政策のみと見るべきだと、宮崎市定『中国史』(岩波書店)などには書いてあります。

以後北魏は国運衰退、爾朱栄が朝廷の内紛を利用して専権を振るう。

帝室は爾朱栄暗殺に成功したものの、求心力の回復に至らず、爾朱栄配下の武将高歓と宇文泰が対峙する情勢となり、両者がそれぞれ北魏帝室の一員を担いで、534年高歓が東魏建国、翌535年宇文泰が西魏建国。

以後の話は、最初にリンクした田中氏の『蘭陵王』の記事参照。

高歓の部下だった侯景が梁に亡命した後、反乱を起こし仏教文化の華を誇った江南は荒廃、80代半ばに達していた老いた武帝は幽閉され餓死同然の悲惨な最期を遂げる。

侯景は結局滅んだが、梁の屋台骨は大きく揺らぎ、(東魏を継いだ)北斉と西魏およびそれに続く北周の圧迫を受けたのを機に、侯景討伐に活躍した陳覇先が簒奪、陳を建国。

北斉が550~577年、北周が556~581年、陳が557~589年だから三者とも6世紀半ばに成立と大掴みしておく。

なお本書では爾朱栄による混乱時代、主人公の陳慶之が一時洛陽を占領したことを記している。

他には「源氏」の起源・由来や、倭王「武」(雄略天皇)の梁武帝への朝貢など、意外な史実や逸話も紹介されているのが興味深い。

これも十分面白い。

歴史小説といっても、固有名詞のある人物は一部を除き、すべて実在とのこと。

自由奔放に見える登場人物の性格描写も、実は正史の記述にきちんと典拠を求めているところに感心させられた。

話のテンポが速く、快適なのも同じく。

今までのところ、田中氏の小説はどれもハズレじゃないです。

特に嫌いでなければ、初心者が読んで関連事項を復習するのも良いでしょう。

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『もういちど読む山川日本史』 (山川出版社)

『もういちど読む山川世界史』は紹介済み。

今回これをパラパラと飛ばし読みしてみた。

重要語句が太字になっておらず、その点反ってわかりにくく感じるのは世界史と同じ。

しかしそれ以外では思いの外、好印象をもった。

本文の間に挟まれている補注でこれまでの通説・常識と最新の学説のズレを紹介してくれている部分が実に面白い。

世界史の場合はほとんどの人の予備知識が乏しいので、こういうことは不可能。

この部分を拾い読みするだけでも手に取る価値はあります。

通読を目的とするなら世界史よりはこちらの方が向いてるとも感じます。

なかなかいいんじゃないでしょうか。

『詳説日本史』はやたら細かい記述が多いですから、この簡略版シリーズでは世界史より効用が高い。

気が向いたら買ってもいいでしょう。

ただ社会人がもう一度日本史の基礎を勉強したいと思う場合、最善の入門書は本書よりも小学生向けの学習漫画「日本の歴史」だと思います。

「おいおい・・・・・」と呆れられたり、「馬鹿にすんな!!」と怒られるかもしれませんが、事実そう思える。

近所の公共図書館に行って、「うちの子供に読ませます」みたいな顔をして借りて、家に帰って自分で読んで下さい。

予備知識ゼロの状態から、基礎の基礎を作るためにはそれが一番楽だし、頭にも入る。

個人的には小学館から出てるのがお勧め。

それから本書にじっくり取り組めば良いかと思われます。

なお、世界史の漫画はよく知らないんですよねえ・・・・・。

集英社文庫で漫画版「世界の歴史」が10巻くらいで出てまして以前一部を立ち読みしたことがあったんですが、「うーん」と微妙な感想を持ちました。

このブログは低レベルとは言え、一応高校世界史は大体理解しているという前提での読書案内ですが、「カエサルって何人?」「ビスマルクって何した人?」という方が最初の取っ掛かりとして読むにはいいのかな。

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本村凌二 『古代ポンペイの日常生活』 (講談社学術文庫)

1996年中公新書から出た『ポンペイ・グラフィティ』が、増補改訂の上、2004年『優雅でみだらなポンペイ』(講談社)というタイトルの単行本になり、それをさらに改題して文庫化したのが本書。

帝政ローマ時代、紀元79年ヴェスヴィオ火山の噴火で突如滅んだナポリ南の都市ポンペイの遺跡から見い出される告示・広告・落書きなどを分析して、当時のローマ帝国地方都市の日常生活を再現しようとする本。

このポンペイは用語集で確認したところ、今の教科書には全然載ってないみたいですね。

歴史の主要な流れには関係なくても、極めて著名な事例ですから、日本史教科書に赤穂浪士の討ち入りが脚注で載ってるように、これもとりあえず名前だけでも載せたらいいんじゃないかと思うんですが。

79年当時在位していたのはティトゥス帝。

ネロ死後の内戦を収拾して安定した統治を実現したヴェスパシアヌス帝の息子。

このティトゥス帝も名君として知られ、被災民の救援に力を尽くしたが、わずかな在位期間の後に急死。

弟のドミティアヌスが跡を継ぐがこの人は普通暴君とされ、その死後にネルヴァが即位、五賢帝時代が始まる。

ポンペイの歴史としては、同盟市戦争で自由民にローマ市民権が与えられ、のち自治市から植民市になったというようなことが書いてある。

日本語の訳語だと逆のイメージを持ちますが、確か「自治市」が不完全市民権保持で、「植民市」の方が完全な市民権を持つ格上のカテゴリなんですね。

もっともこの辺はっきりと頭に入っていませんので、これ以上は書かないでおきます。

本文に入ると、第1章は大噴火の描写とその時犠牲になった大プリニウスの行動、それを伝えた甥の小プリニウスの有名な文章の翻訳、近世以降の発掘の歴史について。

第2章は公職選挙用の推薦文ポスターの具体例。

第3章で前章の内容を踏まえて、地方都市における自治の実情を考察している。

第4章は猛獣狩りや剣闘士試合などの見世物に関する広告など。

第5章は自宅や公共建築物、職人の作業場、居酒屋などでの落書きから見た生活風景の描写。

第6章は恋愛や性に関わる、娼家などでの落書き。

この章で、ネロの妃の一人ポッパエア・サビナが一時ポンペイに在住していたことを始めて知った。

第7章は当時の庶民がいかに文字を学習したかについてあれこれ。

第8章でローマ社会での識字率について考察。

なかなか良い。

興味深い具体的事例が次々出てくるので、極めて楽に読める。

簡単な社会史入門として悪くないでしょう。

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引用文(村上泰亮1)

村上泰亮『産業社会の病理』(中公クラシックス)より。

・・・・・このような「仮説硬直化」の危険は、近代経済学についても発生するが、近代経済学の場合とくに注意する必要があると思われるのは、「理論呪術化」の危険である。例えば、マルクス経済学的な例をとると、窮乏化の現象が先進国においてみられないことは窮乏化の理論の失敗ではなく、植民地の存在を仮定しなかった予備的前提の誤りである、と説明される。また例えば、近代経済学的な例をとると、公害という現象によって市場機構による資源配分の失敗が起ったとき、それは市場機構による資源配分の効率性の理論の失敗ではなく、市場を(自然環境を含めた)すべての「財」について成立させなかったことの誤りだ、として説明されるのである。この理論自体は、科学的分析をめざす正当な努力であり、何ら非難されるべき点はないとみなされる。そして同様な他の反証が現れたときには、再び他の予備的前提が誤っていたという説明がなされる。かくてこのような過程を通じて、窮乏化の理論のみは、あるいは市場機構有効性の理論のみは、予備的前提を犠牲にしながら、不死身にも似た形で生きながらえ、むしろ論争を通じて演繹体系としていよいよ強化されて行く。怪物のような演繹体系が育てられていくのである。

一般的な論議世界の中では、このような演繹体系が強い影響力をもつようになる。科学的理論としてはむしろ失敗の歴史を担ったものであり、実はいよいよ現実とは遠ざかりつつある可能性をもつものでありながら、その強い生命力のゆえに怖れられ尊敬される存在となる。かくて演繹体系は完全に自立的な存在となり、われわらの議論を決定的に左右するようになる。社会主義圏における教科書化されたマルクス経済学はまさにその典型的な例であると思われるが、資本主義圏においても、市場機構有効性の演繹理論はそれに似た怪物的性格をもつにいたっている。かくて次のようなガルブレイスの発言が意味をもつようになる。

「慣習的に教えられているような形での経済学が、真理を明らかにするというより、むしろ既定の社会的な仕組みについて学生に安心感を与えるための信念の体系であるという一面を持っているのではないか。」

たしかに、全般的な論議世界においては、社会科学的分析が、自立する演繹体系という怪物の苗床として意味をもつかのようにみえるのである。

現代における科学的分析のもつこのような意味について、最も鋭い告発を試みるのはマルクーゼである。

「公的な論議の世界の要所要所に、分析的命題は、自己正当化を繰り返しつつ、魔術的=儀礼的(magic=ritual)公式のような機能を果すものとして現れる。受け取り手の心の中に繰り返し繰り返し叩き込まれながら、それらの公式は、みずからの規定する条件の圏の中に、人々の心を閉じ込めるという効果を作り出す。・・・・・

・・・・・分析的構造は、現代を支配する主要な名詞(村上注―自由、平等、民主主義、平和などをさす。競争市場などもそれに含まれるかもしれぬ)から、政策決定や世論の叙述におけるその名詞の既成の用語法をくつがえし、あるいは少なくともかき乱すような側面を、切り離してしまう。儀礼化された概念は、矛盾に対して免疫となる。」

(この後、経済学に対するマルクーゼの見解は一面的で必ずしも妥当ではないという意味の文章が続くが、現在では上記文章が非常に示唆的と思われるので省略。)

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村上泰亮 『産業社会の病理』 (中公クラシックス)

著者のお名前はかなり以前から知っていたが、著作を読むのはこれが初めて。

1970年代前半に書かれた諸論文に加筆訂正の上、75年に中公叢書として刊行されたものが原本。

第一部が現代資本主義論、第二部が経済学方法論という構成。

この方が書かれた『反古典の政治経済学 上・下』(中央公論社)は日本の社会科学の金字塔だと言えるほど素晴らしい名著だと仄聞してはいるが、当然私レベルでは読めない。

実は本書も少し苦しい部分はあるが、何が書いてあるのか全く意味が取れないということもない。

所々深い印象を受ける文章がある。

たまには自分の関心と知的レベルを超えたこういう本を読むのも宜しいんじゃないかと思いました。

これまで人類は生命の必然から自分自身を解放するための努力をいろいろな形で試みてきた。生活の必然を超えたさまざまな活動、例えばスポーツ、音楽、造型美術、言語表現を用いた各種の芸術などの活動は、有史以来のすべての文化において(文化によって各種活動の相対的評価は異なるけれども)、人間にとって最高の生き甲斐とみなされてきた。生命の必然を超えた活動とはどこまでの範囲を含むのか、またそれらのさまざまな類似の活動のなかでどれが最も重要か、などの議論は実は果てしもない迷路である。例えば、ホイジンガのいうホモ・ルーデンスとしての人間における「遊び」、ハンナ・アレントのいう労働や仕事と区別された意味での「活動(アクション)」などの概念は、生活の必要とは関係なく自由に行われうる行動を把えようとするそれぞれの努力であろう。しかしここではその議論に足を踏み入れる余裕はない。いまは単に、生存を超えて永遠性と卓越性とをめざす活動が常に人類の最高の目標の一つであったことを、指摘すれば足りるのである。

例えば、古代ヨーロッパでの奴隷制は、貴族という名の一部階層にこの種の活動の自由を与えるための工夫として理解することもできる。有史以来の大半の人類社会の特徴であった階層制度は、この意味で少なくとも二つの面をもつものとみるべきであろう。つまり、一面においては、階級制度は大多数を占める下層階級に労苦と時に悲惨とをもたらすという影の面をもつが、他方においては、「永遠性」と「卓越性」の追求を一部上層階級に委託するという面をももっている。階級構造を物的搾取のための支配構造とのみみるのは、おそらく一面的であり(物的搾取の側面がないとみるのもまた一面的である)、この本での問題意識からすればそのような一面的認識は、産業社会の今後の重大な選択に関して誤りに導く可能性が高い。階級構造は、人類の生き甲斐追求についての一種の分業の制度化であったという事実認識を、その制度の是非を論ずる以前に、はっきりともつ必要がある。

このようにして、欧米の産業社会では、手段的能動主義=個人主義の価値複合体が産業化を推進するが、産業化の進行もまたそれらの価値観を強化するという相互補強的な関係が成立する。しかしそのなかで個人主義の強化は、個人の社会的統合という問題をひき起こす。またそのような個人主義の強化は経済システムの場で行われるから、経済システムとそれ以外のシステムとの間のバランスという問題が同時に起ってくる。

この問題に対する最も楽天的な考え方としては、適切なインパーソナルな制度によって統合は自然に達成され、人々を統合するための集団主義的価値観はとくに必要でない、という主張がある。例えば、経済上の自由放任主義は、市場メカニズムというインパーソナルな制度が統合機能を十分に果すという楽天的主張である。しかし第三章でも述べたように、市場メカニズムは必ずしも理想的には働かない。さらに問題になるのは、市場メカニズムのルールや適用範囲は、ときに応じて調整されなければならないが、そのようなルール自体を市場メカニズムで決めるわけにはいかない。どのように有効な制度も、結局、最終的には、統合への指向性をもった価値観が人々の間に存在することに依存している。これはわれわれが先に統合のシステムと呼んだもの、あるいはパーソンズが「社会におけるコミュニティ(societal community)と呼んだものの本質である。

個人主義と手段的能動主義との価値複合体の働きに対して危惧の念を抱いた人は、個人主義を尊重する人の中でも少なくない。産業社会を論じる文脈のなかでこの問題を初めて明瞭にとらえたのは、おそらくエミール・デュルケームであろう。彼の考えていた具体的な統合の制度は、国家と個人との間に「中間項的集団」を介在させることであり、それらの集団に培われた価値観に抑制的な働きを期待したのである。しかし彼の言う中間項的集団とは、具体的には職業団体、とくに同業組合であり、中世的自治都市という伝統的社会からの遺産に他ならない。彼の期待が空しかったことは、ほぼ歴史が証明しているように思われる。

同じような危惧の念を抱いていたのはシュンペーターである。彼は、資本主義は固有の統合機能を産み出さず、前産業社会以来の貴族階層の価値観(そして貴族に対する大衆の伝統的尊敬)と政治技能が、資本主義社会の統合機能を支えていた考える。

デュルケームとシュンペーターに共通しているのは、資本主義的産業社会が、それ独自の統合機能、統合のための抑制型価値観を産み出さなかったという考え方である。言いかえれば、資本主義は前産業社会からの遺産を食いつぶすことによって統合を保っている。しかしそのような遺産は、時代の推移と共に、とくに大衆教育の高度化によって使い尽くされていくのかもしれない。そのとき、手段的能動主義と個人主義の価値複合体に何が起るだろうか。

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杉浦昭典 『海賊キャプテン・ドレーク  イギリスを救った海の英雄』 (講談社学術文庫)

この人もそこそこの重要人物の割には手ごろな伝記が無いなあと思っていたところ、少し前にこれが出たので借りてみた。

あとがきと巻末の記述を見ると、1987年に中公新書で刊行されたものの文庫化とのこと。

不覚にも新書で出ていたことに全然気付いていなかった。

最初はマゼランを中心とした大航海時代の概略。

この人物についてはシュテファン・ツヴァイク『マゼラン アメリゴ』(みすず書房)という最高に面白い本がありますので、それを強くお勧めします。

地理的なことで、大航海時代初期にスペイン・ポルトガルの拠点となった大西洋の島嶼名をここで少しメモ。

まずアフリカ北西岸沖にマデイラ諸島。

そこから北西に進むとアゾレス諸島。

マデイラから南下してカナリア諸島。

さらに南に進み、アフリカ最西端沖にあるのがヴェルデ岬諸島。

以上のうちカナリア諸島のみスペイン領、他はみなポルトガル領となる。

本書の主人公フランシス・ドレークは1540~45年の間に生まれる(下層階級出身なので正確な生年すらはっきりしない)。

小作農民でプロテスタントの熱心な信徒の家。

そのためメアリ1世時代(1553~58年)には息を潜めるように暮らす。

1558年エリザベス1世即位。

この時期のイギリスの有名な航海者としてまずウィリアム・ホーキンズがいる。

ブラジル・ギニアへの密貿易で成功、プリマス市長となり、のちに同名の息子ウィリアムも同市長になっている。

もう一人の息子がジョン・ホーキンズで1562年より数度にわたって新大陸への奴隷貿易を行い、交易を拒否された場合は武力で攻撃・略奪・貿易強制を遂行した。

このホーキンズの下で、ドレークは航海者としての活動を始める。

1572~73年にドレークは中米パナマでシマローン(逃亡奴隷)と協力して大量の金銀を奪取することに成功。

ちょうどこの頃は、ユグノー戦争(1562年~)、オランダ独立戦争(1568年~)、サンバルテルミの虐殺(1572年)など新・旧教国間の対立が激化していた時期だが、エリザベス1世はスペインとの決定的対立を避け、ドレークもしばし姿を消す。

1577年再び海に出たドレークはスペイン領を荒らし回りながら1580年にかけて世界周航を達成。

帰国後、プリマス市長と下院議員に。

1585~86年には西インド諸島を攻撃、87年にはスペインのカディス襲撃。

そして運命の年1588年にメディナ・シドニャが指揮するスペイン無敵艦隊(アルマダ)が出撃。

迎え撃つのは英海軍長官チャールズ・ハワードが司令を務める下に、ホーキンズ、ドレーク、フロビッシャーの三提督。

アルマダは同年7月に英国沿岸に達するが懸念されたプリマスへの即時攻撃は行わず、オランダで戦うパルマが指揮する陸兵との合流を目指す。

艦隊はカレー沖に投錨するが、すぐ近くのパルマ軍はオランダ海軍に押さえられて合流できず、その間に英国海軍が焼き討ち船を突入させてアルマダは大損害を受ける。

続く追撃戦であるグラーベリーヌ海戦でもイギリスは大勝。

アルマダは英国諸島を北回りに迂回して逃げ帰る。

スペイン到着時には艦隊の船は半分、3万の人員は1万になっていたという。

主な戦いは、以上カレー沖海戦とグラーベリーヌ海戦の二つだが、高校時代から不思議に思うことに、この戦争の総称としては地名が付かない「無敵艦隊の敗北」か「アルマダ海戦(戦争)」と呼ぶしかないようです。

余勢を駆って翌1589年ドレークはリスボン(1580年以降だから当時のポルトガルはスペインに併合されている)を攻撃するが、これには失敗、ドレークはしばらく陸に上がる。

一方この時期にイギリスの私掠船活動は最高潮に達し、その収益は年間輸入額の10倍にもなったなんて「ホントですか?」と思うようなことが書かれている。

1595年ドレークとホーキンズは中米遠征に出発するが、ホーキンズは病死、思わしい戦果が得られないままドレークも病に倒れ現地で死去する。

割と良い。

量的にちょっと物足りない気がしないでもないが、楽に読めるのは長所。

ざっと読んで知識を仕入れるのに適した本でしょう。

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ナチについてのメモ その2

その1と同じくグイド・クノップ『ヒトラーの共犯者 下』(原書房)より。

第6章「死の医師」ヨーゼフ・メンゲレ。

1911年生まれ、大学で人類学と遺伝学専攻。

ナチに加入後、親衛隊に入り、1943年からアウシュヴィッツにて収容者のうち、主に双子を対象にした奇怪かつ残忍極まる人体実験に従事。

メンゲレが、双子の子どもたち、特に少女たちを喜ばそうと、自動車に乗せて収容所内の道をドライブしている姿は、ミュンヒがよく目撃している。それから何日もたたないうちに、その同じ双子たちが、メンゲレの解剖台の上に寝かされた。「双生児研究」の最中に殺されたのである。腹を切り開かれる子どもの死体。「それは、どうにも理解しがたいことでした。しかし、メンゲレにとっては当然のことになっていたのです」とミュンヒは言う。一部の子どもたちから「おじちゃん」と呼ばれていたメンゲレは、「彼の」双子たちにお菓子をやり、笑いかけた。そして最後には子どもたちを殺させ、死体を解剖させた。

・・・・・・

いっぽう、メンゲレの唯一の話し相手だったハンス・ミュンヒ博士は、選別の任務を拒んだ。彼はメンゲレの説得にも折れなかった。これが、クラクフで行われたアウシュヴィッツ裁判において、ミュンヒが親衛隊医師としてただひとり、無罪判決を受けた理由の一つである。またもう一つの理由は、ミュンヒが「衛生研究所」で囚人を見せかけの仕事につかせ、ガス室送りから救った事実である。

ミュンヒの同僚ハンス・デルモッテ博士も、一回目の選別の後、任務をおりたがった。荷役ホームで涙にくれる母親や、恐怖に泣き叫ぶ子どもたち、そして囚人を殴る親衛隊隊員が織りなす心痛む光景を目の前にして、デルモッテは大きな衝撃を受けた。彼は、発作に襲われたように泣きじゃくった。収容所所長や駐屯隊軍医、そしてメンゲレが彼をしきりに説得した。メンゲレはデルモッテに、こう言った。前線の軍医でも、ある種の選別を行わなければならない。必要な手術をどの順番で施行すればいいかを決定し、それによって負傷者の生死を決定する。アウシュヴィッツでは、同じ選別で労働能力のある者が選ばれるのだ、と。ミュンヒは、メンゲレのとどまるところを知らない冷笑主義(シニシズム)を回想する。彼は、こうも言ったそうだ。親衛隊医師のもっとも重要な役目は、働かされるぐらいなら死んだ方がましだと思っているようななまけ者を選り分けることだ、と。デルモッテは選別の任務を続けた。

45年1月赤軍が接近してくると逃亡、一般捕虜に紛れて姿を隠し、49年アルゼンチンへ渡る(このときアイヒマンとも会っている)。

追っ手を逃れてパラグアイ、さらにブラジルへ逃亡。

結局死に至るまで裁かれることなく、1979年死去、85年死亡が公的に確認される。

どの章も非常に読みやすい。

冗長でもなく簡略過ぎるのでもない絶妙の分量で各人を描写するので、よく頭に入る。

興味深いエピソードを次々と述べていくので退屈することもない。

むしろ、こういうテレビ的な「面白さ」に少し警戒心を持ってしまうくらいだが、内容はしっかりしていると思う。

訳文も平明で、一部誤植がある以外、適切。

上・下巻とも十分お勧めできます。

伯爵クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐を中心とする軍人レジスタンスの目的は、1944年7月20日の暗殺によって独裁者を排斥し、ナチの狂気に終止符を打つことであった。しかし計画の目的は達成できなかった。アドルフ・ヒトラーは殺されず、それどころかその日の夜ラジオを通じてドイツ人に向かって「ひとにぎりの、野心的で良心がなく同時に犯罪的かつ愚かな将校一派が陰謀を企て、わたしを亡き者にし、同時にドイツ国防軍総司令部幕僚を実際わたしとともに一掃しようとした」と演説した。

この「不名誉な将校たち」は、誰にも支持されずに誤解された悲劇のヒーローだった。彼らを支えていたのは人民の声ではなく、みずからの義務感だった。みずからの名誉だけでなく、ドイツ国民の名誉も守ろうとしたのは孤独な謀反人であった。これらの愛国者の大半は講和を望んでいた。そうすれば自分たちの神聖な「帝国」に、これ以上罪を重ねさせずに、幾分か無傷の状態で残せるかもしれなかったからである。しかしこの帝国はもはや無傷でも神聖でもなくなっていた。国防軍はホロコーストにあまりにも深くかかわり、ドイツの名においてあまりにも多くの殺人が行われてしまったのだから。クーデターの首謀者であるヘニング・フォン・トレスコフがいうには、いまはただ歴史に恥じないように、ドイツのレジスタンスが決定的な一石を投じることがだいじなのだ、ということである。

もしテーブルの下に置いた例の爆弾が、目的とする人物を木っ端微塵にしていたとしたら、そもそも何かの役に立ったのか、ということがよく問われる。無条件降伏などなかったかもしれないのか?帝国が分割占領されずにすんだかもしれないのか?またドイツ東部(東プロイセン)分断による住民の追放もなかったのか?たしかに、すべてもうすんでしまったことである。それにもかかわらず――ゲルデラーの臨時政府によってであれ、軍事政権によってであれ――戦争が終わっていたかもしれない。そうすれば、ヨーロッパの前線で戦っていた何百万もの兵士が死なずにすみ、何十万ものユダヤ人がガス室に送り込まれず、ヴュルツブルクやドレスデン、ブレスラウ、ケーニヒスベルクといった美しい都市が破壊されずにすんだだろう。ヒトラー暗殺が一つでも成功していたらそれは意味があったであろう。

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ナチについてのメモ その1

グイド・クノップ『ヒトラーの共犯者 下』(原書房)の記事続き。

第4章「手先」ヨアヒム・フォン・リッベントロープ。

1893年生まれ、第一次大戦に従軍。

戦後酒類販売業で成功、上流社会入りし、後の首相でナチの政権奪取に重要な役割を果すフランツ・フォン・パーペンとも親交。

1932年7月総選挙でナチが第一党になったのをうけて、当時の首相パーペンとナチの政権入りについて交渉するが、この時点では失敗。

同年11月選挙でナチは第一党の地位は守ったもののはじめての後退を経験し、党の財政難も相俟って危機的状況に陥るが、首相シュライヒャーと離反した前首相パーペンがヒトラーと大統領ヒンデンブルクとの間を仲介し、1933年1月ヒトラーが首相に任命される。

この際、パーペン、ヒンデンブルクら保守派との交渉に大きな役割を果したリッベントロープだが、自らの就任を望んだ外相にはリッベントロープではなく、保守派のノイラートが任命される。

しかし34年リッベントロープはヒトラーの外交顧問となり、外務省とは別の「リッベントロープ機関」を率い、二重外交との批判も受けながら、35年英独海軍協定、36年日独防共協定などの成果を挙げる。

36~38年には駐英大使となるが、ヒトラーの望んだ英独間の反共同盟締結には完全に失敗。

38年ヒトラーはノイラート外相、ブロムベルク国防相を解任し、政権内から保守派を追放した後、リッベントロープを外相に任命、同年からオーストリア併合・ズデーテン問題・ミュンヘン会談など大戦への危機続発。

ここで以下の記述があるのに気付き、大いに注目した。

チェンバレンは、臆病な「宥和主義者」ではなく、自分の国のためにミュンヘンで時間かせぎをしていた巧妙な外交官だった。ヒトラーに対抗して軍備を増強するための時間かせぎを。

ヒトラーとの交渉による平和維持が完全に不可能なことを示して国民の抗戦意志を固めたことと、譲歩で得られた束の間の時間を最大限有効に利用して猛烈な勢いで軍備を拡張しそれが1940年「バトル・オヴ・ブリテン」での勝利につながったことの、以上二点をもって、ネヴィル・チェンバレンの「宥和政策」をむしろ肯定的に評価する見解があることは、野田宣雄『ヒトラーの時代』を読んで以来知っていたが、本書も同じような立場を採っている模様。

39年チェコスロヴァキア解体後、リッベントロープがモスクワに飛び、独ソ不可侵条約締結、その直後ポーランド侵攻と第二次大戦勃発となるが、開戦後は外交官であるリッベントロープの役割は低下していった。

42年12月と43年夏の、独ソ単独講和の動きに一部関与したが、ヒトラーの断固たる拒否によって挫折。

戦後ニュルンベルク裁判で絞首刑。

第5章「死刑執行人」ローラント・フライスラー。

1893年生まれ、第一次大戦に従軍、ロシア戦線で捕虜となる。

ボリシェヴィキ新政権下の収容所内で「人民委員」となり、この事実が後々まで悪評を生み出し、それを否定するためにフライスラー本人はより狂信的になったと記されている。

戦後帰国して弁護士になり、ナチに入党、党員の裁判で活動。

33年ナチ政権成立後はプロイセン法務省次官に。

戦時中の42年に民族裁判所長官となり、有名なショル兄妹ら「白バラ」グループほか、体制反対派と見做された者に残忍な弾圧を加える。

スターリン時代のソ連粛清裁判におけるヴィシンスキーと似たような役割。

フライスラーはもう少尉ではないとはいえ、本国で戦っているも同様だった。戦場でも銃後でも多くの人間が死んでいくのを見て疑念を口にした者は民族に対する裏切り者である。「証拠隠滅者」、「国防力破壊工作者」「敗北主義者」といった言葉のもとに何千人もの人間が命を落とした。死刑判決が強制労働にまで減刑されることは滅多になかった。死刑になったほとんどが不注意にうっかりと「総統」や祖国防衛や戦争の進展についての批判を公共の場で口にした者であった。

郵便局員ゲオルク・ユルコフスキーなどは、1943年8月に「これだけはいえるが統領(ドゥーチェ ムッソリーニ)が捕まったんだから、ヒトラーも同じ運命だろう。1月には死んでいるだろう」とある婦人に言った。ユルコフスキーはナチズムについて反対の立場をとっているわけではなかった。しかし、いまや「総統」の権限や能力にただ疑念をさしはさんだだけで、その発言が命とりとなりかねなかった。

ユルコフスキーの運命は、フライスラーによって決定された。「被告はわれわれの敵国の破壊的な宣伝者であり、死刑をもって罰する」。エーレンガルト・フランク=シュルツは「国防力破壊工作」のかどで訴えられた。それは赤十字看護婦に向かって、「『現在の独裁政治』よりもイギリスに何年か支配された方がましね」と「生意気にも」主張したためであった。「被告の名誉を永遠に剥奪し、死刑をもって罰する」というのがフライスラーの判決だった。

1944年7月20日のヒトラー暗殺計画が失敗すると、ナチ支配下においても抵抗力を最後まで残していた貴族階級に多くが属する被告人に対して、フライスラーが邪悪な牙を剥く(引用文(ケナン1)参照)。

ペーター・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク伯爵「裁判長、すでに尋問で申し上げましたように、わたしは、国家社会主義の世界観がみせた展開について・・・・・」

フライスラー(さえぎって)「『賛成できなかった』!具体的には、シュタウフェンベルクに対して、ユダヤ人問題にかんしてはユダヤ人撲滅は好ましくない、国家社会主義の法解釈は好ましくなかっただろうと言いましたね」

フォン・ヴァルテンブルク「核心となるのは、それらすべての問題を結びつけているもので、つまり、国家が神に対する宗教上・道徳上の義務を果さずして無制限な権力を国民に対して行使することを主張することです」

フライスラーは、被告がどもりながら供述することを期待していた。しかし被告は態度を崩すことはなかった。フライスラーがどなって発する言葉の暴力に屈する被告はほとんどいなかった。

ウルリヒ・ヴィルヘルム・シュヴェーリン・フォン・シュヴァーネンフェルト伯爵「(ナチの)ポーランド人に対する態度について疑念をいだいたことは、実際何度もありました」

フライスラー(さえぎって)「疑念、それを国家社会主義のせいだとしましたね」

シュヴェーリン伯爵「はい。あれは殺人です!国内でも国外でも・・・・・」

フライスラー「殺人?お前は卑劣漢だ!卑劣な精神に毒されてしまったのか?『はい』ないし『いいえ』で答えていただきたい。毒されたのか?」

シュヴェーリン伯爵「裁判長!」

フライスラー「されたのか、されなかったのか、どちらかはっきり答えたまえ」

シュヴェーリン伯爵「いいえ!」

「自分が有罪だと認めますか?」とフライスラーはヘルムート・ジェイムズ・フォン・モルトケ伯爵にたずねた。

「いいえ」とモルトケ伯爵。

「なぜ総統に逆らったのですか?」とフライスラーは外務省勤務の公使館参事官ハンス・ベルント・フォン・ヘフテンにたずねた。

「ヒトラーのなかにあらゆる悪が体現されているのが見えるからです」とヘフテンが答えた。

「いいえ、有罪だとは思いません。わたしには実行する権利がありました。それはヒトラーが1923年11月9日に要求したのと同じ権利です」と陸軍中佐ツェーザー・フォン・ホーファッカーが言った。

フライスラー「同じ権利?とんでもない!そんなことがとおると思っているのか!」

・・・・・被告は通常何週間にもわたって拷問を受け、睡眠をとることも許されなかった。このような状態で、赤いローブの悪魔とやりあった被告はわずかしかいない。レジスタンス闘士フリッツ=ディートロフ・フォン・デア・シューレンブルク伯爵は、その数少ないひとりである。伯爵は7月20日事件裁判の間フライスラーからは「卑劣漢シューレンブルク」としか呼ばれていなかった。フライスラーが一度うっかりと「フォン・デア・シューレンブルク伯爵」と称号を使うと、被告は皮肉っぽく「卑劣漢シューレンブルク、でお願いします、もしよろしければ」と訂正した。カトリックの弁護士ヨーゼフ・ヴィルマーも伯爵と同類の勇気ある被告だった。ヴィルマーが「わたしを絞首刑にするとは、よほどわたしが怖いんですね」とフライスラーに向かって叫ぶと、フライスラーは怒って「まもなく貴様は地獄行きだ!」と言いかえした。それに対してヴィルマーの返事はこうであった。「あとからいらっしゃるのを楽しみにしております。裁判長殿」

フライスラー自身は戦犯裁判で裁かれることなく、1945年2月に空襲で死亡。

なお、本書の翻訳は基本的には巧いと感じるが、しかし299ページの「首相クルト・フォン・シュライヒャー元将軍」と302ページの「国防相グスタフ・ノスケ」という記述の最初の肩書きには「元」と付けないと誤解を招くと思う。

終わらねえ・・・・・・。

あと一人分続きます。

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グイド・クノップ 『ヒトラーの共犯者  12人の側近たち  下』 (原書房)

少し前に上巻を読んでそれきりだったこれを手に取った。

この巻で採り上げられるのは、アイヒマン、シーラッハ、ボルマン、リッベントロープ、フライスラー、メンゲレの6人。

以上のうち、シーラッハのみ本書を読むまで名前も聞いたことが無かったが、青年団体ヒトラー・ユーゲントの指導者として載せられている。

上巻記事では書かなかったが、著者は第二ドイツ・テレビ現代史番組部局長で、本書自体もテレビシリーズの書籍化とのこと。

第1章「抹殺者」アドルフ・アイヒマン。

1906年生まれ。

オーストリアにある、ヒトラーと同じ高等学校を同じように中退。

ナチに入党するが、ヒトラー政権が成立した1933年には、年齢からいってまだ親衛隊の一般隊員だった模様。

34年保安諜報部(SD)入り、「ユダヤ人担当課」に配属、SD長官ハイドリヒの下で勤務。

38年オーストリア併合後、ユダヤ人の財産没収と国外追放を指揮。

第二次世界大戦勃発後、占領下にいたユダヤ人をどう処置するかが問題となり、最初財産強奪の上、マダカスカル島への追放が検討されるが、戦時下での移送は実現性が無く、計画放棄。

41年独ソ戦が始まると、事態は最悪の方向へ向かう。

戦線の背後でユダヤ人の大量射殺が繰り返される。

42年1月、ハイドリヒ、アイヒマン、ゲシュタポ長官ハインリヒ・ミュラーらが出席したヴァンゼー会議で「ユダヤ人問題の最終的解決」を決定。

射殺より「効率的な」処置としてガス室を備えたアウシュヴィッツなどの絶滅収容所を建設。

アイヒマンは、ユダヤ人を満載した「死の列車」を、前線における軍の要求を退けてまで優先的に稼動させる。

44年夏がホロコーストのピーク。

同年夏にはドイツの同盟国で大きなユダヤ人居住区のあったハンガリーへ独軍が進駐。

同国指導者ホルティの阻止にも関わらず、アイヒマンらはユダヤ人狩りを行い、10月「矢十字団」の政権奪取とホルティ失脚後はさらに甚だしくなる。

しかし12月には赤軍がブダペスト制圧、ホロコーストもようやく終焉を迎える。

アイヒマンは終戦時の混乱に紛れて逃亡、偽名でドイツ国内に潜伏した後、1950年南米アルゼンチンに渡る。

ナチ戦犯を追跡していたイスラエル秘密諜報機関モサドが60年にアイヒマンをアルゼンチンから拉致、イスラエルでの裁判の末、61年死刑判決、62年執行。

第2章「ヒトラー・ユーゲント団員」バルドゥール・フォン・シーラッハ。

1907年生まれ、父は貴族で母はアメリカ人の富裕な家という、ナチ指導者の中では相当異色の生い立ち。

第一次大戦敗北時に従軍していた兄が祖国の将来を悲観して自殺。

31年ヒトラー・ユーゲント、ナチ学生連盟、ナチ生徒連盟のトップに就き、後に第三帝国の青少年組織指導者に登り詰める。

「若者というのは、いつも自分の殻にこもりがちで、自分自身にとても愛着をもっている」

「だが、若者に拍手を贈り、敬意を表して、いい役まわりをあたえてやれば、そのことに感謝で報いてくれるのだ」

「君たちは未来のドイツだ」をスローガンに、シーラッハは少年少女の獲得にも奔走した。まるでハーメルンの笛吹き男について行くように、子どもたちはシーラッハの言葉に導かれ破滅の道をたどっていった。

40年ウィーン大管区指導者に。

狂信的反ユダヤ主義者ではなかったが、ウィーンからのユダヤ人追放にはためらいをみせず従事する。

本書では以下のようなエピソードを記している。

ヒトラーに対して批判的な発言をすれば、ただちに逆鱗に触れる。そのことを、シーラッハ夫妻が身をもって体験する事件が起きた。妻のヘンリエッテは、アムステルダムに滞在中、ユダヤ人の女性たちが追い立てられるように集められ、移送されるようすを、ホテルの窓から偶然目にした。

「ある晩のこと、わたしは人々の大きな叫び声や呼び声で目を覚ましました。そこで急いで窓に駆け寄り、一体、何が起きたのか、暗がりのなかで確かめようとしました。ホテルの下の通りを見ると、あきらかに大急ぎでかき集められたと思われる、二、三〇〇人の女たちが、制服を着た男たちに監視されながら、荷物をかかえて立っていました。やがて女たちのすすり泣く声が聞こえたかと思うと、、『アーリア人はここに残れ!』と命じる、甲高い声が耳に飛び込んできました。それから人々の集団は、ゆっくり歩き出しました。」

ヘンリエッテの驚きに拍車をかけたのは、顔見知りの親衛隊指導者が、ユダヤ人から奪いとった宝飾品を保管している倉庫があって、金や宝石が安く手に入ると話をもちかけてきたことだった。だが、そもそもウィーンでは、ユダヤ人が連日のように自宅のドアから追い立てられ、移送されていた。そのことを考えると、オランダのユダヤ人にまつわる一件にシーラッハの妻が衝撃を受けたというのは、逆に驚きである。

ともかくヘニーは、「本人は嫌がるかもしれないが」、今回の事件をヒトラーに話そうと決意した。ウィーンにもどると、ヘンリエッテはすぐにベルクホーフに、訪問してもさしつかえないかと電話をした。シーラッハ夫妻は、いつでもヒトラーにたずねることができたのである。ヒトラーの返事はいつもと変わりなかった。「ああ、もちろんだ。都合がつけば、いつでも来てくれ」

ベルクホークには、例のごとく大勢の人間が集まっていた。マルティン・ボルマンや、アルベルト・シュペーア、それにブラントやモレルといった、医師の姿もあった。シーラッハは妻に思いとどまるように忠告し、「心変わりは絶対にだめだ」と言いわたしていたが、妻は夜もふけた頃、アムステルダムで自分が経験したことをヒトラーに切り出した。すると、ヒトラーは憤慨して椅子から飛び上がった。「あなたはずいぶん感傷的ですな、フォン・シーラッハ夫人!あなたとオランダのユダヤ人女性と、一体、何の関係があるのですか!」・・・・・・「わたしが義務を負っているのはわが民族だけだ――あなたは憎むということを学ばなければならない」

戦後、ニュルンベルク裁判で禁固20年の判決を受け服役。

第3章「影の男」マルティン・ボルマン。

1900年生まれ、第一次大戦後農場で働いている時に右翼義勇軍による殺人事件に関与。

このときの実行犯の一人が後のアウシュヴィッツ収容所所長ルドルフ・ヘース。

1926年ナチ入党、長年党内の財政・経理畑を歩む。

33年政権獲得後はルドルフ・ヘス(上記ヘースとは別人)の配下となり、各国家機関の権限調整役を務めることにより、急激に権力の階段を登っていく。

41年ヘスの英への飛行後は党官房長を経て、さらにヒトラーの秘書長に納まり、常に独裁者の側にあることを利用して大いに権勢を振るう。

45年5月、ヒトラー自殺直後のベルリンから脱出しようとして戦死。

死体が未確認のため、しばしば逃亡説が唱えられたが、著者は死亡に間違いはないとしている。

長くなりましたので、残り三人は後日。

(追記:続きは以下

ナチについてのメモ その1

ナチについてのメモ その2

誰がヒトラーの共犯者になってもおかしくなかったはずである。犯罪的な国家が悪と正義の垣根をとりはらってしまうとき、誰もがその危険にさらされる。人間の本性だけを見れば、それは弱いものである。それどころか、人間が狼になるのにたいした手続は必要ない。誰の心にもアイヒマンやメンゲレ、ボルマンやリッベントロープ、シーラッハやフライスラーがどこかに潜んでいるからである。こういった連中はいずれも時代や状況が違えばごくふつうの人生をまっとうしていたはずであり、目立たない市民で終わっていたことだろう。リッベントロープやシーラッハにいたっては、もしも別の決断をしてさえいれば、時代が違わなくてもそうした人生が可能だったはずなのだ。

われわれの内なるアイヒマンはいつもそこにいる。だがわれわれはそれを眠らせておくという選択ができる。手遅れにならないうちにノーといえればよいが、それにはいっそう勇気を必要とする場合が多い。

だが人間のもつ人間らしさというものは、脆いものであり、人間性だけに頼るのは軽率だろう。明確な規範をもち、人間性の豊かな社会を土台とする強い国家だけが、歴史のなかで正義から悪が生まれるのを効果的に防ぐことができる。犯罪的な国家が生まれるような事態は、なんとしても招いてはならないのである。

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宮崎市定 『水滸伝  虚構のなかの史実』 (中公文庫)

文庫・新書になっている宮崎氏の一般向け著作は大体目を通しているのだが、これは今まで読んだことがなかった。

『水滸伝』については、明代に成立した四大奇書の一つで、北宋末に山東の梁山泊に拠った宋江以下百八人の豪傑が政府軍と戦い、それを打ち負かした後朝廷に帰順し、それから方臘の乱を鎮圧した、といったあらすじ以外何も知らないし、『三国志演義』と違って原作を読もうなどという気は全然起きなかったので、本書にも興味が持てなかった。

しかし試しに読んでみると、なかなか面白い。

『水滸伝』の話の筋を知らなくても十分読めるし、単純に北宋末期の概説として使える。

まず北宋の皇帝名をチェック。

太祖趙匡胤から始まって、以後太宗・真宗・仁宗・英宗と続き、王安石の新法で有名な神宗に至る。

神宗死後、哲宗即位、祖母の高太皇太后が摂政となり旧法党復活。

哲宗親政開始とともに新法党が巻き返すが、哲宗は若くして死去。

弟の徽宗即位、母の向太后が新法・旧法両党均衡策を採るが、太后死後再度新法党政権に。

この時新法党強硬派として台頭したのが蔡京で、南宋の賈似道と好一対の奸臣とされる。

蔡京と宦官の童貫に誤られた徽宗は止めどない奢侈生活に耽溺し、靖康の変という亡国の事態を招くことになる。

『水滸伝』はこの徽宗時代を舞台にしており、本書では、宋江はじめ小説の中に出てくる人物と実際の史実との関わりについて細かく分析している。

なお「方臘の乱」は数ある中国の民衆反乱のうちでは、明代の「鄧茂七の乱」と並んでマイナーな部類に属し、高校世界史ではあまり出てきませんね。

後半ややめんどくさい部分があるが、煩瑣なところは飛ばし読みでいいでしょう。

宮崎氏の本を新規に読むのは久しぶりですが、やはり平明かつ豪快な筆致は素晴らしいと感じ、大いに堪能させて頂きました。

他の著作と同様、こちらも初心者が十分楽しめる本です。

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引用文(クイントン2)

アンソニー・クイントン『不完全性の政治学』(東信堂)より。

[ディズレーリ以後の保守党について]

伝統的、農村的な支配階級の党は実質的に資産所有階級一般の政党になりました。その時までは主要な社会的責任の継承者の政治的集団と名乗ってもおかしくなかったものが、まさにその本来の原則からして嘆くべき類の特殊利益の集団へと変容したのです。

この変容の問題点を照らし出す意味で、アメリカ合衆国における「保守」という言葉の使われ方は興味深いと思います。伝統的なイギリスの保守主義に直接対応するものとしては、南北戦争以前の南部を理想の時代として見ようとする立場があります。現代においてそういう立場の意見を代表するのは、南部の農村詩人の文化批判であり、もっと新しいところでは、学術書に多いバーク礼賛の復活です。著者としてはラッセル・カークなどがそうであり、なおピータ・ヴィレクの場合だとメッテルニヒ礼賛までもみられます。しかし、合衆国における日常の口語では、保守主義者とは法的な規制に反対する自由企業の擁護論者、資産所有権の絶対的擁護論者を意味し、極端な例としては、連邦政府の所得税徴収は憲法違反だというプラカードを掲げてライトバンを乗り回している連中まで保守主義者にふくまれます。それこそが、ボリンブルクからディズレイリにいたるイギリスの保守主義者にとって、急進的な教条主義者と並ぶ、もう一方の主要な敵であった貨幣所有階級のイデオロギーなのです

彼[ソールズベリ]が省察の結果到達したのは、主として、英国の社会発展において今や保守主義にできることは大衆の勝利をほんの少し先へ延ばすという時間稼ぎの行動しかないという時期が到来した、という認識であったようにみえます。ディズレイリは、公衆の政治意識の中心に階級闘争が出現したことをつとに認識していましたが、それは不幸な異状として、つまり基本的には健康体である有機体に生じた治療可能な病状としてでした。ソールズベリの見方はもっと暗かったのです。社会は有機体であるという想定から彼が引き出したのは、他の有機体と同様に社会にも寿命があるということでした

政治的平等に関しては、普通選挙権によって実現されるものとされますが、そういう選挙権は政治権力を個々には役に立たない小さな単位に分割し、それらは結局は寄せ集められて黒幕が操るのに便利な大衆と化する、と彼[フィッツジェラルド・スティーヴン]は主張します。そういう措置は、「知者と愚者との本来の関係、・・・・・つまり賢にして善なる人間が愚にして悪なる人間を支配すべきだという関係を転倒させる」と彼はなお付け加えます。

上記文章を読むと、個人的にいろいろ考えるところがあります。

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引用文(クイントン1)

アンソニー・クイントン『不完全性の政治学』(東信堂)より。

教科書ふうの扱い方では、ホッブズはロックと対置されることが多く、しかもロックは自由主義の偉大な先駆者とされるところから、どうしてもホッブズは保守主義の側だと見られることになります。しかし、その対比は、分かりやすいものではありますが、やはり不正確です。ホッブズもロックも、ともに世俗的でしたし、合理主義的でした。ロックの攻撃目標は、名実ともにフィルマーであってホッブズではありませんでした。さらに重要なのは、ホッブズの理論ははじめステュアート王政擁護論として出されたのですが、その擁護の理論は王党派が受け入れうるようなものではなかったという事実です。『リヴァイアサン』出版の翌年、ホッブズは「帰国したい」気になり、クロムウェルと和解して、イギリスに戻りました。同時代の王党派の人々、なかでも真の保守主義者たちは、ホッブズが保守主義的君主制論者でないことに十分気づいていました。ホッブズにとって主権の正統性は、公共の秩序を現実に維持する権力を有するか否かにかかっているのであって、その権力の獲得がそもそも契約にもとづくか征服にもとづくかではありませんでした。クロムウェルの主権を承認することは、ホッブズの正統権力論とすこしも矛盾せず、むしろその当然の帰結でした。

ホッブズの立場が基本的に保守主義と正反対であるとみられる理由は三つあります。第一は、彼の、法は主権者の命令であるという主意主義的理論です。彼は政府を合理的な人為的装置とみなしましたから、彼を厳密な意味で絶対主義者とみることには無理があります。人間は社会の平和という最優先の目的に対する手段の選択を合理的に行うならば、実際その目的に対して役立たないことが判明したいろいろな手段にいつまでもしがみついていなければならないということはないのです。こうして、ホッブズは支配者が秩序維持能力を失うとき主権の解体が起こるのを当然としました。しかし、彼は主権者に対する法的制約を当然とは考えず、私有財産も主権者のおかげで維持されるものでこそあれ決して自然権や伝統的権利として主張されうるものではないとし、教会をも完全に主権者の意思に従属する国家の一部門として扱い、支配者による臣民の精神的支配を是認しました。彼は、法的主意主義の含意を極限まで追求したその徹底性において、実質的には全体主義者ということになります。

第二に、ルソーは別格としても、ホッブズはおよそ大政治理論家のうちでもっとも抽象的な合理主義者です。オーブリの記しているところによりますと、ホッブズはエウクレイデスを読んで数学との恋に陥り、その公理論的方法が彼の知的方法のパラダイムとなりました。彼はトゥキュディデスの翻訳もし、『ビヒモス』では内戦の原因の分析も行ったにもかかわらず、彼の精神は剛直に非歴史的精神だったのです。

最後に、『リヴァイアサン』の口絵には共同社会が人間の複合体として描かれていますが、彼の社会概念は厳密に機械論的です。社会は原子的個人の集合であり、個人の特性は一定不変のものであって、行動の場を構成する社会制度に影響されるものとは考えられていません。かりに人間の行動が社会秩序の影響を受けて変化するとしても、その軌跡が変わるだけで、影響が行動の発条にまで及ぶことはまったくないのです。

ホッブズはたしかに彼なりに人間の道徳的不完全性を信じていました。しかし、同時にまた彼はその不完全性への救済手段を発見したとも信じていました。さらに、救済手段が発見可能であると考えたこと自体、人間は知的には不完全ではないという彼の信条を証拠立てています。ガリレオが物体の運動に適用した方法は、ホッブズによれば、一切の現象について証明可能のゆえに確実な知識をもたらすものなのです。ホッブズはその方法を人間と社会に適用することに成功したと自負していました。

ホッブズは伝統主義者でなかったように、有機体主義者でも、政治的懐疑論者でもありませんでした。ホッブズは、後年の『対話』において、コークなどの法注釈学者たちがコモン・ローにおいて確認されるとした、客観的理性あるいは集団的知恵としての法という観念を攻撃しています。ある意味でホッブズは国制を変えることに反対でしたが、ただそれは彼自身の徹底的に革新的な理想の国制が確立されてしまった上で初めて言えることでした。

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アンソニー・クイントン 『不完全性の政治学』 (東信堂)

1976年に行われた講義を本にしたもの。

この訳本は2003年刊。

本文は150ページほどなので、楽に読める。

人間の知的・道徳的不完全性という前提から、(1)伝統主義、(2)社会有機体説、(3)政治的懐疑主義という、保守主義の三つの原則を導き出し、イギリス史上における保守思想家を順に論じていく内容。

著者は人間の二つの不完全性のうち、知的不完全性の方をより重視し、それを認識するにあたって宗教的信条を不可欠のものとはしていない。

具体的事例としては、13世紀のブラックトン、15世紀のフォーテスキュー、17世紀初めのエドワード・コークなどコモン・ローを擁護した法学者たちはひとまず触れず、エリザベス1世時代のリチャード・フッカーから始めている。

以後挙げられているのは、クラレンドン卿エドワード・ハイド、ハリファクス侯ジョージ・サヴィル、ボリンブルク(ボーリングブルック)子爵ヘンリ・シンジョン、デイヴィッド・ヒューム、サミュエル・ジョンソン、エドマンド・バーク、コールリッジ、ジョン・ヘンリ・ニューマン、ディズレーリ、ソールズベリ侯ロバート・セシル、フィッツジェラルド・スティーヴン、マイケル・オークショット

上記のうち二人だけ補足説明すると、クラレンドン卿は復古王政初期のチャールズ2世の首席大臣。

ハリファクス侯はクラレンドン失脚後の大臣で、ジェームズ2世にも名誉革命体制にも不即不離の関係を保ち、あらゆる政治的極端主義に反対した人物。

やや論旨がつかみにくい部分があるが、基本的には良書。

初心者でも十分読みこなせるレベル。

もし入手できれば読んでも損は無いでしょう。

保守主義の三つの特殊原理のまず第一は、伝統主義の原理であり、それは、確立された慣習や制度に対する保守主義者の愛着あるいは尊敬というかたちをとります。それと表裏の関係にあるのが、急激で、向こうみず、そしてもっと強く言えば、革命的な変化に対する保守主義者の敵意です。歴史的な進化の所産である社会秩序は、共同社会に蓄積された実際的知恵の結晶であり共同の成果なのであって、政治の経験を積んだ人々が、責任をもって決定を下さざるをえない諸状況のもとで行ってきた適応修正の積み重ねの結果としてあるのです。

第二の原理は、有機体主義の原理であり、社会は一体として自然に成長するものであり、組織された生きた全体であって機械的な寄せ集めではない、という社会観です。社会を構成するのは裸の抽象的個人ではなく、社会的存在として相互にかかわり合い、歴史的に受け継がれてきた慣習や制度に構造的に織り込まれて独特の社会性を帯びるにいたった人間です。社会の諸制度はこうして個々人にとって外在的で自由に取捨選択できるものでもなければ、個人的に利用できる面でだけ関心をもてば足りるものでもありません。むしろ、社会の諸制度が個々の人間を社会的存在たらしめるのです。

第三の原理は政治的懐疑主義の原理であり、政治的な知恵つまり人間社会の諸問題を適切に処理するのに必要な類の知識は、孤高の思想家たちの思弁的理論のなかにではなく、共同社会全体に歴史的に蓄積されてきた社会的経験のなかに見いだされるという信念です。そういう知識は、とりわけ、歴史の試練に耐えて確立された伝統的な慣習・制度の堆積や、またなんらかのかたちで政治にたずさわって広く実際的な経験を積んだ人々のうちに体現されています。社会はまことに複雑なものであって、およそ理論的な単純化になじまないのです。社会を首尾よく維持していくために必要とされる知識は、一面ではいわば暗黙の了解のようなかたちで多くの人々に共有されてもいますが、やはり基本的には個々の人間を越えた客観的な社会的諸様式のうちに具現されているといえます。

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