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ナチについてのメモ その6

その5に続き、グイド・クノップ『ヒトラー 権力掌握の二〇ヵ月』(中央公論新社)より。

1933年1月の首相就任後、ヒトラーは当面最も警戒すべき軍部を軍備拡張の約束で懐柔、すでに自然回復の兆しをみせていた経済情勢もプロパガンダに利用。

2月国会議事堂放火事件。

本書ではこの事件自体はナチの陰謀ではなく、やはりアナーキスト的傾向を持つオランダ人共産党員リュッベの単独犯だとしている。

もちろんこれをナチが自らの独裁確立のため最大限に利用したことも事実であり、「国民と国家の防衛のために」と題した緊急令発布。

報道・言論・集会の自由は失効し、司法手続抜きの「保護拘禁」が容認される。

3月「ポツダムの日」、歴代プロイセン王墓前での国会開会式典と宗派別祭典が行われる。

大統領ヒンデンブルクに対するヒトラーのうやうやしいお辞儀に象徴される、ナチの口先だけの伝統擁護の姿勢にほとんど全国民が騙された。

実のところポツダムの大芝居は、まさに保守派による例のヒトラー飼い馴らし計画を実演したもののように見えた。ヒンデンブルクがヒトラーの「任用責任」を引き受けたのも、根底にはこの計画があったからだ。ヒトラーがプロイセンの伝統に表面的には膝を屈したことにより、彼は旧来の保守主義の網にかかったかに見えた。愛国主義的なドイツ・ブルジョワが安堵の息をつくのがはっきり聞こえた。お涙頂戴の芝居は「国民覚醒」に伴うありとあらゆる醜悪な現象を隠蔽してしまった。

ヒトラーは自己の本質的な邪悪さを隠し、保守派に自らを誤魔化し現状を追認する余地を与えて、陰で舌を出していたことだろう。

その直後、国会に全権委任法提出。

政府に立法権と憲法改正権を与え、法令の認証・告知の権限を大統領から首相に移し、外交権も政府にのみ属するとする、途方もない法案。

四年間の時限立法で、効力は「現行政府のみ」との条件がついているが、もちろん反対派への気休めと目くらましでしかない。

連立パートナーのパーペンとフーゲンベルクは弱々しい異議を発するが、大統領のヒンデンブルクはヒトラーを伝統的国家の守護者と誤認し、もはや放任する決意だった。

採決の鍵を握る中央党では、元首相ブリューニングが反対を唱えるが、党首カース司教は屈服。

クロル・オペラ劇場で開かれた国会では、周囲をナチSA(突撃隊)、SS(親衛隊)が包囲、議員たちにありとあらゆる罵声と脅迫を浴びせ、一部の社会民主党議員は道すがら逮捕される。

国会でヒトラーは、大統領と教会の不可侵を約束し、中産階級と農民の救済による民族共同体再建を唱えると同時に、不吉な暴力的脅しを述べる。

議場内にもSA・SSのならず者が溢れかえり、議員に誹謗中傷を浴びせ脅迫する。

議員の独立性も何もあったものではない。

たとえどんなに不満があっても、議員・裁判官・官僚などに対する集団的攻撃や脅迫は、党派に関わらず、絶対に許してはならないし、もしそれを許したなら本当に取り返しのつかない事態が起こるということを深く実感させられる記述であった。

野次と罵声の中、社会民主党党首オットー・ヴェルスが勇敢かつ崇高な反対演説を行うが、ヒトラーは嘲笑と揚げ足取りと脅迫的言辞に満ちた反駁で応じる。

全権委任法がついに可決。

何十世代にもわたる諸身分の努力と試行錯誤が生み出した財産である法治国家が、ゴミクズ以下の大衆とその代理人によって、一瞬で破滅させられた。

勝利を得たナチは早速反ユダヤ主義的行動を爆発させる。

当初その醜悪な行為に困惑した国民も、大々的なプロパガンダによる同調圧力で徐々に正気を失っていく。

物質的欲望以外の価値観を持たない人間が、初歩的な煽動にすらどれほど弱いかを思い知らされる。

古い世代の信仰やタブーを迷信として嘲笑っていた新しい世代が、伝統的宗教より遥かに醜悪で愚劣な狂信に対して呆れるほど弱い抵抗力しか持たないという例がここでも見られる。

5月労働組合を弾圧、社会民主党禁止、7月には中央党なども解散、ヒトラーは一党国家を宣言。

これまで首相就任からわずか半年である。

驚くほど迅速に独裁体制を固めたナチスだが、その内部から反抗者が出る。

レーム指揮下のSAはナチの社会主義的・平等主義的傾向を強く代表する組織であり、この政権獲得期における既存エリート・保守層・軍部との妥協に批判的。

SAを軍事組織に格上げすることを狙うレームは国防軍と対立、33年10月の国際連盟脱退を経て、34年に入ってからも徐々にナチ体制内の不協和音が高まっていく。

まだ終わらないんで、本日はここまで。

同じ本についての複数記事の途中で年が変わるのがやや気持ち悪いですが、やむを得ずそうします。

今年も2、3日に一度の更新ペースを守れました。

(ただし、引用文に頼り過ぎだというのは、重々自覚してます。)

これまでの総記事数が950です。

もし来年このペースが続いても、記事数1000まで行ったら、一度更新を止めると思います。

それまでに断念する可能性も大いにありますが、宜しければたまに覗いて下さい。

それでは皆様、よいお年を。

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ナチについてのメモ その5

グイド・クノップ『ヒトラー 権力掌握の二〇ヵ月』(中央公論新社)記事続き。

首相のシュライヒャー将軍は、ナチ党内の反ヒトラー派であるグレゴール・シュトラッサーと接触。

シュライヒャーは寝首をかくような陰謀でブリューニング内閣を倒し、権威主義体制樹立を目論み、当初ヒトラーを利用しようとナチに接近したのも事実だが、この段階では明確にヒトラーの政権獲得を阻止しようとしていた。

著者も、議会制を根底から破壊する勢力であるナチが政権の入口にまで迫っている以上、この時点での憲法停止と緊急事態令布告は現実的な選択肢の一つだと認めているようである。

しかし、寵臣のパーペンに動かされた大統領のヒンデンブルクはシュライヒャーの提案を拒否。

シュトラッサーを利用したナチ党分裂工作も完全に失敗。

一方、軍のもう一人の実力者ブロムベルクはナチへの宥和的態度を強める。

ナチは前年11月の総選挙敗北を帳消しにするため、小州の地方選挙運動や街頭での示威活動・暴力行為を活発化させ、それを当時の最新メディアであるラジオに乗せて発信、依然ナチズムが「未来の波」であるというイメージを作り上げ、世論に対して同調圧力をかけ続ける。

ついに1933年1月30日、ヒンデンブルクがヒトラーを首相に任命することとなる。

プロイセンの伝統的軍人であり、かつてはヒトラーをオーストリア生れの粗野な成り上がり者と嫌っていたヒンデンブルクがこの挙に出たのは、高齢で気力の衰えた大統領がパーペンや息子のオスカー、大統領官房長官マイスナーなどの側近たちに説得されたからだというのがこれまでの定説。

それに対して本書では、ヒンデンブルクは依然独自の判断力を維持し、ヒトラーに国家の刷新を期待するという積極的評価を自ら下したからだと主張されている。

ヒトラー内閣において、首相のヒトラーの他のナチ閣僚は、内相のフリック、無任所相のゲーリングの二人のみ。

副首相にパーペン、国防相はブロムベルク、外相はノイラート、財務相シュヴェーリン・フォン・クロージク、経済相フーゲンベルク、労働相ゼルテ(国家人民党と友好関係にある右翼団体「鉄兜団」創設者)と多くの閣僚が保守派に属する。

ちなみに上記鉄兜団の指導者にデュスターベルクという人物がいるが、こういう右翼的立場の人物も、祖父がユダヤ系だったという理由でナチによって個人攻撃と誹謗中傷の対象になっていたというのだから、ナチの下劣さも底無しである。

政権獲得直前の交渉では、デュスターベルクと相対したヒトラーは、自分がやらせておいて、誹謗中傷は本意ではなかったと、白々しい弁明をしている。

表面上、パーペンが主張したようにナチが保守派によってたがをはめられ、封じ込められたようにも見えたが、これは恐ろしいまでの誤算だった(フーゲンベルクのみはかなり初期の段階でこのヒトラーとの取り引きの危険性に気付いているかのような記述だが、すべては遅過ぎた)。

ここで問題は、無任所相ゲーリングが同時にプロイセン州内相にも任命されたこと。

パーペン内閣時代、全国の五分の三の面積を占めるプロイセンの地方自治が廃止され、中央政府の直轄になったのは前回記事で書いた通り。

つまり内相フリックの権限と合わせ、軍が中立的・傍観者的立場を採った場合、それに次ぐ実力機構の警察が完全にナチの影響下に入るということになってしまった。

以後、SA(突撃隊)などのナチ組織が警察の後ろ盾を得て、反対派にあらゆる暴行を加えることになる。

伝統的保守派が、卑怯・愚昧・粗暴・野卑・低俗・驕慢・無恥・貪欲・残忍・冷酷・下劣・狂信、その他一切の人間悪の塊である極右的大衆運動を、左翼勢力に対抗するための協力者として自陣に迎え入れたとき、ドイツの運命は決した。

ヒンデンブルクもパーペンもフーゲンベルクもブロムベルクも、そしてナチのプロパガンダに協力していたという廃帝ヴィルヘルム2世の子アウグスト・ヴィルヘルム公も、保守派に属するすべての人々が致命的な思い違いをしていた。

ナチの極右的民族主義が、共産党などの左翼勢力と共に、所詮大衆民主主義という全く同じ幹から派生した二つの醜い枝に過ぎないことに気付かなかった。

彼らの表面上のナショナリズムが自己懐疑と自己抑制、そのための規範意識を一切持たない、「動物的」排外主義でしかないことがわからなかった。

極右的民族主義者の中に、あらゆる伝統的価値に対する嘲笑、既存の指導層に対する獰猛な不服従、それとは完全に対照的な自党派の指導者に対するグロテスクなまでの盲従、物質的利益以外に対する全くの無関心、一切の責任観念の拒否、その裏返しとしての醜悪で卑劣な他罰主義、内的倫理観の完全な欠如があることが見えなかった。

伝統の替わりに群衆心理を国の基礎に据え、適切な代表制を通じて選ばれた、真の意味で優れた少数者による責任ある統治を、賤しい暴民とそれを背後から操るデマゴーグの支配に替えることが、国家にどれほど恐ろしい破局をもたらすかを悟らなかった。

なお、以下の文章には蒙を啓かれた思いがした。

「ヒンデンブルクは保守派の利益を代表する者ではありませんでした」と、伝記著者のヴォルフラム・ピュータは断言する。「彼は厳密な意味で自分をプロイセン保守派だと思っていませんでした。彼が究極的に目指したのは国民の統合でした。この計画に背く人たちが排除されても、彼はそれを仕方がないと考えました」。

社会の階層性という大前提を捨て、平等主義的ナショナリズムという保守派にとっての劇薬を、愚かにも飲み干してしまったのかと思う。

社会の平等化が進み、成員の原子化が進行すればするほど、大衆煽動によって社会のバランスが崩れ、一党派が独裁的権力を振るう危険性が高まる(レーデラー『大衆の国家』コーンハウザー『大衆社会の政治』)。

無制限の言論の自由が認められれば、単純・浅薄・皮相かつ最も粗野で邪悪で狂信的な意見が常に勝利を占める傾向となる(ル・ボン『群衆心理』ガブリエル・タルド『世論と群集』)。

そうした集団はそもそも過半数を得る必要も無い。

なぜなら原子化し孤立した個人しかいない大衆社会では、狂信的で邪悪な集団に一定数の支持者さえいれば、そうした集団には個人では誰も対抗できない。

民衆を超える権威が不在であれば、民衆の多数派、あるいは擬似多数派を止めるものは何も無く、多数の暴政への歯止めは原理的に存在しなくなる(トクヴィル『アメリカにおけるデモクラシー』)。

よって民衆の中で特に愚かで下劣な層を煽動で動かす能力をもったデマゴーグは、たとえそれがどれほど卑劣・軽佻・矮小・醜悪な人物であっても、いやそうだからこそ、異様なまでの力を持つことになる。

そして不幸にして最悪の場合、この時期のドイツのように、醜悪な大衆組織が社会の下層から雪ダルマ式に膨張して遂には国家を乗っ取ることも可能となる。

だから君主制や貴族制などの非民主的制度や、様々な既得権で結ばれた中間団体、超越的価値を志向することにより現世の多数派が強要する価値観を相対化してくれる伝統宗教を、意図的に保存することが極めて重要なのだが、もちろんそんな知恵を持った民衆は絶無に等しい。

民衆は、つねに最も単純な、最も稚拙な、最も原始的な種類の公正さしか、つまりまわりくどいことなどいわずに、すべての人に同じものをあたえてくれる公正さしか、公正な制度であるとはおもわない。しかも、その原始的な公正を絶対的な公正であると思いこんでいるために、貴族主義的な法律にたいしては、なんでもかでも情熱的に反対するのが道徳的であると考えるこの情熱たるや、いかなる法秩序も完全ではありえないという意識をもつ者にはとうてい考えることもできないほど猛烈なものであって、おかげで、結局は民衆が勝利をおさめることになる。(トーマス・マン『非政治的人間の考察』

個人の自由と独立性、平等性が極限まで尊重された結果、事態は反転し、以下のような逆説的仕儀に立ち至る。

民主主義の陥りがちな多数者の専制という事態も、その元を辿っていくと、自然権に表わされるような人間の絶対視に行き着く。個々人が社会的な意見形成の究極の主体だとされ、しかもその個人が自己完結した不動の存在だとみなされれば、意見の決着には数を恃むよりほかなくなる。より良き見解に至ろうとすれば、相手を説得しようとするだけでなく、秀れた意見には説得される用意ができていなくてはならない。説得に応じるということは、自分より秀れた人間がいることを率直に認めることである。ところが、自足した人間には、これが不可能である。その結果、議論や討論は力と力の闘争に変じてしまう。数が力となり、勢い、人々は数を恃まざるをえなくなる。多数決は無限に長い意見形成過程に暫定的に終止符を打つための次善の策にすぎないのに、次第にそれは自己目的と化す。多いことは善いことだと考えられるようになるこうして「本来、民主主義の理想はすべての恣意的な権力を防止することを意図したものであるのに、新しい恣意的権力を正当化するものになってしまう」(『自由の条件』)のである。(間宮陽介『ケインズとハイエク』

そして次のような言葉は誰の耳にも届かない。

フランスの悲しい運命を 偉い人たちはとくと考えてほしい

だが それをもっとよく考えねばならないのは下々の者たちだ

偉い人たちは滅んだ―しかし民衆を民衆の手から

守るのは誰だ? フランスでは民衆が民衆の上に専制を布いた  

(『ヴェネツィアのエピグラム(格言詩)』)

坂井栄八郎『ゲーテとその時代』

あらゆる時代のあらゆる国で同じような事態が進行し、「民衆が民衆の上に専制を布」き続け、悲惨な事例が繰り返し繰り返し生れるが、何が問題なのか民衆はその片鱗も理解できず、再び似たような行為を繰り返す、というのが1789年以降の世界史の基本線となる。

これだけ書いて、やっとヒトラー政権成立時までですか。

まだ続きます。

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グイド・クノップ 『ヒトラー 権力掌握の二〇ヵ月』 (中央公論新社)

『ヒトラーの共犯者 上』『同 下』『ヒトラーの戦士たち』と同じ著者。

ただし出版元は違う。

本書はナチ独裁確立期に焦点を絞った本。

タイトルの「二〇ヵ月」は1933年1月ヒトラーの首相就任から34年8月ヒンデンブルク大統領死去まで。

本文に入る前にまず準備作業として、マックス・ウェーバー『社会主義』の記事でも書いた、ワイマール共和国の政党名をすべて憶える。

左派から右派への順に、共産党・独立社会民主党・社会民主党・民主党・中央党・人民党・国家人民党・ナチス。

以下各政党について簡単な説明。

政界で極左陣営を形成するドイツ共産党はコミンテルンを通じてソ連に盲従、極右のナチスと共に反議会主義的政党として、共和国末期には議会制を機能不全に陥れるのに貢献してしまう。

1917年反戦を旗印に多数派社会民主党から分離した独立社会民主党は、1920年ボリシェヴィキへの絶対服従を定めた規約に従いコミンテルンに加入するかどうかの問題で左右に分裂、両派がそれぞれ共産党・社会民主党に合流して、ごく初期の段階で存在が消滅。

社会民主党・民主党・中央党は「ワイマール連合」と呼ばれ、この中道・左派三党が共和国の主たる安定勢力となる。

最大政党はもちろん社会民主党だが歴代首相は中央党から出た人物が多い。

民主党は進歩的自由主義政党でマックス・ウェーバーやフーゴー・プロイス(ワイマール憲法起草者)など著名な知識人が加入。

中央党はもちろん、高校世界史でも馴染みのカトリック政党。

この政党は、一時文化闘争の標的となったビスマルク時代からヴィルヘルム2世親政時代、大戦期、共和国安定時代、大恐慌期としぶとく勢力を保持し続けた党で、宗教政党ならではの継続性を持つ。

中央党については、南ドイツのバイエルン地方にのみ「バイエルン人民党」という独自組織があり、これが中央党と友党関係にあった。

このバイエルンの独自性は戦後から現在に至る(西および統一)ドイツでもそうで、全国的保守政党のキリスト教民主同盟は、バイエルン州のみ「キリスト教社会同盟」名で活動していることを頭の片隅に入れておくといいでしょう。

バイエルン人民党は基本中央党と同一行動を取るが、本来中央党よりやや右寄りの政党であり、時に取る別行動が大きな結果を引き起こすこともあった(後述)。

既成政党の右派陣営を形成するのが人民党と国家人民党。

本書では国家人民党は「国家国民党」と訳されている。

普通の日本語の語感だと右派政党に「人民」の名は適合しないように思えるから、この方がいいのかもしれない。

(その場合人民党も「国民党」と訳すことになるのか。余談ですが林健太郎『昭和史と私』では、戦前の日本においては「人民戦線」という言葉が出てくる前は、「人民」は「臣民」に近い語感を持っていて、左翼の間では「民衆」「大衆」の言葉が多く用いられていたという意味のことが書いてあったのが意外でした。)

ただ、私は少々昔から耳に慣れているので、この記事では国家人民党のままにします。

人民党はシュトレーゼマンの所属政党であることをチェック。

帝政派的傾向を持つ両党だが、特に人民党はしばしば政権与党となり、シュトレーゼマンの指導で右から共和国を支えることになる。

しかし共和国末期には人民党と民主党(のち国家党と改称)は勢力・議席を激減させ、主要政党の座から転落する。

国家人民党も稀に政権に参加することがあったが、恐慌襲来後の危機の時代には党内穏健派が勢力を失い、フーゲンベルクという右翼政治家の下、ナチスとの危険極まりない協同関係に踏み出すこととなる。

ヒトラー政権樹立期の政治的プレイヤーとして、まずこのフーゲンベルクは要記憶。

大実業家で新聞・通信・出版社・広告代理店などを支配下に置く「メディア王」だと本書では評されている。

左翼勢力はデマゴーグ的なヒトラーより、大資本に基盤を持つフーゲンベルクこそが真の敵だと見なしていたというが、これはナチを利用しようとした保守派と同じくらい致命的な錯誤だった。

フーゲンベルクはヒトラー以前では最有力の右翼政治家だが、伝統的価値に縛られずより下劣なレトリックとプロパガンダを駆使し、建設的提案は一切せず無恥と無責任に徹してひたすら他党派を罵倒するだけのナチスに、国家人民党は支持基盤を侵食され続ける。

結局、国家人民党はロシア革命期に一時ボリシェヴィキと連立した社会革命党(エスエル)左派と同じような役割を果すことになってしまう。

ナチスは1929年以前は極右の泡沫政党でしかなかった。

大恐慌が襲来した時の政権は、1928年以来のヘルマン・ミュラー内閣。

社会民主党首班の内閣で、中央党・バイエルン人民党・民主党・人民党が与党。

大統領はもちろん、1925年エーベルト死後の選挙で勝利したパウル・フォン・ヒンデンブルクが在職。

ナチの政権獲得にはこのヒンデンブルクという個人の行動が大いに関わっているわけで、この時期別の人物が大統領ならとの思いを抱かずにはおれない。

左派・中道派統一候補を破ったヒンデンブルクの当選には独自候補に拘った共産党の行動が結果として貢献している。

共産党はナチ政権成立後は真っ先に残忍な弾圧を受けるし、本書におけるその描写を読むと確かに心動かされるものがあるが、この大統領選での方針、社会民主党を主敵とする「社会ファシズム論」、議会主義への軽蔑、モスクワへの盲従と暴力革命の主唱がドイツ国民に与えた恐怖感、それがナチへの支持を促進したこと、などを考えるとやはりヒトラー政権成立に対する共産党の責任というものも考えざるを得ない。

なおこの時、バイエルン人民党が中央党の方針に反してヒンデンブルクを支持したことも注目される。

共産党かバイエルン人民党の票が対立候補に入れば、確実に結果はひっくり返っていたと林健太郎『ワイマル共和国』には書いてあった。

(もっともその場合下記の32年大統領選でヒトラーを阻止できたかという問題が残るが、既成政党が右から左までナチスに対抗して団結することが何より重要で、そういう立場から統一候補を立てる展開になるべきだったんでしょう。)

経済破綻による混乱の中、ミュラー内閣は倒壊、1930年議会多数派に依存しない大統領内閣として中央党所属のブリューニングが首相就任。

同年総選挙でナチスが大躍進を遂げ、一躍第二党に。

ブリューニングは議会制維持とナチ政権成立阻止に奮闘するが、緊縮財政とデフレ政策に固執し経済状況はますます悪化。

1932年春の大統領選ではヒトラー当選を阻止するため、社会民主党など左派と中道派がヒンデンブルクを支持し、ヒンデンブルク再選。

32年6月国防軍実力者の将軍シュライヒャーがブリューニングを追い落とし、内閣崩壊、中央党最右派のパーペンがシュライヒャーの傀儡として組閣。

7月総選挙で遂にナチスが第一党。

同月全国の五分の三の面積・人口を占めるプロイセン州の地方政府をクーデタに近い方法で廃止、中央政府直轄に。

シュライヒャーは議会制廃止と独自の権威主義国家樹立のためにナチ運動を利用しようとするが、断固として全権を要求するヒトラーは拒絶。

11月当年二度目の総選挙でナチスは第一党の地位は守ったものの、議席を大きく減らし、さしものナチズムも退潮傾向かとの期待を抱かせた。

12月パーペンを見限ったシュライヒャーが倒閣、自らが組閣。

すると今度は、それを恨みに思ったパーペンがシュライヒャー政権打倒のため、ナチとの連携を目論むのだから酷いもんです。

ヒトラーに政権への道を開いた最も大きな短期的・直接的責任はこのパーペンにあると言える。

本当に最低最悪のボンクラ野郎です。

そしてドイツと世界にとって運命の年、1933年を迎える。

ダラダラ書いてたら、本書の内容に入るまでの準備で一つの記事になってしまいました。

以後かなり続きます。

(続きは以下

ナチについてのメモ その5

ナチについてのメモ その6

ナチについてのメモ その7

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水村光男 編著 『新版 世界史のための人名辞典』 (山川出版社)

1991年初版、2010年新訂版。

編著者以外の名が載っていないが、ひょっとして一人で書いているのか?

だとしたら凄い。

全1914項目。

世界史教科書にある人名はすべて取り上げ、さらにかなりの数を加えたと書いてある。

(ただし日本人名はすべて除外。)

本の厚さからするとかなり粗い内容かなとあまり期待していなかったのだが、目を通していくと、人名のみに項目を絞っている分、相当詳細であり、かなり使える。

説明本文中では、くどいくらい年号を括弧内で注記しているが、これは本書を調べもののつもりで引いた際有益・適切で、とても良いと感じる。

前書きで、これまでの辞典では簡略過ぎて人物像が伝わらないか、浩瀚に過ぎて簡便性に欠くかのどちらかだったが、本書ではその中間を目指したという意味のことが書かれているが、その試みは十分成功している。

ただちょっと気になるところもないではない。

中国皇帝は基本的に廟号(高祖・太宗など)を本項目に立て(諡号[武帝など]で呼ばれるのが慣例になっている皇帝は除外)、明清では「一世一元の制」により元号による名(洪武帝・康熙帝など)で記載という方針。

これがねえ・・・・・・。

巻頭の凡例で読んだときは、「ああ、そうなんですか」と思っただけでしたが、いざ本文を眺めてゆくと・・・・・。

違う王朝の「太祖」が並列して載せられていて、頭の中の整理ができるという面もあるんですが、劉邦や李淵は「高祖」とするより本名で載せた方が良くないですか?

曹操は形式的には皇帝に即位してないので死後贈られた「武帝」ではなく本名で項立て。

一番不自然に思ったのは、劉備が何と「昭烈帝」で載っているのを見たとき。

「昭烈帝」って・・・・・。

三国志演義でもあまり出てこない称号ですよ、これ。

もちろん、「劉備→昭烈帝を見よ」とは書いてますがね。

(ただ五十音順で「昭烈帝」のすぐ後に「諸葛亮」が来るのは、ただの偶然だろうが面白い。)

あと、韓国・朝鮮の人名が、現代史の人物含め、すべて漢字の日本語読みで統一されている。

しかし金正日を「キム・ジョンイル」ではなく「きん・しょうにち」、盧泰愚を「ノ・テウ」ではなく「ろ・たいぐ」で引くのは、今となっては相当な違和感。

私はテレビ・ニュースで全斗煥「ぜん・とかん」が「チョン・ドファン」に変わったのを経験した世代の人間ですが、韓国・北朝鮮建国後の人名はもう日本語読みでは妙な気がしてしまう。

他に特徴はというと、ごく最近の政治家の項目がやたら詳しい。

ブッシュ(子)や盧武弦やシュレーダーなどはともかく、パナマのノリエガ将軍とか、政治家ではない故ダイアナ妃まで相当の紙数を使って載ってる。

加えて現職のオバマ、メドヴェージェフ、李明博、馬英九も長い。

今年4月に墜落事故で死亡したポーランドのカチンスキ大統領のことまで載っている。

(以上は別に悪いとは全然思わないが。)

以下、他に気付いたことを何点か。

ヴェトナム国のバオダイ帝の生没年をたまたま眺めてみると、この人1997年まで生きてたんですねえ。

同じく生没年関連ではアルジェリア独立の指導者で1965年クーデタで失脚したベン・ベラですが、「1918~」という表記なので、まだ生きてるのか。

(追記:2012年4月12日の朝刊に訃報記事が載っていました。享年95歳だそうです。)

広開土王の項、碑文の日本による解読に改竄・歪曲の可能性が高くなってきているという意味のことが書かれているが、私は以前日本軍が取った拓本に疑問が呈されてきたが最近はその説は完全に下火になっているという理解だったのだが、また逆になってきてるんでしょうか?

ちょっとこの辺、よくわからない。

「モルトケ」がいわゆる大モルトケだけで、小モルトケが項立てされていないのは残念。

チョムスキー、デリダ、ソンタグなどの知識人も載っている。

モンロー宣言のジェームズ・モンローの直後、同じくらいの文章量でマリリン・モンローが載っている。

ルイ・ブランが第二帝政崩壊後帰国し、国民議会議員としてパリ・コミューンに反対したなんてことは本書で初めて知った。

かなり良い。

客観的記述だけでなく、著者の個性が相当出た文章で、ややクセを感じる部分もあるが、豊富なエピソードを交えた説明文は大いに有益だし、眺めていると楽しい。

帯に「読む辞典」と書かれているが、宣伝文句に違わぬ出来。

1万4000項目を超えるという『角川世界史辞典』に比べれば、収録数は圧倒的に少ないし、人名しか取り上げられていないが、場合によっては本書の方が使えるのではないか。

これで定価1575円は安い。

買って手元に置いておくのも悪くないんじゃないでしょうか。

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『高等学校 世界史B 改訂版 100テーマで視る世界の歴史』 (清水書院)

忘れた頃にやってくる高校世界史教科書の記事。

教科書にしては珍しくサブタイトルが付いているが、それが記述形式をよく表わしている。

「秦・漢はどのように中国を統一したのか」「1848年の革命はヨーロッパをどう変えたか」というふうな文章形式の章名になっており、それが100ちょうど集まって本文を形成している。

そして1節がすべて見開き2ページにまとめられているのも大きな特徴。

普通の節の合間に「コラム 民衆の歴史」と題して社会史的記述を挿入している。

あと巻末に「テーマ学習」として「砂漠化と緑化」「世界の飢餓と貧困」「地域紛争中のパレスティナ問題」が三つあっておしまい。

奥付の執筆者名を見ると、大久保桂子さん(中公新版世界史全集『ヨーロッパ近世の開花』の著者)と芝健介さんが聞いたことがあるなあというくらい。

ざっと見たところ、あまり詳しい用語は載っていない。

初学者や苦手な人には向いているかもしれない。

第1章「世界史への招待」および第2章「君たちの時代」は文字通りイントロダクション的な章で、「年の表示はどのようにして決められたのか」「歴史はどんな態度で学べばよいか」など9節。

第3章「地域世界の形成と交流」はおおむね15世紀までの各地域の歴史(ただし中国は唐末10世紀まで)で21節。

第4章「地域世界の変容と世界の一体化」は16世紀からフランス革命まで、20節。

第5章「近代と国民国家」はフランス革命から第一次大戦まで、19節。

第6章「世界戦争の時代」は第一次大戦・戦間期・第二次大戦終結まで、11節。

第7章「現代の世界」は第二次大戦後から現代まで、20節。

以上合計でちょうど100節です。

近現代史で半分以上、7割を占めていることになる。

なお、各節ページの左下スミに世界地図で該当地域に印を付けている工夫が目を引く。

以下、例によって本文を見て適当な感想を書き連ねてみます。

実質最初の章である第3章が、オリエントではなく中国史から始まるのが新鮮。

中国古代文明で黄河流域以外の河姆渡遺跡、良渚遺跡、三星堆遺跡が太字で載せられている。

私が高校生の頃は、全く出てこなかったはずです。

劉備が建てた王朝が蜀ではなく蜀漢と表記されている。

これは今まで教科書では見たことがない。

唐の部分では羈縻政策(周辺異民族に自治を認める政策)が太字。

文化史では茶の作法をまとめた『茶経』も。

何かアンバランスだなあ・・・・・。

アッバース朝カリフの権威を認めない王朝の例として後ウマイヤ朝・ファーティマ朝の他にイドリース朝の名を出しているのも、簡略な教科書にしては唐突感がある。

何を重視するかは執筆者様の判断ですから、素人があれこれ口を挟むことじゃないかもしれませんが、どうも言わずにおれない。

一方、フランク王国カロリング朝で名の出る君主はカール大帝のみ。

カール・マルテルもピピン3世もバッサリ省略。

その前にゲルマン民族大移動のところで、本文中に出てくる部族名はフランクのみ。

神聖ローマ帝国成立も、うっかり見逃すくらい小さな扱い。

中国史は、第3章で扱われるのは唐滅亡までだと上で触れましたが、第4章の該当ページでは、宋の統一と並んで内陸アジアでのトルコ系民族発展を同じ節で述べている。

これはなかなか興味深い。

宋代、都市文化の繁栄を描く『清明上河図』が太字。

かと思えば、モンゴル帝国で出てくる君主はチンギス・ハンとフビライだけ。

言葉は悪いが、中学校の教科書みたいだ。

高麗の文化で、「象嵌青磁」が太字なのに「高麗版大蔵経」がそうじゃない。

わからん・・・・・。

いっその事、どっちも要らないくらいじゃ・・・・・。

続く王朝の名が李朝朝鮮となってる。

「李氏朝鮮」はもう死語なんですかね。

オスマン帝国の各宗教宗派別自治組織「ミッレト」は、この教科書にも載っているということは、もう高校世界史必須用語か?

ムラービト朝とムワッヒド朝が、イスラム史には出てこず、アフリカ史のページに載ってる。

要はエジプト以外はすべてアフリカ史で載せるということらしい。

ガーナ・マリ・ソンガイ・モノモタパという定番の王国名の他、チャド湖周辺に9世紀栄えたカネム王国の名が出ている。

近世ヨーロッパ史でも大胆過ぎる省略が目に付く。

大航海時代の後、ページをめくると近世政治史の節に入る。

ここで何か強い違和感を感じて首を傾げる。

「何だろうなあ」と思って読み進めていくと、ほとんどの教科書で大航海時代のすぐ近くにあるルネサンスの章が無いことに気付いた。

17・18世紀や19世紀のヨーロッパ文化と同じく、ルネサンス文化史も政治・経済史の後にまとめられている構成。

これには相当驚いた。

該当節もスカスカ。

ダンテ・ペトラルカ・ボッカチオ・ブルネレスキが出てこず、ボッティチェリとレオナルド・ダ・ヴィンチは欄外図の説明で名が載ってるだけ、ミケランジェロは別のページのコラムにのみ出てくる。

イスラム文化史でイブン・シーナ、イブン・ルシュド、イブン・バットゥータ、オマル・ハイヤームが出てくるのに、ルネサンス文化史がこれで大丈夫ですかと失礼な感想を抱いてしまう。

政治史も相当なもの。

巻末索引で見たらとにかく基本的王朝名が載っていない。

カペー朝はあるが、ヴァロワ朝・ブルボン朝は無し。

『世界史B用語集』(山川出版社)の記事でダンテとブルボン朝の載っていない教科書というのは本書だった模様。)

プランタジネット朝とテューダー朝があって(テューダーは確か索引には無かったが本文を確認したら有り)、ステュアート朝は無し。

人名ではクロムウェルが本文中には記述無し。

1789~95年間のフランス革命史を見開き2ページで片付けるのは酷いというか凄いというか。

近現代史、朝鮮史のページ、壬午軍乱(太字)、甲申事変(普通)が載っているのはいいが、片方だけ太字にするバランスがよくわからない。

まだ逆の方が理解できる気がする。

イスラム世界での民族運動の節。

19世紀ナショナリズム思想がバルカン地域に流入し、セルビア正教会がオスマン政府だけでなくギリシア正教会へも反発を強めて独自のキリスト教会を中心にした国民国家建設に向かったが、これは宗派別運動だったため、西欧的民族運動とは異なった面を持ったという説明は面白い。

18世紀オスマン帝国で徴税請負制度が広まり、地方有力者アーヤーンが勢力を拡大したとあるが、これもこの本のレベルからするとアンバランスな・・・・・。

北インドのイスラム回帰運動指導者で、シャー・ワリーウッラーが太字になってますが、それ一体誰なんですか???という感じ。

上記リンクの山川出版社用語集では頻度1、この教科書しか載せていない。

何だかなあ・・・・・。

朝鮮の実学大成者、丁若鏞も不可解。

ロシア革命指導党派が、ボリシェヴィキではなくボルシェヴィキ。

何か古さを感じる。

現代史で四次の中東戦争が1節でまとめられているのは、初心者には読みやすくて良い。

しかし他の部分では、例えばド・ゴールによる第五共和政成立と英サッチャー新保守主義政権が同じページに入るような次第なのは、簡略化も度が過ぎるというもの。

コラムは「アヘン」「ペスト」「女性参政権」など興味深い項目がいくつもある。

しかし本文は・・・・・・。

本書だけに頼るのは不安過ぎる。

他の教科書のように、漢字以外の固有名詞にアルファベットの綴りが小さく添えられていないのも欠点。

思い切って内容を絞り込んでいるのが最大の特徴ですが、私にとってはもう一つでした。

あんまり手元に置きたい本ではないです。

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引用文(「仏典」2)

『ブッダのことば』(岩波文庫)より。

第四 八つの詩句の章

パスーラ

かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えは清らかでないと説く。「自分が依拠しているもののみ善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執している。

かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を〈愚者である〉と烙印し、他人(師など)をかさに着て、論争を交す。――みずから真理に達した者であると称しながら、自分が称讃されるようにと望んで。

集会の中で論争に参加した者は、称讃されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、(論敵の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。

諸々の審判者がかれの所論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣する。

これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称讃を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。

あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称讃されると、心の中に期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。

心の高ぶりというものは、かれの害われる場所である。しかるにかれは慢心・増上慢心の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の熟達せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは説かないからである。

たとえば王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声を挙げて進んでゆくようなものである。勇士よ。かの(汝にふさわしい、真理に達した人の)いるところに到れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。

(特殊な)偏見を固執して論争し、「これのみが真理である」と言う人々がいるならば、汝はかれらに言え、――「論争が起っても、汝と対論する者はここにはいない」と。

またかれらは対立を離脱して行い、一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか?パスーラよ。かれらの間で「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。

さてあなたは(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いをめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、邪悪を掃い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、それを実現することは、とてもできない。

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引用文(「仏典」1)

『ブッダのことば』(岩波文庫)より。

第三 大いなる章  

この世における人々の命は、定まった相(すがた)なく、どれだけ生きられるか解らない。惨(いた)ましく、短くて、苦悩をともなっている。

生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。

熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れがある。

たとえば、陶工のつくった土の器が終にはすべて破壊されてしまうように、人々の命もまたそのとおりである。

若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。

かれれは死に捉えられてあの世に去って行くが、父もその子を救わず、親族もその親族を救わない。

見よ。見まもっている親族がとめどなく悲嘆に暮れているのに、人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。

このように世間の人々は死と老いによって害(そこな)われる。それ故に賢者は、世のなりゆきを知って、悲しまない。

汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。汝は(生と死の)両極を見きわめないで、いたずらに泣き悲しむ。

迷妄にとらわれて自己を害っている人が、もしも泣き悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。

泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。

みずから自己を害いながら、身は瘠せて醜くなる。そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。

人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕らわれてしまったのだ。

見よ。他の[生きている]人々は、また自分のつくった業にしたがって死んで行く。かれら生あるものどもは死に捕えられて、この世で慄(ふる)えおののいている。

ひとびとがいろいろと考えてみても、結果は意図とは異なったものとなる。壊(やぶ)れて消え去るのは、このとおりである。世の成りゆくさまを見よ。

たとい人が百年生きようとも、あるいはそれ以上を生きようとも、終には親族の人々から離れて、この世の生命を捨てるに至る。

だから〈尊敬すべき人〉の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。

たとえば家に火がついているのを水で消し止めるように、そのように智慧ある聡明な賢者、立派な人は、悲しみが起ったのを速やかに滅ぼしてしまいなさい。――譬えば風が綿を吹き払うように。

己が悲嘆と愛執と憂いとを除け。己が楽しみを求める人は、己が(煩悩の)矢を抜くべし。

(煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。

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『ブッダのことば  スッタニパータ』 (岩波文庫)

中央公論の「世界の名著」シリーズで『孔子 孟子』『聖書』を読んだので(前者は「論語」の部分だけですが)、仏教に関しても同シリーズ第1巻に収録されている『バラモン教典 原始仏典』を読もうかと思ったのですが、中身を見るとかなりハードそうでしたので、とりあえずこちらにしました。

訳者は中村元先生。

巻末解説によると現存する仏典のうちでは最も古い時代にまとめられたと推定されているとのこと。

南伝仏教のパーリ語聖典の一部で、漢訳は一部を除いて存在しないそうです。

内容は実に平明で、理解しにくい難解な教義は一切無し。

「四諦」とか「八正道」とかの話すら出てこない。

文庫にしては分厚いが、訳注がほぼ半分を占めるので、通読に困難は感じない。

各章、各節が適切な長さなのも助かる。

これはいいと思います。

世界宗教の一つたる仏教の原典としてまずこれで第一歩を踏み出すのも良いでしょう。

ただ一番初心者向けの本として、阿刀田高氏に『旧約聖書』『新約聖書』『コーラン』『ギリシア神話』の他に『仏典を知っていますか』を出してほしい。

以上四つの分野より仏典は数が多いし、まとまりが薄い感があるので、もし適切な入門書があればより効用が高いと思う。

集会を楽しむ人には、暫時の解脱に至るべきことわりもない。太陽の末裔(ブッダ)のことばをこころがけて、犀の角のようにただ独り歩め。

粗暴・残酷であって、陰口を言い、友を裏切り、無慈悲で、極めて傲慢であり、ものおしみする性で、なんぴとにも与えない人々、――これがなまぐさである。肉食することが〈なまぐさい〉のではない。

人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである。

毀(そし)るべき人を誉め、また誉むべき人を毀る者、――かれは口によって禍をかさね、その禍ゆえに福楽を受けることができない。

種々なる貪欲に耽る者は、ことばで他人をそしる。――かれ自身は、信仰心なく、ものおしみして、不親切で、けちで、やたらにかげ口を言うのだが。

けだし何者の業も滅びることはない。それは必ずもどってきて、(業をつくった)主がそれを受ける。愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける。

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ハインツ・ゴルヴィツァー 『黄禍論とは何か  その不安の正体』 (中公文庫)

1999年草思社から単行本で出たのを2010年文庫化したもの。

著者はドイツ人史家で、原著は1962年刊。

1870年代から第一次世界大戦までの帝国主義時代の欧米における、黄色人種脅威論に関する書。

まず総論があって、その後、英・米・露・仏・独の順番に各国ごとの分析。

多くの知識人、ジャーナリスト、政治家の言説を採り上げている。

その固有名詞は一部を除いて特に憶えなくてもいいでしょう。

抽象的理論ではなく、具体的事例を次々挙げていく構成なので、面白くスラスラ読める。

帝国主義時代、地球上のほとんどすべてが欧米列強によって分割され、表面上西洋が圧倒的優位を誇っていた時期の、欧米人の心の底に潜む不安感を描き出している。

「黄禍」といっても、その中心対象は、ほぼ中国と日本に尽きる。

日本は主に日清・日露の戦争後について。

中国はアヘン戦争で国を開いてから「眠れる獅子」と呼ばれていた時期だけでなく、日清戦争敗北後においても、その膨大な人口が与える圧迫感から脅威視されることが多かった。

低賃金労働による輸出洪水、移民の氾濫、近代技術の模倣・習得による軍事力整備と膨張政策についての懸念が西洋人の脳裏に付き纏う。

本書に挙げられている様々な言説を読み進んでいくと、一部を除きアジアへの蔑視というよりその潜在的能力に対する不安からくるものなので、別に不愉快な感じは受けない。

人種・民族・文化に関する偏見の話でも、日本人読者にとっては、こちらが「被害者」なので、気楽である。

とはいえ、我々としては本書を読んで自らの鏡とし、例えば硬直して偏執狂的な反中反韓感情の虜にならないよう自省すべきなんでしょう。

興味深いサブテキスト。

読みやすいし、分量も多くないので、通読は大した手間でない。

気が向いたら読んでおいても損はないです。

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引用文(西部邁6)

西部邁『小沢一郎は背広を着たゴロツキである』(飛鳥新社)より。

ともかく、文明にとっての最重要の必要条件をデモクラシーだとするのはだらしない思考習慣である。公心を忘れて私心を剥き出しにする「自由な世論」がまともな政治の基礎たりえないことは誰にとて判断できるところである。

デモクラシー(民衆政治)がディクテーターシップ(独裁制)やオリガキー(寡頭制)よりも勝るという保証はどこにもない。なぜといって、ローマのカエサルやフランスのナポレオンを持ち出すまでもなく、ムッソリーニもヒットラーも、またスターリンも毛沢東も、公民ならざる民衆の歓呼の声によって独裁者に祭り上げられたのだからである。しかも、1933年のドイツの(独裁の)授権がそうであったように、レファレンダム(国民投票)によって独裁者が選ばれるときすらある。それは、民衆が民衆政治を民衆政治によって自己否定するの光景であった。

政治学は、プラトンによって始められたとき、民衆政治への(懐疑というよりも)論難を旨とするものであった。民衆政治はティモクラシー(評判政治)からプルトクラシー(金権政治)へ、さらにディクテーターシップへと堕ちていく、とプラトンはいったのだ。この過程を観察するに当たって、「デマ」(民衆に流通する嘘話)が「デマゴギー」(民衆煽動)の接頭語であること、つまり「デマ」は民衆の馴染みやすい表現法だということを忘れてはならない。

近代の政治学者のほとんどすべてが、このプラトンの洞察について、つまり、近代史も現に実証しているその重い経験則について、知っていながら知らない振りをして、民衆政治を最良の政治形態とみなしつづけている。現代政治学はげに一個の巨大なスキャンダルなのだ。

政治学者たちの多くは、リパブリック(共和制)がモナキー(君主制)やアリストクラシー(貴族制)よりも勝る、と断言してもいる。これもデマである。どだい、リパブリックを「共和制」と訳すのはほとんど誤訳なのではないか。リパブリックには「共に和する」という意味は何もなく、むしろ「公民制」と訳されるのが適切である。そして公民には、イギリスがそうなっているように、自分らの国家象徴として君主制や歴史象徴としての貴族制を進んで戴く可能性が大いにあるのである。

フィロソファ・ルーラー(哲人支配者)の登場を期待する、などという空想話をここでしたいのではない。民衆の持つ公民性と大衆性の両面に着目せよ、といいたいだけのことだ。マス(大衆)というのは、大衆社会論の常套に従って、世論を典型とする社会のマス(大量)現象に自己の欲望・意見・行動を適応させていくような人間類型のことをさす。デモクラシーがマスクラシー(大衆政治)に滑り落ちていく勾配が次第に強くなっていく、それが近代二百余年の趨勢であった。

引用文(中江兆民1)参照。

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アテネについてのメモ

澤田典子『アテネ民主政』(講談社選書メチエ)の記事続き。

前431~前404年というペロポネソス戦争の年代はとにかく無条件で暗記するしかない。

開戦当初、ペリクレスはアテネ城壁内と長城で繋がれたピラエウス港に全住民が籠城し持久する一方、優勢な海軍でスパルタ勢力圏を攻撃するという作戦を実行するが、前430年に疫病が発生、多数の死者を出した上、前429年にはペリクレスも倒れ死去。

以後のアテネ政局は最低最悪のデマゴーグである好戦派クレオンと穏健中正な和平派ニキアスが対峙する情勢となる。

本書ではトゥキュディデスの記すクレオンへの悪評は必ずしも公平ではない可能性があるとも書かれているが、個人的には何と言ってもこの人物への嫌悪と軽蔑は到底拭えない。

民主主義に必然的に巣食うダニとでも言うか、とにかく唾棄すべき人物という印象しかない。

無思慮で卑劣で、優れた人々を誹謗中傷するのを事とし、ただ民衆の低劣な欲求に媚び、威勢がいいことだけが取り柄のこの人物がたまたまペロポネソス半島南西部ピュロスでの攻防戦で、アテネの名将デモステネス(有名な弁論家・政治家と同名異人)と協力してかその功績を奪ってかはわからないが、たまたま勝利を収める。

馬鹿が調子に乗って、続けてトラキア方面アンフィポリスへ遠征するが、スパルタの名将ブラシダスと激突し、両者とも戦死。

トゥキュディデスを読んでいて、この部分では手を叩きたくなりましたよ。

クレオンがうまい具合に死んでくれたので、開戦からちょうど十年目の前421年ニキアス主導でアテネ・スパルタ間の和平条約が結ばれる(「ニキアスの和」)。

ここで冷静さを取り戻していればアテネも救われたかもしれないのですが、やがて若手の人気政治家アルキビアデスが再び過激な好戦論を主張し、それに煽られた民衆が戦争再開に向かう。

このアルキビアデスはソクラテスに愛された弟子ですが、実際の行動は滅茶苦茶で、本当にひどい弟子もあったもんです。

「人民政治の時代における荒淫、傲慢、圧制の権化」(クセノフォン『ソクラテスの思い出』一巻二章)という言葉が本書で紹介されているが、その通りとしか言い様がない。

前415~413年大軍をもってシチリア遠征が行われるが、主唱者のアルキビアデスは罪を得てあろうことか敵国スパルタに逃亡、指揮を執ったニキアスは不幸にして利あらず遠征軍もろとも現地で死亡。

もうこの辺からアテネはガタガタです。

以後スパルタも追われたアルキビアデスがアテネに復帰して一時戦況を盛り返したりもしましたが、結局前404年アテネは完敗、アルキビアデスは暗殺。

戦後スパルタの後押しで「三〇人僭主」と言われる寡頭政権が樹立されるが、これが恐怖政治を敷いた末、打倒され民主政が復活。

前399年ソクラテスが刑死してますが、これは「三〇人僭主」の主導者がソクラテスの弟子だったことで、その報復行為の可能性があるそうです。

別の本ではソクラテスはむしろ「三〇人僭主」の暴政を批判していたと書かれているのを読んだ記憶があるが、民主政再興後、逆恨みで裁判にかけられたらしい。

なお、また重箱の隅をつつくような話で恐縮ですが、『世界史年代ワンフレーズnew』で「前399年ソクラテス自殺」とあって、確かに逃亡できたのに自ら毒を仰いだのだから自殺でいいのかもしれませんが、国法に従って刑を受けたという意味ではやはり刑死とすべきではないかと・・・・・。

田中美知太郎氏が「自殺」と書いた研究者に驚いて注意を促したというような文章を以前読んだ記憶があるものですから・・・・・。

閑話休題。

寡頭政権打倒にあたって最も大きな役割を果したのはトラシュブロス。

「民主政の復興者」というと非常に良いイメージがあるし、私も以前トゥキュディデスの末尾にちょっとだけ名前が出てきた時そう思っていたが、本書ではやや気になる記述が。

アテネ敗北直前、前406年にアルギヌサイ海戦という戦いがあったが、そこでアテネ海軍は勝利したものの嵐により海に落ちた生存者の救助と戦死者の遺体回収ができなかった。

不可抗力にも関わらず、それに激昂した民衆が軍を指揮したストラテゴスたちを裁判にかけ無残に処刑。

処刑された中にはペリクレスの同名の息子小ペリクレスも含まれる。

アテネ民主政が衆愚政に転落していたことを表す最も有名な事例の一つとして知られ、ソクラテスも当時民衆を批判し諫めたが、このアルギヌサイ裁判の告発人の一人がトラシュブロスだったという。

実際の裁判中のトラシュブロスの役割は不明とも書かれているが、正直かなりイメージダウンではある。

ペロポネソス戦争末期にスパルタを支援したペルシアが、戦後はアテネ・テーベ・コリント・アルゴスの反スパルタ同盟を後押しし、前395年コリント戦争勃発。

紆余曲折の末、ペルシアが再び親スパルタ政策に戻り、前386年「大王の和約」で戦争終結、ギリシアにおけるスパルタの優位が継続。

この時期アテネではトラシュブロスの他、コノンらが活躍。

379年テーベがアテネと同盟、スパルタに反旗を翻す。

377年デロス同盟に続くという意味でそう呼ばれる「第2次アテネ海上同盟」樹立。

アテネ政界の主役はイフィクラテス、カリストラトス、カブリアス、ティモテオスら。

これらの人物をめぐる政治グループの離合集散が記されているが、さすがに面倒なので省略。

以後エパミノンダス、ペロピダスの優れた指導者二人を擁するテーベが台頭するのは教科書通り。

371年レウクトラの戦い、テーベがスパルタに圧勝、これをみてアテネは反テーベ陣営に鞍替え。

364年ペロピダス死去、362年マンティネイアの戦いでテーベがアテネ・スパルタ連合軍に勝利するが、エパミノンダスも戦死、テーベは没落に向かう。

前360年代はアテネ海上覇権復活の時代となるが、デロス同盟と同じく、357~355年の同盟市戦争で各ポリスの離反が相次ぎ、崩壊。

360年にマケドニアでフィリッポス2世即位、デモステネスが反マケドニア戦線を構築しようとするが、338年カイロネイアの戦いでギリシアはマケドニアの支配下に入り、古典期はヘレニズム期に移行する。

中身が極めて濃い。

前の記事で書いたように著者の視点にやや疑問を感じるときもあるが、具体的史実の記述はそれを補って余りある素晴らしさ。

借りてもいいが、できれば買って是非手元に置いておきたい。

説明がわかりやすく、記述が明解、曖昧さがほとんど無い、地図・系図が豊富かつ適切、と欠点が極めて少ない。

良質な啓蒙書として大いにお勧め致します。

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澤田典子 『アテネ民主政  命をかけた八人の政治家』 (講談社選書メチエ)

紀元前508年クレイステネスの改革から前322年アレクサンドロス大王死後の反乱鎮圧まで、約180年間のアテネ民主政の歴史を人物中心に叙述したもの。

副題の「八人」は、ミルティアデス・テミストクレス・キモン・ペリクレス・クレオン・トラシュブロス・イフィクラテス・デモステネス。

以上のうち高校世界史で出てくるのはテミストクレス・ペリクレス・デモステネス、それに何とか名前の出るミルティアデスを加えて、やっと半分の4人か。

本書の基本的視座は、古代ギリシアにおいて「稀有な息の長さと安定度と徹底さを誇った」アテネ民主政を改めて評価するもの。

しかし具体的叙述を読んでいくと、こういう制度を果たして肯定的に評価すべきなのかなあと疑問に感じる。

むしろ人類史上最初の民主主義の実験であるアテネにおいて既に、民主政というものがありとあらゆる愚行と醜態と惨状を晒しており、だからこそプラトンがそれに対する嫌悪と軽蔑から政治哲学をはじめたと言われた方がしっくりくる。

著者はそんなことを百も承知で書かれているのであろうし、仮にも専門家に無知な素人の私が文句をつけるのは噴飯ものだというのは認めますが、正直どうも一部に違和感を感じるところがあったと言わざるを得ません。

とは言え、この本における具体的叙述の価値は極めて高い。

著者は本書を概説・通史ではないとしているが、初心者にとっては普通にそのように使うのが一番適切で効用が高い。

世界史全集の中の該当巻を除けば、古代ギリシア史は意外と適当な本が少ないのだが、本書はその稀な例外となっている。

特にペロポネソス戦争終結からマケドニアの覇権確立までのアテネ・ギリシア史は類書が全くといってよいほど無く、各種全集でも省略されている場合がほとんど。

その中で本書後半部の記述はこの上なく貴重なものとなっている。

巻頭にあるギリシア主要部地図や適時挿入される該当部地図も見やすくて適切。

本文に出てくる地名はほとんどフォローできている。

(そんなの当たり前じゃないかと言われるかもしれませんが、その当たり前ができていない歴史書が本当に多いです。)

地理的なことを少し確認すると、バルカンから陸地が南へ狭まっていく途中にあるのがテーベ、さらに南下してアテネ、そこから西側にわずかな地峡で瘤みたいに繋がっているのがペロポネソス半島、そこの南側内陸部にあるのがスパルタ、地峡にあるのがコリント。

以上四つの最重要ポリスの位置だけまず確認。

島嶼名などでは、小アジア沿岸にある島々が北から順に、レムノス・レスボス・キオス・サモス・ロードス、ギリシアと小アジアの間にあるキクラデス諸島のナクソス・デロス、バルカンにあるケルソネソス、カルキディケ両半島など。

以上他の地名を本文を読みながら追い追い憶えていく。

その際「面倒くさい」という気持ちは敵だと覚悟を決めて、何度でも地図を見ることを意識してやった方が良い。

制度上の予備知識としてアテネの最高職であるアルコンまでが、前487年より抽選制となったため、例外的に選挙制で重任・再任可能な軍事職のストラテゴス(将軍職)が重みを増したという冒頭の記述のみ、要チェック。

まずペルシア戦争開始年の前500年をすべての基準として真っ先に憶える。

この年は憶えやす過ぎる年だが、そこから二度のギリシア本土へのペルシア軍来寇が10年ごとと記憶。

前490年がマラトンの戦い、前480年がサラミスの海戦。

サラミスの翌年前479年がプラタイアの戦い、と三大戦闘をこれで記憶。

登場人物のうち、教科書には載っていなくて用語集の説明で出てくるレベルのミルティアデスを、まずマラトンの勝利者として強烈に印象付ける。

アテネが開拓したケルソネソスの僭主、ダレイオス1世に従ってそのスキタイ遠征へも同行したが、ミレトス反乱への関与を疑われペルシアに追われる身となり、アテネへ帰国、マラトンで大勝利をもたらす。

ミルティアデスはペルシア撃退後、ギリシアの他地方への遠征を主張して失敗し失脚、その後台頭してアテネの政権を担ったのがその子キモン。

ミルティアデス・キモン親子の家系がキモン家。

改革者クレイステネスの姪がクサンティッポスと結婚、その両者から生れたのが有名なペリクレス、この家系はアルクメオン家。

サラミスの勝者テミストクレスは門閥には属さない。

この時期のアテネ政界に活躍した大貴族としてもう一つ、カリアス家があるが、テミストクレスのライバルであるアリステイデスはこの家の縁戚(このアリステイデスはプルタルコスを読むと好意と敬意を抱かずにはおれません)。

以上の政治家では、普通ミルティアデス・キモン・アリステイデスが貴族派、クサンティッポス、テミストクレス、ペリクレスが民主派とされている。

しかし著者によると、当時のアテネでは対ペルシア、対スパルタに関する対外政策についての対立は確かに存在したが、国内制度上の「貴族派」・「民主派」といったような明確な対立軸は無かったとして、上記の区分が後世の目から見た、恣意的なものである可能性が高いとしている。

しかし、初心者が人物の大体のイメージをつかむために、上記の色分けを知っておいてもいいと思います。

今日はとりあえずここまで。

ペロポネソス戦争以後は続きます。

(追記:続きは以下

アテネについてのメモ

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塩野七生 『わが友マキアヴェッリ  フィレンツェ存亡  3』 (新潮文庫)

1巻2巻の記事続き。

第3部「マキアヴェッリは、なにを考えたか」、著作執筆時代を叙述。

この時期の西欧は絶対君主の下、中央集権的体制を採る領土国家が台頭、フィレンツェのような都市国家は徐々に頽勢に向かう。

1516年スペイン王カルロス1世即位、1519年にはカルロスが神聖ローマ皇帝カール5世となり、スペイン・オーストリアがハプスブルク家統治下に。

1515年仏王ルイ12世死去、フランソワ1世即位。

1509年には英王ヘンリ8世が登位している。

ちなみに1517年にはルターの95ヵ条の論題、同年オスマン帝国がエジプト征服、1520年スレイマン1世即位。

マキャヴェリはこれら大国に対抗するために独自のイタリア統一構想を抱く。

ただしそれは現在のイタリア領土の範囲ではなく、まず独立性の極めて強いヴェネツィアを除外、またミラノなどロンバルディアへのフランスの野心、ナポリにおけるスペインの勢力を考慮してこれらの地域も外し、一先ず中部イタリア統一を目指すもの。

1514年『君主論』、1517年『政略論』、1518年喜劇『マンドラーゴラ』、1520年『戦略論』執筆、この年からメディチ家との関係が好転し、その依頼を受けて書いた『フィレンツェ史』が1525年完成。

1521年レオ10世死、22年ハドリアヌス6世を挟んで、1523~34年教皇位はレオのいとこ、もう一人のメディチ家出身者クレメンス7世に。

前巻、前々巻でも見た通り、16世紀に入ってからのイタリアは、ミラノ・ジェノヴァを勢力圏とするフランスと、ナポリ・シチリアを拠点とするスペインが覇権を争う情勢。

1525年パヴィアの戦い、フランソワ1世率いる仏軍と、仏からスペインに寝返ったシャルル・ド・ブルボン指揮のスペイン軍が激突、スペイン大勝、フランソワ1世捕虜に。

この結果、ミラノにスフォルツァ家が復帰するが、スフォルツァが反カルロス行動を企てると、スペイン軍はミラノ包囲。

1526年フランソワ釈放、同年コニャック同盟締結、仏・教皇・ヴェネツィア・フィレンツェ・ミラノ・ジェノヴァ・英が参加する広範な反スペイン・皇帝同盟。

だが各国の思惑がバラバラで同盟は機能せず、ルター派プロテスタント兵を主力とする皇帝軍が南下。

メディチ家の分家筋と女傑カテリーナ・スフォルツァとの間の子、ジョヴァンニ・デ・メディチなどが軍を指揮するが、教皇クレメンス7世は決断力に欠け戦機を完全に逸する。

(本書ではクレメンスに対して相当厳しいことが書かれている。)

ミラノは降伏・開城、ジョヴァンニは戦傷死。

1527年に皇帝軍はローマ包囲、攻城戦で司令官シャルル・ド・ブルボンは戦死するが、皇帝軍は防衛線を突破してローマ市内に乱入。

史上「サッコ・ディ・ローマ(ローマ劫掠)」と呼ばれ、イタリア・ルネサンスの終焉を象徴する出来事。

メディチ教皇と一体化していたフィレンツェでは再度メディチ家追放、マキャヴェリはこの時の公職復帰に望みをかけるが、浪人時代の態度が親メディチと判断され、国会で書記官選出反対が多数票を占める。

マキャヴェリは失意の内に同年死去。

1526年モハーチの戦い、1529年第1回ウィーン包囲でオーストリア・ハプスブルク帝国はバルカンの脇腹からオスマン朝の脅威を受ける。

1529年クレメンスとカルロスの講和。

イタリアでのスペインの覇権が確立。

講和の条件としてカルロスがメディチ家の復帰を支援し、1530年クレメンスの私生児とも言われるアレッサンドロがフィレンツェ公となり共和国滅亡。

1534年クレメンス死去、パウルス3世即位、1545年トレント公会議開始、反宗教改革時代、ルネサンスの中心はアルプス以北の西欧諸国へ。

1537年上記ジョヴァンニの子コジモがフィレンツェ公を継ぎ、1569年トスカナ大公国成立、コジモが大公就任、フィレンツェはトスカナの単なる首府となる。

スペインがブルボン朝に替わった後、イタリアはオーストリアの覇権下となり、それが19世紀半ばイタリア統一戦争時代まで続く、と。

とにかく読みやすいことは間違いない。

分量を全く気にせず、驚くほどスラスラ読める。

しかし塩野氏の著作を何でも手当たり次第に読みたい、あるいは他人に薦めたいとは思えなくなって久しいし、まして月刊『文芸春秋』などのエッセイで現在の諸問題についての著者の御託宣を有難がって盲信するといった心情からは遥かに隔たっている。

本書自体はそれなりに面白く役に立つとは思うが、是非にと強く薦める気にもなりません。

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塩野七生 『わが友マキアヴェッリ  フィレンツェ存亡  2』 (新潮文庫)

1巻の続き。

この巻は第2部「マキアヴェッリは、なにをしたか」収録で、マキャヴェリの官僚・政治家としての活動を記す。

マキャヴェリの公職時代は1498年サヴォナローラ破滅から1512年メディチ家復帰まで。

共和国第二書記局書記官に就任、他に大統領付秘書官などの役職にも就く。

この時期のフィレンツェ共和国は、サヴォナローラ時代の親仏政策とイタリア内の孤立化状態を清算できず。

1498年仏王シャルル8世死去、ルイ12世即位、婚姻関係からナポリだけでなくミラノの継承権も主張し、ミラノも反仏政策に転換。

1499年仏軍がミラノ入城。

フィレンツェは1500年ピサ奪回に失敗。

この頃教皇アレクサンデル6世の息子チェーザレ・ボルジアが仏の後援を得て教皇領内ながら半独立の領主の多かったロマーニャ地方を次々と征服、中央集権化を進める。

このチェーザレ・ボルジアは明晰かつ果断で冷酷無比な専制君主として、マキャヴェリの『君主論』でも中心的に扱われている。

しかし1503年に教皇が死去するとチェーザレも没落、短期間のピウス3世を挟んで、後継教皇にはボルジア家のライバル、ジュリアーノ・デラ・ローヴェレがユリウス2世として即位。

フィレンツェでは1502年終身大統領にピエロ・ソデリーニが選出・就任、国制改革を進める。

傭兵制度に強い批判を持つマキャヴェリが中心となって、周辺農村から徴兵した国民軍を創設、その力で1509年ピサ再領有に成功。

1508年ヴェネツィアの外交失敗から教皇・皇帝・スペイン・フランスすべてが参加した反ヴェネツィアのカンブレー同盟結成。

1509年アニャネッロの戦いでフランス軍がヴェネツィアに大勝、北イタリアを制圧。

1510年フランスの優位に不安を感じたユリウス2世が同盟から脱落、翌11年にはヴェネツィア・皇帝・スペインと共に反仏神聖同盟結成。

1512年ラヴェンナの戦いで再度仏軍が勝利するが総司令官が戦死、ルイ12世は軍をミラノに撤退させ勝機を逸す。

敗北したスペイン軍の残兵をメディチ家が利用し、フィレンツェに圧力をかける。

そうこうしているうちに、フィレンツェ内部で親メディチ・クーデタが発生、政権崩壊、ソデリーニは逃亡、同1512年メディチ家が復帰。

当時のメディチ家は、ロレンツォの子ピエロはすでに亡く、ピエロの弟ジョヴァンニ枢機卿の時代。

マキャヴェリも免職・追放され、直後に反メディチ・クーデタ未遂に関与した疑いを持たれて一時投獄される。

翌1513年ユリウス2世死去、ジョヴァンニが教皇に即位、これが史上有名なレオ10世。

塚本哲也『メッテルニヒ』(文芸春秋)で、「高校世界史レベルで何となくイメージの悪い人」を取り上げましたが、贖宥状を乱発してルターの宗教改革を誘発したとされるこのレオ10世を忘れてましたね。

この人も感じの悪さでは相当なもの。

ただし、塩野氏の『神の代理人』(中公文庫)ではルターの「狂信」に批判的な、ルネサンス文化の良き理解者といった感の描写でしたね。

メディチ家教皇誕生で沸くフィレンツェで、マキャヴェリも大赦で出獄。

この巻はここまで。

極めて読みやすいのは前巻と同じ。

しかし第1巻に載っていた地図が無いのは不便。

三分冊になったんだからやはり各巻に入れて欲しい。

当時のイタリアの、相当細かな政治情勢をスラスラ読ませて理解させる文章力はさすがに認めざるを得ない。

しかし何を差し置いても強く勧めるといった気分になれないのも事実。

とりあえず第3巻に進みます。

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