« 2011年センター試験について | トップページ | 伊藤博文についてのメモ その1 »

瀧井一博 『伊藤博文  知の政治家』 (中公新書)

2010年4月刊。

確か去年サントリー学芸賞を受賞した本。

同じ著者の『文明史のなかの明治憲法』(講談社選書メチエ)の名は聞いたことがあるが、未読。

新書にしては相当分厚いが、単行本の伊藤之雄『伊藤博文 近代日本を創った男』(講談社)ほどではない。

この本と本書では視点を同じくする部分が多い。

目次で各章名を見ると、第1章「文明との出会い」、第2章「立憲国家構想」、第3章「1899年の憲法行脚」、第4章「知の結社としての立憲政友会」、第5章「明治国制の確立――1907年の憲法改革」、第6章「清末改革と伊藤博文」、第7章「韓国統監の“ヤヌス”の顔」とあるように、最後の二章を除いては立憲政治確立のための内政面での働きに常に重点が置かれている。

その主題に沿わない事項についてはバッサリ省略。

例えば、第2次伊藤内閣(1892~96年)時の日清戦争については、驚くほど記述が無く、実質ゼロに等しい。

しかし伊藤のすべての活動面を拾っていったら、この厚さの新書で3分冊、4分冊になっても足りないだろうし、上記伊藤之雄氏の伝記と同じになる。

読み終えてみると、一つのテーマを軸に全編通したのは正解じゃないでしょうかという気になった。

実際に本文に入ると、第1章で幕末から明治初年にかけてをあっさり済ませてくれているのは助かる。

この辺苦手なんですよ。

むしろその分しっかり読んで把握しなければならないのはわかってますが、伊藤氏の本みたいにあんまり長々やられるとその時点で挫折しそうになります。

第2章以降で日本に立憲政治と議会主義を根付かせるための伊藤の奮闘を描く。

まずは本文をじっくり読みながら、以下のような超重要事項の年代を記憶し、その前後関係でその他の出来事の時期を捉えるという作業を地道にやっていきましょう。

1868年明治改元、1871年廃藩置県、同年岩倉使節団派遣、1873年征韓論政変、1877年西南戦争、1881年明治十四年政変、1882~83年憲法調査渡欧(シュタインに学ぶ)、1885年初代内閣総理大臣、1888年首相辞任、枢密院初代議長、1889年大日本帝国憲法。

この辺の本書の記述を読んで思うことを言うと、「天皇主権の欽定憲法作成者の伊藤が、実はこんなに民主的で近代的な考えの持ち主だったんですよー」という叙述のコンセプトはわかるが、個人的にはそうした論旨では大した感銘は受けない。

むしろ「民主主義と近代主義の先にとんでもない落とし穴が待ち受けているのをしっかり認識して、こういう留保や予防措置を採ってたんですよー」というようなことを書いてもらった方が何十倍も感心するが、残念ながら本書からはそうした面はあまり感じ取れない。

14ページにおいて、伊藤が津田梅子に「アメリカを知る最良の本」としてトクヴィル『アメリカのデモクラシー』を薦めたというエピソードが載っていることから判断しても、伊藤が上記のような認識を持っていたと十分思えるのですが。

このエピソードは本書の末尾で著者も改めて触れていて、トクヴィルはデモクラシーの不可避性を認識しつつ、それが民衆に与える精神面での影響をネガティヴに捉えていたとはっきり書いてあるのに、それに対する伊藤の対応として漸進主義と実用主義を挙げるだけであっさり済まされてるのは隔靴掻痒の感が否めない。

これを、著者があえて深く触れなかったゆえと判断するか、それとも無条件的明治礼讃を事とする政治的右派と違った保守派の人々がいうように、そもそも明治の指導者に進歩主義に対する根本的懐疑が欠けていたと見なすべきなのか。

どの途、私ごときが判定するには問題が大き過ぎますので、この話はこれまで。

第3章、第4章辺りの話として、1898年に第3次伊藤内閣成立、自由・進歩両党合併→憲政党成立、隈板内閣(第1次大隈内閣)、第2次山県内閣成立という激しい動きがあった後、1900年旧自由党系の憲政党を中心に伊藤を総裁とした立憲政友会結成という流れをチェック。

著者は、政友会という党名に着目。

文字通り政友「会」であり、利益誘導と猟官と党争に明け暮れたこれまでの政党と一線を画し、国民統合・人材育成の組織およびシンクタンクとなることを期待しての命名だとしている。

同1900年第4次伊藤内閣ができるが、これは実質政友会単独内閣。

外相加藤高明、陸相桂太郎、海相山本権兵衛以外の閣僚は政友会党員。

政党内閣というと、隈板内閣と原敬内閣(1918~21年)がすぐ思い浮かぶが、本書ではこの第4次伊藤内閣も実質政党内閣だとしている。

話が全く逸れますが、上記で原敬内閣の存続年代を書いてふと思ったんですが、1919年韓国の三・一独立運動は原敬内閣時代に起ったんですよね。

教科書でバラバラで出てくるから普段は意識しない。

「平民宰相」の本格的政党内閣と三・一運動鎮圧は表面的イメージではあまり結びつかない。

まあその結果「文化政治」政策に転換したんだから、その意味ではイメージ通りか。

やっぱり一個の記事じゃ終わりませんわ。

続きます。

(追記:続きは以下

伊藤博文についてのメモ その1

伊藤博文についてのメモ その2

|

« 2011年センター試験について | トップページ | 伊藤博文についてのメモ その1 »

近代日本」カテゴリの記事