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ルイ16世についてのメモ その1

ベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』(祥伝社)の記事続き。

この頃、世論の中で王妃マリー・アントワネットの悪評が広まる。

本書でも、よく言われる浪費癖など、王妃にとって不名誉な事実が隠されているわけではない。

しかしそれを勘案しても、当時の世論における悪意の高まりは明らかに常軌を逸しており、狂的な異様さを感じる。

「絶対王政」という政体名からくるイメージとは全く異なり、王妃や王に対する下劣な誹謗中傷が卑しい民衆の「娯楽」として公認されていたかのような状態である。

恥辱的な風刺文やパンフレット、悪意のこもった歌のハミングは王妃の私生活を攻撃してやまなかった。姦通だの、乱交だの、同性愛だの、近親相姦だのが口の端にのぼった。この外国女の淫奔さを非難して回った。背徳的な放埓で、王室の褥を汚したというのだ。幻想を膨らませる的として、また性的禁忌の違反を責められる的として、彼女はそうしたものを禁じられている人々にとって、恰好のはけ口となった。・・・・・王妃はあらゆる悪徳の、貴族社会のあらゆる欠陥の象徴となってしまったのだった。この憎悪には、外国人嫌いとナショナリズムが、当然のように含まれていた。(ジャン・クリスチャン・プティフィス『ルイ16世 上巻』

上辺だけモラリストの仮面を被った匿名の民衆世論が自らの底無しの卑しさと下劣さを棚に上げ、ただその攻撃欲を満足させるという目的のためだけに、社会の上層部に対して理不尽な非難を加え続ける。

世論の中心には、とりわけ国民の最下層の人々のあいだには、異端審問官のような、道徳を説くことを好む風潮があった。おそらくジャンセニスト的な鋳型から生まれたこの風潮は、おそらくは革命下で、粛清をこととするピューリタニズムを、「清廉潔白な者たち」、つまりあの「善」の騎士たちの出現を、そしてギロチンの出現を予告するものであった。

人々は清い魂と善良な人間の役を演じていた。ありとあらゆる憤慨の言葉が口にされ、不品行、高位にある者たちの、いわゆる不品行を詰り、人々は彼らの頽廃ぶりに立腹したふうを装った。その実、彼らに関する好色な、もしくは猥褻な記事や、ポルノグラフィックな戯画を、楽しんでいたのである。

善良なルイ16世の治下、すでに行進を始めていた美徳は、恐怖(テルール)の序文を書きつつあったのだ・・・・・。(『同上』)

歯止めが効かず、ますます過激化する世論の標的は、最も注目を浴び逃れようの無い君主一家へ向かう。

こうした王妃に対する憎悪の高まりの中では、無頓着な彼女の、ほんの小さな軽率さ、媚態が鬼畜のごとき犯罪になり、女友達との無垢な友情がレズビアンとみなされてしまう。そして、何気ない言葉が皮肉たっぷりに歪曲され、彼女に跳ね返ってくるのだ。フーキエ・タンヴィル[革命裁判所検事]の前に出る前に、王妃はすでに、贖罪の生贄として民衆に提供されていた。そこでは、醜悪で狡猾なさまざまな問いが噴出した。

中傷、誹謗の恐るべき力、それは、今日、メディアを通じて著名人に襲いかかるときどれほどの効果を発揮するか誰もがよく知っているが、そうした力に、王妃と王は怯えていくことになる。それは獲物を捕らえて放さない地獄の罠である。興奮状態があるレヴェルにまで達すると、世論という法廷は荒れ狂い、熱狂と欲動を結晶させ、著名人に向かって社会的制裁を集中させる。

こうなってしまうと、その人間がたとえ何を言っても、また無実を叫び、それを証明するために、たとえどんなことをしても無駄で、ますます深みにはまり身動きが取れなくなってしまう。それはまるで罠にかかってもがき暴れる動物と同じで、人々はそれが死にいたるのを待っているのである(『同上』)

こうした雰囲気が生み出す、責任感と自己懐疑に一切欠けた、卑怯・愚劣な他罰主義的精神態度が、急進的社会変革への狂信とそのための暴力の正当化に結びつくのは容易に想像がつく。

しかし無制限の自由が予定調和的に進歩をもたらすと盲信した知識人と、それを盲信したふりをして実際上の利益を得る地下パンフレットの製作者などには、そんなことを言っても一切通じない。

「ブルジョワ的公共空間」の周辺では、教養がなく粗暴だといわれた下層民たちが、独自の記号、煽動的な風聞、「下品な言説」によって、調整役にも倫理にも欠いた不安定な域圏を作り出していた。嘘や中傷、偽りの噂は策動家や出版元を喜ばせ、真面目で客観的な情報と混じり合うことになった。ブルジョワと下層民の二つの域圏は、今のところは重なり合うことも対立することもないまま、権力に関する二とおりの見解、国民の二つの代表、二つの合法性の兆しを宿していた。この二つの合法性は、やがて革命のさなかに、下層民の言説を組織化したジャコバン主義が人民の名において語り始めたときに、周知のとおりの激しさでぶつかり合うことになる。(『同上』)

「専制政府」に対し啓蒙思想を説く「言論の自由」を擁護した「高尚な」人々は、同時に自分たちがどれほど卑しく恐ろしい獣を解き放ったのかを理解しなかった。

しかし上記の通り、いずれそのことを嫌というほど思い知ることになる。

この時期のフランスだけでなく、どの時期のどんな国でも、文明がある程度を越えて進んでしまい以下のような状態に達すると、何をしても止めようが無く、どんな救いもありえないようになるんでしょうね。

・・・・ヴィーコの歴史の見方は、各民族が原始社会から始まって万人平等の民主的な文明社会にいたるまで段階的に進歩・発展を遂げてゆく進歩史観の一つと思われるかもしれない。しかし、ヴィーコの歴史観のユニークな点は、すでに少し述べておいたように、こうして第三段階の民主的な文明社会に到達した民族が、ふたたび第一段階の原始状態に引き戻されると説く点である。彼は、ギリシアもローマもエジプトもフランスなどの西欧民族も、いずれも上記の三段階を経て発展するが、最後には、停滞し没落して出発点の原始状態に「再帰」せしめられると考える。

では、なぜ、第三段階の民主的な文明社会にまで到達した各民族は、出発点に「再帰」を余儀なくされるのか。それは、要するに、どの民族も折角手に入れた自由を乱用して堕落し、無政府状態におちいるからである。人間とは、自由を手に入れれば、それを無政府的あるいは無制限的に行使し、骨の髄まで堕落してゆくのである。そして、贅沢・柔弱・貪欲・嫉妬・傲慢・虚栄といった自分で抑制できない情念の奴隷と化してゆく。あるいは、嘘つき・ペテン師・中傷家・泥棒・臆病者・偽善者などのありとあらゆる悪習にまみれ切ってしまう。

腐敗した民族は、各自がまるで野獣のように自分自身の個人的な利益のことしか考えない習慣におちいってしまう。しかも、極端に神経質になるために、まるで野獣のように、ほんのちょっと気に障ることがあると、腹を立てていきり立つであろう。精神においても意志においても、市民たちは、この上なく深い孤独のなかで、各自が自分自身の快楽や気まぐれにしたがって生きている。そして、たとえ二人の人間の間でも、ほとんど合意に達することは不可能になってしまう。こうしたことすべてのために、彼らは執拗きわまる党派争いと絶望的な内乱を惹き起こし、都市を森と化し、森を人間の巣窟と化してしまう野田宣雄『歴史をいかに学ぶか』

少し話を戻すと、この辺の記述を読んで痛感するのが、啓蒙思想に侵食された末期の「絶対王政」がその安定をいかに世論に依存していたか、反抗の兆しを見せ始めた世論に対しいかに脆弱だったかということ。

コーンハウザーなどが説くように、前近代的な権威主義的専制政治は、その権力行使において必ず一定の限界を持っている。

真に恐るべきなのは、人民主権の理念浸透、言論の自由、民衆の政治参加、社会の平等化が進んだ後に(決して「前に」ではなく)、大衆煽動によって増幅された民衆の狂信と愚劣さを基盤にして(断じて「少数の伝統的支配層の悪意や野心や驕慢ゆえに」ではなく)出現する独裁政治であり、それだけが言葉の本当の意味で全体主義と呼ばれるに値する。

このブログは政治的意見の宣伝のためにやっているわけではないので、もし何か自分と全く異なる政治的見解があれば、「なんじゃこりゃ」と無視して下さればいいのですが、それでも私がたとえほんのわずかな数であっても、同意してくれる人が増えて欲しいと思っているのは、上記のような認識だけです。

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