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フリードリヒ・A・ハイエク 『隷従への道  全体主義と自由』 (東京創元社)

第二次世界大戦末期、1944年に出た本。

主に引用文でハイエク、ハイエクと書いてるくせに(こことかこことか)、その著作は一冊も読んだことはなかった。

それはそれで情けないことではあるが、基本的に私には読めないレベルの著者なのでしょうがないかとも思っていた。

『自由の条件』や『法と立法と自由』などの大著はもちろん、最も一般向け著作と思われる本書ですら十数年前に読もうとして挫折していたくらい。

しかし今回なぜか読むべきかとの気分になり、手に取ってみた。

平等を志向する経済の計画化が自由を損なうことにより政治的独裁へと帰着することを主張したもの。

社会主義的要因以外の特殊なドイツ的要因が、全体主義をもたらしたと信ずることは誤りである。ドイツがイタリアおよびソ連と共通にもっていたものは、有力な社会主義的見解であって、プロイセン主義ではないのである。――そして国家社会主義は大衆から起ったのであり、プロイセンの伝統に浸り、その恩恵を受けた階級から起ったのではなかった。

本書においても、所々、自由放任的市場への留保が垣間見られないこともない。

ある大ざっぱな規則、特に自由放任の原則に関して、若干の自由主義者が行った融通のきかない主張ほど、自由主義を傷つけたものはおそらくないだろう。

反社会的特権の擁護に自由主義的文句を濫用する人々に対する当然のいらだち・・・・・

しかしその主旨はやはり以下の通りの見解となる。

大多数の人々が「原子的」な競争と中央指導との何か中間的なものを見出すことが可能であるに違いないと信じている。・・・・・われわれの目標は極端に分散的な自由競争でもなく、また単一計画による完全な中央集権化でもなくて、二つの方法の賢明なある混合物であるという思想ほど、一見してもっともらしく思われ、理性をそなえている人々に訴えるものはおそらくないであろう。しかし単なる常識がこの方面では当てにならぬ指針であることは明白である。・・・・・競争も中央指導もともにそれらが不完全である場合には貧しく無能力な要具となる。両者は同じ問題を解決するために用いられる択一的な原理であって、両者の混合はどちらも事実上作用せず、そしてその結果は、どちらかの体制が徹底的に貫かれるときよりも悪いということを意味している。

こんな風に言われても到底素直にうなずけるものではない。

市場というものを全面否定した社会変革運動が数千万人の犠牲者を出した人類史上最大の悲劇をもたらしたことはいくら強調してもし過ぎることのない教訓だとは思うが、かと言ってあらゆる場合において、どんな矛盾や弊害があろうとも、結局自由市場が最善の解答なんだと構えて突っ走っていくと、また「全能の国家介入」という狂信を招き寄せるだけじゃないんでしょうかという気分になる。

ナチス・ドイツ打倒における同盟国としてソ連の威信が最も高く、共産主義に同意しない人々もその多くが社会主義こそ「将来の波」と考えていた時期に出たことを考えると、知的勇気に満ちた立派な論争の書ということになるんでしょうが。

しかし少なくとも本書においてはハイエクにおける「隠れ保守主義者」の面はほとんど感じ取れません。

二十年近く前に通読していたら大いに納得・同意したであろう、本書の個人主義的・自由至上主義的・市場主義的考え方が、今となってはただひたすら疎ましい。

自分も世の中も随分変わりました。

むしろ副次的で主要論点から外れた記述が心に残ったりする(また例によって単独の引用文記事を近日中に挙げます)。

読みやすい参考文献は西部邁『経済倫理学序説』間宮陽介『ケインズとハイエク』など。

加えて、かなり骨が折れますが、教条的市場主義への「解毒剤」として、カール・ポラニー『大転換』(東洋経済新報社)でも読みますか。

同じ市場原理主義・リバタリアニズム批判で遥かに読みやすい本では、荒井一博『自由だけではなぜいけないのか』(講談社選書メチエ)を強くお勧めします。

これは私程度の読者でも十分通読できます。

しかし「社会主義」という言葉に決定的な負のイメージが付く一方、リバタリアン的言説が最も原初的で低劣な利己主義肯定のための屁理屈に使われている世間の風潮を考えると、今是非とも読まなきゃいけない本かなあと疑問に感じる。

私としては強くお勧めはしません。

・・・・・若干の与って力ある要因が集産主義の党派的、排他的となる傾向を強める。これらのうちで最も重要な一つのことは、個人が自分自身を集団と同一化しようとする欲求がしばしば劣等感の結果であり、したがって個人の欲望は集団の団員であることが、局外者よりもある優越感を与えるときにのみ満たされるということである。時とすると、集団の内部において曲げなくてはならぬ個人の激しい本能も、局外者に対する共同行動においては自由に発揮できるということが、個人を集団のなかへ飛び込ませるにいたるものと思われる。ラインホルド・ニーバーの『道徳的な個人と不道徳な社会』という書名には深い真理がある。――われわれは彼の命題から引き出される結論にしたがうことはほとんどできないが。実際彼がどこかで述べているように、「近代人の間には自分自身を道徳的であると考える傾向が強くなっている。というのは、彼らは自分の不道徳をますます多く集団に押しやっているからである」。集団のために働くということは、集団内における人々の、個人としての行動を支配する多くの道徳的拘束から、人々を解放するかのように思われる。

ピーター・ドラッカーは「新しい自由について語られることが多ければ多いほど、そこには自由がますます少ない」ことを正しく認めている。「しかしこの新しい自由はヨーロッパが自由について理解していたすべてのことのまったくの矛盾を覆い隠す単なる言葉にすぎない・・・・・、ヨーロッパにおいて説かれている新しい自由は、個人を不利にする多数の権利である」。

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