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坂野潤治 『日本政治「失敗」の研究』 (講談社学術文庫)

『自由と平等の昭和史』『明治維新 1858-1881』に続く坂野氏の本。

戦前昭和期における史実の整理・解釈と、政権交代・二大政党制・社会民主主義勢力の復権など、21世紀初頭の日本政治の課題とを常に対比しながら論じる。

紹介部の序章は飛ばして、まず第一章「敗者の栄光―日本の社会民主主義」。

本書全体の論旨を示す、以下の文章がある。

著者の立場は・・・・・いわば「敗け組史観」とでもいうもので、ここ十数年にわたって著者の歴史分析を貫いてきた視点である。日本の近代政治史を、各時代における「勝ち組」を積み上げて見ていけば、保守派全盛の近代史像しか出てこない。天皇制絶対主義や超国家主義の歴史がそれである。しかるに各時代ごとにその渦中に身を置いて歴史を描き直せば、結果としての「敗け組」も、相当いい線までいっていたことが分かってくる。「国家主義者」や「超国家主義者」に対抗して、自由主義者も民主主義者も社会民主主義者も、結構善戦していたのである。彼らは存在していなかったのではなく、善戦空しく敗退しただけである。

こうした「敗け組」の歴史をつなげていけば、明治維新から太平洋戦争にいたる約70年の「伝統」は「天皇を中心にした神の国」(森元首相)の「伝統」だけではなくなる。・・・・・

[しかし]それぞれの時点で日本の民主化につとめた人々が、自己に先行する民主主義者の努力に全く関心を払わなかったのである。彼らは「民主化」にはつとめたが「民主主義の伝統化」には全くつとめなかったのである。

第二章「天皇制と共産主義に抗して―吉野作造」。

吉野作造の民本主義がプロレタリア独裁と共産主義には断固反対しつつ、社会民主主義には近いものであったことを記述。

自由民主主義者としての吉野に一貫していたのは、硬直した国体論に立つ藩閥・官僚・軍部などの勢力との戦いと共に政党勢力の中での政友会一党優位体制への批判。

1900年結成の政友会は、1924年護憲三派内閣成立までの24年間でわずか2年間を除き、衆議院第一党の地位を占め、同じ期間内閣の与党もしくは準与党でありつづけたとの指摘がある。

1898年板垣自由党と大隈進歩党が合併して憲政党ができるが、同年即破綻、大隈派が憲政本党として分離。

残部の憲政党が伊藤博文と政友会結成。

これに対抗するのが元老・枢密院・貴族院・軍部の権威主義勢力。

政党勢力主流の政友会と権威主義勢力が交替で政権に就いたのが、1906年以降の「桂園時代」。

(今、ふと思ったんですが、その割には西園寺内閣のことは普通政党内閣とは言いませんね。何でだろ?政党員の閣僚が少なかったから?)

その末期、第3次桂太郎内閣で、1910年立憲国民党と改称していた政党勢力非主流派の旧憲政本党を中心に桂が1913年結成したのが立憲同志会(ただし同志会への合流を拒否した犬養毅を中心に立憲国民党自体は存続。22年革新倶楽部へ改組)。

これは保守的な藩閥(とはもうこの時期には言わないのか。しかし教科書で見た覚えはあるからやはりこれでいいのか。)・権威主義勢力が作った政党にも関わらず、吉野は二大政党制確立の観点から歓迎。

大正政変で桂退陣、後任で政友会を与党とする第1次山本権兵衛内閣が1914年シーメンス事件で倒れると、続く第2次大隈内閣を元老・陸軍が推す内閣にも拘わらず吉野は支持。

1916年寺内正毅超然内閣成立に当たっても、政権奪取を試みない政友会を批判。

吉野は一貫して政友会に厳しく、立憲同志会とそれに続き加藤高明を中心に1916年に結成された憲政会に期待をかけ続ける。

そして実際、大正末年から、最初権威主義勢力の肝煎りで作られた同志会=憲政会が進歩的勢力となり昭和に入り民政党を結成、それに対して政友会は保守化するという逆転現象が見られるようになる。

この章の他の内容としては、吉野の民本主義と美濃部達吉の天皇機関説の対比について。

吉野が「政治論」として天皇主権をあっさり認めたのに対し、美濃部は「法律論」から国家主権説と天皇機関説という「解釈改憲」を編み出す。

しかし美濃部の「解釈改憲」では明治憲法12条の「編制大権」は内閣の統制下に置くことが出来たが、11条の「統帥大権」の内閣からの独立は否定できなかった。

それに対して吉野は11条、12条双方を政治論として否定できた、みたいな意味のことが書いてある。

第三章「分権システム下の民主的リーダーシップ―ロンドン軍縮協定」。

まず、1926年憲政会総裁でかつて対華21ヵ条要求を主導した加藤高明の死を契機に、憲政会の外交方針が自主外交・対中干渉から協調外交・対中不干渉路線に変化し、逆政友会は協調から自主外交に変化するというクロス現象を指摘。

1927年憲政会が元の反護憲三派の政友本党と合併して民政党を結成、それを与党にした1929~31年の浜口雄幸内閣がロンドン海軍軍縮条約を締結するための苦闘を描写している。

「戦前=軍国主義=独裁」という皮相的イメージと違って、明治憲法は分権的で、むしろ首相・内閣のリーダーシップがなかなか貫徹されない状況。

輔弼機関たる内閣と協賛機関の立法府の一致だけでは不十分。

陸軍参謀本部と海軍軍令部という統帥についての輔弼機関があり、その他枢密院・軍事参議官会議という諮詢機関もある。

このロンドン条約で言うと、軍の編制に関することについては内閣の輔弼事項のはずが、「軍令部条例」では編制も軍令部の輔弼事項としており、それが混乱を引き起こす元となる。

浜口内閣がこれら機関の反対を抑えて、条約批准にまで持っていく様が描かれている。

例によって続きます。

(追記:続きはこちら→戦前昭和期についてのメモ その1

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