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ルイ16世についてのメモ その4

その3に続き、ベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』(祥伝社)より。

フランス革命について高校レベルの事項を確認。

まず革命勃発の年1789年から2年ごとの奇数年、91年・93年・95年に憲法が制定されたことをチェック。

91年憲法が立憲君主政、93年が急進共和政、95年が穏健共和政。

革命の過激化が進行し、それが極限まで行った後、一定の揺り戻しがあったことをイメージ。

この前後関係で様々な事件を把握するのが基本で、偶数年の90年・92年・94年にどういう転機があったのか(あるいは無かったのか)を確認する。

95年以降は穏健的ブルジョワ共和派の総裁政府がジャコバン残党と王党派によって左右に揺さぶられながら存続するうちに、軍部が台頭、革命勃発からちょうど10年後の1799年ブリュメール18日のクーデタにより統領政府成立、ナポレオン時代へという流れ。

ここの細かな事項は後回しでもよいと思われるので、とりあえず89~95年の7年間に何があったのかを一年刻みで頭に叩き込む。

まずすべての始まりの年、1789年。

5月三部会招集、6月第三身分が国民議会を名乗り、さらに「球戯場の誓い」があって、憲法制定会議と称する。

7月14日バスティーユ襲撃、8月4日封建的特権の(有償)廃止、8月26日フランス人権宣言(この三つは教科書にも日付が載ってますね。ちなみにアメリカ独立宣言は1776年7月4日)。

ここで場所だけチェック。

三部会やら国民議会やら人権宣言やらはすべてヴェルサイユで行われた話。

この時期、議会も国王もパリではなくヴェルサイユにいる。

バスティーユ襲撃だけがパリでの事件。

それが10月ヴェルサイユ行進で国王一家が無理やりパリに向かわされ、テュイルリー宮殿に入る(国王の滞在場所はヴェルサイユ宮殿→パリのテュイルリー宮殿→パリのタンプル塔への幽閉の順)。

議会もパリに移り、以後パリ下層民の民衆運動による圧迫を常に受けることになる。

この時期の革命指導者はラファイエット、ミラボー、シェイエス、バイイら。

この年、農村では貴族や領主が「ごろつき」を集め農民を襲撃するという噂が広まり(実際はデマ)、「大恐怖」と呼ばれるパニック状態に陥った農民が逆に領主を虐殺する事態となる。

革命初年の農村暴動での死者が93年恐怖政治の犠牲者より多かったというのは、サイモン・シャーマ『フランス革命の主役たち』で読んで以来頭から離れない史実である。

社会のあらゆる人々が、煽動者に操られるままに利己心の虜になり、不平不満を爆発させ暴力を正当化し、隣人に襲い掛かる・・・・・。

ここここで引用した旧約聖書の一節を思い起こします。

あるいは、遥か後年、ドイツ国民が同じ病に罹ったときに、正気を保った人々によって広められた以下の詩も。

毒虫がほこりと

乾いた泥の中に、

軽い灰の中の焔のように

じっとかくれている。

雨と微風に

悪しき生命は目覚め

無から悪疫、

熱と煙が立ち上がる。

暗いほら穴から盗賊が

徘徊しようと立ちあらわれる。

獲物を求めようとして、

もっとよいものを見つける。

無意味な争いと

惑える知識と

ちぎれた旗と

愚かな民衆とを。

その行くところ、必ず

貧しき時代の空虚に会い、

厚顔無恥に歩み得て、

かくて盗賊は予言者となる。

塵芥の山に

悪の足ふみしめ、

呆れ顔の世間に

舌を鳴らしてあいさつする。

雲に包まれるように

卑劣に身を包み、

民衆の前の虚言者は

やがて巨大な権力をつかむ。

これに従う手下あまた。

位の高きも低きも、

機をうかがいつつ

頭にとり入ろうとする。

彼らは頭の言葉を、

かつて神の使徒が

五個のパンでしたように広め、

それは汚ならしくはびこってゆく。

はじめはかの犬めが欺いただけなのに

今は彼ら数千がそろって欺く。

嵐がふきまくるように、

今、彼の才は時を得て肥えふとる。

蒔いた種は高く伸び

国の姿は変りはて、

民は恥辱の生を生き

下劣な行いを意に介しない。

はじめはでたらめと思ったことが、

今や現実と化した。

よき人々は姿を消し

悪しき人々が群がっている。

いつかこの苦難が

遠く氷のようにとけたとき、

黒死病のように

語られることだろう。

子らは野に出て

藁人形をつくり、

苦しみを焼いて楽しみとし、

古き恐怖を焼いて光としよう。

ヘルマン・グラーザー『ドイツ第三帝国』

1790年。

この年は唯一と言える小康状態の年。

行政区画改定や経済自由化、メートル法導入検討などいくつかの改革が行われたのみ。

ただし「聖職者民事基本法」が制定され、以後聖職者は公務員と見なされ、教皇にではなく国家に忠誠を誓わされることになる。

これが敬虔なカトリック信者のルイ16世を大いに苦しめることになる。

1791年。

不気味な地滑りの予兆の年。

6月ヴァレンヌ逃亡事件、9月制限選挙・立憲君主政の1791年憲法、憲法成立と同時に立法議会召集。

この立法議会では明確な党派対立が生れる。

立憲君主主義のフイヤン派と穏健共和主義のジロンド派。

このうちフイヤン派はあくまでこの立法議会成立後の名称なので、代表者としてはラファイエット、バルナーヴ、デュポールらで、同じ立憲君主主義者でもすでに死亡しているミラボーは生前フイヤン派とすると間違いになるのか。

ジロンド派はボルドーを中心とするジロンド県選出議員が主導したためついた名称。

指導者はブリソ、ロラン夫妻ら。

ジロンド派が威勢よく共和政樹立と革命輸出のための対外戦争を主張したのが、この91年から92年。

しかし93~94年にはもう多くの指導者がギロチン送りになるか自殺する有様となる。

個人的感想ではこの一派は救いがたい阿呆というイメージです。

1792年。

革命急進化の最大の転機になった年。

4月ジロンド派主導で対オーストリア宣戦、8月10日事件(テュイルリー宮殿襲撃)、9月国民公会召集、第一共和政樹立。

前議会の立法議会では左派だったジロンド派がこの国民公会では右派となり、左派のジャコバン派に脅かされる情勢。

ジャコバン修道院を集会場にしたジャコバン・クラブという政治一派(ついでに、フイヤンも集会場所の修道院名)はもともと立憲君主派だったのがジロンド派が主流となり、ついで同派が脱退した後は最過激派の山岳派(議場の高い場所に議席を占めたことから)が残ったため、普通ジャコバン派と言えばイコール山岳派となる。

しかし本書ではジロンド派が分離する前、立法議会でフイヤン派と対立していた時のジャコバン・クラブを「ジャコバン派」と表現していたところが確か一箇所あったはず。

これはちょっと翻訳で配慮して避けて欲しかったところではある。

大衆による暴力支配に対する最後の防波堤が決壊した観のある8月10日事件については、プティフィスが要領よくまとめている。

8月10日は、第二のフランス革命、立憲議会によって整備された政治制度を打ち壊すという目標をもった、騒々しく、熱狂的で、荒々しい革命が誕生した日なのである。実際に勝利したのは、人民の主権などではない。過激派、いやむしろ暴力的で不寛容な諸分派の連合体、それに、権限もないのに人民の名において意思表示をする権利を奪取した数千の連盟兵と地区の民衆が勝利したのである。自由と人権にもとづき、諸特権が廃止された社会を作ろうとした1789年の革命は息絶えた。合法性や法治主義の尊重といったことには頓着しないもっと急進的な運動がそれに取って代わったのだ。・・・・・フランス革命の歴史において、決定的な断絶は、89年と93年、すなわち立憲議会と公安委員会の独裁のあいだにあるのではなく、89年と92年のあいだにある。というのは、この八月の動きというのは、ある特異な形態の権力、ジャコブ・レブ・タルモンの言葉を借りれば「全体主義的民主主義」の到来を告げるからである。(プティフィス『ルイ16世 下』

1793年。

ジャコバン独裁と恐怖政治でフランスが地獄に堕ちた年。

1月ルイ16世処刑、6月ジロンド派追放→ジャコバン派独裁。

93年憲法、封建的特権の無償廃止、公安委員会による恐怖政治、マリー・アントワネット処刑。

1794年。

恐怖政治の絶頂から、急転直下ジャコバン派の没落の年。

エベール、ダントン粛清、ロベスピエール独裁、7月テルミドール9日の反動。

1795年。

ブルジョワ共和派の支配確立の年。

95年憲法、国民公会解散、上下両院と総裁政府。

革命史のおさらいしただけでまた一記事。

たぶん、次の記事で終わります。

たぶん、ですけど・・・・・・。

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