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『ブッダの真理のことば 感興のことば』 (岩波文庫)

『ブッダのことば』に続けてこれを読む。

『ダンマパダ』と『ウダーナヴァルガ』の訳。

漢訳では、前者は『法句経』、後者は音訳して『憂陀那』などか『無問自説』などとされる。

内容・形式の平易さ、訳注の多さで通読が極めて楽なのは、上記『ブッダのことば』と同じく。

初期の仏典ってこんな感じなのかあ、と感じるだけでも良いでしょう。

旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道伴れにしてはならぬ。

もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。

まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遇うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遇う。

「その報いはわたしには来ないだろう」とおもって、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいにみたされる。

たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」と知るのが賢者である。

戦場の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、われはひとのそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質が悪いからである。

いつわりを語る人は地獄に堕ちる。またこの世で自分が言ったのとは異なった行ないをなす人も地獄に堕ちる。この両者は死後にひとしくなると説かれている、――来世ではともに下劣な業をもった人々なのであるから。

明らかな知慧のある人が友達としてつき合ってはならないのは、信仰心なく、ものおしみして、二枚舌をつかい、他人の破滅を喜ぶ人々である。悪人たちと交わるのは悪いことである。

悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。

(友となって)同情してくれる愚者よりも、敵である賢者のほうがすぐれている。同情してくれる愚者は、(悪いことを教えて)ひとを地獄にひきずり下す。

称讃してくれる愚者と、非難してくれる賢者とでは、愚者の発する称讃よりも、賢者の発する非難のほうがすぐれている。

愚かな者を見るな。そのことばを聞くな。またかれとともに住むな。愚人らとともに住むのは、全くつらいことである。仇敵とともに住むようなものだからである。思慮ある人々と共に住むのは楽しい。――親族と出会うようなものである。

他人の過失は見やすいけれど、自分の過失は見がたい。ひとは他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかしこの人も自分の過失は隠してしまう。――狡猾な賭博師が不利な骰子の目をかくしてしまうように。

他人の過失を探し求め、つねに他人を見下して思う人は、卑しい性質が増大する。かれは実に真理を見ることから遠く隔っている。

恥を知らず、烏の首魁のようにがやがや叫び、厚かましく、図々しい人は、生活し易い。この世では、心が汚れたまま生きて行く。

恥を知り、常に清きをもとめ、よく仕事に専念していて、つつしみ深く、真理を見て、清く暮す人は、生活し難い。

この世の中は暗黒である。ここではっきりと(ことわりを)見分ける人は稀である。網から脱れた鳥のように、天に至って楽しむ人は少ない。

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引用文(平川克美1)

平川克美『移行期的混乱 経済成長神話の終わり』(筑摩書房)より。

民主化の進展は、因習的な世界を解体し、ひとりひとりが個人の自由な意志で生き方を決めるような、自己責任、自己決定、自己実現というあたらしい生活様式を急速に促していった。その結果として地域社会の互酬的な共同体はその存在理由を失い、やがて家族が分断され、お互いがお互いに無関心であるような孤独なひとびとを大量に排出するような社会が出来上がった。決まったパイを取り合うために、誰もが個人の自由意志や、権利を最大化するようにふるまえば、そこには弱肉強食の争奪が始まる。この競争に勝つために合理的、効率的な働きかたが追求されるようになる。アダム・スミスが国富論で説いたように、ひとを効率的に動かすためには、善意に期待するよりも、欲望に訴えた方が効果がある。パイが決まっているとき、ひとりひとりの自己の欲望を最大化するふるまいは、お互いの欲望と相反する。社会のメンバー全員の欲望を同時に最大化することはできない。そのことを人間は知っているがゆえに、そこにより激しい競争が生まれ、ひとりが他のひとりの敵になるようにふるまう。個人の欲望の追求が極限まで進んでいけば、それぞれの欲望は決まったパイをめぐって激しく衝突し、その衝突の調整や、衝突の回避に向けたエネルギーが、パイ自体を拡大するエネルギーを凌駕するようになる。ひとびとが望んだ民主主義(最大多数の最大幸福)の進展は、それ自体が民主主義の精神への背馳(弱肉強食)に向かい、人間が人間らしくという理念はどこかで、自然淘汰が支配する動物の世界に近づいていく。

トーマス・マン『非政治的人間の考察』(筑摩書房)より。

あらゆる啓蒙主義道徳、人間の「真の利益」を説くすべての教義は、本来いかに精神的なものであろうとも、それどころか、初めのうちは人間の真の利益は「神のなかに生きる」ことだとさえ定義していようとも、ひとたび権力の座につき、大衆のこころを手に入れてしまうと、かならず権力獲得の程度に比例して堕落する。すなわち、物質化し、経済化し、非精神化する。他方、啓蒙主義道徳に忠誠を誓う大衆も、かならずますます欲の皮があつくなり、不満をつのらせ、ますます愚かになり、不信仰になる。そう、ますます非宗教的になる。宗教と政治とを分離できると考えているところに、自由主義の誤謬がある。宗教なしには、政治は、内的政治は、つまり社会政策は、結局のところやっていくことができない。というのは、人間という動物は、形而上的宗教をうしなうと、宗教的なものを社会的なもののなかに移しかえ、社会的生活を宗教的神聖さに高めようとするものであるが、その結果は、反文化的な社会的愚痴こぼしか、でなければ、社会的対立は解消できず、約束された幸福はいっこうに実現しないものだから、功利的争いの永続化と絶望か、そのいずれかに行きつくのがおちなのだ。宗教心は、たしかに社会的良心や社会的清潔欲とけっこう手をにぎりあえるものである。しかし、宗教心が発生するためには、まず社会生活の過大評価が消滅しなければならない。すなわち、和解は社会的領域以外のところに求めなくてはならぬという認識がうまれたときにはじめて、宗教心が生じる。社会生活の過大評価が精神を支配し、社会生活の絶対的神格化がはじまるところでは、宗教心は居場所をうばわれ、逃げだすほかない。あとに残るのは、絶望的な不和軋轢だけである。

ヨハン・ホイジンガ『朝の影のなかに』(中公文庫)より。

以前の時代には、一般に認められた理想というものがたしかにあった。たとえば、その意味するところはともかく、神の栄光、あるいは正義、徳、知恵。定義の不完全な、古ぼけた形而上的諸概念だと、いまの人たちはいう。だが、これらの諸概念を捨て去ったとともに、文化の統一性もまた、疑念のまなざしのもとにさらされたのである。なぜというに、結局それに代わったものといえば、互いに抗争する一群の欲望に過ぎないのだから。今日、さまざまな文化志向を互いに結ぶ言葉は、豊かな暮らし、権力、安全(平和と秩序ということもこれに含まれる)といった語彙のうちに見いだされる。すなわち、自然の本能からまっすぐに出てきただけのものであって、精神によって高められてはいない、ひとつにまとめるよりは互いに分ける方向にはたらく理想である。こんなものは、すでに穴居人類もこれを知っていた。

今日、しきりに国民文化、階級の文化が語られる。ということは、文化という概念が、福祉、権力、安全といった理想に従属させられているということだ。従属させることによって、人びとは、事実上、文化の概念を動物の水準にまで引き下げるのである。この概念は無意味になってしまう。一見矛盾する、だが、以上述べてきたところにもとづけばどうしても避けられぬ結論、文化という概念は、文化の志向性を規定するある理想がその文化をになう共同体のさまざまな利害関心の外側に、またそれを越えてつらぬかれるとき、はじめてその場を与えられるという結論が忘れられてしまうのである。文化は形而上に志向づけられなければならない。さもなければ文化は存立しないであろう。

ギルバート・チェスタトン『正統とは何か』(春秋社)より。

十八世紀に勢力をふるった社会契約説は、今日では大いに批判の的となった。(もっともこの批判そのものにも大いに批判の余地がある。)社会契約説の意味するところが、ただ、すべての歴史上の統治の背後には諒解と協力の観念がある、ということだけであるのなら、その限りにおいてはこの説の正しいことは明らかである。

しかしもしその意味するところが、明確な利害関係の自覚から直接秩序と倫理が作られた、というところまで進んでくると、その限りではこの説は確実に誤っていると言うほかない。道徳の起源はそんなところにあるはずがない。

一人の人間が相手に向かって、「お前が俺をなぐらなければ俺もお前をなぐらない」と言ったなどという、そんな取引があった形跡はどこにもないのだ。ただ二人がお互いに、「われわれは聖なる場所ではなぐり合いはすべきでない」と言った形跡は厳として存在している。宗教を守ることで道徳が得られたのである。

福田恆存『日本への遺言』(文春文庫)より。

超自然の絶対者を設定しなければ、私たち人間はエゴイズムを否定することはできません。すくなくとも論理的には否定はできない。ある人間のエゴを否定するために他の人間のエゴをもちだしてくるだけです。ある集団のエゴを、あるいはある階級のエゴを否定するために、他の集団、他の階級のエゴを使ふだけです。また、既成の、現在のエゴを否定するために、可能性としての、未来のエゴを強化するだけです。すべてのエゴを否定するためには、それをもちだすことによつて、どのエゴも得をしない現実の外にあるものを、いはば梃子として利用しなければならないのです。

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正義論についてのメモ

マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)の記事続き。

第9章、道徳と責任について。

まず道徳的個人主義の考え方。

これは、習慣・伝統・受け継がれた地位でなく、一人ひとりの自由な選択がわれわれを拘束する唯一の道徳的責務であるとする立場。

カントの自律的意志、ロールズの無知のベールに覆われた仮説的同意の双方とも、この道徳的個人主義に基づき、独自の目的や愛着から独立し、自己の役割・アイデンティティを考慮しない個人を前提としている。

そこには愛国心・同胞愛・家族愛など、われわれが本能的に尊重すべきであると考える価値が入る余地は無い。

実際には、自己は社会的歴史的役割や立場から切り離せず、目的論的特性を帯びた物語の中で自分の役割を見出す存在だと、著者は主張する。

ここで著者は道徳的責任の三つのカテゴリーを提示。

1.自然的義務:普遍的 合意を必要としない

2.自発的責務:個別的 合意を必要とする

3.連帯の責務:個別的 合意を必要としない

1は殺人の禁止など、最も原初的な義務。

2は契約に基くもので、平等志向のリベラル派はしばしばこの段階に留まる傾向がある。

3は物語的説明から生れるもので、著者の大いに強調する部分。

第10章、「正義と共通善」、全体のまとめとして、以下の文章を引用。

この探求の旅を通じて、われわれは正義に対する三つの考え方を探ってきた。第一の考え方では、正義は功利性や福利を最大限にすること――最大多数の最大幸福――を意味する。第二の考え方では、正義は選択の自由の尊重を意味する――自由市場で人びとが行なう現実の選択(リバタリアンの見解)であれ、平等な原初状態において人びとが行なうはずの仮説的選択(リベラルな平等主義者の見解)であれ。第三の考え方では、正義には美徳を涵養することと共通善について判断することが含まれる。もうおわかりだと思うが、私が支持する見解は第三の考え方に属している。その理由を説明してみたい。

功利主義的な考え方には欠点が二つある。一つ目は、正義と権利を原理ではなく計算の対象としていることだ。二つ目は、人間のあらゆる善をたった一つの統一した価値基準に当てはめ、平らにならして、個々の質的な違いを考慮しないことだ。自由に基づく理論は一つ目の問題を解決するが、二つ目の問題は解決しない。そうした理論は権利を真剣に受け止め、正義は単なる計算以上のものだと強く主張する。自由に基づく諸理論は、どの権利が功利主義的考慮に勝るかという点では一致しないものの、ある特定の権利が基盤となり、尊重されるべきだという点では一致する。だが、尊重に値する権利を選び出すことはせず、人びとの嗜好をあるがままに受け入れる。われわれが社会生活に持ち込む嗜好や欲求について、疑問や異議を差し挟むよう求めることはない。自由に基づくそうした理論によれば、われわれの追求する目的の道徳的価値も、われわれが送る生活の意味や意義も、われわれが共有する共通の生の質や特性も、すべては正義の領域を越えたところにあるのだ。

私には、これは間違っていると思える。公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは、達成できない。公正な社会を達成するためには、善良な生活の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはいけない。

面白い。

明快な論旨の流れに引き込まれる思いがする。

本書の正義観も、結局個人主義に基礎を置いているという評も読んだことがあるし、いかにもアメリカ的だなあと興醒めする部分もないではないが、それでもリバタリアンの御託宣を聞かされるより、何十倍もマシである。

ただ、訳者による解説・あとがきの類が一切無いのは残念。

それが唯一の欠点か。

とは言え、読んで損はありません。

お勧めします。

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マイケル・サンデル 『これからの「正義」の話をしよう  いまを生き延びるための哲学』 (早川書房)

このブログではよくある、「おいおい、どこが世界史ブックガイドなんだよ」という記事。

ブームになってから随分経つが、県立図書館の貸出予約がようやく減ってきたので借りられたという次第。

ハーヴァード大学の学部生向け政治哲学講義を基にした本。

政治と道徳をめぐる問題について現代の具体的事例と理論的考察を常に往還しながら、議論を進めていく構成。

第1章、全体の導入部、正義の基準として何を重視するかについての三つの考え方を提示。

まず(1)幸福(の最大化)を追求する功利主義。

次に(2)自由(の尊重)を優先するアプローチ。

この「自由」派で現在優勢なのは市場主義的なリバタリアニズム(自由至上主義)だが、著者は一見それとは全く対照的なリベラル的平等主義者もこのグループに属するとしている。

リバタリアンが自由市場で人々が行う現実の選択を尊重するのに対し、リベラル的平等主義者は平等な原初状態において人々が行うはずの仮説的選択を想定し重視するがゆえに平等の主張を導き出しているとしている。

最後が(3)美徳(の涵養)を重視するコミュニタリアニズム(共同体主義)で、本書の主張もこれに基く。

第2章、功利主義の検討。

ベンサムに代表される考え方とその限界について述べる。

その思想に基き、あらゆるものを社会全体の快楽と苦痛の計算で判断すると、少数派の抑圧や社会の質的低落をしばしば無視することになる。

その欠陥を是正しようとしたジョン・ステュアート・ミルの努力は、実際功利主義自体の枠を乗り越えた概念に依存せざるを得なかったことなどを叙述。

第3章、リバタリアニズムの紹介、フリードマン、ハイエク、ロバート・ノージック(『アナーキー・国家・ユートピア』の著者)など。

リバタリアンの言うように、自分を自分自身の完全な所有者と見なすと、合意による殺人と人肉食(実際そういう例がドイツであったそうです)のように、どうしても正当化し難い事例への非難の根拠が無くなることを指摘。

第4章、前章に続き、リバタリアンが絶対視する市場が、不可避的に道徳的限界を持っていることを述べる。

富裕国が貧困国に代理母妊娠を委託するビジネスや奴隷売買の例を挙げ、各個人の「無制限の自己所有権」という考え方に反対している。

第5章、ここではカントの著『道徳形而上学原論』を採り上げ、その正義観を論ずる。

カントは、上記(1)幸福、(2)自由、(3)美徳の各アプローチの中では「自由」派に属する。

しかし、その自由観・正義論はリバタリアンとは全く異なる。

カントは、ある時点での利害、必要性、欲望、選好といった経験的理由を道徳の基準にすべきではないと言う。こうした要因は変わりやすく、偶然に左右されるため、普遍的な道徳原理(普遍的人権など)の基準にはとうていなりえない。選好や欲望(たとえ幸せになりたいというものでも)を道徳原理の基準にすると、道徳の本質を見誤るという根本的問題である。

われわれは自由を、何にも妨げられずに、したいことをすることだと考えがちだが、カントの考えは違う。カントの自由の概念は、もっと厳しく要求が多い。

道徳については義務と傾向性、自由については自律と他律、理性については定言命法と仮言命法、観点については英知界と感性界を対比し、それぞれ前者に価値を置く。

第6章、カントと同じく、(2)自由のアプローチを採りながらリバタリアンとは全く異なる考え方を展開するジョン・ロールズ(『正義論』著者)の思考紹介。

まず原初的社会契約における「無知のベール」という有名な想定。

次に社会で最も不遇な人々の利益になるような不平等のみを認めるという格差原理。

続いて以下四つの社会原理を比較。

1.封建制度=生まれに基く固定的階級制度。

2.自由主義=形式的機会平等を伴う自由市場。

3.実力主義=公平な機会平等を伴う自由市場。

4.平等主義=ロールズの格差原理。

個人の才能については、どんな才能が社会的に評価されるのかは自己決定の範囲外で時代情勢や偶然に左右されるし、個人的努力についても、その少なからぬ部分が生育環境や遺伝的特質に負う以上、努力や才能は個人の完全な所有物ではなく、実力主義社会は必ずしも公正な社会とは言えないとして、著者はロールズの平等主義を評価している。

第7章、アメリカで長年喧しい問題となっているアファーマティブ・アクション(少数派優遇措置)をめぐる論争について。

第8章、アリストテレスの正義論。

ここから(3)美徳のアプローチに入る。

まずアリストテレスの考え方を目的論的思考と定義。

これは、公正・正しさに関する問いを名誉・徳・道徳的真価から切り離すようになった近代以降衰退した考え方。

近代における分配の正義が所得・富・機会に関するものなのに対して、アリストテレスにおいては地位と名誉の分配こそ重要であった。

こんにち、われわれは、政治を特有の本質的目的を持つものとは考えず、市民が支持できるさまざま目的に開かれているものと考える。だからこそ、人びとが集団的に追求したい目的や目標をその都度選べるようにするために、選挙があるのではないだろうか?政治的コミュニティにあらかじめ何らかの目的や目標を与えれば、市民がみずから決める権利を横取りされることになる。誰もが共有できるわけではない価値を押しつけられるおそれもある。われわれが政治に明確な目的や目標を付与するのに二の足を踏むのは、個人の自由への関心の表われだ。われわれは政治を、個人がみずから目的を選べるようにする手続きと見ている。

アリストテレスは政治をそのようには見ない。アリストテレスにとって政治の目的は、目的にかかわらず中立的な権利の枠組みを構築することではない。善き市民を育成し、善き人格を養成することなのだ。

あらゆる都市国家(ポリス)は、真にその名にふさわしく、しかも名ばかりでないならば、善の促進という目的に邁進しなければならない。さもないと、政治的共同体は単なる同盟に堕してしまう・・・・・。また、法は単なる契約となってしまう・・・・・「一人ひとりの権利が他人に侵されないよう保証するもの」となってしまう――本来なら、都市国家の市民を善良で公正な者とするための生活の掟であるべきなのに。

アリストテレスには奴隷制容認のような、現在から見て明白な誤りもあったにも拘わらず、リベラル派の選択と合意の倫理に従うよりも、アリストテレス的な目的と適性の倫理に従った方が、より社会の道徳的基準の厳格化に資する場合もあると、著者は示唆している。

残り2章は次回。

(追記:続きはこちら→正義論についてのメモ

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山本紀夫 『ジャガイモのきた道  ―文明・飢饉・戦争』 (岩波新書)

私にしては珍しい分野の本。

2008年刊。

確かほぼ同時期に中公新書から『ジャガイモの世界史』も出たはずだが、こちらしか図書館の開架コーナーに無かった。

ジャガイモはトウモロコシ・トマト・タバコと共に、新大陸原産の作物で、大航海時代以降ヨーロッパなど旧大陸に伝えられたことは高校教科書にも出てきます。

現在世界で栽培面積が、小麦、トウモロコシ、稲に次いで第四位の重要な作物。

ジャガイモはもともとアンデス高地に自生していた雑草のひとつ。

(ラテン・アメリカ文明でジャガイモが知られていたのはインカ帝国が繁栄したアンデス地域のみ。トウモロコシはメキシコからアンデスまで広範囲で栽培。)

ただしこの「雑草」とは、人間が恒常的に利用し変化した環境(森林伐採や排泄物処理による)で生育する植物の意で、自然そのままの環境で生える草ではない。

前5000年頃、有毒成分を含むイモ類を人間が品種選択や毒抜き作業によって栽培化。

通説では、文明成立には小麦・米・トウモロコシなど穀物栽培が必要とされ、イモ類栽培は過小評価されてきた。

アンデス文明もトウモロコシを主要作物とする文明と言われてきたが、著者はこれに疑問を呈する。

アンデスのような寒冷・高地ではジャガイモが主食であり、トウモロコシはチチャ酒などの原料になる儀礼的作物だったのではないかとしている。

イモ類は水分が多く、重いので、貯蔵性が低く輸送も困難なのは事実だが、水分(と毒成分)を抜いたチューニョという乾燥イモに加工することにより、その問題も解決することができる。

トウモロコシはコロンブス来航時からヨーロッパ人に知られていたこともあり、ラテン・アメリカ文明はすべてトウモロコシが主作物だったようなイメージがあるが、アステカ帝国はトウモロコシ栽培の上に立つ文明である一方、インカ帝国はジャガイモ栽培によって成り立っていたとしている。

(ヨーロッパ人侵入以前のラテン・アメリカで、ジャガイモの栽培地域がアンデスに限られるということは高校世界史では出てこないはず。)

トウモロコシに比べて、ヨーロッパへのジャガイモの普及は遅れ、本格化したのは18世紀末頃。

例外的にアイルランドでは18世紀には主食の地位を占める。

しかし過度の依存が禍して、19世紀中頃に疫病による「ジャガイモ飢饉」発生。

多数の死者が出て、移民も急増。

この時アメリカに移住した中にはケネディ一家も含まれる。

あと、他の地域への栽培伝播とその影響について。

ネパール東部、エベレスト南のシェルパの例が挙げられている。

この「シェルパ」は登山ガイドの意味かと思ったら、民族名だそうです。

続いて日本では江戸時代半ばから後期に普及したことが述べられて、インカの末裔である現在のアンデスに住む人々の農耕・牧畜について論じてお仕舞い。

楽に読めて、結構実のある知識を仕入れることができる。

悪くない本です。

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