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引用文(平川克美1)

平川克美『移行期的混乱 経済成長神話の終わり』(筑摩書房)より。

民主化の進展は、因習的な世界を解体し、ひとりひとりが個人の自由な意志で生き方を決めるような、自己責任、自己決定、自己実現というあたらしい生活様式を急速に促していった。その結果として地域社会の互酬的な共同体はその存在理由を失い、やがて家族が分断され、お互いがお互いに無関心であるような孤独なひとびとを大量に排出するような社会が出来上がった。決まったパイを取り合うために、誰もが個人の自由意志や、権利を最大化するようにふるまえば、そこには弱肉強食の争奪が始まる。この競争に勝つために合理的、効率的な働きかたが追求されるようになる。アダム・スミスが国富論で説いたように、ひとを効率的に動かすためには、善意に期待するよりも、欲望に訴えた方が効果がある。パイが決まっているとき、ひとりひとりの自己の欲望を最大化するふるまいは、お互いの欲望と相反する。社会のメンバー全員の欲望を同時に最大化することはできない。そのことを人間は知っているがゆえに、そこにより激しい競争が生まれ、ひとりが他のひとりの敵になるようにふるまう。個人の欲望の追求が極限まで進んでいけば、それぞれの欲望は決まったパイをめぐって激しく衝突し、その衝突の調整や、衝突の回避に向けたエネルギーが、パイ自体を拡大するエネルギーを凌駕するようになる。ひとびとが望んだ民主主義(最大多数の最大幸福)の進展は、それ自体が民主主義の精神への背馳(弱肉強食)に向かい、人間が人間らしくという理念はどこかで、自然淘汰が支配する動物の世界に近づいていく。

トーマス・マン『非政治的人間の考察』(筑摩書房)より。

あらゆる啓蒙主義道徳、人間の「真の利益」を説くすべての教義は、本来いかに精神的なものであろうとも、それどころか、初めのうちは人間の真の利益は「神のなかに生きる」ことだとさえ定義していようとも、ひとたび権力の座につき、大衆のこころを手に入れてしまうと、かならず権力獲得の程度に比例して堕落する。すなわち、物質化し、経済化し、非精神化する。他方、啓蒙主義道徳に忠誠を誓う大衆も、かならずますます欲の皮があつくなり、不満をつのらせ、ますます愚かになり、不信仰になる。そう、ますます非宗教的になる。宗教と政治とを分離できると考えているところに、自由主義の誤謬がある。宗教なしには、政治は、内的政治は、つまり社会政策は、結局のところやっていくことができない。というのは、人間という動物は、形而上的宗教をうしなうと、宗教的なものを社会的なもののなかに移しかえ、社会的生活を宗教的神聖さに高めようとするものであるが、その結果は、反文化的な社会的愚痴こぼしか、でなければ、社会的対立は解消できず、約束された幸福はいっこうに実現しないものだから、功利的争いの永続化と絶望か、そのいずれかに行きつくのがおちなのだ。宗教心は、たしかに社会的良心や社会的清潔欲とけっこう手をにぎりあえるものである。しかし、宗教心が発生するためには、まず社会生活の過大評価が消滅しなければならない。すなわち、和解は社会的領域以外のところに求めなくてはならぬという認識がうまれたときにはじめて、宗教心が生じる。社会生活の過大評価が精神を支配し、社会生活の絶対的神格化がはじまるところでは、宗教心は居場所をうばわれ、逃げだすほかない。あとに残るのは、絶望的な不和軋轢だけである。

ヨハン・ホイジンガ『朝の影のなかに』(中公文庫)より。

以前の時代には、一般に認められた理想というものがたしかにあった。たとえば、その意味するところはともかく、神の栄光、あるいは正義、徳、知恵。定義の不完全な、古ぼけた形而上的諸概念だと、いまの人たちはいう。だが、これらの諸概念を捨て去ったとともに、文化の統一性もまた、疑念のまなざしのもとにさらされたのである。なぜというに、結局それに代わったものといえば、互いに抗争する一群の欲望に過ぎないのだから。今日、さまざまな文化志向を互いに結ぶ言葉は、豊かな暮らし、権力、安全(平和と秩序ということもこれに含まれる)といった語彙のうちに見いだされる。すなわち、自然の本能からまっすぐに出てきただけのものであって、精神によって高められてはいない、ひとつにまとめるよりは互いに分ける方向にはたらく理想である。こんなものは、すでに穴居人類もこれを知っていた。

今日、しきりに国民文化、階級の文化が語られる。ということは、文化という概念が、福祉、権力、安全といった理想に従属させられているということだ。従属させることによって、人びとは、事実上、文化の概念を動物の水準にまで引き下げるのである。この概念は無意味になってしまう。一見矛盾する、だが、以上述べてきたところにもとづけばどうしても避けられぬ結論、文化という概念は、文化の志向性を規定するある理想がその文化をになう共同体のさまざまな利害関心の外側に、またそれを越えてつらぬかれるとき、はじめてその場を与えられるという結論が忘れられてしまうのである。文化は形而上に志向づけられなければならない。さもなければ文化は存立しないであろう。

ギルバート・チェスタトン『正統とは何か』(春秋社)より。

十八世紀に勢力をふるった社会契約説は、今日では大いに批判の的となった。(もっともこの批判そのものにも大いに批判の余地がある。)社会契約説の意味するところが、ただ、すべての歴史上の統治の背後には諒解と協力の観念がある、ということだけであるのなら、その限りにおいてはこの説の正しいことは明らかである。

しかしもしその意味するところが、明確な利害関係の自覚から直接秩序と倫理が作られた、というところまで進んでくると、その限りではこの説は確実に誤っていると言うほかない。道徳の起源はそんなところにあるはずがない。

一人の人間が相手に向かって、「お前が俺をなぐらなければ俺もお前をなぐらない」と言ったなどという、そんな取引があった形跡はどこにもないのだ。ただ二人がお互いに、「われわれは聖なる場所ではなぐり合いはすべきでない」と言った形跡は厳として存在している。宗教を守ることで道徳が得られたのである。

福田恆存『日本への遺言』(文春文庫)より。

超自然の絶対者を設定しなければ、私たち人間はエゴイズムを否定することはできません。すくなくとも論理的には否定はできない。ある人間のエゴを否定するために他の人間のエゴをもちだしてくるだけです。ある集団のエゴを、あるいはある階級のエゴを否定するために、他の集団、他の階級のエゴを使ふだけです。また、既成の、現在のエゴを否定するために、可能性としての、未来のエゴを強化するだけです。すべてのエゴを否定するためには、それをもちだすことによつて、どのエゴも得をしない現実の外にあるものを、いはば梃子として利用しなければならないのです。

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