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佐伯啓思 『人間は進歩してきたのか  「西欧近代」再考  現代文明論(上)』 (PHP新書)

2003年刊。

著者の勤務する京都大学の全学共通科目「現代文明総論」という講義を基にした本。

上下二分冊だが、互いに独立した著作のようです。

京大とは言え大学一回生が特別な予備知識無しに受講できるレベルとのことなので、大して難しくない。

取り上げられている思想家もホッブズ、ルソー、マックス・ウェーバーなど誰でも知ってる人が多い。

以下、バラバラなメモ書き。

網羅性はあまり無いので、ご注意を。

近代を17世紀以降、政治面での市民革命、経済面での産業革命、文化面での科学革命の複合体として把握。

本書の基本的視座は以下の通り。

人間の自由の拡大、つまり規範的なもの、権威的なものからの解放は無条件に善であり、人間の移動性が増して空間的な活動領域が拡大することは望ましく、富を手にすることは無条件によいことだ――そういう価値観がここにはあります。ということは逆にいえば、規制や権威は悪であり、土地や共同体への執着は悪であり、いかなる不平等も許されるべきではなく、貧困はそれだけで悪だということになります。これが西欧の近代主義、啓蒙主義が生み出した進歩という考え方の核心です。

しかし、ほんとうにそうなのでしょうか。いっさいの規制や権威からの自由、共同体や土地から切り離された空間の無限の移動性(今日の情報ネットワークや世界を飛びまわる国際資本もそうです)、人間の自然的な差異を排したあらゆる意味での平等の達成、必要な生活をはるかに超えた過剰な生産や消費――こうしたことまでほんとうに無条件で是認すべきなのでしょうか。

近代的価値観の未達成ではなく、過剰こそが様々な弊害を生み出している。

ポスト・モダン思想も、自由や平等の追求を核心とする近代主義を根底から疑ってはおらず、都合の良い「近代」で都合の悪い「近代」を攻撃しているだけ。

次に、近代の成立時期の考察。

16世紀初頭を境に中世から近代に移行したのではなく、中世は14世紀に崩壊し近代合理主義の誕生は17世紀、その間300年は空白期であり、危機の時代であるという見方の提示。

ルネサンス人文主義とデカルト、ガリレイらの合理主義を区別する。

デカルト的思考は、共同体・人間関係・教育の中で育まれる、古典古代的な合理性ではなく、空白・危機の時代に対応して、社会の混乱と世界観崩壊の中、確信・信念を持ち得ない状況下での抽象的精神としての合理性。

宗教改革がローマ教皇と神聖ローマ皇帝の権威を否定、国王・領邦君主の自立を促し、聖書翻訳によって国家意識を生み出し、意図せざる結果として神中心の宗教的秩序から人中心の世俗的秩序への転換を進める役割を果す。

続いて、ホッブズ、ルソーの思想検討に入るが、ここでは結論部の以下の文章のみ引用。

まとめていえば、もともと、近代的な民主主義は古典的な共和主義の復活として出てきた。ところで古典的な共和主義は、市民的美徳をもって公共精神を宿し、共同体への愛着をもった市民を想定している。しかし、近代社会には、こうした市民を持ち込むことはすでにできなくなっている。そこで、その代用として、市民が一致して関心をもつ「公的なもの」を仮構せざるをえない。それが「国民の意思」です。現代的にいえば「世論」です。共和主義の支えを失った近代民主主義は、このようなフィクションを持ち込まざるをえない。そして、そのフィクションがあたかも実体であるかのように民主政治が営まれたときに、その民主主義は全体主義に転化してしまうのです。民主主義のなかには、あらかじめ何か全体主義的なものが含まれてしまっているといわねばなりません。

ルソーの「一般意思」概念が全体主義的独裁確立に利用されたというのは保守派のルソー批判の定番で、本書でもそうしたことは書いているが、同時にルソーの思想のうち、古典古代的共和主義再構成の面はアメリカ独立革命に、社会契約説と人民主権論の徹底という面はフランス革命に繋がっているとされ、前者に対しては一定の肯定的評価が与えられている。

古典古代的共和主義とは、国家の構成員の主体的政治参加を是とする立場。

しかしそれには共同体への防衛への献身、勇気・自己制御・節制・思慮・正義感など市民的美徳の涵養への義務が各個人に課されることが大前提。

この意味での「共和主義」は往々にして民主主義とは逆の内容を持つ。

『ザ・フェデラリスト』でハミルトンなどアメリカ建国の父たちが、自分たちが作ろうとしているのは民主政ではなく共和政だと繰り返し書いていたのを思い出した。

「デモクラシー」という言葉を偶像視するというか、呪文のように述べる今のアメリカ人とはえらい違いです。

ケナンのような「真のアメリカ人」とでも言うべき人はもう存在しなくなったんでしょうね。

・・・すべての政府システムを縦断し、他のすべてに勝る意義を持つ基本的な相違がある。それは「民主的」と「非民主的」な政府の違いと説明すれば最もわかりやすいだろうし、米国では特にそうだ。私個人としては、この関連で「民主的」という用語を使うのが嫌いだ。この用語は、そもそも米国の建国の父の多くが、建設中のシステムを説明するのに使おうとはしなかったろう。当時ですら「民主主義」という言葉は相当多くの意味になり、代表制政府の制度の強力な支持者ですら、軽蔑的に用いることがあった。さらに近年になると広く乱用されて、かってどんな意味があったにせよ、その大半が失われるに至った。(ジョージ・ケナン『二十世紀を生きて』(同文書院インターナショナル)

かつてアレグザンダー・ハミルトンは民衆を「巨大な野獣」と呼び、「人民の声は神の声だと言われ、この格言は広く引用し、また信ぜられているが、実際上の真理ではない。人民は乱暴で移り気なものである。正しい判断と決定を行うことはできない」と述べている。(アンドレ・モロワ『アメリカ史 上』(新潮文庫)。ただしモロワはハミルトンよりライバルのジェファソンを評価している。)

現在ではこんなこと正面切って主張されたら、奇異の念を抱くか強い反発を覚えるという方がほとんどでしょうが、アメリカ建国の父たちの、少なくとも半分がこのような考え方の持ち主であったからこそ、大規模な民衆運動がとりあえずは独裁や終わり無き内乱に転化しなかったのだとも思える。

そうでなければアメリカは、十数年後のフランスより先に、人類史上初の全体主義を生み出したという汚名を着たはずである。

ところがこうした精神は建国後、約半世紀しか続かず、1830年代のジャクソニアン・デモクラシーで決定的な堕落を遂げ、トクヴィルが指摘するような大衆民主主義国家に成り下がったとある人が評していたが、確かにそう思える。

われわれ民衆が無条件で主権者だとされるのは、君主や貴族という身分の存在よりも「生まれながらの不当な特権」だと言いたい。

少数者の特権と違って、それを抑制することや相応しい義務を課すことが不可能に近いだけ、一層タチが悪い。

個人的には言葉の真の意味での「共和国」には君主と貴族が不可欠だとすら言いたいくらいである。

言ってみれば、「真の共和政」は君主制と貴族制と民主制の三者が相互に抑制し合って均衡を保つ状態だとする見方もありうると思うのだが(引用文(中江兆民1))、実際には民主制のみが突出した国家が共和国と呼ばれ、なぜか「共和主義=民主主義」ということになってしまっている。

閑話休題。

以上が本書前半部の粗っぽい内容メモ。

(省略した論点もかなりあります。)

後半部は、カルヴァン主義と資本主義成立の関連を述べた、ウェーバーの有名な仮説や、フロイトの「自我」「エス」「超自我」の関係などについて。

プロテスタンティズムがローマ教会の階層性的権威を否定し神を内面化して自己制御・自己陶冶するキリスト教的個人主義を成立させ、それが近代的個人主義に繋がるが、信仰心の後退によって内面の支えがなくなり、利己主義を抑える術を失った個人主義が資本主義と近代市民社会を根底から堕落させていく、みたいなことが書いてある。

上記の内容メモは適当過ぎますが(最近根気が続かない)、本書自体はかなり面白いです。

実際に講義を聴いているような気分になれます。

下巻も機会があれば是非読みたい。

話し言葉でスラスラ読めるのも長所。

お勧めします。

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