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木村幹 『高宗・閔妃  然らば致し方なし』 (ミネルヴァ日本評伝選)

同じ著者の『韓国現代史』(中公新書)を読了済みで、同シリーズではディキンソン『大正天皇』が既読。

昔は「李太王」などと呼ばれていた李朝末期の君主とその妃。

高宗の生年は1852年なので明治天皇と同い年。

傍系から養子として王になる。

李氏朝鮮の国王をやや遡ると、21代英祖→孫の正祖→子の純祖(1800年ちょうどの即位)→孫の憲宗ときて、外戚の勢道政治がはびこるようになり、続いて哲宗が傍系より即位、その次に本書の主人公高宗が、6代遡って19代粛宗につながるという傍系から国王に登極。

傍系からの即位なので実父は国王ではない。

この存命中だった実父が有名な大院君。

「大院君」という名は固有名詞ではなく、このような、現国王の父であり、かつ前国王ではない人物を指す普通名詞らしく、正式には「興宣大院君」というそうです。

この大院君は後に高宗の妻閔妃一族と激しく対立することになるが、実は大院君自身の母と妻も閔妃と同じ驪興閔氏の出身。

高宗の即位は教科書や用語集では1863年のはずだが、本書では1864年と読める記述がある。

即位式を挙げたのが64年ということかなとも思うが、よくわからず。

1864年と言えば、中国では太平天国が滅亡し、日本では禁門の変、第一次長州征討、四国艦隊下関砲撃事件と近隣諸国で激動があった年です。

即位当初は大院君の執政。

よく知られているように攘夷鎖国政策を遂行、1866年のフランス艦隊による江華島攻撃を退け、同年大同江を遡上したアメリカ船シャーマン号を焼討ちするなど、一応の成果を挙げるが、それも列強の朝鮮への関心の薄さゆえに成り立つ当面の成功だったと評されている。

国内では免税と軍役免除特権のあった儒教「書院」の制限を進めたため、攘夷政策で一致するはずの崔益鉉ら「衛正斥邪派」との距離ができる。

土木事業と軍備拡大による財政悪化とインフレが深刻となり、1873年大院君は失脚。

以後何度か大院君は短期間復帰するが、本格的に政権を担ったのはこの最初の10年ほどだけ。

外戚閔氏が勢威を振るう高宗親政時代が始まるが、清銭の流通禁止という政策は大院君時代のインフレによる混乱とは全く逆に、深刻なデフレを引き起こす。

江華島中心の対外防備から王宮近衛兵重視の軍制改革を進める。

この江華島は近代日朝関係の出発点である江華島事件で有名ですが、それ以前から高麗がモンゴルの侵攻を避け遷都したことからもわかるように、開城と漢陽(ソウル)の海への出口を抑える地点にあるということで、非常に重要な地位を占めているようです。

1875年(この年号は当然暗記)、その江華島事件と翌76年日朝修好条規により、閔氏政権がなし崩し的に開国。

それに反発する衛正斥邪派が高宗より離反、かつての敵大院君派に接近。

この時期の閔氏政権が採っていたのは「親日近代化」政策と言われているが、本書の叙述ではその性格は必ずしも明確ではない。

1882年壬午軍乱勃発。

閔氏政権が育成していた新式軍への反発がきっかけとされるが、この定説にも本書はやや疑問を呈している。

いずれにせよ開国・近代化を進める閔氏政権に対する大院君派の攻撃であり、日本大使館が襲撃され、閔妃も殺害未遂の危機に陥る。

ここで清が一挙に介入、軍乱を鎮圧、大院君を清国に拉致。

日本とは済物浦条約が結ばれるが、以後清による、従来の朝貢関係のレベルを超えた、実質的属邦化工作が激しくなる。

なお、この壬午軍乱の前後で、閔氏政権の立場が「親日」から「親清」へと変化していることは(上記の通り、本書の記述によるとそう単純化できるものでもないようだが)重要ポイントなので意識しておく。

ここで中学以来お馴染みの、親日的独立党と親清的事大党の対立が出てくる。

普通これは、閔氏ら保守派が事大党で、金玉均・朴泳孝ら開化派が独立党だとされる。

しかし著者は、日本党=金玉均・朴泳孝・洪英植・徐光範、清国党=趙寧夏・金允植・魚允中・金弘集という人脈を示し、上記二派はともに開化派であり、壬午軍乱以後清国介入の深化に伴い、それへの対応について、かつて一つだった開化派が分裂したものだとする。

前者が清との一切の関係断絶を主張する急進開化派であるのに対し、後者は一定限度の宗属関係を是認する穏健開化派(岡本隆司『世界のなかの日清韓関係史』)。

この両者が1884年甲申事変で激突、清国派が勝利。

(この甲申事変は壬午軍乱からわずか2年しか経っていない時点で起こったこと、日清戦争のちょうど10年前であることをチェック。)

同年清仏戦争の敗北もあり、清が一部譲歩して、1885年日清間に天津条約が結ばれる。

(これに絡んで、85年には大井憲太郎ら自由民権派による大阪事件あり。)

高宗は清の影響力が絶対的になるのを避けるため、「背清引俄(ロシア)」策を採り、ロシアと接近。

大院君が清より帰国を許される。

89年防穀令による軋轢などがありつつも、この時期は概ね清国覇権下の安定した十年となり、閔泳駿・閔泳煥らが率いる閔氏政権全盛期。

そして運命の1894年東学党の乱と日清戦争勃発、金弘集「開化派」内閣成立、大院君も日本に担ぎ出されたものの面従腹背。

95年三国干渉で日本が後退すると、高宗および閔妃、大院君、内閣という、三つ巴の権力構造になる。

閔妃は、まず日本を利用して大院君を排除、次に内閣の分断に成功し、実権を掌握。

ここで、同95年乙未事変と呼ばれる、閔妃暗殺事件が起こる。

日本公使三浦梧楼らの陰謀。

これはいくら帝国主義時代とは言え、やり過ぎでしょう。

明治日本の汚点としか言いようが無いし、個人的には大逆事件よりも腹に堪える不快感がある。

日本によってまたもや大院君が担ぎ出されるが(これで四度目の大院君政権)、親露派・親米派のクーデタ未遂などの動揺が続いた挙句、1896年高宗がロシア公使館に避難(「露館播遷」)、金弘集・魚允中らが殺害され、大院君は軟禁、朴定陽・李完用・李範晋らの内閣が成立(ただし閔氏勢力は回復せず)。

1897年高宗が王宮に帰還、同年国号を大韓帝国とし、清との宗属関係を完全に清算、高宗は皇帝に即位。

1898年に大院君死去。

同年、96年に結成されていた独立協会などによる、下からの国政改革運動が巻き起こり、後の大韓民国初代大統領の李承晩も選出されていた中枢院を拠点にした議会主義運動が激化するが、結局鎮圧される。

なお、1898年という年号ですぐ思い浮かぶ史実があるでしょうか?

日本では第3次伊藤内閣から憲政党の隈板内閣、第2次山県内閣という目まぐるしい政変、清国ではドイツの膠州湾租借に始まる中国分割、変法自強運動挫折と戊戌の政変、というのがすぐ記憶の引き出しから取り出せることが望ましいです。

奇しくも、日清韓三国で国内政局に混乱が見られた年ということになります。

その他、世界では米国のハワイ併合と米西戦争、アフリカで英仏間のファショダ事件があったことも暗記事項。

この時期、閔妃も大院君も開化派も清国派もなく、即位以来はじめて高宗は君権第一主義を貫くことを得るが、大韓帝国は日露の狭間に立たされ、国の独立自体が風前の灯となっていた。

1904年日露戦争勃発。

併合への道標となった四つの外交協定のうち、最初の日韓議定書と第一次日韓協約は、開戦の年である04年に締結。

内容は、前者が日本の軍事行動への便宜提供、後者が財政・外交顧問の設置。

翌05年、ポーツマス条約後に第二次日韓協約。

内容は外交権剥奪と保護国化で、これがおそらく最も重要。

統監府設置、初代統監伊藤博文。

この役職に関する伊藤の企図については、伊藤博文についてのメモ その2を参照。

1907年、列強に独立回復を提訴しようとしたハーグ密使事件が起こり、高宗は退位させられ、純宗(閔妃の子)が即位。

他に厳妃の子である英親王李垠がいる。

昔の教科書や概説書で、少年時代に日本の軍服を着せられて伊藤博文と並んだ写真がよく載せられていたのは、たぶんこの人。

後に梨本宮方子(まさこ)妃と結婚することになる。

同07年第三次日韓協約、内政権も日本が掌握、韓国軍隊は解散。

1909年安重根による伊藤暗殺、1910年韓国併合。

併合後、純宗が「李王」、高宗が「李太王」と称せられる。

ああそうか、まず元皇帝の純宗に李王の称号をあてがって、その父だから李太王か、そりゃ近年そう呼ばないはずだ、と得心しました。

1919年高宗死去、日本による毒殺の噂が流れ、同年の三・一独立運動に影響を与えたのはご存知の通り。

かなり細部に亘る本だが、読みやすく面白い。

明らかな誤植と思えるものが2、3箇所あったが、大きな問題ではないでしょう。

類書の呉善花『韓国併合への道』(文春新書)よりかなり詳しく、読み応えがある。

その分、通読に骨が折れるが、見返りも大きい。

十分お勧めできる良書です。

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