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佐々木隆 『明治人の力量  (日本の歴史21)』 (講談社学術文庫)

同シリーズ20巻鈴木淳『維新の構想と展開』の続き。

「不羈独立」をキーワードにした明治後半(1889~1912年)の歴史。

最初の方に以下の文章有り。

なお近年、「国民」「民族」「国家」などはある種の政治的意図をもって作為された概念だとして、「国民国家」の虚構性をことさらに強調し、否定的に捉える議論が流行している。「家」「家族」なども槍玉にあげられているようだ。しかしながら大多数の人々が受け容れ認め、信じ目指したものは、仮に究極的にはそれが共同幻想であり虚構であっても「歴史的現実」に他ならない。そもそも人間社会の制度・規範・諸価値は、すべて「幻想」であり「擬制」である。「個人」「自由」「人権」などの近代的価値についても検証した上で議論しないのは不公平かつ知的怠慢というものであろう。

この文章だけで、本書を読む価値があります。

全く同感。

今、何よりも相対化すべき価値は「自由」と「民主主義」であり、それを享受する資格がある自分たちだけで社会を永遠の進歩の過程に載せることができると考える民衆の固定観念のはず。

なお、明治政府の「超然主義」について、(1)全党排除型、(2)全党参加型、(3)良民政党型、(4)国民政党型という四つの類型を提示し、通常、政党を通じた国民の政治参加拒否と解釈される超然主義は、それ自体が目標なのではなく、「不羈独立」→「富国強兵」→「公正な政治運営」→「超然主義」という重層的目標の一部であり、恒久的理念でもなく時限的概念だったと指摘し、それを実際の史実描写の中で表現している。

普通対蹠的に扱われる明治憲法と現行憲法について、制定当時の国際社会への参入条件という外発的事情による拘束、設計主義的性格、一種神聖視される硬性憲法であること、制定時の外国人の関与と非公開性(このうち前者の点では旧憲法の方がマシ)、実際の条文と運用の乖離(旧憲法の天皇大権と新憲法の戦力不保持)など、数々の共通点を持っているとの指摘には思わずニヤリとしてしまう。

この天皇不親政という不文律と実際の条文のズレを埋めるための重要な柱が元老の存在だったわけだが、その資格が維新と明治国家建設への貢献という一回性の現象に拠っていたため、旧憲法は元老の死去・消滅という時限爆弾を抱えていたと評されている。

元老の名前は全て憶えましょう。

まず長州から伊藤博文山県有朋井上馨

薩摩から黒田清隆松方正義西郷従道大山巌

まずこの7人の名がすぐ出てくるようにすること。

彼らが、20世紀に入って、1901年第一次桂太郎内閣成立とともに政界の第一線から退きつつも、首相選任権を行使して大きな影響力を保持し続ける(後述の通り、黒田のみはそれ以前に死去している)。

それ以前には、「元老」ではなく「元勲」と呼ぶのが普通。

本書によると、他には、長州の山田顕義が元勲、公家の三条実美は準元勲扱い(両者はそれぞれ1892年、91年に死去したため元老には数えない)。

以後、元老には長州閥で山県直系の桂太郎と、公家出身で伊藤博文から政友会を引き継いだ西園寺公望が加わる。

1885年内閣制度設立以来、20世紀までの首相は、1898年の第一次大隈内閣以外、全て上記7人のうちから選ばれた(自ら組閣しなかったのは井上・西郷・大山)。

1901年から明治末年までは桂園時代なので、結局元老は「(大隈重信を除いて)明治時代に総理大臣になったか、なってもおかしくなかった人」ということになる。

史上、9人しかいない。

(本書では大隈も元老に追加されたと書いてあるが、それは他の本ではあまり聞かない。)

よく知られているように、この元老には、憲法その他、いかなる法的根拠もありません。

しかし、こういう「非民主的な重石」が消えると同時に、議会政治が崩壊に向かったんだから、意図的にそうした存在の継続を保障することが必要だったんではないでしょうか。

著者は、明治の「建国の父たち」が死去していき、「建国者の息子たち」がそれに劣る権威しか持てなかったのは不可抗力でやむを得ないとしているが、首相経験者が「重臣」という曖昧な形ではなく、確固とした地位を占めて議会・軍部・世論の上に立つという体制にならなかったものかと考えてしまう。

あと、具体的史実に関する叙述から、気になったものを以下抜書き。

大成会・国民協会・帝国党・大同倶楽部・中央倶楽部という吏党が唯々諾々と政府に従ったのではないことが印象的。

有名なのは、日清戦争直前、第二次伊藤内閣と自由党の接近に反発して、改進党と国民協会が協力して政府を攻撃した、「対外硬」派連合で、これは教科書に載っている。

首相権限が縮小した1889年の「内閣官制」(伊藤博文についてのメモ その1)は、年代から言って、同年成立の第一次山県内閣で制定されたと私は考えていたのだが、本書によると、黒田内閣と山県内閣の間の暫定内閣である三条実美内大臣兼任首相時期の制定だとのこと。

これは、しかし・・・・・細か過ぎるか。

この暫定内閣自体、めったに出てこないし、軍部大臣現役武官制・文官任用令改正・文官懲戒令および文官分限令制定と並んで、山県内閣の施策として憶えてもいいかと思う。

外交面では、明治国家の成立当初から続いていた厳しい国際環境が義和団事件を機に好転していく様や、日本の独立を十全に保障できる形での日露戦争回避の可能性は極めて少なかったとの判断(この点伊藤之雄『伊藤博文』と異なる)、ハリマン計画を受け入れて満鉄経営にアメリカが参加していたとしても、同時に同国が西太平洋でのシー・パワー拡張と覇権確立を目指している以上、日米対立を回避することは不可能だっただろうとの見解が興味深い。

内政に話を戻すと、いわゆる「藩閥」の系譜について。

長州閥が、政党への態度によって、山県系と伊藤系に分裂。

山県系は官僚政治家の大部分と長州系陸軍軍人が参集、日清戦争後には郷党色を超えて保守的勢力を結集した「山県系官僚閥」というべきものに進化。

伊藤系は立憲政友会という大政党を生むが、政府・官僚内においては大きな勢力にならず。

一方、薩摩閥は1900年黒田清隆死後、黒田派は解体、松方派も求心力が弱く、多くの人材が山県系に合流、海軍と警視庁、および両者に劣るが陸軍でもそれなりに有力な人脈が存在したが、上記の事情により日露戦争後には「薩派」と格下げして呼ばれることが多いとの事(ということは、黒田も桂内閣成立以前に他界しているわけである。でも元老から黒田を外すようなことはまず無い。なお、他の本では黒田が健在な時期でも「薩派」と書いているのを読んだ覚えがある)。

また、第二次内閣における日韓併合と大逆事件のマイナスイメージが大きい、桂太郎について、その立憲主義と社会政策上の功績を高く評価しているのが注目される。

素晴らしい。

前巻とは打って変わって、政治史と外交史中心で、昔ながらのオーソドックスな通史という印象だが、どの概説書および伝記作品にも劣らない内容を持っている。

100%の確信を持ってお勧めできます。

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