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引用文(西部邁8)

西部邁『大衆への反逆』(文芸春秋)より。

経済成長は虚妄であるということについて貴方に同意してもらわなければならない。なぜなら、それは、市場における金銭計算以外の何ものをも意味しないからである。経済成長は福祉の手段にすらなりえない。なぜなら、目的(福祉)と手段(成長)とは内面的にも結びついているのであって、経済成長という手段を公認すれば、そこから思いつく目的は(手段の性質に相応した)市場的富の増大にすぎない。市場的富が技術的次元をこえた価値をもちうるのは、それが人々の(文化的)価値観、(社会的)慣習・伝統および(政治的)イデオロギーと合致している場合である。もちろん、市場の金銭計算においてたたき出されてくる数字そのものが価値であり、慣習であり、イデオロギーであると人々がみなすような状況も考えられる。むしろ、現実はそうした徴候を露わにしつつあるといえよう。

 

しかし、この種の心性は健康であろうか、それとも病的であろうか。それを判断する基準などア・プリオリにあるわけがないという意見がむろんありえて、それによって、現在において人々が価値だとみなしているものが価値なのだという刹那主義の立場が強められもしよう。ただ、私には、次のような想像が思いのほかリアルである。つまり、まったく仮の話であるが、もし、われわれの祖先が生き返ってきて、われわれの生活をみたら、かれらのうちの相当の部分が、自分たちが精神病院に舞い降りたのだと思うにちがいない、という想定である。貧窮のうちに四〇歳で生を終えた農奴ですら、自分の子孫がカップヌードルを食し(私も妻が病気のときは子供といっしょにウマイ、ウマイとほおばるのだが)、夜十一時をすぎれば裸身の女たちの映る小さな四角い画面に見入り(私は、ごく最近になって、テレビを放逐することに成功したのだが)、翌朝となればけたたましい自動車の騒音と満員電車の押し合いへし合いのうちに顔も心も体も歪ませているという様を見やれば、哀れな子孫のために涙するのではないか。

 

ある価値観を絶対視することは危険であり煩わしくもあるが、あらゆる価値を極端にまで相対化してしまうのもどうかと思う。エドワード・ミシャンという経済学者が、「失楽園」と「スーパーマン物語」のあいだに質の高低・優劣をつけるべきではないという類の価値相対主義を批判したそうだが、私もその批判に同意せざるをえない。シェークスピアの劇は、よほどにこれ見よがしの演技の場合は別として、やはり、ストリップ・ショウよりも高級なものだとしなければ、演劇の概念やそこにおける秩序すら不明になるのではないか。経済成長の生み出してきているもののうちには、公害などの負の財はもちろんのこととして、いわゆるgadget(ちょっとばかり工夫をこらした、主としてメカニックな、しかしガラクタとよばれても仕方ないような附属品)が多すぎるのである。その生産・流通・消費のために有限の資源が費消され、社会がいっそうテンスになり、おまけに大衆の選好が低級になっていくのだとしたら、経済成長の意味を懐疑しない方が不思議なのである。かりにわれわれの子孫が未来から帰ってきてわれわれと対話するとしたら、われわれを呪うものも少なくないであろう。先祖はもういないし、子孫はいまだにいないという現在だけをみれば、何ひとつ憂うべきことはないと貴方がいうのなら、私は次のようにいいたい。過去から未来を回顧・展望し、そして他者と自己との広い繋がりを意識せざるをえないところに人間の特徴的条件があるのであって、その能力を喪失する傾向はやはり狂気の症状なのだ。狂気といって言いすぎであれば、極楽蜻蛉だということである。

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