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エリック・ルーセル 『ドゴール  (ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物7)』 (祥伝社)

このシリーズでベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』に続いてこれを読む。

ドゴールの伝記ではラクーチュール村松剛の著書を通読済み。

あと福田和也『第二次大戦とは何だったのか』での小伝も。

ドゴール家はパリのブルジョワ家系。

高祖父は高等法院検察官、革命で財産の大部分を失う。

曽祖父は国民公会によって投獄され、百科全書派思想に失望、のちにナポレオン軍の軍職に就く。

祖父ジュリアン・ドゴールはリールに移住し古文書学者になる。

以前、チャールズ・ウィルスン『オランダ共和国』の記事において、冗談半分で、南ネーデルラント継承戦争でリールを獲得してなければドゴール出現も無かったのだから、「ルイ14世の征服戦争」も利点があったと書きましたが、以上の経緯と年代を考えると、ジョークとしても的外れでしたね。

貧窮生活の中、一家は厳格なカトリック信仰を守り通す。

父アンリ・ドゴールは理工科学校(エコール・ポリテクニック)を経て内務省に入るが、第三共和政の反教権主義により辞職、教職に転ずる。

「ジョゼフ・ド・メーストルの言葉によれば、革命は宗教改革と同じく悪魔的なものであった。革命を愛することは神から遠ざかることである」

だが、ドレフュス事件にあたってはドレフュスの有罪を疑い、それを公言、極右団体アクシオン・フランセーズがヴァチカンから断罪されると、その日刊紙の購読を止める。

このアンリの次男として1890年に生まれたのが、シャルル・ドゴール。

1909年サン・シール陸軍士官学校に入学、卒業後入隊した部隊で当時大佐のフィリップ・ペタンと知り合う。

第一次大戦に従軍、1916年ヴェルダン攻防戦のドゥオモン保塁で三度目の負傷、捕虜になる。

なお、1966年になってドイツの旧兵士が、当時ドゴールは抵抗もせず降伏したとメディアで主張したが、ドゴールは無視した。

第二次大戦時に敵国が宣伝材料として利用しなかったことを見ても、これは虚偽の主張だろうと著者は判断している。

バイエルンのインゴルシュタット収容所に送られ、そこでのちの同志カトルーや、ソ連赤軍の英雄となるトゥハチェフスキーと知り合う。

ここでドゴールの政治思想の解説。

一言で言うと、不本意ながらの共和主義者。

家系が示すように18世紀啓蒙思想への不信を持つが、20世紀になっての王政復古の可能性は信じていない。

この点、クロワ・ド・フー(火の十字団)のラロックと類似している(剣持久木『記憶の中のファシズム』参照)。

モーリス・バレス、シャルル・モーラスなど、アクシオン・フランセーズの極右思想家の著作を読むが、反ユダヤ主義の領域に引き込まれることは拒否する。

1919、20年にポーランド軍顧問団への配属を志願し、ソヴィエト軍と戦う(これもラロックと共通)。

ペタンの推挙によって軍内で昇進を重ねる。

第三共和政への不信を持つが、軍によるクーデタなどは否定するリアリズムと賢明さを持つ。

ドゴールは、戦車を集中配備した機甲師団創設を主張(ただし空軍力の重要性は必ずしも十分に認識せず)し右派議員ポール・レイノーの賛同を得たが、ブルム内閣国防相のダラディエが反対、ペタンとも決裂する。

第二次世界大戦開戦、大統領アルベール・ルブランの下、1940年3月に首相がダラディエからレイノーに交代。

5月にドイツ軍が大攻勢、ドゴールは一部機甲師団を指揮し反撃。

最高司令官はガムランからウェイガンへ交代、ペタンが副首相、ドゴールは国防次官になる。

ドイツ軍の侵攻によって政府はパリからトゥール、さらにボルドーに移転。

ウェイガンとペタンは休戦を唱えるが、ドゴールはあくまで英国と連携し、米国の支援に期待をかけ徹底抗戦を主張。

このフランス降伏直前時に、フランスの抗戦意欲を維持するために、英仏の単一国家への合邦という驚きのプランが検討され、国民国家の独立を何より重視するドゴールも同意するが、これは全くの画餅に終わる。

首相レイノーは辞任、ペタンが後任となり、ドゴールはロンドンに亡命、6月18日BBC放送での史上有名な抗戦アピールを行う。

英にはフランス海軍力の後背への懸念と配慮があり、当初ペタン政権を完全に否認できなかったが、6月末ドゴールの自由フランス政府を承認、7月メルセルケビール作戦で仏海軍への攻撃に踏み切る。

ジャン・モネらのように抗戦派だが反ドゴールの立場を採った人物もいたが、ガストン・パレフスキー、ルネ・プレヴァン、ミュズリエ提督、ジャック・スーステル、カトルー(インドシナ総督を解任された)、ピエール・メスメール、ルクレール、ジャック・マシューらが参集。

7月ヴィシー政府成立、8月ヴィシーはドゴールに死刑宣告。

9月自由フランス政府によるダカール奪取作戦が失敗するが、チャド、ガボンは自由仏派へ。

ドゴールにとっては、フランスの正統性と代表権を主張し、国内レジスタンスの主導権を可能な限り共産系から奪うことが課題になる。

また、ヴィシーも完全な傀儡政権ではなく、対独協力の一方、水面下で英国と接触し、12月には親独派のラヴァルを解任するなど、微妙な舵取りを採る。

12月シリア・レバノンのヴィシー側高等弁務官との交渉で、当地域が英仏軍統治下に入る。

ドゴールは、同志たちの多くが抱いていた通俗的共和主義とは違い、第三共和政への軽蔑を隠さず、「自由・平等・博愛」の信条に「祖国と名誉」を加え、集権化制度への支持と革命前後を含むフランスの全ての歴史を許容するという立場を示し、モーラスの思想すら、政府の役割と世界におけるフランスの地位については受け入れた。

そのため、「反民主的」との疑念にさらされることにもなった。

自由フランス内ではミュズリエとの勢力争いが発生、同盟国のイギリスとの軋轢も絶えず、ドゴールを実権の無い象徴的地位に祭り上げようとする動きが起こる。

アメリカも、この時期ヴィシー政権の穏健化と対独離間策を主な政策としていた。

米国政府内でもリーヒー提督ら反ドゴール派が存在し、当時米国に滞在しており、後年ドゴール政権で外相・首相を務めるモーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィルもそれに異を唱えない状況だった。

41年に入り、独ソ戦が始まり、真珠湾攻撃で米国が参戦するなど、情勢が好転する中、現実政策の面からソ連へ接近、ジャン・ムーランによる国内レジスタンス統一に際しては、共産系へ譲歩。

42年11月米英軍がモロッコ・アルジェリアに上陸、本格反抗が始まるが、米国はドゴールよりむしろ、ドイツから脱走してきたジロー将軍を支持。

アルジェのダルラン提督は米国との交渉に踏み切りペタンによって解任、独軍は仏南部に侵入しヴィシーは完全に傀儡化。

12月にダルランが暗殺されるが、これにドゴールが関与していたかは不明とされている。

43年1月モロッコのカサブランカで、チャーチル、ルーズヴェルト、ドゴール、ジローの四者が会談、ジローのアルジェ掌握が決まるが、成立した国民解放フランス委員会は巻き返しがあり、11月にはドゴールの主導権が確立する。

戦勝国によってフランスに軍政が敷かれ占領扱いになることにドゴールは強硬に反対、イーデン、アイゼンハワーらの理解を得て主張を貫くことに成功。

44年6月ノルマンディー上陸作戦、同月国民解放フランス委員会は臨時政府に改組、8月パリ入城。

45年2月ヤルタ会談には参加できなかったが、国際連合安保理常任理事国の地位とドイツ占領権は得る。

戦勝国の一員となったものの、インドシナなどの植民地では反乱が続発(ここで高校世界史では出てこない人名だがチュニジアのブルギバ[1957~87年大統領]を覚えておきましょうか)。

45年秋の選挙で、共産党が国民共和運動(MRP)と社会党(SFIO)を抑えて第一勢力に。

46年1月ドゴールは臨時政府首班を辞任、社会主義者のグーアンが後任、10月憲法採択、社会党ヴァンサン・オリオール大統領の下、第四共和政成立。

47年3月社会党ラマディエ首相就任、5月に共産党閣僚を追放。

同年3月ドゴールは自前の政治組織として、フランス国民連合(RPF)を組織。

一時支持を集めたRPFだが、植民地の独立要望に対する曖昧な態度や、冷戦進行で非現実的になったドイツ分割政策への固執、51年調印(52年発効)のヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)など欧州統合への反対、過度の反共主義によって、徐々に党勢は後退。

不遇のうち、引退状態になったドゴールだが、アルジェリア危機に際して58年首相復帰。

59年大統領権限を大幅に強化した第五共和政樹立、初代大統領に。

(第五共和政は成立後50余年で、まだ第三共和政の方が長いが、おそらく近代フランス最長の政治体制になるでしょう。)

復帰してからの10年はよく知られているんで、流します。

UNR(新共和国連合)が与党、ミシェル・ドブレ、モーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィル、シャバン・デルマス、ジョルジュ・ポンピドゥー、ヴァレリー・ジスカールデスタンらが側近。

政権復帰の発端であったアルジェリア問題ではサハラの石油への固執も持ったが、結局独立を承認(しかし同時に、本書では親仏派現地人への冷酷とも言える対応についても記している)。

対米自立外交を繰り広げながらも、62年キューバ危機に際してはケネディ政権の対応を全面的に支持。

68年五月危機も乗り切ったかに見えたが、69年辞職、70年死去。

末尾辺りで、印象深い文章がある。

彼に言わせれば、国家の改革はきわめて困難である。なぜならば、1789年の絶対君主制の崩壊以来、国家は堕落したからだ。いま、国家に内在するただ一つのスケールの大きい能力は、直接普通選挙によって共和国大統領を選出することである。「それはフランスが大統領制を採用することを意味するのではない」と彼はさらに強調する。フランスは根底から君主制的な国家であり、そのことは政党や利害による避けがたい日常的な騒ぎを超えた行政権を要請する。

また、以下の述懐も。

「フランス人なんて、嗚呼、つまらないものだ。イタリア人でもアメリカ人でも同じことだ。ソヴィエト人も次第にそうなっていくだろう。それが時代の要請であり、法則だからだ。現代人は英雄ではない。私が去ってからというもの、国際レベルでは何もかも停滞してしまった。」

さらに、引退後の内輪での会話として記されている言葉。

「私の人生で心残りなのは、君主制をやらなかったこと、そのために必要なフランス王家のメンバーがいなかったことだ。実際には、私は10年間、君主だった。フランスの政治というものを持っているのは私だけなのだ。」

これはちょっと妙である。

20世紀初頭の時点で、父親の王党派的信念にも関わらず、王政復古はもはや現実的ではないと判断しているのに、さらに万に一つの可能性も無くなった20世紀後半に内輪話とは言え、このように発言しているのだが、どこまで本気なのかかなり疑わしい。

しかし、興味深い言葉ではあります。

細かな史実にも触れ、内容は充実しているが、少し読みにくい。

普通の日本人読者にとっては最低限の予備知識が無いとわかりにくいでしょう。

訳文もこなれておらず、文脈からすると肯定・否定が逆でないと意味が通らないのでは? と思われる部分もいくつかあった。

戦後史は、渡辺啓貴『フランス現代史』の方がいいかもしれない。

個人的には結構面白かった気がするが、是非お勧めしますと断言できないのが辛いところであります。

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