カテゴリー「ドイツ」の59件の記事

谷喬夫 『ヒムラーとヒトラー  氷のユートピア』 (講談社選書メチエ)

2000年刊。

著者の下のお名前は「たかお」とお読みするそうです。

本書において、20世紀は世俗的イデオロギー(擬似宗教)をめぐる宗教戦争の時代と捉えられる。

18、19世紀以後、啓蒙時代に社会の意味と共存していた理性が、自然科学の発達と共に対象の数量化のみに係わる「道具的理性」に変質し、世界全体の意味との結びつきを失う。

社会的には、伝統的信仰を失い、情緒的・欲動的・非合理的に行動する大衆が台頭し、彼らは技術合理的産業社会の成果に依拠しながら、ナショナリズム・社会ダーウィン主義・人種主義などの擬似宗教にのめり込む。

それら低劣なイデオロギーを煽るブラック・ジャーナリズムがほとんど制限無しに許容され、大衆・モッブ(無頼の徒)をますます悪質な存在にしていく。

こうして科学と非合理的イデオロギーが矛盾せずに共存、「文明の再野蛮化」ともいうべき事態が進行。

ナチズムの持つ合理性はあくまで19世紀進歩思想の後継者であり、無限の進歩と完璧な社会を目指す意味では両者は同根。

(しかしここで著者がナチズムの特性として「反近代」という言葉を用いていることには違和感を持った。)

19世紀の科学技術発展が物質的繁栄を導き民主化が進行、加えて帝国主義の風潮が高まる。

それらを支持したのは産業社会形成により解放された、ブルジョワジーより下の階層に属した大衆であり、こうして社会全体の欲望が無限に解放されたが、同時に不平不満も鬱積。

民主化により、大衆・モッブの意向を無視して何事も行い得なくなり、彼らが俗流ダーウィン主義や人種理論に染まれば、それを止める手段が全く存在しなくなってしまう。

有史以来、何千年も人間精神を律してきた宗教的信仰が後退すると、大衆は即、このような醜悪な世俗的イデオロギーに捕われたわけである。

加えて、君主や貴族の消滅は、野卑で粗暴なナショナリズムを振りかざす大衆による、史上最悪の殺戮戦争に繋がった。

「自由・平等・進歩・革新・デモクラシー・世論・民意・合理・世俗化・個人主義」と「宗教・伝統・慣習・保守・世襲原理・身分制秩序」を比べて、どちらが全体主義と親和的かと尋ねたら、通俗的イメージからして、ほぼ全ての人が後者だと言うでしょうが、本当は全く逆なんですよね。

むしろ後者の抑制要素を破壊し続け、前者の奇麗事に身の程知らずに没入した民衆が全体主義を生み、世界戦争を引き起こしたと言うべき。

とは言え、(本当に無念で嫌悪すべきことですが)やはり民主化は歴史の必然ですから、もう人類に救いの道は無いでしょう。

あと200年程もてばいい方じゃないでしょうか。

全般的思想的解釈の後、ドイツ史の具体的事例が叙述される。

気になったところを何点か取り上げると、まずナチ支持者の中での若年層の比率の高さが指摘されていた。

100年以上の単位でなくても、わずか一世代で、古い世代の伝統的信仰を「迷信」と嘲笑った若年層が、自分たちはそれより遥かに醜悪な擬似宗教を軽信して、その愚かさに気付きもしないという現象が見られるのは興味深い。

上述の対比に「若さ」と「老成」も加えるべきでしょうか。

あと、人種至上主義のヒトラーは国家そのものには決定的重要性を認めず、この点でドイツの伝統とは完全に異質だと述べられている。

考えてみれば、ヒトラーの人種主義をナショナリズムの現われと誤認した保守派の致命的錯誤がドイツを破滅に導いたとも言える(ニッパーダイ『ドイツ史を考える』ナチについてのメモ その5)。

さらに具体的記述でナチ親衛隊組織について。

頂点に親衛隊帝国指導者兼ドイツ警察長官のハインリヒ・ヒムラーがいる。

その下に作戦本部と帝国保安本部があり、作戦本部下に一般親衛隊と武装親衛隊が存在し、武装親衛隊にいわゆる髑髏部隊が属する。

帝国保安本部から保安部(SD)と特別行動隊(アインザッツグルッペン)とジポ(保安警察)が分かれ、ジポの下に悪名高いゲシュタポ(秘密国家警察)がある。

あとは、反ユダヤ主義と生存圏構想、戦時の東方住民強制移住や「最終的解決」についてあれこれ述べられているが省略。

本文はここまでだが、あとがきに以下の重要な文章がある。

ナチズムを批判しつつコミュニズムを擁護するという進歩主義が完全に破綻したことを記したあと、

ナチズムとコミュニズム、すなわち、人種・民族のユートピアとプロレタリアート世界革命の国際主義ユートピアは、なるほど人類の歴史にかつてない蛮行の痕跡を残した。それでは、今日そのどちらも批判的に考察しうる立場は、巷にいわれるように、両者に勝利した自由主義と市場経済ということになるのであろうか。しかし、思想的にみた場合、自由・民主主義は、フランシス・フクヤマ(『歴史のおわり』・・・・)のいうように、歴史の終焉を意味するほど普遍的かつ魅力的な思想なのであろうか。

わたしは、昨今の自由主義と市場経済の生み出した精神とは、競争と効率の物神化、生を金と名誉に還元する俗物根性の肯定でしかないのではないか、という疑念を払拭することができない。なるほど自由主義が伝統を有する所では、リベラリズムには、大衆民主主義にはない精神の自立性と優れた秩序感覚が継承されている。

しかしわが国のように(同じような国が多数派だと思うが)、リベラルな細胞を発見するためには、顕微鏡でも覗かねばならないような所では、自由主義が単なるエゴイズムの代名詞にしかならない可能性は限りなく大きい。わが国では、自由主義は、その内部に、それ自身に対する原理的、超越的批判を絶えず組み込んでおかない限り、とんでもない俗物精神に転化するしかないのである。

いずれにせよ、「先進」諸国の公共空間では、当分ユートピアの電圧は低下したまま推移するであろう。それに代わって、自由主義と市場経済の低俗さに飽き足らない心情は、行くあてもなく、群小の新興宗教やカルト集団などのなかで、ますます奇形的な夢を紡ぐことになるのであろう。

素晴らしく透徹した認識。

実はこのあとがきを先に読んで、通読する気になった。

しかし中盤で、プラトン『国家』を全体主義的ユートピアの例として挙げているのは極めて不適切に感じる。

カール・ポパーが『開かれた社会とその敵』という著作で、プラトンを全体主義の祖として非難していることは、無知な私でも仄聞しているが、それに準じる形で何の留保も付けずそう記すのは、上記引用文とも整合的ではない。

コーンハウザーの社会の四類型を使えば、「多元的社会」から「大衆社会」、さらには「全体主義社会」への転落がほとんど必然とも思えるほど、歴史上に醜い惨劇が満ち満ちている以上、「多元的社会」を無条件で善と見なすのを止め、「共同体的社会」を可能な限りそのまま維持して「多元的社会」への移行を阻止すべきだという考えが生まれてきて当然である。

その「共同体的社会」を維持するための規制や拘束や束縛を、「全体主義社会」の抑圧と同一視するのは完全に倒錯している。

プラトンの思想もその文脈に沿って理解されるべきであり、むしろ自由民主主義への平板な肯定と民意への安易な信頼こそが、全体主義を生み出す素だと考えるべき。

むしろ以下の文章を読むと、われわれ民衆という生き物は、2500年前から何の反省も自己懐疑も無しに同じ過ちをますます大規模かつ深刻に繰り返して来ているんだなと思わざるを得ない。

「民主制国家は何を善と規定していると言われるのですか?」

「<自由>だ」とぼくは言った、「じっさい、君はたぶん、民主制のもとにある国で、こんなふうに言われているのを聞くことだろう――この<自由>こそは、民主制国家がもっている最も善きものであって、まさにそれゆえに、生まれついての自由な人間が住むに値するのは、ただこの国だけである、と」

「ええたしかに」と彼は言った、「そういう言い草は、じつにしばしば人々の口にするところですね」

「では、いま言いかけていたように」とぼくは言った、「そのようなことへのあくことなき欲求と、他のすべてへの無関心が、ここでもこの国制を変化させ、僭主独裁制の必要を準備するのではないだろうか?」

「どのようにしてですか?」と彼はたずねた。

「思うに、民主制の国家が自由を渇望したあげく、たまたまたちのよくない酌人たちを指導者に得て、そのために必要以上に混じりけのない強い自由の酒に酔わされるとき、国の支配の任にある人々があまりおとなしくなくて、自由をふんだんに提供してくれないような場合、国民は彼ら支配者たちをけしからぬ連中だ、寡頭制的なやつだと非難して迫害するだろう」

「ええ、たしかにそういう態度に出るものです」と彼は答えた。

「他方また」とぼくはつづけた、「支配者に従順な者たちを、自分から奴隷になるようなつまらぬやつらだと辱めるだろう。個人的にも公共的にも賞賛され尊敬されるのは、支配される人々に似たような指導者たち、支配者に似たような被支配者たちだということになる。このような国家においては、必然的に、自由の風潮はすみずみにまで行きわたって、その極限に至らざるをえないのではないかね?」

「そうならざるをえないでしょう」

・・・・・・・

「そういうことのほか」とぼくは言った、「次のようなちょっとした状況も見られるようになる。すなわち、このような状態のなかでは、先生は生徒を恐れて御機嫌をとり、生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育掛りの者に対しても同様の態度をとる。一般に、若者たちは年長者と対等に振舞って、言葉においても行為においても年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分を合わせて、面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために、若者たちを真似て機智や冗談でいっぱいの人間となる」

「ほんとうにそうですね」と彼。

・・・・・・・

「すべてこうしたことが集積された結果として」とぼくは言った、「どのような効果がもたらされるかわかるかね――つまり、国民の魂はすっかり軟らかく敏感になって、ほんのちょっとでも抑圧が課せられると、もう腹を立てて我慢ができないようになるのだ。というのは、彼らは君も知るとおり、最後には法律さえも、書かれた法であれ書かれざる法であれ、かえりみないようになるからだ。絶対にどのような主人をも、自分の上にいただくまいとしてね」

「よく知っています」と彼は言った。

「それではこれが、友よ」とぼくは言った、「僭主独裁制がそこから生まれ出てくる、かくも立派で誇り高い根源にほかならないのだ。ぼくの考えではね」

「たしかに誇り高くはありますね」と彼は言った、「しかし、それから後はどうなるのですか?」

「寡頭制のなかに発生してその国制を滅ぼしたのと同じ病いが」とぼくは言った、「ここにも発生して、その自由放任のために、さらに大きく力強いものとなって、民主制を隷属化させることになる。まことに何ごとであれ、あまりに度が過ぎるということは、その反動として、反対の方向への大きな変化を引き起こしがちなものだ。季節にしても、植物にしても、身体にしても、みなそうであって、そして国家のあり方においても、いささかもその例外ではない」

「当然そうでしょう」と彼。

「というのは、過度の自由は、個人においても国家においても、ただ過度の隷属状態へと変化する以外に途はないもののようだからね」

「たしかにそれは、当然考えられることです」

「それならまた、当然考えられることは」とぼくは言った、「僭主独裁制が成立するのは、民主制以外の他のどのような国制からでもないということだ。すなわち、思うに、最高度の自由からは、最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくるのだ」

プラトン『国家 下』より)

非常に読みやすい。

中盤の具体的事例はあまりメモしなかったが、それなりに有益。

それより全般的史観の点で教えられるところが多い。

しかも高校レベルでも十分取り組める難易度。

お勧めします。

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ハプスブルク家についてのメモ

河野淳『ハプスブルクとオスマン帝国』(講談社選書メチエ)の記事続き。

対オスマン最前線として「兵営化」していたクロアチアの軍事植民制について。

軍役の替わりに土地を与えられ、在地領主の支配を免れ、ハプスブルク家に直属、裁判・行政においても大幅な自治。

クロアチアはカトリック圏であるにも関わらず、植民者の正教信仰維持が認められ、これは最大の宗教戦争である三十年戦争中でも撤回されなかった。

クロアチア諸侯は中世以来の「人体としての国家論」に基づく王国の一体性を主張し、軍事植民者の自治廃止を訴えたが、国境防衛の重要性の見地から現実論を説くハプスブルクに拒否される。

中世的思弁政治から近代的実証主義政治への移行の前提となる心性について。

「数量化革命」=中世後期からルネサンスにかけて、ものの性質を問題にする考えから、その数量を問題にする考えへと人々の心性が変化したことを示す言葉、クロスビーの論。

「16世紀文化革命」=山本義隆が主張、数量化にとどまらない経験的知のあり方が文字利用の拡大を背景に社会に普及、実践的知識が古典的知をおしのけたことを示す。

その実戦的知が大学というハイカルチャーの場でさらに発展し、17世紀「科学革命」(この言葉は高校教科書にも出てる)に繋がる(ニュートン、ボイル、ホイヘンス、ラヴォワジェ、ハーヴェーなど)。

近代政治は立憲政治のことか?という問題提起。

憲法・国制など抽象的概念装置が公的なものとして秩序を保つことは近代的とは言えない、中世キリスト教共同体の役割を個別の世俗国家が受け継ぎ完成させただけであり、立憲政治自体、イギリスのように目に見えない国王に対する信仰を出発点にしており、立憲的要素とは中世的なものである。

実証主義政治は近世前半の思想のない政治。

英=上記の通り思弁政治が主、17世紀内乱を経て実証主義政治へ。

仏=「ナショナルな聖性」が王権神授説で継続、大革命で実証主義政治に向かうが、同時にナショナリズムという別の思弁政治を生み出す。19世紀以降の他国と同じく思弁・実証主義両政治の共存。

ハプスブルク=オスマンという外圧により実証主義政治に。

フェルディナント1世、マクシミリアン2世の非宗教的実証主義政治。

マクシミリアンの子ルドルフ2世、その弟マティアスに続く、いとこのフェルディナント2世(在位1619~37年)は帝国の再カトリック化という思弁政治的行動を採り三十年戦争へ(しかし対オスマン戦では実証主義政治を維持[クロアチア軍事植民者の自治特権維持])。

1683年第二次ウィーン包囲撃退、1699年カルロヴィッツ条約でオスマンの脅威は大きく後退。

続くスペイン継承戦争で世界帝国を再建するという思弁政治的行動が出るが、18世紀半ばのマリア・テレジア、ヨーゼフ2世時代には実証主義政治が定着。

途中から箇条書きのメモになったので、何やら訳がわからない部分もあるでしょうが、まあ気になる方は実際にお読み下さい。

事前に思っていたよりは面白かったので、書名一覧での評価は予想の2から3にするか迷う。

しかし、最近「評価3、易」が多過ぎるかもしれないので、あえて2にしますか。

特に強い印象を受けなかった本は、つい3にする癖がついてしまっている。

「3」の範囲がやたら広くて、「2」「4」が狭く、「1」「5」はめったに付けません。

以後少しはメリハリを利かせることを心がけます。

難易度についても、最近はやや根気がついて、わからない部分は飛ばし読みすることに慣れてきたので、「易」が多い。

まあ古典的著作は大抵「難」を付けますが、これも少し歯ごたえのあるものは「中」を意識して付けることにします。

追記:

当記事とは全然関係無いんですが、A・J・P・テイラー『第二次世界大戦の起源』(中央公論社)が講談社学術文庫で復刊されたようです。

初心者には少々厳しい内容ですが、やはり重要な本だと思いますんで、未読の方はこれを機に通読するか、もしくは品切になる前にとりあえず購入されては如何でしょうか。

それにしても、中央公論刊だった名著の版権譲渡が目立ちます。

営業上の御判断に口を挟むつもりはございませんが、買収前の中央公論社の世界史関連書籍に大いに親しんだ者としては、幾ばくかの物悲しさを覚えます。

そういえば、高坂正堯氏も最晩年はあまり中公から著作を出されませんでしたね。

どうせ読売傘下に入ったのなら、『ジョージ・F・ケナン回顧録』(読売新聞社)なんかは中公名義で復刊してくれませんかね。

今でも、とりあえずは一番応援したい出版社ではあるので、良書復刊とその長期在庫に淡い期待を持ち続けることにします。

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河野淳 『ハプスブルクとオスマン帝国  歴史を変えた<政治>の発明』 (講談社選書メチエ)

世界史関係で手頃な良書揃いで、このブログでも度々記事にする講談社選書メチエからまた一冊。

と言っても実は本書は立ち読みでの印象はあまり芳しくなかったが、たまたま手元に読む本が無かったので通読。

近世初頭、オスマン帝国の脅威を受けたオーストリア・ハプスブルク帝国の政治を分析した本。

まずウォーラーステインの「世界システム論」から筆を起こし、それが市場原理の自動的働きにより「中心」「周縁」「半周縁」という国際的地位が形成されたことを説く理論であるのに対し、本書では国家の政治的軍事的行動の重要性を強調、ハプスブルク家がオスマン朝をバルカンに押し止めたことが近代世界システムの確立に決定的であったと評価している。

具体的史実を挙げた部分に沿ってメモすると、まず1389年コソヴォの戦いでセルビアがオスマン支配下に入り、1453年ビザンツ帝国滅亡。

1440年フリードリヒ3世以後、神聖ローマ帝国帝位は常にハプスブルク家に。

子のマクシミリアン1世がブルゴーニュ公女マリアと結婚してネーデルラント獲得。

その子フィリップ美公がスペイン王女フアナと結婚して両者から生れたカール5世(カルロス1世)がスペイン・オーストリア両国を統治(他にネーデルラント、ナポリ、それに加えて新大陸領土も)。

カールの弟フェルディナントがボヘミア・ハンガリー王女アンナと結婚、妹マリアは同国王ラヨシュ2世と二重縁組が結ばれる。

このラヨシュ2世はヤゲウォ家出身。

高校世界史だと、「ヤゲウォ朝=ポーランド(とリトアニア)」というイメージだが、近世初頭には一時ボヘミアとハンガリーを含め、中東欧四ヵ国の王位を占めていた(中公新版世界史全集『ビザンツとスラヴ』参照)。

ところが1526年モハーチの戦いでラヨシュ2世はオスマン軍に敗死、ブダ(現首都ブダペストの一部)を含むハンガリーの主要部分はオスマン領となって、ボヘミア・ハンガリー王位は上記婚姻関係によりハプスブルク家に転がり込んでくる。

(ちなみにヤゲウォ朝は1572年ポーランドでも断絶、選挙王制に移行。)

1556年カール5世退位後、スペインは子のフェリペ2世、オーストリア・ハンガリー・ボヘミアは弟のフェルディナント1世が継ぐ。

フェルディナント1世の次がマクシミリアン2世(在位1564~76年)。

本書後半ではこのマクシミリアン2世の治世が多く扱われている。

ハプスブルクを脅かしたオスマン朝軍のうち正規軍はシパーヒーとイェニチェリに分かれる。

シパーヒーはティマール(封土)を与えられた封建的騎兵。

それに対しイェニチェリは元キリスト教徒子弟から徴集した火器を装備した歩兵で、こちらが軍の主力となっていく。

ハンガリーの多くがオスマン領になったこの時期、ハプスブルク帝国防衛の最前線はクロアチア。

この国は中世以来ハンガリーと同君連合を形成していた(南東欧諸国史概略)。

(それに対し同じ旧ユーゴ構成国のスロヴェニアは近代に至るまで独自国家形成せず。)

近世のイギリスなどは中世封建制を打破し徴税制度を導入と常備軍整備を成し遂げた「財政・軍事国家」モデルとして理解される。

クロアチアは多大の軍備が置かれたものの財政基盤は到底それを支え得るに足らず、「財政なき軍事国家」とでも言うべき状態。

しかし一国単位ではなく神聖ローマ帝国全体を眺めると、帝国内の軍事力の弱い中小領邦が対オスマン防衛費用を負担、各国の分業と機能分化が認められる。

クロアチアは「財政なき軍事国家」であると同時に「開かれた軍事国家」であり、他領邦は「開かれた財政国家」であると言える。

この防衛費用負担に当たって、キリスト教世界全体の統治者というフィクションを持つ皇帝は英仏国王のような「ナショナルな聖性」を発揮することができず、「公益」や「共通の危機」を訴え、具体的情報を提示し、事実に基づく現実主義的心性を育み、それが近代政治の誕生に繋がるというのが本書の主要テーマ。

帝国に「トルコ税」(防衛費)を課すため、民衆レベルではパンフレットなどでオスマンの脅威をしばしば実態以上に誇張した形で宣布。

帝国議会レベルでは上記現実主義的心性による議論のあり方が認められ、それが中世的「思弁政治」と区別される近代的「実証主義政治」の始まりであるとされている。

この帝国議会は選帝侯部会、諸侯部会、都市部会の三つに分かれ、どの部会にも皇帝自身は参加できないが、ハプスブルクはオーストリア大公として諸侯部会に参加しているし、提議・意見修正要求・決議拒否による議論の誘導が可能であった。

マクシミリアン2世即位後の、オスマンとトランシルヴァニア侯連合軍に対するハプスブルクの戦争についてかなりの紙数を割いて書かれているが、細かな具体例はパスして、以上のような視点を確認できればそれでよいでしょう。

それほど長々とメモしたい本でもないんですが、一つの記事にするにはちょっとだけきついんで、続きます。

(追記:続きはこちら→ハプスブルク家についてのメモ

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ナチについてのメモ その7

明けましておめでとうございます。

今年一発目は、その6に続き、グイド・クノップ『ヒトラー 権力掌握の二〇ヵ月』より。

SA(突撃隊)の党上層部への批判が不穏な空気を醸し出す中、1934年6月、副首相パーペンが体制批判的な演説を行い、外相ノイラート、財務相シュヴェーリン・フォン・クロージクと共に辞表を提出。

演説は、顧問のエトガー・ユングが執筆したもの。

聴衆は目を見開いて、この反ナチの狼煙になったかもしれない演説に耳を傾けた。連立パートナーである保守派がヒトラーの党に苛立っていたことのすべてが、ここには述べられていた。「政治が宗教的領域に干渉するなら、その対象となった人々は、反自然的な無制限の権力支配に対して、宗教的理由から拒否せざるを得ない」・・・・・「ドイツ国民は暴力と不正に敏感である。偽りの美化によって欺こうとする無様な試みを嗤う。声高なプロパガンダであっても、それだけで長期的に信頼を維持することはできない」・・・・・かつてヒトラーの首相任命にあたって保守派は不名誉な役割を演じたが、副首相はその事実をなかったことにしたいかのようだった。当時、ゲーテの描く「魔法使いの弟子」のように、パーペンは暗黒の力を御することができると思い込んでいた。今、おそらく彼にはわかったのだろう。実はヒトラーこそが魔法使いの師匠であり、鉄の箒でもって舞台から敵を一掃するつもりであったのだ、と。

パーペンに対して当然ながら峻厳な評価を下している、ゴーロ・マン『近代ドイツ史』でも、この演説についてだけは誉めている。

即座にゲッベルスが報道管制を敷き、ヒトラーがいつもの通り、冷静さと余裕を装った、嘲笑と侮蔑に満ちた反論を吐いたが、事態は予想以上に流動的。

ヒンデンブルクと国軍もSAの暴状に不満を募らせていることが伝えられる。

ここで、大統領・保守派・軍部の連携が実現し、戒厳令布告、ナチ政権排除、権威主義的軍事政権樹立となっていれば、ドイツも世界も救われたはずなのだが、残念至極にもそうした展開にはならなかった。

ヒトラーはSA粛清の態度に決し、それを条件に大統領と軍を宥め、保守派勢力を孤立化させ排除するという手段にでる。

6月30日、レームらSA幹部を電撃的に逮捕、処刑。

同時にナチ体制への潜在的反対者をも抹殺する。

まず、上記エトガー・ユングが殺害、パーペンはあやうく死を免れる。

ナチ党の元反ヒトラー派グレゴール・シュトラッサー、かつてミュンヘン一揆を鎮圧したバイエルンの右翼政治家カール、前首相で軍の実力者だったシュライヒャー将軍も抹殺された。

宣伝組織は、ナチ体制の芳しからぬ事象の罪をすべてSAに被せ、SA粛清があたかもヒトラーが「穏健化」した証拠であるかのような錯覚をヒンデンブルクと軍、そして一般国民に植え付けることに成功する。

実際には、トカゲのしっぽ切りそのもので、自らの卑劣・野蛮・醜悪な意志を忠実に実行していた手先を、冷酷無残に切り捨てただけに過ぎないのに。

正規軍に取って代わる野望を抱いていたSAが排除されたことで、国家の唯一の実力組織の地位を維持したことに満足し、シュライヒャーの殺害すら受け入れた、国防相ブロムベルク、陸軍統帥部長官フリッチュ、ライヘナウらの軍主流派はあまりにも愚かだった。

国軍の独立性など現実には存在せず、SAに替わり、ヒトラーに絶対的忠誠を誓うSS(親衛隊・長官ヒムラー)が台頭、国家のナチ化は取り返しのつかない地点にまで進む。

34年8月大統領ヒンデンブルク死去、ヒトラーは「首相兼総統」として全権を握り、それが国民投票で承認される。

(高校時代、「総統」が大統領と首相の権限を併せた職名だと説明されていた気がしましたが、本書では大統領は故ヒンデンブルクの称号として残し、自らは首相兼総統と呼んでほしいというヒトラーの言明が載せられていますから、総統というのはナチ党党首の称号に過ぎないのか?)

この国民投票では、なお一割の反対票があったことが記録されているが、適切な代表制を通じて選ばれ、確固とした特権に守られた議員による議会での自由かつ穏当な議論が無い国家での人民投票など、独裁のカモフラージュと正当化に使われるだけである。

まだ自由な反対者が存在する余地があるかのような誤解を国内外で与える恐れがある分、より悪いとすら言える。

1938年にはノイラート、ブロムベルクがナチの陰謀であるスキャンダル工作によって解任され、この年から「平時のナチズム」は終わり、ヒトラーはかねてからの戦争政策を推し進めることとなる。

ようやく終わりました。

通読していくと、いやーな汗が出てきたり、恐ろしくなって思わずページを閉じ、沈思黙考してしまう箇所が、あまりに多い本でした。

まるで寄生虫的エイリアンが人間の体内に侵入し、外見上何も起っていないかのように見えるうちに、内臓を次々貪った末、ついには腹を食い破って出てくるかのような歴史である。

「昔は言論の自由が制限され民主化も不十分で、社会の中に君主制や貴族制の残滓である前近代的・非民主的な要素が多かったせいでファシズムが生まれたけれども、今は民衆が主権者となり民主主義が完全に定着したから、もうあんなことは起りえないですね、目出度し目出度し」という物語に安住することが、どれほど愚かで危険なことかを思い知らされる。

率直に言って、こうした事態は現在の民主主義国でも、いや民主主義国だからこそいつ繰り返されてもおかしくないと思います。

本書も実に読みやすく、面白い。

しかし本文の外に枠で囲って置かれている同時代人や登場人物の親族の証言が通読にあたって邪魔に感じる。

写真が多いせいもあり、本文は結構速く読み進められるのに、それでペースを乱される感がある。

それ以外は短所はほとんどありません。

関連書としては、まず何と言っても林健太郎『ワイマル共和国』

気付けば初版刊行後、半世紀近くにもなる本で、一部古い箇所も見受けられるんでしょうが、しかしこの本の初心者向け物語的史書としての完成度は本当にすごいです。

初めて読み終えた時の感動と充実感は今も決して忘れられません。

同じく、セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』も絶対のお勧め。

この二つは、このブログで取り上げた全ての本の中で、ベスト30はもちろん、ベスト10にも入ります。

それらを読んだ後、本書に取り組めば、得るものが多いと思います。

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ナチについてのメモ その6

その5に続き、グイド・クノップ『ヒトラー 権力掌握の二〇ヵ月』(中央公論新社)より。

1933年1月の首相就任後、ヒトラーは当面最も警戒すべき軍部を軍備拡張の約束で懐柔、すでに自然回復の兆しをみせていた経済情勢もプロパガンダに利用。

2月国会議事堂放火事件。

本書ではこの事件自体はナチの陰謀ではなく、やはりアナーキスト的傾向を持つオランダ人共産党員リュッベの単独犯だとしている。

もちろんこれをナチが自らの独裁確立のため最大限に利用したことも事実であり、「国民と国家の防衛のために」と題した緊急令発布。

報道・言論・集会の自由は失効し、司法手続抜きの「保護拘禁」が容認される。

3月「ポツダムの日」、歴代プロイセン王墓前での国会開会式典と宗派別祭典が行われる。

大統領ヒンデンブルクに対するヒトラーのうやうやしいお辞儀に象徴される、ナチの口先だけの伝統擁護の姿勢にほとんど全国民が騙された。

実のところポツダムの大芝居は、まさに保守派による例のヒトラー飼い馴らし計画を実演したもののように見えた。ヒンデンブルクがヒトラーの「任用責任」を引き受けたのも、根底にはこの計画があったからだ。ヒトラーがプロイセンの伝統に表面的には膝を屈したことにより、彼は旧来の保守主義の網にかかったかに見えた。愛国主義的なドイツ・ブルジョワが安堵の息をつくのがはっきり聞こえた。お涙頂戴の芝居は「国民覚醒」に伴うありとあらゆる醜悪な現象を隠蔽してしまった。

ヒトラーは自己の本質的な邪悪さを隠し、保守派に自らを誤魔化し現状を追認する余地を与えて、陰で舌を出していたことだろう。

その直後、国会に全権委任法提出。

政府に立法権と憲法改正権を与え、法令の認証・告知の権限を大統領から首相に移し、外交権も政府にのみ属するとする、途方もない法案。

四年間の時限立法で、効力は「現行政府のみ」との条件がついているが、もちろん反対派への気休めと目くらましでしかない。

連立パートナーのパーペンとフーゲンベルクは弱々しい異議を発するが、大統領のヒンデンブルクはヒトラーを伝統的国家の守護者と誤認し、もはや放任する決意だった。

採決の鍵を握る中央党では、元首相ブリューニングが反対を唱えるが、党首カース司教は屈服。

クロル・オペラ劇場で開かれた国会では、周囲をナチSA(突撃隊)、SS(親衛隊)が包囲、議員たちにありとあらゆる罵声と脅迫を浴びせ、一部の社会民主党議員は道すがら逮捕される。

国会でヒトラーは、大統領と教会の不可侵を約束し、中産階級と農民の救済による民族共同体再建を唱えると同時に、不吉な暴力的脅しを述べる。

議場内にもSA・SSのならず者が溢れかえり、議員に誹謗中傷を浴びせ脅迫する。

議員の独立性も何もあったものではない。

たとえどんなに不満があっても、議員・裁判官・官僚などに対する集団的攻撃や脅迫は、党派に関わらず、絶対に許してはならないし、もしそれを許したなら本当に取り返しのつかない事態が起こるということを深く実感させられる記述であった。

野次と罵声の中、社会民主党党首オットー・ヴェルスが勇敢かつ崇高な反対演説を行うが、ヒトラーは嘲笑と揚げ足取りと脅迫的言辞に満ちた反駁で応じる。

全権委任法がついに可決。

何十世代にもわたる諸身分の努力と試行錯誤が生み出した財産である法治国家が、ゴミクズ以下の大衆とその代理人によって、一瞬で破滅させられた。

勝利を得たナチは早速反ユダヤ主義的行動を爆発させる。

当初その醜悪な行為に困惑した国民も、大々的なプロパガンダによる同調圧力で徐々に正気を失っていく。

物質的欲望以外の価値観を持たない人間が、初歩的な煽動にすらどれほど弱いかを思い知らされる。

古い世代の信仰やタブーを迷信として嘲笑っていた新しい世代が、伝統的宗教より遥かに醜悪で愚劣な狂信に対して呆れるほど弱い抵抗力しか持たないという例がここでも見られる。

5月労働組合を弾圧、社会民主党禁止、7月には中央党なども解散、ヒトラーは一党国家を宣言。

これまで首相就任からわずか半年である。

驚くほど迅速に独裁体制を固めたナチスだが、その内部から反抗者が出る。

レーム指揮下のSAはナチの社会主義的・平等主義的傾向を強く代表する組織であり、この政権獲得期における既存エリート・保守層・軍部との妥協に批判的。

SAを軍事組織に格上げすることを狙うレームは国防軍と対立、33年10月の国際連盟脱退を経て、34年に入ってからも徐々にナチ体制内の不協和音が高まっていく。

まだ終わらないんで、本日はここまで。

同じ本についての複数記事の途中で年が変わるのがやや気持ち悪いですが、やむを得ずそうします。

今年も2、3日に一度の更新ペースを守れました。

(ただし、引用文に頼り過ぎだというのは、重々自覚してます。)

これまでの総記事数が950です。

もし来年このペースが続いても、記事数1000まで行ったら、一度更新を止めると思います。

それまでに断念する可能性も大いにありますが、宜しければたまに覗いて下さい。

それでは皆様、よいお年を。

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ナチについてのメモ その5

グイド・クノップ『ヒトラー 権力掌握の二〇ヵ月』(中央公論新社)記事続き。

首相のシュライヒャー将軍は、ナチ党内の反ヒトラー派であるグレゴール・シュトラッサーと接触。

シュライヒャーは寝首をかくような陰謀でブリューニング内閣を倒し、権威主義体制樹立を目論み、当初ヒトラーを利用しようとナチに接近したのも事実だが、この段階では明確にヒトラーの政権獲得を阻止しようとしていた。

著者も、議会制を根底から破壊する勢力であるナチが政権の入口にまで迫っている以上、この時点での憲法停止と緊急事態令布告は現実的な選択肢の一つだと認めているようである。

しかし、寵臣のパーペンに動かされた大統領のヒンデンブルクはシュライヒャーの提案を拒否。

シュトラッサーを利用したナチ党分裂工作も完全に失敗。

一方、軍のもう一人の実力者ブロムベルクはナチへの宥和的態度を強める。

ナチは前年11月の総選挙敗北を帳消しにするため、小州の地方選挙運動や街頭での示威活動・暴力行為を活発化させ、それを当時の最新メディアであるラジオに乗せて発信、依然ナチズムが「未来の波」であるというイメージを作り上げ、世論に対して同調圧力をかけ続ける。

ついに1933年1月30日、ヒンデンブルクがヒトラーを首相に任命することとなる。

プロイセンの伝統的軍人であり、かつてはヒトラーをオーストリア生れの粗野な成り上がり者と嫌っていたヒンデンブルクがこの挙に出たのは、高齢で気力の衰えた大統領がパーペンや息子のオスカー、大統領官房長官マイスナーなどの側近たちに説得されたからだというのがこれまでの定説。

それに対して本書では、ヒンデンブルクは依然独自の判断力を維持し、ヒトラーに国家の刷新を期待するという積極的評価を自ら下したからだと主張されている。

ヒトラー内閣において、首相のヒトラーの他のナチ閣僚は、内相のフリック、無任所相のゲーリングの二人のみ。

副首相にパーペン、国防相はブロムベルク、外相はノイラート、財務相シュヴェーリン・フォン・クロージク、経済相フーゲンベルク、労働相ゼルテ(国家人民党と友好関係にある右翼団体「鉄兜団」創設者)と多くの閣僚が保守派に属する。

ちなみに上記鉄兜団の指導者にデュスターベルクという人物がいるが、こういう右翼的立場の人物も、祖父がユダヤ系だったという理由でナチによって個人攻撃と誹謗中傷の対象になっていたというのだから、ナチの下劣さも底無しである。

政権獲得直前の交渉では、デュスターベルクと相対したヒトラーは、自分がやらせておいて、誹謗中傷は本意ではなかったと、白々しい弁明をしている。

表面上、パーペンが主張したようにナチが保守派によってたがをはめられ、封じ込められたようにも見えたが、これは恐ろしいまでの誤算だった(フーゲンベルクのみはかなり初期の段階でこのヒトラーとの取り引きの危険性に気付いているかのような記述だが、すべては遅過ぎた)。

ここで問題は、無任所相ゲーリングが同時にプロイセン州内相にも任命されたこと。

パーペン内閣時代、全国の五分の三の面積を占めるプロイセンの地方自治が廃止され、中央政府の直轄になったのは前回記事で書いた通り。

つまり内相フリックの権限と合わせ、軍が中立的・傍観者的立場を採った場合、それに次ぐ実力機構の警察が完全にナチの影響下に入るということになってしまった。

以後、SA(突撃隊)などのナチ組織が警察の後ろ盾を得て、反対派にあらゆる暴行を加えることになる。

伝統的保守派が、卑怯・愚昧・粗暴・野卑・低俗・驕慢・無恥・貪欲・残忍・冷酷・下劣・狂信、その他一切の人間悪の塊である極右的大衆運動を、左翼勢力に対抗するための協力者として自陣に迎え入れたとき、ドイツの運命は決した。

ヒンデンブルクもパーペンもフーゲンベルクもブロムベルクも、そしてナチのプロパガンダに協力していたという廃帝ヴィルヘルム2世の子アウグスト・ヴィルヘルム公も、保守派に属するすべての人々が致命的な思い違いをしていた。

ナチの極右的民族主義が、共産党などの左翼勢力と共に、所詮大衆民主主義という全く同じ幹から派生した二つの醜い枝に過ぎないことに気付かなかった。

彼らの表面上のナショナリズムが自己懐疑と自己抑制、そのための規範意識を一切持たない、「動物的」排外主義でしかないことがわからなかった。

極右的民族主義者の中に、あらゆる伝統的価値に対する嘲笑、既存の指導層に対する獰猛な不服従、それとは完全に対照的な自党派の指導者に対するグロテスクなまでの盲従、物質的利益以外に対する全くの無関心、一切の責任観念の拒否、その裏返しとしての醜悪で卑劣な他罰主義、内的倫理観の完全な欠如があることが見えなかった。

伝統の替わりに群衆心理を国の基礎に据え、適切な代表制を通じて選ばれた、真の意味で優れた少数者による責任ある統治を、賤しい暴民とそれを背後から操るデマゴーグの支配に替えることが、国家にどれほど恐ろしい破局をもたらすかを悟らなかった。

なお、以下の文章には蒙を啓かれた思いがした。

「ヒンデンブルクは保守派の利益を代表する者ではありませんでした」と、伝記著者のヴォルフラム・ピュータは断言する。「彼は厳密な意味で自分をプロイセン保守派だと思っていませんでした。彼が究極的に目指したのは国民の統合でした。この計画に背く人たちが排除されても、彼はそれを仕方がないと考えました」。

社会の階層性という大前提を捨て、平等主義的ナショナリズムという保守派にとっての劇薬を、愚かにも飲み干してしまったのかと思う。

社会の平等化が進み、成員の原子化が進行すればするほど、大衆煽動によって社会のバランスが崩れ、一党派が独裁的権力を振るう危険性が高まる(レーデラー『大衆の国家』コーンハウザー『大衆社会の政治』)。

無制限の言論の自由が認められれば、単純・浅薄・皮相かつ最も粗野で邪悪で狂信的な意見が常に勝利を占める傾向となる(ル・ボン『群衆心理』ガブリエル・タルド『世論と群集』)。

そうした集団はそもそも過半数を得る必要も無い。

なぜなら原子化し孤立した個人しかいない大衆社会では、狂信的で邪悪な集団に一定数の支持者さえいれば、そうした集団には個人では誰も対抗できない。

民衆を超える権威が不在であれば、民衆の多数派、あるいは擬似多数派を止めるものは何も無く、多数の暴政への歯止めは原理的に存在しなくなる(トクヴィル『アメリカにおけるデモクラシー』)。

よって民衆の中で特に愚かで下劣な層を煽動で動かす能力をもったデマゴーグは、たとえそれがどれほど卑劣・軽佻・矮小・醜悪な人物であっても、いやそうだからこそ、異様なまでの力を持つことになる。

そして不幸にして最悪の場合、この時期のドイツのように、醜悪な大衆組織が社会の下層から雪ダルマ式に膨張して遂には国家を乗っ取ることも可能となる。

だから君主制や貴族制などの非民主的制度や、様々な既得権で結ばれた中間団体、超越的価値を志向することにより現世の多数派が強要する価値観を相対化してくれる伝統宗教を、意図的に保存することが極めて重要なのだが、もちろんそんな知恵を持った民衆は絶無に等しい。

民衆は、つねに最も単純な、最も稚拙な、最も原始的な種類の公正さしか、つまりまわりくどいことなどいわずに、すべての人に同じものをあたえてくれる公正さしか、公正な制度であるとはおもわない。しかも、その原始的な公正を絶対的な公正であると思いこんでいるために、貴族主義的な法律にたいしては、なんでもかでも情熱的に反対するのが道徳的であると考えるこの情熱たるや、いかなる法秩序も完全ではありえないという意識をもつ者にはとうてい考えることもできないほど猛烈なものであって、おかげで、結局は民衆が勝利をおさめることになる。(トーマス・マン『非政治的人間の考察』

個人の自由と独立性、平等性が極限まで尊重された結果、事態は反転し、以下のような逆説的仕儀に立ち至る。

民主主義の陥りがちな多数者の専制という事態も、その元を辿っていくと、自然権に表わされるような人間の絶対視に行き着く。個々人が社会的な意見形成の究極の主体だとされ、しかもその個人が自己完結した不動の存在だとみなされれば、意見の決着には数を恃むよりほかなくなる。より良き見解に至ろうとすれば、相手を説得しようとするだけでなく、秀れた意見には説得される用意ができていなくてはならない。説得に応じるということは、自分より秀れた人間がいることを率直に認めることである。ところが、自足した人間には、これが不可能である。その結果、議論や討論は力と力の闘争に変じてしまう。数が力となり、勢い、人々は数を恃まざるをえなくなる。多数決は無限に長い意見形成過程に暫定的に終止符を打つための次善の策にすぎないのに、次第にそれは自己目的と化す。多いことは善いことだと考えられるようになるこうして「本来、民主主義の理想はすべての恣意的な権力を防止することを意図したものであるのに、新しい恣意的権力を正当化するものになってしまう」(『自由の条件』)のである。(間宮陽介『ケインズとハイエク』

そして次のような言葉は誰の耳にも届かない。

フランスの悲しい運命を 偉い人たちはとくと考えてほしい

だが それをもっとよく考えねばならないのは下々の者たちだ

偉い人たちは滅んだ―しかし民衆を民衆の手から

守るのは誰だ? フランスでは民衆が民衆の上に専制を布いた  

(『ヴェネツィアのエピグラム(格言詩)』)

坂井栄八郎『ゲーテとその時代』

あらゆる時代のあらゆる国で同じような事態が進行し、「民衆が民衆の上に専制を布」き続け、悲惨な事例が繰り返し繰り返し生れるが、何が問題なのか民衆はその片鱗も理解できず、再び似たような行為を繰り返す、というのが1789年以降の世界史の基本線となる。

これだけ書いて、やっとヒトラー政権成立時までですか。

まだ続きます。

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グイド・クノップ 『ヒトラー 権力掌握の二〇ヵ月』 (中央公論新社)

『ヒトラーの共犯者 上』『同 下』『ヒトラーの戦士たち』と同じ著者。

ただし出版元は違う。

本書はナチ独裁確立期に焦点を絞った本。

タイトルの「二〇ヵ月」は1933年1月ヒトラーの首相就任から34年8月ヒンデンブルク大統領死去まで。

本文に入る前にまず準備作業として、マックス・ウェーバー『社会主義』の記事でも書いた、ワイマール共和国の政党名をすべて憶える。

左派から右派への順に、共産党・独立社会民主党・社会民主党・民主党・中央党・人民党・国家人民党・ナチス。

以下各政党について簡単な説明。

政界で極左陣営を形成するドイツ共産党はコミンテルンを通じてソ連に盲従、極右のナチスと共に反議会主義的政党として、共和国末期には議会制を機能不全に陥れるのに貢献してしまう。

1917年反戦を旗印に多数派社会民主党から分離した独立社会民主党は、1920年ボリシェヴィキへの絶対服従を定めた規約に従いコミンテルンに加入するかどうかの問題で左右に分裂、両派がそれぞれ共産党・社会民主党に合流して、ごく初期の段階で存在が消滅。

社会民主党・民主党・中央党は「ワイマール連合」と呼ばれ、この中道・左派三党が共和国の主たる安定勢力となる。

最大政党はもちろん社会民主党だが歴代首相は中央党から出た人物が多い。

民主党は進歩的自由主義政党でマックス・ウェーバーやフーゴー・プロイス(ワイマール憲法起草者)など著名な知識人が加入。

中央党はもちろん、高校世界史でも馴染みのカトリック政党。

この政党は、一時文化闘争の標的となったビスマルク時代からヴィルヘルム2世親政時代、大戦期、共和国安定時代、大恐慌期としぶとく勢力を保持し続けた党で、宗教政党ならではの継続性を持つ。

中央党については、南ドイツのバイエルン地方にのみ「バイエルン人民党」という独自組織があり、これが中央党と友党関係にあった。

このバイエルンの独自性は戦後から現在に至る(西および統一)ドイツでもそうで、全国的保守政党のキリスト教民主同盟は、バイエルン州のみ「キリスト教社会同盟」名で活動していることを頭の片隅に入れておくといいでしょう。

バイエルン人民党は基本中央党と同一行動を取るが、本来中央党よりやや右寄りの政党であり、時に取る別行動が大きな結果を引き起こすこともあった(後述)。

既成政党の右派陣営を形成するのが人民党と国家人民党。

本書では国家人民党は「国家国民党」と訳されている。

普通の日本語の語感だと右派政党に「人民」の名は適合しないように思えるから、この方がいいのかもしれない。

(その場合人民党も「国民党」と訳すことになるのか。余談ですが林健太郎『昭和史と私』では、戦前の日本においては「人民戦線」という言葉が出てくる前は、「人民」は「臣民」に近い語感を持っていて、左翼の間では「民衆」「大衆」の言葉が多く用いられていたという意味のことが書いてあったのが意外でした。)

ただ、私は少々昔から耳に慣れているので、この記事では国家人民党のままにします。

人民党はシュトレーゼマンの所属政党であることをチェック。

帝政派的傾向を持つ両党だが、特に人民党はしばしば政権与党となり、シュトレーゼマンの指導で右から共和国を支えることになる。

しかし共和国末期には人民党と民主党(のち国家党と改称)は勢力・議席を激減させ、主要政党の座から転落する。

国家人民党も稀に政権に参加することがあったが、恐慌襲来後の危機の時代には党内穏健派が勢力を失い、フーゲンベルクという右翼政治家の下、ナチスとの危険極まりない協同関係に踏み出すこととなる。

ヒトラー政権樹立期の政治的プレイヤーとして、まずこのフーゲンベルクは要記憶。

大実業家で新聞・通信・出版社・広告代理店などを支配下に置く「メディア王」だと本書では評されている。

左翼勢力はデマゴーグ的なヒトラーより、大資本に基盤を持つフーゲンベルクこそが真の敵だと見なしていたというが、これはナチを利用しようとした保守派と同じくらい致命的な錯誤だった。

フーゲンベルクはヒトラー以前では最有力の右翼政治家だが、伝統的価値に縛られずより下劣なレトリックとプロパガンダを駆使し、建設的提案は一切せず無恥と無責任に徹してひたすら他党派を罵倒するだけのナチスに、国家人民党は支持基盤を侵食され続ける。

結局、国家人民党はロシア革命期に一時ボリシェヴィキと連立した社会革命党(エスエル)左派と同じような役割を果すことになってしまう。

ナチスは1929年以前は極右の泡沫政党でしかなかった。

大恐慌が襲来した時の政権は、1928年以来のヘルマン・ミュラー内閣。

社会民主党首班の内閣で、中央党・バイエルン人民党・民主党・人民党が与党。

大統領はもちろん、1925年エーベルト死後の選挙で勝利したパウル・フォン・ヒンデンブルクが在職。

ナチの政権獲得にはこのヒンデンブルクという個人の行動が大いに関わっているわけで、この時期別の人物が大統領ならとの思いを抱かずにはおれない。

左派・中道派統一候補を破ったヒンデンブルクの当選には独自候補に拘った共産党の行動が結果として貢献している。

共産党はナチ政権成立後は真っ先に残忍な弾圧を受けるし、本書におけるその描写を読むと確かに心動かされるものがあるが、この大統領選での方針、社会民主党を主敵とする「社会ファシズム論」、議会主義への軽蔑、モスクワへの盲従と暴力革命の主唱がドイツ国民に与えた恐怖感、それがナチへの支持を促進したこと、などを考えるとやはりヒトラー政権成立に対する共産党の責任というものも考えざるを得ない。

なおこの時、バイエルン人民党が中央党の方針に反してヒンデンブルクを支持したことも注目される。

共産党かバイエルン人民党の票が対立候補に入れば、確実に結果はひっくり返っていたと林健太郎『ワイマル共和国』には書いてあった。

(もっともその場合下記の32年大統領選でヒトラーを阻止できたかという問題が残るが、既成政党が右から左までナチスに対抗して団結することが何より重要で、そういう立場から統一候補を立てる展開になるべきだったんでしょう。)

経済破綻による混乱の中、ミュラー内閣は倒壊、1930年議会多数派に依存しない大統領内閣として中央党所属のブリューニングが首相就任。

同年総選挙でナチスが大躍進を遂げ、一躍第二党に。

ブリューニングは議会制維持とナチ政権成立阻止に奮闘するが、緊縮財政とデフレ政策に固執し経済状況はますます悪化。

1932年春の大統領選ではヒトラー当選を阻止するため、社会民主党など左派と中道派がヒンデンブルクを支持し、ヒンデンブルク再選。

32年6月国防軍実力者の将軍シュライヒャーがブリューニングを追い落とし、内閣崩壊、中央党最右派のパーペンがシュライヒャーの傀儡として組閣。

7月総選挙で遂にナチスが第一党。

同月全国の五分の三の面積・人口を占めるプロイセン州の地方政府をクーデタに近い方法で廃止、中央政府直轄に。

シュライヒャーは議会制廃止と独自の権威主義国家樹立のためにナチ運動を利用しようとするが、断固として全権を要求するヒトラーは拒絶。

11月当年二度目の総選挙でナチスは第一党の地位は守ったものの、議席を大きく減らし、さしものナチズムも退潮傾向かとの期待を抱かせた。

12月パーペンを見限ったシュライヒャーが倒閣、自らが組閣。

すると今度は、それを恨みに思ったパーペンがシュライヒャー政権打倒のため、ナチとの連携を目論むのだから酷いもんです。

ヒトラーに政権への道を開いた最も大きな短期的・直接的責任はこのパーペンにあると言える。

本当に最低最悪のボンクラ野郎です。

そしてドイツと世界にとって運命の年、1933年を迎える。

ダラダラ書いてたら、本書の内容に入るまでの準備で一つの記事になってしまいました。

以後かなり続きます。

(続きは以下

ナチについてのメモ その5

ナチについてのメモ その6

ナチについてのメモ その7

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ナチについてのメモ その4

その3に続き、グイド・クノップ『ヒトラーの戦士たち』(原書房)より。

第6章「謀反人」ヴィルヘルム・カナリス。

帝政時代、ティルピッツ提督率いる海軍に入隊。

第一次大戦時、南米で乗艦が沈没した後、スペインで諜報活動に従事、続いてUボート艦長も務める。

戦後、ローザ・ルクセンブルク殺害犯の減刑に力を貸す。

ワイマール時代に、のちのSD(親衛隊保安諜報部)長官ラインハルト・ハイドリヒと知り合う。

両者は、緊張と対立を隠した、愛憎入り混じった複雑な親交を長く続けることになる。

35年国防軍諜報部長に就任。

ラインラント進駐やスペイン内戦に関して、ヒトラーに的確な情報を提供。

しかしこの頃からナチ体制への疑念を持つようになる。

「上から下まで、どいつもこいつも犯罪者だ。よってたかってドイツを潰そうとしている」このころカナリスは友人にそう言明している。人間は「損か得か、だけで」決断してよいわけではない、「根本的な倫理を守らねばならない」と。

38年夏ズデーテン危機。

この時、参謀総長ハルダー、その前任者ベック、外務次官エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー、前ライプチヒ市長カール・ゲルデラーらによるクーデタ計画にカナリスも協力。

しかしミュンヘン会談での英仏の屈服、国内でのヒトラーの威信高揚によってクーデタは挫折。

ここで以下のような文章が記されている。

運命は、ヒトラーに味方すると決めたようだ。チェンバレンの歴史的訪問によって、独裁者は、知らないうちに二つの危機を同時に切りぬけていたのである。一つはヒトラーがのぞんでいた戦争の危機。このとき戦争をしていれば、それは1938年にドイツの敗北で終わっていただろう。軍事史家は今日そう考えている。そしてもう一つは、目前にせまっていた国内での失脚の危機。「ヒトラーにとどめをさせるはずだった」。阻止された反乱者のひとり、カール・ゲルデラーは、あきらめたようにそう言った。

こうした見方は同じ著者の『ヒトラーの共犯者 下巻』での記述と著しく異なる。

本書の記述では、38年時点での軍事情勢は英仏(とチェコ)が独に対して優勢であり、開戦すればドイツは敗北しヒトラー政権は崩壊するという、考えうる限りベストの展開になったことになる。

国内クーデタ勃発の場合はいくつかの可能性を以下に空想。

(1)クーデタが成功し、ナチ体制が崩壊、軍人たちの政権の下、徐々にドイツの国内体制が正常化していくのが、最も望ましいパターン。

しかし国内での反乱が新たな「匕首」「背後の一突き」伝説を連想させ、それに力を得てナチが巻き返し、政権を再度奪還する可能性もある。

(2)しかしヒトラーさえ亡き者とされていれば、ゲーリング、ゲッベルス、ヒムラー、ヘスなど誰が後継指導者であっても少なくともホロコーストがあれ程の規模と徹底さで遂行されたとは想定できない気がする。

「ホロコースト抜きの第二次大戦」でも現実に起こったことよりは遥かにマシでしょうね。

あるいは後継者が膨張政策を一時ストップして、国際関係は小康状態が続く一方、国内ではナチ体制が存続することも考えられる。

この場合はどういう結末になるのか、想像しにくい。

(3)しかしヒトラーがクーデタを鎮圧し、生き延びた場合は史実よりもより完全にドイツ国家を掌握して戦争を始めることになる。

だが軍事情勢が英仏優位で、加えて肝心の両国の抗戦意志が固いという想定なら、(後継者が開戦に踏み切った場合の)二つ目と三つ目の場合でも、どの途ドイツの早期敗北は動かないか。

と言う事は、どのように考えてもチェンバレンの宥和政策はやはり間違いだったという結論になるのか。

結局38年時点の各国軍事力をどう評価するのかで結論が根本から変わってきますよね。

「東欧随一の工業国で議会主義が唯一順調に発達した国」と高校教科書にも出てくるチェコがその侮りがたい軍事力で抵抗するうちに英仏軍がドイツになだれ込みナチ体制崩壊となればいいですが、史実より二年早く仏敗北、本土レーダー網と戦闘機隊の未整備な英国にドイツ陸軍上陸成功、なんて事態になってたら・・・・・・。

本書の記述は上記本と整合的ではないが、結局どう解釈すべきなのか、不明です。

ミュンヘン会談後、ドイツ全土で「総統崇拝」がますます高まり、クーデタなど考えられない情勢となる。

カナリス自身もそれにある程度影響された。

彼は依然としていまの体制を、ドイツで考えられるかぎり君主制に次いでベストだとみなしていたので、その体制に逆らう計画をこれ以上ねらなくてもよいことに安堵したのである。また特筆に値することだが、いわば職務上のルートでテロを阻止できる、カナリスはひきつづきそう考えていた。・・・・・ナチの犯罪をリストアップして上官に送ることを、もちろんカナリスはやめることはなかった。帝政時代の、法にもとづいた安定性こそが、めざすべきノーマルな状態であると信じるカナリスは、わらにもすがる思いで、法と秩序にかんする自分の考えを譲らなかった。

しかし第二次大戦開戦後、その期待は完全に裏切られる。

・・・・・開戦から一週間後、親衛隊の特別行動部隊が組織的に大量射殺を行っているという知らせも、とくに誇張したものではないことを、ハイドリヒがカナリスにうちあけた。「そのへんの人間に手を出すつもりはない」と、この乗馬仲間は冷ややかに言った。「だが貴族や坊主、それにユダヤ人は始末しなければならん」。

クラウゼヴィッツの言うように、戦争とは「別の手段をもちいてすすめる政治」であるとすれば、ヒトラーのポーランド侵攻は、もはや戦争ではなかった。ここでは血なまぐさいイデオロギーが戦っていた。そのめざすところは勝敗を決することではなく、生きのびるか殲滅するか、であった。帝政時代に士官候補生だった男は、いまや新しい大元帥の穿った奈落の底を覗き見ていた。「ありとあらゆる道徳を片っぱしから無視して戦争をやっても、勝てるわけがない。この世には、神の定めたもうた摂理があるのだ」と、彼は部長代理のビュルクナーに語っている。

残虐行為への抗議を込めた上申書はカイテルによって無視され、カナリスは自らの職権を用いてユダヤ人など迫害にさらされた人々が逃亡するのを助ける。

フランス降伏後、ドイツが表面的に最も優勢だった時に会談した旧知のフランコには、スペインの中立を密かに勧め、軍内レジスタンスにも接触。

44年2月に解任、軟禁状態におかれる。

同年7月20日事件後、逮捕。

45年4月強制収容所内で絞首刑。

米軍が到着するわずか数日前だったという。

どの章も興味深いエピソードを積み重ねた記述で、実に面白い。

分量のわりに通読は極めて楽。

訳文もよくこなれていて読みやすいが、ごくまれに誤植と思われる部分があった。

できればウーデットを外して、グデーリアンかハルダーを入れてくれればより良かったかとも思うが、まあいいでしょう。

最低限の基礎ができたら、手にとってみるのも良いです。

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ナチについてのメモ その3

グイド・クノップ『ヒトラーの戦士たち』(原書房)の記事続き。

第3章「戦略家」エーリヒ・フォン・マンシュタイン。

第二次世界大戦時のドイツで最も有能な将官とも言われる人物。

プロイセンの由緒ある軍人家系の出身。

第一次大戦での従軍と戦後の国防軍への参加は他の人物と同じ。

自分の奉じるプロイセン保守主義とヒトラーの国家社会主義との間にどれほど深い溝があるか、マンシュタインには長い間わからなかった。早い時期にナチ政府の人種政策と衝突し、国防省の決議に公然と抗議していたにもかかわらず。1934年2月28日、国軍相ヴェルナー・フォン・ブロムベルクは、「アーリア人条項」を陸軍にも導入することを決めた。・・・・・この条項に反対するには市民として信念を主張する勇気が必要だった。・・・・・マンシュタインがはっきり反対したのは、ただこの条項をさかのぼって適用すること、つまりすでに戦友であるユダヤ人を追放することに対してのみであった。それを将来に適用すること、つまり今後ユダヤ人の入隊を認めないということには、彼もさほど問題視しなかったようだ。

34年レーム事件の折、過去ヒトラーの政権奪取を妨害しようとしたシュライヒャー、ブレドウ両将軍が殺害される。

これに対するマンシュタイン、参謀総長ベックの抗議は不発、ヒンデンブルク死去によって軍はますますヒトラーとその運命を結び付けられる。

38年戦争への危機が高まる中、ベックは辞任、後任はハルダー。

40年の対仏戦、当初シュリーフェン・プランと同じくオランダ・ベルギー方面に主力を置く作戦が採られるところだったが、そのように見せかけて戦車通過不可能と見られていたアルデンヌの森を突破し大西洋岸まで進出、オランダ・ベルギー方面にひきつけた仏軍大部隊を分断・孤立化させるというマンシュタインの案が採用、これが大成功を収め6月にフランス降伏。

独ソ戦では最南端を行く軍を指揮、クリミア半島とセヴァストポリ要塞制圧成功。

以下はその時期のエピソード。

マンシュタインは「総統」に、ユダヤ人に何が起きているのかを質問した。この同じころ、アウシュヴィッツ-ビルケナウでは、数万、数十万ものひとびとが虐殺されていたというのに、ヒトラーは(ピッカーによれば)こう答えた。「ユダヤ人には自前の国家を作ってやらねばならん。はじめはパレスチナを、それからマダガスカル島を考えた。だがユダヤ人国家はわれわれがコントロールできるものでなければならん。そこでポーランド総督領のルブリンに作ることにした。そこならユダヤ人国家をわれわれがコントロールできる」。「絶滅」にはひと言も触れなかった。マンシュタインはこの回答に満足し、それ以上追求しなかった。

本書では、前線の背後で行われていた絶滅収容所以外での虐殺についても、マンシュタインは薄々気付いてはいたが深く知ることを拒否したと、批判的に記している。

ソ連赤軍のスターリングラード包囲網突破に失敗、軍事作戦上ヒトラーと度重なる衝突。

43年7月クルスクで大戦車戦が行われるが、より早期の決戦を主張していたマンシュタインの意見は容れられず、戦機を逸し敗北。

以後戦争の主導権を赤軍に完全に奪われる。

44年3月にヒトラーにより解任。

ロンメルと同じく、軍内レジスタンスと接触しその行動を黙認するが、自身は積極的行動を起こさず。

戦後49年になってイギリスの軍事法廷に告発され禁固刑を受けるが、戦勝国からもチャーチルなどが抗議の声を挙げ、53年釈放。

その後西ドイツ再軍備にあたって徴兵制などについてアドバイスを請われる。

1973年に死去。

第4章「虜囚」フリードリヒ・パウルス。

1890年官吏の両親の間に生まれ、陸軍入隊。

このパウルスが戦略教官として、のちに「電撃戦」の主力となった装甲部隊(機甲師団とも言うか)をグデーリアンと共に育成した一人であることは、意外に無視されていると記されている。

ヒトラー政権成立前から親ナチ派軍人として目立っていたライヘナウの下に勤務。

参謀本部第一部長に就任。

独ソ戦二年目、東部戦線南方での攻勢開始にあたって、第六軍司令官に(推薦者のライヘナウはこの時病死)。

42年8月スターリングラード攻撃開始。

市街戦に入って進撃停滞、11月には赤軍によって包囲される。

補給を断たれ、救援も失敗、適時撤退もヒトラーに拒否され、43年1月末降伏。

長くソ連の捕虜となり、プロパガンダの道具に使われる。

53年には東ドイツに「帰国」、自身は共産主義的信念は持たないが、西ドイツ再軍備・NATO加盟への反対意見などを公表する。

57年に死去。

第5章「パイロット」エルンスト・ウーデット。

少年時代からライト兄弟に憧れ、パイロットの道に進み、第一次大戦で戦闘機乗りに。

有名な「レッド・バロン」ことマンフレート・リヒトホーフェンの隊に加わる。

(この時期ゲーリングと知り合う。)

敗戦後、航空ショーのパイロットや映画出演で著名人に。

ミュンヘン一揆後、リヒトホーフェン戦隊戦友会がゲーリングを除名したのを支持したような立場だったが、ヒトラー政権成立後、1933年5月にナチ入党。

知名度を生かして、国内外でナチの広告塔の役割を果す。

批判的なアメリカのジャーナリストの質問に対し、彼は大口をたたいて請けあった。「ドイツでのヒトラーの立場が、外国では理解されていないし、正しく評価されていない。ヒトラーは自分がのぞむことをしているのではない。そうではなくて、彼の後ろにいる4000万ドイツ人がのぞむことをしているのだ。ドイツで起こっていることは、誇大に報告されている。確かなことが一つある。皇帝が復位することはないだろうということだ。そうした時代は終わった。ユダヤ人がひどい扱いを受けたケースもいくつかはあるが、実際より大げさに取りざたされている。ドイツのユダヤ人は自分で自分の面倒をみる良き市民であり、危害をくわえられることはない。そして他のひとびともみな、共産主義政党にくわわっていなければ、普通に、平穏に暮らしている。世の中の動きは、共産主義勢力の膨張と蔓延に対し、何らかの手を打たねばならない段階に達したからね。」

のちに電撃戦の勝利に貢献したシュトゥーカ(急降下爆撃機)の評判を高めるために利用される。

35年ドイツ再軍備宣言、ヴェルサイユ条約で禁止された空軍の存在を公表。

ちなみに、第二次大戦において、イギリス・ドイツは独立の空軍が存在したが、日本・アメリカは航空戦力はすべて陸軍または海軍に所属していたことを頭の片隅に入れておく(フランス・イタリア・ソ連などは・・・・・忘れた・・・・・)。

同時期ウーデットも空軍入り。

長い年月親密な友人同士であったカール・ツックマイヤーとエルンスト・ウーデットにとって、1936年は別れの年となった。「この国を永久に立ち去って外国へ行くんだ。もどってきてはならない。この国にはもはや人間の尊厳など存在しない」。ウーデットは友人にそう頼んだ。[ツックマイヤーはユダヤ人であった]。「で、きみは?」とツックマイヤーはたずねた。「ぼくは空を飛ぶことのとりこだ――もう逃げられない。でもいつの日か、悪魔がぼくたちみんなをさらって行くだろう」。ふたりは二度と会うことがなかった。

技術局長を経て、39年空軍装備局長に。

ライバルである元ルフトハンザ取締役エアハルト・ミルヒが航空省次官。

ゲーリングはウーデットとミルヒを意図的に競わせる態度を採る。

しかしウーデットはあくまで元パイロットで、技術的側面には造詣が深くとも、空軍力生産機構を組織する能力には欠け、次第に追い詰められていく。

40年英本土上空の決戦で、独空軍は英空軍に完敗。

ウーデットは41年11月に自殺。

テスト飛行中の事故死と公表される。

あと一人分終わりませんので、また続きます。

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グイド・クノップ 『ヒトラーの戦士たち  6人の将帥』 (原書房)

『ヒトラーの共犯者』下巻が済んだ後にこれも読む。

原著は1998年刊。

本書では軍人を扱う。

副題の「6人」は、ロンメル、カイテル、マンシュタイン、パウルス、ウーデット、カナリス。

やはり本書でも一人だけ全く未知の人名がある。

ウーデットは著名パイロット上がりの空軍装備局長。

第1章「英雄」エルヴィン・ロンメル。

1891年シュヴァーベンの教養市民層の家に生れる。

軍に入隊、第一次大戦で各地を転戦、多くの勲章を受ける。

ワイマール共和国でも軍に留まるが不遇。

そしてヒトラー政権樹立を迎える。

ヒトラーが権力を固めたナチ政権の初期は、とりわけ軍ヒエラルキーにおいて旧エリート層に考慮する必要があったので、ロンメルの目には体制の肯定的な面しか見えなかった。服従・規律・秩序といった軍隊的な美徳を政権は尊重するらしい。多くのひとびとと同じように、彼もまたそのことを歓迎した。たとえ最終的にその政権が崩壊して、ドイツに対し世界中が軽蔑を浴びせることになるとしても・・・・・・

ただし自身はナチ党には最後まで入党しなかった。

1940年の対フランス戦では装甲師団を指揮し、迅速果敢な進撃で殊勲を挙げる。

開戦当初中立を守っていたイタリアがこの年フランス降伏直前に参戦、同年9月イタリア軍がリビアからエジプトに進撃するが、英軍の反撃を受け反ってリビア東部キレナイカを占領される。

41年2月ロンメルが伊支援のためアフリカ上陸、一時英軍を押し戻すが結局後退。

42年に再度攻勢に出て、6月にキレナイカの英軍拠点トブルクを陥落させる。

その勢いのままエジプト領内に攻め込むが6月末エル・アラメインの戦いで撃退。

ちなみに42年6月と言えば、太平洋戦線ではミッドウェー海戦があった時期で、偶然にも両地域で戦いの転機を迎えている。

(そのちょうど二年後、大戦末期の44年6月にはノルマンディー上陸作戦とマリアナ沖海戦が同時期に行なわれていることは、児島襄『太平洋戦争 下』(中公文庫)記事で指摘済み。)

10月から英軍司令官モントゴメリーがさらなる反撃に出て、11月には米英軍がモロッコ・アルジェリアに上陸、東西から独伊軍を挟撃。

ロンメルは撤退を進言するが、それを拒否するヒトラーと衝突、43年3月ロンメル解任・帰国。

5月ドイツ・アフリカ軍団は降伏。

アフリカの戦いがゲッベルスの大々的なプロパガンダで喧伝されたこともあって、ロンメルの人気は帰国後も衰えず。

しかし著者はロンメルの指揮能力は認めながらも、アフリカで戦ったドイツ師団は3個だったのに対し、東部戦線では150を超える師団が死闘を繰り広げていたとして、アフリカ戦線はあくまで副次的戦場だったとしている。

頑迷固陋な戦争指導を繰り返すヒトラーへの疑念が膨らんでいく。

自分の頭で考えることのできるロンメルのような人物が、ユダヤ人の国際的陰謀にかんするナチ・プロパガンダの理論に真剣に同調していたなどと、とうていありえることではない。だがナチ首脳部の考え方に対し、ロンメルの態度がどれほどナイーヴであったかは、1943年のあるエピソードによく現れている。あるときのヒトラーのテーブルトークにおいて、ドイツのユダヤ人政策が、外国での国際的威信の低下を招いていることを、ロンメルは強く言上する。ドイツの名声を取りもどすために、彼はこんな提案を行った。「ユダヤ人の大管区指導者がひとり生れれば、わが国の世界での立場は良くなるでしょう」。これはヒトラーの激昂をかった。「ロンメル、貴君はわたしの意志を何一つ理解しておらんのか」。ロンメルがその場を辞したあと、ヒトラーは信じられないといった風情であっけにとられていた。「ユダヤ人がこの戦争の原因であることが、あの男には理解できないのか?」と。実際ロンメルはそう理解してなどいなかったが。

連合軍のフランス上陸に備える西方軍の一つの軍集団の最高司令官に就任するが、44年6月のノルマンディー上陸作戦は阻止できず。

44年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に連座したことはよく知られている。

反ヒトラー派と接触しながら、暗殺などの行為に関与することは拒否していたが、10月に自殺を強いられたのは、ライバルのカイテルなどの策略によると見られる。

本書では積極的レジスタンスに加わらず、表面的忠誠に囚われてヒトラー打倒のために必要な決断を為さなかった人物としてやや厳しい評価を下しているが、それでもやはり魅力的な側面を多く持っていたことは伝わってくる。

第2章「協力者」ヴィルヘルム・カイテル。

農場主の息子に生まれ、軍に入隊、第一次大戦中に参謀本部首席将校に。

この頃、後に国防相となるブロムベルクと知り合う。

敗戦後も新生国防軍に残留することに成功、陸軍編成局長に。

33年ヒトラー内閣が成立、ブロムベルクが国防相、ノイラートが外相。

このブロムベルクとノイラートは、保守派とナチとの(致命的な)連携の象徴として名前を憶えておいた方が良い。

カイテル自身はヒトラーの熱心な支持者に。

38年国防相ブロムベルク、外相ノイラート、陸軍総司令官フリッチュがいずれも解任され、保守派が追放。

後任国防相は置かれず、陸軍総司令官はブラウヒッチュ、外相はリッベントロップ、国防軍最高司令部が新設されその長官にカイテルが就任、アルフレート・ヨードルが作戦部長役に。

国防軍最高司令部長官とは大仰な名前だが、実際はヒトラーのイエスマンに過ぎなかった。

著者は、この事件によってヒトラーは軍を掌握し、完全な全体主義的権力を確立したとしている。

以後カイテルはヒトラーへひたすら追従し、捕虜・民間人殺害を正当化し、独ソ戦を「絶滅戦争」に転落させるのを不可避にする命令を発布。

・・・・・カイテルは、軍部にナチ「精神」を形成することにいそしんだ。たとえば彼は、かつて皇帝に仕える中尉であったというのに、ヴィルヘルム2世生誕80年祝典へ軍部の参加をいっさい禁じることにより、この精神形成に役立とうとしている。

ヒトラーは古きプロイセン軍を模範として国防軍に示すのを好んだが、当のプロイセン軍そのものは、不道徳な命令に従うことを重大な犯罪行為とみなしていた・・・・・。したがって犯罪的な命令を作成したり発行したりすることは、本当は軍隊の――もちろんプロイセンの――伝統とはもはや何のかかわりもなかった。それどころか、カイテルをはじめとする将校たちは、軍の伝統という基盤をとっくの昔に捨てていたことになる。

また戦局の悪化とともに脱走と見做された行為を裁判抜きの即時射殺で報いるよう命じている。

46年ニュルンベルク裁判で絞首刑。

まだ二人しか終わりません。

続きます。

(追記:続きは以下

ナチについてのメモ その3

ナチについてのメモ その4

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