カテゴリー「イギリス」の27件の記事

杉浦昭典 『海賊キャプテン・ドレーク  イギリスを救った海の英雄』 (講談社学術文庫)

この人もそこそこの重要人物の割には手ごろな伝記が無いなあと思っていたところ、少し前にこれが出たので借りてみた。

あとがきと巻末の記述を見ると、1987年に中公新書で刊行されたものの文庫化とのこと。

不覚にも新書で出ていたことに全然気付いていなかった。

最初はマゼランを中心とした大航海時代の概略。

この人物についてはシュテファン・ツヴァイク『マゼラン アメリゴ』(みすず書房)という最高に面白い本がありますので、それを強くお勧めします。

地理的なことで、大航海時代初期にスペイン・ポルトガルの拠点となった大西洋の島嶼名をここで少しメモ。

まずアフリカ北西岸沖にマデイラ諸島。

そこから北西に進むとアゾレス諸島。

マデイラから南下してカナリア諸島。

さらに南に進み、アフリカ最西端沖にあるのがヴェルデ岬諸島。

以上のうちカナリア諸島のみスペイン領、他はみなポルトガル領となる。

本書の主人公フランシス・ドレークは1540~45年の間に生まれる(下層階級出身なので正確な生年すらはっきりしない)。

小作農民でプロテスタントの熱心な信徒の家。

そのためメアリ1世時代(1553~58年)には息を潜めるように暮らす。

1558年エリザベス1世即位。

この時期のイギリスの有名な航海者としてまずウィリアム・ホーキンズがいる。

ブラジル・ギニアへの密貿易で成功、プリマス市長となり、のちに同名の息子ウィリアムも同市長になっている。

もう一人の息子がジョン・ホーキンズで1562年より数度にわたって新大陸への奴隷貿易を行い、交易を拒否された場合は武力で攻撃・略奪・貿易強制を遂行した。

このホーキンズの下で、ドレークは航海者としての活動を始める。

1572~73年にドレークは中米パナマでシマローン(逃亡奴隷)と協力して大量の金銀を奪取することに成功。

ちょうどこの頃は、ユグノー戦争(1562年~)、オランダ独立戦争(1568年~)、サンバルテルミの虐殺(1572年)など新・旧教国間の対立が激化していた時期だが、エリザベス1世はスペインとの決定的対立を避け、ドレークもしばし姿を消す。

1577年再び海に出たドレークはスペイン領を荒らし回りながら1580年にかけて世界周航を達成。

帰国後、プリマス市長と下院議員に。

1585~86年には西インド諸島を攻撃、87年にはスペインのカディス襲撃。

そして運命の年1588年にメディナ・シドニャが指揮するスペイン無敵艦隊(アルマダ)が出撃。

迎え撃つのは英海軍長官チャールズ・ハワードが司令を務める下に、ホーキンズ、ドレーク、フロビッシャーの三提督。

アルマダは同年7月に英国沿岸に達するが懸念されたプリマスへの即時攻撃は行わず、オランダで戦うパルマが指揮する陸兵との合流を目指す。

艦隊はカレー沖に投錨するが、すぐ近くのパルマ軍はオランダ海軍に押さえられて合流できず、その間に英国海軍が焼き討ち船を突入させてアルマダは大損害を受ける。

続く追撃戦であるグラーベリーヌ海戦でもイギリスは大勝。

アルマダは英国諸島を北回りに迂回して逃げ帰る。

スペイン到着時には艦隊の船は半分、3万の人員は1万になっていたという。

主な戦いは、以上カレー沖海戦とグラーベリーヌ海戦の二つだが、高校時代から不思議に思うことに、この戦争の総称としては地名が付かない「無敵艦隊の敗北」か「アルマダ海戦(戦争)」と呼ぶしかないようです。

余勢を駆って翌1589年ドレークはリスボン(1580年以降だから当時のポルトガルはスペインに併合されている)を攻撃するが、これには失敗、ドレークはしばらく陸に上がる。

一方この時期にイギリスの私掠船活動は最高潮に達し、その収益は年間輸入額の10倍にもなったなんて「ホントですか?」と思うようなことが書かれている。

1595年ドレークとホーキンズは中米遠征に出発するが、ホーキンズは病死、思わしい戦果が得られないままドレークも病に倒れ現地で死去する。

割と良い。

量的にちょっと物足りない気がしないでもないが、楽に読めるのは長所。

ざっと読んで知識を仕入れるのに適した本でしょう。

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イギリス東インド会社についてのメモ

浜渦哲雄『イギリス東インド会社』(中央公論新社)の記事続き。

ベンガル・ビハール・オリッサ徴税権を手に入れたものの、統治費用の増大から東インド会社はかえって倒産の危機に陥る。

イギリス政府が支援に乗り出し、1773年ノースの規正法制定。

政府が会社の監督を強化、ベンガル総督を設置しボンベイ、マドラスの上位にあって全インドを総攬することとする。

1784年ピットのインド法でインド庁設置、会社権限をさらに縮小。

1813年東インド会社の(インドでの)貿易独占権廃止、33年中国での貿易独占も廃止、商業活動を停止(この二つは高校教科書にも載っているが、たいていインド植民史とイギリスの自由主義改革の部分に分かれて出てくる)。

軍隊について。

国王軍と会社軍の並立。

国王軍はイギリス人のみで構成、会社軍は白人兵のみの部隊もあるが、数の上では将校がイギリス人、兵士がインド人の部隊が圧倒的。

宗教・カースト・民族が違えばイギリス人の指揮下で同じインド人と戦うのもさしたる抵抗が無かったのだろうが、考えてみればイギリスが長州・薩摩人を率いて徳川幕府を倒し日本を植民地化するようなものですよね。

根本的な価値観の共有と同胞意識の涵養がいかに重要かを再認識します。

官僚制について。

ICS(インド高等文官)制度に関して、初期は会社役員の縁故採用が多かったが、のちにイギリス本国の官吏採用よりも早く公開試験制を導入したとか、そのようなことが書いてある。

末尾は簡略なインド総督列伝。

最初はまだ総督ではなくベンガル知事のクライヴ(1758~60、65~67年)から。

プラッシーの英雄、社員の綱紀粛正に取り組むが敵も多く、帰国後反ネイボップ(インド成金)感情もあって汚職と権力濫用を議会で糾弾され自殺。

ウォーレン・ヘイスティングス(1772~85年)=ベンガル知事から初代ベンガル総督に就任。マイソールのハイダル・アリ、ハイデラバードのニザーム(藩王)、マラータ諸侯の間を離間し、マイソールに攻撃集中。

チャールズ・コーンウォリス(1786~93、1805年)=第3次マイソール戦争でハイダル・アリの息子ティプ・スルタンを破る。インドに来る前は確かアメリカ独立戦争で英軍を率いて敗れているはず。

ジョン・ショア(1793~98年)=不介入政策、財政健全化。

リチャード・ウェルズリー(1798~1805年)=1799年第4次マイソール戦争に完全勝利、ティプ・スルタン敗死。ワーテルローの英雄ウェリントン公(アーサー・ウェルズリー)は弟。(ウェリントンの本名とこのベンガル総督の存在は知っていたが血縁関係自体は全然知らなかった。)

ミントー(1807~13年)=ナポレオン戦争中にジャワ占領、配下のラッフルズが1819年シンガポール建設、東南アジア英植民地の端緒を作る。

モイラ(1813~23年)=グルカ(ネパール)戦争、第3次マラータ戦争。

アマースト(1823~28年)=第1次ビルマ戦争。

ベンティンク(1828~35年)=サティ(寡婦殉死)禁止、会社の商業活動停止、ベンガル総督の名称がインド総督へ。

オークランド(1836~42年)=第1次アフガン戦争。

エレンボロー(1842~44年)=アフガン撤兵、インダス川下流シンド地方併合。

ヘンリー・ハーディング(1844~48年)=第1次シク戦争。

ダルフージ(1848~56年)=第2次シク戦争・パンジャーブ併合、第2次ビルマ戦争。

チャールズ・カニング(1856~62年)=インド大反乱、会社解散。

以上細かな年代はともかく、イギリス支配地が18世紀半ばベンガル→18世紀末南インド・マイソール、19世紀第一四半期中部インド・マラータ→19世紀半ば北西インド・シクと広がっていったことを戦争の順番と共に憶えるといいでしょう。

それほど悪いとも思わないが、かと言って特筆すべき内容があるわけでもない。

浅田實『東インド会社』(講談社現代新書)と比べると新しい知識や見解が盛り込まれてはいるんでしょうが、私のような初心者がそれを十分汲み取れるかというと心もとない。

それと、この薄さの単行本で定価2310円というのも随分高く感じる。

まあ普通ですね。

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浜渦哲雄 『イギリス東インド会社  軍隊・官僚・総督』 (中央公論新社)

本文200ページ足らずのごく短い本。

著者には『英国紳士の植民地統治』(中公新書)、『大英帝国インド総督列伝』(中央公論新社)などの著作有り。

後者を読もうとしてそのまま放ったらかしだった。

前書きで、これまでイギリスのインド統治は否定的に捉えられがちであったが、最近のインドの急速な経済発展とともにその遺産が再評価されているとの記述にややギョッとする人もいるかもしれないが、本文中にはそうした視点は強く浮き上がってはこない。

「インド史の最大のアイロニーに一つは、インドがイギリス政府でなく、民間人が所有する特許会社によって征服されたことである」(T・パーソン)

という記述を裏書して、その過程を辿っている。

イギリス東インド会社は1600年ちょうどという憶えやすい年代に設立。

ロンドンと東洋(アフリカ喜望峰と南米ホーン岬間)の貿易独占特許を持つ。

オランダ東インド会社が1602年、フランス東インド会社が1604年と二年刻みの設立だというのは高校世界史でも出てきます。

フランス会社が不振で即解散したのは周知ですが、航海ごとに出資・清算を繰り返していたイギリス会社もこの時期はオランダに圧倒されていた。

1623年アンボイナ事件が起こるが軍事力劣勢のためオランダへの報復を断念、東南アジアから撤退しインド進出を目指す。

インドでのイギリスの三大拠点は、名前はもちろん位置関係も高校レベルでも確実に記憶しなけりゃいけませんでしたね。

ガンジス川下流ベンガルにあるカルカッタ、東海岸コロマンデル海岸沿いのマドラス、西海岸北寄りのボンベイ。

恥を忍んで言うと、高校生の頃しばらくの間、ヴァスコ・ダ・ガマが到達した西海岸マラバール海岸沿いのカリカットと上記カルカッタを混同してました。

これに対しフランスの拠点二ヶ所も重要暗記事項。

カルカッタ近くのシャンデルナゴル、マドラス近くのポンディシェリ(「近く」といっても全インドが入る地図で見ればの話ですが)。

高校時代どっちがどっちだったかなと迷ったときには、五十音順で「シ~」が上(北)、「ポ~」が下(南)だと無理やりゴロ合わせしてました。

イギリスの最初の拠点はボンベイのさらに北にあるスーラトと、マドラスよりかなり北のマスリパタム。

それぞれ1613年、1611年に商館建設(前者には異説があるらしい)。

ムガル朝はアクバルが1605年死去、ジャハンギール帝時代(~27年)。

マスリパタムの商館建設に許可を出したのはゴールコンダ王国という地方のイスラム政権。

この王国は後にアウラングゼーブ帝に滅ぼされる。

スーラト進出後、先行していたポルトガルとの衝突が起こる。

ムガル帝国はその最盛期においても海軍は弱体で、この時期アラビア海の制海権はポルトガルに握られ、メッカ巡礼や紅海貿易にはポルトガルの許可証が必要だったと書かれてある。

数度の戦闘と交渉の後、イギリスが制海権把握。

1640年マドラスに要塞建設、1661年チャールズ2世がポルトガル王室キャサリンと結婚、その婚資としてボンベイ獲得。

1664・70年マラータのシヴァージーがスーラトを襲撃、大きな被害が出ると、英国の西海岸の拠点はボンベイへ移る。

進出が遅れていたベンガルにも1697年カルカッタに商館兼要塞を建設。

フランスは1664年コルベールが東インド会社を復興させた後、イギリス嫌いのアウラングゼーブ帝の支援を得てシャンデルナゴル、ポンディシェリに拠点獲得。

18世紀初頭アウラングゼーブ死後、ムガル帝国は分裂・崩壊、群雄割拠の状態となりここから東インド会社の領土的拡大が始まる。

高校時代から思ってましたが、このムガル朝分裂の急激さは一種異様とも感じます。

古代以来の最大版図からあまりに極端な転落は世界史上極めて例が少ないような・・・・・・。

何か理由があるんでしょうか?

英仏が南インドで衝突、オーストリア継承戦争、七年戦争と連動して1744~63年三次に亘るカーナティック戦争。

インド植民地化の過程で起こった戦争は第○次と付くものが非常に多く、それがややこしいんですが、とりあえずは細部はパスしますか。

ムガル朝から事実上独立していたベンガル太守がイギリスと対立、太守に妥協的姿勢をとったフランスと連携、1757年有名なプラッシーの戦いが起こる。

ロバート・クライヴ指揮の英軍が太守・仏連合軍を破り、インド植民地化の基点となった戦いだが、その規模は極めて小さく小競り合い程度。

兵力こそ英側3000、太守側5万を動員しているが、戦死者が英側7人、太守側16人と書かれているのを見ると、「ホントかよ???」と目を疑ってしまう。

上記アンボイナ事件と並んで、実際の規模と後世の影響とが著しく乖離した出来事と言えるのかもしれない。

1758年クライヴがベンガル知事に就任。

クライヴが一時帰国中、イギリスが立てたベンガル太守が反抗、ムガル朝および隣国アワド国王と同盟、1764年バクサルの戦いで三者連合が英軍に敗北。

ヨーロッパの軍事的優勢をまざまざと示したものとしては、プラッシーよりもこのバクサルの戦いの方が重要だと、中公世界史全集の『ムガル帝国から英領インドへ』では書いてあった。

インドに戻ったクライヴの交渉を経て、65年ベンガルとそれぞれ北西と南西に隣接するビハール、オリッサの徴税権を獲得、実質領土化。

ベンガル獲得がプラッシー戦の直後ではなくワンクッション置いていることは頭の片隅に入れておいた方が良い。

この短い本で複数記事を書くとは思ってませんでしたが、終わらないので続きます。

(追記:続きはこちら→イギリス東インド会社についてのメモ

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ウィリアム・シェイクスピア 『リチャード三世』 (白水社uブックス)

『ヘンリー五世』に続けてこれを読む。

ランカスター朝と同じく、ヨーク朝の国王も3人。

まずエドワード4世、エドワード5世父子。

次がエドワード6世ならランカスター朝国王の名が皆ヘンリなのと同じく記憶しやすかったのだが(しかも○世の部分まで対になってる)、最後はエドワード4世の弟で5世の叔父に当たるリチャード3世。

(「実際のエドワード6世」はヘンリ8世の病弱な息子で、続けてメアリ1世、エリザベス1世が即位することになる。)

このリチャード3世は、最後にヘンリ7世ことリッチモンド伯ヘンリ・テューダーに敗れたということからくる過度の脚色もあるんでしょうが、とにかく極悪非道・残忍・狡猾な怪物的暴君としてその名を知られている。

イギリス史上、失政のオンパレードだったジョン王の後、「ジョン2世」は結局現れませんでしたが、リチャードという名の王も、このリチャード3世以後出てこない。

チャールズ皇太子とダイアナ妃との間のお子さんは、確かウィリアム王子とヘンリ王子でしたから、近い将来「リチャード4世」が登位する可能性も無い。

それはひょっとして、このリチャード3世のイメージが悪過ぎるからかなと想像してしまう。

本作品の記述に従えば、とにかくやることなすこと、恐ろしい醜行の連続である。

まずグロスター公として、兄エドワード4世に従い、ヘンリ6世の息子エドワードを敗死させ、ヘンリ6世を捕らえ幽閉した後殺害。

エドワード4世の病が重くなると、王に讒言し、もう一人の兄クラレンス公ジョージを投獄させ、密かに暗殺者を派遣してこれを殺害。

1483年エドワード4世が死去し息子のエドワード5世が登位するが、リチャードは即、甥から王位を奪い、ロンドン塔に幽閉、4世王妃で5世の母エリザベスの弟と連れ子(王妃は再婚だったので)を殺害。

エドワード5世と弟のヨーク公リチャードも結局殺害。

かつて自らが敗死させたヘンリ6世の皇太子エドワードの妻アン・ネヴィル(「キング・メーカー」国王製造人と呼ばれ、最初ヨーク家陣営の有力者だが、その後内部対立から一時ヘンリ6世を復位させ、次いで敗れたウォリック伯リチャード・ネヴィルの娘)を、リチャード3世は言葉巧みに籠絡し彼女と再婚していたが、この妃も本書の描写によればリチャードに殺されたことになっている。

おぞましい悪行がこれでもかと述べられていくと、読者は誰でもヘンリ7世を救い主と感じるでしょう。

(しかし福田恆存『私の英国史』によれば、以上のリチャードの行為とされるものには証拠が無く疑わしいものも含まれているので慎重な検討が必要だとのことです。)

ヘンリ7世ことリッチモンド伯ヘンリはランカスター家に連なる人物。

仏国王シャルル6世の娘カトリーヌ(キャサリン)とヘンリ5世が婚約したことは『ヘンリー五世』の記事でも触れましたが、両者の間にヘンリ6世が生れて、ヘンリ5世は短い治世で死去。

カトリーヌ王妃がオーウェン・テューダーという人物と再婚し、そこから生れたリッチモンド伯エドマンド・テューダーがヘンリ7世の父。

母方の家系を辿ると、ランカスター家の祖であるジョン・オヴ・ゴーントの息子で、ヘンリ4世の腹違いの兄弟に当たるサマセット伯ジョン・ボーフォートという人物がおり、その孫のマーガレット・ボーフォートがヘンリ7世の母。

フランスに亡命していたリッチモンド伯ヘンリがイギリスに上陸、1485年ボズワースの野でヘンリとリチャード3世との決戦が行われ、ヘンリが勝利、リチャードは敗死。

ヘンリ7世が、殺害されたエドワード5世とヨーク公リチャードの妹エリザベスと結婚、ここにランカスター家の赤バラとヨーク家の白バラが一つに結ばれ、テューダー朝が成立、両者からはヘンリ8世が生れる。

非常に面白い。

どこまでが史実でどこからがフィクションか慎重に構える必要もあるが、リチャードのあまりに凄まじい人物造形に、強烈な印象を受ける。

文学的な価値を十分鑑賞できたかはともかく、強く心に残る作品だったのは間違いない。

シェイクスピアの史劇を比較的短期間に三つ読みましたが、どれも興味深く読めました。

バラ戦争の複雑な過程を頭に入れるのに非常に適切な本です。

台詞の中でさりげなく登場人物の家系や相関図を述べており、それらが無理なく頭に入る。

本書の末尾の系図も大変見やすく整理されているので、頻繁に参照すべき。

上記『私の英国史』も詳細でしっかりとした記述が役に立つ本ではあるが、説明が凝縮されているので、一読しただけだと人物とストーリーを頭に入れることが難しい。

本書のような文学作品で地ならしをしてから取り組むと、より記憶しやすいでしょう。

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ウィリアム・シェイクスピア 『ヘンリー五世』 (白水社uブックス)

『リチャード二世』に続いてこれを読む。

リチャード2世廃位でプランタジネット朝が終焉した後を継いだランカスター朝の国王は3人。

ヘンリ4世、ヘンリ5世、ヘンリ6世。

全員名前が「ヘンリ」で、しかも王位継承が二回とも、ストレートな父子継承なので覚えやすい。

(これよりも「一つ前のヘンリ」はジョン王の息子で、シモン・ド・モンフォールに反乱を起こされたヘンリ3世、「次のヘンリ」はバラ戦争を終結させテューダー朝をひらいたヘンリ7世。)

シェイクスピアの作品には、『ヘンリー四世』と『ヘンリー六世』もあるが、前者は2部構成、後者は3部構成で読むのが面倒臭いというひどい理由で本書を選んだ。

リチャード2世からヘンリ4世への王位の移動は確かに「簒奪」としか言い様の無いものだが、エドワード3世→ジョン・オヴ・ゴーント→ヘンリ4世と男子直系で繋がっており、この前の佐藤賢一『カペー朝』(講談社現代新書)の記事で、カペー・ヴァロワ両王朝について書いたのと同じく、これで王朝が変ったことになるのかなあと思った。

福田恆存『私の英国史』でも、ランカスター朝とヨーク朝を単にプランタジネット朝の継続と見なす見解が紹介されていた。

そもそも中国の「易姓革命」のように、基本的に前王朝と何の血縁関係もない一族が新たに王朝を建てるという感じではない。

男系・女系に拘らなければ、ノルマン朝から現王朝までのイギリス王室も(カペー朝から大革命までのフランス王室も)、ある意味「万世一系」である。

本書の主人公、ヘンリ5世はヘンリ4世の息子で、1413~22年の間在位。

(当時、ドイツではジギスムントがコンスタンツ公会議を開いていて、中央アジアではティムール没後間もなく、中国では明の永楽帝が在位していた頃。)

在位期間は短いものの、この王の治世は、百年戦争でイギリスが最も優位に立った時代である。

英仏間の休戦が破棄され、1415年アザンクールの戦いで、戦争初期のクレシーおよびポワティエの戦いに並ぶ、決定的勝利を得る。

1420年トロワ条約で、ヘンリ5世はシャルル6世の娘カトリーヌと結婚、フランス王位継承権を獲得、とうとうヘンリの下、英仏両国が合併するのかと思われたが、わずか二年後ヘンリ5世は死去、イギリスの勝利は水泡に帰す。

ヘンリ6世(1422~61年)が跡を継ぐが、同1422年仏国王シャルル6世も死去、ジャンヌ・ダルクが登場し、王太子だったシャルル7世が戴冠する。

結局フランス優位のうちに1453年百年戦争終結、その同じ年にヘンリ6世は精神に異常をきたす。

(ヘンリ6世は上記仏王女カトリーヌの子なので、同じく精神を病んだ祖父シャルル6世の遺伝とも言われる。時期がかなりずれるが英仏とも[ヘンリとシャルル]「6世」が精神を病み国政が乱れて、「7世」が混乱収拾と覚える。)

百年戦争終結から間もない1455年バラ戦争が始まり、61年ヨーク家のエドワード4世が即位、その後も紆余曲折があったが(ヘンリ6世が捕虜になったり、救出されて復位したり、また敗れて捕らえられたり、この経緯は上記『私の英国史』を読み返すと頭が痛くなります)、最終的にヘンリ6世は幽閉・殺害される。

リチャード2世の廃位から始まったランカスター朝がこういう終わり方を迎えたのは因果応酬というべきか。

ヨーク家の系図は、エドワード3世→ヨーク公エドマンド・オヴ・ラングリー→ケンブリッジ伯リチャード→ヨーク公リチャード・プランタジネット→エドワード4世。

ランカスター家は、エドワード3世→ジョン・オヴ・ゴーント→ヘンリ4世→ヘンリ5世→ヘンリ6世。

よってエドワード4世は、ヘンリ6世と概ね同世代か。

直接本書と関係無いことをあれこれ書きましたが、これもなかなか面白いです。

『リチャード二世』ほどには感銘を受けませんでしたが。

フランスとの戦争再開決断から始まり、後半部クライマックスのアザンクールの戦いを経て、仏王女との婚約が成就するところでおしまい。

基本、人生の浮き沈みの無い、王の成功を描写しているので強い印象は受けない。

よってイギリスの王位継承争いを知るには『ヘンリー六世』を読んだ方がいいのかもしれないが、上記の複雑さを思うとつい面倒だなと感じてしまう。

気が向いたら、いつかは読もうと思います。

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ウィリアム・シェイクスピア 『リチャード二世』 (白水社uブックス)

シェイクスピアの作品で読んだものと言えば、大分前に記事にした『ジュリアス・シーザー』『アントニーとクレオパトラ』の他には『ハムレット』だけです。

文学的素養ゼロの私としては、正直どれも面白さがわからなかったので、他の作品を読もうという気はこれまで全然起きなかったのですが、高坂正堯氏が『大国日本の世渡り学』『世界史の中から考える』で、イギリス議会政治の背景を知るためにシェイクスピアの史劇を読むことを薦めていたので、ひとまず本書を手に取ってみた。

訳者は小田島雄志氏。

巻末にある全集の広告を見ると、シェイクスピアのイギリス史劇では、『ジョン王』を除けば、これが一番古い国王を扱ったもののようだ。

歴代のイギリス国王は他の国の君主に比べれば、高校教科書でもかなり名前が出てくる。

プランタジネット朝以降ではヘンリ2世・リチャード1世・ジョン王・ヘンリ3世ときて、以後エドワードという名前の国王が三代続き、エドワード1世・エドワード2世・エドワード3世。

このうちエドワード2世のみが教科書範囲外だが、他の国王は全て重要で高校レベルでも暗記すべき事項と言えるでしょう(ついでだし、エドワード2世も覚えるに越したことはない)。

以上、リチャード1世→ジョン王が兄・弟間の継承だった以外は、すべて父子継承。

本作品の主人公リチャード2世は、高校世界史で出て来る国王ではない(ただし2002年版『詳説世界史』では本文中にはもちろん記されていないが、欄外の系図で後継のランカスター朝・ヨーク朝の王と共に名前が出ている)。

系図を確認すると、百年戦争を始めたのがエドワード3世、その子が勇武で知られたエドワード黒太子。

このエドワード黒太子は父親より先に死去し国王には即位せず(即位してたらそもそも黒太子ではなく、「エドワード4世」と呼ばれていたはずだから当たり前ですが)。

リチャード2世はこの黒太子の子で、祖父のエドワード3世を継いで1377年即位。

百年戦争ではシャルル5世(1364~1380年)時代にフランスがやや形勢を挽回し、シャルル6世の幼い娘イザベラとリチャード2世が婚約し、英仏間は休戦状態に入る。

黒太子の弟にランカスター公ジョン・オヴ・ゴーントという人物がおり、その息子でリチャード2世のいとこに当たるヘンリ・ボリングブルックが反旗を翻し1399年リチャードを廃位、自ら王位に就きヘンリ4世となる。

(リチャードは翌年死亡。本作品ではヘンリの意を読み取った部下による暗殺、福田恆存『私の英国史』では餓死。)

リチャード2世にてプランタジネット朝は終わり、ヘンリ4世からランカスター朝が始まる。

なお、ジョン・オヴ・ゴーントと同じく黒太子の弟で、ヨーク公エドマンド・オヴ・ラングリーという人物がおり、この人が後のヨーク王家の祖となる。

結局、リチャードは阿諛追従の徒に囲まれ賢臣を遠ざけ、重税を課して国民各層に見放され、王位を簒奪された愚かな暗君というのが本書での描写を含めた一般的イメージのようですが、私はこの人にあまり悪い印象がない。

それはおそらく、アンドレ・モロワ『英国史』で読んだ、以下のエピソードからあまりに強烈な印象を受けたからだろうと思う。

リチャードが即位して間もなく、1381年に史上有名なワット・タイラーの乱が起こっている。

王が塔から出ていた間に、叛徒はそこへ押入った。カンタベリー大司教の首と大蔵長官の首が、ロンドン橋の袂に晒された。血に狂い、我を忘れたこの群集を、なんとでもして遠ざけることが必要だった。

農民の多くは自分たちの憲章に満足して、既にその日のうちに市から去った。まだ数千人が残っていたが、これらは疑いもなく最も悪質の連中で、掠奪を続けようと思っていたのである。しかし各処から、騎士や都邑の公民が王に荷担すべく到着した。

翌日の新しい会見の場所としてスミスフィールドの馬市場が叛徒に通達された。少年の王はその広場へ騎馬で、ロンドン市長その他の護衛の一隊を引連れて乗込んだ。広場の向うの端には『百姓兵』どもが弓を武器に控えていた。彼等の首領ワット・タイラーは、乗馬のまま王の一行を出迎えた。

そこで何が起ったか?年代記作家たちは各々違ったことを書いている。確かにこのタイラーは傲慢な態度を示したに相違なく、ロンドン市長は突然怒りだし、隠し持った武器の一撃で、彼を打ち倒した。彼が倒れるや否や、王の供奉者は彼を取巻いて、広場の向う側にいる一味の者から見えないようにした。しかしこれを見てとった彼等は早くも戦闘隊形を作って、弓を引絞った。

その時、この若い王は、思いがけない英雄的な、行動に出た、それが事態を救ったのである。彼は供奉の人々に、『ここに居れ、誰もついて来るな』と言いおいて、たった一人で彼等を離れた。そして叛徒の方に向って行きながら言った、『お前たちの隊長は余以外にない。余はお前たちの王だ。静かにせよ』。落着き払った態度で何の不安も見せず自分たちの方へやって来る美少年を見て、首領も計画もない叛徒は武器を棄てた。リチャードは彼等の先頭に立って、彼等を市の外に導いた。ともかく、フロアサールの語るところは上述の如くである。

ちなみに、この文章の後、以下の記述が続く。

殺人者と掠奪犯人は、憐憫に値しない。しかし1381年の農民の中には、正義を擁護するのだと思っていた正直な人間が多かった。この連中が、感動し信頼し切って、やがては処刑の目に遭わされるとは露知らず、この美少年王の後からついて行ったのだと思うと、誰かよく感慨なきを得よう。けだし、その弾圧たるや、この暴動に劣らず残酷なものとなったからである。

想像していたよりもはるかに面白かった。

人物造形の巧みさと台詞まわしの深みは、私のような人間でも十分感じ取れた。

前半部、傲慢で無思慮な王であるリチャードが、廃位され悲劇的境遇に落ちてから尊厳の兆しを見せる後半部とのコントラストが見事。

短いので楽に読めるし、高坂先生のおっしゃる通り中世から近世のイギリス史の雰囲気を知るには、シェイクスピアの史劇は非常に適切だと思います。

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水谷三公 『王室・貴族・大衆 ロイド・ジョージとハイ・ポリティックス』(中公新書)

著者の水谷氏については、以前『丸山真男 ある時代の肖像』(ちくま新書)を飛ばし読みしたことがあった。

本書の書名だけ見ると何の本だかわからないし、サブタイトルを見てもはっきりしないでしょう。

中身は19世紀末から20世紀の第一四半期における、イギリスの政治・社会史。

「はしがき」に以下のような文章がある。

現在世界には三十足らずの王制国家があるという。意外に残っているともいえるし、戦後だけで二十以上が姿を消したと聞けば、王政消滅は世界史の大勢といった、平凡な議論に説得力が感じられもする。

それはともかく、王政廃止が、政治や暮らし向きを向上させるのに不可欠だったか、あるいは現実に廃止してみて、政治や生活がよくなったといえるか、疑いは残る。王政を廃止し、人類進歩の先頭に立ったと宣言したのはフランス革命だが、その後に訪れたナポレオン独裁を支えた治安警察の長官フーシェは、貧弱な警察体制が王政崩壊の原因だったと言っている。政治的抑圧は、王政廃止後に徹底したことを教える。・・・・・西ヨーロッパでも、王政を続ける国々が、共和制国家とくらべて、政治的・経済的パフォーマンスで見劣りするとも思えない。

もっとも、どちらでもたいして変わらないなら、わざわざ王政を残さなくとも、という意見も出る。ヴィクトリア朝イギリスについて、このあたりの事情を説明したのがバジョットである。バジョットによれば、パフォーマンスの意味が狭すぎるのである。政治の実質に興味もなければ、理解能力にも恵まれない大衆にとって、「女王様が支配されている」という説明は、わかりやすく人間味に溢れている。女王が現実にやれることといえば、政府に報告を求め、助言と警告を与えるくらいで、女王統治は神話に過ぎない。ところがこの点が長所で、大衆の思いちがいのおかげで、政治家は安心して政界の実務、つまりはハイ・ポリティックスに専念できる。一八六七年の『英国憲政論』は、大統領を戴く共和制にくらべた、王政パフォーマンスの優越をこう説明している。

・・・・・本の出版と同時に第二次選挙法改正が実施され、翌年の労働組合全国組織の結成もあって、「大衆」の交渉力は底上げされた。公的初等教育も浸透し、識字率は上がり、それまでほとんど名も知られなかったマルクスが読まれる素地もできた。そのマルクスは、労働者に祖国はない、と叱咤したが、識字率や生活水準の向上は、予期に反してナショナリズムを強める方向に働き、社会主義と並んで、近代王政の脅威となる。ヴィクトリア女王も、自分の後は「大洪水」というつぶやきを残して世を去った。

民衆の大義を掲げて、国王の政治介入と貴族支配体制の打破を謳いあげ、大筋それに成功するのは、イギリスの場合、マルキストではなく、自由党急進派であり、とりわけロイド・ジョージである。ところが意外なことに、この過程で攻撃に回った自由党は潰滅状態におちいり、ロイド・ジョージは失脚する。受け太刀に回った貴族は、政治的実権を大幅に手放すという犠牲は払うが、いまもって年代物の魅力を振りまいて人を魅惑する。ヴィクトリア女王の近代王政は、ジョージ五世の下で大衆王政に脱皮を遂げて安定した。バジョットは一八六七年の王政については正確ではなかったとしても、二十世紀の大衆王政には、なかなか有益な教訓を残したことになる。

・・・・・イギリス大衆社会は、貴族に引退勧告をつきつけたが、スノッブは王室とともに健在である。「神より偉大な」貴族から御成婚番組に感動する庶民まで、スノッビズムにどっぷりつかった国民性。もしそれが「暴民(モッブ)」横行と「革命エリート」による大衆抑圧に代わる災いなら、甘受するに足るという判断も出てくる。そんなところが、この小著の底流にある気分である。

これを読んだ瞬間、この本は「当たり」だと思いました。

大衆民主主義の渦に押し流されて破局を迎えた日独伊などに対して、見事な退却戦を演じたイギリス王室と貴族を描いた本。

語られる出来事は、経済成長による大衆社会とマス・インテリの誕生、1909年「民衆予算」、1911年議会法、1917年ハノーヴァー(ザックス・コーブルク・ゴータ)からウィンザーへの王朝名改名、貴族の土地離れと新興富裕層との融合、大戦後の叙爵スキャンダルと自由党の没落など。

登場人物は、ヴィクトリア女王の子エドワード7世と孫のジョージ5世、自由党のアスキス、ロイド・ジョージ、チャーチル(当時は自由党所属)、保守党のバルフォア、ランズダウン、カーズンなど。

なかなか面白い。

著者の皮肉とユーモアに満ちた文体が興味を持たせる。

一部ダレ気味になるところもありますが、ごくわずかです。

熟読する価値のある良書と言えるでしょう。

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森護 『スコットランド王国史話』 (中公文庫)

『とびきり哀しいスコットランド史』の記事で名前を出したこれを通読。

大修館書店から単行本で刊行されたものの文庫化。

中身は非常に細かい王統史。

一人の国王も省略することなく、ひたすら王家の系図を辿っていく叙述。

こういう形式の歴史書を時代遅れとして馬鹿にする人がいるが、私はそうは思わない。

『ヴィクトリア女王』の記事でも書きましたが、初心者の第一歩としてはそれが一番適切である。

スコットランド史の人物と言われて、誰一人思い浮かばないような状態ならば、物語風の国王たちの歴史を読むことくらいから始めるしかない。

とは言え、すべての国王名を憶えるのはまず不可能。

よって、顕著な功績のあった君主か、イングランドとの関係上転機となったときの国王のみを憶えることになるでしょう。

以下、私的メモ。

ローマ帝国外にケルト系ピクト族が活動。

私はこのピクト族がスコットランド人に直接繋がると思っていたが、ローマ崩壊後隣接するアイルランドから渡って来た同じケルト系のスコット族が民族名の由来。

839年ケニス1世がピクト・スコット連合の王位に就きアルピン王家創設。

直系男子による継承が確立しておらず、王位は非常に不安定。

11世紀、マルカム2世が領土拡張と継承方式の確立を目指す。

1034年当時のイングランド王クヌートに通ずる勢力によりマルカム2世が殺害された後、孫のダンカン1世が即位、アサル王家樹立。

ダンカン1世が、シェークスピアの作品で有名な、従兄弟のマクベスに殺害され王位を奪われる。

ダンカンの息子マルカム・カンモーがマクベスを敗死させ、マルカム3世として即位。

この人は非常な名君だったようで、多くの紙数が割かれている。

ちなみにマルカム3世の治世中、1066年ノルマン・コンクェストでイングランドはノルマン朝統治下へ。

以後マルカムの息子たちが順に王位を継ぐが、末弟のデイヴィッド1世が特筆されている。

父と同じくイングランドの文化・制度を移入し、行政・司法制度の整備、貨幣鋳造、自由都市(バラ)の建設など数々の業績を挙げる。

13世紀末、アレグザンダー3世の落馬・事故死をきっかけにアサル王家断絶。

ウェールズを併合して意気上がるイングランド王エドワード1世が王位継承に介入、傍系のジョン・ベイリャルが即位。

傀儡扱いに耐えかねたベイリャルがフランスと結んで反抗すると、エドワードはスコットランドに侵攻し、ベイリャルを廃位。

イングランド支配の中、ウィリアム・ウォリス(ウォーレス)が蜂起するが鎮圧される。

元親イングランド派のロバート・ドゥ・ブルースが反旗を翻し、イングランドに大勝、独立を回復し、ロバート1世として即位、ブルース王家樹立。

ロバート死後、ベイリャル家・ブルース家の非力な王が続いて在位するが、実質的にはイングランドのエドワード3世の支配下に置かれる。

ペスト大流行、百年戦争の膠着状態のおかげで何とか独立維持。

1371年ロバート1世の娘とステュワート家の男子との間に生まれたロバート2世が即位し、ステュワート(ステュアート)王家が始まる。

ここまで来ると、ああやれやれという気分になる。

以後は面倒なので端折りますが、ロバート3世、ジェームズ1世~5世、メアリ・ステュアート、ジェームズ6世(エリザベス1世死後、イングランド王ジェームズ1世に)という順の国王の個性と治世のあらましがよくわかる記述になってます。

宗教改革の浸透が反イングランド色の濃かったこの国に親イングランド派の楔を打ち込んだとか、ジェームズ1世以後の国王で成人後即位した人物がおらず摂政設置時期と王権拡張期が繰り返され、その中で貴族層の内乱が絶えなかったことなどを押さえておけばよいでしょう。

通読するのに少々骨が折れるが、内容はなかなか良いです。

ちょっと細かな家系図に深入り過ぎかと思われる部分もありますが、叙述形式自体は悪くない。

最初に触れた『とびきり哀しいスコットランド史』を事前に読む必要はなく、いきなり本書から入るべき。

もし読むのなら、『とびきり~』の方は本書の記述を踏まえて各国王がどのように評価されているかを確認したり、ごく大まかな復習のために事後に読むといいでしょう。

基本的に初心者は、本書以上に詳しいスコットランド史は不要でしょう。

これ一冊あれば用は足ります。

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石井美樹子 『王妃エレアノール』 (朝日選書)

『世界史のための文献案内』(山川出版社)を眺めてて、たまたまタイトルが目に付いたので、これを読んでみた。

12世紀に生きたフランス王妃の伝記。

1988年に平凡社から同じタイトルで出たものの増補改訂版で1994年刊。

この王妃は名前を知っている人の方が珍しいくらいだし、そもそも夫のルイ7世自体が高校世界史で出てくる人物ではない。

ルイの息子のフィリップ2世は必ず記憶しなければならない重要な国王だが、フィリップはルイと別の妃との間に生まれた子供であり、エレアノールの実子ではない。

では、なぜこういう人物を主人公にした結構な厚さの伝記を読む気になったのかというと、彼女がルイ7世と離婚し、実家である広大なアキテーヌ公領を婚資として、後にイギリス国王ヘンリ2世となるアンジュー伯ヘンリと再婚し、リチャード1世とジョン王の母となったため。

あの高校世界史でも出てくる、「フランスの西半分がイギリス王の封土」という状況を作った女性とも言えるのだから、考えてみれば超重要人物である。

アキテーヌ公爵家は代々ポワトゥー伯爵とガスコーニュ公爵を兼ね、現在のフランスのおよそ四分の一を占める大諸侯で、パリ周辺のイル・ド・フランスのみを領有するカペー王家よりも強勢を誇っていた。

王権強化のために、アキテーヌのエレアノールとカペー王家のルイの政略結婚が行なわれるが、夫妻揃って行軍した第2回十字軍が完全な失敗に終わった後、性格の不一致などがあり別離。

フランス東部の雄シャンパーニュ伯と並ぶ有力諸侯アンジュー伯ヘンリと再婚したことにより、ノルマン朝以来の支配地ノルマンディーを含めて、英仏海峡からピレネー山脈に至る広大な「アンジュー帝国」が出現する。

(息子の結婚で大西洋に突き出た半島のブルターニュも勢力下に入れたように書かれているから本当にフランス西半分全てがイングランドと同一の君主に統治された状態になっている。)

離婚後もルイ7世は男子に恵まれず、その娘がエレアノールとヘンリ2世の間の王子(名は父と同じヘンリ、のち父より先に死去)と結婚していたので、場合によっては英仏両国が完全に一人の君主の下に統合される可能性すらあったらしい。

しかしルイの三度目の結婚でフィリップ2世が生まれ、彼がジョン王から大陸の領土のほとんどを奪い返すのは高校教科書の通り。

その前から父のヘンリ2世およびヘンリ王子、リチャード、ジェフリー(ブルターニュ公女と結婚)、ジョンら息子の間には紛争が絶えず、この不和をフランス王に利用されて、アンジュー帝国はあっけなく瓦解する。

ちなみにエレアノールの娘とカスティリャ王アルフォンソ8世との間に生まれた娘がフィリップ2世の息子ルイ8世と結婚し、その両者から聖王ルイ9世が生まれることになります。

これはとても良い。

人物描写が非常に鮮やかで巧みであり、良質の歴史小説を思わせる。

大変読みやすく、史実が明解なイメージを伴って、頭に深く刻み込まれる。

話の本筋だけでなく、周辺的な事項も丁寧に論じられており、曖昧さを感じない。

この辺の時代は複数国に跨る王家間の婚姻関係が複雑でわかりにくいが、詳細な家系図を添え、親切に繰り返し言及するので理解しやすい。

400ページ超と選書にしてはかなり長いが、ほとんど苦にならない。

一日一章のペースで読めば無理なく通読できるでしょう。

中世ヨーロッパ史として相当の名著だと思います。

しかし、これが新刊書店で手に入らないのは痛い。

痛すぎる。

刊行から15年も経てばやむを得ないのかもしれませんが・・・・・。

まずは図書館で借り出して、ご一読下さい。

それで気に入って、ネット古書店で非常識な価格でなければ、注文して手元に置いておくのも悪くないと思います。

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フランク・レンウィック 『とびきり哀しいスコットランド史』 (ちくま文庫)

これもずいぶん前から存在には気付いていたが、そのまま放置してあったもの。

森護『スコットランド王国史話』(中公文庫)を読むのが面倒なので、まず簡略なこれを読んだ。

先史時代から1707年アン女王治下の大ブリテン王国成立までのスコットランド通史。

各章が2、3ページと短く、ユーモアとおふざけの入った文体に挿絵多数と、非常に取っ付きやすい形式。

しかし、その分さらっと読むだけでは何も頭に残らない恐れがある。

これだけを読んで、国王の系譜を憶えるのは相当難しい。

王家の系図や年表が無いのも不親切。

特に前者は是非付けて欲しかった。

登場人物のうち、マルコム2世、アレグザンダー3世、ウィリアム・ウォレス、ロバート・ブルース、ジェームズ1世(英国王ジェームズ1世[スコットランド王としては6世]の祖先)、メアリ・ステュアートなどを憶えればいいんですかね。

楽に読めたが、あまり得たものがない。

やはり上記の森氏の本を読んだ方がいいのかな。

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