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エリック・ルーセル 『ドゴール  (ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物7)』 (祥伝社)

このシリーズでベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』に続いてこれを読む。

ドゴールの伝記ではラクーチュール村松剛の著書を通読済み。

あと福田和也『第二次大戦とは何だったのか』での小伝も。

ドゴール家はパリのブルジョワ家系。

高祖父は高等法院検察官、革命で財産の大部分を失う。

曽祖父は国民公会によって投獄され、百科全書派思想に失望、のちにナポレオン軍の軍職に就く。

祖父ジュリアン・ドゴールはリールに移住し古文書学者になる。

以前、チャールズ・ウィルスン『オランダ共和国』の記事において、冗談半分で、南ネーデルラント継承戦争でリールを獲得してなければドゴール出現も無かったのだから、「ルイ14世の征服戦争」も利点があったと書きましたが、以上の経緯と年代を考えると、ジョークとしても的外れでしたね。

貧窮生活の中、一家は厳格なカトリック信仰を守り通す。

父アンリ・ドゴールは理工科学校(エコール・ポリテクニック)を経て内務省に入るが、第三共和政の反教権主義により辞職、教職に転ずる。

「ジョゼフ・ド・メーストルの言葉によれば、革命は宗教改革と同じく悪魔的なものであった。革命を愛することは神から遠ざかることである」

だが、ドレフュス事件にあたってはドレフュスの有罪を疑い、それを公言、極右団体アクシオン・フランセーズがヴァチカンから断罪されると、その日刊紙の購読を止める。

このアンリの次男として1890年に生まれたのが、シャルル・ドゴール。

1909年サン・シール陸軍士官学校に入学、卒業後入隊した部隊で当時大佐のフィリップ・ペタンと知り合う。

第一次大戦に従軍、1916年ヴェルダン攻防戦のドゥオモン保塁で三度目の負傷、捕虜になる。

なお、1966年になってドイツの旧兵士が、当時ドゴールは抵抗もせず降伏したとメディアで主張したが、ドゴールは無視した。

第二次大戦時に敵国が宣伝材料として利用しなかったことを見ても、これは虚偽の主張だろうと著者は判断している。

バイエルンのインゴルシュタット収容所に送られ、そこでのちの同志カトルーや、ソ連赤軍の英雄となるトゥハチェフスキーと知り合う。

ここでドゴールの政治思想の解説。

一言で言うと、不本意ながらの共和主義者。

家系が示すように18世紀啓蒙思想への不信を持つが、20世紀になっての王政復古の可能性は信じていない。

この点、クロワ・ド・フー(火の十字団)のラロックと類似している(剣持久木『記憶の中のファシズム』参照)。

モーリス・バレス、シャルル・モーラスなど、アクシオン・フランセーズの極右思想家の著作を読むが、反ユダヤ主義の領域に引き込まれることは拒否する。

1919、20年にポーランド軍顧問団への配属を志願し、ソヴィエト軍と戦う(これもラロックと共通)。

ペタンの推挙によって軍内で昇進を重ねる。

第三共和政への不信を持つが、軍によるクーデタなどは否定するリアリズムと賢明さを持つ。

ドゴールは、戦車を集中配備した機甲師団創設を主張(ただし空軍力の重要性は必ずしも十分に認識せず)し右派議員ポール・レイノーの賛同を得たが、ブルム内閣国防相のダラディエが反対、ペタンとも決裂する。

第二次世界大戦開戦、大統領アルベール・ルブランの下、1940年3月に首相がダラディエからレイノーに交代。

5月にドイツ軍が大攻勢、ドゴールは一部機甲師団を指揮し反撃。

最高司令官はガムランからウェイガンへ交代、ペタンが副首相、ドゴールは国防次官になる。

ドイツ軍の侵攻によって政府はパリからトゥール、さらにボルドーに移転。

ウェイガンとペタンは休戦を唱えるが、ドゴールはあくまで英国と連携し、米国の支援に期待をかけ徹底抗戦を主張。

このフランス降伏直前時に、フランスの抗戦意欲を維持するために、英仏の単一国家への合邦という驚きのプランが検討され、国民国家の独立を何より重視するドゴールも同意するが、これは全くの画餅に終わる。

首相レイノーは辞任、ペタンが後任となり、ドゴールはロンドンに亡命、6月18日BBC放送での史上有名な抗戦アピールを行う。

英にはフランス海軍力の後背への懸念と配慮があり、当初ペタン政権を完全に否認できなかったが、6月末ドゴールの自由フランス政府を承認、7月メルセルケビール作戦で仏海軍への攻撃に踏み切る。

ジャン・モネらのように抗戦派だが反ドゴールの立場を採った人物もいたが、ガストン・パレフスキー、ルネ・プレヴァン、ミュズリエ提督、ジャック・スーステル、カトルー(インドシナ総督を解任された)、ピエール・メスメール、ルクレール、ジャック・マシューらが参集。

7月ヴィシー政府成立、8月ヴィシーはドゴールに死刑宣告。

9月自由フランス政府によるダカール奪取作戦が失敗するが、チャド、ガボンは自由仏派へ。

ドゴールにとっては、フランスの正統性と代表権を主張し、国内レジスタンスの主導権を可能な限り共産系から奪うことが課題になる。

また、ヴィシーも完全な傀儡政権ではなく、対独協力の一方、水面下で英国と接触し、12月には親独派のラヴァルを解任するなど、微妙な舵取りを採る。

12月シリア・レバノンのヴィシー側高等弁務官との交渉で、当地域が英仏軍統治下に入る。

ドゴールは、同志たちの多くが抱いていた通俗的共和主義とは違い、第三共和政への軽蔑を隠さず、「自由・平等・博愛」の信条に「祖国と名誉」を加え、集権化制度への支持と革命前後を含むフランスの全ての歴史を許容するという立場を示し、モーラスの思想すら、政府の役割と世界におけるフランスの地位については受け入れた。

そのため、「反民主的」との疑念にさらされることにもなった。

自由フランス内ではミュズリエとの勢力争いが発生、同盟国のイギリスとの軋轢も絶えず、ドゴールを実権の無い象徴的地位に祭り上げようとする動きが起こる。

アメリカも、この時期ヴィシー政権の穏健化と対独離間策を主な政策としていた。

米国政府内でもリーヒー提督ら反ドゴール派が存在し、当時米国に滞在しており、後年ドゴール政権で外相・首相を務めるモーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィルもそれに異を唱えない状況だった。

41年に入り、独ソ戦が始まり、真珠湾攻撃で米国が参戦するなど、情勢が好転する中、現実政策の面からソ連へ接近、ジャン・ムーランによる国内レジスタンス統一に際しては、共産系へ譲歩。

42年11月米英軍がモロッコ・アルジェリアに上陸、本格反抗が始まるが、米国はドゴールよりむしろ、ドイツから脱走してきたジロー将軍を支持。

アルジェのダルラン提督は米国との交渉に踏み切りペタンによって解任、独軍は仏南部に侵入しヴィシーは完全に傀儡化。

12月にダルランが暗殺されるが、これにドゴールが関与していたかは不明とされている。

43年1月モロッコのカサブランカで、チャーチル、ルーズヴェルト、ドゴール、ジローの四者が会談、ジローのアルジェ掌握が決まるが、成立した国民解放フランス委員会は巻き返しがあり、11月にはドゴールの主導権が確立する。

戦勝国によってフランスに軍政が敷かれ占領扱いになることにドゴールは強硬に反対、イーデン、アイゼンハワーらの理解を得て主張を貫くことに成功。

44年6月ノルマンディー上陸作戦、同月国民解放フランス委員会は臨時政府に改組、8月パリ入城。

45年2月ヤルタ会談には参加できなかったが、国際連合安保理常任理事国の地位とドイツ占領権は得る。

戦勝国の一員となったものの、インドシナなどの植民地では反乱が続発(ここで高校世界史では出てこない人名だがチュニジアのブルギバ[1957~87年大統領]を覚えておきましょうか)。

45年秋の選挙で、共産党が国民共和運動(MRP)と社会党(SFIO)を抑えて第一勢力に。

46年1月ドゴールは臨時政府首班を辞任、社会主義者のグーアンが後任、10月憲法採択、社会党ヴァンサン・オリオール大統領の下、第四共和政成立。

47年3月社会党ラマディエ首相就任、5月に共産党閣僚を追放。

同年3月ドゴールは自前の政治組織として、フランス国民連合(RPF)を組織。

一時支持を集めたRPFだが、植民地の独立要望に対する曖昧な態度や、冷戦進行で非現実的になったドイツ分割政策への固執、51年調印(52年発効)のヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)など欧州統合への反対、過度の反共主義によって、徐々に党勢は後退。

不遇のうち、引退状態になったドゴールだが、アルジェリア危機に際して58年首相復帰。

59年大統領権限を大幅に強化した第五共和政樹立、初代大統領に。

(第五共和政は成立後50余年で、まだ第三共和政の方が長いが、おそらく近代フランス最長の政治体制になるでしょう。)

復帰してからの10年はよく知られているんで、流します。

UNR(新共和国連合)が与党、ミシェル・ドブレ、モーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィル、シャバン・デルマス、ジョルジュ・ポンピドゥー、ヴァレリー・ジスカールデスタンらが側近。

政権復帰の発端であったアルジェリア問題ではサハラの石油への固執も持ったが、結局独立を承認(しかし同時に、本書では親仏派現地人への冷酷とも言える対応についても記している)。

対米自立外交を繰り広げながらも、62年キューバ危機に際してはケネディ政権の対応を全面的に支持。

68年五月危機も乗り切ったかに見えたが、69年辞職、70年死去。

末尾辺りで、印象深い文章がある。

彼に言わせれば、国家の改革はきわめて困難である。なぜならば、1789年の絶対君主制の崩壊以来、国家は堕落したからだ。いま、国家に内在するただ一つのスケールの大きい能力は、直接普通選挙によって共和国大統領を選出することである。「それはフランスが大統領制を採用することを意味するのではない」と彼はさらに強調する。フランスは根底から君主制的な国家であり、そのことは政党や利害による避けがたい日常的な騒ぎを超えた行政権を要請する。

また、以下の述懐も。

「フランス人なんて、嗚呼、つまらないものだ。イタリア人でもアメリカ人でも同じことだ。ソヴィエト人も次第にそうなっていくだろう。それが時代の要請であり、法則だからだ。現代人は英雄ではない。私が去ってからというもの、国際レベルでは何もかも停滞してしまった。」

さらに、引退後の内輪での会話として記されている言葉。

「私の人生で心残りなのは、君主制をやらなかったこと、そのために必要なフランス王家のメンバーがいなかったことだ。実際には、私は10年間、君主だった。フランスの政治というものを持っているのは私だけなのだ。」

これはちょっと妙である。

20世紀初頭の時点で、父親の王党派的信念にも関わらず、王政復古はもはや現実的ではないと判断しているのに、さらに万に一つの可能性も無くなった20世紀後半に内輪話とは言え、このように発言しているのだが、どこまで本気なのかかなり疑わしい。

しかし、興味深い言葉ではあります。

細かな史実にも触れ、内容は充実しているが、少し読みにくい。

普通の日本人読者にとっては最低限の予備知識が無いとわかりにくいでしょう。

訳文もこなれておらず、文脈からすると肯定・否定が逆でないと意味が通らないのでは? と思われる部分もいくつかあった。

戦後史は、渡辺啓貴『フランス現代史』の方がいいかもしれない。

個人的には結構面白かった気がするが、是非お勧めしますと断言できないのが辛いところであります。

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ルイ16世についてのメモ その6

その5に続き、ベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』(祥伝社)より。

1793年1月、ルイ16世の最期についての描写。

処刑判決を告げられた際。

王は判決を告げられても微動だにせず、その冷静さはエベールを含めてその場にいた者たち全員に感銘を与えた。エベールはほんの数日前、別名「裏切り者ルイ」のルイ・カペーの死刑を要求し、元国王を「夜は糞尿まみれの寝藁の上の豚のように鼾をかく」酔漢と呼び、「オーストリアの雌虎」であるマリー・アントワネットを「雌猿」に、その子供たちを「尾巻き猿の子供」に譬えて憚らなかった。きわめて過激な主張と野卑な言葉遣いで有名なあの「デュシェーヌ親爺」紙の創設者であり、王に対する好意があるなどと誰からも疑われるはずもないエベールは、判決告知の場面を称賛と感動をこめて伝えている。

「王は稀に見る沈着な様子で判決の言い渡しに耳を傾けた。その態度と言葉には敬虔、尊厳、気高さ、威信が満ちていたので私は堪え切れなかった。狂おしい涙が私の瞼を濡らした。王の眼差しと物腰には明らかに、人間を超えた何かがあった。止めようと思っても流れ落ちる涙をぬぐうため、私はその場を立ち去った。この職務はこれまでにしようと、と覚悟した」

この証言は貴重だが、しかしこう決意したはずのエベールが、数ヵ月後のマリー・アントワネットの裁判では、王太子との近親相姦疑惑まででっち上げて卑劣の限りを尽くすのだから呆れる。

下劣な誹謗中傷マニアの心性は、やはり死んでも直らないと言うべきか。

こいつが1794年3月に死刑に処された時の見苦しい取り乱し方は、威厳に満ちた態度で従容と死を迎えたルイ16世とマリー・アントワネットとは完全に対照的であり、失笑を禁じえない。

同じジャコバン派指導者でも、奔放で非教条的側面を持つダントンや、残忍・冷酷であると同時に高潔・清廉であったことも間違いないロベスピエールに一種妖しい魅力があることは認めるが、このエベールに対しては心底からの嫌悪と軽蔑以外の何物も感じない。

国民公会よりの使者が退出した後、監視の役人たちにルイ16世はこう述べたという。

「私は恐れることなく死を迎える。私の死がフランス国民に幸福をもたらし、不幸を遠ざけてくれることを願う。民衆がさまざまな徒党の犠牲者となり無政府状態に苦しめられ、犯罪が相次ぎ、フランスを引き裂く対立が続くことを私は予感している」

この予言は、その後第三共和政の安定まで100年間、フランスで的中し続けたとしか言うほかないし(引用文(トクヴィル1))、見方によっては現在に至るまで、フランスだけでなく他の民主主義国家すべてで的を射ているとも言える。

やっと終わりました。

プティフィスの伝記の縮刷版みたいな内容。

より短く、分量的に適切。

訳文がよくこなれていて、流れるように読める。

巻末にある年表もちょうどよい詳しさ。

眺めることで本文の復習ができる。

なお、私が書いた記事では、やたら「反革命的」傾向が読み取れるかと思いますが、これは私の関心と解釈から他の本の記述も引用してまとめたものですので、その点お含み置き下さい。

著者はフランス革命の意義を全面否定することはしていませんし、ある時期以降のフランスで共和政以外の政体の選択肢があったとは考えていないようです。

(これは現在のフランス人としては当然だと思います。プティフィスの本も同じく。)

よってこのブログの記述から本書についてある種の先入見は持たれない方が宜しいかと思われます。

(ただし、本書の叙述と全く相反し、関係無いことを記事で書き連ねたつもりもございません。)

かなり良く出来た伝記だと思いますんで、機会があればお手に取って下さい。

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ルイ16世についてのメモ その5

その4に続き、ベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』(祥伝社)より。

ルイ16世は革命の動乱の中で翻弄され、結局不幸な最期を迎えることとなる。

本書では1789年10月の「ヴェルサイユ行進」について以下のように記されている。

この事件は、卑しいデマゴーグに煽られたパリの下劣な気狂い女どもが集団でヴェルサイユに押し寄せ、王妃マリー・アントワネットを殺害しようとし(未遂)、多数の衛兵を虐殺した上、国王一家をパリに強制的に連行したもの。

民衆の暴動が勝利を収めたのは、動き始めた歴史の歯車の力と勢いによるものだったのは間違いないだろうが、道徳の原理原則にあくまで忠実なルイ16世が手段を選ばない秩序の回復、すなわち民衆に発砲してでも王政を救うことを望まなかったからでもある。性格の弱さもしくは自身の名誉のために、臣民の血を流すことを拒否したのだ。この強硬手段拒否の代償をやがて自分の血で支払うことになろうとは、実に残酷な運命である。

こういう記述を読むと、「陛下、いくら何でも人が善すぎますよ・・・・・・」と言いたくなる。

狂った民衆にいくら譲歩しても、図に乗ってますます理不尽な要求を突き付けてくるだけ。

畜生以下の存在に成り下がった奴らに理解できる言葉は、剣と銃弾だけです。

この後起ったことを考えれば、思い切った強硬措置と正面突破の弾圧を試みていれば、ルイ16世と王室のみならず、フランス国民全体にとっても、現実より遥かにマシな展開になっていたのではないかと思えてならない。

しかしルイ16世はそうした手段に出るにはあまりに穏健で善良過ぎた。

89年7月のバスティーユ襲撃、10月のヴェルサイユ行進、92年の8月10日事件と、エスカレートする一方の民衆による暴力には、明らかに以下のような心理的メカニズムが働いている。

群衆の現わす感情は、よかれ悪しかれ、極めて単純でしかも極めて誇張的であるという、二重の性質を示す。この点についても、他の多くの点についてと同じく、群衆中の個人は原始人に似ている。微妙な差違を解し得ず、物事を大まかに見て、推移の過程を知らない。感情は、暗示と感染とによって非常に早く伝播し、それが一般の賛成を得ると、著しくその力を増大するのであるが、群衆における感情の誇張は、この事実によっていよいよ強められる。

群衆の感情が単純で、誇張的であることが、群衆に疑惑や不確実の念を抱かせないのである。それは、ただちに極端から極端へ走る。疑いも口に出されると、それがたちまち異論の余地ない明白な事実に化してしまうのである。反感や不服の念がきざしても、単独の個人の場合ならばさして強くはならないであろうが、群衆中の個人にあっては、それは、たちまちはげしい憎悪となるのである。

群衆の強烈な感情は、特に、異なった分子から成る異質の群衆において、責任観念を欠いているために、さらに極端となる。罰をまぬかれるという確信、群衆が多人数になればなるほど強まるこの確信、また多数のために生ずる一時的ではあるが強大な力の観念、それらが、単独の個人の場合にはあり得ない感情や行為をも、集団には可能ならしめるのである。群衆のなかにいれば、愚か者も無学者もねたみ深い人間も、おのれの無能無力の感じを脱し、その感じにとってかわるのが、一時的ではあるが絶大な暴力の観念なのである。

群衆における誇張癖は、不幸にもしばしば悪質の感情にも及ぶことがある。この悪質の感情は、原始人の本能の遺物であって、単独の、責任観念を持つ個人ならば、罰を恐れるがゆえに、これを抑制せざるを得ないのである。こうして、群衆が最も悪質の過激行為に走りやすい理由も説明される。

ギュスターヴ・ル・ボン『群衆心理』

より一般的に言って、君主や貴族や宗教など民衆を罰するものが消滅し、民衆のやることならどんな醜悪で残忍なことでも正当化される、近代というろくでもない時代が始まり、その最初の犠牲者がルイ16世とマリー・アントワネットだったと思える。

あるいは次のような観点から見てもよい。

民主政において、多数者市民は少数者に対して最も残酷な抑圧を加えることができます。激しい分裂がその種の国家組織内に遍く拡がる時は、(実際縷々そうならざるを得ないのですが)、何時でもそうなのです。

そして、少数者に対するその抑圧は、たった一本の王笏の支配からおよそ懸念され得る殆ど如何なる抑圧よりも遥かに多くの人々に及び、しかも遥かに激烈に行使されるのです。こうした民衆による迫害の下では、個々の受難者は、他の如何なる場合よりも何層倍も悲惨な境遇に置かれます。一人の暴虐な君主の下では、彼らには傷の痛みを和らげてくれる人類の心安まる同情があります。苦しみの下にあっても、その高邁な堅忍不抜を鼓舞する人々の喝采があります。ところが多数者の下で悪に苦しむ人々は、あらゆる外からの慰めを剥奪されるのです。人間種属全体の陰謀に打ちひしがれ、彼らは人類から見捨てられた如くに見えるのです。

エドマンド・バーク『フランス革命の省察』

啓蒙思想と言論の自由が広まるにつれ、上記多数者による抑圧はまず王室に加えられた。

国王と王妃の苦しみを、冷酷かつ卑劣極まりない心性で「見世物」としか受け取らなかった民衆は、制御不能となった「多数の暴政」に飲み込まれ、自らが現世地獄の悲惨を味わうこととなる。

そして、現在一見正常に思える民主主義国家でも、その内情は以下のような次第である。

アメリカほど一般に、自主独立の精神と真の言論の自由(が支配すること)の少ない国を私は知らない。・・・・・・アメリカでは、多数が思想にきびしい枠をはめている。その範囲内では、文筆にたずさわるものは自由であるが、あえてそれからはずれようとすると災難である。火あぶりの刑の恐れはないが、あらゆる種類の不快と、日々の迫害の的となる。政界での活躍の途は封じられる。それを開きうる唯一の権威を傷つけたからである。名声にいたるまで、すべてのものが拒まれる。その意見を公表するまでは味方がいると信じていたのに、すべての前に自己を明らかにしたいまでは、もはや味方はいないかに見える。非難する人々の声は高く、見解を同じくする人々は、それを公表する勇気に欠け、沈黙して遠ざかるからである。彼は譲歩し、そしてついには日々の営みに身を屈し、あたかも真理を語ったのを悔いるかのように、沈黙にかえる。

鉄鎖と死刑執行人、これが往時の圧制の粗野な用具であった。(君主)専制に、もはや何も学ぶ必要がないかに見えていたのであるが、今日では文明によって専制までが完璧になった。君主は、暴力を、いわば物理的に(使用)した。(これに対し)今日の民主的共和政は、みずからが抑制したいと思う人間の意思が理知的になるのとひとしく、暴力を知能的にした。個人の絶対支配、すなわち、専制は、人の魂にまで立ち入るために、肉体にはげしい打撃を加えた。魂はその打撃を逃れて、肉体を超えて輝かしく高揚した。しかし、民主的共和政では、圧制の過程はこれと全く違う。肉体を措いて、直接、魂に向かう。主人は「私と同じに考えろ。でなければ殺されるよ」とはもういわない。「おまえが私と同じ考えでないのは自由だ。生命にも、財産にも、すべてに異状は生じない。しかし、私に楯ついたその日から、おまえは異邦人だ。市民としての特権が依然としてあるが、そんなものは無用になる。選挙において同胞の支持を求めても、誰もおまえを支持はすまい。自分を認めてくれるだけでよいといっても、同胞は口実をもうけて拒むだろう。おまえは社会には住むが、人としての権利を失うであろう。仲間に近づこうとしても、仲間は何かけがらわしいものかのようにおまえを避けるだろう。無実を信じる人々でさえ、おまえを見捨てるだろう。さもないと、今度は自分が忌避されるから。安心して行け。おまえの命はとらぬが、その日々は死よりも辛いことだろう」という。

絶対君主政は専制を不名誉にした。民主的共和政がそれを復権させ、少数の人々にはこれを重い負担とする一方、大多数の眼にはその忌むべき堕落の様相をおおいかくす。そんなことにならぬよう注意しよう。

トクヴィル『アメリカにおけるデモクラシー』

すべての人間が平等であるということが無条件的に真理とされ、それに対して疑いを持つことすらタブーとなるような状況では、その平等な人間の多数派が支持するものは絶対視されるに至る。

卑劣・矮小・醜悪な煽動者が印象操作と大衆迎合によって作り上げた「民意」が、自由で平等で合理的な市民全体の意志であると僭称し、絶対的支配権を要求する。

社会の下層に位置する、精神的な(つまり言葉の真の意味での)賎民を操るデマゴーグがほとんど無敵の存在となり、既存の支配層を押し退け、過去のどんな権威主義的政治も及ばないほどの独裁的権力を握る。

上記のようなことは、この時期のフランスだけでなく、どの時代のどの国にでも起こり得るし、結局長期的に見れば、自由主義と民主主義はどこまでも肥大化した挙句、自己崩壊しその反対物をもたらす滅びの道なんでしょう(ナチについてのメモ その5)。

そんなことは人類史上初の民主主義の実験であるアテネの惨状を見たプラトン『国家』)がすでに見抜いていたことですが、そうした知見は全く引き継がれず近代の200余年が過ぎ去ったわけです(引用文(西部邁6))。

フランス革命というのは、歴史的大事件である分、本当にいろいろな教訓を与えてくれるもんだとつくづく思います。

やっぱり終わりませんでしたね。

次こそは終わります。

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ルイ16世についてのメモ その4

その3に続き、ベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』(祥伝社)より。

フランス革命について高校レベルの事項を確認。

まず革命勃発の年1789年から2年ごとの奇数年、91年・93年・95年に憲法が制定されたことをチェック。

91年憲法が立憲君主政、93年が急進共和政、95年が穏健共和政。

革命の過激化が進行し、それが極限まで行った後、一定の揺り戻しがあったことをイメージ。

この前後関係で様々な事件を把握するのが基本で、偶数年の90年・92年・94年にどういう転機があったのか(あるいは無かったのか)を確認する。

95年以降は穏健的ブルジョワ共和派の総裁政府がジャコバン残党と王党派によって左右に揺さぶられながら存続するうちに、軍部が台頭、革命勃発からちょうど10年後の1799年ブリュメール18日のクーデタにより統領政府成立、ナポレオン時代へという流れ。

ここの細かな事項は後回しでもよいと思われるので、とりあえず89~95年の7年間に何があったのかを一年刻みで頭に叩き込む。

まずすべての始まりの年、1789年。

5月三部会招集、6月第三身分が国民議会を名乗り、さらに「球戯場の誓い」があって、憲法制定会議と称する。

7月14日バスティーユ襲撃、8月4日封建的特権の(有償)廃止、8月26日フランス人権宣言(この三つは教科書にも日付が載ってますね。ちなみにアメリカ独立宣言は1776年7月4日)。

ここで場所だけチェック。

三部会やら国民議会やら人権宣言やらはすべてヴェルサイユで行われた話。

この時期、議会も国王もパリではなくヴェルサイユにいる。

バスティーユ襲撃だけがパリでの事件。

それが10月ヴェルサイユ行進で国王一家が無理やりパリに向かわされ、テュイルリー宮殿に入る(国王の滞在場所はヴェルサイユ宮殿→パリのテュイルリー宮殿→パリのタンプル塔への幽閉の順)。

議会もパリに移り、以後パリ下層民の民衆運動による圧迫を常に受けることになる。

この時期の革命指導者はラファイエット、ミラボー、シェイエス、バイイら。

この年、農村では貴族や領主が「ごろつき」を集め農民を襲撃するという噂が広まり(実際はデマ)、「大恐怖」と呼ばれるパニック状態に陥った農民が逆に領主を虐殺する事態となる。

革命初年の農村暴動での死者が93年恐怖政治の犠牲者より多かったというのは、サイモン・シャーマ『フランス革命の主役たち』で読んで以来頭から離れない史実である。

社会のあらゆる人々が、煽動者に操られるままに利己心の虜になり、不平不満を爆発させ暴力を正当化し、隣人に襲い掛かる・・・・・。

ここここで引用した旧約聖書の一節を思い起こします。

あるいは、遥か後年、ドイツ国民が同じ病に罹ったときに、正気を保った人々によって広められた以下の詩も。

毒虫がほこりと

乾いた泥の中に、

軽い灰の中の焔のように

じっとかくれている。

雨と微風に

悪しき生命は目覚め

無から悪疫、

熱と煙が立ち上がる。

暗いほら穴から盗賊が

徘徊しようと立ちあらわれる。

獲物を求めようとして、

もっとよいものを見つける。

無意味な争いと

惑える知識と

ちぎれた旗と

愚かな民衆とを。

その行くところ、必ず

貧しき時代の空虚に会い、

厚顔無恥に歩み得て、

かくて盗賊は予言者となる。

塵芥の山に

悪の足ふみしめ、

呆れ顔の世間に

舌を鳴らしてあいさつする。

雲に包まれるように

卑劣に身を包み、

民衆の前の虚言者は

やがて巨大な権力をつかむ。

これに従う手下あまた。

位の高きも低きも、

機をうかがいつつ

頭にとり入ろうとする。

彼らは頭の言葉を、

かつて神の使徒が

五個のパンでしたように広め、

それは汚ならしくはびこってゆく。

はじめはかの犬めが欺いただけなのに

今は彼ら数千がそろって欺く。

嵐がふきまくるように、

今、彼の才は時を得て肥えふとる。

蒔いた種は高く伸び

国の姿は変りはて、

民は恥辱の生を生き

下劣な行いを意に介しない。

はじめはでたらめと思ったことが、

今や現実と化した。

よき人々は姿を消し

悪しき人々が群がっている。

いつかこの苦難が

遠く氷のようにとけたとき、

黒死病のように

語られることだろう。

子らは野に出て

藁人形をつくり、

苦しみを焼いて楽しみとし、

古き恐怖を焼いて光としよう。

ヘルマン・グラーザー『ドイツ第三帝国』

1790年。

この年は唯一と言える小康状態の年。

行政区画改定や経済自由化、メートル法導入検討などいくつかの改革が行われたのみ。

ただし「聖職者民事基本法」が制定され、以後聖職者は公務員と見なされ、教皇にではなく国家に忠誠を誓わされることになる。

これが敬虔なカトリック信者のルイ16世を大いに苦しめることになる。

1791年。

不気味な地滑りの予兆の年。

6月ヴァレンヌ逃亡事件、9月制限選挙・立憲君主政の1791年憲法、憲法成立と同時に立法議会召集。

この立法議会では明確な党派対立が生れる。

立憲君主主義のフイヤン派と穏健共和主義のジロンド派。

このうちフイヤン派はあくまでこの立法議会成立後の名称なので、代表者としてはラファイエット、バルナーヴ、デュポールらで、同じ立憲君主主義者でもすでに死亡しているミラボーは生前フイヤン派とすると間違いになるのか。

ジロンド派はボルドーを中心とするジロンド県選出議員が主導したためついた名称。

指導者はブリソ、ロラン夫妻ら。

ジロンド派が威勢よく共和政樹立と革命輸出のための対外戦争を主張したのが、この91年から92年。

しかし93~94年にはもう多くの指導者がギロチン送りになるか自殺する有様となる。

個人的感想ではこの一派は救いがたい阿呆というイメージです。

1792年。

革命急進化の最大の転機になった年。

4月ジロンド派主導で対オーストリア宣戦、8月10日事件(テュイルリー宮殿襲撃)、9月国民公会召集、第一共和政樹立。

前議会の立法議会では左派だったジロンド派がこの国民公会では右派となり、左派のジャコバン派に脅かされる情勢。

ジャコバン修道院を集会場にしたジャコバン・クラブという政治一派(ついでに、フイヤンも集会場所の修道院名)はもともと立憲君主派だったのがジロンド派が主流となり、ついで同派が脱退した後は最過激派の山岳派(議場の高い場所に議席を占めたことから)が残ったため、普通ジャコバン派と言えばイコール山岳派となる。

しかし本書ではジロンド派が分離する前、立法議会でフイヤン派と対立していた時のジャコバン・クラブを「ジャコバン派」と表現していたところが確か一箇所あったはず。

これはちょっと翻訳で配慮して避けて欲しかったところではある。

大衆による暴力支配に対する最後の防波堤が決壊した観のある8月10日事件については、プティフィスが要領よくまとめている。

8月10日は、第二のフランス革命、立憲議会によって整備された政治制度を打ち壊すという目標をもった、騒々しく、熱狂的で、荒々しい革命が誕生した日なのである。実際に勝利したのは、人民の主権などではない。過激派、いやむしろ暴力的で不寛容な諸分派の連合体、それに、権限もないのに人民の名において意思表示をする権利を奪取した数千の連盟兵と地区の民衆が勝利したのである。自由と人権にもとづき、諸特権が廃止された社会を作ろうとした1789年の革命は息絶えた。合法性や法治主義の尊重といったことには頓着しないもっと急進的な運動がそれに取って代わったのだ。・・・・・フランス革命の歴史において、決定的な断絶は、89年と93年、すなわち立憲議会と公安委員会の独裁のあいだにあるのではなく、89年と92年のあいだにある。というのは、この八月の動きというのは、ある特異な形態の権力、ジャコブ・レブ・タルモンの言葉を借りれば「全体主義的民主主義」の到来を告げるからである。(プティフィス『ルイ16世 下』

1793年。

ジャコバン独裁と恐怖政治でフランスが地獄に堕ちた年。

1月ルイ16世処刑、6月ジロンド派追放→ジャコバン派独裁。

93年憲法、封建的特権の無償廃止、公安委員会による恐怖政治、マリー・アントワネット処刑。

1794年。

恐怖政治の絶頂から、急転直下ジャコバン派の没落の年。

エベール、ダントン粛清、ロベスピエール独裁、7月テルミドール9日の反動。

1795年。

ブルジョワ共和派の支配確立の年。

95年憲法、国民公会解散、上下両院と総裁政府。

革命史のおさらいしただけでまた一記事。

たぶん、次の記事で終わります。

たぶん、ですけど・・・・・・。

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ルイ16世についてのメモ その3

その2に続き、ベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』(祥伝社)より。

パリ条約と同年1783年、カロンヌが財務総監就任。

このカロンヌについては、脚注で(後世で言う)「ケインズ主義的」景気刺激策の主張者というようなことが書いてある。

その通り、モンゴリフェール(普通日本語訳のカタカナ表記は「モンゴルフィエ」か)兄弟の気球実験への援助やシェルブールの港湾施設整備などのプロジェクトを推進。

だが、やはり財政危機は放置できず、租税負担平等化、穀物流通自由化、土地所有者が選挙権を持つ議会創設などの本格的改革に向かう。

87年高等法院に対抗する意図で、政府が三身分から選出した名士会議招集。

しかしここでも特権層がまたも団結して抵抗、カロンヌは罷免、後任のブリエンヌにも強硬に反対、前述の国王自身が高等法院に出席することで勅令登録を強要する親臨法廷の効力すら否定する有様。

国王はパリ高等法院を追放するが、世論の反対でその撤回を余儀なくされる。

この時も、民衆は特権層の王権に対する反抗に拍手喝采し、カロンヌ・ブリエンヌ・王妃を憎悪の的にしてその肖像画を燃やして騒ぎ立てたというのだから、本当に頭がどうかしてますよ。

隠された意図を秘めたデマゴーグに煽られるままに、自分たちの利害と全く相反する政策を王政に強要したわけである。

それでいて、この少し後に三部会の票決方法で特権層と袂を分かつと、今度はいかなる調停も受け入れず、ただひたすら暴力で社会を転覆することに熱狂することになる。

どんな時代の、どんな国でも、「世論」なんてそんなもんです。

1788年、革命勃発前年、ルイ14世によるナントの勅令廃止(フォンテーヌブロー勅令)を撤回、プロテスタントに法的身分と私生活上における信仰の自由を認める。

本書ではその他にも、ユダヤ人解放の検討、拷問廃止など、ルイ16世の開明政策の例が多数挙げられている。

高等法院の権限を司法に限定する方針が立てられるが、当然これにも反発。

また新税は三部会の専権事項だとの主張が行われ、翌年の三部会招集が決定。

ブリエンヌが辞職、ネッケルが復帰。

ここで身分ごとの審議と身分ごとの投票か、一人一票の投票かの論争が起り、結論を見ないまま第三身分代議員の倍増だけが決まる。

もうこの時点で、各地で暴動が起こり騒然とした世相のまま1789年を迎える。

この時期ルイ16世は以下のように述懐している。

臣民の血を流し、対抗し、内戦を引き起こすには残忍な心が必要である。・・・・・あらゆる思いが余の心を引き裂いた。事を首尾よく運ぶために私が必要としたのは、皇帝ネロの心とカリグラ帝の魂であった。

しかし当然、ルイ16世はネロとカリグラの道は採らず、わが身の破滅を堪え忍ぶ道を選ぶことになる。

今日も短いですけど、ちょうど大革命直前まで行きましたんで、これまで。

さすがに長すぎるんで、革命期の描写は少しまとめます。

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ルイ16世についてのメモ その2

その1に続き、ベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』(祥伝社)より。

ルイ16世即位が1774年、ということはそのすぐ翌年75年にレキシントン・コンコードの戦いでアメリカ独立戦争開始、翌々年76年に独立宣言となる。

まず七年戦争とフレンチ・インディアン戦争を終結させた1763年パリ条約の内容を復習。

最も重要なのは、カナダとミシシッピ川以東のルイジアナがフランスからイギリスに割譲されたこと。

(この「ミシシッピ川以東の~」とか「以西の~」という言い方、高校世界史ではお馴染みで懐かしいですね。)

フロリダもスペイン領からイギリス領へ。

替わりにスペインはミシシッピ川以西のルイジアナ獲得。

カナダと広大なルイジアナを失ったフランスだけが大損である。

他にも西アフリカ拠点のセネガルをイギリスに奪われているから、もう踏んだり蹴ったり。

このパリ条約は近世における植民地争奪戦の最終決着であり、北米を中心としたイギリスの第一次帝国の頂点を形作るもの。

イギリスに対する復仇と海上勢力再建を目指すルイ16世はヴェルジェンヌ外相と協力して、77年サラトガの戦いでの独立派勝利を機に78年仏米同盟を締結し参戦、79年にはスペインが、80年にはオランダも対英戦に参加。

英米以外で参戦したのは上記3ヵ国の模様。

参戦はしなかったものの、80年結成で英国の海上臨検を拒否する「武装中立同盟」には、ロシア・オーストリア・プロイセン・デンマーク・ポルトガル・両シチリア王国が加わっているから、イギリスは完全な孤立状態。

フランスは遠征軍司令官ロシャンボー、海軍提督ド・グラース率いる軍を派遣。

81年ヨークタウンの戦いで大勝利。

この時の兵力は、コーンウォリス率いる英軍が9000、ワシントンの米軍が8800、ロシャンボーとラファイエットの仏軍が9000、他にグラースが上陸させた兵が3000と記されているから、確かに仏軍の存在は極めて重い。

ただし陸戦ではヨークタウン戦が決定的だったが、続く海戦ではイギリスが勝利しグラース提督が捕虜になっている。

結局1783年、上記七年戦争終結条約から20年後、同名のパリ条約で、イギリスはアメリカ独立承認。

フランスから奪ったばかりのミシシッピ川以東のルイジアナも、イギリスはアメリカに割譲。

スペインにはフロリダ、フランスにはセネガルを返還、カナダは保持したものの、それ以外の63年条約で得た領土はほぼ吐き出す。

しかし、以後イギリスは短期間で立ち直り、インドを中心とした第二次帝国確立に向かうことになる。

なおミシシッピ川以西のルイジアナについては、アンドレ・モロワ『アメリカ史 上・下』(新潮文庫)で確認したところ、ナポレオン時代初期に中部イタリアのトスカナと交換する形でスペイン領からフランス領となる(この経緯は高校世界史では出てこないはず)。

それに脅威を感じたアメリカと、圧倒的優位にあるイギリス海軍を向こうに回して海外領土を維持する見込みの無いフランスとの妥協が成立、1803年ジェファソン政権によるルイジアナ買収となるのは高校教科書の通り。

著者が示唆するように、ルイ16世という「専制君主」の決断が無ければ、アメリカ合衆国は今存在していないはずである。

本書では1993年ルイ16世処刑200周年にコンコルド広場で開かれた集会に、当時の駐仏アメリカ大使が公式の立場で花束を捧げたことが記されている。

アメリカ独立についてのくだりだけで一記事書いてしまった・・・・・。

こりゃまだまだ続きますわ。

今日は短めだったので、明日も更新します。

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ルイ16世についてのメモ その1

ベルナール・ヴァンサン『ルイ16世』(祥伝社)の記事続き。

この頃、世論の中で王妃マリー・アントワネットの悪評が広まる。

本書でも、よく言われる浪費癖など、王妃にとって不名誉な事実が隠されているわけではない。

しかしそれを勘案しても、当時の世論における悪意の高まりは明らかに常軌を逸しており、狂的な異様さを感じる。

「絶対王政」という政体名からくるイメージとは全く異なり、王妃や王に対する下劣な誹謗中傷が卑しい民衆の「娯楽」として公認されていたかのような状態である。

恥辱的な風刺文やパンフレット、悪意のこもった歌のハミングは王妃の私生活を攻撃してやまなかった。姦通だの、乱交だの、同性愛だの、近親相姦だのが口の端にのぼった。この外国女の淫奔さを非難して回った。背徳的な放埓で、王室の褥を汚したというのだ。幻想を膨らませる的として、また性的禁忌の違反を責められる的として、彼女はそうしたものを禁じられている人々にとって、恰好のはけ口となった。・・・・・王妃はあらゆる悪徳の、貴族社会のあらゆる欠陥の象徴となってしまったのだった。この憎悪には、外国人嫌いとナショナリズムが、当然のように含まれていた。(ジャン・クリスチャン・プティフィス『ルイ16世 上巻』

上辺だけモラリストの仮面を被った匿名の民衆世論が自らの底無しの卑しさと下劣さを棚に上げ、ただその攻撃欲を満足させるという目的のためだけに、社会の上層部に対して理不尽な非難を加え続ける。

世論の中心には、とりわけ国民の最下層の人々のあいだには、異端審問官のような、道徳を説くことを好む風潮があった。おそらくジャンセニスト的な鋳型から生まれたこの風潮は、おそらくは革命下で、粛清をこととするピューリタニズムを、「清廉潔白な者たち」、つまりあの「善」の騎士たちの出現を、そしてギロチンの出現を予告するものであった。

人々は清い魂と善良な人間の役を演じていた。ありとあらゆる憤慨の言葉が口にされ、不品行、高位にある者たちの、いわゆる不品行を詰り、人々は彼らの頽廃ぶりに立腹したふうを装った。その実、彼らに関する好色な、もしくは猥褻な記事や、ポルノグラフィックな戯画を、楽しんでいたのである。

善良なルイ16世の治下、すでに行進を始めていた美徳は、恐怖(テルール)の序文を書きつつあったのだ・・・・・。(『同上』)

歯止めが効かず、ますます過激化する世論の標的は、最も注目を浴び逃れようの無い君主一家へ向かう。

こうした王妃に対する憎悪の高まりの中では、無頓着な彼女の、ほんの小さな軽率さ、媚態が鬼畜のごとき犯罪になり、女友達との無垢な友情がレズビアンとみなされてしまう。そして、何気ない言葉が皮肉たっぷりに歪曲され、彼女に跳ね返ってくるのだ。フーキエ・タンヴィル[革命裁判所検事]の前に出る前に、王妃はすでに、贖罪の生贄として民衆に提供されていた。そこでは、醜悪で狡猾なさまざまな問いが噴出した。

中傷、誹謗の恐るべき力、それは、今日、メディアを通じて著名人に襲いかかるときどれほどの効果を発揮するか誰もがよく知っているが、そうした力に、王妃と王は怯えていくことになる。それは獲物を捕らえて放さない地獄の罠である。興奮状態があるレヴェルにまで達すると、世論という法廷は荒れ狂い、熱狂と欲動を結晶させ、著名人に向かって社会的制裁を集中させる。

こうなってしまうと、その人間がたとえ何を言っても、また無実を叫び、それを証明するために、たとえどんなことをしても無駄で、ますます深みにはまり身動きが取れなくなってしまう。それはまるで罠にかかってもがき暴れる動物と同じで、人々はそれが死にいたるのを待っているのである(『同上』)

こうした雰囲気が生み出す、責任感と自己懐疑に一切欠けた、卑怯・愚劣な他罰主義的精神態度が、急進的社会変革への狂信とそのための暴力の正当化に結びつくのは容易に想像がつく。

しかし無制限の自由が予定調和的に進歩をもたらすと盲信した知識人と、それを盲信したふりをして実際上の利益を得る地下パンフレットの製作者などには、そんなことを言っても一切通じない。

「ブルジョワ的公共空間」の周辺では、教養がなく粗暴だといわれた下層民たちが、独自の記号、煽動的な風聞、「下品な言説」によって、調整役にも倫理にも欠いた不安定な域圏を作り出していた。嘘や中傷、偽りの噂は策動家や出版元を喜ばせ、真面目で客観的な情報と混じり合うことになった。ブルジョワと下層民の二つの域圏は、今のところは重なり合うことも対立することもないまま、権力に関する二とおりの見解、国民の二つの代表、二つの合法性の兆しを宿していた。この二つの合法性は、やがて革命のさなかに、下層民の言説を組織化したジャコバン主義が人民の名において語り始めたときに、周知のとおりの激しさでぶつかり合うことになる。(『同上』)

「専制政府」に対し啓蒙思想を説く「言論の自由」を擁護した「高尚な」人々は、同時に自分たちがどれほど卑しく恐ろしい獣を解き放ったのかを理解しなかった。

しかし上記の通り、いずれそのことを嫌というほど思い知ることになる。

この時期のフランスだけでなく、どの時期のどんな国でも、文明がある程度を越えて進んでしまい以下のような状態に達すると、何をしても止めようが無く、どんな救いもありえないようになるんでしょうね。

・・・・ヴィーコの歴史の見方は、各民族が原始社会から始まって万人平等の民主的な文明社会にいたるまで段階的に進歩・発展を遂げてゆく進歩史観の一つと思われるかもしれない。しかし、ヴィーコの歴史観のユニークな点は、すでに少し述べておいたように、こうして第三段階の民主的な文明社会に到達した民族が、ふたたび第一段階の原始状態に引き戻されると説く点である。彼は、ギリシアもローマもエジプトもフランスなどの西欧民族も、いずれも上記の三段階を経て発展するが、最後には、停滞し没落して出発点の原始状態に「再帰」せしめられると考える。

では、なぜ、第三段階の民主的な文明社会にまで到達した各民族は、出発点に「再帰」を余儀なくされるのか。それは、要するに、どの民族も折角手に入れた自由を乱用して堕落し、無政府状態におちいるからである。人間とは、自由を手に入れれば、それを無政府的あるいは無制限的に行使し、骨の髄まで堕落してゆくのである。そして、贅沢・柔弱・貪欲・嫉妬・傲慢・虚栄といった自分で抑制できない情念の奴隷と化してゆく。あるいは、嘘つき・ペテン師・中傷家・泥棒・臆病者・偽善者などのありとあらゆる悪習にまみれ切ってしまう。

腐敗した民族は、各自がまるで野獣のように自分自身の個人的な利益のことしか考えない習慣におちいってしまう。しかも、極端に神経質になるために、まるで野獣のように、ほんのちょっと気に障ることがあると、腹を立てていきり立つであろう。精神においても意志においても、市民たちは、この上なく深い孤独のなかで、各自が自分自身の快楽や気まぐれにしたがって生きている。そして、たとえ二人の人間の間でも、ほとんど合意に達することは不可能になってしまう。こうしたことすべてのために、彼らは執拗きわまる党派争いと絶望的な内乱を惹き起こし、都市を森と化し、森を人間の巣窟と化してしまう野田宣雄『歴史をいかに学ぶか』

少し話を戻すと、この辺の記述を読んで痛感するのが、啓蒙思想に侵食された末期の「絶対王政」がその安定をいかに世論に依存していたか、反抗の兆しを見せ始めた世論に対しいかに脆弱だったかということ。

コーンハウザーなどが説くように、前近代的な権威主義的専制政治は、その権力行使において必ず一定の限界を持っている。

真に恐るべきなのは、人民主権の理念浸透、言論の自由、民衆の政治参加、社会の平等化が進んだ後に(決して「前に」ではなく)、大衆煽動によって増幅された民衆の狂信と愚劣さを基盤にして(断じて「少数の伝統的支配層の悪意や野心や驕慢ゆえに」ではなく)出現する独裁政治であり、それだけが言葉の本当の意味で全体主義と呼ばれるに値する。

このブログは政治的意見の宣伝のためにやっているわけではないので、もし何か自分と全く異なる政治的見解があれば、「なんじゃこりゃ」と無視して下さればいいのですが、それでも私がたとえほんのわずかな数であっても、同意してくれる人が増えて欲しいと思っているのは、上記のような認識だけです。

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ベルナール・ヴァンサン 『ルイ16世  (ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物3)』 (祥伝社)

2010年刊行開始の新シリーズ。

店頭で初めて見たときに、「この版元にしては気の利いたもの出すじゃないか」と非常に失礼な感想を持ってしまった。

やや縦に長い版形の単行本で、300ページ余りと適切な長さ。

まず「はじめに」で全体を通じた視点を説明。

フランス革命は元国王の首を切り落とすだけでは満足しなかった。ルイ16世がどのような国王、人間であったかという記憶の大部分を抹消することで、元君主を二度殺したのである。切断された頭部を受けた籠には、ルイ16世の人となりと功罪も一緒に投げ込まれ、捨てられたのである。・・・・・・

歴史的に見て、ルイ16世の捻じ曲げられたイメージ――年齢の割には老けこみ、背が低く肥満体型、内向的で度量に欠け、首尾一貫せず優柔不断、お人よしで気弱、頭が悪く、決断力に欠けて無気力というのが一般的なイメージであろう――は、米国におけるジョージ・ワシントンのやはり捻じ曲げられたイメージと好対照であるが、本質的には同じである。片や欠陥の塊とされ、片や神格化されているが、どちらも現実とは異なる。こうしたイメージと、それらが隠蔽している真実とを隔てる煙幕はあまりにも厚い。だから、公正な立場を守りつつ真実を明らかにすることは無謀な企てであると同時に、一種の冒瀆でもある。これこそ、ルイ16世をめぐって本書が受けて立とうとする挑戦である。

ルイ14世は1754年誕生。

祖父がルイ15世、父は王太子ルイ・フェルディナン。

洗礼名はルイではなくルイ・オーギュスト、ベリー公の称号を与えられる(即位時にルイ16世ではなく、ルイ・オーギュスト1世を名乗る可能性があったと本書では書かれている)。

三人の男兄弟がいて、兄がブルゴーニュ公、弟がプロヴァンス伯(のちのルイ18世)とアルトワ伯(のちのシャルル10世)。

1761年兄が病死、1765年父も死去したことにより自身が王太子に。

1770年マリー・アントワネットと結婚、1774年祖父のルイ15世死去によりルイ16世として弱冠二十歳で即位。

在位期間の長かったルイ14世を継いだルイ15世は14世の曾孫、16世は15世の孫。

即位後15年で大革命を迎え、処刑されたときは39歳だったことになる。

この時期の時代背景としては、フランスはイギリスとの植民地争奪戦で決定的敗北を喫し、七年戦争を終結させた1763年のパリ条約で北米・インドの拠点をほぼ失っている。

ルイ16世の人となりについての記述では、ギボン『ローマ帝国衰亡史』の最初の3巻を自身でフランス語に翻訳したと書かれているのが目に付いた。

これは私の読んだ『衰亡史』邦語訳の解説では一つの仮説扱いだったはずだが、本書では断定されている。

いずれにせよ、高い知性を感じさせる逸話である。

(ちなみにギボンは1794年まで生きていたが、彼はフランス革命に対してこのような認識を持っていた。)

他は、一部の固定的イメージとは違って、実際には飽食とは無縁で、太ったのは単に遺伝的体質だとされている。

それと身長が190センチ以上あり、当時としてはまれな大男だったと書かれているのが意外だった。

背が高いようなイメージ、全然無いですよね?

マリー・アントワネットとの間に4人の子をもうける。

長男は革命勃発直前に亡くなり、次男が「ルイ17世」扱い、両親の処刑後も幽閉され1795年病死、長女は捕虜交換でオーストリアに引き渡され生き延び、次女は生後まもなく夭折。

1774年即位にあたって、モールパが国務大臣、テュルゴーが財務総監、ヴェルジェンヌが外務大臣に就任。

その治世前期において最大の難関となったのが、高等法院の問題。

当時、国王が出す勅令が効力を持ち適用されるためには高等法院による「登録」が必要とされていた。

特にパリ高等法院は全国の75%を管轄し、特権階層の牙城となって、王権が推進しようとする税負担の平等化などの穏健な近代化政策に徹頭徹尾抵抗していた。

それに対し、ルイ15世とモープーが1771年「君主革命」を断行し、その権限を剥奪し売官制度を廃止していた。

ところがルイ16世が即位するとその復活を強硬に要求する世論が猛然と高まる。

王権よりも高等法院が大衆の支持を集めていた・・・・・高等法院を支配していたのはいわゆる法服貴族であり、間違っても国民の代表とは呼べなかった。ルイ15世によって「追放」された法官たちは失った権限を奪還しようとしたが、その目的が民衆の切実な要望に応えることではなく、代々の特権の永続的な享受であったのは子供にでもわかる事実だ。自分たちの主張を正当化し、貧しい人々や台頭しつつあるブルジョワの共感を得るため、法官たちが当時の最先端思想を旗印にしていたことは確かであるが。最先端思想とは、自然権やルソーの唱えた「社会契約」の考え方であり、君主を王国の絶対的支配者ではなく単なる国家の受託者とみなすものである。このような戦略をとった法官たちは迂闊にも、自分たちの特権を脅かす点ではルイ15世の「君主革命」よりも恐ろしいもう一つの革命――1789年の共和革命とそれに続く恐怖政治――へ通じる扉を開けてしまったのだ。

このように国王の改革路線に反対した特権層も、それを支持した民衆も全く愚かではある。

本来自分たちの利益と全く相反する政策を、煽られるままに訳も解らず無分別にも支持し、特権層と共に漸進的改革を不可能にした民衆が、事態が当然の行き詰まりを見せると、この少し後では暴力で国王を責め立てるのだから、不条理・理不尽もここに極まれりである。

この時期の王権による改革が遂行されたとしても、それは諸身分間の経済的公正を追求するだけのもので、身分制の枠組自体は保存されたでしょうし、決して原子的個人しか存在しない不定形・不安定な社会をもたらしはしなかったでしょう。

日本も、廃藩置県や秩禄処分を遂行できなければ、こんな状態になったのかもとふと思った。

世界史の教科書で「啓蒙専制主義」って出てくるじゃないですか。

あれにいいイメージ持ってる方はあまりいないと思いますが、上記フランスのような袋小路に陥って最終的に国家の破滅を招き寄せるくらいなら、そういう政治も十分な正当性を持つんじゃないかと思いました。

結局、ルイ16世とモールパは譲歩し、高等法院を復活。

財務総監テュルゴーは優れた行政手腕を持っていたが、直近の不作を考慮せず穀物流通自由化に踏み切るなど、実務上のセンスを欠いていたと本書では評されている。

高等法院に国王が臨席し勅令登録を強制することが可能な「親裁座」によって、法服貴族らの抵抗を排除することを試みられるが、テュルゴーは王の信任を失い、1776年解任(この年アメリカ独立宣言)。

なお、治世期間中、こうした人事に対するマリー・アントワネットの介入がしばしば取り沙汰されるが、実際にはルイ16世は政治問題に対する王妃の介入は全くと言っていいほど許さなかったと著者は書いている。

これはオーストリアにとっては期待外れであり、王妃の兄で、啓蒙専制君主であると同時に冷徹なリアリストの面も持つヨーゼフ2世が、1772年第1回ポーランド分割に続いてバイエルンの併合を目論み、フランスへ見返りを提示してその承認を求めたが、国際関係の道義的側面を重視するルイ16世の断固たる拒否にあったことが記されている。

1777年ネッケルが財務長官就任(外国人[スイス人]でプロテスタントだったため「総監」ではなく「長官」)。

公債の発行により財政問題を一時沈静化させる。

より抜本的解決として、高等法院と地方長官の統治を地方議会のそれに置き換える改革プラン提示。

地方議会は聖職者、貴族、第三身分から成り、貴族階層では法服貴族より伝統的軍人貴族を優先する計画だったが、これも失敗、81年ネッケル辞任。

今日はとりあえずここまで。

この本の記事も長くなりそうです。

いくつ続くか、わかりません。

(追記:続きは以下

ルイ16世についてのメモ その1

ルイ16世についてのメモ その2

ルイ16世についてのメモ その3

ルイ16世についてのメモ その4

ルイ16世についてのメモ その5

ルイ16世についてのメモ その6

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フランス二月革命についてのメモ

カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(平凡社ライブラリー)の記事続き。

革命後制定された憲法では大統領と議会の双方の権限が強力で、両者の関係を調整する手段が熟慮されておらず、大統領の再選も禁止されていたため、クーデタを誘発する可能性が高かったというようなことが書いてあった。

ルイ・ナポレオンが大統領として最初に任命した内閣はオルレアン派バロと正統王朝派ファルーの秩序党内閣。

国民衛兵と第一師団(パリ防衛を担当する常備軍)司令にはシャンガルニエ任命。

国民衛兵とは一定の財産資格を持つ市民からなる非正規民兵。

1849年5月憲法制定議会に替わる立法国民議会選挙でブルジョワ共和派激減、秩序党の勝利と社会民主派の進出。

6月小市民的民主派の武装蜂起、一年前に続く「もう一つの六月暴動」、シャンガルニエにより粉砕、ルドリュ・ロラン亡命。

小市民的基盤を持つ国民衛兵は一年前の「最初の六月暴動」では正規軍と共にプロレタリアを鎮圧したが、この「二度目の六月暴動」では自ら蜂起に加わり鎮圧される。

以後議会は秩序党が支配、それと権力を虎視眈々と狙うナポレオンが対立する情勢。

11月バロ内閣解任。

1850年5月新選挙法、三年間の居住規定で選挙権制限、普通選挙を事実上廃止。

これをボナパルト派が利用し、普通選挙復活のスローガンを世論対策に使うことになる。

この時期秩序党内部で正統王朝派とオルレアン派の対立が深まり、秩序党の解体が進む。

議会で多数を占めているのに二つの王朝の争いから王政復古の絶好の機会を逃すというのは第二帝政崩壊直後の第三共和政初期とも共通する展開だなと思った。

1851年1月軍総司令シャンガルニエ解任。

48年の四月総選挙と六月暴動で革命的共産主義者と社会主義者鎮圧、49年五月総選挙でブルジョワ共和派惨敗、同年「第二の六月暴動」で小市民的民主派鎮圧、秩序党は他党派の恨みを買って孤立した上に、上記内部抗争で分裂、結局ボナパルティスト優位の情勢が固まっていく。

大統領任期延長を可能にする憲法改正成立せず。

ルイ・ナポレオンは、安定と繁栄を望む議会外ブルジョワを籠絡し秩序党の支持基盤を切り崩し、確固たる利益代表者を持たなかった分割地農民(小農?)の支持も得て、各階級・各党派を操る。

12月クーデタ勃発。

翌1852年第二帝政開始。

末尾に柄谷行人氏による解説がある。

柄谷氏の名前は知っていたが、私が読めるレベルの著者ではないので、著作は一冊も読んだことがない。

しかしこの解説は意味を十全に読み取れたとは言えないが、それでも興味深く思う部分があった。

重要なのは、社会的諸階級が「階級」としてあらわれるのは言説(代表するもの)によってのみだということ、そしてその場合、つねに代表するものと代表されるものの関係に恣意性あるいは浮動性がつきまとうことである。そして、このことは普通選挙による代表制と切り離せない。・・・・・すべてがこのような形態のrepresentation、つまり代表制を通じてしかあらわれてこないということは、ファシズムあるいは今後の政治過程を見る上で、決定的に重要である。たとえば、ヒトラー政権はワイマール体制の内部から、その理想的な代表制のなかから出現した。さらに、しばしば無視されていることだが、日本の天皇制ファシズムも1925年に法制化された普通選挙ののにちはじめてあらわれたのである。

マルクスが見いだす「反復」は、ナポレオンが皇帝になるまでの過程がシーザーのそれを反復しているということである。もちろん、それはナポレオン自身がシーザーを模倣していたということだけでなく、そこには彼らの意識を超えた構造の同型性があるということだ。・・・・・「王殺し」ののちに成立した共和制があり、そこにおける欠落、不安定を埋めようとする運動が「皇帝」に帰結する。つまり、共和制(議会制)そのものが皇帝を生み出すのだ。ここでわれわれは「王」や「皇帝」を、それらの慣用的な意味から離れて考えなければならない。ここで定義を試みれば、「王」が生まれながらに王であるのに対して、「皇帝」は大統領と同じく諸階級の「代表」としてあるということを意味する。彼は国民に君臨しながら、同時に国民の代表者でなければならない。・・・・・

面白くないこともないが、皮肉や毒舌に満ちたわかりにくい文体なので、慣れるまで苦労する。

批判的比喩の意味を知るために訳注を頻繁に参照する必要があるのも面倒。

(同じページにあるのではなく、巻末にまとめてある昔ながらの形式なので余計。)

なおこの本では、前の記事で触れた政治党派と時代区分に関する表が無いと効用が激減すると思う。

(だから別の版で読むのは勧めません。)

ただ最後まで読めば、そこそこの面白みも有り、初心者にとって有益な点もあろうかと思います。

類書としては、まずマルクスの伝記としてE・H・カー『カール・マルクス』(未来社)

ルイ・ナポレオンについては鹿島茂『怪帝ナポレオンⅢ世』(講談社)が手ごろ。

二月革命については、何と言ってもアレクシス・トクヴィル『フランス二月革命の日々』(岩波文庫)に止めを刺す。

これは是非とも読むべき。

透徹した見解と迫真の事実描写が結合された傑作です。

本書で史実のあらましと主要人物像を頭に入れて準備運動をしてから取り組めばより良いと思います。

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カール・マルクス 『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日 [初版]』 (平凡社ライブラリー)

マルクス、エンゲルスの著作でこれまで読んだことのあるのは、『共産党宣言』、『空想より科学へ』、『賃労働と資本』、『賃金・価格および利潤』、『反デューリング論』くらい。

マルクスの本読むのも20年ぶりくらいですか。

その著作で歴史書に近いものというと本書のほかに、『ドイツ農民戦争』、『フランスの内乱』、『家族・私有財産・国家の起源』などがあると思いますが、本書が最も読みやすいでしょう(たぶん)。

2008年に手に取りやすい体裁で出た新訳なので、試しに読んでみることにした。

1848年フランス二月革命が1851年12月の軍事クーデタによってルイ・ナポレオンの独裁に帰着するまでの歴史を分析した本。

現在の歴史学からすると、本書の記述に対して数多くの異論が出ているんでしょうが、とりあえずマルクスが解釈した通りにその展開を追ってみることにする。

まず本文に入る前に、後ろの方に載っている「政治党派と階級的基盤」、「時期区分と階級闘争の構図」という二つの表をじっくりと眺める。

読む途中でも、常にこの表に立ち返って確認すると良い。

前者の表について以下にメモ。

正統王朝派=ブルボン王家支持、土地所有ブルジョワジー、代表的人物はファルー、ベリエ

オルレアン派=金融・大工業ブルジョワジー、ギゾー、ティエール、モレ、バロ、デュパンと多士済々、軍人ではシャンガルニエ

ブルジョワ共和派(純粋共和派)=中産階級、ラマルティーヌ、マラスト、ジラルダン、軍人ではカヴェニャック、ラモリシエール、ブドー

小市民的民主派(モンターニュ派)=ジャコバン派(山岳派)の流れを汲む、小商店主、手工業者、ルドリュ・ロラン

社会主義者=プロレタリアート、ルイ・ブラン、コシディエール

革命的共産主義者=プロレタリアート、ブランキ

ボナパルト派=ルンペンプロレタリアート、マニャン、モルニ公、モーパ

正統王朝派とオルレアン派は1848年5月以降「秩序党」を形成。

小市民的民主派と社会主義者は49年1月以降「社会民主派」を形成。

冒頭に私でも知っている有名な言葉有り。

ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として、と。

人間は自分自身の歴史を創るが、しかし自発的に、自分で選んだ状況の下で歴史を創るのではなく、すぐ目の前にある、与えられた、過去から受け渡された状況の下でそうする。

「第1次フランス革命」においては、主導権がフイヤン派(自由主義貴族・上層市民)→ジロンド派(中産市民)→ジャコバン派(下層市民・サンキュロット)という風に、より社会階層が下部で、急進的党派に移っていくが、二月革命においては全く逆に、まず労働者階層が六月暴動で鎮圧され、ブルジョワ共和派の支配も徐々に王党派連合に地位を譲り、最後は王党派がボナパルティストに支配権を奪われた、との指摘は面白いし、事実その通りに思える。

1848年2月革命勃発。

臨時政府首班ラマルティーヌ。

社会主義者ルイ・ブランも入閣したことは、昔から教科書に載っている。

当初はブルジョワ共和派・オルレアン左派・小市民的民主派・社会主義者の幅広い連立政権。

4月男子普通選挙で憲法制定国民議会選出。

議席をブルジョワ共和派・モンターニュ派・秩序党の三党派が分け合う。

教科書にある「農民が土地を失うことを恐れて社会主義者が大敗した四月総選挙」はこの憲法制定国民議会選挙のこと。

6月これも有名な史実だが国立作業場閉鎖の方針を知って蜂起したパリのプロレタリアートを、全権委任された行政長官カヴェニャックがラモリシエール、ブドーらと共に鎮圧した六月暴動。

カヴェニャックはこのことで「反動」のイメージが強いが、上記の通り正統王朝派でもオルレアン派でもなく、ブルジョワ共和派の属する人物であることにご注意。

11月憲法公布。

12月大統領選挙。

ルイ・ナポレオンが対立候補カヴェニャック、ルドリュ・ロラン、ラマルティーヌ、シャンガルニエらに圧倒的大差をつけて当選。

今日はここまで。

例によって続きます。

(追記:続きはこちら→フランス二月革命についてのメモ

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