塩野七生 『わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡 3』 (新潮文庫)
第3部「マキアヴェッリは、なにを考えたか」、著作執筆時代を叙述。
この時期の西欧は絶対君主の下、中央集権的体制を採る領土国家が台頭、フィレンツェのような都市国家は徐々に頽勢に向かう。
1516年スペイン王カルロス1世即位、1519年にはカルロスが神聖ローマ皇帝カール5世となり、スペイン・オーストリアがハプスブルク家統治下に。
1515年仏王ルイ12世死去、フランソワ1世即位。
1509年には英王ヘンリ8世が登位している。
ちなみに1517年にはルターの95ヵ条の論題、同年オスマン帝国がエジプト征服、1520年スレイマン1世即位。
マキャヴェリはこれら大国に対抗するために独自のイタリア統一構想を抱く。
ただしそれは現在のイタリア領土の範囲ではなく、まず独立性の極めて強いヴェネツィアを除外、またミラノなどロンバルディアへのフランスの野心、ナポリにおけるスペインの勢力を考慮してこれらの地域も外し、一先ず中部イタリア統一を目指すもの。
1514年『君主論』、1517年『政略論』、1518年喜劇『マンドラーゴラ』、1520年『戦略論』執筆、この年からメディチ家との関係が好転し、その依頼を受けて書いた『フィレンツェ史』が1525年完成。
1521年レオ10世死、22年ハドリアヌス6世を挟んで、1523~34年教皇位はレオのいとこ、もう一人のメディチ家出身者クレメンス7世に。
前巻、前々巻でも見た通り、16世紀に入ってからのイタリアは、ミラノ・ジェノヴァを勢力圏とするフランスと、ナポリ・シチリアを拠点とするスペインが覇権を争う情勢。
1525年パヴィアの戦い、フランソワ1世率いる仏軍と、仏からスペインに寝返ったシャルル・ド・ブルボン指揮のスペイン軍が激突、スペイン大勝、フランソワ1世捕虜に。
この結果、ミラノにスフォルツァ家が復帰するが、スフォルツァが反カルロス行動を企てると、スペイン軍はミラノ包囲。
1526年フランソワ釈放、同年コニャック同盟締結、仏・教皇・ヴェネツィア・フィレンツェ・ミラノ・ジェノヴァ・英が参加する広範な反スペイン・皇帝同盟。
だが各国の思惑がバラバラで同盟は機能せず、ルター派プロテスタント兵を主力とする皇帝軍が南下。
メディチ家の分家筋と女傑カテリーナ・スフォルツァとの間の子、ジョヴァンニ・デ・メディチなどが軍を指揮するが、教皇クレメンス7世は決断力に欠け戦機を完全に逸する。
(本書ではクレメンスに対して相当厳しいことが書かれている。)
ミラノは降伏・開城、ジョヴァンニは戦傷死。
1527年に皇帝軍はローマ包囲、攻城戦で司令官シャルル・ド・ブルボンは戦死するが、皇帝軍は防衛線を突破してローマ市内に乱入。
史上「サッコ・ディ・ローマ(ローマ劫掠)」と呼ばれ、イタリア・ルネサンスの終焉を象徴する出来事。
メディチ教皇と一体化していたフィレンツェでは再度メディチ家追放、マキャヴェリはこの時の公職復帰に望みをかけるが、浪人時代の態度が親メディチと判断され、国会で書記官選出反対が多数票を占める。
マキャヴェリは失意の内に同年死去。
1526年モハーチの戦い、1529年第1回ウィーン包囲でオーストリア・ハプスブルク帝国はバルカンの脇腹からオスマン朝の脅威を受ける。
1529年クレメンスとカルロスの講和。
イタリアでのスペインの覇権が確立。
講和の条件としてカルロスがメディチ家の復帰を支援し、1530年クレメンスの私生児とも言われるアレッサンドロがフィレンツェ公となり共和国滅亡。
1534年クレメンス死去、パウルス3世即位、1545年トレント公会議開始、反宗教改革時代、ルネサンスの中心はアルプス以北の西欧諸国へ。
1537年上記ジョヴァンニの子コジモがフィレンツェ公を継ぎ、1569年トスカナ大公国成立、コジモが大公就任、フィレンツェはトスカナの単なる首府となる。
スペインがブルボン朝に替わった後、イタリアはオーストリアの覇権下となり、それが19世紀半ばイタリア統一戦争時代まで続く、と。
とにかく読みやすいことは間違いない。
分量を全く気にせず、驚くほどスラスラ読める。
しかし塩野氏の著作を何でも手当たり次第に読みたい、あるいは他人に薦めたいとは思えなくなって久しいし、まして月刊『文芸春秋』などのエッセイで現在の諸問題についての著者の御託宣を有難がって盲信するといった心情からは遥かに隔たっている。
本書自体はそれなりに面白く役に立つとは思うが、是非にと強く薦める気にもなりません。
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