カテゴリー「史論・評論」の32件の記事

西部邁 『大衆への反逆』 (文芸春秋)

1983年刊。

西部氏の最初の評論集。

本書は、結局、高坂正堯氏の『外交感覚』(中央公論社)と並んで、大学時代に一番頻繁にページを手繰った本だと思う。

全体が五部に分かれていて、第1部は「状況」。

最初にロッキード事件で逮捕された田中角栄元首相の裁判という時事的話題に民主主義(批判)論を絡めた文章がある。

これも含蓄があるが、素晴らしいのがそれに続く、十数編の短い思想的エッセイ。

何度も何度も読み返して、今に至るまで自分の物の考え方に強い影響を受けていると思う。

第2部「知識人」では、「“高度大衆社会”批判」と題された、冒頭のオルテガ論が圧巻。

本書の核心とも言える文章。

オルテガの著作を縦横に引用しながらの、精緻かつ迫力ある力強い文体にひたすら圧倒される。

続くマルクス、レヴィ=ストロース、ハイエク、ケインズらについてのエッセイも高尚かつ実に有益。

この記事で一部を引用済み。)

第三部「体験」で、大平正芳首相のブレーン機構で著者が報告したテキストに加えて、著者の人生の興味深い断片がいくつか記されている。

その中でも、在日朝鮮人の親友との交友を語った、特に印象深い「不良少年U君」という文章については、別に、『友情 ある半チョッパリとの四十五年』(ちくま文庫)という、これまた素晴らしく感動的な本があります。

第四部「書籍」では、三つの書評が載せられているが、最後の、新自由主義者ミルトン・フリードマンの著『選択の自由』を強く批判した文章が最も面白い。

こちらで一部を引用済み。)

最後の第五部「文明」では、まず「文明比較の構造  ひとつの日本主義批判」という硬い論文がある。

西部氏の著作は、『知性の構造』(角川春樹事務所)という、私程度では絶対に手に負えない、完全に別レベルの抽象性を持つ作品を別にすれば、ほとんどが明晰かつ平明であり、(素直に読み取り学ぶ気持ちさえあれば)容易に理解できるものばかりなのですが、この論文は、T・パーソンズのAGIL図式がどうこうというような文章が出てきてやや難解。

とは言え、日本・米国・西欧・ソ連の各社会を比較・分析し、経済大国としての絶頂期にあった日本を大衆社会論の観点から批判する論文は、わからなければわからないなりに読み通せば、それなりに有益です。

末尾の「反進歩への旅」と題された紀行文もずしりと胸にこたえるものがある。

その中盤、自らの思想的立場を説明した文章は、7、8ページに亘りますが、可能ならば全文を引用したいくらい、あまりにも深い内容に満ちています。

久しぶりに、一字一句飛ばすことなく再読してみたんですが、やはり素晴らしい。

この方は、表面的に、野卑で粗暴な単細胞・脊髄反射的右派と同じ主張をしているように見える時があったとしても、実際には、この十年で異常繁殖した、群集心理と市場原理に対する警戒を最初から放棄した自称「保守」派とは、根本的に全く異なった次元にいる。

最初に強い違和感や拒否反応を覚える人でも(私もそうでした)、機会があれば是非本書を含め、その著作を手に取ってみて下さい。

保守化の意味するもの

名は体を表すとはいうものの、保守および革新という名称くらい虚なるものも少ない。エスタブリッシュメントを守護するか打倒するかという対立が両者を分け隔てるとはいわれるものの、肝心の確立された体制なるものが何を意味するかということになると、その答えはたいして分明ではない。私思うに、枝葉を切り落としていえば、既成の体制とは進歩のイデオロギーを中心にして構成された価値世界のことである。資本主義と社会主義、競争と統制、自由と平等、効率と公正などの組み合わせ方において種々の差異はあるけれども、新しき変化の創造が善き事態へむけて進むであろうと楽観する点において、洋の東西(または南北)をとわず、そして党派の左右(または大小)をとわず、価値世界は単色である。

進歩と革新とはたがいに同義なのであるから、保守派とは革新体制を守る人々であり、革新派とは革新体制に逆らう人々であるということになろうか。このなんとも珍妙な語義にもとづいて、私たちは隣人を分類しあっているわけなのである。近年にわかに迸(ほとばし)り出した保守化の潮流においても、その底層をみれば、進歩のイデオロギーが動かず澱んだままでいる。ただ表層において、平和主義から軍国主義への、防衛的態度から攻撃的態度への、母性的心性から男性的心性への移行などがやかましく波立っているにすぎない。

この移行は人間理解を性善説から性悪説へ乗り換える企てなのであろう。説というほどに体系だてられた見解は少ないから、それはむしろ気分の問題なのかもしれない。時代の閉塞につれて気分が愉快から不快へ転落しているということである。いずれにせよ、これら両極端の説や気分が「すべてを単純化する恐ろしい人間」ブルクハルト)から発せられるものであることに間違いはない。

事態の不穏な成り行きを懸念する人々は、善悪あわせのむべく、現実主義の方向において気分を中和しようとする。レアリズムとは、その本来の語義が示すように、事態を「モノのようにとらえる」やり方である。もっといえば、現実をモノのごとき固さをもって肯定することである。しかし私たちの気分の落ち着きのなさが、進歩のイデオロギーによって醸成された幸福や平等やなにやかやといった幻影にたいする嫌悪であり不安であるのだとしたら、レアリズムのもつ肯定的な響きは私たちの気分と共鳴しない。他方、理想主義がユートピアを、つまり「何処にもない国」を、あれこれ提出してくれたとてどうにかなるものでもない。それら仮想世界と現実世界との距離が大きすぎるからではない。それだけならば、仮想世界へ一歩一歩と気長に進めばよいのだから。どこにもないような立派な国を構想し、ましてやそこに向かって着実に前進していくに必要な資質を決定的に欠いているのではないかという思い、それが私たちを不安にしているのであろう。

自分たちが知的にも道徳的にも不完全であることを知る苦痛はすでにして進歩主義にたいする疑惑である。その意味でならば、いま進行している保守化の流れは首肯されるべき自己覚醒の可能性をはらんだものといえる。しかし見渡すところ、その疑惑は深められずに、不安ゆえの勇気、疑惑ゆえの確信をポーズする回路へ短絡しているようである。

保守主義の本来の含意は進歩にたいする徹底した懐疑ということにあったはずである。革新にもとづいて進歩していくということを信じるには、それをつくり出す当の本人たちが余りにも不完全なのではないかという自己懐疑が、保守主義の真髄だったはずである。変化にたいする消極性と裏腹になって、保守主義者の積極性はまずもって自分および自分たちへのひたすらな懐疑として示されるのである。懐疑とは、この場合、優柔不断とか自己憐憫とはおよそかけはなれた態度のことである。スケプティシズムの元来の語義そのままに、それは「考察すること、探究すること」を意味する。

したがって、保守的懐疑主義は右翼の党派にありがちな復古主義とも異なっている。不完全な自分たちがかろうじてみつけうる住み処は歴史の大地のなかにしかないと見当をつけた上で、次にその大地の中から保守すべき耐久の足場を、つまり伝統を、いかに発見するかという努力を持続させうるか否かによって、保守における反動主義と懐疑主義が区別される。また懐疑の真偽は、懐疑の努力じたいにたいしても懐疑をそそぐかどうかにかかっている。懐疑にこめられる知識や気分や利害の総体についても考察し探究するということである。

こういう努力がやすやすと実行されるとは思えないが、その予想される困難の前にすっかりたじろぎ、ついに懐疑することを放棄してしまった人々が大衆とよばれるのであろう。この大衆の定義はド・トックヴィルやミルやオルテガによる最も良質な大衆論の意を汲みとるものだと思われる。大衆とは資産を持たぬ人々のことでもないし指導される人々のことでもないし、教育をうけぬ人々のことでもない。懐疑の心性を失った人々の支配が進んで受容されるような価値世界、あるいは価値喪失の方向に止むことなく進みつづける世界が大衆社会である。かれらの信奉する進歩のイデオロギーの司祭たちが、たとえば有名な政治家が、高名な学者が、著名な経営者が大衆であってむしろ自然なのである。

現在の保守化にたいして、私が強い抵抗を感じるのは、福祉削減や軍備拡張や憲法改正やについて私の代案があるからなのではない。様々の自称改善策がいとも手軽に自信ありげ主張されるという、いわば保守主義の大衆化が、率直にいって、怖いのである。マイネッケによれば、ヒットラーはいったそうである。「宗教だって? 神だって? 恐怖政治こそ最上の神だ。このことは、現在ロシア人においてみられる。さもなければ、ロシア人はこんなに戦うことはないだろう」と。美しいパンドーラの運んできた手匣を不注意に開いてしまえば、数限りない災厄が飛び出し、あわてて蓋をしても、あとには希望だけが空しく封じこめられてしまったという神話のことが思い出される。人間はいつまでもパンドーラに惚れたエピメーテウスのごときもの、つまり「後から思うもの」にすぎないのか。兄のプロメテウスには、つまり「先に思うもの」にはなれないのか。

おおいにそうなのかもしれない。しかし、たとえ後知恵であっても考えないよりはましであろう。それに、私たち大衆人にそれしか能力がないのだとしたら仕方のないことでもある。エスタブリッシュされた制度の、人間の、言説の意味をしつこく解釈し直す営みのなかから自分自身を再発見するという媒介項を経るのでなければ、今の保守化にみられるような国家の再発見はいずれ人間不在の国家を産み落とさずにはいないであろう。

(毎日新聞 昭和五十六年一月十九日号)

上記引用の文章は、それが書かれた1981年におけるよりも、三十余年を経た現在の方が、はるかに切実かつ深刻な意味を持っていると思います。

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トニー・ジャット 『荒廃する世界のなかで  これからの「社会民主主義」を語ろう』 (みすず書房)

2010年死去した歴史家の遺著。

他の著作に『ヨーロッパ戦後史 上・下』(みすず書房)があるが、分厚さに気おされて未読。

本書は市場原理主義への批判と社会民主主義の再評価を述べた評論。

副題がマイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)を意識して真似たみたいで、みすず書房らしくない安っぽさ(違ってたら御免なさい)。

冒頭、本書の論旨をよく表わしている以下の文章あり。

今日のわたしたちの生き方には、何か途方もない間違いがあります。わたしたちはこの三十年間、物質的な自己利益の追求をよしとしてきました。実を言えば、今のわたしたちに共通の目標らしきものが残っているとすれば、この追求を措いて他にありません。何にいくらかかるか、わたしたちはよく分かっていますが、それが真に値打ちあるものなのかどうか、皆目見当がつかないのです。わたしたちはもはや、司法的な規制や立法的な措置の必要など意に介さなくなっています。それは善いことか? それは公平であるか? それは正義に反しないか? それは間違っていないか? それが果たして社会を改善し、世界を良くすることに役立つのか? 答えは容易に見つかるわけではありませんでしたが、まさにこうした政治的問いというものが、かつては確かに存在していました。わたしたちはここでふたたび、こうした問いを提起し直さなくてはならないのです。

今日日(きょうび)の生活の特質である実利主義・自分本位主義は、人間の条件そのものに内在しているのではありません。今どき「自然」のように見えていることの大部分――富の創造に取り憑かれること、民営化・民間セクターを金科玉条とすること、貧富の格差が弥(いや)増すこと――は、1980年代以後に起こったのです。そして何といってもこれらの現象に付随して、暴走する市場への無批判な礼賛や、公共セクターに対する謂われなき侮蔑や、限りなき成長というたわいない妄想が、レトリックとして一世を風靡してしまったのです。こんな生き方をつづけてゆくことはできません。2008年に起こった暴落は、規制なしの資本主義は資本主義自体にとって最悪の敵であることを思い起こさせてくれました。放っておけば遅かれ早かれ、資本主義は自らのご乱行が仇となって、国家による救済を求めざるを得なくなるに違いありません。しかし小手先でごまかすだけでこれまで通りをつづけるなら、来るべき将来にはもっと深刻な激動を招く可能性があるのです。

日本でも世界でも、現状を見ると、残念ながら、財力にものをいわせたロビー活動と固定観念を利用したデマゴギーによって、「小手先でごまかすだけでこれまで通りをつづける」ことになっているようです。

その後、80年代以降の新自由主義政策の弊害を述べるために、所得格差と健康・社会問題インデックス、殺人数、精神疾患罹患率などの相関関係を示す表が掲げられているのですが、本文中では記述が無いものの、この表において日本は殆どの場合、圧倒的に優秀な位置に存在している。

悲しいかな、これも今は変わってしまったか、変わりつつあるんでしょうね。

1960年代の新左翼による画一主義打破、個人主義最重視の活動が、結果として旧左翼没落後の新自由主義台頭を準備する皮肉な逆説を指摘。

その新自由主義の「教祖」フリードリヒ・ハイエクについて。

「ハイエキズム」自体が一つの教義だと言ったのは、マイケル・オークショットでした――「あらゆる計画化に抵抗しようという計画は、その逆よりは良いかもしれないが、それと同じスタイルの政治に属している。」

ハイエクの別の一面(引用文(西部邁2)「マスメディアの構造と空気」)を考慮しない自称ハイエク主義者とエピゴーネンたちが我が物顔で横行し、以下のような所業を行うのが常態となってしまっている。

シニカルな(あるいは単に無能なだけの)銀行役員やトレーダーの背後には、必ず経済学者が控えていて、彼らに(そしてわたしたちに)知的権威という絶対的立場から、彼らの仕事が公益にかなうこと、したがっていかなる場合でも集合体からの監督など受けるべきものではないことを確言してくれるのです。

ここで、具体的な顔を思い浮かべる方もいるかもしれませんね。

さらに、資本主義を長期的、安定的に存続させるための条件は、決して市場自体からは出てこないことを指摘。

わたしたちが信頼なしではやっていけないことは明らかです。お互いに信頼し合わないのであれば、相互扶助のための税金など、わたしたちは支払わないでしょう。あるいはまた、信頼のおけない仲間市民の手にかかって暴力や騙しの憂き目に遭う恐れから、遠くへの外出は避けるようになるでしょう。さらに加えれば、信頼とは抽象的な美徳ではありません。資本主義は今日多くの批判に晒されていますが、その批判者のすべてが左翼というわけでは決してないのです。なぜかというと、市場と自由競争にも信頼と協力が必要だからです。銀行は誠実にやってくれる、不動産屋は物件に抵当権が付いていないかどうか本当のことを言ってくれる、公的規制機関は不正取引を取り締まってくれる――こうした信頼がなければ資本主義自体が動かなくなってしまうでしょう。

信頼や、協力や、共通の善のための集合的行動は、市場から自動的に発生してくるのではありません。まったく正反対です。ルール破りの競争参加者は倫理的に敏感な競争者に対して――少なくとも短期の勝負では――勝つ、というのが経済競争の本質なのです。しかし資本主義は、そうした徹底して利己的な行動を長期にわたって耐え抜いて生き残ることなど、できないでしょう。それならなぜ、この潜在的には自己破滅的な経済活動のシステムが今まで持続してきているのでしょうか?おそらく、資本主義の出現時からそこに寄り添っていた節度、正直、穏健といった習慣のおかげでしょう。

しかしながら、長年つづいてきた宗教の、あるいは共同体の諸慣習に由来するこうした諸価値は、資本主義それ自体の本質として備わっているわけでは毛頭ないのです。伝統社会がもつ抑制力や、世俗エリートおよび教会エリートの持続的権威に支えられたことで、資本主義実践者の道徳的欠点は間違いなく補正されているという結構至極な幻想が生まれ、資本主義の「見えざる手」はそこから大きな恩恵をこうむったのでした。

出発当初の、こうした幸福な条件は、もはや存在しません。契約というものに基盤を置く市場経済が、自らの内部からそうした条件を生み出せるはずもなく、それだからこそ、規制なしの経済市場と見境のない極端な貧富の差が社会を蝕んでゆく脅威については、社会主義の立場の批判者のみならず宗教の立場からも懸念が表明されたのです(特筆に価するのは、20世紀初頭の改革派教皇レオ13世です)。

1970年代までであれば、人生の核心は金もうけにあり、それを奨励するために政府がある、などという考えは、資本主義に対する伝統的な批判者のみならず、その最強の擁護者の多くからも、嘲笑されていたことでしょう。第二次世界大戦後の数十年間は、他の時期と比べて、富のための富という考え方が大きな関心を得ることがなかったのです。

上記引用は、村上泰亮『産業社会の病理』(中公クラシックス)を思い起こさせます。

また、以下のように、原子的個人主義を媒介にする、新自由主義と全体主義の親和性を指摘しているのは非常に鋭い(コーンハウザー『大衆社会の政治』(東京創元社)参照)。

こうして「社会」を、私的個人同士の相互活動で出来上がる薄い膜のようなものへと縮小することは、今日、リバタリアンや自由市場主義者の野望として提示されています。しかし、わたしたちが忘れてはならないのは、それが何よりもまずジャコバン派、ボリシェヴィキ、そしてナチスの夢であったということです――もしわたしたちを、共同体あるいは社会として結び合わせるものがないならば、わたしたちは完全に国家に依存するしかない、というわけです。・・・・・

こうしたプロセスに、不可解な部分などまったくありません。それはエドマンド・バークのフランス革命批判のなかで、十分に述べられています。彼が『フランス革命についての省察』のなかで書いているのですが、国家の骨組みというものを破壊してしまうような社会は、すぐにも「個人性という粉塵へと空中分解してしまう」に違いありません。公共サービスを骨抜きにし、それらを民間供給者のネットワーク委託という形にまで縮小することで、わたしたちは国家の骨組みの解体に手をつけたのです。「個人性という粉塵」について言えば、それこそ正にホッブズのいう、万人の万人に対する戦争にそっくりで、そこでは多くの人びとの生活が孤独で、貧しくて、少なからず不快なものになってしまうのです。

こうした現状に対して、著者は「世論を鍛え直す」ことを主張するが、以下のように直接民主制への警戒を持っていることからして、決して凡庸な左派ではない。

直接民主主義は、小規模の政治単位においては、参加の度合いを高めます――と言っても、そこには画一化や多数派による圧迫という危険がつきまといます。異論や異説に対して潜在的な抑圧性をもっているのは、タウンホール・ミーティングやキブツを措いて他にありません。どこか遠くで行われる集会において自分の代わりに発言してくれる人を選ぶというのは、大規模で複雑な共同体のさまざまな利害関係のバランスをとるメカニズムとして、理に適っています。・・・・・

本質的な議論を、こうして抑え込んでしまうことの悪い結果は、わたしたちの身の回りにいっぱいです。今日のアメリカでのタウンホール・ミーティングと「ティーパーティー」は、18世紀に創始された原物の、模造品でなければパロディーにすぎません。議論を捲き起こすどころか、閉じ込めてしまうのです。デマゴーグが群集に向かって何を考えるべきかを告げ、その言葉がこだまとなってもどってくると、デマゴーグたちは大胆にも、自分は一般国民の心情を中継しているだけだと宣(のたま)うのです。イギリスでは、テレビが驚くほど効果的に使われていて、国民の不満の安全弁となっています。プロの政治家たちは今や、移民政策から小児性愛までのあらゆる問題に関する、即時テレフォン投票や人気調査という形の「民の声」に耳を傾けていると言っています。自分が抱いている恐怖感や偏見を、ツイッターで視聴者へと返信することで、彼ら政治家たちは、自分が果たすべきリーダーシップやイニシアチブの重荷を免除されてしまうのです。

結論として、著者は今こそ、社会民主主義の遺産を継承することが必要だとする。

もしもわたしたちが国家を持ちつづけようとするのなら、そして国家が人間の営みのなかで重要な意味を持ちつづけるのなら、社会民主主義の遺産には存在価値があります。過去はわたしたちに、教えることがあるのです。エドマンド・バークは、当時彼が行なったフランス革命に対する悲観的な批判のなかで、未来の名の下に過去と絶縁してしまう未成熟な傾向に警告を発しました。彼は書いています――社会というものは、「・・・・・生きている者同士の協力関係に止まらず、生きている者と、死んだ者と、これから生まれてくる者との協力関係である」と。

この見解は、保守派の典型として読まれています。しかし、バークは正しいのです。すべての政治論議は、未来を改善する夢だけではなく、過去の業績――自分たちがやり遂げたことと先輩たちがやり遂げたこと――との、わたしたちの関係を深く認識することから出発する必要があります。左翼は余りにも長きにわたって、この要請に無頓着でした。わたしたちには19世紀ロマン派の呪縛があり、古い世界に別れを告げて、既存のものすべてに根源的批判を加えることに躍起になってきたのです。そうした批判は、重大な変革のための必要条件ではあるでしょうが、わたしたちを迷走させる危険な可能性があるのです。

通俗的なイメージとは異なる意味で、左派と右派の違いを述べた以下の文章も、特に今世紀に入ってからの、日本の現状を考える上で示唆的である。

わたしたちは通常、「左翼」から用心深さを連想することはありません。欧米文化の政治的想像空間において、「左」が象徴しているのは急進的、破壊的、刷新的ということです。ところが本当は、進歩的な諸制度と深慮の精神とのあいだには、密接な関係があるのです。民主主義的な左翼は、これまでしばしば喪失感に突き動かされてきました――時には理想化された過去の喪失感、時には私的利益によって無残に蹂躙された道徳的心情の喪失感です。この二世紀のあいだ、経済的な変化はすべて良いほうに向かっているという、飽くなき楽観的な考えを抱きつづけてきたのは、空想的市場主義リベラルでした。

全世界向けプロジェクトの名において、破壊と刷新という近代的野心を継承したのは、右翼のほうでした。イラクにおける戦争から始まって、公費教育や医療サービスの解体というゴリ押し的な欲望、さらには数十年にわたる金融の規制緩和プロジェクトに至るまで、サッチャーとレーガンからブッシュとブレアまでの政治的「右」は、政治的保守主義と社会的穏健主義との結びつきを断ち切ってしまったのです。

一部異議のあるところがないではないが、総合的には全然気にならない。

共産主義が人類史上最も邪悪な思想だという認識にはいささかも変わりないが、(経済体制としての)社会民主主義に対するアレルギーはここ5、6年で自分でも驚くほど雲散霧消してしまった。

むしろ最近では、資本主義批判の視点を持たないような「保守」は醜悪な偽物だ、とますます確信するようになっているので、本書の主張にも全く違和感無し。

お勧めします。

参考文献としては、荒井一博『自由だけではなぜいけないのか』(講談社選書メチエ)カール・ポラニー『大転換』(東洋経済新報社)西部邁『経済倫理学序説』(中央公論社)などをどうぞ。

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小田中直樹 『歴史学ってなんだ?』 (PHP新書)

お久しぶりです。

大震災という不慮の事態が生じたので、だいぶ間が空きましたが、とりあえず今日から再開します。

おそらく週一くらいの更新頻度になるかと思いますが、1000記事目まであと20弱ですので、そこまでは何とか続けたいと思います。

さて本書ですが、ちょっと前に出た本という感覚だったが、2004年刊だからもう7年前になるのか・・・・・・。

読もう読もうと思っていたが、今まで放ったらかし。

本書だけでなく、そんな調子で放置していた本で、このブログの記事にするために手に取った本が少なくない。

たとえ訪問者がゼロでも、それだけでブログを作った価値があるというもの。

また、感想文なり要約なりを書くつもりで読書に挑むと、集中して読めることに加え、重要な部分とそうでない部分を区別して主要な論旨を掴もうと意識するようになり、読解力と内容理解・内容記憶にも良い影響があるように思われます。

本筋から外れた枝葉の部分は飛ばし読みにするなど、メリハリを付けた読み方をするようにもなり、途中で通読を断念する確率も随分下がりました。

閑話休題。

本書は歴史学の根底的課題を考察する本。

(1)「史実」を本当に明らかにできるか、(2)歴史学は社会の役に立つのか、(3)歴史家は何をしているかという、三つの問題設定を行なって話を進めていく構成。

こう書くと大仰な感じがするが、中身は「です・ます」体で話し言葉に近い文体なので、非常に読みやすい。

(1)については、構造主義の言語論的転回からくる批判にも関わらず、史料批判を通じて根拠を問い続け、絶対的真実ではないが「コニュニケーショナルに正しい認識」に至り、そこから「より正しい解釈」に達することは可能であるとしている。

(2)従軍慰安婦問題というややキナ臭い例を用いて、歴史学は、集団的アイデンティティや記憶に介入する形で(直接的にで)はなく、あくまで真実性を経由して個人への知識の供給に努めることによって社会の役に立つことができるとする。

(3)は、世界史教科書の行間に見い出される歴史観の変遷、日本の戦後史学の簡略な概観、歴史家のメッセージの重要性など。

砂糖の世界史』、『茶の世界史』、『ローマ人の物語』、『ローマ五賢帝』、『フランス革命 歴史における劇薬』、『新書アフリカ史』、『繁栄と衰退と』など、平易かつポピュラーな啓蒙史書を引用しながらの叙述は親しみやすい。

しかし、200ページ弱の短さで読みやすいのはいいものの、出来れば倍ほどの分量でより詳しく説明して欲しかったところではある。

期待が大き過ぎた分、少々物足りなさが残った。

とは言え、比較的高度な内容をよく噛み砕いて説明してくれている本なので、初心者は読んで損は無いでしょう。

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ハインツ・ゴルヴィツァー 『黄禍論とは何か  その不安の正体』 (中公文庫)

1999年草思社から単行本で出たのを2010年文庫化したもの。

著者はドイツ人史家で、原著は1962年刊。

1870年代から第一次世界大戦までの帝国主義時代の欧米における、黄色人種脅威論に関する書。

まず総論があって、その後、英・米・露・仏・独の順番に各国ごとの分析。

多くの知識人、ジャーナリスト、政治家の言説を採り上げている。

その固有名詞は一部を除いて特に憶えなくてもいいでしょう。

抽象的理論ではなく、具体的事例を次々挙げていく構成なので、面白くスラスラ読める。

帝国主義時代、地球上のほとんどすべてが欧米列強によって分割され、表面上西洋が圧倒的優位を誇っていた時期の、欧米人の心の底に潜む不安感を描き出している。

「黄禍」といっても、その中心対象は、ほぼ中国と日本に尽きる。

日本は主に日清・日露の戦争後について。

中国はアヘン戦争で国を開いてから「眠れる獅子」と呼ばれていた時期だけでなく、日清戦争敗北後においても、その膨大な人口が与える圧迫感から脅威視されることが多かった。

低賃金労働による輸出洪水、移民の氾濫、近代技術の模倣・習得による軍事力整備と膨張政策についての懸念が西洋人の脳裏に付き纏う。

本書に挙げられている様々な言説を読み進んでいくと、一部を除きアジアへの蔑視というよりその潜在的能力に対する不安からくるものなので、別に不愉快な感じは受けない。

人種・民族・文化に関する偏見の話でも、日本人読者にとっては、こちらが「被害者」なので、気楽である。

とはいえ、我々としては本書を読んで自らの鏡とし、例えば硬直して偏執狂的な反中反韓感情の虜にならないよう自省すべきなんでしょう。

興味深いサブテキスト。

読みやすいし、分量も多くないので、通読は大した手間でない。

気が向いたら読んでおいても損はないです。

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J・M・ケインズ 『ケインズ説得論集』 (日本経済新聞出版社)

今年4月に出たもの。

既訳があるが、ケインズ死後60年余りが過ぎて著作権切れとなったのを機に訳したと、巻末の山岡洋一氏による訳者あとがきに書いてある。

ケインズの著作のうち、専門的論文ではなく一般読者でも読めるものというと、ニュートンなどを描写した『人物評伝』でも手に取るべきかとも思ったが、たまたまこれが目に付いたので読んでみた。

インフレとデフレ、金本位制への復帰、自由放任の終わり、「孫の世代の経済的可能性」、繁栄への道、の四部構成。

この訳書では原著から一部を取捨選択して現在の読者の関心に応えるような構成にしているとのこと。

「自由放任の終わり」を全編収録してくれたのは有難いと思う。

内容はまあ、完全な経済学門外漢の私でも何とか読めるかなあといったレベル。

真ん中の金本位制についての文章は相当苦しい部分があったが、わからない所は飛ばせばいいと思います。

たまにはこういう本を読むのもいいんじゃないでしょうか。

さまざまな時期に自由放任の教義を基礎づけてきた形而上学の原理や一般的な原理を、ここで一掃しようではないか。個人が経済活動に関して、慣行として「自然な自由」を与えられているというのは、事実ではない。もてるもの、取得せるものに恒久的な権利を与える「社会契約」は、実際には存在しない。世の中が、私益と公益がつねに一致するように天上から統治されているというのは、事実ではない。現実に私益と公益が一致するように地上で管理されているというのも、事実ではない。洗練された自己利益がつねに公共の利益となるように作用するというのは、経済学の原則からの推論として、正しくはない。自己利益がつねに洗練されているというのは、事実ではない。個人が独立して自分の目標を追求するとき、あまりに無知かあまりに無力なために、自分の目標すら達成できない場合の方が多い。事実をみていけば、個人が社会的な組織の一員として行動しているときには、個々人がばらばらに行動しているときより先を見通せてはいないとはいえない。

したがって、バークがいう「立法にあたってとくに微妙な問題の一つ、つまり、国が公共の英知を使って指揮を引き受けるべき点は何で、干渉を最小限に抑えて、個人の努力に任せるべき点は何なのかを判断する問題」は、抽象的な理論によって解決することはできず、その是非を詳細にわたって検討していかなければならない。ベンサムがいう「なすべきこと」と「なさざるべきこと」を区別すべきであり(いまでは忘れ去られているが、有益な用語だ)、その際には、政府の干渉は「一般に不必要で」、しかも「一般に有害だ」とするベンサム流の予断をもたないようにするべきである。・・・・・

考えと感情が混乱しているため、語ることも混乱している。多くの人が、実際には生活様式としての資本主義そのものに反対しているのに、資本主義自体の目標を達成する点で効率が悪いことを根拠に反対しているかのように語っている。逆に資本主義の熱心な支持者は往々にして極端なまでに保守的になっており、実際には資本主義を強化し、維持するのに役立つ可能性があっても、資本主義から離れる第一歩になりかねないと恐れて、技術的な改革を拒否している。とはいえ、いずれ時期がくれば、資本主義を効率的かどうかという技術的な観点での議論と、資本主義そのものが望ましいか望ましくないかという観点での議論とを、現在よりはっきりと区別できるようになるだろう。わたし自身の見方をいうなら、資本主義は賢明に管理すれば、現時点で知られているかぎりのどの制度よりも、経済的な目標を達成する点で効率的になりうるが、それ自体としてみた場合、さまざまな点で極端に嫌悪すべき性格をもっていると思う。いまの時代に課題となるのは、効率性を最大限に確保しながら、満足できる生活様式に関する見方とぶつからない社会組織を作り上げることである。

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今谷明 『封建制の文明史観』 (PHP新書)

著者の今谷氏は日本史関係で著名な方ですが、著作を読むのはこれが初めて。

西欧と日本が近代化に成功した原因を封建制の存在に求めて、それを肯定的に評価する視点からの本。

梅棹忠夫『文明の生態史観』(中公文庫)とも共通する点が多い。

まず第一章で13世紀モンゴルの征服と破壊から免れた日本・西欧・マムルーク朝エジプトの例を記し、それがいずれも封建制下に育まれた軍事力によるものだったとする。

日本については「神風」よりも鎌倉武士の奮戦を強調し、西欧についてワールシュタットの戦い後のモンゴル軍の撤退はオゴタイ・ハンの死によるものではなく、ドイツの城塞都市を破る見込みが無かったからだとする。

マムルーク朝について、1260年アイン・ジャールートの戦いでモンゴル軍を撃退したことの意義を記すが、以後のエジプトで近代化の動きに乏しかったことへの言及は特に無い。

また、普通の教科書ではモンゴルの侵攻を退けた地域としては日本、エジプト以外では西欧よりも陳朝大越治下のヴェトナムを挙げるのが通例だが、本書ではヴェトナムについては全く記述されることがない。

(別に細かなあら捜しをするためにこういうことを書くわけではありませんが。)

いずれにせよ、モンゴルのユーラシア制覇の破壊的側面を強調し、その支配を免れた地域のみが、自発的近代化を成し遂げたことに注目するという、杉山正明先生が聞いたら発狂しそうな史観。

(本書の元寇を記した部分では杉山氏の著書がやや批判的に引用されています。)

第二章以降では、上記梅棹氏をはじめ、オットー・ヒンツェ、ウィットフォーゲルなど内外の学者に関して、日本において封建制は存在したのか、存在したとしてそれをどう評価するのかについての様々な言説を紹介する内容に移る。

採り上げられている人物では、島崎藤村なんて意外な名前も出てきます。

封建制を近代化への障壁であり、全く否定すべきものと見なすか、むしろ逆に近代の基盤を準備したものと見るかで、意見が分かれる。

いろいろな学者の中で、本書ではウィットフォーゲルに対する評価が比較的高い。

この人は中国史での「征服王朝」という用語の発案者として高校世界史でも一応名前は出てきますよね(今は触れられないのかもしれませんが)。

ユダヤ系ドイツ人として生まれ、ドイツ共産党に入党、ヒトラー政権成立後は収容所送りになり、出獄後アメリカに亡命、そこで反共主義に転向しマッカーシズムの赤狩りに協力して、左翼知識人に蛇蝎の如く嫌悪されるというなかなかきな臭い人生。

中国などユーラシア中央部に大規模な水利・灌漑の必要から中央集権的な専制帝国が成立したのに対し、西欧と日本では封建制による権力の分立と近代化への萌芽が生まれたと説く「東洋的専制主義」の理論を構想。

こういう諸学説の紹介はそれなりに面白いんですが、著者の主張があまり明解に伝わってこないので、最後まで読むと「えっ、これだけ?」と何か中途半端な印象を持ってしまう。

途中から少し盛り上がりに欠ける展開のような気がしますが、初心者が予備知識無しに読めるのは良い。

大した労力も要らずに読めるが、その割にいろいろな知識が吸収できてなおかつ楽しめるというコストパフォーマンスの高い本。

井上章一『日本に古代はあったのか』と読み比べるのも良いでしょう。

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井上章一 『日本に古代はあったのか』 (角川選書)

小中高で習った歴史を思い出してください。

古代、中世、近世、近代、現代という五つの時代区分がありますよね。

西洋史ではギリシアの都市国家からローマ帝国滅亡までが古代、ゲルマン民族の侵入と封建制の成立で中世が始まり、ルネサンスと宗教改革、大航海時代の15・16世紀あたりから近世。

アメリカ独立革命・フランス革命・イギリス産業革命以後が近代で、現代は人によってまちまちで帝国主義時代とか第一次世界大戦とかが画期になるんでしょうか。

日本史では平安時代までが古代、鎌倉時代から中世、安土桃山時代から近世が始まり、明治維新で近代に入るというのがほとんど全ての教科書の時代区分法でしょう。

近世と近代を分けるかどうかとか、近代と現代の境目はどこかは別にして、ヨーロッパ史と日本史に関しては、古代・中世・近世(近代)という時代ははっきりと断定的に教わりますし、誰でもいつ頃がその区分に当たるのかはすぐ思い浮かびます。

でも、世界の他の地域においては、あまりこの手の時代区分は聞かないですよね?

学会だけでなく、我々一般人にも広く普及した西アジア・インド・中国・東南アジア・アフリカ・ラテンアメリカの時代区分があるわけではない。

中国史ではこの時代区分論争が戦後しばらくの間、喧々諤々、華々しく繰り広げられたそうです。

私が初心者向け中国史入門書では最高の名著と思っている宮崎市定『中国史 上・下』(岩波書店)では、後漢までが古代、唐末までが中世、宋以後を近世と定義している。

この内藤湖南以来の京都学派に対して、東大系の歴史家は中国の古代をより長く設定し、いわゆる唐宋変革期は古代と中世の境目であると反駁した。

宋代の佃戸は農奴か自由民かなんていう論争が激しく続けられたが、70年代頃から下火になり、今はこの種の時代区分論は全く流行らないそうです(こちらのページなど参照)。

本書は宮崎氏の中国史・ユーラシア史論に触発されて、これまでの日本史の時代区分に根本的な疑問を投げかけるという本。

これは面白い。

ものすごく面白い。

難解な部分は何一つ無く、各学界の時代区分論をめぐる様々な言説を極めて平易に紹介しながら、著者の見解を蛮勇を奮って述べていく。

いろいろ批判もあるだろうが、私のような一般読者にも強い興味を持って通読できる読物であるのは間違いない。

ユーモアがあって、どことなくとぼけた筆致と意外な話の展開にニヤリとさせられること多数。

基本的に何の予備知識も要りません。

できれば中国史時代区分に関して上記宮崎氏の『中国史』と『大唐帝国』(中公文庫)、封建制への評価に関して梅棹忠夫『文明の生態史観』(中公文庫)岡崎久彦『隣の国で考えたこと』(中公文庫)『この国のかたち』など司馬遼太郎の著作のあれこれを事前に読んでおいたら、より楽に理解できるでしょうが、別に未読でもかまいません。

読みやすくて十二分に楽しめる良質な歴史談義。

私のような初心者にはぴったり。

買う価値有りです。

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司馬遼太郎 『この国のかたち 1』 (文春文庫)

世界史読書の観点から言うと、司馬遼太郎の作品のうち、『項羽と劉邦』および『韃靼疾風録』は絶対必読本であり、やや程度は薄れるが『坂の上の雲』もできるだけ読むべき本ではある。

それ以外の日本史関係の膨大な歴史小説は好きな人はどんどん読んでいけばいいんですが、私はあまりやる気がでない。

よってその内容のエッセンスを抽出した本で済まそうとして、大学時代これを読む。

全6巻あるが、何となく面倒になって1、2巻しか読まなかった。

『明治という国家』の方がよりまとまりがあって良い気がする。

しかし、これ以上無いほど楽に読める本ではありますので、気の向いた時ざっと読んでみるのも宜しいんじゃないでしょうか。

以前も書いたんですが、司馬作品を100%鵜呑みにして、それ以外の本を一切読まず、完全に歴史をわかった気になるのは問題だと思いますが、かといって初心者啓蒙用としての司馬作品の良さを全く認めずに頭から馬鹿にするのもどうかと思います。

少なくとも、私程度の読者には非常に有益であることは間違いないはず。

買わなくてもいいですが、暇なとき図書館で借りて斜め読みするのもよいでしょう。

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司馬遼太郎 『人間の集団について』 (中公文庫)

タイトルからは想像できないが、ヴェトナム紀行の本。

ヴェトナム戦争中にサイゴンを訪問した著者による平易な史的文明論といったところか。

同じ中華文明圏の周辺民族としての朝鮮とヴェトナムの比較などが内容。

大学時代読んで特に面白いとは思いませんでしたが、薄いし楽に読めるし、まあ一読しておくのも悪くないでしょう。

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野田宣雄 『歴史をいかに学ぶか ブルクハルトを現代に読む』 (PHP新書)

『ヒトラーの時代』と同じ著者。2000年1月刊。

ブルクハルト『世界史的諸考察』を紹介しながら、それに引き付けて現代の諸問題を著者が解説する本。

薄いし文章も平易なので誰でも読める。それでいて内容は深く鋭い。

これは絶対読むべき本だと思う。

19世紀末にブルクハルトが抱いた悲観的歴史観と現代の日本と世界の状況を考え合わせて背筋が寒くなったり、自分のことを省みて恥ずかしくなったりと、いろいろ複雑な感情に襲われる。

前半部分で古代以来の歴史観の変遷を辿っていますが、その中でヴィーコという人の記述が非常に面白く示唆的であった。

名前を聞いたことがあるというだけで他には全く知らないし、私の頭では理解するのは厳しいかもしれませんが、中央公論の「世界の名著」シリーズに著作が収められているようなので、一度挑戦してみようかなという気になりました。(追記:と思ったのですが、立ち読みした限りではやはり私が読めるような本ではないみたいですので、今のところ放置しています。)

話を表題の本に戻すと、かなり前の本ですから品切れなのも致し方無いのかもしれませんが、これは粗製濫造されてる他の新書と同列に扱っていい本ではないと思う。

こういう本こそ末永く入手可能状態で、広く読まれてほしいものです。

・・・・ヴィーコの歴史の見方は、各民族が原始社会から始まって万人平等の民主的な文明社会にいたるまで段階的に進歩・発展を遂げてゆく進歩史観の一つと思われるかもしれない。しかし、ヴィーコの歴史観のユニークな点は、すでに少し述べておいたように、こうして第三段階の民主的な文明社会に到達した民族が、ふたたび第一段階の原始状態に引き戻されると説く点である。彼は、ギリシアもローマもエジプトもフランスなどの西欧民族も、いずれも上記の三段階を経て発展するが、最後には、停滞し没落して出発点の原始状態に「再帰」せしめられると考える。

では、なぜ、第三段階の民主的な文明社会にまで到達した各民族は、出発点に「再帰」を余儀なくされるのか。それは、要するに、どの民族も折角手に入れた自由を乱用して堕落し、無政府状態におちいるからである。人間とは、自由を手に入れれば、それを無政府的あるいは無制限的に行使し、骨の髄まで堕落してゆくのである。そして、贅沢・柔弱・貪欲・嫉妬・傲慢・虚栄といった自分で抑制できない情念の奴隷と化してゆく。あるいは、嘘つき・ペテン師・中傷家・泥棒・臆病者・偽善者などのありとあらゆる悪習にまみれ切ってしまう。

腐敗した民族は、各自がまるで野獣のように自分自身の個人的な利益のことしか考えない習慣におちいってしまう。しかも、極端に神経質になるために、まるで野獣のように、ほんのちょっと気に障ることがあると、腹を立てていきり立つであろう。精神においても意志においても、市民たちは、この上なく深い孤独のなかで、各自が自分自身の快楽や気まぐれにしたがって生きている。そして、たとえ二人の人間の間でも、ほとんど合意に達することは不可能になってしまう。こうしたことすべてのために、彼らは執拗きわまる党派争いと絶望的な内乱を惹き起こし、都市を森と化し、森を人間の巣窟と化してしまう。

なぜ、十九世紀のヨーロッパは、こんなに不安定な時代になってしまったのか。ブルクハルトは、そのもっとも大きな理由の一つを「大衆の登場」のなかに見ようとする。大衆はあらゆる事態にたいして不満であり、すべての不都合なことを既存の状態のせいにする。ほんとうは、彼らを圧迫しているのは、人間の不完全さに由来するものであるのだが。

要するに、このバーゼルの歴史家は、いわは貴族主義的な立場から大衆社会にたいして容赦のない批判を浴びせる先駆者の一人である。「われわれが直面しているのは、一般的な平準化である」と見なすブルクハルトは、十九世紀の個性の喪失を嘆いて、次のような文句さえ吐く。「昔は愚かな者にしろ、自分自身の力で愚かだった」

ブルクハルトの十九世紀批判の矛先は、大衆の登場と並んで、アメリカ流のビジネスの浸透にも向けられる。・・・・・「これからは、どの階級や階層が、教養のほんとうの担い手になってゆくのだろう。どの階層が、今後は研究者・思想家・芸術家・詩人などの創造的個人を供給するのだろうか」「それとも、すべてはアメリカにおけるようにビジネスに化する運命にあるのだろうか」

だが、ブルクハルトの同時代にたいする診断のもう一つの重要な論点は、ビジネスの蔓延と手を携えながら、「国家の肥大化」がますます進展するだろうと見るところにある。・・・・・このような国家の肥大化は、ブルクハルトの眼から見れば、大衆民主主義の登場と深く関連している。普通選挙権が次第に拡大し、大衆による民主主義が一般化すれば、それは国家の肥大化を招き、ついには暴力支配に行き着く「大衆専制主義」に反転する。そもそも、大衆が願望する幸福とはすぐれて物質的なものであり、物質的な願望はけっして満たされることがない。そこで、大衆は、国家に向かって公共の福祉の名のもとに改革をもとめ続けるが、そうしたことは、結局は国家権力の増大をもたらすのである。

ブルクハルトにいわせれば、いわば「下から」国家のあらゆることが議論の対象にされるのが、十九世紀という時代の特徴である。その場合、どんな国家形態が最良かということも、しきりに議論に上る。だが、実際には、人びとは、自分の気分に応じて、国家の形態がつねに変化することをもとめているにすぎない。そして、このような国家をめぐる議論は、結局は、ますます大きな、ますます広汎な、国家の強制力をもとめる方向に向かってゆく。というのも、国家をめぐる議論の過程で繰り返し国家のための崇高なプログラムが起草されるが、そういうプログラム全体を実現するためにも、国家は強大な権力を必要とするからである。「こうして、国家の形態が議論の対象になればなるほど、国家の権力範囲は、ますます大きくなってゆく」

「そうだ。私は、彼らのすべてから逃れたい。急進主義者、共産主義者、工業家、高踏的教養人、高級ぶった批評家、思索家、抽象主義者、絶対論者、哲学者、ソフィスト、熱狂的国家主義者、理想主義者、あらゆる種類の何々派・何々主義者と称する人びとから逃れたい」

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