カテゴリー「東南アジア」の27件の記事

フランソワ・ポンショー 『カンボジア・ゼロ年』 (連合出版)

1975年成立したポル・ポト政権下のカンボジアの実態に迫った著名なルポ。

著者はカンボジアに10年滞在したフランス人カトリック神父。

ポル・ポト政権がまだ存続していた1977年に原著が出て、翻訳は79年、それから20年後の昨年新版が刊行されている。

『共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇』の記事で触れた、本多勝一『検証カンボジア大虐殺』(朝日文庫)を読んだ時から、その存在は知っていたはず。

カンボジア現代史の概観を得るためには、冨山泰『カンボジア戦記』(中公新書)ミルトン・オズボーン『シハヌーク』(岩波書店)を参照。

本文に入る前にまず、国名と民族名の確認。

現在ほとんど聞かなくなったが、この時代「カンボジア」以外にも国号として「カンプチア」が用いられていた。

(三文字目が潰れていて区別がつかないでしょうが、カンプチア「pu」です。)

ポル・ポト政権時代に「民主カンプチア」を自称していた。

「ニホン」と「ニッポン」のようなものか?

他に国号・民族名としてカンボジアをクメールと呼ぶことがある。

1975年4月、クメール・ルージュ(カンボジアの共産勢力)がプノンペンに入城しロン・ノル政権を打倒した時、著者はシアヌーク時代とロン・ノル時代の腐敗と圧制を知るが故に、むしろこれを好意的に眺めていたという。

しかし、その直後からプノンペンなど全ての都市からの住民の強制退去が始まる。

病人・老人・子供・女性を含め、一切の容赦無く、極めて性急かつ過酷に行われた農村への強制移住で多くの犠牲者が出る。

それを目撃して出国した後も、著者は国外に脱出した難民への詳細な聞き取り調査から、農村での極めて劣悪な強制労働、旧政権関係者への徹底した粛清、宗教の全面的禁止と僧侶への弾圧、オンカー(革命組織)への絶対的忠誠を強要する徹底した住民統制など、異常な原始共産主義政策とそれがもたらした100万人以上の犠牲者について述べている。

第10章「革命までの三十年」および第13章「どこへ行くカンプチア」は、政治史の流れを概観している章なので、ここは他の章と違い、固有名詞に注意して読み進むのが良い。

後にクメール・ルージュの中心となったポル・ポト(本名サロト・サル)、イエン・サリ、キュー・サンパン、フー・ユン、フー・ニムなどは全てフランス留学生。

帰国当初、前二者がシアヌークを打倒の対象とする強硬派、後三者がシアヌークとの協力を排除しない穏健派(1960年代の一時期入閣していたこともある)。

63年イエン・サリ(とポル・ポトも?)が地下活動に入る。

以下の文章を読むと、こういう好人物であっても政権を掌握した後したことを考えると、イデオロギー狂信の恐ろしさや、単純な理屈で人間社会を把握しようとすることの危険を思い知らされる。

笑顔を絶やさず、人当たりの柔らかいイエン・サリは、最貧層の学生から自分の授業に対する月謝を受けとろうとはしなかった。彼はチャムカーモンに近い家に住み、自転車で通っていた。イエン・サリは謙虚で客扱いのいい人物だったから、学生たちは彼の家を訪ね、講義について助けを求めることができた。「先生、生徒であっても、我々はみな平等なのだ。社会的階級などはない」と彼はよく口にしていたものである。時々彼は君主制に強い不満を表わしていた。それは人々を奴隷におとしめたものだった。彼は「アンコールワット建造で、どれだけの人命が失われたのか」と叫び、王たちへの軽蔑をあらわにしていたという。彼はまたフランス語で書かれた中国に関する本を持っており、読みたい人には誰にでも貸していた。

66年当局の腐敗と対応のまずさから、西部サムロートで大規模な農民反乱。

67年フー・ユン、フー・ニム、キュー・サンパンが政府と訣別、地下活動へ。

同時期北東部少数民族も反乱を起こし、北ヴェトナムとヴェトコンに協力。

シアヌークは東部国境地域における北ヴェトナム・ヴェトコンの活動を黙認していたが、68年テト攻勢以後、迷いを生じる。

北ヴェトナムから距離を置くようになり、米軍のカンボジア領内ヴェトコン基地爆撃を表向き非難しつつも実際は黙認。

しかし、ここでより思い切った措置を取ろうとする右派のロン・ノル首相と対立、クーデタが起こり、シアヌークは追放。

シアヌークはクメール・ルージュと共闘、ヴェトコン・北ヴェトナム軍に加え一時米軍も介入し、国内は大混乱の渦に。

シアヌークが共産勢力の表看板なので、右派のロン・ノル政権が「クメール共和国」を自称しているのに対し、クメール・ルージュが「カンプチア王国民族連合政府」を名乗るという奇怪な状況。

結局上述の通り、1975年4月プノンペン陥落、ロン・ノル政権崩壊、ポル・ポト政権成立。

この75年には南ヴェトナムが崩壊し、ラオスでもパテト・ラオが政権を奪取して、インドシナ三国が全て共産化したというのは基本事項なので、もちろん憶える。

76年シアヌーク派が消滅、77年にはキュー・サンパンを除く元「穏健派」のフー・ニム、フー・ユンらが失脚、北ヴェトナムとの関係が濃い親越派の「クメール・ヴェトミン」も排除・抹殺され、同年ポル・ポトはカンプチア共産党を正式に名乗り、自派の完全な独裁を固める。

中ソ対立の中、ソ連がヴェトナムの後ろ盾となり、カンボジアを中国が支援。

本書の範囲外だが、ますます統一ヴェトナムとの対立を深めるカンボジアに、1978年末ヴェトナム軍が進攻、翌79年1月プノンペン陥落、親越派のヘン・サムリン政権樹立(その後を継いだのが現首相のフン・セン)。

これはあまりにあからさまな主権侵犯で、ヴェトナムのインドシナ覇権への野望も指摘され、統一後のヴェトナム自身、南部で相当抑圧的政策を取っていたことも事実なので、西側諸国(と中国)から非難されたが、ポル・ポト体制の残虐行為があまりに桁違いなので、公平に見て、この軍事行動にも効用が間違いなくあったと見なさざるを得ない。

ちなみにこの1979年は実に多くの事件があった年で、まず中東でイラン革命が起こり、現代史上初のイスラム原理主義政権が生れ、第2次石油危機が世界を揺さぶる。

イラクではサダム・フセイン政権成立(翌80年からイラン・イラク戦争)、ソ連がアフガニスタンに侵攻、米ソ冷戦は最終対決期を迎え、同年締結されたばかりのSALTⅡ(戦略兵器制限条約)は事実上破棄される。

サダト大統領の見事なリーダーシップでエジプト・イスラエル平和条約が結ばれるが中東和平はそれ以上の広がりを見せず。

アメリカの「裏庭」ではニカラグア革命が起こり、キューバ革命以来の親マルクス主義的政権が誕生して緊張が高まり、アメリカは同国右派勢力「コントラ」を支援。

キッシンジャー訪中から8年、ニクソン訪中から7年を経て米国・中国間の国交が正式に樹立、対ソ戦略上の協力関係が進展。

イギリスではサッチャー保守党政権成立、社会民主主義的福祉国家の見直しを進め、81年レーガン政権、82年中曽根政権、コール政権など先進各国で80年代に生れた右派政権の嚆矢となる(フランスだけは81年よりミッテラン社会党政権。ただし後に経済政策は右寄りとなる)。

そしてヴェトナム軍のカンボジア占領、それに対して「懲罰」と称して中国軍がヴェトナム国境地域に侵攻(中越戦争)。

以上ほぼ全て、高校教科書範囲内なので要記憶。

ヴェトナムに対し、シアヌーク派、ポル・ポト派、ソン・サン派の三派連合が対抗し内戦が続くが、1991年パリ和平協定と翌年国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)下の総選挙で国内統一、ポル・ポト派は参加せずタイ国境地帯で一定の勢力を保持していたが、1998年ポル・ポト死亡後、消滅。

タリバン、アルカイダなんてものが出てくる前は、ポル・ポト派は北朝鮮およびリビアと並んで不気味な勢力だった記憶があるんですが、結局さしたる混乱もなく消え去ってくれて良かったと言っていいのか。

(ポル・ポト本人は裁きを受けずに死んでしまいましたが。しかし死ぬ直前に自派から吊るし上げをくらってはっきりした写真が報道されたのには驚いた。)

通史としては不十分な点があるが、20世紀でも最も恐ろしい全体主義体制の一つをごく初期の段階で、告発した本として重要。

(個人的には北朝鮮の方がより醜悪で残忍だと思われるが。)

読む価値は十分あります。

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スカルノについてのメモ

昨日の後藤乾一 山崎功『スカルノ インドネシア「建国の父」と日本』(吉川弘文館)より。

独立後のスカルノの業績は、残念ながらあまり芳しくないように思える。

まず、1955年アジア・アフリカ会議(バンドン会議)という重要事項は年代と共に要記憶。

国民党、共産党(アイディットが指導)とイスラム政党であるマシュミ(ハッタの支持基盤)とナフダトゥル・ウラマの四大政党制。

経済不振が続き、地方での反乱が頻発、共産党が勢力伸張、対抗して陸軍も政治組織化を進める。

56年スカルノの容共政策に抗議してハッタが辞任。

57年「指導された民主主義」構想、権力集中を進め、オランダ資産国有化。

58年日本と賠償協定締結。

中国に接近し、スカルノは、ガーナのエンクルマ、アルジェリアのベン・ベラ、ギニアのセク・トゥーレと共に第三世界の急進派指導者として名を馳せる。

以上のうちセク・トゥーレを除く三人は1965~66年に相次いで失脚する。

それにより中国の反米反ソ「革命外交」は完全に挫折、まもなく国内では文化大革命が勃発し、1971年の米中接近まで中国の正常な外交活動は停止することになる。

穏健派指導者としてはインドのネール、エジプトのナセル、ユーゴのチトーなどを上記四人との対比として記憶。

(ちなみにこの辺は、『新世界史』(山川出版社)が教科書とは思えないほど巧みに説明しています。)

63年西イリアン(ニューギニア西部)施政権返還。

これで政治闘争は一旦終了させ、地道な経済建設に向えば良かったのだが、同年結成されたマレーシア連邦をイギリスの傀儡国家だとして対決政策を採り、ますます国内情勢を悪化させる。

運命の1965年、9・30事件が起こり、共産党クーデタへの支持が疑われたスカルノは実権喪失、スハルトが政権を掌握、「独立の父」を徐々に追い落とし、66年権限委譲、67年大統領代行就任、68年正式大統領。

9・30事件当時、確かスハルトは戦略予備軍司令官という立場だったはずですが、この戦略予備軍というのは西イリアン解放のための精鋭軍で最新装備を持っていたと白石隆『スカルノとスハルト』には書いていた記憶がある。

事件でのスハルトの動きについて、上記本では、妙な謀略説は書いていないが、事件勃発直後、スハルトがクーデタ派軍人に対して同調あるいは中立の立場を取ると匂わせ、それを利用して共産派の監視をくぐって軍司令部中枢に陣取り、一挙に事態を反転させたのではないかというふうなことが書いてあった。

以後スハルト政権下で親西側路線を取り経済の高度成長を達成、アジア経済危機までスハルト体制は続く。

98年ハビビ、99年ワヒド、01年メガワティ(スカルノの娘)と短期政権が続いて04年ユドヨノ大統領就任、昨年再選され久しぶりの長期政権になる見込み。

あと、この国にしか聞かない職名として「調整相」というのがある。

「○○担当調整相」という名称で複数いるのだが、これがどういう制度なのか、どこかの文章で読んだ記憶があるが、忘れてしまった。

見つけたら、また別の機会にでも書きます。

やっと終わった・・・・・。

長所。

コンパクトかつ平易で読みやすい。

高校教科書にゴチック体で載っている人名は漏れなく本書程度の簡単な伝記が新書・文庫版で出て欲しいもんです。

短所。

日本との関係に紙数を割き過ぎて、肝心の民族運動の説明がやや粗く感じる。

読者の興味を持たせるためにはいいんでしょうが、ややアンバランスな印象を持った。

また54ページに、ヒトラー政権成立を1931年とする、我が目を疑うような誤記(あるいは誤植)があった(第一刷では)。

といっても基本的には良書です。

高校世界史の次の段階で十分読めますので、気が向いたらどうぞお読み下さい。

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後藤乾一 山崎功 『スカルノ  インドネシア「建国の父」と日本』 (吉川弘文館)

「歴史文化ライブラリー」というシリーズの中の一冊で2001年刊。

このシリーズは相当の数が出ているが、ほとんどが日本史関係の巻で、本書のような世界史関係は珍しい気がする。

ちなみに、巻末の「刊行のことば」を読むと、「小社は、安政四年(1857)の創業以来・・・・・」という文字が目に入って「おおっ、そんなになるんですか」と思った。

インドネシア初代大統領の伝記。

読む前に中学レベルの事を以下で確認。

インドネシアは東南アジア最南部の島嶼国家。

人口は2億人を超え、世界最大のイスラム教国。

外務省HPに1億6千万人と書いてあるので、次がパキスタンか?

だとすると1位・2位が東南アジア・南アジアの国が占め、いずれも中東ではないのが面白い。

まずマレー半島に沿う形でスマトラ島があり、その東に一回り小さなジャワ島。

国の中心はジャワ島で首都のジャカルタは島の北西部にある。

人口がジャワ島に集中し過ぎているので他の島への移住を政府が奨励しているという新聞記事を数年前読んだ記憶があります。

ジャワ島のすぐ東に観光地として有名なバリ島があり、ここはヒンドゥー文化圏が残存。

さらに東にいくつかの島があって、その先にはティモール島。

東半分はオランダ植民地ではなくポルトガル領で、1975年ポルトガル民主化を契機に76年インドネシアが併合、スハルト体制崩壊後2002年に独立、という経緯は周知の通り。

ジャワの北側にカリマンタン島というやたらでかい島があり、北西部はマレーシア領と独立国のブルネイがあるが他の領域はインドネシア領。

その東側に何とも妙な形のスラウェシ島。

この二つの島は面積は大きいが重要性は低いようで、本書を含めインドネシア史の本ではあまり表舞台には出てこない。

さらに東に進むと香料産地として大航海時代に出てくるモルッカ(マルク)諸島があり、その隣がニューギニア島。

その西半分はイリアンジャヤとしてインドネシア領、東半分は独立国パプア・ニューギニア(1975年オーストラリアから独立)。

前置きが長過ぎましたが、以下内容メモ。

スカルノは1901年、20世紀開幕と共に、東ジャワの州都スラバヤに下級貴族の子として生れる。

父の友人で1911年(本書では1912年)結成された民族主義団体サレカット・イスラム(イスラム同盟)党首チョクロアミノトの家に寄宿し、政治への関心を深めてのち、バンドン工科大学で学ぶ。

他の組織として1908年ジャワの知識青年が結成した穏健ナショナリズム路線のブディ・ウトモがある。

第一次大戦後の1920年にはインドネシア共産党結成。

中国共産党が1921年、日本共産党が1922年結成だから、それらよりも早く、これがアジア初の共産党(同20年にはモンゴル人民革命党も誕生しているがこれは名称も違うし数えないんでしょうな)。

1927年スカルノを中心にバンドンでインドネシア国民同盟(翌28年に国民党と改称)結成。

武力闘争を否定すると共に、蘭印政庁との協力路線も拒否し、大規模な大衆運動を組織する「非協力」路線を選ぶ。

アジア唯一の帝国主義列強、日本に対する複雑な期待と警戒。

西欧的社会主義に傾倒する同志のハッタ、シャフリルと同じく、マルクス主義の洗礼を一部受けたスカルノも対日警戒心を持つが、国際関係の悪化に伴い、以下のように発言していたという。

「民主主義と軍国主義のどちらを選ぶかと尋ねられれば民主主義を選ぶ。しかしながら、もしオランダ民主主義を選ぶか日本軍国主義を選ぶかと問われれば、日本軍国主義を選ぶ」

31年国民党分裂、穏健派のハッタがインドネシア国民教育協会結成。

33年スカルノは逮捕され、以後八年間流刑生活を強いられる。

1942年3月蘭領東インド崩壊、日本軍政時代始まる。

スカルノは対日協力に踏み切り、日本への批判と警戒をより強く持っていたハッタもやむを得ず行動を共にする。

日本は重要資源確保の思惑から、ビルマ・フィリピンと異なり、当初はインドネシア独立を容認せず、1943年の大東亜会議にもインドネシア代表は招かれず(44年ジャワのみの、近い将来の独立が約束される)。

日本降伏直後、1945年8月17日共和国独立宣言。

復帰してきたオランダとの独立闘争開始。

この時期の叙述、独立派が一枚岩ではなく、抗争と交渉が繰り返されるので、非常にわかりにくい。

まず、優位にある連合国との交渉のため、「対日協力者」のレッテルを貼られた大統領のスカルノが表舞台から退いて、日本軍との軋轢があった副大統領ハッタと、同じく穏健派で対日協力を行わなかった首相シャフリルが前面に出る形となる。

ハッタ、シャフリルの漸進的協調的独立路線に対して、スカルノを支持する一般民衆の急進的独立路線が対立、各地でオランダとの武力紛争が頻発。

タン・マラカら民族共産主義勢力に主導権が移るのを恐れるスカルノは当初シャフリル路線を支持するが、46年1月オランダの圧迫を受けて共和国政府がジャワ島中部ジョクジャカルタに遷都すると、シャフリルは孤立化。

一時シャフリルが辞任するが、スカルノはオランダとの交渉をまとめるため再度シャフリルに組閣を命じ、暴発してクーデタを企てたとしてタン・マラカ派を逮捕・投獄。

46年11月リンガルジャティ協定締結、ジャワ・スマトラを領域とする共和国の事実上の独立、オランダ女王を首長とするオランダ・インドネシア連合樹立、非インドネシア人の権利・財産回復、ジャワ・スマトラ以外では親オランダ的な傀儡的国家や自治地域が存在。

47年6月オランダが実質的に植民地体制再建に等しい要求を行うと、シャフリルは退陣、同じ社会党系のシャリフディンが組閣、それに乗じて7月にオランダは「警察行動」と称して軍事侵攻開始。

48年1月国連の仲裁・監視の下、リンガルジャティ協定実施を定めたレンヴィル協定調印。

シャリフディン内閣に対する非難が巻き起こり、内閣退陣、ハッタが組閣、下野したシャリフディンは左傾化し共産党と連携、スカルノは共産党への対抗策として、同じ左派勢力ながら民族主義色が強く、親ソ的な共産党とは強く対立していたタン・マラカ派の関係者を恩赦・釈放。

48年ビルマ・マラヤの共産党武装蜂起に続き、モスクワから帰国したムソが共産党を指導、シャリフディン派の軍隊が東ジャワのマディウン市で反乱を起こし、スカルノを攻撃。

オランダと共産勢力との両面作戦を強いられた共和国政府は危機に陥るが、国軍はスカルノへの忠誠を守り、マディウン蜂起を鎮圧。

48年12月オランダが「第二次警察行動」として軍事侵攻開始、スカルノ・ハッタが捕らえられるが、共和国側は臨時政府を樹立し激しく抵抗、オランダの国力も限界に達し、49年12月ハーグ円卓協定で連邦国家内の共和国優位を定められ、同月インドネシア連邦共和国に主権移譲(ただし西ニューギニアはオランダ領のまま)。

翌50年親オランダ勢力の反乱を鎮圧して単一のインドネシア共和国樹立。

(確か、インドも47年に独立した時にはインド連邦で50年から共和国ですね。)

長くなり過ぎたので、独立後の続きは後日。

(追記:続きはこちら→スカルノについてのメモ

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根本敬 『アウン・サン 封印された独立ビルマの夢 (現代アジアの肖像13)』 (岩波書店)

「ビルマ独立の父」の生涯を中心にしたビルマ現代史。

まず冒頭でビルマとミャンマーという国名の問題について触れており、『謎の仏教王国パガン』での記述と同じく、改名を行なった軍事政権への態度とは関係なく、ミャンマーよりビルマが適当としています。

本題に入ると、独立運動の起源として、まず仏教青年会(YMBA)という組織が出来て、これを母体に1920年漸進的な穏健派団体としてビルマ人団体総評議会(GCBA)が結成される。

これに対して1930年、より若い世代の急進的ナショナリストたちが結成したのが、「我らのビルマ協会」、通称タキン党。

タキンというのは「主人」の意味で、党員同士が名前の前に付けて呼び合ったことから通称となった。

共産党の「~同志」みたいなもんでしょうか?

前者のGCBA系統の指導者は、1937年ビルマ統治法によりビルマがインドから分離した時にイギリス当局の下でつくられた政府首相となったバ・モオや、後に同じく首相となったウー・ソオなど。

後者のタキン党系統が、本書の主人公アウン・サンと、ウ・ヌー、バ・セイン、ネ・ウィンなど。

ただし、アウン・サンは党創始者ではなく、入党したのは38年。

ウ・ヌーと共にラングーン大学の学生運動で活動し、入党時若くしていきなり党ナンバー2の地位に就く。

39年タキン党内の党中党の形で共産党と人民革命党(後の社会党)ができる。

日米開戦前夜、アウン・サンは日本陸軍大佐鈴木敬司と接触、41年「南機関」と名付けられた組織で軍事訓練を受け、真珠湾攻撃後ビルマに進攻する日本軍と共に帰国。

1943年日本はビルマに独立付与、王制を主張するバ・セインを無視して、権限が集中した国家元首の地位にバ・モオを就ける。

アウン・サンも国防相として加わるが、強圧的な占領政策への反発や、敗戦直前の日本と「心中」して独立が無効になることを恐れ、1944年インパール作戦失敗後、「反ファシスト人民自由連盟」(AFPFL・ビルマ語略名パサパラ)を結成、抗日に転ずる。

それにより戦後もイギリスに独立勢力内の主導権を認めさせることに成功したアウン・サンだが、独立を目前にした1947年、ウー・ソオが放ったと見られる刺客により暗殺される。

暗殺された時、若干32歳というのに驚く(娘のアウン・サン・スー・チーは当時2歳)。

以後の歴史については、48年独立、短期間を除くウ・ヌー政権、経済不振・共産党武装闘争・少数民族反乱による国政混乱、62年軍事クーデタとネ・ウィン政権成立、社会主義計画党一党支配下のビルマ式社会主義と閉鎖的孤立的中立路線、88年アウン・サン・スー・チーらを指導者にした民主化運動とその弾圧、ソオ・マウン軍事政権成立、90年総選挙とスー・チー派の国民民主連盟(NLD)勝利、軍政の居座り、92年ソオ・マウン引退、タン・シュエ政権成立などを押さえておけばいいでしょう。

本書の刊行は1996年ですが、当時の状況からほとんど変化せず、現在に至るまで軍政が継続してしまっている。

類書が少ないビルマ史という分野で、手頃な内容と量なのは助かる。

結局この「現代アジアの肖像」シリーズは中国関係を除いて、刊行されたもの全てを読んだことになりますね(『李承晩と朴正熙』および『マルコス』は未刊)。

こういう現代アジア史の本で岩波刊となると身構える人がいるかもしれませんし、実は本書が一番その種の「岩波臭」を感じさせるのですが、本書を含め読むに耐えないほどの偏りを感じる、というものは一つもありませんでした。

東南アジアを中心にマイナー分野にも一冊を割り当てながら、長さは200ページほどとコンパクトにまとめられているのが非常に良い。

気の向いたものはどんどん手に取って通読されることをお勧めします。

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岩崎育夫 『リー・クアンユー (現代アジアの肖像15)』 (岩波書店)

1996年刊。

シンガポールという国家の基礎をほぼ一人で作り上げた指導者であるリー・クアンユーの伝記。

シンガポールはマレー半島南端にある島国で、北はマレーシアのジョホールに、南はインドネシアのスマトラ島に隣接する。

東西42キロ、南北23キロ、淡路島とほぼ同じ面積の島に約300万の人口が暮らす都市国家。

華人(中国系)住民が多数を占めるが、その他マレー系、インド系住民も存在する他民族国家。

その起源は1819年イギリス東インド会社職員ラッフルズがジョホール王国から当地を租借したことに始まる。

(参考文献として『マレーシアの歴史』(山川出版社)『ラーマンとマハティール』(岩波書店)も参照。)

1826年シンガポール・ペナン・マラッカで海峡植民地成立。

第二次大戦で日本軍に占領された後、イギリス統治再編の中で1946年マレー半島・ペナン・マラッカでマラヤ連合が成立し、シンガポールは直轄植民地として行政的にマラヤから分離される。

57年マラヤは独立、シンガポールでも自治権付与は避けられないとみたイギリスは58年シンガポールを英連邦内自治州として外交・国防を除く完全内政自治権を付与。

1954年人民行動党を結成していたリー・クアンユーは59年総選挙で勝利し首相に就任。

同党はリー等、英語教育を受けた英国留学生のエリート集団と、華語教育を受けた共産系労組・学生組織が同床異夢で結合していたが、リーは首相就任後、共産系勢力の弾圧を開始。

共産勢力を覆滅するため、一足先に独立して、共産党鎮圧にも成功していたマラヤと合併する形での完全独立を目指す。

1963年マラヤ・シンガポール・ボルネオ北部のサバ・サラワクでマレーシア連邦結成。

しかし華人系とマレー系の民族対立や経済政策をめぐる確執で、わずか2年後の65年にはシンガポールが分離独立。

インドネシアのスカルノ政権はマレーシア結成を親西側穏健諸国の再編として対決政策を採っており、南北の大国と関係が悪化していた新国家の前途は危ぶまれたが、独立直後に起こった9・30事件でスカルノ政権が崩壊し、インドネシアが穏健路線に舵を切ったことにも助けられる。

また、同65年の北爆開始とアメリカのヴェトナム戦争本格介入に伴う特需も有益だったと思われる。

なお、念のため確認すると「北爆(北ヴェトナム爆撃)」の名の通り、米軍は北を海・空軍で攻撃しているが、陸軍・海兵隊を派遣したのは南ヴェトナム領域のみで、地上軍は北には侵攻していない。

(後に北の補給路[ホー・チミン・ルート]を絶つためにカンボジアとラオスには侵攻しているが。)

高校レベルの初心者だと案外勘違いすることがあるので、ご注意。

この1965年はヴェトナム戦争激化、9・30事件、シンガポール独立の他に、日韓基本条約調印、第2次印パ戦争、翌66年の文化大革命発動に繋がる中国の文芸批判など、アジア情勢が大きく動いた年として要記憶。

話を戻すと、独立後のシンガポールは人民行動党一党支配の下、独特の権威主義政治と管理社会を運営して、外資導入と工業化を推進して驚異的な経済成長を遂げる。

労働集約的産業から技術・資本集約的産業へと進化を進め、70年代末に韓国・台湾・香港と並んでアジアNIES(新興工業地帯)と呼ばれるようになり、80年代以降はハイテク・金融・サービス部門でも飛躍的成果を挙げる。

(このNIESという言葉、昔は頻繁に耳にしたのですが、他の東南アジア諸国や中国が経済的離陸を果たした今となっては全然聞かなくなりましたね。)

建国の父リー・クアンユーの手腕が高く評価される所以で、キッシンジャーの回顧録などでも、国の規模と指導者の鋭敏さが不均衡な例として挙げられていた。

しかし、戦時中の経験を考えればやむを得ないとは思うが、日本に対しては相当偏った見方をこの人は示しているようである。

このシリーズすべてに言える事だが、コンパクトにまとめられていてなかなか良い。

過不足の無い説明で読みやすいし、二日もあれば十分読めるので手間が掛からず一定の効用が期待できる。

シンガポール史を3冊も4冊も読めないので、初心者はとりあえずこれをしっかり読むだけでいいでしょう。

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大野徹 『謎の仏教王国パガン 碑文の秘めるビルマ千年史』 (NHKブックス)

書名からして、最初の統一国家パガン朝だけの通史かと思うが、タウングー(トゥングー)朝、コンバウン(アラウンパヤー)朝、植民地時代、独立後の歴史も、簡略ながら付け加えて、一応ビルマ(ミャンマー)通史の体裁を整えている本。

序章と第1章がビルマ・パガン紀行、2章から4章が民族前史からパガン時代、5章が王朝滅亡と非ビルマ系民族支配時代、6章がタウングー朝とコンバウン朝および植民地化、終章が独立運動と戦後史と軍事政権の時代という構成。

本のコンセプトからしてしょうがないですが、パガン朝時代に極めて大きな重点が置かれていて、通史としてはバランスが悪く、近現代史には穴が目立ちます。

読み始めると、序章はともかく、1章のパガン紀行がきつい。

寺院と仏塔の紹介が延々と続いて、思わず挫折しそうになる。

2章に到達するまでは読み飛ばしましょう。

ちなみに著者はミャンマーという国名はあまり用いません。

軍事政権が名付けたからというだけでなく、改名の際の理由付けとして「ビルマ族以外の少数民族も包含する名称だから」とされているが、古くはミャンマーという言葉は明らかにビルマ族の単なる別称であり、その意味で不合理だからとしている。

なお、事前に東南アジアの語族について以下の通り確認しておく。

シナ・チベット語族=中国語・タイ語・チベット語・ビルマ語

南アジア(オーストロアジア)語族=ヴェトナム語・クメール(カンボジア)語・モン語

マレー・ポリネシア(オーストロネシア)語族=マレー語・インドネシア語・タガログ(フィリピン)語

ビルマ史で頻繁に出てくる少数民族のモン族は南アジア語族、シャン族はタイ系なのでシナ・チベット語族。

まず8世紀ごろチベット・ビルマ系のピュー(驃)が繁栄。

この時期、まだタイ族の存在しない現タイ王国のチャオプラヤ川下流域ではモン族のドヴァーラヴァティが7・8世紀に存在。

9世紀南詔がピューを攻撃、南詔支配下にいた原初ビルマ族がイラワジ川流域に進出。

本書ではピューが南詔に滅ぼされたと書いてあるが、パガン朝に吸収されたと書いてある本もあり、ちょっとよくわからない。

1044年アノーヤター王がパガン朝建国。

南部のモン族、東部のシャン族などを征服。

上座部仏教を導入し、支配層の寺院への寄進が盛んに行われ、大いに発展するが、ヒンドゥー教も存在したというふうに書いてある。

大理国(本書では大理国も南詔王国と表記している)を滅ぼしたフビライ(1271年以後元朝の世祖)軍の侵入を受け、1287年滅亡。

ビルマでは最初の統一王朝が元の侵入で滅ぼされているのに対し、東隣のタイではその後に最初の王朝スコータイ朝が成立している。

ちょっと詳しい高校世界史では、以後のビルマ史は上ビルマ(北部)はシャン人のアヴァ朝、下ビルマ(南部)はモン人のペグー朝と教えられるが、本書ではアヴァ(アワ)朝の前に短期間存続したピンヤ朝、ザガイン朝はシャン人王朝だが、アヴァ朝はビルマ族によって支えられており、実質シャン・ビルマ連合王朝だったとしている。

アヴァとペグーに挟まれたタウングー(トゥングー)でビルマ人勢力が興起、1531年ダビンシュエーティー王(「タ」ビンシュエティと書いてある本もあるがどちらが正しいのか)がタウングー朝建国。

ポルトガル傭兵も用いて、モン族・シャン族・西部のアラカン族を討伐。

王の死後、反乱が起こるが中興の祖バインナウン王が鎮圧、タイのアユタヤ朝も服属させる。

バインナウン王死後はまたもや混乱が起こり、タイは独立(この時のタイ国王がナレスアン大王)、1599年後継のナンダバイン王が殺害され、兄弟のニャウンヤン侯が王朝を再建するが、著者はこの再興タウングー朝をニャウンヤン朝と呼んで区別している。

ロン・サヤマナン『タイの歴史』(近藤出版社)や、柿崎一郎『物語タイの歴史』(中公新書)を読んだ時にも思ったことですが、この辺り数百年のビルマとタイの闘争は凄い。

戦いの記述で埋め尽くされる感がある。

アンコール・ワットや国境地帯の遺跡をめぐるタイとカンボジアの紛争と違ってあまり報道もされないが、こりゃ今も相当の軋轢が残ってるんだろうなあと想像してしまう。

1752年モン族の反乱によってタウングー朝滅亡。

同年アウンゼーヤがアラウンパヤー(菩薩)を名乗りコンバウン朝建国、モン族を征服。

1767年スィンビューシン王がアユタヤ朝を完全に滅ぼす。

1824~26年第一次ビルマ戦争、アラカンなど喪失。

1852~53年第二次ビルマ戦争、下ビルマ喪失。

1885~86年第三次ビルマ戦争、コンバウン朝滅亡。

植民地時代と独立期の記述はかなり端折っててあまり有益ではない。

高校世界史ではビルマ史の君主は一人も名前が出てきませんが、以上のうちアノーヤター、タビンシュエティ、バインナウン、アラウンパヤーくらいは覚えましょうか。

煩瑣で面倒と思える部分がかなりあって、少々疲れる。

ビルマ通史としては、古くても鈴木孝『ビルマという国』(PHP研究所)の方がいいんじゃないかと思ってしまう。

ビルマ単独の通史で決定版と言える良書は今のところ無いですね。

未刊の中公新書『物語ビルマ(ミャンマー)の歴史』に期待しましょう。

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石澤良昭 『アンコール・ワット 大伽藍と文明の謎』 (講談社現代新書)

『アンコール・王たちの物語』(NHKブックス)と同じ著者。

タイトルからすると、こちらはアンコール・ワットの建築・美術関係のみを扱った本かとも思うが、きちんと歴史的経緯にもページを割き、一般的通史の形式を一応整えている。

まず一番基礎的なことを確認すると、1世紀に東南アジア最初の国家、扶南が成立するが、これはクメール人の国かマレー系の国かわからない。

6世紀にクメール人がカンボジアを建国し、その中国名が真臘であり、アンコール朝はそのカンボジアの中の一王朝ということになる。

アンコール期の叙述では王の系譜が細かく述べられているが、これを記憶するのはやはり至難の業でしょう。

・・・・・アンコール朝の歴史展開のなかにおいて、何度もの内部分裂と歴史の切断が実際あったことを考えなければならない。はっきり言って、一つのまとまりのある「アンコール帝国」なるものが連綿と存在したとは言いがたい。少なくとも史実に即していえば、前王の系譜と血縁関係のない新王が十八回も登位しているので「アンコール諸王の王朝」とでも言わなければならないし、判明しているだけでも四回の新都城の造営と新寺院の建設が確認できる。

ということを確認しながら読み進めるだけでいいでしょう。

その中で記憶するとなると、9世紀初頭にアンコール朝を創始したジャヤヴァルマン2世、12世紀前半にアンコール・ワットを建設したスールヤヴァルマン2世、13世紀初めにアンコール・トムを完成させたジャヤヴァルマン7世の三人の国王となる。

以上三人の王名だけを覚えて、後は軽く流して通読しましょう。

最初に挙げた『アンコール・王たちの物語』と形式は似通っており、内容もかなり重複しているので、2冊とも読む必要はないかもしれない。

どちらか1冊をしっかり読み込めばよいでしょう。

しかし、両書ともちょっと枝葉の部分が多いと感じる。

中公新書で『物語カンボジアの歴史』が早く出てくれないかなあというのが結論(?)です。

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石澤良昭 生田滋 『東南アジアの伝統と発展 (世界の歴史13)』 (中央公論社)

ごく標準的な、植民地化直前までの東南アジア史。

驚くような面白さや、斬新で蒙を啓かれる思いのするわかりやすさは無いものの、手堅い作り。

まずインド文明の影響で国家形成が進み(ヴェトナムのみは中国の影響とそれからの独立という形で)、民族国家が成立し、モンゴルの侵入があった13世紀を境に主要宗教がヒンドゥー教・大乗仏教から、大陸(半島)部では上座部仏教、群島(島嶼)部ではイスラム教に変化していく(これもヴェトナムは例外で大乗仏教・儒教圏に留まる)。

この大きな流れに沿って、細かな史実を肉付けしていく記述はなかなか良い。

ただ、大陸部の歴史に比べて、群島部の記述がややわかりにくいという感想を持った。

しかしそれは、講談社旧版の東南アジア島嶼部史の永積昭『アジアの多島海』を飛ばし読みした時にも感じたことなので、単に私が苦手だからというだけかもしれない。

最後の章の、18世紀以降のインドシナ半島各国史が駆け足なのもやや気に掛かりますが、総合的には大きな欠点も無く、いい通史だと思います。

具体的史実で私的にノートを取るべき点としては、高校レベルのごく基礎的なことですが、16世紀以降のジャワ島イスラム王朝のうち、マタラム王国が東部・中部、バンテン王国が西部にあり、オランダ東インド会社の根拠地バタヴィアが西部のバンテン王国北部にあったという位置関係を確認。

またパガン朝滅亡後のビルマで、北部の上ビルマではタイ系シャン人のアヴァ朝が、南部の下ビルマではモン人のペグー朝が成立し、それが1531年タビンシュエティー王が建国したビルマ人のタウングー朝によって統一されたことも頭に入れておく。

タウングー朝二代目の王で、タイのアユタヤ朝を一時服属させたバインナウン王とか、そのタウングー朝の支配を覆したアユタヤ朝のナレースエン王とかの主要な王名も、可能ならば本書を使って憶えた方がいいだろうと思います(恥ずかしながら、私自身「どっかで聞いたことあるなあ」というくらいのうろ覚えですが)。

それから『ビルマという国』『タイの歴史』『物語タイの歴史』『アンコール・王たちの物語』『ラオスの歴史』『マレーシアの歴史』『物語ヴェトナムの歴史』『ベトナム民族小史』『物語フィリピンの歴史』などやや細かな各国別通史(別に以上に挙げたもの以外でもいいですが)に進めば理解も深まるでしょう。

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石澤良昭 『アンコール・王たちの物語』 (NHKブックス)

前近代のカンボジア通史というのも、なかなか良いものがないなあと思っていたところ、これを見かけたので読んでみました。

「アンコール」とか「アンコール・ワット」とタイトルについている本だと、観光案内や美術史の記述ばかりだったりすることが多いですが、本書は一般の歴史書としての体裁を具えている。

各国王に触れる際、必ず彼らが築いた都城、寺院、バライ(国力の源である稲作用の巨大貯水池)について細々した説明がなされて、それがやや煩雑な印象を与えるが、そこら辺は軽く流して飛ばし読みでもいいでしょう。

まず紀元後1、2世紀に東南アジア最初の国家でもある扶南が成立。

6世紀末に真臘が成立。これが現在までのカンボジア国家の直接の起源とされているらしい。

ちなみに、この「真臘」って、高校世界史で出てくる歴史用語で多分一番書くのが難しい字でしょうね。

「薔薇戦争」はカタカナで書いてもOKでしょうから。

(それとも、エドワード6世の「一般祈禱(←祷の旧字)書」の方が難しいか?)

8世紀初めには北部の陸真臘と南部の水真臘に分裂。

ジャワのシャイレーンドラ朝(8世紀半ば~9世紀前半)が水真臘を影響下におく。

水真臘王族の一員だったジャヤヴァルマン2世が802年即位し、アンコール朝を樹立。

シャイレーンドラ朝の宗主権を否定、北征を行い国土統一。

宗教は土着信仰と混交したヒンドゥー教が主流。

仏教徒も存在したが、当時は現在と違って上座部仏教ではなく、大乗仏教だったらしい。

12世紀前半在位したスールヤヴァルマン2世がアンコール・ワット建設。

最初はヴィシュヌ派ヒンドゥー教寺院として建てられた。

恥ずかしながら、私はそういう基礎的知識からしてあやふやだった。

北宋および南宋に使節を派遣、李朝大越およびチャンパーと戦う。

1177年チャンパー軍がアンコールを急襲。

1181年ジャヤヴァルマン7世が即位、チャンパー軍を撃退。

都城アンコール・トム建設。

同王は個人としては大乗仏教徒だったが、国家儀礼は依然としてヒンドゥー教バラモンたちの手にあり、13世紀には反仏教運動が起こっている。

以後は衰退期となり、タイのアユタヤ朝(1350~1767年)に圧迫され、1431年頃アンコール都城は放棄され、1434年プノンペンへ遷都。

アンコール放棄によって普通アンコール朝の滅亡と見なされている模様。

他の多くの国王にも触れられており、巻末の「カンボジア古代・中世歴史年表」という非常に良くできた年表を見ながら復習すれば、歴代国王を暗記するのも不可能ではないと思われるが、とりあえず初心者は以上に挙げた3人の王名だけしっかり記憶すればいいでしょう。

内容はまあまあ。

アンコール朝以後からフランスによる保護国化までのカンボジア王国史やその時代の上座部仏教導入の経緯やらを書いてくれればもっと良かった。

ただ最初に書いたように、細かな建築・美術関係の記述はあまり拘らないで読めば、初心者にとっても有益な本だと思います。

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ミルトン・オズボーン 『シハヌーク 悲劇のカンボジア現代史』 (岩波書店)

原著が1994年、翻訳は96年刊行の伝記。

「シアヌーク」というのはフランス語読みで、原語ではタイトル通りの「シハヌーク」が近いそうだ。

ポル・ポト政権による虐殺という最大級の悲劇があるので、小国でありながら関連本の多いカンボジア現代史ではあるが、対象年代とテーマの双方が幅広くて一般的通史として網羅性のあるものを探してみて、これが目に付いたので読んでみました。

1860年アン・ドゥオン王の死去後、二人の息子ノロドム王(在位1860~1904年)とシソワット王(1904~27年)が相次いで即位。

その間1863年にカンボジアはフランスの保護国となる。

シソワット王の後を継いだ息子のモニヴォン王(1927~41年)が死去した際、ノロドム家とシソワット家の継承争いをフランスが裁定し、モニヴォン王の娘とノロドム王の孫スラマリットの間に生まれたノロドム・シハヌーク(シアヌーク)が若干19歳で即位。

当時日本軍の1940年北部仏印進駐、41年南部仏印進駐によってフランス植民地体制が動揺しており、御し易い王として若いシアヌークを選んだという背景があった。

第二次大戦後、シアヌークは共和政を志向する急進独立派や北ヴェトナムの影響を受ける極左派などの圧力をかわしながら、復帰してきたフランスと巧みな交渉を行い、カンボジアを独立へと導く。

このカンボジア独立の年というのがはっきりしない。

46年の暫定協定でフランス連合内での内政自治権を承認され、49年フランス連合内での独立を果たし、53年に司法・警察・軍事権限が委譲され、54年に外交権委譲で完全独立という流れになっている。

本によって以上四つの年代のどれかが独立達成年とされている。

55年父親に譲位しスラマリット王即位、自らは殿下と呼ばれるようになり、人民社会主義共同体(サンクム)という政治組織を結成、王制社会主義というユニークな体制を唱える。

外交面では55年バンドンでのアジア・アフリカ会議出席後、やや中国よりの中立政策を推進し、54年結成の東南アジア条約機構(SEATO)への参加を拒否。

58年に中華人民共和国と外交関係を樹立するが、アメリカの援助も受けいれる。

60年父王が死去すると王位には就かず、国家元首に就任。

しかしカンボジアの中立路線を過度に容共的とみなす東西の隣国、南ヴェトナムとタイ、およびその支援者である米国との関係が徐々に悪化、シアヌーク暗殺未遂やクーデタ計画が起こる。

シアヌーク自身も対米不信を強め、63年にはアメリカの援助を拒否、65年には対米断交に踏み切る。

65年には北爆によってヴェトナム戦争のエスカレーションが進むが、将来ヴェトナムでの共産勢力の勝利は避けられないとみたシアヌークは融和策を取り、カンボジア東部国境での北ヴェトナム・ヴェトコン軍による補給基地建設を黙認する。

この政策には国内の右派勢力が反発し、加えて援助停止と経済建設の失敗、汚職の蔓延で西部農民の暴動、東部山岳民族の反乱が起こり、国内情勢は騒然となる。

シアヌークは国内では左派勢力を激しく弾圧していたが、ポル・ポト(本名サロト・サル)に率いられる極左勢力クメール・ルージュが徐々に不気味な頭角を現してくる。

70年シアヌーク外遊中に、右派のロン・ノル将軍が政権を奪取。

シアヌークは中国の支持を得て、かつての敵クメール・ルージュと共闘関係に入り、75年ロン・ノル政権は打倒されるが、シアヌークに独自の勢力はなく、実質クメール・ルージュの虜囚に等しい存在となる。

このポル・ポト政権下で、農村への強制移住、強制労働、大量虐殺が行われ、カンボジア国民は地獄を見た。

対外的な看板としての利用価値を認められたシアヌーク自身はようやく生き延びるが、子や孫や親族の多くが殺害される。

76年に最大の支援国である中国で毛沢東の死と極左派「四人組」逮捕が起こり、中国内政が穏健路線に舵を切ったことも、ポル・ポト政権がシアヌークを生かしておく決定をしたことに影響があったらしい。

本書でシアヌークに対して厳しい見方をすることが多い著者であるが、クメール・ルージュが勝利した後あれほど極端で残忍な政策を実行するとは誰にも予想できなかったとして、シアヌークの70年から75年の行動に関しては同情的である。

カンボジア国民の激しい反ヴェトナム感情はクメール・ルージュにも共有されており、ポル・ポト政権成立と同じ75年にサイゴンを陥落させ南北統一を達成したヴェトナムとの国境紛争が起こる。

78年末にヴェトナム軍がカンボジアに進攻、79年初頭にプノンペン陥落、親ヴェトナムのヘン・サムリン政権樹立。

国外に脱出したシアヌークはヴェトナム軍追放のため、怒りと嫌悪を押し殺しポル・ポト派と連携、それにソン・サン派を加えた三派で中国・ASEAN・米国の支持を得て82年民主カンボジア連合政府を樹立。

このソン・サン派を、以前私は旧ロン・ノル派と理解していたが、ソン・サン自身は元はシアヌーク経済・財政顧問で後に袂を分かった人物で、冨山泰『カンボジア戦記』(中公新書)によると一部に旧ロン・ノル派系統の人物が参加しているというだけだそうだ。

この後、国際情勢の緊張緩和を受け、89年ヴェトナム軍撤退、91年カンボジア和平協定締結、93年国連監視の下での総選挙を経て、シアヌークの国王再即位、連立政権樹立と相成り、ようやく安定と平和の道を歩むことになります。

なかなか良いです。

カンボジア現代史として過不足の無い記述でわかりやすい。

各章のページ数が短めなので読みやすい。

手堅い入門書としてお勧めします。

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