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湾岸産油国についてのメモ その2

その1に続き、松尾昌樹『湾岸産油国』(講談社選書メチエ)より。

7章「湾岸産油国の未来」。

著者はこれまでも、大学の講義や講演会において、本書の内容と同様の議論を紹介してきた。幸いなことに、受講者の多くはその内容を理解してくれるのだが、最後には決まって一部から同じ質問が出された。「お話はよく分かりました。ところで、湾岸産油国の君主制はいつまで維持されるのですか」と。

当然のようになされるこの質問は、実は大きな問題を含んでいる。すなわち、なぜこのような問いが当然のようになされてしまうのか、ということだ。まさか、アメリカの現代政治に関する講演を聴いた人が、「オバマ大統領の政策はよく分かりました。では、アメリカの大統領制はいつまで続くのですか」と質問することはないだろう。湾岸産油国のような統治体制、経済社会体制が、近いうちに崩壊すると頭から決め付けられているということが大きな問題なのだ。

誤解を招かないように最初に明言しておくと、著者は湾岸産油国の体制転換を前提とすることを否定することで、これらの諸国に対して過度に肯定的な評価を与えようとしているのではない。現地調査を行い、それぞれの「生の」地域の情報を用いて研究活動を行う地域研究者の一部には、自分が研究対象とする地域に対する批判(特に西洋の価値観に基く批判)を受け入れずに、その地域を肯定的に説明する傾向があるといわれる場合がある。中東地域研究者の池内[恵]は、このような傾向に「肯定的本質主義」という名称を与えて説明した。池内によれば、一部の中東地域研究者が、一方では中東地域の社会を批判的に捉える言説を「ヨーロッパ中心主義」や「オリエンタリズム」として退け、他方で中東地域を欧米とは異なる「オルタナティブ」として持ち上げるため、結果として建設的な批判が成立しなくなる状況が生じているとされる。「肯定的本質主義」は批判と賛同をあわせて多くの議論を巻き起こしたが、どちらの立場に立つにせよ、地域研究者は池内の主張を肝に銘じておかなければならないだろう。

非民主的な政治体制が存続することが奇妙な現象であり、そのような現象は近い将来に崩壊するはずだという見方・・・・・に対して著者が懐疑的なのは、それがヨーロッパ中心主義に基いているからではない。・・・・・「崩壊説」に根拠がないと考えられるからで、・・・・・民主化を歴史の必然のごとく捉える必要はないということだ。確かに地球上の多くの君主制は崩壊したが、今日でも非民主的な共和国は多く存在し、また一度は民主化したと評価された国が、その後権威主義化するという事態も確認されている。「民主化するはずだ」という前提は、「民主化して欲しい」「民主化しなければならない」という願望や理想と区別することができず、論理的な考察につながらない。

このように述べるのに加えて、著者は湾岸産油国の現体制の多くがそう簡単に崩壊しないと判断する具体的理由を列挙している。

そのうち、石油枯渇説については、確かに小規模輸出国には脅威であるが、生産量の減少に伴う価格上昇は大規模輸出国にとっては有利な条件であり、そのような状況下では大規模輸出国よりも日本を含む輸入国の方が先に危機を迎えるはずであり、「崩壊説」はより危機の可能性の高い国が低い国の将来を悲観視する奇妙な見方だとしている。

また湾岸諸国の急速な経済成長へのやっかみが「崩壊説」の流行に繋がっているのではないかとも書いている。

奇しくもちょうどこの記事を書いてる最中に、湾岸産油国を含む中東地域で大きな変動が起こっているわけですが、ここで個人的感想を書くと、我々から見て極めて奇異で望ましくない体制であっても、基本的に外部からとやかく言うのは控えるべきだと思われる。

もし圧力をかけて民主化した場合、著者も指摘するように過激なイスラム主義勢力が自由選挙で躍進したり、国内の利害対立が制御不能となり内戦が勃発したり、その後往々にして民主化前の政府よりも遥かに抑圧的な体制ができたりしても、民主化を唱導した外部の人間が責任など取りようもない。

どこかの国みたいに、その時はその時で、再び自由の使徒面で新たな非民主国家を非難するだけで、後は平然としているような厚顔無恥な真似はしない方がいいでしょう。

王制国家ではないものの、最近チュニジアとエジプトで大きな政治的変化がありましたが、世界史を真摯に省みれば「民主化されて全てが目出度し目出度し」なんて単純な物語は全く成り立ちようがないと思うんですが・・・・・。

ムバラク体制を崩壊させた民衆運動を無条件で称揚するような言説に接すると、「その体制の源流である1952年のエジプト革命も民衆の歓呼の声で支持されたんじゃないんでしょうか」と嫌味の一つも言いたくなる。

「中東における民主主義の勝利」が、暴走する民意を基盤にした、別種の新たな独裁政治を生み、五度目の中東戦争の契機になる可能性も十分ある(その場合、頑迷にも和平を拒否してきたイスラエルと、それを放置し中東民主化を安易に称揚した米国は自業自得の大損害を蒙るんでしょう)。

もちろん現体制で国際常識・慣習を超える抑圧があった場合、そこからの政治的難民や亡命者を受け入れるのは正しいことだと思いますが。

それに一支配家系の統治といっても、北朝鮮のような「失敗国家」、全体主義体制とは全く異なるでしょうし。

余談ですが、北朝鮮のことを、国名は「民主主義人民共和国」なのに実態は「金王朝」だと揶揄することがありますが、そういう言い方はあまり感心しません。

本当の前近代的王朝なら、あれほどの悪政を敷く前にとっくの昔に打倒されてますよ。

無制限の自由や平等を追求する運動があり、それが生み出した伝統破壊と無秩序の中から出現した独裁だからこそ、権威主義体制ではありえない、途方もない暴虐を為し得る。

近代においてうんざりするほど多いこの実例の一つであることを思えば、「朝鮮民主主義人民共和国」という国名はある意味適切です。

ついでに言えば、中国の現体制を民主主義に反するとして批判する言説にも実は違和感を感じる。

そもそも人間社会の一切の不平等を永遠に消滅させると称して民衆の相当数の支持を得た狂信的運動から生まれた体制を果たして民主主義という立場で根本から批判できるのかという疑念がまず一点。

特に保守とか右派とかを自称している人々が米国の尻馬に乗って自由や民主主義を絶対視するのを見ると、ちょっと言うを憚るような感情を持つ。

加えて、「あの国が民主化して、本当に大丈夫か」とも正直思う。

言論の自由と民主主義が生み出したカオス状態から、制御不能な内乱や今より遥かに過激なナショナリスト政権がもし生まれたら、真っ先に被害を受けるのは日本ですからね。

それにこの30年間、最低限度の程度の自由が認められたからこそ、中国の民主化運動が広く報道されるようになったとも言える。

つまり、様々な抑圧と制限があるにせよ、民衆が抗議の声を上げ、それが国外で報道されるということは、逆説的だがその国が自由の一切無い完全な全体主義国家でないことを証明している。

改革開放路線以前の中国なら、今存在しているレベルの民主運動家すら、即座に闇から闇へ葬られていたはず。

朴政権の権威主義体制下の韓国と、金日成独裁の全体主義体制下の北朝鮮で、西側のメディアで表面上非難の対象になる頻度は(実際の抑圧度とは全く逆に)、前者の場合が遥かに多かった。

ミャンマー(ビルマ)の軍事政権は、自由抑圧とアウンサン・スーチー氏への扱いに関して、常に国際社会から批判されている(さすがの私もあの体制が結構なものだと言うつもりはございません)。

しかし北朝鮮にはスーチー氏はいない。

いたとしても一日たりとも生存することはできない。

よって、国家の抑圧的性格について、ミャンマーと北朝鮮では極めて大きな差があるはずだが、言論の自由が保証されているはずの国のメディアでその違いが明確にされることは殆ど無い。

中東でも、チュニジア、エジプト、湾岸諸国と、それらより遥かに異常な独裁国家であるリビアとの対比についても上記のような事情がごく最近までは当てはまる。

(リビアでも反体制運動勃発が報道されているものの、映像がここ1、2日くらいまであまり伝わってこなかったことが、表面的イメージとは逆に抑圧の厳しさを窺わせる。カダフィ政権の異常性があまりに際立っているので、私はあの国の体制変換だけは[実現するならば]ほぼ手放しで肯定的に捉えることができると思うが、それも収拾不可能な混乱・内戦とアルカイダ系のテロ組織浸透という最悪の事態が生じないということを前提にしての話。)

私は中国共産党にいかなる意味でも一切好意を持たないが、あの国は事実として全体主義ではなく、すでに権威主義の段階にある。

放っといても長続きしませんよ、あの体制は。

国益を考えず民主化の慫慂を自己目的にするようなことは止めた方がいいと思いますね。

むしろ民主化以後に何が出てくるかを警戒して慎重に対処することを考えた方がいいでしょうし、そもそも自分たちの自由民主主義の現状がそんなに誇るに足るものなのか自省すべきではないでしょうか。

閑話休題。

中々よくまとまっていて面白い。

短いページ数にも関わらず、効用は高め。

知識の不十分な分野を補強するのに十分使える。

岡倉徹志『サウジアラビア現代史』(文春新書)と相互補完できるのも、ちょうど良い。

お勧めします。

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湾岸産油国についてのメモ その1

松尾昌樹『湾岸産油国』(講談社選書メチエ)の記事続き。

第2章の具体的国家形成の叙述より。

まずオマーンから。

この地域ではウマイヤ朝崩壊期の749年以来、イバード派による国家が断続的に存続してきた。

18世紀半ばに現王朝ブー・サイード朝が成立。

この王朝でイマームに就任したのは初代のみ、以後は世俗有力者として統治。

18世紀末以降、イギリス東インド会社および英領インド政府と密接な関係を持つ。

現UAEの湾岸地域では諸勢力が海上交易権をめぐって抗争を繰り広げる。

イギリスはこれら勢力を「海賊」と規定し攻撃、19世紀前半に数度の「休戦条約」を強要したため現状固定化の効果を持つ。

結局19世紀後半に現UAEとバーレーンの首長勢力は実質イギリスの保護国となる。

このため湾岸への勢力拡大の道を閉ざされたオマーンのブー・サイード朝はザンジバルなどに進出し、東アフリカ海上帝国を建設することになる。

(そのことは以前三省堂の世界史教科書の記事でちょっと触れてますね。ただ時期が「19世紀初頭」と書いているが・・・・・・。よくわからん。)

以後オマーンでは継承争いと内乱が続き、衰退、20世紀初めにはここも実質英保護国に。

17世紀半ば、アラビア半島中央部ナジュド地方からアラブ人の一派ウトゥブ族が移動を開始し、カタール・バーレーンを経由してクウェートへ移住。

18世紀後半までにサバーハ家がクウェート支配を確立。

他のウトゥブ族の一部はカタールへ再移住。

1783年カタールのウトゥブ族のうちハリーファ家がペルシアから(年代から判断するとサファヴィー朝の後のアフシャール朝か?カージャール朝は1796年成立。)バーレーンを奪取。

しかし1780年代末からサウード・ワッハーブ王国の攻撃を受け、ハリーファ家はカタールを放棄し、征服したバーレーンへ避難。

カタールではサウード王国、オスマン帝国、復帰を目論むハリーファ家のせめぎ合いの中からサーニー家が台頭。

なお、上記サウード・ワッハーブ王国は1744年頃建国し、1818年エジプトのムハンマド・アリーによって一時滅亡、1823年再建されるが1889年再度滅亡、イブン・サウードが1902年リヤドを奪回して再々建国、1924年ヒジャーズ王国(「フサイン・マクマホン協定」のフサインが1916年建てた国)を滅ぼして、一語加えたヒジャーズ・ネジド王国を建設、それが1932年サウジアラビア王国に改称という流れでしたね。

18世紀末からサウード朝の脅威を受けたクウェートのサバーハ家は19世紀後半オスマン帝国を支配者として承認し自家の実質統治権を得るが、19世紀末には親オスマン政策から親英政策に転換、1899年英保護国化。

カタールのサーニー家もハリーファ家復帰を阻止するため当初はオスマン帝国に頼ったが、これも英国に乗り換え、1913年オスマンは領有権を放棄し英保護国に。

第二次世界大戦後、石油生産が本格化。

まず1961年クウェートが独立。

1968年イギリスがスエズ以東からの撤退を声明。

1967年第3次中東戦争でのイスラエルの圧倒的勝利によってアラブ民族主義の勢いに陰りが見えており、それが急進的民族主義勢力による体制転覆を恐れる湾岸君主国にとっては幸いした。

1971年にバーレーン、カタール、UAE、オマーンが独立。

第2章の歴史的経緯のおさらいをするだけでこれだけかかった。

長過ぎるので、以後の章はかなり端折ります。

本書副題にもある「レンティア国家仮説」とは、外生的で非稼得性の高い収入(レント収入)が国内経済に密接に関係しない形で直接政府に流入することで租税収入に依存しないレンティア国家が成立し、そこにおける国民はアメリカ独立運動の標語をもじって言えば「課税なくして代表なし」という状態に置かれ、それが湾岸諸国において経済発展が民主化に結びつかない状況を説明するというもの。

我々の一般的イメージからすると、こういう国家には当然あまりいい印象を持たないが、著者の視点はあくまで中立的。

次に「王朝君主制」。

これは通常の君主制とは区別された概念。

君主が単独で統治するのではなく、支配家系が君主と一体になり、内閣の要職、特に首相・内務相・防衛相など「主権の諸省」を占めて統治する形態のこと。

これは支配家系内部で交渉によるポストの配分を行うことにより内部紛争を抑止し、外部からの脅威には団結して対抗する分、強靭な体質を持っている。

中東に過去存在したが現在は崩壊したエジプト・イラク・リビア・イラン・アフガンの君主制と湾岸産油国の王朝君主制が対比して検討されている。

現在、中東の反政府運動の波に湾岸諸国も洗われているわけですが、果たしてどうなるか・・・・・・?

「国民統合」について言えば、君主と国民の間には、石油・天然ガスによるレント収入だけでなく、「国史」や文化がやり取りされ、それが既存の体制維持に貢献している。

著者は各国の公定の「国史」について、その恣意性を指摘しつつも、それが一方的強制や意志に反した服従であるとは断定できないと慎重な留保を付け加えている。

「エスノクラシー」、多数の外国人労働者が在留しているが、自国民とは極めて大きな賃金格差があり、両者間の交流もほとんど無く、同化も全くありえない状態。

当然予想されるように外国人労働者の権利が侵害される例がしばしば伝えられる。

各国政府は自国民をまず公的部門で雇用し、民間部門では高い待遇で雇用されるよう「自国民プレミアム」を適用している。

この章での著者の筆致は他の章と比べてもやや厳しく感じられる。

しかし外国人労働者の数が極めて多い分、その置かれた状況にも大きな差があり、外国人労働者の生活をあまりに悲惨一辺倒で描くことは誤解を招くかもしれないと、註で記している。

また少子高齢化が進む日本で人口を維持するため大規模な移民を受け入れた場合、湾岸産油国のように労働人口の半分が外国人で占められるような事態が起こり得るというデータを示して、その時日本人は外国人と対等の立場を受け入れるだろうか、それとも「自国民プレミアム」を要求しないであろうか、と問いかけている。

こういうふうに、批判的観点は維持しつつも、一方的な論難や糾弾になっていないところは、本書の大きな長所だと思います。

最後の一章が残ってますね。

引用したい少し長めの文章があるので、また次回に続きます。

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松尾昌樹 『湾岸産油国  レンティア国家のゆくえ』 (講談社選書メチエ)

イスラム・中東史の本は何と一年ぶりですか。

ただでさえ手薄なカテゴリなのに・・・・・。

しかし最初の頃はもっと酷かった。

本書はペルシア湾南岸、アラビア半島北東部にある湾岸産油国についての概説。

純粋な歴史書とは言えないが、少しでも苦手分野を補強するために通読。

取り扱われる国はクウェート(クウェイト)、バーレーン(バハレーン)、カタール(カタル)、アラブ首長国連邦(UAE)、オマーンの五ヵ国(サウジアラビアは含まれない)。

産油国であることの他に、君主制を敷いていることなどの共通点がある。

まず位置関係を頭に入れないとどうしようもない。

ペルシア湾の一番奥に位置し、イラクとサウジに挟まれるのがクウェート。

首都はクウェート市。

国名と首都名が同じなのは、シンガポールのような都市国家やヴァチカン市国のようなミニ国家を除くと、このクウェートのほか、メキシコ・メキシコ市くらいか(あとルクセンブルク?)。

私の世代だと、この国は1991年湾岸戦争のせいで絶対忘れない国になった。

そこから南東へ大分下がって、ペルシア湾の真ん中あたりでアラビア半島から突き出た小半島にある国がカタール(首都ドーハ)。

その西側に浮かぶ小さな島国がバーレーン(首都マナーマ)。

さらに外洋に向かって進み、アラビア半島から角が突き出て最も狭いホルムズ海峡を形作っているところにあるのがアラブ首長国連邦(UAE)、その東でインド洋に面する比較的広い国がオマーン(ただし上記角の最先端部分はオマーンの飛び地になっている。これは本書の地図を見るまで気付かなかった)。

UAEの首都はアブダビ、他の都市ではドバイが最近では有名か。

オマーンの首都はマスカト(マスカット)。

各国の概略を述べると、クウェートはサバーハ家が支配家系。

バーレーンはハリーファ家。

この国でシーア派人口が6、7割と多数派を占めることは、桜井啓子『シーア派』(中公新書)で読んだ。

それへの配慮からか、少し前の新聞の国際面で湾岸君主国の中では例外的に、最近イランに宥和姿勢を取っているみたいなことを読んだ記憶があるが、うろ覚えです(それともカタールだったかな?)。

カタールはサーニー家支配。

衛星TV局アルジャジーラが本拠を置いていることでも有名。

UAEは七つの首長国の連合だが、アブダビとドバイを覚えるだけでいいでしょう。

アブダビはナハヤーン家、ドバイはマクトゥーム家統治。

石油資源はアブダビに集中、ドバイは金融・不動産・観光・中継貿易などで開発が進んでいたが、先年バブル崩壊と「ドバイ・ショック」があったのは御記憶の通り。

オマーンはこの地域では最大の領土と人口を持つがその分開発は遅れている。

上記の国の支配層がスンナ派であるのに対し、この国はイバード派が6割を占める。

イバード派については菊地達也『イスラーム教 「異端」と「正統」の思想史』(講談社選書メチエ)でちょっとだけ出てきました。

イスラム最初の分派でアリーとムアーウィヤの双方を敵視したハワーリジュ派の生き残りということでした。

当たり前過ぎることを書きますが、セム語族のアラブ人と印欧語族のペルシア人とアルタイ語族のトルコ人の三者の絡み合いの中でイスラム以後の中東史は理解すること。

五ヵ国ともアラブ民族が主流派で当然アラビア語を話す。

シャイフ(首長)、スルタン、マリク(王)などの称号を持つ君主制国家。

石油輸出収入への依存が大きく、人口は少ない。

最大のオマーンでも178万、バーレーンに至っては40万。

これに対し、サウジは2200万、イラクは3000万、イランは7000万の人口を抱える。

また外国人労働者が極めて多く、人口の半ば以上を占める国もある。

経済的豊かさは特筆すべきものがあり、一人当たりGDPでは、クウェートは日本と同じ、カタールは2倍強に達する。

ここまでが第1章の概略的部分。

第2章で「国家形成への道のり」と題し、湾岸諸国の歴史を略述し、続く3、4、5、6章で「レンティア国家仮説」「王朝君主制」「国民統合」「エスノクラシー」という四つの分析点を叙述、最後の第7章「湾岸産油国の未来」で近未来の事態を検討という構成。

第2章において、まず中東に存在する君主国はイスラム誕生以後古くから起源を持つものではなく、存外「新しい国」で歴史の浅いことを指摘。

湾岸五ヵ国に加え、サウジ・ヨルダン・モロッコのうち、モロッコ・オマーンを除けば、成立はすべて19~20世紀。

そもそもイスラムの教義は君主制を積極的には認めない。

スンナ派にとっての指導者はムハンマドとその後継者であるカリフのみであり、それ以外の統治者について積極的に正統性を付与する教義解釈をイスラム法学者は生み出さず、事後承認的に認めただけ。

シーア派にとってはアリーの子孫のイマームのみが指導者であり、イバード派は信徒集団が選出したイマームがそう見なされる。

それに比べれば、既存の地上の権威を神が定めたものとしてそれへの服従を説き、神寵帝理念や王権神授説を生み出したキリスト教の方が君主制に余程親和的に思える。

だからイスラム教が退嬰的で、世俗の権力への屈従を強い、専制政治を容認するというのは当然偏見ということになる。

しかし地上の権威を認めず、信仰に直結した権力しか認めないというのは逆にイスラムの弱点であり、それが結果として秩序ある自由を妨げ専制を生み出してしまう一因なのではないかとふと思った。

もちろんこんなのはただの素人の思いつきに過ぎませんが。

あー、またですね。

ごく普通の厚さの本で複数記事を書きます。

1000記事目まで、多分こんな感じになると思います。

(追記:続きは以下

湾岸産油国についてのメモ その1

湾岸産油国についてのメモ その2

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シーア派についてのメモ その2

前回に続き、菊地達也『イスラーム教 「異端」と「正統」の思想史』より。

第7章。

アッバース朝時代、政権による弾圧で、イマームの召喚と幽閉が続く。

11代イマーム没後、息子の12代イマームが幽隠ののち、マフディー(メシア)として再臨すると信じるのが12イマーム派。

実在が確認できるのは11代イマームまでで、12代目の息子の年齢や名前をめぐって対立があり、小分派が乱立、現在の12イマーム派も当初はそうした一分派の一つだった。

10世紀はブワイフ朝とファーティマ朝の支配によって、「シーア派の世紀」とも言われる。

そのうち、ファーティマ朝の創始者は、イランでイスマーイール派に属していたアブドゥッラー(通称ウバイドゥッラー)。

当初はイスマーイールの息子の代理人を名乗り、各地で教宣組織をつくり、地下活動を続けるが、のちにイマームは自分自身であると宣言。

この主張切り替えが、元のイマームからの委任に基づくものなのか、それとも実は自身がイスマーイールの血統に属することを根拠にしたのか本書では明確に記されていないようなので、わからない。

この方針転換を受け入れず、激しく反発した一派がカルマト派と呼ばれる。

ウバイドゥッラーは北アフリカに逃亡後、909年チュニジアにファーティマ朝を建国。

12イマーム派のブワイフ朝が、946年バグダードに入城してからも現実主義を採り、アッバース朝カリフの権威を認め、自らは大アミール位についただけなのに対し、ファーティマ朝は自らカリフを称し、アッバース朝の完全な打倒を目指す。

第4代カリフ、ムイッズの治世である969年エジプトを征服、のちにメッカ・メディナの二大聖地やシリアも版図に入れるが、ブワイフ朝はカルマト派と同盟、イラクのアッバース朝までは到達できず。

このころには過激なメシア主義は後退し、既存のイスラム法尊重が主流になるが、第6代カリフ、ハーキムを神格化したドゥルーズ派などの揺り戻しも見られた。

11世紀に入ると、ガズナ朝君主マフムードやセルジューク朝によるスンナ派の反撃が始まる。

第8章。

以上のシーア派各派に対抗して、多数派が自己認識を形成した結果生れたのがスンナ派。

スンナ派とシーア派は、結局、指導者論以外では教義上大きな違いは無い。

スンナ派が、個人の無謬性を預言者ムハンマドのみに認め、以後は宗教共同体全体の一致、ウラマー全体の合意を無謬としたのに対し、シーア派はムハンマドに加え、その子孫のイマームを無謬とした。

第9章。

シーア派内分派について。

イスマーイール派から分離したニザール派がイランに移り、いわゆる「暗殺者教団」に。

ドゥルーズ派とアラウィー(ヌサイリー)派は現在シリアとレバノンに居住。

両者ともイマームだけでなく一般信徒の輪廻を信じ、コーラン以外の聖典を保持する特異性がある。

ドゥルーズ派はレバノンにおいてマロン派キリスト教徒、スンナ派イスラム教徒と並んで宗派別権力分配に預かるグループとして、他の本でよく名前が出てくる。

アラウィー派は、1970年以来シリアで政権を握ったハフェズ・アサド、および2000年その跡を継いだバッシャール・アサド父子が属する宗派として有名。

現在ではイエメンのザイド派にのみ政治権力を掌握するイマームがいる、と書かれているが、外務省の各国情勢で確認すると、イエメンが南北に分かれていた頃、北イエメンは元王国だったが共和政に変わり、南イエメンはソ連に接近し人民共和国を名乗っていて、それが冷戦終結後の1990年に統一されて現在も共和国とのことなのだが、それじゃあこのイマームというのは何なのだろう・・・・・?

制度上、君主ではないが、そうした宗教的存在がいるということか。

よくわかりません。

(追記:最近の北部での内戦について、以下の文章を見つけた。)

ル・モンド・ディプロマティーク  「イエメンの危機的状況」

やっとこさ、とりあえず終わりました。

最後、「おわりに」であった、原理主義についての文章が面白かったので、以下に引用。

長期にわたって学者たちが積みあげてきた学問的成果を軽視し、聖なるテクストを直解しようとする姿勢は、結果的には学問的に精密な分析よりは素人的で主観的な聖典解釈を生みだしがちである。その結果、本人たちの意志に反して、彼らの解釈は近現代の状況に縛られる。クルアーンやスンナを理解しようとする際、古典期までの学者たちは伝承資料に対して大いに批判的な精神を見せていたが、そのような批判精神は原理主義者には希薄である。時代状況への依存度が高く、主観性の強い原理主義の思想は、原点回帰を訴えてはいても、実際には近現代の状況の中で選び取られた、イスラーム教理解の一つのヴァリエーションでしかない。

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シーア派についてのメモ その1

先日の菊地達也『イスラーム教 「異端」と「正統」の思想史』の内容メモ続き。

第4章。

ムハンマド・バーキル→ジャアファル・サーディク父子を支持するのがイマーム派で、12イマーム派とイスマーイール派に分かれる。

ジャアファル死去時、息子たちのうち、父より先に死去していたイスマーイールを支持したのがイスマーイール派、ムーサーを支持したのが12イマーム派。

ウマイヤ朝末期からアッバース朝初期にかけて、ムハンマド・バーキルとジャアファル父子はメディナで学究生活を送り、イマーム派の「信仰隠し(タキーヤ)」論の根拠となる。

これは少数派であるシーア派が現在まで存続する上で有益だったが、一方同時期に多数派に反抗し蜂起を繰り返していたザイド派などからは非難されることもあった。

イスラム教が厳格な一神教で、キリスト教徒がイエスを「神の子」と呼ぶのを非難し、預言者ムハンマドもあくまで人間であるとしていることは高校教科書にも出てきますが、この時期のイマーム派の中からは、精神的指導者尊崇の一線を越えてイマームを文字通り神格化したり、イマーム間の神霊の輪廻を信じたり、真理を会得したものによる既存のイスラム律法の軽視・廃棄を認めるような極端派が生れる(だが、これらはシーア派主流からは排除されていく)。

第5章。

イスラム教内のメシア思想。

省略。

第6章。

750年アッバース朝成立。(この年代は当然絶対暗記事項。結局ウマイヤ朝は100年続いてない。)

中央アジア・ホラーサーン地方でアブー・ムスリムがシーア派勢力の支持を得て蜂起したのがアッバース革命の始まり。

イブン・ハナフィーヤの息子がアッバース家の人間をイマーム後継に任命したとの伝承がつくられ、シーア派のうちカイサーン派をアッバース家が乗っ取る形になる。

第2代カリフ、マンスールの時代にアッバース朝とシーア派は決裂を迎える。

ハサン家の武装蜂起は鎮圧され、首謀者は処刑。

ファーティマを通じた預言者の血筋を何より尊ぶシーア派勢力に対し、マンスールは女系相続はありえず、アリーの父アブー・ターリブは結局改宗しなかったのに対し、同じくムハンマドのおじのアッバースはムスリムとなり預言者に親しく協力したゆえに、ムハンマドの継承権はアリー家ではなく、アッバース家にあると反論。

アッバース朝初期のこの時点で、王朝正統性の根拠が当初のシーア派的イマーム継承から、アッバース家の血統に変更されている。

その後、第3代マフディー、第5代ハールーン・アッラシード時代に、統治の根拠はイスラム法を護持・執行することに再度変更され、血統主張は後退。

多数派ウラマーの支持を得るため、正統カリフとして(アッバース家でないのはもちろんハーシム家出身でもない)アブー・バクルとウマルの権威を認める。

アリー家からはアリーを認めハサンを外し、ウマイヤ家からはウスマンを認めムアーウィヤを外す。

これで我々の知る四人の正統カリフとなる。

こういう認識は、できる限り支持基盤を広げるための妥協の産物だったのだろうと推測される。

まだ終わらない・・・・・。

次回に続きます。

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菊地達也 『イスラーム教 「異端」と「正統」の思想史』 (講談社選書メチエ)

09年8月刊。

ムハンマドの死から11世紀ごろまで、シーア派の成立過程を丹念に追ったイスラム思想史。

タイトルが与える印象と異なり、難解な教義関係を微細に見るのではなく、一般的イスラム通史に触れながら一歩一歩話を進めていくので、非常にわかりやすい。

高校レベルからでも十分ついて行ける記述なので大変助かる。

初心者が是非消化しておくべき本と言えます。

と、全般的評価を済ませた後、以下、各章ごとの内容メモ箇条書きです。

第1章。

まず、基本事項として、預言者ムハンマドの家系と親族関係をチェック。

ムハンマドは、セム系アラブ民族クライシュ族の中のハーシム家に属する。

初期のカリフのうち、アリーはムハンマドの叔父アブ・ターリブの子で、ムハンマドのいとこ、アブー・バクルとウマルはクライシュ族の別の家、ウスマンはクライシュ族のウマイヤ家。

第3代正統カリフのウスマンがウマイヤ家出身なのは、高校世界史レベルだと盲点なので要記憶。

23ページの系図によると、ウスマンの父とアブー・スフヤーン(ウマイヤ朝初代カリフ、ムアーウィヤの父。初期布教期にムハンマドを圧迫した中心人物。)がいとこ同士なので、ウスマンとムアーウィヤは「はとこ」に当たるのか。

ムハンマドの子供のうち、男子はすべて夭折、ファーティマという娘が一人いるだけで、彼女がアリーと結婚。

ムハンマドのおじアッバースから始まるアッバース家はハーシム家に収まる。

これだけは押さえておかないと、話が繋がらない。

なお、正統カリフとはスンナ派にとっての「正統」で、シーア派はアリー以前の3人は簒奪者と見なす(ただし後述ザイド派などの例外あり)。

スンナ派のカリフとシーア派のイマームの区別。

カリフは血筋はあまり重視されず、前任者の指名または選挙で選出、政治と軍事の権限のみを持ち、宗教的権限はウラマー(学者)が持つ。

イマームはアリー家の血統と父子指名を最重視、共同体の統治者であるだけでなく、精神的にも絶対的指導者。

しかしアッバース朝期までは、宗教解釈権を行使したカリフも多かったとのこと。

このカリフ権限の説明ですが、大昔の高校世界史だと「カリフ=政教両面の指導者」、「スルタン=政治面のみの指導者」と習った記憶があり、整合しませんが私の習ったのは古い説なんでしょうねえ。

656年ウスマンが軍の反乱で殺される。

これがイスラム教徒による初のカリフ殺害(644年ウマルはキリスト教徒に暗殺された)。

アリーがカリフに登位するがシリア総督ムアーウィヤはこれを認めず、ムハンマドの寡婦アーイシャ(アブー・バクルの娘だったか)と教友ズバイルおよびタルハは反乱を起こし、第一次内乱始まる。

アーイシャらは鎮圧され、ズバイルとタルハは敗死。

アリーはイラクのクーファに移動しムアーウィヤと戦うが、657年スィッフィーンの戦い後、一時和議成立。

これを非難する一派がアリー派から分離、初の分派ハワーリジュ派成立。

ムアーウィヤだけでなく、それまでの指導者アリーをも悪と見なす極端な善悪二元論と攻撃性を持つ宗派で、アリー軍と戦って惨敗した後も、活動を続け暗殺者を派遣、ムアーウィヤ殺害は失敗するがアリー暗殺に成功、この661年をもってウマイヤ朝成立となる。

ハワーリジュ派はウマイヤ朝治下でも武装蜂起を繰り返し、弾圧を受け、現在では他派に比較的寛容なイバード派がオマーンに居住するのみ。

イスラム教を大きく分ける場合、スンナ派・シーア派にこのハワーリジュ派を加えるのが正確な言い方らしい。

第2章。

正統カリフのうち、ハワーリジュ派はアブー・バクルとウマルの権威のみ認め、他派にも同じ立場を採るものあり。

シーア派はアリーのみ。

シーア派以外ではアブー・バクルとウマルを否定するものはいないが、初期の伝承ではウスマンの失政をあけすけに語っているものもあり、「四代の正統カリフ」はアッバース朝以降の理解。

第3章。

アリー死後、ファーティマとの子ハサンがカリフ即位を宣言するが、ムアーウィヤとの交渉を経て、ハサンはメディナに隠遁。

ウマイヤ朝は、正統カリフ時代を終わらせ、有力アラブ部族のみを特権化した不平等な政治を行ったので、シーア派のみならずスンナ派からも後世の評価は芳しくない。

ムアーウィヤが死去し、ヤズィードが即位すると、ハサンの弟フサインがこれに反抗、メディナからクーファに移ろうとして、680年カルバラの戦いでウマイヤ朝軍に敗れ戦死。

兄のハサンがシーア派の静観主義、弟のフサインが行動主義・殉教主義を象徴。

683年アブドゥッラー・イブン・ズバイル(上記アーイシャ反乱の同志ズバイルの息子)がメッカでカリフ位を宣言。

685年クーファのシーア派勢力によるムフタールの乱。

ムフタールは、アリーがファーティマ以外の妻ともうけた子ムハンマド・イブン・ハナフィーヤを担ぎ、政治党派ではなく宗教宗派と言える初のシーア派集団、カイサーン派を創始。

初期のシーア派では、現在消滅してしまったこのカイサーン派が最大勢力となる。

アラブ社会は基本的に男系社会なので、ファーティマを通じてムハンマドの血統が流れていることが当時は後世のようには重視されず、アリーの息子であることが主に強調されたため、ファーティマの子ではないイブン・ハナフィーヤが旗印に成り得た。

イブン・ズバイルはムフタールとは対ウマイヤ朝で共闘せず(父のズバイルがアリーに敗死しているので当然だが)、反シーア派の立場。

シリアのウマイヤ朝、イラクのムフタール、アラビア半島のイブン・ズバイルと、この第二次内乱は三つ巴の様相を呈するが、イブン・ズバイルがムフタールを覆滅した後、692年ウマイヤ朝第5代カリフ、アブド・アルマリクがイブン・ズバイルを倒し、内乱を終結させる。

(アブド・アルマリクの息子がウマイヤ朝最盛期カリフのワリード1世。ヤズィードの子で直系が途絶えて、ウスマンのいとこの系統にカリフ位が4代目から移っている。)

この内乱の期間、フサインの息子ザイヌルアビディーンはメディナで隠棲。

その二人の息子のうち、ザイド・イブン・アリーはウマイヤ朝末期に反乱を企て処刑され、もう一人の息子ムハンマド・バーキルは父と同じく静謐のうちに過ごす。

ザイドを支持したのがシーア派内のザイド派で、フサイン家だけでなくハサン家子孫にもイマーム継承権を認めるのが特徴。

アッバース朝時代になり、ハサン家出身イマームを擁したザイド派の反乱が、第2代カリフ、マンスールに弾圧される。

ザイド派は非シーアの多数派に支持を広げるため、「劣位のイマーム」の概念を導入、シーア派内では例外的に、正統カリフのうちアブー・バクルとウマルの権威を認める。

ザイド派はのちに北アフリカにイドリース朝(東京書籍『世界史B』に少しだけ記述有り)を建設、現在はイエメンに存在。

(上記ハワーリジュ派の現在居住地オマーンとイエメンは同じアラビア半島の端にありますが、位置関係は大丈夫でしょうか?「馬鹿にするのもいい加減にしろ」「低水準のお前の感覚でものを言うな」と言われそうですが。)

非常に内容の濃い本で、この際メモしとこうと思う部分が多いので、3章まででこの有様です。

続きは後日。

(追記:続きは以下

シーア派についてのメモ その1

シーア派についてのメモ その2

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坂本勉 鈴木薫 編 『イスラーム復興はなるか (新書イスラームの世界史3)』 (講談社現代新書)

1巻2巻であれこれ文句を付けた本だが、結局シリーズ全巻読むことになってしまった。

叙述範囲は、中東・イスラム圏の近代の開始を画した1798年ナポレオンのエジプト遠征から始まるのは定番だが、終わりは本書が出た1990年代前半まで行かずに、実質1920年代まで。

トルコ、アラブ、イラン、中央アジア、と地域別の章が四つ続いた後はメッカ巡礼とネオ・スーフィズムというテーマ的な章が挟まって、最後に全巻の結言が入るという構成。

第1章オスマン帝国。

50ページほどで、衰退期のオスマン朝史を手堅くまとめてあるが、特筆すべき点は無く、ごく普通の記述。

しかし相変わらず在位したスルタン名と主要史実を結びつけて憶えていないことにショックを受ける。

高校時代からこの辺苦手なんですよ・・・・・。

今更だが、復習すると1789年フランス革命勃発と同年即位したセリム3世が、西洋式新軍隊ニザーム・ジェディットを創設、ナポレオンのエジプト侵攻、1803年ワッハーブ王国のメッカ占拠、ムハンマド・アリー自立など国難が続く中、守旧派によって廃位。

マフムト2世(在位1808~39年)、1821~29年ギリシア独立戦争、1826年イェニチェリ全廃、エジプト・トルコ戦争(第1回・1831~33、第2回・1839~40年)。

アブデュル・メジト1世(1839~61年)、タンジマート開始(ムスタファ・レシト・パシャ)、1853~56年クリミア戦争。

アブデュル・ハミト2世(1876~1909年)、この人が実質最後のスルタン、ミドハト憲法、露土戦争、パン・イスラム主義、青年トルコ革命。

以上四人のスルタンは憶えましょうか。

本書ではタンジマート改革は、中国の洋務運動、日本の明治維新、タイのチャクリー改革に先立つ非西洋世界の近代化運動として評価されており、ムハンマド・アリー治下のエジプト、フランスに植民地化されたアルジェリア、独立運動が続くバルカンを除く、帝国本拠のアナトリア、シリア・イラク・ヒジャーズ・イエメン・ペルシア湾岸・リビアにおいて再集権化に成功したと述べられている。

ただし、この時代のオスマン帝国の政治家たちは、外交面ではヨーロッパ列強と互角に渡り合う能力を持っていたが、明治日本の指導者に比べて経済への関心が薄く、「タンズィマート改革は殖産興業策とそれによる富国策を欠く強兵策であり」、改革の財源を安易に外債へ依存したことが、財政破綻と列強への経済的従属に繋がったとも書かれている。

第2章アラブ世界。

近現代のアラブの政治運動における理念として、イスラム主義・アラブ主義・国民主義の三つを挙げ、それぞれがどの地域・時代で有力だったかを述べている。

例えば、ムハンマド・アリー朝治下のエジプトは国民主義に基づく国家建設とされ、1952年のエジプト革命はそれをアラブ主義に切り替えたことを意味すると解釈される。

その他、シリアやイラクがアラブ主義に向かったのに対し、帝国辺境部のアラビア半島・スーダン・マグリブではイスラム主義が有力(ワッハーブ派・マフディー運動など)。

第3章イラン。

ここも特に無し。普通。

カージャール朝がこの時代の主要舞台になるが、この王朝は建国が1796年。

まさに西洋列強の本格的進出が始まろうかという時点で建国された王朝としては、他にタイのチャクリー朝(1782年~)、ヴェトナムの阮朝(1802~1945年)がある。

カージャール朝は1828年トルコマンチャーイ条約でロシアに治外法権を認め、アルメニアの大半を割譲しているから、盛期というほどの時期もなく、建国後すぐに衰退期に入っている観がある。

第4章中央アジア。

18世紀前半、カザフの遊牧民は西から小オルダ、中オルダ、大オルダの三つの部族連合に分かれており、東から仏教徒でモンゴル系のジュンガルの攻撃に脅かされて小・中オルダがロシアへの帰属を誓約したのが、ロシア支配の始まり。

1820年代に入ると小・中オルダのハーン権力に替え、ロシア統治導入、大オルダも南からのコーカンド・ハン国の脅威を受け、ロシアに服従。

以上のみメモ。

第5章メッカ巡礼と周辺地域。

聖者・聖地崇拝をイスラムが禁じたはずの偶像崇拝として激しく排斥するワッハーブ派の攻撃を受けたスーフィズム(イスラム神秘主義)教団が自己変革を遂げて、メッカのイドリース教団、中央アジアのナクシュバンディー教団などが生まれ、それらがヨーロッパの進出への抵抗運動を組織する様を描写している。

最後に全巻の結語。

特に感想無し。

全巻読んでもやはり、あんまり良いとは思えない。

中公新版全集の『イスラーム世界の興隆』を読んだ時のような爽快感と充実感が無い。

大きな欠点も無いとは思うが・・・・・。

紙数が少なくて、興味を持たせるエピソードや挿話の類いに乏しい。

手堅い教科書的著作という感じで、あまり記憶に残らない。

類書の少ないイスラム史入門書としては、まだしも貴重で有益としておくべきなんでしょうが。

積極的にお勧めする気はあまり起こりません。

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ジョン・エスポジト 編 『オックスフォード イスラームの歴史 1 新文明の淵源』 (共同通信社)

原著は1999年刊、この翻訳は2005年刊。

全3巻で、ムスリムと非ムスリムの著者が入り混じっている。

例によってイスラム史を補強するために適切な本を探していたのだが、ネームバリューがありそうで内容もしっかりしていそうな本書を見つけたので手に取った。

この第1巻の目次を見ると、普通の政治史は第1章のみで、あとは広い意味での文化史に当てられている。

以前の私だったら、「ああこりゃ駄目だ、向いてない」といって即投げ出しているところだが、最近は少しは忍耐力が付いてきたので、とりあえず読み始める。

最初の100ページ弱がムハンマド以前のアラビアから13世紀のモンゴル侵入とアッバース朝滅亡までの政治史の素描。

この部分は非常に良く出来ている。

紙数からしてそれほど細かな固有名詞や説明は出てこないが、それでもよく整理された見通しの良い記述。

ムハンマドの統治とカリフ制の成立、地域ごとの諸王朝の系譜という、通史の一番基礎的な部分をわかりやすく提供してくれるので、非常な好印象を受ける。

第2章はイスラムの基礎的な教義と戒律についてあれこれ書いてある。

よくわからない部分もあるが、まあこんなもんかと流す。

第3章はイスラム法。

よく知られたシャリーアという言葉の他に、フィクフという用語が出てくる。

これはシャリーアを元にした「上部構造」としての実定法というくらいの意味らしい。

(定義が不正確かもしれないが、うまく読み取れない。)

コーランとスンナ以外に何を法源として認めるかといったことによって、『ビジュアル版イスラーム歴史物語』の記事で触れたような、ハナフィー派・マーリク派・シャーフィイー派・ハンバル派といった四大法学派が分かれていて、それぞれの学派の立場が説明されており、読んでるときは「あー、はいはい」と比較的楽に理解はできるが、その特徴をいちいち覚えるのはやはりつらい。

要はハンバル派が一番厳格で、今の言葉で言えば「原理主義的」ではあるが、一方柔軟な一面も持っていたみたいなことが書いてある(と思う)。

第4章は科学・医学・技術史。

前章にも増してわからない。

天文学やら暦やらに関する説明は私の頭では全く理解できずチンプンカンプンなので、全部飛ばし読み。

適当で表面的な感想だけ書くと、高校世界史レベルでも思ったことだが、イスラム文化史で出てくる人たちというのは多分野に通じていて何が専門なのかわからない人が多いなということを再確認。

この章の最初の節でプトレマイオスの『アルマゲスト』を吸収・発展させたイスラム天文学の成果が扱われているが、ビールーニー(2002年版『世界史B用語集』で頻度1、『インド誌』の著者としてのみ触れられている)、フワーリズミー(代数学)、イブン・シーナー(アヴィケンナ・『医学典範』・哲学)、イブン・ルシュド(アヴェロエス・医学・哲学)が天文学者として出てくるし、そこでは出てこないがオマル・ハイヤームも詩集『ルバイヤート』の著者であると同時に暦の制定者(と数学者)でもある。

第5章は美術と建築。

さらにわからない。

全然興味もない。

徹底して読み飛ばして挫折するのだけは避ける。

イスラムで偶像崇拝は禁じられていたが、人物画像自体は当初タブー視されておらず、私的な生活領域では作成・鑑賞されていたが、徐々にヨーロッパ人がアラベスクと呼ぶ、植物に題材をとった幾何学的文様に変化していったとか何とか、そんなことが書いてあるのか?

すみませんが、わからないので飛ばします。

第1章はなかなか面白かったのですが、以後は予想通りかなりきつかった。

私のような趣味・性向でない方にとって良質な入門書と言えるかどうかとなると・・・・・・。

ちょっとよくわからない。

歯切れが悪くて申し訳ありませんが、本書についての評価は留保させて頂きます。

2巻・3巻を読むかどうかも現時点では決めてません。

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横田勇人 『パレスチナ紛争史』 (集英社新書)

200ページほどの簡略な戦後パレスチナ通史。

著者は日本経済新聞の元カイロ支局長。

2004年5月初版なので、01年の9・11テロや03年のイラク戦争についての記述はあるが、それ以降のPLO議長アラファトとイスラエル首相シャロンの死などには触れられていない。

外務省HPで確認したら、アラファト死去は04年11月なので、寸での所で間に合わなかったようだ。)

ジャーナリストが書いた本らしく、今世紀(21世紀)に入ってからのごく最近の出来事に多くの紙数が割かれている。

ユダヤ人の歴史とイスラエル建国から1980年代末までの経緯は第1章で扱われている。

50ページほどの分量なので、あくまで概略に過ぎないが、最低限必要な史実には触れられており、まあよく整理されていて良い方だと思う。

それから、1987年第一次インティファーダ(民衆蜂起)開始、91年湾岸戦争とマドリード中東和平会議、93年オスロ合意(パレスチナ暫定自治協定)、95年ラビン首相暗殺、00年第二次インティファーダというように記述は進む。

本書の刊行からでも5年が経ち、時事的著作としてはやや時代遅れになってしまいましたが、村松剛『血と砂と祈り』(中公文庫)藤村信『中東現代史』(岩波新書)の記述の後に繋げて読む本としては十分使えると思います。

あと、本書の特徴として、イスラエル・パレスチナ双方の主張をよく聞き、一方に偏した立場を取っていないことが挙げられます。

この分野はとにかく政治的対立が余りに先鋭なので、当事者間はもちろん、学者やジャーナリストでも党派的立場に囚われがちですが、著者の筆致は双方に批判と同情を併せ持つといった感じで、かなり公平だと感じました。

オスロ合意から2000年以降の和平交渉挫折までの期間が省略気味だったりするのがやや欠点かと思いますが、現代史の空白を埋める本として有益です。

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鈴木董 編 『パクス・イスラミカの世紀 (新書イスラームの世界史2)』 (講談社現代新書)

かなり前に第1巻を読んだ後、そのまま放置してあったシリーズの続巻。

13世紀モンゴル侵入から18世紀末辺りまでのイスラム史。

第1章モンゴル史の著者は杉山正明先生

いつもの調子で、イスラム史家が記したモンゴルの残忍・破壊は西欧史家・中国史家と同じく一切「偏見」と言わんばかりの叙述。

一応論拠は述べられていてそれなりに納得できるものではあるのですが、どうしてもそのまま素直に受け取れないと警戒してしまう気持ちは残る。

しかしここまで徹底されると、ある意味感心する。

もう誰も止めませんから、先生は行き着くところまで行って下さいという感じ。

第2章は東方イスラーム世界。

これは、モンゴル侵入以後500年間の、イラク・イラン・アフガン・西トルキスタンを併せた地域を指し、ペルシア語を共通語とし、軍事はトルコ系遊牧民が、民政はイラン系定住民(タージーク)が担当していたのが特徴。

教科書ではこの時期をイラン・イスラム文明の時代と名付けているが、本書ではトルコ・モンゴル系遊牧民が大きな役割を果たしていたので、この名称は使わないとしている。

王朝で言うと、イル・ハン国、ジャラーイール朝、ティムール朝、黒羊(カラコユンル)朝、白羊(アクコユンル)朝、サファヴィー朝。

支持基盤であるトルコ系遊牧民が持っていたかなり特殊な信仰であるキジルバシ的シーア主義と、統治下においたイラン系定住民の信仰との妥協点を見い出すため、サファヴィー朝が12イマーム派シーア主義を導入する経緯などはなかなか興味深い。

第3章はティムール朝。

中央アジアは歴史上常に被征服者の立場に置かれてきたが、ティムール朝において初めて自ら世界帝国の発祥となったと書かれていて、そう言われてみればそうかと気付いた。

16世紀の中央アジアで、ティムール帝国崩壊と大航海時代によってシルク・ロードの重要性が低下し、没落・停滞の様相が濃くなったという定説に疑問を投げかけている。

第4章はオスマン帝国。

有名な常備軍イェニチェリは、火砲を装備した歩兵集団であり、騎兵ではない。

これは結構盲点で、大学入試の引っ掛け問題で問われそう。

1514年、建国間もないサファヴィー朝とチャルディラーンで戦い、これを撃破。

当時在位していたスルタン、セリム1世は1517年のマムルーク朝エジプト征服でのみ、高校世界史では記憶されているが、上記チャルディラーンの戦いも結構重要と思われる。

オスマン帝国衰退の象徴を1571年レパントの海戦に見るのではなく、1683年第二次ウィーン包囲失敗と1699年カルロヴィッツ条約とハンガリー喪失に置くというのは、高校世界史でも出てきますね。

第5章オスマン支配下のアラブ。

オスマン治下時代を単純な暗黒時代としてではなく、アラブ有力者層の自立の時期として捉えて、各地域ごとの具体的様相を叙述している。

第6章ムガル帝国。

アウラングゼーブ死後の急激な分裂を考慮して、ムガル朝をインドの統一政権とは見ずにデリー・スルタン朝の継続に過ぎないとの見方を紹介しているのは非常に面白い。

第7章東南アジアのイスラム化。

実質マラッカ王国のみの記述。

短すぎてあまり書くべきこともない。

しかしマラッカの年代記において、自らの遠い始祖をアレクサンドロス大王としていると記されているのは意外だった。

(アレクサンドロス伝説はイスラム時代でも諸所に残されてるとの知識は事前にあったが。)

最後の第8章国際交易ネットワーク。

10世紀後半ごろ、イスラム圏の貿易・商業の中心がバグダードからカイロに移って以後の経済史。

無難で平易な叙述なので、素直に読む。

悪くはない。

悪くはないが、目の冴えるほど面白いとか、基礎から中級レベルの史実を洩れなく取り上げて、理解しやすい見解を添えて提示してくれるということはない。

以前も同じこと書きましたが、どうもイスラム史は初心者向けのいい本が少ない。

中公新版全集のイスラム史は全部読んだので、最低限の基礎は出来ていることにしようとも思うのですが、どうもすっきり理解できた気がしない。

あれこれと図書館の在庫本を検索して試し読みしてみるということが続きそうです。

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