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井上寿一 『山県有朋と明治国家』 (NHKブックス)

近代日本の本、多いなー。

「世界史ブログなのに」と言われれば、「日本史も世界史の一部です」という理屈で全て押し通すつもりですが、カテゴリ別で記事数が「近代日本」より多いのが「中国」しかないのは、バランスがいいのか悪いのか・・・・・。

今は書名や著者名の検索機能が手軽に使えるのだから、本当は手薄な分野を意識して重点的に補強していくべきなんでしょうが、どうもやる気が出ない。

最近は書店や図書館で見かけた本を適当に選んで読了し、記事にしているだけです。

できるだけ多様な分野の本を取り上げようと思ってはいたのですが、現在とてもそういう余裕の無い状況ですので、ご容赦下さい。

2010年12月刊。

井上氏の著作では、以前、『昭和史の逆説』(新潮新書)『吉田茂と昭和史』(講談社現代新書)を読了済み。

近代日本における軍国主義の源流というイメージは正当なのか再検証する本。

冒頭、松本清張の山県論を林房雄が酷評、清張の反論を受けたことで、中間小説家だった林が『大東亜戦争肯定論』執筆に向かったエピソードが記されている。

本書の問題関心と分析視覚は三つ。

(1)欧米の19世紀秩序崩壊と大衆社会形成への対応。

(2)欧米政治社会への鋭敏な観察と、それを反面教師にしての君主制の危機への対応。

(3)明治国家形成において、「必要悪」としての「強兵」を担った役割。

まず、その政治的キャリアの出発点となった奇兵隊について、封建的身分制の枠に囚われない、被差別部落出身者をも含む擬似的国民軍だったと評されている。

帝国主義時代の荒波を乗り切り、国家の独立を維持するためには、近代的国民軍の創出が必要であり、そのための民衆動員が欠かせないが、同時に軍に民衆のイデオロギーが浸透する危険を冒さねばならないというジレンマがあった。

欧州視察で、大衆社会化と立憲君主制の危機を目撃し、1878年竹橋事件に遭遇した山県は、この難題をしっかりと認識。

それに対して、出した答えが、統帥権の独立およびそれを通じた軍の政治的中立性確保であった。

1878年軍人訓戒、同年参謀本部、82年軍人勅諭を手始めに、政治から独立した軍の建設に邁進する。

しかし、一般的イメージとは異なり、明治初期におけるこれらの諸措置を文民統制の崩壊とは言えないと著者は主張。

そもそも維新間もない当時の指導者層では文官と武官が未分離であり、山県自身もリアリズムに徹し、軍備拡張よりも「民力休養」「富国」優先を受け入れる余裕を持っていたとされている。

陸軍省、内務省、宮内省など、明治国家の中枢で要職を歴任。

1883年内務卿(のち内務大臣)に就任、88年市制・町村制、90年府県制・郡制公布。

これも、軍と同じく、地方自治が政党勢力に左右されないことを企図。

1889~91年第一次内閣時、第一議会での「主権線」と「利益線」提唱について、これらの概念は膨張主義の表われというより、当時の客観情勢に沿ったリアリズムであることが説明され、(結局失敗したものの)山県自身は国内の強硬論を抑制し、朝鮮永世中立国化戦略を推進していたことが記される。

1898~1900年第二次内閣は超然内閣とはいえ政党の協力は不可欠であり、憲政党(隈板[第一次大隈]内閣崩壊後、憲政本党を結成して飛び出した進歩[旧改進]党系を除いた、旧自由党系勢力)と連携し政局を運営。

この憲政党を中心にして伊藤博文が1900年立憲政友会を結成し、以後政友会と「山県系官僚閥」が政界を二分することになるが、選出勢力と非選出勢力の対立とは言え、伊藤と山県の対立は相対的なものだと評されている。

両者とも国家優位の強力な行政指導でなければ内外の厳しい情勢は乗り切れないと理解しており、政党を基本的に排除するのか(山県)、政府に従属的に協力させるのか(伊藤)という、手段の違いのみ。

確かに、「開明・進歩的な伊藤」と「頑迷固陋な山県」という対比は誇張であり、もっと言えば完全に的外れとも思える。

トクヴィルを愛読していたという伊藤が、自由民主主義の進展に楽観的な考えを抱いていたはずがない(瀧井一博『伊藤博文 知の政治家』(中公新書))。

愚かで無責任で、しばしば邪悪ですらある大衆の進出に深刻な懸念を持ち、それに備えなければ国家自体が破滅しかねないという問題意識は両者に共通していたのではないでしょうか。

山県は正面からその荒波を堰き止める防波堤としての、政治から独立した中立的軍隊を創ろうとし、一方、伊藤はそれら大衆の生み出す世論を矯正・善導し、少しでも害の無いものにするために自ら政党結成に向かった。

結論を言えば、残念至極にも、両者とも失敗したわけです。

矯激で異常な世論に政治が支配される事態となっても、それに左右されず穏当で正常な国家機関として機能するようにという意図で、山県の創った政治的に独立した軍は、直接的に世論に浸食され、恐るべきことに大衆が既成支配層を脅迫・支配する道具と化してしまった。

伊藤の創った政友会は、民衆世論を批判・矯正・善導するどころか、大衆迎合という病に取り付かれ、こちらも昭和に入るや衆愚政治の手先に成り下がっている(戦前昭和期において、ほとんどの場合、民政党(憲政会)が政友会よりもマトモに見えるのは、それが「進歩的」だったからではなく、多数派大衆を煽動するためにデマゴーグが利用したスローガンと異なる政策を掲げていたから)。

結局、民主主義という立場から、山県を全面否定し、伊藤を部分的に肯定するような見方は、上記の視点を考慮すれば、皮相でほとんど意味を成さないように思える。

話を戻すと、日露戦争後、維新以来の目標が一応達成された時点での山県の外交戦略は、対米協調と対中警戒。

そのうち、「対中警戒」というのは、中国を軽視・蔑視し特殊権益拡張の対象としてのみ見るような、のちの日本をしばしば誤らせた主流派世論に沿うものでは全く無く、中国ナショナリズムを正当に評価し、その敵意が日本に向けられた場合の危険を警戒するというもの。

こういう慎重さが世論と政治指導部で共有されていれば、日本帝国は今も続いていたんじゃないですかねえ。

1907年赤旗事件、1910年大逆事件において、司法官僚平沼騏一郎を駒にした、強硬な弾圧策の山県と柔軟な桂という最近の説に対し、山県も社会政策の必要は認めており、これらの措置が後の治安維持法の原型だとは言え、当時の欧米でも思想統制的法規は存在していた、国際標準の取り締まり法規から硬軟両面で逸脱しないことが山県の意図だったとしている。

大逆事件を受けて、山県は以下のように詠んでいる。

「天地をくつがへさんとはかる人  世にいづるまで  我ながらえぬ」

わずか数年後には近代的価値観を完全に実現するためには暴力と独裁を極限まで追求する他ないとする狂信的イデオロギーに基づく国家が生まれ、以後数十年にわたって数千万人の犠牲者を生み出したことを、後世の我々はすでに知っている。

もちろん大逆事件で死刑になった人々の多くが直接的には無関係であり、それが明治日本の一大汚点であることを認めないわけではない。

しかし、ただ「明治国家の抑圧性」のみを強調するような(たとえ左翼的でなくても自由民主主義を金科玉条として「思想の自由競争」のメリットを絶対視するような)史観からは、今となっては大きな心理的距離を感じます。

言いにくいことですが、そのような「思想の自由競争」の利点を享受してより良い社会を創り出す資質が、私を含めた民衆にあるとは全く思えない。

大正期に入って、第一次世界大戦に際しては、対独参戦への慎重論を唱え、対中政策の不明確さを批判。

後者については、二十一カ条の要求によって、中国ナショナリズムの標的となり、英米との関係が悪化したことで懸念が的中。

前者についても、1918年、ブレスト・リトフスク条約後のドイツ軍大攻勢を挙げて、協商国(連合国)の勝利は(結果のわかった現在ではそう考えがちだが)自明視できるような状況では無かったと著者は指摘している。

なお、伊藤之雄『山県有朋 愚直な権力者の生涯』(文春新書)で、この時期の山県は白色人種同盟が日本と敵対してくることを懸念しており、それを山県が必ずしも鋭敏な外交感覚を持っていなかった実例としているが、本書ではこれは中国の袁世凱政権との協調を主張する上で内外を説得するためのレトリックに過ぎず、本心からのものとは言えない、これを真に受けると山県の常識的なリアリズムを見逃す恐れがあるとしている。

こうした外交面での相違から、第二次大隈内閣およびその外相加藤高明と対立、むしろかつての政敵である政友会総裁原敬と接近。

「軍閥の巨魁」山県と、「普選尚早論を主張した“裏切りの平民宰相”」原の両者が、世論と軍部の反対を押し切っても、旧ドイツ利権の膠州湾を中国に返還することに合意した(ワシントン会議後、実際そうなった)と書かれているのを読むと、「近代日本では、民主主義が力を持てず、権威主義的な少数支配層の統治を崩せなかったから、無謀な戦争に至って国が滅んだ」という、小中高の歴史の授業で頭に刷り込まれた物語を改めて根本から疑いたくなってくる。

二十一カ条要求が出された初期の段階では、あの吉野作造ですら「最低限の要求」として是認していたし、それより無思慮で短絡的で付和雷同することしか知らない衆愚的民衆については言うまでもない。

はっきり言ってしまえば、あまりにもしばしば、「多数派民衆の世論こそが悪」なんです。

この時期と昭和前期で何が違うのかと言えば、幸いにも客観的な国際情勢が未だ日本に厳しく危険な選択を求める状況になかったことだけでなく、下層民衆に由来するのではない、社会の上層部からの権威に支えられた山県ら元老と、原のように世論に迎合しない見識ある政治家がまだ存在していて、国政を正常な範囲に留めていたことです。

完全な失敗に終わったシベリア出兵支持は、山県が帝政派への同情を持っていたことも一因だが、一方で対米国を始めとする列国協調を最優先するリアリズムは手放さなかったとしている。

ここでちょっと脇道に逸れます。

現実問題として干渉戦争による帝政復活は不可能だったでしょうから、確かにシベリア出兵は愚行と言えるでしょう(と言うか、各国の政策担当者にとって当初はあくまで対独戦線維持の観点からの出兵だったようですが)。

しかしボリシェヴィキ政権を打倒すること自体に道義的問題があったとは思えない。

「もし可能ならば」武力を用いても、ソヴィエト政権を打倒できるのならそうした方が良かった。

マーティン・メイリア『ソヴィエトの悲劇』(草思社)では、帝政派白軍、社会革命党右派による農民反乱、英仏日米による干渉戦争、ポーランド・ウクライナ等の旧帝国構成民族の攻撃など中で、ブレスト・リトフスク講和以前のドイツ軍の進撃が、ボリシェヴィキ政権を打倒する可能性が最も高かったとされている。

惜しいなあ・・・・・と本当に思う。

第一次世界大戦は何重もの意味で、人類文明にとって自殺的です。

それ自体がもたらした莫大な破壊に加え、(特に中欧における)形式的民族自決と急激な民主化による混乱を通じて第二次大戦への道を準備したこと、さらに共産主義体制の発生を許し、それを萌芽期の内に圧殺することに失敗したこと、と並べれば、各国の上層指導者が、下層民衆のナショナリズムに対抗できず、自滅的な戦争を続けざるを得なかったことに慨嘆してしまう(マイケル・ハワード『ヨーロッパ史における戦争』(中公文庫))。

大戦が無ければロシアの帝政崩壊も、共産主義政権の成立も無く、平時において革命があったとしても、列強による武力介入によって、パリ・コミューンのような、「短期間の不幸なエピソード」ということで終わっていたかもしれない。

本来は、民意に依るのではなく、伝統的身分に則った上層階級が確固たる地位を占め、大衆が作り出すナショナリズムの興奮に押し流されず、文明全体を破滅させる狂信的イデオロギーに基づく体制が生まれたことこそを直視し、その撲滅のために全ての国家が協力すべきだったはずなんですがね。

閑話休題。

米騒動を受けて、かつてあれほど敵視していた政党内閣を容認、原政友会内閣成立。

「ポスト明治国家の政治的軟着陸」が、曲がりなりにも順調に進むかに思われた。

これで元老の地位が原らに引き継がれ、デモクラシー深化の悪影響を何とか制御した上で昭和の御世に入っていれば・・・・・と思わずにはおれない。

佐々木隆『明治人の力量』(講談社学術文庫)の記事で、元老の名前は全部憶えましょうと申し上げましたが、何も見ずにすぐそらで言えますでしょうか?

長州から伊藤博文、山県、井上馨、薩摩から黒田清隆、松方正義、西郷従道、大山巌とまず7人、それに長州の桂太郎と公家の西園寺公望の2人が加わって、合計9人でしたね。

いい機会ですので、没年もチェックしましょう。

まず日清・日露の戦間期に、1900年黒田清隆、1902年西郷従道が死去。

日露戦争後、1909年伊藤博文が安重根に暗殺。

大正政変後、1913年桂太郎が失意のうちに他界。

第一次大戦中、1915年井上馨、1916年大山巌没。

大正後期から末年にかけて、1922年山県、1924年松方正義が世を去る。

昭和に入ってただ一人の元老となった西園寺公望は1940年日独伊三国同盟を締結した日本の行く末を案じながら逝去し、元老は消滅する。

もし原が暗殺されなければ、元老となっていたんでしょうか。

そうなれば昭和史もよほど変わったものになった可能性がある。

しかし他の政治家でも、不思議でならないんですが、例えば山本権兵衛なんかはなぜ元老待遇にならなかったんでしょうか?

山本は1933年まで生きて、32年五・一五事件で先帝に拝謁している(福田和也『昭和天皇 第四部』(文芸春秋))。

西郷従道を継ぐ、日本海軍のトップであり、大正期に二度総理大臣も務め、経歴としては申し分無いように思える。

内閣辞職の経緯は、シーメンス事件に虎の門事件と、確かに二度とも不祥事としか言い様がないが、首相を務めた人物にはとにかく特別の地位と権限を与えて、政党・議会・世論・軍部から超越した立場から国政全般を指導するという形になるべきだったんじゃないでしょうか。

明治政府に準ずる、そのような体制は「非民主的」と言えばその通りだが、極端から極端に走る世論の影響を受けない分、実際の戦前昭和期のような非常識・無分別な政策決定が行われる危険性は格段に低かったはず。

そういう意味で、1921年の原敬暗殺は本当に痛恨の出来事と言える。

確かに政友会の利益誘導的な積極政策に数々の腐敗が付きまとっていたのは事実でしょうし、それに対して原に全く責任が無いとは言えないでしょう。

しかし、その利益誘導を享受したのも(少なくとも一部の)国民ですし、「政党政治の腐敗」を悲憤慨嘆して(あるいはその振りをして)政策責任者を罵倒攻撃し、ついには暗殺行為のようなテロリズムに至るような世論が結構なものとは、私は全く思わない(決まり文句のように政治家への軽蔑を語る現在の世論に対しても同じ)。

そんな凡庸な世論が、間違いなく当時最優秀で今後15年は国家の舵取りをすべきだった政治家を抹殺してしまった。

以後も過激な民衆世論はあらゆる極論を政府に押し付け、原に続く政治家たちもしばしば暗殺の対象にすらして、当然の結果として内外政策の行き詰まりを生じさせた挙句、世論が熱狂的に支持したのは近衛文麿という「カリスマ」であり、この無責任な宰相が日本を決定的に誤らせたわけです。

それにしても、原や加藤友三郎、彼らよりやや落ちるにせよ加藤高明など有為の人材が昭和に入るまでに次々死去していくのには、何ともやるせない気分にさせられる。

それに比べて、(わざわざ名前を出すのは気が引けるが)伊東巳代治や金子堅太郎みたいな人物は長生きするんですよねえ・・・・・(伊東は1934年、金子は42年没)。

そりゃ両者とも明治憲法制定での功績は大きいでしょうし、金子についてはポーツマス条約締結に向けた活動も高く評価されるべきでしょうが、それ以後はねえ。

伊東は枢密顧問官として、ワシントン会議や台湾銀行救済問題、ロンドン海軍軍縮条約について、時の政府の穏当な政策の足を引っ張ることばかりしていて、それに金子も同調しているようですし。

本来一般論としては、枢密院のように民選ではなく、議会の動きを掣肘する機関はあってしかるべきと私は考えていますが、実際にはその役割を果たさず逆に単純粗暴な在野の世論と連動して、政府を無責任に揺さぶることをしてしまっている。

「非民主的」機関としての役割も果たさず、世論に迎合しちゃいかんでしょう。

伊東・金子の政治上の師で、枢密院設立者の伊藤博文もあの世で嘆いてますよ。

また話がズレてる・・・・・。

山県は社会主義の脅威を直視したが、かと言ってそれを過大評価してヒステリーじみた対応を採り、返ってその勢力を伸張させるような愚は犯さず、冷静さを保っていた。

むしろ、皇太子(後の昭和天皇)婚約についての宮中某重大事件、および訪欧問題では、山県自身が右派の攻撃対象になった。

そうした矯激な右派の一員によって1921年原が暗殺され、同年皇太子摂政宮就任。

1922年山県も死去。

同年死去した大隈重信の葬儀が盛大だったのに比べて、山県のそれは寂しいものだったことがよく語られるが、大衆社会化状況に対峙し、それと戦い続けた山県は、自身の葬儀に多くの国民が集まることなどそもそも期待していなかっただろうと著者は評している。

さて、ここで記事冒頭の問いに戻りましょうか。

山県の推進した「統帥権の独立」が軍国主義の原因であり、政党内閣に長年反対し続けた山県こそが悲惨な戦争の最大の責任者か再検討するという問いです。

では、仮に明治期に文民統制が確立し、政党政治が定着していたと想定してみましょうか。

その状態で1930年代を迎えていたとしたら、どうでしょうか?

(在野の世論と知識人と民党が往々にして政府より遥かに急進的な対外強硬論を唱えていたことからして、明治期に急速な民主化が進行し本格的政党内閣が成立していたら、致命的外交失策を犯すか、あるいは国内の党派争いが制御不能となり内戦が勃発し諸外国の介入を許して、その時点で独立自体を失い、欧米列強の植民地に転落した可能性が高いのではないかという見方はひとまず措きます[福田和也『昭和天皇 第四部』]。その場合、植民地支配によって伝統的諸価値と諸制度がすり潰され、国民統合の核となるべきものを失ったまま、独立運動において共産主義勢力が主導権を握り、独立達成後も圧政と貧困に苦しむことになるか、そうでなくとも党派争いの恒久化と政治的報復の繰り返しで国の安定が一向に望めないという第三世界諸国のお定まりのパターンに陥ったんでしょう。)

上述の通り、私には戦前日本の軍国主義の根本的原因は民衆世論の暴走としか思えない。

たとえ政党内閣制と議会政治が完全に確立していたとしても、その場合は(ドイツやイタリアにおけるように)過激なナショナリズムを旗印にする全体主義政党がデマゴーグを擁して議会に進出し、政治を支配するだけの話じゃないでしょうか。

ここで山県が考えたような「統帥権の独立」が存在していたと仮定してみます。

外では国際協調を無視して止めどない膨張主義を採り、内では偏狭・過激なイデオロギーで仮想敵を迫害するような、衆愚政党が議会政治を支配している。

ドイツにおいてプロイセン・ユンカーを中心とした軍参謀本部がヒトラーに対して最後まで抵抗力を保持し暗殺計画を(未遂に終わったが)実行したこと、イタリアで国王の命でムッソリーニが逮捕されたことなどから類推すると、衆愚に支えられたデマゴーグ的政治家に対して、自立性を持った軍が天皇の権威を借りて対抗するという事態も十分考えられる。

この場合、「統帥権の独立」は貴重な救済手段ですらある。

日本においても、実際の史実で類似した例が無いわけではない。

1944年東条内閣末期、首相と陸相を兼務していた東条が参謀総長をも併せた時、講和模索派を含む反東条派が持ち出した理屈が「統帥権干犯」だった。

(ヒトラーと比較するのはいくらなんでも東条に気の毒だが)かつて矯激・愚劣な大衆が反政府運動に利用したのと同じ概念が、ここでは好戦論に画一化された世論が惰性で進めようとするのは別方向の事態をもたらすための梃子になっている。

要するに、「統帥権の独立」という一つの法理的政治的問題を「諸悪の根源」視することには無理があり、そうすることで結果として、民意の暴走という、より根本的な問題に目を瞑ることになるのではないでしょうか。

もっと言えば、統帥権問題だけを特に強調する必要が無いだけでなく、戦前日本の大衆運動が、極右的国粋主義という形をとる必然性すら無かったように思える。

社会の近代化・平等化・大衆化が進むと共に、大衆心理の底にある、現状否認意識・革新志向・嫉妬心・攻撃欲・破壊衝動・嗜虐感情など、様々な暗い情念が解放されていく。

それらの情念は、戦前日本では(こういう言い方はほとんどの方にとって抵抗感があり、受け入れられないものでしょうが)治安維持法を始めとする取り締まり法規の「おかげで」左翼的方面については堰き止められていたが、その分右翼的方面に過激な形で噴出した。

戦前の軍国主義も、戦後の左翼運動も、現在の右派的ポピュリズムも、結局全て「民意」「国民の声」の名の下に正当化される、大衆社会の群集心理を原因とするものである。

「戦前の破局が果たしてデモクラシーの結果かはともかく、戦後は民主主義が致命的結果をもたらさなかったじゃないか」と言われれば、国政選挙において左翼勢力が完全に勝利することは無かったものの、それは戦後保守政権の慎重な利益配分政策のおかげであって、言論の自由が自動的に穏健・正当な多数意見を形成したわけではない、それどころか、民衆世論の平均的レベルでは左派的偏向がほぼ常に圧倒的であり、それが今世紀初頭に至るまで半世紀以上国家を脅かし続けたんだから、本当に危ういところで、民主主義の致命的悪影響を退けられたというのが実態であり、自由民主主義に基づく政治を楽観し礼賛する根拠なんて全く無いはずだ、と言いたいです。

そして、我々民衆が、所詮左翼思想に数十年にわたって惑わされるような、愚かな存在に過ぎないんだという真剣な反省と自己懐疑が無い限り、その反動として現在見られるような「保守化」は、卑劣な排外的ナショナリズムと低俗な経済エゴイズムの奇怪・醜悪な結合である右派的ポピュリズムを生み出すだけであり、脊髄反射的な反左翼感情からそれに対する懐疑と批判を放棄すれば、結果、戦前のそれを上回るような破局をもたらすでしょう。

(残念ながら、もう手遅れでしょうね・・・・・。デマゴーグによっていとも簡単に操作される群衆心理が全ての価値判断の基準になり、一昔前なら間違いなく左翼的たわ言を述べていたであろう程度の人間が、全く同様の愚かしさと軽信によって、にわかに「愛国者」を僭称して、方向性が違うだけで、かつての左翼と同じくらい偏向した言動の押し付けによって政治と社会を混乱・荒廃させ、内外ともに支離滅裂な行動を取り致命的な失策を犯し続け、自らの錯誤がもたらす当然の被害を受けると、さらに狂信的になり、その憂さを晴らすため、気分のおもむくままに様々な少数派を迫害して集団リンチによってもたらされる卑しい快感に身をゆだねつつ、国が滅びるまで同じ行為を繰り返す、というのが今後の日本の運命のようです。[と、偉そうに書いていますが、ほんの5、6年前の私が赤字で記したような人間でした。]皇室には適切な時期にイギリス辺りに亡命して頂くとして、我々国民はもう地獄を見るしかないでしょう。この先何があっても100%自業自得です。)

日本だけじゃありません。

独ソ伊も、煽動イデオロギーの違いはあっても、大衆の狂信を基盤にした民衆的独裁であることに変わりは無い。

そのうち最も「軽症」と思われるイタリアで王制が存続していたこと、ナチス・ドイツにおいてほぼ唯一効果的な抵抗を行い報復裁判にかけられた人々の多くが貴族階級に属していたこと(ナチについてのメモ その1での引用文で名前に“フォン”と付いてる人の多さを見て下さい)、そして日本が非民主的・前近代的な制度と価値観を比較的保持し続けているがゆえに、独ソ伊のような完全な全体主義国家ではない、という見解があること(レーデラー『大衆の国家』引用文(ノイマン1))などは示唆的である。

「ノーマル」な政治体制と思われている米英仏も、あくまで相対比較においては、であって、民主主義国家である以上、いつ左右の全体主義に堕するかわからない不安定な状況にあるに過ぎない。

と言うか、少し時間軸を延ばせば、その三ヵ国もそれぞれ南北戦争、ピューリタン革命、フランス革命とパリ・コミューンという破局と野蛮への転落を経験しているわけである。

米英仏の体制が「ノーマル」なのは、「民主的だから」ではなく、民主主義がもたらす悪影響を早期に経験し、それへの免疫を付けたというだけの話ではないか。

しかも、その「免疫」は決して永遠のものではありえない。

また、中国を始めとする戦後新興国においても、同種の民衆的独裁による惨劇はひきもきらない。

結局、近現代の世界史におけるほぼ全ての悲劇の根底には、民衆の権力拡大とそこから生まれた独裁が横たわっている。

我々は普通、「文明の成立当初に、人々の無知未開に乗じて一部の人間が特権的地位を占め、数千年にわたって人類はその圧政に苦しめられてきたが、近代に入って自由と民主主義が生まれ、その善なる概念が普及することで、ついに古代における過ちの残滓に過ぎない君主と貴族という上層身分を打倒して民衆が権力を握るようになり自らを解放した、以後ファシズム(と共産主義)などの紆余曲折はあったが基本的に人類社会は全世界的に進歩し続けている」と考えている。

この見方では、フランス革命を出発点に、19世紀を通じて民衆の政治参加と言論の自由が拡大し続けた後、20世紀が人類史上最悪の大量虐殺の世紀になったこと(引用文(ニスベット1))、その主因である世界大戦と収容所国家をそれぞれ生み出したナショナリズムと左右の全体主義が、まさに民主主義から派生したものであることを完全に無視している(戦前昭和期についてのメモ その4)。

そもそも今の世界が、20世紀において全体主義が完全な勝利を収め全人類が独裁国家の下で悶え苦しんでいるか、核戦争が勃発した結果、文明社会が完全に壊滅し、わずかに生き残った人類が動物以下の存在となって人肉食すら行いながら細々と生き延びるという地獄絵図となっていても不思議ではなかった。

ほんの僥倖でそうした事態を免れたに過ぎないのに、なぜ自由の発揚による、自動的かつ永遠の進歩など信じられるのか。

人類社会が身分制秩序と宗教意識という自己抑制手段を失い、民衆の自由拡大と科学技術の発達という近代化の二つの「成果」が本格化した途端、それらが制御不能となって殲滅戦争と独裁国家を生み出し、人類滅亡の瀬戸際まで行って、ようやく踏み止まったというのが、20世紀の実像です。

様々な先入見を捨て、長い時間をかけて形成された伝統的常識という唯一真に有益な先入見をもって歴史を眺めれば、民主主義という政治制度は事実としてすでに失敗してるんです。

あるいは、古代アテネにおける惨状をみたプラトンの時代で、もはや民主主義の失敗は明らかだったのに、それを全く無視して、自分たちにはそれを享受する資格があると身の程知らずに軽信した民衆が全世界的に自由化・民主化という社会的実験を強行したせいで、文字通り破滅的事態がもたらされたと言うべき。

君主や貴族という少数者による統治は、たとえどれほど理不尽で耐え難いように思えても、実際は多数者たる民衆による支配という、それよりはるかに大きな悪を防ぐために、半ば無意識の社会的な智慧によって採られたものであって、そもそもそれが無ければ文明自体成り立たないのではないか、あるいは控えめに言ったとしても、(ある時期までの英国のように)君主制と貴族制と民主制それぞれの要素が均衡し抑制し合うのでない限り、文明の長期的存続は有り得ないのではないかと、最近考えるようになっている。

そもそも、世襲の君主や貴族の権利を制限することは、実は普通考えられているよりも遥かに簡単なんじゃないでしょうか?

前近代における世界のどの時代、どの地域の国家でも、少数の統治層によって、民衆が文字通り無制限に抑圧・搾取される一方だったなんてことは、ごく稀な例外を除いて、ほとんど有り得なかったように思える。

科学技術の未発達もあり、前近代国家の民衆支配には必ず一定の限界があったはずであり、もしあまりに過度の抑圧を統治層が行えば、民衆反乱によって王朝は滅び、その後また新たな統治層が形成されるということを、人類は繰り返してきたのであって、それ自体は良くも悪くもない成り行きと言える。

だが、人民主権の理念普及および科学技術と産業主義の発達という二つの理由によって、民衆の大規模かつ恒常的な政治的動員が可能になった後に生まれた、大衆社会におけるデマゴーグ支配とそこから派生した全体主義社会におけるエリート支配は、同じ少数者支配でも、世襲君主と貴族の統治に比べて覆すことが遥かに難しく、そのもたらす被害も桁外れである(コーンハウザー『大衆社会の政治』)。

前近代において実際には限られた権力しか振るえなかった王朝と近現代で無制限の独裁権力を握った全体主義政権の対比では、ブルボン朝「絶対王政」とジャコバン独裁、ロマノフ王朝とソヴィエト体制、ドイツ帝国とナチス・ドイツ、中華帝国と中華人民共和国、といった主要国に加え、李朝と朝鮮民主主義人民共和国、シアヌーク王政とポル・ポト政権、ハーシム家王政とサダム・フセイン政権、イドリス朝とカダフィ体制、ハイレ・セラシエ帝政とメンギスツ政権と、小国まで含め実例を出していけば枚挙に暇が無い。

これらを「旧体制の非民主性が容易に払拭できず、正常なデモクラシー形成が妨げられた」と解釈することは全く的外れに思える。

いずれの国でも、デマゴーグが狂信的イデオロギーの煽動によって、多数派の民衆に旧来の価値観・制度・慣習を破壊し尽くすことを促した結果成立した体制である以上、それを民主主義の名の下に根底から非難することはできないはず。

その前段階である大衆社会でのデマゴーグ支配については、常に自らを「無答責の客観的批判者」に仕立て上げ、統治にふさわしい資質を何一つ持っていないにもかかわらず、他者へ無制限な攻撃を繰り返して「世論」の背後から事実上の支配権を握り、社会を混乱と荒廃の極に追い込み、ついに寄生する対象である国家が滅び、自らも因果応報の破滅を迎えるまで傲岸・不遜の限りを尽くす卑劣で醜悪な煽動者と追随者を、キルケゴール(『現代の批判』)やヤスパース(『現代の精神的状況』引用文1引用文2引用文3)がこれ以上無いほどの迫真の筆致で描いています。

何度も同じことを書きますが、民主主義を全体主義の反対概念として対置することは絶対に間違いです

このブログにもし政治的主張らしきものがあるならば、それは上記の認識のみです。

これは本来、右とか左とかの問題ではないはず。

右派的ポピュリズムがこれほど跋扈している現在では、むしろ左派的考えをお持ちの方こそ、このような認識と警戒を持つべきじゃないでしょうかと申し上げたいです。

だいたい、「民主制への移行が近現代世界史の正常な趨勢」と言ったって、その割には成功例が少なすぎるじゃないですか。

これまで致命的破局を経験しなかったのは、まあ、(ピューリタン革命をあえて除けば)英国と北欧諸国ぐらいのもんでしょう。

アメリカだって、他国では文明の進展によって自然に消えていった奴隷制度を廃絶するために国家を二分する凄惨極まりない内戦を必要として、20世紀においては気儘な世論が指示するままに双方とも思慮分別に欠ける孤立主義と好戦主義・帝国主義の間を右往左往し、桁外れの国力のお陰で自国の被害は受けずに済んだものの、戦後は急進的対抗文化がもたらす闘争に突入し、政治・性・人種・宗教・階級その他ありとあらゆる分野で社会の分極化と相互不信に苛まれ、その混乱に耐え得なくなると宗教的原理主義と自由至上主義の不寛容な押し付けで形式的な国民統合を再生しようと図り、その結果、外交面では賢明さと慎重さに欠ける軍事的単独行動主義で他国に多大の被害と混乱をもたらし、内政面では金融資本の暴走を制御できず、大恐慌以来の投機バブルを破裂させ、もう少しで世界経済を破滅に導くところだった、という次第なんだから、「これが成功した民主主義のお手本です」と言われても、はいそうですねなんて到底肯けません。

むしろアメリカも、「真の共和政」(塩野七生『ローマ世界の終焉』佐伯啓思『アメリカニズムの終焉』)を確立することが出来なかった、近現代史で無数にある、民主主義の失敗例だとした方がよほどすっきり得心できる。

独立後わずか半世紀余りのジャクソニアン・デモクラシーで建国理念を決定的に変質・歪曲させ、「民主的になればなるほど、共和的(公民的)でなくなっていく」アメリカ(と日本を含む民主主義国)については、トーマス・マンが『非政治的人間の考察』で、これ以上ないほど的確かつ辛辣な皮肉と嫌味を放っています(あるいは引用文(平川克美1)参照)。

民主主義の失敗例である戦前日本が、民主主義の失敗例である米国に「非民主的」という理由で断罪され、戦後は両国が民主主義のさらに深刻な失敗例であるソ連に対して「民主主義を守るために」同盟し、冷戦後も自称「保守」派がその同盟を絶対視し、同様に民主主義の深刻な失敗例である中国を「民主主義の価値観を共有していない」として同国に対抗しようとしているが、その実、日米とも伝統・慣習・常識の最後の一片まで捨て去り、市場と言論空間における底無しに卑しい群衆の無制限の放縦を讃美する以外の価値観を全て失い、革命で伝統的価値をすでに破壊し尽くした後で共産党の支配が徐々に緩んできた中国に対して真の優位性を持つことなどできず、それどころか衆愚的であるという意味では類似した社会に収斂しつつすらある。

何重もの虚偽と倒錯に眩暈と吐き気を覚えます。

19世紀の進歩主義が、戦争と革命の次世紀で決定的に裏切られたように、冷戦終結後の「自由民主主義の最終的勝利」という幻想が破綻し、今世紀が20世紀をなぞりつつあるのではないかという恐怖を覚える。

先触れとして、全世界的に、史上最悪の衆愚政治が始まる気配がします。

その中で(最近はかなり怪しいとは言え)イギリスのような国は「軽症」で済む可能性があるでしょうし、せめて日本が少しでもそれに近いものであって欲しいと思いますが、残念ながらむしろ重度の集団ヒステリーに罹っているということでは(中国や韓国と並んで)世界でも一番酷いんじゃないかと思えてしまう。

言うまでも無く、私も九割九分九厘九毛、そうした衆愚の一員です。

残りの一毛でも、何も出来ずに、「自分の生きているうちはこれ以上致命的事態が起こりませんように」と卑怯な望みを抱くか、こんな場所で愚痴をこぼすのが関の山です。

 

「軍の独立性」という手段は適切ではなかったかもしれないが、山県は上記のような民主化・大衆社会化現象と戦い続けたわけである。

にもかかわらず、山県は、大衆に「軍国主義の首魁」とのレッテルを貼られ、今も辱しめられている。

そう考えると、あまり端整とは言えない、あの山県の肖像が俄然輝きを帯びてくる感を覚える。

本の分量の割りに、異様に長い記事になってしまいました。

本書自体は楽に読めて、有益な啓蒙書です。

この方の作品は、ハズレは恐らく無いと思います。

良質で効用の高さは申し分なし。

いろいろなことを考えるきっかけを提供してくれます。

なお念のため、一言申し上げておきますが、この記事で書いたような歴史解釈はあくまで本書を材料にして他の本も参考にしながら、私個人が記したものです。

上記文章を読んで、「なんだこりゃ???」と思って、本書を読む気が失せるということにはならないようお願い致します。

本書後半部分は史観にやや鋭敏さが減じたかと思えましたが、私がそう思えるということは一般的史観には近いということでしょう。

我ながら万人に一人も同意してもらえないようなことを書いてるなあという自覚はありますので。

とは言え、とりあえず当ブログで載せられているような本を読んで、馬鹿は馬鹿なりに二十年以上考えた結果ですので、今のところ自分の意見を変えるつもりはありません。

異論に耳を傾ける余裕と謙虚さは持っていたいと考えておりますが、単純に、そんな意見は多数派と全く異なるから間違っており捨て去るべきだと言われても、それは無理ですと申し上げるほかありません。

その分、ブログ読者の方にはいろいろ不快な思いをさせてしまったかもしれませんが、どうかご容赦下さい。

普段にも増して独断的な言い方が多い記事になっておりますので、なぜ自分がそう思うに至ったかという根拠を示す脚注の感覚で、一応他の記事のリンクを頻繁に貼っておきました。

あとは全般に、思想・哲学フランスドイツのカテゴリの記事でも眺めて頂ければ、と思います。

と言っても、この記事自体、最後まで読んで下さる方は二十人に一人もいないでしょうから、そこまでお時間を割いて下さることを期待は致しません。

さて唐突ですが、本日より更新を停止させて頂くことにしました。

私事ですが、大震災以降、生活環境が激変しまして、それでも何とか続けていたのが、いよいよ困難となってきましたので。

個人的な苦手分野を反映して、ごく貧弱な書名リストに過ぎない一部の手薄なカテゴリを補強できておりませんし、紹介したい新刊本が今も続々出ていまして、自分でも不満足な思いがあるものの、すみませんが、とりあえずこれで一区切りとさせて頂きます。

このブログが果たしてタイトル通りの効果があるのか、疑わしいとは思いますが、世界史に興味のある方にとって、ほんの少しでもお役に立てれば幸いです。

閉鎖するつもりは無く、年1、2回の更新は続けるつもりでおります。

もしお気が向いたら、忘れた頃にでも覗いて頂ければ有り難く思います。

それでは、皆様御機嫌よう。

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加藤陽子 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 (朝日出版社)

数年前、かなり話題になった本を今頃になって通読した。

同じ著者の『戦争の日本近現代史』(講談社現代新書)は既読。

栄光学園という進学校での五日間の講義を基にした本。

1章が日清戦争、2章が日露戦争、3章が第一次大戦、4章が満州事変と日中戦争、5章が太平洋戦争という、これ以上無いオーソドックスな構成。

上記リンク本と同じく主な内容は、戦争を国民に説明し正当化する論理の解明と当時の国際情勢の解説。

以下、各章のポイントを抜書き(あくまで一部)。

序章では、現代史上の総力戦体制が膨大な犠牲者を生み出し、それが新たな社会契約と平等主義の欲求をかき立てるメカニズムを指摘。

加えて、歴史の教訓が現在に確実に影響を与えること、それも往々にして政策決定者による歴史の誤用という形で、悪い影響を与えるということを述べる。

ここで挙げられているアーネスト・メイ『歴史の教訓』(岩波現代文庫)は読まなきゃいけない本だなあと思いつつ、現在も未読。

1章、アヘン戦争以来、列強に押されっぱなしの清朝が、1880年代よりイリ条約、清仏戦争、壬午軍乱、甲申事変など華夷秩序維持のための積極策を採るようになり、それが日本との衝突に繋がる。

日本国内では、民権論者は同時に国権論者でもあり、外交・軍事では政府と一致していた。

三国干渉を受諾した政府への不満が普選運動に繋がるロジックを述べているのだが、この対外強硬論から民主化への要求という流れは極めて不吉で危険なものに、個人的には思える。

2章、日露戦争における日本の戦争目的は安全保障上、韓国がロシアの支配下に入るのを防ぐことだったが、国際的には英米の支持を得るため満州の門戸開放を主張。

ロシアは日本が韓国をこれほど重要視していることを見逃した可能性があり、それにより日露開戦に至る。

欧米向けの戦争正当化の論理と、日本の実際的な死活的利益とにズレがあり、後々これが禍根を残す。

次に国内的な話。

明治日本は財産資格による制限選挙であり、近代化の原資と戦費負担のために地租をはじめ重税が課されたということは中学どころか小学生でも教えられるでしょう。

ここから「近代日本の抑圧性」みたいなイメージが容易に生まれるが、考えてみれば、この二つの事実を組み合わせると、増税で有権者が増えたという盲点に気付く。

1900年第二次山県内閣において納税資格が15円から10円に引き下げられ、有権者数は76万人と、最初の選挙法の倍になり、地主以外の商工業実業家が議会に進出。

戦争が平等化を推進するという、近現代史の普遍的法則が日本でも当てはまることを指摘。

3章、第一次世界大戦、開戦時と講和時における日本と米英の思惑のズレについてあれこれ。

4章、当時の国民世論において、「暴支膺懲」という感覚が極めて広範囲に見られた。

「条約のグレーゾーン」という問題があり、日中間に厳しい対立をもたらした満鉄併行線禁止は、実は確固たる条文はなく、日中会議録の中の文言にしか無いもの。

しかしこれが世論の煽動に使われる。

次に、連盟脱退における、1933年2月熱河作戦の悪影響について。

連盟規約16条の、紛争解決交渉中に戦争に訴えた国を全加盟国の敵とする条項を懸念して、日本は脱退を選択。

(一般的イメージと異なり、全権代表松岡洋右は脱退に慎重だった。)

国内では政党政治の行き詰まりから、陸軍による国政改革に世論の支持が集まっていく。

中国では、胡適が「日本切腹・中国介錯論」を唱えたことに象徴されるように、日本との全面対決路線を選択。

数年間日本に敗北し続け、国土の中枢部を占領されて、どれほど甚大な被害を蒙ろうとも、米英ソを巻き込み、日本を打倒するという考え。

胡適は、松本重治『上海時代 中』では対日強硬論を戒める立場だったはずだが、こういう人にまで敵意の抑制を不可能にしたのは、やはり日本の失敗だなと思わざるを得ない。

これに対し、汪兆銘は国土の荒廃と国民の疲弊が共産化の危険をもたらすとして反対したが(実際その通りになった)、不幸にして売国奴の汚名を着ることになってしまった。

汪のような人々にも、日本が報いるところが余りに少なかったのではないかと残念に思う。

5章、日ソ独伊ユーラシア四国同盟の幻想と、アメリカの潜在的国力の大きさについて。

面白く、読みやすい。

さすが、話題になっただけのことはある。

半藤一利『昭和史』より、こちらの方が良い。

予備知識がほとんど要らないのも長所。

ただし、上記『昭和史』と同じく、やはりこれだけ読んで、ああやれやれと思うのでは駄目。

以後、多くの本を読む取っ掛かりとして使うべき。

私の昭和史や日本近現代史についての見方は、福田和也『昭和天皇 第四部』の記事でほぼ言い尽くしていますが、本書の史観はそれと親和的な部分もあれば、そうでないところもある。

とは言え、特に気になる部分は無かったので、どんな考えの方が読んでも、強い抵抗を感じることは無いと思います。

機会があれば、是非お読みになることをお勧め致します。

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川田稔 『満州事変と政党政治  軍部と政党の激闘』 (講談社選書メチエ)

『浜口雄幸と永田鉄山』(講談社選書メチエ)と同じ著者。

本書は満州事変前後に焦点を絞った本。

まず、1928年張作霖爆殺時点で、日本の対中政策に三つの構想があったことを指摘。

(1)田中義一政友会内閣=中国本土の国民政府統治を容認、満蒙特殊地域では張作霖の勢力を温存。

(2)浜口雄幸と野党民政党=国民政府の中国全土統一を容認、日中の友好関係・経済協力推進。

(3)関東軍首脳=満蒙分離、張作霖排除と独立新政権樹立。

ただし、3番目の立場においても、満蒙の中国主権存続を前提にしていることに注意。

(張作霖爆殺の実行者河本大作ですらそう。)

これに対して、1927年陸軍中央少壮幕僚グループが結成した木曜会の満蒙領有論は中国主権を完全に否定するもの。

木曜会は陸軍士官学校21~24期が中心でメンバーは石原莞爾・根本博・鈴木貞一ら、少し年長の16期永田鉄山、岡村寧次(やすじ)、17期東条英機も会員。

さらに軍閥の系譜を遡ってみると、1921年第一次大戦後のドイツにおいて、永田・岡村・小畑敏四郎がいわゆるバーデン・バーデンの盟約を結ぶ。

派閥解消・人事刷新・軍制改革・総動員体制確立・長州閥打破をその内容とする。

この三人が中心となり、木曜会と同年、1927年に二葉(ふたば)会が陸軍15~18期を中心に結成される。

永田・岡村・小畑以外のメンバーでは河本・東条・板垣征四郎・土肥原賢二・山下奉文(ともゆき)と、史書でしばしば名前を見る面々が並んでいる。

二葉会と木曜会の両者が1929年合併して一夕(いっせき)会を結成。

武藤章、田中新一らも同時に加入。

この一夕会が30年代初頭、日本政治を揺るがすことになる。

田中政友会内閣と浜口民政党内閣での陸相は白川義則と宇垣一成で、両者はともに長州閥主流派。

この時期の陸軍最有力者は宇垣とみなせる。

これに対して一夕会は、荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎の非長州系三将官を擁立することを目指す。

(後に皇道派の代表者となる荒木・真崎と、統制派の傀儡で首相にもなった林の名前が、この時期の陸軍革新運動の表看板としてすでに出てくることを頭に入れておく。)

政党政治に比較的親和的な長州閥の流れを汲む宇垣派の首脳部を、革新派の一夕会系中堅幹部らが押し流していく構図を、人名をチェックしながら、以下しっかり把握していきましょう。

1929年岡村寧次が陸軍省人事局補任課長に、30年永田鉄山が軍務局軍事課長に就任し、徐々にポストを掌握。

1931年9月18日、ついに柳条湖事件で満州事変勃発。

(これは日付まで覚えましょうか。基礎的過ぎて、中学レベルですが、日中戦争の端緒となった1937年7月7日の盧溝橋事件とは当然しっかりと区別。)

主導者は関東軍高級参謀板垣征四郎、作戦参謀石原莞爾らで、当時の関東軍司令官は本庄繁。

関東軍が、奉天・長春など満鉄本支線沿線を制圧、当時の石原は中国本土主要部をも日本の勢力下に置くことを目標にしていたと記されている。

ここで当時の陸軍の主要ポストを示す表が載っているので、名前を階級と共に一部書き写してみる(赤字で記した人名は宇垣派)。

まず陸軍省では陸相南次郎大将、次官杉山元中将。

軍務局長小磯国昭少将、その下に軍事課長永田鉄山大佐、人事局長中村孝太郎少将、その下の補任課長が岡村寧次大佐。

次に参謀本部では、参謀総長金谷範三大将、参謀次長が二宮治重中将。

総務部長が梅津美治郎少将、その下の編制動員課長に東条英機大佐、第一(作戦)部長建川美次少将、その下の作戦課長が今村均大佐、第二(情報)部長橋本虎之助少将。

最後に教育総監が武藤信義大将、本部長が荒木貞夫中将。

上記の通り、最上層ポストはほぼ宇垣派で占められているが、その下に一夕会幹部がおり、下剋上的に国策を動かそうと企てる。

(ただし陸相・参謀総長が宇垣派であるのに対し、教育総監の武藤信義は反宇垣派であるとされている。また宇垣派にも満州での武力行使賛成への傾きや、同31年の三月事件への関与などの動きがある。)

面倒なので、事変の細かな経緯についてはメモしないでおきましょう。

一夕会擁立将官の一人である林銑十郎朝鮮軍司令官の増援軍独断越境の事実だけをチェック。

当時、関東軍独走の動きに対峙したのは、浜口内閣を継いだ、第二次若槻礼次郎民政党内閣。

主要閣僚は外相幣原喜重郎、蔵相井上準之助、内相安達謙蔵、陸相南次郎、海相安保清種(あぼきよかず)。

宮中重臣は、元老西園寺公望、内大臣牧野伸顕、宮内相一木喜徳郎、侍従長鈴木貫太郎、侍従武官長奈良武次。

この時、事変不拡大を目指す内閣の方針を支持する先帝の発言が出されるが、これは先帝個人の考えであるだけでなく、重臣らのバックアップもあったであろうと推測されている。

これに対して陸軍は反発、先帝を「現人神」扱いしておいて、実質はその指示に従うつもりは一切無く、天皇の権威などただ反対派を黙らせるための方便としかわきまえない連中に対して、終戦に至るまで先帝と側近らは針の穴を通すような微妙なバランスで行動することを強いられる。

本来、天皇の直接的政治介入が好ましくないことは言うまでもないが、当時は非常事態で政党政治自体が深刻な危機に瀕していたとの判断から、著者はこれを容認している。

ここで、本筋とは一時離れて、浜口と永田の政治構想を比較した章がある。

大体、最初にリンクした前著と同じ内容。

第一次大戦は史上初の総力戦となり、先進国間の全面戦争はそのコスト・犠牲がどのような戦争目的をも超えることが誰の目にも明らかになった。

日本国憲法第九条第一項の戦争放棄規定は、第二次世界大戦ではなく、第一次大戦後、戦前政党政治の時期に日本自身も主体的に加わって締結された不戦条約をベースにしたものだとされている(ただし第二項の戦力不保持規定は別)。

浜口は抑止効果を持ちうる一定の軍備と国力があれば戦争防止は可能であるとみなしたのに対し、永田は戦争不可避論と中国資源確保による自給自足体制構築を主張。

話を戻して、9月下旬南陸相、金谷参謀総長は関東軍に満鉄付属地外からの撤兵を指示するが、10月には撤兵拒否・新政権工作容認の流れが強まり、同10月には満州を追われた張学良政権が存在していた遼寧省西部の錦州爆撃が行なわれる。

一夕会系中堅幕僚の突き上げによって陸軍中央は動揺し、内閣も南満州軍事占領と新政権樹立容認方針へと向かう。

通常、先の朝鮮軍増派の事後承認をあわせて、これを若槻内閣の弱腰・無策の表われとするのが一般的解釈である。

だが、著者はこれを南・金谷ら宇垣派陸軍首脳を内閣に引き付けるための譲歩であり、言わば戦線の建て直しだとする。

宇垣派と関東軍・中堅幕僚層との間に楔を打ち込み、後者を内閣と宇垣派の連携によって封じ込め、制御することが若槻ら政党政治家の戦略であり、同時期に起こった再度のクーデタ未遂である十月事件にも関わらず(著者はこの事件の影響を過大に見積もっていない)、それは以下にみるように実際かなりの効果を上げた。

この辺の著者の解釈は非常に独創的で、本書で最も特徴ある部分である。

11月北満チチハル侵攻の動きが出てくるが、一時占領後に撤退、錦州攻撃も中止される。

この時期、陸軍中央は関東軍首脳部の更迭すら示唆している。

当時朝鮮総督となった宇垣が南らに影響力を行使し、南・金谷・杉山・小磯・二宮・建川ら宇垣系幹部は満蒙での新政権樹立には賛同するが、中国主権を否定した独立国家には反対し、北満・錦州への軍事行動拡大にも同意せず。

南満州占領(錦州を除く)と張学良を排した新政権樹立までは、永田ら一夕会は建川・小磯など宇垣系内部での強硬派を巻き込んで、南・金谷を動かし成功するが、しかし北満州チチハルおよび西南部錦州侵攻と独立国家建設問題では首脳部を動かせず。

この時点で、若槻内閣はひとまず一夕会系軍人を抑え込み、小康状態を確保したと言える。

また前著の記事で少し触れた今村均が、南・金谷ラインで動いていたと書かれていて、ああやはりこの人は穏健な立場を守っていたんだと知って、ほっとする思いがした。

この政治と軍との均衡状態を破ったのが、12月の若槻民政党内閣崩壊と犬養毅政友会内閣成立。

その端緒となったのが、安達謙蔵内相が10月末に政友会との大連立、協力内閣運動を提起したこと。

この構想に当初若槻も賛成。

今から見ても、軍部抑止のためには悪くないアイデアに思える。

著者も指摘するように、同時期の英国で、31~35年のマクドナルド挙国一致内閣が大恐慌後の混乱を乗り切った例もある。

しかし井上蔵相、幣原外相が反対。

政友会との政策の違いなどを挙げてのことだが、そもそも緊縮財政と金解禁自体が完全に間違った政策だったんだから、そんなこと言ってもしょうがないでしょう、まったく硬直した理想主義者にも困ったもんだな、などと考えながら少し先を読み進むと、何やら様子が違う。

安達内相の企図は、実は軍部を掣肘することではなく、むしろその意を迎えることであり、大連立運動は実質親軍的行動だと井上・幣原は考えたとされ、著者もおそらくそうだったであろうとその判断を首肯している。

閣内での対立が進行し、結局12月11日に若槻内閣総辞職。

当時の首相には閣僚の罷免権はなく、閣議は全員一致を原則としており、閣内不一致となれば政策決定は不可能に陥るため、総辞職するほかなかったのである。

ここでも書きましたが、以上の事実は中学・高校の歴史の授業でもう少し強調して教えてもらった方がいいと思います。

安達が単独辞職しなかったことについて、安達直系の中野正剛を通じた一夕会との関係を著者は疑っている。

(安達は32年民政党を飛び出し中野らと「国民同盟」を結党。明治期の吏党の系譜として、1890年大成会[杉浦重剛・元田肇]→92年国民協会[西郷従道・品川弥二郎]→99年帝国党[佐々友房]→1905年大同倶楽部となり、安達はこの大同倶楽部の指導者。以後1910年中央倶楽部となり、それが、第一次護憲運動に対抗する目的の桂太郎の指導の下、13年立憲国民党の一部と共に立憲同志会結成。)

政友会は、金輸出再禁止と国際連盟脱退も辞せずとの決意を表明、党首の犬養も党内世論に押し流されたか、大連立には応じず(ただし犬養自身は連盟脱退は考えていない)。

政友会が積極財政と強硬外交、民政党が緊縮財政と協調外交という政策の対比は、高校教科書でも出てきますが、もし民政党政権が積極財政を採り社会不安を和らげることに成功した上で協調外交を継続していれば、あるいは政友会・民政党の大連立政権が軍部を抑え込んで危機の時代を何とか乗り越えていれば、というのはたとえ後知恵と言われようと、どうしても考えたくなる「昭和史のイフ」である。

それにしても、鳩山一郎や森恪(つとむ)ら政友会の一部政治家が、今村・永田に倒閣を依頼するかのような発言をしているのを読むと、深く嘆息してしまう。

戦前の民主主義は軍国主義によって倒されたと決して単純に言えるものではない。

政党よりも軍部に世論の支持があったというだけでなく、政党政治家自身が矯激な世論に媚び、党派心の虜になって議会主義を破壊したのだから、民主主義は自壊した、あるいは民主主義自体が軍国主義を生み出したと解釈する方がよほど実態に合っている。

若槻内閣総辞職時に、若槻への大命再降下が一時検討されたが、軍と世論の攻撃が宮中に向かうことを懸念したため、元老西園寺が断念したと書いてある。

建前上は至高の権威であるはずの皇室が(加えて元老・重臣、まともな政党政治家、多数派世論の尻馬に乗らない穏健派軍人も)、実際は常に過激な衆愚的匿名世論に怯えざるを得ない状況だったことがよくわかる。

「民意」がこれほどの力を持っていた戦前の日本は、すでに「高度」に民主的だったとみなすべき。

だから日本は結構だと言うんじゃないんです。

戦前日本の破局はあくまでデモクラシーがもたらしたものだということを誤魔化すべきではないと言いたいんです。

日本は「非民主的政治制度」のせいで滅んだのではなく、そうした抑制装置があったにもかかわらず、デマゴーグと衆愚の支配を防ぐことができずに破滅したんです。

若槻内閣崩壊と犬養内閣成立で事態は一気に流動化。

陸相には荒木貞夫、参謀総長には皇族の閑院宮載仁親王が就任、32年1月に真崎甚三郎が参謀次長になり実権を握る。

2月には一夕会に批判的になっていた今村均が更迭され、小畑敏四郎が後任作戦課長、軍務局長に山岡重厚、4月永田が第二部長、山下奉文が軍事課長、小畑が第三部長、後任には鈴木率道、と一夕会系が続々昇進(上記の満州事変勃発時のポスト表と見比べて下さい)。

宇垣系の杉山・二宮・建川は中央から追われ、小磯のみは2月に陸軍次官になるが、5ヶ月で更迭、柳川平助が後任次官に就任、結局陸軍中央より宇垣派は追放される。

(この柳川と荒木・真崎・山岡・山下・小畑・鈴木が皇道派の中心。)

31年末より錦州再攻撃、32年年頭占領、2月ハルビン占領、31年12月よりチチハルも長期占領態勢が敷かれ、満州全域の主要都市が関東軍支配下に置かれる。

32年1月第一次上海事変、2月リットン調査団来日、3月満州国建国宣言。

永田による、小川平吉・森恪を通じた、与党政友会への政治工作について記述あり。

当時の政友会内部では、鈴木喜三郎派と久原房之助派が主流派として犬養を擁立し、非主流派の床次(とこなみ)竹二郎派(旧政友会派=党歴の古いグループ)と対立。

鈴木派・久原派とも親軍的で、それに担がれた犬養が軍を抑止しようと努めるというねじれ現象が存在。

犬養は大勢に逆らって、満州国を即時承認せず、中国主権を認めた上での満蒙独立政権を模索するが難航し、そのうちに五・一五事件によって殺害されてしまう。

鈴木喜三郎後継総裁に大命降下せず、西園寺は後継首相に海軍穏健派の斉藤実を推挙。

ここでも政党内閣に否定的な一夕会系軍人の威嚇があった。

軍の圧力が高まる状況下で、政党勢力も元老西園寺と対立することはできず、戦前の政党内閣は終わる。

日本の政党内閣が1924~32年の8年間しか続かなかったことは中学・高校の歴史の授業で必ず教えられます。

しかし1925年普通選挙法成立から、軍の暴走の端緒となった1928年の張作霖爆殺事件までを取れば、たったの3年です。

3年ですよ、3年。

教科書的理解では、普通選挙法に危機感を強めた支配層が同時に治安維持法という稀代の悪法を同時に制定し、軍の専横に歯止めが効かなくなって、未成熟な民主主義が圧殺されたということになるんでしょう。

しかし、本当にそうなんでしょうか?

上記の経緯を見れば、大正デモクラシーと昭和の軍国主義がこうまで年代的に近接している真の理由は、両者の関係が実は「原因と結果」だからじゃないんでしょうか福田和也『昭和天皇 第四部』)。

やっと終わった・・・・・・。

最初取っ付きにくいが、じっくり読むと有益なのは前著と同じ。

しかし前著を読めば、強いて取り組む必要は無いか?

1930年代初頭の政治史の比較的詳細な見取り図を得ることはできるが・・・・・・。

この記事で、興味の持てそうな部分があれば、手に取ってみて下さい。

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佐々木隆 『明治人の力量  (日本の歴史21)』 (講談社学術文庫)

同シリーズ20巻鈴木淳『維新の構想と展開』の続き。

「不羈独立」をキーワードにした明治後半(1889~1912年)の歴史。

最初の方に以下の文章有り。

なお近年、「国民」「民族」「国家」などはある種の政治的意図をもって作為された概念だとして、「国民国家」の虚構性をことさらに強調し、否定的に捉える議論が流行している。「家」「家族」なども槍玉にあげられているようだ。しかしながら大多数の人々が受け容れ認め、信じ目指したものは、仮に究極的にはそれが共同幻想であり虚構であっても「歴史的現実」に他ならない。そもそも人間社会の制度・規範・諸価値は、すべて「幻想」であり「擬制」である。「個人」「自由」「人権」などの近代的価値についても検証した上で議論しないのは不公平かつ知的怠慢というものであろう。

この文章だけで、本書を読む価値があります。

全く同感。

今、何よりも相対化すべき価値は「自由」と「民主主義」であり、それを享受する資格がある自分たちだけで社会を永遠の進歩の過程に載せることができると考える民衆の固定観念のはず。

なお、明治政府の「超然主義」について、(1)全党排除型、(2)全党参加型、(3)良民政党型、(4)国民政党型という四つの類型を提示し、通常、政党を通じた国民の政治参加拒否と解釈される超然主義は、それ自体が目標なのではなく、「不羈独立」→「富国強兵」→「公正な政治運営」→「超然主義」という重層的目標の一部であり、恒久的理念でもなく時限的概念だったと指摘し、それを実際の史実描写の中で表現している。

普通対蹠的に扱われる明治憲法と現行憲法について、制定当時の国際社会への参入条件という外発的事情による拘束、設計主義的性格、一種神聖視される硬性憲法であること、制定時の外国人の関与と非公開性(このうち前者の点では旧憲法の方がマシ)、実際の条文と運用の乖離(旧憲法の天皇大権と新憲法の戦力不保持)など、数々の共通点を持っているとの指摘には思わずニヤリとしてしまう。

この天皇不親政という不文律と実際の条文のズレを埋めるための重要な柱が元老の存在だったわけだが、その資格が維新と明治国家建設への貢献という一回性の現象に拠っていたため、旧憲法は元老の死去・消滅という時限爆弾を抱えていたと評されている。

元老の名前は全て憶えましょう。

まず長州から伊藤博文山県有朋井上馨

薩摩から黒田清隆松方正義西郷従道大山巌

まずこの7人の名がすぐ出てくるようにすること。

彼らが、20世紀に入って、1901年第一次桂太郎内閣成立とともに政界の第一線から退きつつも、首相選任権を行使して大きな影響力を保持し続ける(後述の通り、黒田のみはそれ以前に死去している)。

それ以前には、「元老」ではなく「元勲」と呼ぶのが普通。

本書によると、他には、長州の山田顕義が元勲、公家の三条実美は準元勲扱い(両者はそれぞれ1892年、91年に死去したため元老には数えない)。

以後、元老には長州閥で山県直系の桂太郎と、公家出身で伊藤博文から政友会を引き継いだ西園寺公望が加わる。

1885年内閣制度設立以来、20世紀までの首相は、1898年の第一次大隈内閣以外、全て上記7人のうちから選ばれた(自ら組閣しなかったのは井上・西郷・大山)。

1901年から明治末年までは桂園時代なので、結局元老は「(大隈重信を除いて)明治時代に総理大臣になったか、なってもおかしくなかった人」ということになる。

史上、9人しかいない。

(本書では大隈も元老に追加されたと書いてあるが、それは他の本ではあまり聞かない。)

よく知られているように、この元老には、憲法その他、いかなる法的根拠もありません。

しかし、こういう「非民主的な重石」が消えると同時に、議会政治が崩壊に向かったんだから、意図的にそうした存在の継続を保障することが必要だったんではないでしょうか。

著者は、明治の「建国の父たち」が死去していき、「建国者の息子たち」がそれに劣る権威しか持てなかったのは不可抗力でやむを得ないとしているが、首相経験者が「重臣」という曖昧な形ではなく、確固とした地位を占めて議会・軍部・世論の上に立つという体制にならなかったものかと考えてしまう。

あと、具体的史実に関する叙述から、気になったものを以下抜書き。

大成会・国民協会・帝国党・大同倶楽部・中央倶楽部という吏党が唯々諾々と政府に従ったのではないことが印象的。

有名なのは、日清戦争直前、第二次伊藤内閣と自由党の接近に反発して、改進党と国民協会が協力して政府を攻撃した、「対外硬」派連合で、これは教科書に載っている。

首相権限が縮小した1889年の「内閣官制」(伊藤博文についてのメモ その1)は、年代から言って、同年成立の第一次山県内閣で制定されたと私は考えていたのだが、本書によると、黒田内閣と山県内閣の間の暫定内閣である三条実美内大臣兼任首相時期の制定だとのこと。

これは、しかし・・・・・細か過ぎるか。

この暫定内閣自体、めったに出てこないし、軍部大臣現役武官制・文官任用令改正・文官懲戒令および文官分限令制定と並んで、山県内閣の施策として憶えてもいいかと思う。

外交面では、明治国家の成立当初から続いていた厳しい国際環境が義和団事件を機に好転していく様や、日本の独立を十全に保障できる形での日露戦争回避の可能性は極めて少なかったとの判断(この点伊藤之雄『伊藤博文』と異なる)、ハリマン計画を受け入れて満鉄経営にアメリカが参加していたとしても、同時に同国が西太平洋でのシー・パワー拡張と覇権確立を目指している以上、日米対立を回避することは不可能だっただろうとの見解が興味深い。

内政に話を戻すと、いわゆる「藩閥」の系譜について。

長州閥が、政党への態度によって、山県系と伊藤系に分裂。

山県系は官僚政治家の大部分と長州系陸軍軍人が参集、日清戦争後には郷党色を超えて保守的勢力を結集した「山県系官僚閥」というべきものに進化。

伊藤系は立憲政友会という大政党を生むが、政府・官僚内においては大きな勢力にならず。

一方、薩摩閥は1900年黒田清隆死後、黒田派は解体、松方派も求心力が弱く、多くの人材が山県系に合流、海軍と警視庁、および両者に劣るが陸軍でもそれなりに有力な人脈が存在したが、上記の事情により日露戦争後には「薩派」と格下げして呼ばれることが多いとの事(ということは、黒田も桂内閣成立以前に他界しているわけである。でも元老から黒田を外すようなことはまず無い。なお、他の本では黒田が健在な時期でも「薩派」と書いているのを読んだ覚えがある)。

また、第二次内閣における日韓併合と大逆事件のマイナスイメージが大きい、桂太郎について、その立憲主義と社会政策上の功績を高く評価しているのが注目される。

素晴らしい。

前巻とは打って変わって、政治史と外交史中心で、昔ながらのオーソドックスな通史という印象だが、どの概説書および伝記作品にも劣らない内容を持っている。

100%の確信を持ってお勧めできます。

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鈴木淳 『維新の構想と展開  (日本の歴史20)』 (講談社学術文庫)

この講談社版「日本の歴史」シリーズは、文庫化されつつあった頃、通読しようかどうか迷った末、結局読みませんでした。

情けない話ですが、前近代の日本史については、教科書の『詳説日本史』と参考書の『石川日本史B講義の実況中継 1』『同 2』『同 3』を気の向いた際に時々読み返すだけという状態。

相変わらず高校日本史レベルもおぼつかない状況です。

2011年のセンター試験では一問間違えただけで済みましたが、今ならポロポロ取りこぼすんじゃないですかね。

せめて近現代史の巻だけでもと思い、立ち読みしたところ、この巻と次巻のみ手に取る気になりました。

明治初年から1889(明治22)年憲法制定まで、二十余年の明治前半の歴史。

目次を眺めるとさほど網羅的には思えないが、通して読むと教科書に出てくるような重要事項は漏れなく叙述されているという作り。

社会史・経済史的記述が多く、一部は砂を噛むような文章もあるが、その辺は細部を気にせず、飛ばし読みでいいでしょう。

この明治前期は諸改革が集中している時期ですので、一年ごとに何があったのか、教科書でバラバラに出てくる事項を自分で手書きしてメモしてみるといいかも。

なお、近現代史では、私はあまり年号の語呂合わせは使いません。

西暦の下二桁をじっくり眺めて、その数字と歴史用語を印象付けることを、面倒がらずに何度でもやります。

それしかない。

以下、ほんの数行の内容紹介。

第一章「明治の『藩』」。

公議という概念の諸相についてあれこれ。

事実関係として明治初年の立法機関のみ整理。

1868年政体書で定められたのが議政官。

議定・参与で構成される上局と藩代表の貢士からなる下局に分かれる。

下局から替わった貢士対策所が翌69年公議所となり、それが同年集議院となるが、集議院は諮問機能のみとなり、73年左院に吸収、75年大阪会議後元老院が設立、それが90年帝国議会開設まで存続。

第二章「戸長たちの維新」。

民法上の「戸主」ではなく戸長。

廃藩置県後に敷かれた大区小区制について。

数町村をあわせた小区と数小区からなる大区を府県のもとに設置。

小区あるいは村の長が戸長と呼ばれた(大区の長は区長)。

その戸長が、郵便・学制・徴兵令・地租改正などの改革を担い、政府と住民の橋渡しをした様が記述される。

第三章「士族の役割」。

外交・内乱・秩禄処分の他、国立銀行設立における士族の役割について。

(この「国立銀行」は、明治史においては1872年国立銀行条例に基づいて設立された民間銀行の意。)

第四章「官と民の出会い」。

民権運動、軍人勅諭、明治十四年の政変。

大久保利通暗殺後、十四年政変までの政府内最有力者は大蔵卿の大隈重信だったとされている。

第五章「内治を整え民産を殖す」。

殖産興業、経済史、条約改正、内閣制度。

第六章「憲法発布」。

一般では人民の権利保護が憲法の中心と捉えられていた。

新憲法との比較や戦前昭和の記憶から、旧憲法は国民の権利に法律の制限が付されていたことが普通強調されるが、民選の衆議院を通過しなければ法律が成立しない以上、民意に依らない権利制限はなされないのが原則であった。

言われてみると盲点だが、本当にそう。

緊急勅令という手段があっても、議会の事後承諾が必要な限り、乱発できるはずもない。

議会の選出が制限選挙で有権者が限られていたといっても、選挙権が徐々に拡大するのを止めることは誰にもできず、一度与えた参政権を再び剥奪するなんてことはほとんど不可能なのだから、国民の権利保護について明治憲法と現憲法の間に根本的な差異があるとは認めがたいのではないかと個人的には思う。

憲法発布に際して、河野広中、大井憲太郎、片岡健吉、星亨など民権活動家への大赦が行われる。

五箇条の御誓文から憲法制定に至るまで、反政府活動家をも包含して、皇室による国民統合を図るという意志は一貫していた。

それが明治期には有効に機能していたが、反対者がほぼ絶無に等しい反面、同じ概念が矯激な在野勢力によって反政府運動の武器に使われる危険もあり、その弊害が昭和に入って噴出することになる。

一冊でわずか二十数年を叙述した本だが、それでも相当簡略に感じる。

一方、経済史関連ではややだるい部分も。

ごく普通の評価です。

教科書と併読して、年号をチェックしながら読めば効用は高いかも。

ざっと立ち読みして、そこそこいいと思った方だけどうぞ。

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戸部良一 『外務省革新派  世界新秩序の幻影』 (中公新書)

1930年代以降、軍部に同調し内外政策の刷新を主張した外務省官僚を描いた本。

著者は高坂正堯氏門下の方。

『失敗の本質』(中公文庫)の共著者として有名。

他に『日本陸軍と中国』(講談社選書メチエ)、『逆説の軍隊(日本の近代9)』(中央公論社)なども書かれているが、いずれも未読。

著者と、海軍研究者で「大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)」館長の戸高一成氏を時々混同しそうになります。

本書で叙述の中心となるのは白鳥敏夫という外交官。

昭和史では、日独伊三国同盟推進派の駐伊大使として、駐独大使の大島浩と並んで悪名高い人物。

(大島は元陸軍駐在武官上がりなので、本書ではあまり取り扱われない。)

東京裁判でのA級戦犯の中で、外交官は広田弘毅・松岡洋右・東郷茂徳・重光葵・白鳥だが、そのうち白鳥を除く4人はいずれも外相経験者であり、大使にしか就任していない白鳥の扱いは異例と言える。

その原因が本書の記述の中で探られる。

1919年パリ講和会議での日本全権交渉団の不振と不手際を見た人々が、「外務省革新同志会」を結成する。

いきなりキナ臭い名前が出てきたが、その主張は、人材の育成・抜擢、機関拡張、予算充実など、まあ罪のないもの。

メンバーは有田八郎、杉村陽太郎ら。

彼らの進言も一因となって、外務省に情報部が設置される。

これはその名から想像されるような、情報の収集・分析を任務とする諜報(インテリジェンス)機関ではなく、主に海外を対象にした広報・宣伝関係の部署。

同じ時期、陸軍は「新聞班」を設置し、対外的にではなく国内広報においては、外務省よりも軍の意向がより強く報道される傾向となる。

人材や試験制度の話があれこれ載っているが、流す。

ただし大使と公使の区別だけはつけておく(事実上格下と見なされた国には大使ではなく公使が派遣されていたなどということをチェック)。

満州事変の衝撃から、いよいよ革新派の形成が始まる。

白鳥は上記情報部長に就任していた。

「石井・ランシング協定」の石井菊次郎の甥であり、著名な東洋史家白鳥庫吉の甥でもある。

元は幣原外交に忠実だったのだが、事変にあたっては激越な言辞で自国を擁護。

満州国承認時期を外国人記者に問われて、白鳥が「別に急ぐこともないさ、運河を掘るわけじゃないからね」と、米国がコロンビアからパナマを強引極まりない仕方で独立させたことを引き合いに出したエピソードを読むと、確かに一種の痛快感を持たないでもない。

ハワイ併合のやり口と満州国樹立工作とで、時期以外に道義面で何か違いがあるのかという思いは確かにある。

しかし現実として可能なことと、不可能なことを厳しく認識する必要からすると、やはり危うい。

以後、政治的活動が目立つようになる。

1933年少壮外務官僚が「僚友会」結成。

外交刷新・人事革新・機構改革を唱えるが、これもそれほど過激な主張をしたわけではなく、後年の革新派とイコールではないとされている。

事変後、外務省首脳部と主流から幣原外交に連なる人物が外され、有田八郎・重光葵・広田弘毅らを中心とする体制が形成される。

彼らはワシントン体制の修正を厭わない立場で、多くが元「革新同志会」メンバーであった。

有田・重光・広田らの、この新しい主流派をさらに急進的な立場から批判するのが、本書の定義する外務省革新派であり、白鳥・栗原正・仁宮武夫などがそれに属する。

ただし結束力は強くなく、個人の関与の度合いにも濃淡があったとされている。

私は、この新主流派と革新派の区別が曖昧で、例えば重光葵を、この時期は革新派だったと考えてしまっていた。

革新派は「皇道外交」を掲げたが、意外にも彼らには、従来の対中利権重視の帝国主義外交や国家至上主義への批判や、国際協力組織樹立の肯定などを主張する面もあった。

しかし、その理念の根底には日本主義的観念論があり、国体明徴運動とも連動していく。

ここで天皇機関説問題についての以下の文章が目にとまる。

「顕教」を掲げる国民(少なくともその一部)が、統治者の足をすくった。大衆がエリートに挑戦して、「ほんね」を否定させ、「たてまえ」だけが正しいと認めさせた・・・・・

この認識は極めて正確。

たとえ表面上、大衆煽動に利用された言説が前近代的・権威主義的ものであったとしても、戦前の軍国主義の本質は、徹頭徹尾民主主義的運動だったということを認識しない限り、真に歴史から学ぶことは不可能と思われます。

同じようなことを何度も何度も書いて恐縮ですが、私にとって最も重要と思われることと逆のことが「常識」とされてしまっておりますので、書かずにおれません。

なお、本書では外務省以外の官庁における「革新官僚」と、外務省革新派をはっきり区別している。

いわゆる革新官僚が、イデオロギー的共感は別にして好むと好まざるに関わらずマルクス主義の影響を受け、経済の計画化と資本主義批判、政党政治否定を主張したのに対し、反ソ反共を(当初は)表看板とする外務省革新派との間には距離があったとしている。

外務省主流の広田・重光らが、満州国を認めさせた上での中国の国権回復運動を支持し、国内では穏健な既成勢力とも妥協したことに、外務省革新派は攻撃を加える。

1930年代半ば、革新派は中国よりの「外力」排除を唱えたが、その主敵は米英ではなくソ連であり、対ソ必戦論を採り、主張を同じくする陸軍皇道派と交流。

共産主義への警戒は当然だが、現実を無視した、硬直した戦争論はかえって危険極まりない。

ところが、二・二六事件と日中戦争勃発後、この対ソ強硬論と日ソ必戦論が大きく変化。

支那事変の泥沼化によって国民政府を支援する米英への対立感情が前面に出るようになり、独伊への接近論が加速、革新派は以後枢軸派となる。

白鳥は当時の世界情勢を、現状維持を目標とする「人民戦線諸国」と現状打破を目指す「全体主義諸国」の対立と主張した。

1938年、白鳥を外務次官に擁立しようとする動きが起こり、近衛内閣での宇垣一成外相の後任にも擬せられるが、結局失敗、白鳥は駐イタリア大使に着任、同時に大島浩が駐ドイツ大使に。

この白鳥次官擁立運動に関わった人物の一人として牛場信彦の名が出てくることに少々驚く。

ハミルトン・フィッシュ『日米開戦の悲劇』(PHP文庫)監訳者まえがきでの岡崎久彦の敬意に満ちた筆致から受けるイメージからは程遠いと思われる事実ではある。

この1938年はミュンヘン会談の年であり、防共協定強化問題が持ち上がった年でもある。

日本の立場としては、ドイツとイタリアとを分けて、日独の軍事同盟はソ連を対象とするもので、日伊の政治協定と合せて、英仏へ圧力をかけ、援蒋行動を中断させ、イギリスに日中和平を仲介させることを目的とするもの。

つまり英仏は同盟の軍事対象ではない。

これに対し、ドイツは一般的同盟を提案。

日本陸軍はドイツの提案に応じようとするが、海軍と外務省主流は反対、白鳥ら革新派は陸軍に与する。

この対独接近の動きは、1939年8月独ソ不可侵条約締結でひとまず頓挫。

白鳥は独ソ接近の可能性を察知しており、その状況認識自体は正しかったが、それゆえに日独接近を急ぐべきだと主張していた。

これ以後、白鳥は、防共協定がむしろ日英を接近させるだろうとの従来の主張を捨て、日英対立は妥協の余地の無いものであり、来るべき日独伊三国同盟はソ連を対象とするものではなく、米英仏を抑止し中立を守らせるためのものであるべきだとの論陣を張る。

日ソ独伊のユーラシア四国同盟の幻想に囚われたと言える(三宅正樹『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』参照)。

加えて、積極的な日ソ連携さえ主張し、ソ連はすでにボリシェヴィズムを脱却して独伊に近い政治形態になったと強弁するに至っては、おいおい反共主義はどこに行ったんですか?といいたくなる。

同じ観念主義に走るのなら、ナチズムも共産主義も前近代的価値観から「解放」され自由になった大衆が生み出したものだ、米英仏も独伊ソも根底で民主主義・近代主義という精神の病に罹っている点では同じ穴のムジナだ、米英仏が慢性疾患なら独伊ソは急性疾患の患者だ、緊急避難として急性疾患国の脅威を除くため慢性疾患の国と一時的に協力するのに吝かではないが、しかし日本は民主主義・近代主義という価値観自体認めませんよ、という筋道がどうして立てられなかったのかと慨嘆する。

そう考えれば、日本国内における極右的国粋主義についても、どれほど復古的言辞で装われていようとも、「民衆の主体性」への肯定の上に立っている以上、 その本質は民主的運動だ、卑しい大衆が皇室をおもちゃにしているだけだ、という自己懐疑だって生じたはずです。

訓令無視を繰り返したため、白鳥は39年9月召還、帰朝。

第二次大戦が始まっても、独ソ接近とかつての主張との矛盾を突かれた自身への批判にも関わらず、あいかわらずドイツの勝利を確信し日独同盟を主張。

それだけならともかく、ナチの受け売りの反ユダヤ主義的言説を撒き散らしているのを読むと心底情けなくなる。

40年6月フランスが降伏し、不幸にして日本国内で対独接近論が息を吹き返す。

40年7月第二次近衛内閣、9月三国同盟締結、北部仏印進駐。

これら政策の主導者であった松岡洋右外相は本書によれば人脈的には革新派ではないとされている。

41年4月日ソ中立条約、6月独ソ戦、7月南部仏印進駐、12月日米開戦。

この年4月ごろ、白鳥は躁病に陥ったと書いてあって、おやおやホントの病気だったのかと思った。

そして敗戦後には、キリスト教国教化と戦争放棄を主張するのだからあきれてしまう。

占領軍に対して、先帝と皇室制度を守る意図があったことを割り引くにしても、ちょっとひどすぎる。

戦前には先帝について、側近の影響で平和主義者だと非難めいた言葉を述べているのだから、何をかいわんやである。

1948年東京裁判で終身禁錮の判決、49年に病死。

エピローグに以下の文章あり。

当時は、いわゆる国民外交の時代、あるいは外交の大衆化の時代であった。かつて外交はエリートの関心事であったが、革新派が登場してきた時代は、外交がエリートの独占物ではなくなった。そして、このような時代には、革新派が提示した単純明快な説明のほうが、エリート好みの難解な解説よりも説得力を持ち得たのではないだろうか。こうした意味で、外務省革新派は外交の大衆化、民主化の申し子であったとも言えよう。

結論として非常に適切。

われわれ民衆の自由や発言権が拡大することが必ず社会を良くするという主張には、全く、何一つ、一切、絶対に、何度考えても、百歩譲っても、天地がひっくり返っても、根拠が無い。

キルケゴール(『現代の批判』)やヤスパース(『現代の精神的状況』引用文1引用文2引用文3)が描写したような、底無しに愚かで卑劣で無責任な世論の支配と「民意の尊重」こそが日本を破滅させたと言うべき。

戦前の歴史から真に汲み取るべき教訓は、「自由と民主主義の大切さ」ではなく、自由を得た国民がデマゴーグによって野蛮な衆愚と化すことによってもたらされる事態の恐ろしさであるはず。

そういうことをきちんと捉えている本と言えるので安心して読める。

かなり良い。

じっくり読み込めば、通史的知識も確認できて非常に有益。

各内閣順と、出来れば外相就任者を記憶すればなお良い。

(私自身、外相は一部除いてかなりあやふやですが。)

時間と労力をかける価値のある良書です。

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戦前昭和期についてのメモ その6

その5に続き、福田和也『昭和天皇 第四部』(文芸春秋)より。

1936(昭和11)年、二・二六事件、広田弘毅内閣、軍部大臣現役武官制復活、日独防共協定、ロンドン海軍軍縮会議脱退(ワシントン、ロンドン海軍条約失効)。

世界では、英ジョージ5世崩御、シンプソン事件でエドワード8世退位、ジョージ6世即位(~52年)、仏ブルム人民戦線内閣、独ラインラント進駐(ロカルノ条約破棄)、西人民戦線政権とスペイン内戦、ベルリン・ローマ枢軸結成、ソ連大粛清本格化(ジノヴィエフ、カーメネフ処刑)、スターリン憲法、中国では西安事件。

日本では二・二六事件の悪影響で政治的リーダーシップが一層希薄となり、定見無く強硬策を唱えるだけの軍部がますます力を得る。

ナチス・ドイツが自国内での軍配置という形ではあるが国際条約を破棄し(ラインラント進駐)、国外(スペイン)の内戦に介入し、イタリアとの関係を固めるなど、攻撃的政策を採り始める。

それに対し英仏は迅速に対応できず、ソ連ではスターリンが狂気のような弾圧に耽る始末。

この年、米国ではルーズヴェルトが再選されているが、孤立主義的世論は根強いものがあり、さらに翌37年には不用意な財政支出削減によって米経済の再崩壊が訪れる状況。

そして西安事件により、共産党を蘇生させることを悟りつつもナショナリズムに押し流された蒋介石政権が対日融和策を放棄せざるを得なくなり、これまで通りの対中政策がもたらす危険が桁違いに高まっている状況下で、よせばいいのに、日本は日独防共協定で対独接近への第一歩を踏み出す(ただし協定締結は11月、西安事件は12月とやや時期は前後する)。

二・二六事件で殺害された三人の主要人物名は、教科書にも載ってることだし、役職名と共に憶えましょう。

高橋是清蔵相、斉藤実内大臣(前首相)、渡辺錠太郎陸軍教育総監。

岡田啓介首相は、人違いで別人(義弟だったか)が襲われ無事。

鈴木貫太郎侍従長(終戦時の首相)も重傷を負う。

事件後、皇道派は排除されるが、反って統制派の政治支配に歯止めが利かなくなる。

浜田国松議員と寺内寿一陸相の割腹問答(演説)も空しく、広田内閣下、議会主義と政党政治は後退する一方となる。

たまに右寄りの人で二・二六で蜂起した青年将校に共感を示す人がいるが、私は到底同意できない。

そうした見方に何一つ真理が無いとは言わないが、後世への悪影響があまりにも大き過ぎる。

なお、この部分では著名な人物についての意外な一面を描写している。

まず、ワシントンおよびロンドン海軍軍備制限条約失効により無条約時代に入った海軍で、山本五十六が対独接近を主導したことが記されている。

もちろんドイツと結んで米英と戦うつもりは無く(実際よく知られているように後年三国同盟と対米宣戦に反対している)、米英との関係が疎遠になった分、ドイツから軍事技術を得ることのみを目的としたものだったとされているが。

山本は海軍の理性的穏健派として人口に膾炙しているが、著者の評価はあまり高くないようである。

翌37年盧溝橋事件に際して内地師団動員に賛成し、38年第2次上海事変で出兵を主張、加えて国民政府との和平交渉打ち切りを支持した近衛内閣海相の米内光政なども、次の巻では世評に反してかなり厳しく批判されそうですね。

もう一つ、広田内閣組閣時、外相候補となりながら軍部の横槍で就任できなかった吉田茂について。

駐英大使として赴任したが、不用意に日ソ戦勃発時の英国の態度に探りを入れ、英国の疑念を招き警戒され、信任が薄くなったと書かれている。

こういう普通肯定的に見られている人物でも、問題点を指摘するのは適切だと思う。

あと、メモすることと言えば・・・・・。

ヒトラー政権は1933年から1945年まで、12年間存続。

第二次世界大戦勃発が1939年だから、「平時のナチズム」と「戦時のナチズム」は奇しくもちょうど6年ずつ。

しかし区切るのなら33~37年と38~45年で分けた方がいいか。

保守派の国防相ブロムベルクと外相ノイラートを解任し完全な独裁体制を固め、オーストリアとズデーテン地方併合で国外への本格的侵略が始まったのが38年なので。

この二つはドイツ系住民の居住地であり、ナチ政権の体質に意図的に目を瞑れば、まだギリギリ「民族自決」の美名で正当化することもできたが、39年にヒトラーが、自ら英仏に強要したミュンヘン協定すら破り、チェコ(ベーメン・メーレン)を併合しスロヴァキアを保護国化することにより、さすがにチェンバレンと西側世論の堪忍袋の緒が切れ、ポーランドへの領土保証→第二次大戦勃発ということになる。

非常に読みやすく、面白い。

短い期間が叙述範囲だが、その分一年ごとに教科書や年表で復習すると、初心者には極めて効用の高い読み方ができる。

国際情勢に関する記述は他の本で補強が必要だし、35年の華北分離工作についてまとまった記述が無いのは大きな欠点だが、他には目立つ短所は無い。

年号など細部を記憶することにより、凡庸かつ通俗的な「歴史の流れ」を受け入れるのではなく、真に意味のある「歴史のイフ」を考えることができるという意味の文章を以前引用しましたが(内田樹6)、本書に関する記事ではそれを少しは実感して頂けたでしょうか?

(と言っても、ほぼすべて、本書の見解を含め他人の受け売りですが・・・・・。)

著者の福田氏は、書く媒体によって作品の玉石混交が激しいという印象を持っていますが、これは間違いなく「玉」の方です。

熟読玩味するに足る良書。

このシリーズを基本書にして、他の本で肉付けして昭和史を学んでも良い。

お勧めします。

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戦前昭和期についてのメモ その5

その4に続き、福田和也『昭和天皇 第四部』(文芸春秋)より。

1935(昭和10)年における日本の岐路を再び考察。

この年、日本は対英協調による幣制改革支援を拒否、華北を勢力圏下に置く政策を推進することにより、中国との全面対決路線へ向かう。

35年末の冀東政権成立と41年7月の南部仏印進駐が、それぞれ日中戦争と日米戦争の「ポイント・オブ・ノーリターン」となったとの見解を読んだことがある。

それくらい、この年の華北分離工作は致命的。

英国の宥和政策にもし乗っていれば・・・・・・。

英国とそれに続くヨーロッパ諸国の満州国承認によって、中国ナショナリズムは拳の振り下ろし所を失い意気消沈、蒋介石は対日和解を進めると共に共産党討伐を継続できる。

日本が満州国の黙認だけを求め、長城以南の中国本土には一指も触れず、治外法権撤廃や関税自主権回復などの問題でむしろ協力的態度を示せば、日中関係を安定軌道に乗せることは、この時期まだ十分可能だったはず。

スティムソン・ドクトリン(不承認政策)を掲げる米国も、こうなっては現状を黙認するほかない。

ところが実際には、低俗かつ無責任な国内世論に流され、全く逆の強硬策を採用し破滅的結果をもたらすことになる。

2年後の37年には日中戦争が勃発し、泥沼の長期戦で全く身動きが取れなくなった状態で米英との対立を深め独と接近、39年第二次世界大戦勃発、41年日米開戦となる。

35年から2年ごと、奇数年に状況が劇的に悪化しているのをチェック。

史実では、35年の対中強硬策が2年後の日中全面戦争に繋がり、政策選択の幅を異常に狭めた状態でそのさらに2年後、欧州の第二次世界大戦勃発を迎えたわけだが、この時フリーハンドを持っているのといないのとでは、天と地ほどの違いがある。

また、欧州での英仏vs独伊とアジアでの日本vs中国の各陣営が、実際の史実の通り結びつかなければならない必然性は無かったはず。

そもそも33年日本の国際連盟脱退に際して、リットン報告書採択時、日本だけが反対(タイ[シャム]のみ棄権)ということは、考えれば独伊とも日本とは反対陣営にいたということ(日本の脱退は3月、独の脱退は同年10月)。

南京国民政府はドイツから多くの軍事援助と軍事顧問団を受け入れ(ナチ政権成立後も)、そのため日中戦争初期の戦いは一面「日独戦争」の側面すら見られた(松本重治『上海時代 下』(中公文庫)参照。ドイツに言わせれば共産党討伐を続ける蒋介石を背後から攻撃することこそ日独防共協定に反するということだろうが)。

(さらに言えば必ずしも左翼的立場でない史家でも、蒋介石政権自身がファッショ的傾向を持っていたとする見方もある。)

もし35年に違った対中政策を採って37年の全面戦争が避けられていたとしたら・・・・・・。

欧州での大戦勃発に際しては、時間稼ぎをし、形勢を展望する余裕も持てたはず。

仮に史実の通り36年に日独防共協定を結んでいたとしても、独ソ不可侵条約でそれは実質白紙化されているのだから、黙ってヒトラーが滅びるのを傍観しておればよい。

何があっても軽挙妄動せず、どんな挑発にも乗らず、世界第二位(あるいは三位)の海軍力を盾にし、(史実では南部仏印進駐後くらった)石油禁輸だけは宣戦布告を意味すると大々的に宣言して米英世論に釘を刺し、ハリネズミのように極東で独自路線を貫けばよかった。

米英両国も、どうせ何もできやしません。

ナチ打倒を最優先する以上、自ら第二戦線を開く決断は、当時の米国のような桁外れの国力を持った国でも、そう簡単にはできないはず。

それで戦後ドイツ問題をめぐって米ソ冷戦が始まれば、きっと向こうから擦り寄ってきますよ。

フランコ政権下のスペインに対してもそうだったし、まして日本の国力と戦略的地位はスペインの比じゃない。

その場合の日本は、300万人の同胞が死ぬこともなく、国民政府統治下の中国と和解し、中国共産党を辺境部に逼塞させ、米英など西側諸国とは不即不離の関係を保ち、外国軍隊を国土に駐留させることもなく、自らの軍事力でソ連の脅威に対抗することになる。

国際情勢の激変を受け、国内では軍部と極端な国粋主義の勢力は後退し、政党政治が復活し、明治憲法の欠陥を一部是正した上で、正常な議会政治を運営していたでしょう。

(政党政治と議会主義の復活が即ち「民主主義の復活」であるとは、私は思わない。無思慮で矯激なだけの衆愚的匿名世論の影響を退け、少数の責任ある議員による統治に戻ることはむしろ「民主主義の後退」、あるいは控え目に言っても「直接民主制から間接民主制への移行」である。戦前日本に必要だったのはまさにこういう意味で「民主主義を抑圧し後退させること」だったはず。議会主義を民主主義とイコールだと思っている人は、議会が民意を間接的に汲み上げるための制度であると同時に、民衆の意思を直接的には反映させないための制度であることを忘れている。)

朝鮮・台湾・南洋諸島には自治が与えられ、満州国は真の独立国に相応しい内実を持つようになり、日本帝国は英連邦のような形で存続したかもしれない。

真に安定した、秩序ある自由の唯一の根源である伝統と歴史的継続性を、深い傷を負わせることなく保守し、デモクラシーの風潮を半分ではやむを得ないものとして受け入れつつ半分では主体的に拒否する選択を行なうこともできたかもしれない。

「何でそうならなかったのか???!!!」と切歯扼腕せずにいられない。

私はそういう日本に生まれたかったです。

35年は二回に分かれてしまいました。

次回36年と全体の感想を書いて終わります。

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戦前昭和期についてのメモ その4

その3に続き、福田和也『昭和天皇 第四部』(文芸春秋)より。

1935(昭和10)年、天皇機関説問題・国体明徴声明、対中外交上の広田三原則、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定、冀東防共自治委員会(のち自治政府)設置などの華北分離工作、永田鉄山斬殺(相沢事件)。

世界では、ストレーザ戦線、伊エチオピア侵入、英マクドナルド挙国一致内閣退陣、ボールドウィン保守党内閣成立、仏ソ相互援助条約、独再軍備宣言、ザール併合、ニュルンベルク法制定、英独海軍協定、コミンテルン第七回大会で人民戦線戦術採択、中共八・一宣言、南京国民政府幣制改革、米中立法およびワグナー法。

上記の通り、教科書レベルの出来事だけ挙げても、極めて事件の多い年であることがわかる。

この1935年は国際情勢の対立構造変化の年として極めて重要。

まず、前34年のオーストリア危機を契機に英仏伊3ヵ国の反独包囲網であるストレーザ戦線が成立したかと思いきや、イタリアのエチオピア侵攻により英仏と伊が離反、独伊が接近し枢軸陣営形成に向かうという変化が最重要事項。

日本は、排日運動停止・満州国黙認・共同防共の三つを見返り無しで一方的に南京国民政府に要求する広田三原則を提示。

国民党機関を河北省とチャハル省から撤退させた上記二つの協定締結、冀東防共自治政府設置により、満州のみならず長城を超え華北までも自らの勢力下に置く姿勢を示したため、国民政府内の親日派は失墜、蒋介石も国内の過激な反日ナショナリズムを制御できなくなり、翌36年には西安事件が起こる。

日本は、33年塘沽(タンクー)停戦協定で得た、何よりも貴重な日中関係の小康と安定状態を愚かにも自ら捨ててしまう。

日中両国が排外的ナショナリズムの虜になり、妥協と冷静さを説く同国民を「売国奴」として排撃し、互いに傷つけあった結果、日本は有史以来未曾有の敗北、中国は国土の荒廃を代償にした惨勝およびその直後の共産化と、双方が致命的な破局を迎え、結局漁夫の利を得たのは米国と共産勢力のみ。

こういう歴史だけは繰り返したくないものです。

以上まとめると、欧州では英仏および独伊の各陣営が形成され始め、東アジアでは日本と中国が再び全面対決路線に向かう一方、ソ連は仏ソ条約と人民戦線戦術で西側に接近しつつも独との了解への可能性を残し各陣営を両天秤にかけ、米国は国内の孤立主義的世論に拘束されて中立を保つが同時に介入の機を窺う、というのがこの1935年の情勢。

他に補足として何点か。

7月林銑十郎陸相が真崎甚三郎教育総監を更迭し、皇道派・統制派の対立激化、相沢三郎が軍務局長永田鉄山を殺害すると林陸相辞職、後任は川島義之、この陸相の下で二・二六事件を迎える。

第一次大戦でドイツから一時分離されていたザール地方がドイツに併合されており、ヒトラー政権成立後初の領土拡大だが、これは国際協定に基づく住民投票によるものであり、別段不法なものではない。

29年労働党首班として第2次内閣を組織したマクドナルドが労働党を除名されつつ31年挙国一致内閣を成立させ、それがこの年まで続いている。

マクドナルド退陣後ボールドウィン内閣、これに続くのが37年成立し、ヒトラーに対する宥和政策で有名な(悪名高い)ネヴィル・チェンバレン内閣。

チェンバレンはボールドウィン政権にすでに蔵相として入閣しており、ボールドウィン内閣時代から上記英独海軍協定など宥和政策の萌芽が見られる。

このイギリスの対外政策に絡んで、1935年日本はその運命を決する重大な分岐点を迎えていた。

蔵相ネヴィル・チェンバレンの意を受けて、英政府最高財政顧問サー・フレデリック・リース=ロスが来日、日英が提携して中国への共同借款を供与、中国に強力な中央銀行を設立、幣制改革を遂行し、代わりに英国と中国が満州国を承認するという提案を行なう。

チェンバレンは、勃興しつつあるナチス・ドイツの脅威に対抗するには、日本との融和を進める必要があると考えていた。日本との関係を修復し、日本を国際秩序の担い手として復帰させようというのである。そのためには、イギリスとともに中国にも満州国を承認させ、その上で国際聯盟に日本を再加入させるというスケールの大きな外交戦略を抱いていた。

・・・・・・・

日本にとって願ってもない提案といってよいだろう。両国が満州国を承認してくれれば、孤立が解消されるだけでなく、満州の体制も磐石になる。たとえ、中国が承認を拒んだとしても、イギリスが承認する意味は絶大である。イギリスが承認すれば、不承認政策を掲げるアメリカは別として、他のヨーロッパ諸国が承認する可能性がある。

・・・・・・・

イギリスは、中国経済を安定させることで、自国の在中権益を守るとともに、日本との関係を改善し極東での主導権を回復させることができる。さらに日本をドイツから遠ざけて、イギリスと利害を共有させることもできる。

チェンバレンが対独宥和の数年前に行なったこの対日宥和政策に乗っていれば、日本の運命は全く変わっていたはずである。

硬直した原則論を振り回すことしか知らず、各国の対立状態を深めるだけの米国に比べ、全当事者が多少なりとも利益を得て、同意可能な現実的妥協案を出してくるところは、さすが英国外交との感想を持つ。

岡田内閣の高橋是清蔵相は即座に賛同し、提案受諾を強く主張する。

しかし陸軍のみならず、広田弘毅外相、重光葵外務次官が反対に回ると書いてあるのを読むと、「おいおい、何考えてんですか???」と言いたくなる。

重光葵というと、小学生の頃から名前を知っていた人物で、のちに不自由な身体を押しての戦艦ミズーリ上での降伏文書調印や、戦後鳩山内閣での外相就任と国連加盟達成など、平和と協調に尽くした外交官とのイメージがあり、著書『昭和の動乱』も面白く読めたが、時々妙な行動を取っていますねえ。

広田弘毅はもっと酷い。

この最初の外相就任時に、英国と協調した幣制改革への協力拒否と陸軍による華北分離工作黙認がまずあり、翌36年二・二六事件で首相に就任した後は軍部大臣現役武官制復活と日独防共協定締結、37年第1次近衛内閣で再度外相に就任するや、盧溝橋事件直後の現地停戦協定を無視して内地師団動員に賛成、トラウトマン工作を拒絶、38年「爾後国民政府を対手とせず」との第1次近衛声明を発表と、とにかく要職在任中、本当にろくな事をしていない(服部龍二『広田弘毅』(中公新書)参照)。

本書での著者の筆致は、

広田弘毅外務大臣が、とどめを刺した。「満州国の承認といったことは支那の利益にこそなれ、満州国の利益にはならない」と述べ、「いずれにしろ、イギリスが口を出すことではない」と断言した。後の展開を考えれば、広田の一言が日本を滅した、と言ってよいかもしれない。その罪は、あらゆる軍の将帥より重いと云い得るだろう。

と、驚くほど厳しいものになっているが、これはそう言われても仕方がないところでしょう。

この判断ミスは本当に致命的です。

責任感のかけらも無く、狂った多数派の意見に異を唱える穏健な人々を集団で攻撃することで得られる快感を国家の運命よりも優先する、汚らわしい衆愚どもが作り出す世論に屈従したのか。

東京裁判が正当だとか、死刑になって当然だとは全く思いませんが、やはり広田の責任は、文官では近衛に並んで重いと言わざるを得ないのではないでしょうか(上記衆愚的世論を煽った人間とそれに付和雷同した大衆が、罰することは極めて難しいが、最も罪深く嫌悪すべき存在であることは大前提として)。

岡崎久彦『重光・東郷とその時代』(PHP文庫)では日本自身の軍備拡張と満州国への投資に加えて、中国へ経済支援を与えてアジア情勢を安定させるには、畢竟日本の国力が足りなかった、このわずか数年後日中戦争開戦でかつて幣制改革で求められた額の何倍もの戦費を負担することを思えば、この時の英提案に応じるべきだったと言えるが、そこまで見通せないのが人間の常だ、と述べられている。

(ちなみに上記本では高橋蔵相はじめ大蔵省も対英協調消極派のように書かれているが、単に言葉が足りないだけか?)

とは言え、単に後知恵だと片付けるには、この時あまりに惜しいチャンスを日本は逃している。

当時の日本に必要だったのは、確固たる指針を持った責任ある少数者の指導とそれに対する民衆の信頼と服従であって、「自由と民主主義」ではないです。

粗暴で過激な意見がメディアによって何の制限もなく広められ、数の力で賢明な少数者を抹殺したことを見れば、言論の自由と民主主義はむしろその梃子になったと解釈した方がよほど実態に合っている。

左翼的言論は厳しく取り締まられていたが、右翼的言論は野放し状態で(こうした偏った自由も民衆の主体的選択によって生まれたもの)、「国体明徴」「臣道実践」など表向き右派的言辞を弄することによって、実質的には左派と相通ずる、民衆の既成支配層に対する理不尽・無責任・非道徳的で不遜な反抗がほとんど無限に正当化されてしまっている。

言論・出版の自由と社会の平等化が進行することによって政治的発言権を持つ人間の数が増えれば増えるほど、議論の質が止めどなく低下する。

粗雑な単純化と罵詈雑言と印象操作が横行し、熟慮や冷静な議論といったものが社会から一切消え失せ、大衆迎合的な煽動者と多数派民衆が作り出す衆愚的世論が権威主義的な少数派支配層を押しのけて全てを支配し、国家を乗っ取る。

社会の表面上に現れる瞬間的「民意」が絶対視され(そして世論を作り出す民衆の資質は決して問われることがなく)、それに逆らう少数派は「非国民」「売国奴」という誹謗中傷と名誉毀損に晒され、場合によっては特に愚かで凶暴な多数派分子によるテロリズムの標的にすらなる(戦後は多数派が貼るレッテルが「保守反動」「非民主的」に変わっただけ。そして最近は左翼思想の替わりに排外的ナショナリズムをおもちゃにするようになった大衆が少数派へのリンチを愉しんでいる)。

戦前日本においては、民主主義が軍国主義に取って替わられたのではなく、政党・官僚・旧財閥・宮中側近などの上層既成勢力の間接民主制が、対外強硬論と国内既成勢力打破を主張する極右革新派に煽られた下層民の直接民主制によって打倒され、その直接民主制の必然的帰結である衆愚政治が軍国主義を生んだと解釈すべき。

どんな時代にも、一貫して根底にある最大の問題はデモクラシーの暴走とその自己崩壊であり、大衆煽動に利用されるスローガンやイデオロギーの違いによって、そこから軍国主義が生れるか、ファシズムが生れるか、共産主義が生れるかはあくまで副次的問題に過ぎない(ナチについてのメモ その5)。

戦前日本は(そしてフランスもロシアも中国もドイツもイタリアも、その他1789年以降独裁と戦乱に苦しむようになった国のほぼ全ては)、民主主義ゆえに破滅したと言った方がよほど正しい(ルイ16世についてのメモ その1  同 その5)。

上記の不幸なメカニズムがあらゆる国で働いている。

前近代的専制政治が敷かれていた国でもその没落はデモクラシーの理念浸透が原因であり、秩序崩壊時には群衆心理が全てを決する状態に陥る以上、議会制度的なデモクラシーが無かったロシアや中国においても、左翼全体主義的独裁確立はやはり民主主義が生み出したものと解釈すべきもの。

近現代において民主化の進行過程をほぼ無傷で潜り抜けたのはイギリスや北欧諸国などだけで、むしろ少数派である。

民族の根本的な任務は、過去の制度を少しずつ改めつつも、それを保存することでなければならない。これは、困難な任務である。この任務を実現したのは、だいたいにおいて、古代ではローマ人、近代ではイギリス人だけであろう。(ル・ボン『群衆心理』

(ただしイギリスですらピューリタン革命とクロムウェル独裁という破局を経験している。英国史上、唯一国王のいなかった時期は、唯一独裁者に支配された時期でもある。ただしその革命政権も宗教を基盤にしていた故の歯止めが存在したことについてはローレンツ・シュタイン『平等原理と社会主義』引用文参照。さらにその後、民衆的独裁への免疫を付け、君主制と階級社会を維持しているのは大したもんです。)

アメリカはどうかと言えば、南北戦争は、正義の戦いという以前に恐るべき国家規模の破局と見なすべきだろうし(内田義雄『戦争指揮官リンカーン』)、政治党派や人種・性・宗教・財産による社会の分裂が極限まで進んだ昨今のアメリカを見るとあの国がデモクラシーの持つ「党派的暴政への不可避的傾向」(バーク『フランス革命の省察』)を免れた例外だとはとても思えない。

そして、近現代はもちろん、前近代でも国家の崩壊や社会の堕落においては、社会の上層部少数者ではなく、(自分が属するような)下層多数者の悪が主因なのではないかと、私は最近ますます疑うようになってきている。

何度も繰り返しますが、君主制や貴族制はたとえどれほど堕落しても、言葉の真の意味での全体主義的独裁を生み出すことは決して無いウィリアム・コーンハウザー『大衆社会の政治』)。

民主主義は断じて全体主義の反対概念ではなく、むしろその成立の前提条件と考えるべき。

多くの民衆が政治に参加すればするほど、国家の権限と戦争の規模は拡大し、20世紀には億を超える「政治による死」がもたらされた。

過去5000年の人類文明の歴史で大部分を占める、君主や貴族など少数者統治の時代には、こうしたことは決して起こらなかった(引用文(ニスベット1)マイケル・ハワード『ヨーロッパ史における戦争』)。

(それを、民主制下の科学技術の発達という成果の裏返しだと擁護するなら、そもそも人類の存続自体を不可能にしかねない科学技術と産業の過剰発達を「進歩」とみなすのを止め、根本から懐疑の念を差し向けるのが当然だと言いたい。またそれらの節度ある発展が君主制・貴族制下、あるいは民主制との混合政体下においては不可能だったとは信じられない。)

にも関わらず、左右の民衆的独裁の崩壊に際して、恥知らずにもそれが「民主主義の勝利」などと称される(上記の、力の割りに智慧の足りない某国が主になって)。

ウォルター・バジョットは『イギリス憲政論』の中で、

・・・・・ある社会で大衆が無知ではあるが、尊敬心をもっているという場合、この無知な階級にひとたび統治権を与えると、永久に尊敬心はもどってこない。現王朝[人民]の支配は、打倒された王朝[貴族]の支配よりすぐれているということを、煽動政治家が説き、新聞が話しかける。民衆は、自分に利害関係のある問題について、その賛否両論を聞くということはほとんどない。民衆の言論機関は、民衆に迎合的な議論ばかりをする。そしてそれ以外の言論機関は、事実上その意見を民衆の耳に入れることはできない。民衆は、自分自身に対する批判を決して聞こうとはしない。民衆が追放した教養ある少数者が、民衆の統治に比べて、いちだんと立派に、また賢明に統治していたということを、だれも民衆に教えようとはしない。民主主義は、恐ろしい破滅を味わわないかぎり、民主主義の打ち負かした体制へ復帰しようとしない。なぜなら、そうすることは、みずからが劣っていることを容認することになるからである。民主主義は、ほとんど耐えがたい不幸を体験しないと、みずからが劣っていることを決して信じないのである

と述べているが、バジョットは間違っていた。

民主主義は「恐ろしい破滅を味わ」っても、「ほとんど耐えがたい不幸を体験」しても、「みずからが劣っていることを決して信じない」ことが明らかになった。

どんなにおぞましい惨禍がもたらされようとも、民衆が自由を行使する自己の資格について謙虚に省みたり、自分たちだけで秩序を形成する能力を真摯に懐疑したりすることは絶対に無い。

1789年以来、人類は治癒不能の病に罹った、あるいは永遠の呪いを掛けられたと言ってもよい。

無秩序と独裁を反復する、この衆愚政治の醜悪な機械運動はもはや人類が滅びるまで止まらないでしょう。

何をしても防ぎようが無い。

現世の多数派にほんのわずかでも懐疑的視点を持つ人間は、大衆の国家と社会が必然的に破滅するのを横目で冷笑しながら、一種の諦観を持ち静かに彼岸の救いを待つほか生きる術は無い。

この1935(昭和10)年の分岐点についてもう少しだけ書きたいので、次回に続きます。

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戦前昭和期についてのメモ その3

その2に続き、福田和也『昭和天皇 第四部』(文芸春秋)より。

1934(昭和)年、陸相荒木貞夫辞任、後任林銑十郎、斉藤実内閣退陣、岡田啓介内閣成立、永田鉄山陸軍軍務局長就任。

世界では、独レーム事件、ヒンデンブルク死去、オーストリア首相ドルフス暗殺、ソ連国際連盟加入、キーロフ暗殺、満州国帝政実施、瑞金陥落と中国共産党の長征開始。

この辺りから陸軍内の「皇道派」と「統制派」の争い激化。

この両派の名前は適切でないという見方もあるが、初心者はとりあえずそのまま理解。

最初に名を出した荒木貞夫と真崎甚三郎を担いだ隊付将校らが皇道派。

次に、31年末犬養内閣からの陸相だった荒木の後任、林銑十郎という人を一言で言うと、「統制派のロボット(傀儡)」。

両派分立の前、陸軍中堅幹部が一団となって国家刷新を目論んでいたころトップとして担がれたのが荒木・真崎・林の三人で、党派対立が生れると、前二者と林の間に懸隔が生れる。

両派閥対立の話については、川田稔『浜口雄幸と永田鉄山』(講談社選書メチエ)の説明がわかりやすい。

この年、『国防の本義と其強化の提唱』と題する陸軍パンフレットが刊行され、統制経済推進と軍が「第三党」として政治に介入することを宣言したものだとして問題になる。

統制派の中心は陸軍軍務局長に就任した永田鉄山。

著者の永田への評価は比較的高いと思われる。

クーデタや暗殺などの暴力行為を否定し、政治家・官僚・財界と軍との協調を目指し、「高度国防国家」を徐々に成立させようとする立場。

特筆すべきなのは後年の統制派主流とは異なり、永田は「対中一撃論」に立った強硬な中国政策を支持していなかったこと。

日中対立を沈静化させ、満州国の状況を安定化させることを何より必要としていた当時、永田の存在は極めて貴重であった。

一方、皇道派は対ソ戦を最重視したため、もともと対中政策では妥協的傾向あり。

だからいっそのこと「狂信的」というイメージのある皇道派が勝った方が泥沼の日中戦争を回避できた可能性があり、むしろまだマシだったという意見もあるが、しかし不用意に日ソ戦を始めて反撃されるというぞっとするシナリオを考えると、そう単純に言えないとも思われる。

この箇所では、翌年政治問題化する天皇機関説について記述あり。

皇道派の隊付将校らは、永田らの構想する、政治家・官僚・財界人と軍人との協力によって作り上げられる「高度国防国家」における専門的軍人としてのアイデンティティ喪失を危惧。

その危機感が天皇を機関・抽象的機能とすることを拒否させた。

また明治時代には封建時代からまだ間もなく、兵は疑問を持たずに死地に赴いたが、昭和に入り近代的個人主義に目覚めると、死を受け入れるために超越的存在を求める風潮や心理状態が生まれた。

つまり「近代化が進んだからこそ、天皇機関説が攻撃されるようになった」という逆説的状況があり、このことは高橋正衛『二・二六事件』(中公新書)でも触れられていた。

あと、世界情勢について補足。

ドイツではレームら突撃隊粛清と大統領ヒンデンブルク死去によりヒトラーが独裁体制を一層固めている。

しかし対外的には順風とは言えず。

当時隣国オーストリアは首相ドルフスの統治下。

このドルフスは独裁的統治を敷いてはいたが、権威主義的価値観の持ち主で、オーストリア・ナチ党を弾圧していた。

ドイツで言うと、ブリューニング、シュライヒャーに当たる存在か。

ところが、この年オーストリア・ナチスがドルフスを暗殺。

これに対してオーストリアに野心を持つムッソリーニはヒトラーの関与を疑い、国境地帯に軍を動員して圧力をかける。

結局ヒトラーは釈明し関与を否定、オーストリアでのナチの政権奪取は失敗し、シューシュニクが首相に就任、38年の併合まで権威主義政権を維持することになる。

以上のようにこの時期のムッソリーニが明確に反独的姿勢を保っていたことは記憶しておく価値がある。

しかしこの態度は翌35年に激変し、それがムッソリーニ自身とイタリア王国を滅ぼすことになる。

ソ連では、スターリンの後継者とも見做されていたキーロフが不可解な状況下で暗殺され、これが大粛清の端緒となる。

キーロフがスターリンの指示で殺害されたとすると、まるで同年のレーム粛清に印象付けられ、それに倣ったような感すらある(実際そういう説があるようです)。

中国では、蒋介石が満州をめぐる日本との対立を棚上げして全力を挙げて共産党討伐を継続、この年、中華ソヴィエト共和国首都の瑞金を陥落させ、中共は長征という名の敗走に移る。

日中両国ともにナショナリズムを抑制してこの情勢を続けていればねえ・・・・・・。

一体どれだけの人命が失われずに済んだことか。

この記事では1935年までいくかなと思っていたが、やはり一年だけ。

やや短いですが、今日はこれまで。

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