カテゴリー「思想・哲学」の50件の記事

『福沢諭吉全集 第5巻』 (岩波書店)

分厚い。

重い。

通勤電車内で手で持って読むのは相当辛い。

なぜこんなものを手に取ったかというと、普通啓蒙思想家と思われている福沢諭吉が近代文明批判を展開したという『民情一新』が収録されているため。

それに加えて『帝室論』を読んだだけです。

両方とも短いので、通読はさして困難ではありません。

ただ漢字が旧字体でルビが少ないのが苦しい。

一部難解な読みの漢字にはルビがあるが、それも基本的に初出の際だけであり、読み進めていくと「うっ」と詰まる部分がある。

内容については、『民情一新』の方はややすっきりしない読後感。

近代批判と読める箇所もあるが、行間を読まずに全体の論旨を表面的に捉えた感じからするとそういう主張は明確に浮かび上がってこない。

この点、やや予想に反しており、複雑な印象を持った。

『帝室論』はごく普通の読後感。

とは言え、『思想史の相貌』で近代日本の思想家のうち、福田恆存、夏目漱石と並んで稀に見る平衡感覚と成熟した思考の持ち主と評価されている諭吉の本領が良く表れている一品と言えるのではないでしょうか。

なお、末尾の解説で戦時中『帝室論』を再版・配布しようとして禁止されたみたいなことが書いてあって、「この内容の本で、何でそんな扱いを受けるの?」と驚いてしまった。

皇室を実質的権力の無い「虚器」に貶める意見とも読めるから、といった意味のことが書かれていたが、方向性に違いはあっても、いつの時代にも硬直して歯止めの効かない偏狭な世論というのはあるんだなあと思った。

『学問のすゝめ』や『文明論之概略』と同じく、かなづかいや字体の変更などで読みやすくした上で文庫化してもらいたいです。

近年出た、慶応大学出版会の著作集には両方とも収録されていないようですので。

(以下引用、字体等一部変更有り。)

蓋し英人の気象[ママ・引用者註]は古風を體にして進取の用を逞ふする者と云ふ可し。或は其度量寛大にしてよく物を容るゝ者と云ふも可なり。

彼の佛蘭西其他の人民が自由の改革と云へば、直に國王を目的として之を攻撃し、王室恢復と云へば直に人民の自由を妨げんとするが如きものに比すれば、同年の論に非ず。

・・・・・今英國の王室と人民との間は恰も此上等家族の如き者にして、嘗て相犯すの挙動なきのみならず、中心に之を犯すことをも忘れたる者なり。犯さゞる國王は益貴く、犯さゞる人民は益親しく、以て社会の秩序を維持するは人間最大の美事と云ふ可し。

文明は猶大海の如し。大海はよく細大清濁の河流を容れて其本色を損益するに足らず。文明は國君を容れ、貴族を容れ、貧人を容れ、富人を容れ、良民を容れ、頑民を容れ、清濁剛柔一切この中に包羅す可らざるはなし。唯よく之を包羅して其秩序を紊らず、以て彼岸に進むものを文明とするのみ。

區々たり世上小膽の人、一度び尊王の宗旨に偏すれば自由論を蛇蝎視して其文字をも忌み、一度び自由の主義に偏すれば國君貴族を見て己が肩に擔ふ重荷の如くに思ひ、一方より門閥一切廃す可しと云へば、一方は又民権一切遏(とど)む可しと云ひ、何ぞ夫れ狼狽の甚しきや。

事物の極度より極度に渡て毫も相容るゝこと能はざる其有様は、恰も潔癖の神経病人が汚穢を濯て止むを知らざる者の如し。其愚笑ふ可し、其心事憐む可し。啻(ただ)憐む可きに止まらず、世の乱階は大抵この輩に由て成るものなれば、此點に就て観れば亦恐る可きものなり。

王室の功徳は共和國民の得て知らざる所なれども、其風俗人心に関して有力なるは擧て言ふ可らず。人或は立君の政治を評して、人主が愚民を籠絡するの一詐術などとて笑ふ者なきに非ざれども、此説を作す者は畢竟政治の艱難に逢はずして民心軋轢の惨状を知らざるの罪なり。青年の書生輩が二、三の書を腹に納め、未だ其意味を消化せずして直に吐く所の語なり。

試に思へ、我日本にても政治の党派起りて相互に敵視し、積怨日に深くして解く可らざるの其最中に、外患の爰に生じて國の安危に関する事の到来したらば如何するや。自由民権甚だ大切なりと雖ども、其自由民権を伸ばしたる國を擧げて、不自由無権力の有様に陥りたらば如何せん。守舊保守亦大切なりと雖ども、舊物を保守し了りて其まゝに他の制御を受けたらば如何せん。

・・・・・斯る内政の艱難に際し、民心軋轢の惨状を呈するに當て、其党派論には毫も関係する所なき一種特別の大勢力を以て雙方を緩和し、無偏無党、之を綏撫して各自家保全の策に従事するを得せしむるは、天下無上の美事にして人民無上の幸福と云ふ可し。是れ我輩が偏に我帝室の独立を祈願する由縁なり。

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辻清明 責任編集 『世界の名著72 バジョット ラスキ マッキーヴァー』 (中公バックス)

この巻はウォルター・バジョットの『イギリス憲政論』だけを読みました。

ラスキ『主権の基礎』、マッキーヴァー『権力の変容』も収録されているが、一切無視。

『イギリス憲政論』は1867年刊で、マルクス『資本論』第一巻刊行、日本の大政奉還と同年。

書名はかなり前から知っており、いつかは読まなければならない本だなと思っていたが、先日の水谷三公『王室・貴族・大衆』で引用されているのを見て、いい機会だからこの際通読するかと手に取った。

全般的な内容としては、保守的自由主義の立場から、立憲君主制・議院内閣制の、共和制・大統領制に対する優位を説き、立憲君主と貴族院、下院(衆議院)を持つ、当時のイギリスの政体を肯定する本ではあるが、その論調は世襲君主と伝統的貴族制を盲目的に崇拝するといった態度からは程遠い。

その筆致は甚だドライであり、時にはシニカルですらある。

世襲王家から有能な君主が生まれることは稀で、その大半は凡庸・愚鈍な存在であり、イギリスの貴族院は所属議員の怠惰・頑迷・偏見によって公正・中立な立場からの修正・調整という本来果たすべき役割を果たしていないとしている。

ヴィクトリア女王と夫のアルバート公はその稀な例外とされているが、基本的に「国王親政」という考えは強く批判され、それを目指したジョージ3世(アメリカ独立からフランス革命・ナポレオン戦争までの時期に長期間在位したが、晩年は精神を病んだ英国王)などは繰り返し非難されている。

ジョージ3世は生涯の大部分を通じて、一種の「神聖な障害」であった。・・・・・かれは人並みの善意をいだき政務にも精励した。・・・・・しかしかれは、狭量で、片よった教育を受けていた。・・・・・したがってかれはいつも、しなければならないことを拒否し、してはならないことにいつまでも固執した。かれはその治世中、歴代内閣の半数に対し、意地悪く、しかも神聖な大権を振りかざして攻撃した。

(ただ、その直後に以下のように書いてもいるが。)

そして、やがてフランス革命を迎えて世界が恐怖に駆り立てられ、民主政治が「不敬」であることが明らかになったとき、イギリス人の崇敬の念がかれに集中し、その結果、何倍もの力をかれに与えるに至ったのである。

貴族院については、衆議院に対して大幅に譲歩することを説き、有能・賢明な人材を一代貴族に任命して議員とすることを提案している。

また、新興国に対しては、大統領制を排するのは同じだが、伝統の支えを欠いた君主制を無理に創設するより、君主制抜きの議院内閣制(バジョットはそれを可能としている)を推奨している。

(今で言えば、大統領はいても儀礼的存在で、政治実権は首相にあるドイツ・イタリア・ポルトガル?・インド・イスラエルなどの政体がそうか。元首が英国王であり、女王が任命する総督が存在するが、カナダとオーストラリアも。)

イギリスの政体については、モンテスキュー以来、行政・立法・司法の三権分立がその大きな特徴だと言われてきたが、バジョットはそれはむしろ、行政府と立法部がそれぞれ独立に民衆の選挙で選ばれるアメリカ合衆国のような大統領制の特徴だとして、議院内閣制の本質は行政府が立法部と密接な繋がりを持ち、そこから選出されることだとしている(高坂正堯『世界史の中から考える』(新潮選書)に少しだけ関連記述有り)。

こうした議院内閣制が、有能な行政府の選出・国民意思の表明・国民の政治的教育・政治問題の周知・公正な立法・適切な財政について、大統領制よりも良好な成績を残せるとしてあれこれ書いている。

巻置く能わずという程でもないが、なかなか面白い。

訳文は割と良くて、読みやすい方だと思う。

読もうと思う方に一点だけご提案。

「第二版の序文」というものが、本書では末尾に付け加えられています。

版によっては(昔、清水弘文堂書房から『英国の国家構造』というタイトルで出たものがたぶんそう)、これが原書通り巻頭に載せられている本もあるかと思いますが、これは最初は飛ばしていきなり本文から入ったほうがいいです。

周辺的事項についてあれこれ書いてある内容で、本文を読んでからでないと十全に理解することができず、最悪この時点で挫折しかねませんので。

読んでも決して無駄にはならない良書だと思いますので、皆様もどうぞ。

自由政治というものは、国民が自由意志によって選択した政府に服する政治である。ばらばらの民衆が偶然に集まってつくる自由政治は、たかだか民主的な政治にしかなりえない。他人のことを知らないし、気にかけないし、尊敬もしないという場合には、すべての人間が平等であるにちがいない。その場合、だれの意見も、他の意見より有力であるということはない。しかしすでに明らかにしたように、尊敬心をもった国民は、独自の政治構造をつくっている。そこでは特定の人々が、共通の同意によって他の人々よりも賢明であると考えられている。またその意見は、同意によって計数的価値を越えた大きな価値を認められている。

不幸な国民の場合は、票の数だけを数えるが、幸福な国民の場合は、票の数を数えるほか、票の重さも量るのである。

自由国家に権威を示す制度があれば、その効果は測りしれない。・・・・・指導者たちを選ぶ興奮は、選任することのできない支配者がいることがはっきりしておれば、抑制される。

・・・・・しかし、国民の大多数が選挙する能力をもっていない場合がある。事実、まれな例外はあるが、たいていの国において国民の過半数はこれに該当している。・・・・・その場合議院内閣制は、ぎこちない表現であるが、尊敬心をもった国民の間にだけ成立する可能性がある。奇妙に思われるかもしれないが、賢明な少数者の統治を希望する愚鈍な多数者を擁した国民が、現に存在しているのである。

つまり数の上での多数者が、習慣によるか自由意志によるかは別として、特定の選ばれた少数者に指導者を選任する権限を委任するつもりでおり、またそうしたがっているのである。・・・・・多数者は、立派な政府を選ぶ資格をもち、いかなる階級からも反対されることのない、すぐれた少数者に対し一種の忠誠心をいだいているのである。このような幸福な状態にある国民は、議院内閣制をつくるに当たって利点をもっていることは明らかである。

・・・・・イギリスは類型からいうと、尊敬心をもった国民を擁している国家である。・・・・・実際にはイギリス国民の大多数は、指導者を尊敬するというよりは、むしろなにか別の人間に尊敬の念をいだいているのである。かれらは、いわゆる社会の演劇的な見せ物に敬意を払っている。・・・・・哲学者たちは承認しないかもしれないが、宮廷や貴族階級は、大衆を支配するための偉大な資格を備えている。・・・・・哲学者たちは、こんな迷信を嘲笑するかもしれない。しかしその結果は測りしれないほど大きい。

尊敬心をもった人々で構成される社会は、たとえその最下層階級が賢明でなくとも、どんな種類の民主国家よりも、議院内閣制にはるかによく適している。・・・・・尊敬心をもった貧民を擁している国は、そのような貧民をもたない国に比べて、福祉という点でははるかに劣っているかもしれない。にもかかわらず、最上の政府をつくるという点では、はるかに適しているのである。尊敬心をもった人々を擁する国では最上の階級を利用できるが、自分が他のすべての人間と同等に、ひとかどの人間であると考える国民は、最悪の階級を利用できるだけである。

・・・・・ある社会で大衆が無知ではあるが、尊敬心をもっているという場合、この無知な階級にひとたび統治権を与えると、永久に尊敬心はもどってこない。現王朝[人民]の支配は、打倒された王朝[貴族]の支配よりすぐれているということを、煽動政治家が説き、新聞が話しかける。民衆は、自分に利害関係のある問題について、その賛否両論を聞くということはほとんどない。民衆の言論機関は、民衆に迎合的な議論ばかりをする。そしてそれ以外の言論機関は、事実上その意見を民衆の耳に入れることはできない。民衆は、自分自身に対する批判を決して聞こうとはしない。民衆が追放した教養ある少数者が、民衆の統治に比べて、いちだんと立派に、また賢明に統治していたということを、だれも民衆に教えようとはしない。民主主義は、恐ろしい破滅を味わわないかぎり、民主主義の打ち負かした体制へ復帰しようとしない。なぜなら、そうすることは、みずからが劣っていることを容認することになるからである。民主主義は、ほとんど耐えがたい不幸を体験しないと、みずからが劣っていることを決して信じないのである。

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松原隆一郎 『経済学の名著30』 (ちくま新書)

タイトル通り、経済学の古典的著作30冊について書かれた短い文章を並べたもの。

冒頭がロックの『統治論』で始まり、ケネー『経済表』とマルサス『人口論』が入っていないのを除けば、有名な著作が定番通り並んでいる。

だが、よくある凡庸な案内書だと思って手に取ると完全に間違う。

古典的著作のうち、現在の主流派経済学に受け継がれた部分のみを切り離して紹介するのではなく、その経済学者が生きていた具体的な時代状況の中で何を意図して書かれた著作なのかを忠実に辿りながら、その思考の本質を探る本。

経済学者の意図と歴史的状況を忠実に再現するという上記の目標は間違いなく本書で達成されているが、それに留まらず、古典から読み取られた思想によって現在の我々が何を学ぶことができるかを著者が示唆しているのだが、それが逐一的確で非常に面白い。

専門主義的な数理経済学に留まることなく、社会思想や政治哲学、社会心理学、言語学、記号論理学などの該博な知見を用いて、縦横無尽に現在の問題を論じる辺りは大変感心させられる。

数式がほとんど出てこないことも、私のような阿呆には助かる。

わからない部分は飛ばせば良いし、やや難解なところでも著者が何を示唆したいのかはぼんやりとわかる場合が多く、それがまた本書の長所を表わしていると思う。

これは素晴らしい。

是非読むべき。

強くお勧めします。

(ハイエク『自由の条件』の章より)

ハイエクは社会思想の歴史についても、対立する二つの流れを描いている。十七世紀イギリスで生まれた経験主義の系譜と、大陸型の合理主義から社会主義へと至る系譜とである。前者のスミスやヒューム、A・ファーガソンらは「市民社会がある賢明な最初の立法者あるいは『社会契約』によってつくられたという(大陸型の―引用者注)考え方を、終始一貫して攻撃している」。そして「『経済人』のような有名な虚構さえ、本来イギリスの進化論的な伝統に属するものではなかった」(ともに第四章)。新古典派の制度論では、制度は経済人が合意で設計するものとみなされるが、ハイエクはこうした後者の思考法を自由の敵として批判している。

「自由な社会の成功はつねにほとんどの場合、伝統に制約された社会であるというのがおそらく本当であろう」(同)という一節からは、自生的な制度である慣習法や裁判によって、政府の権力とともに個人の自由にも制約を課そうという意図が見て取れる。こう述べる以上、制度や慣行、規制などの「構造」を市場における個人の自由に対する介入ととらえ、その撤廃を訴える「構造改革」にハイエクが反対するのは自明であろう。彼の主張からすれば、「構造」こそが進化の過程を経て生き延びてきた有益なルールであり、漸進的な修正はなされるべきであるにせよ、国家が音頭をとって廃止するのは「反革命」なのである。

このようなハイエクの思想は、どう位置づけられるべきだろうか。J・ポーコックの『マキァヴェリアン・モーメント』(一九七五)は、立法と行政を分離し行政に気ままに権力を奮わせない立場としての「法の支配」を共和主義と呼び、それが十六世紀以降の西欧で、ギリシアに由来し民主主義を牽制する政治思想として再評価されていたことを明らかにしている。たとえばピューリタン革命に際しハリントンは『オシアナ共和国』(一六五六)で共和主義の現代化を試み、カントは『永遠平和のために』(一七九五)で、民主主義は不同意の少数者を無視し、立法者が思うままに執行できる専制をもたらすとして、君主制や貴族制に親和性を持つ共和主義を推奨した。

こうした流れを受け経済思想の分野では、ヒュームやスミスが市民に徳(civic virtue)を求める共和主義と、隆盛を誇りつつあった商業主義とを融和させる工夫を行なった。法の支配と権力の分立を説き民主主義に対する批判をも意図する本書は、共和主義と市場経済の両立を図った彼らに連なる試みだと言える。

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カール・ヤスパース 『現代の精神的状況 (ヤスパース選集28)』 (理想社)

本書の存在を初めて知ったのは林健太郎『二つの大戦の谷間』の文章でだと思う。

この林氏の本は、時代的にはヒトラーが首相に就任するところで終わっているが、その後文化史を扱った章が続き、その末尾で注目すべきファシズム批判の書として、オルテガ『大衆の反逆』と本書が挙げられていた。

また西部邁『思想の英雄たち』におけるヤスパースの章で中心的に扱われているのも本書である。

そういうこともあって、ヤスパースの他の著作は全く歯が立たないにしても、この本だけは何とか読もうと手に取りました。

しかし、やはりつらいものがあります。

翻訳は「~するところの」といった表現が頻出する、いかにも昔の哲学書風の、やや古めかしく生硬な文体。

そのせいもあってか、一度読んですぐに意味を理解できる文章は少なく、数度読み返すことがしばしば。

一文一文慎重に意味を取りながら、これは大体どういうことを言いたいのかと推測し、現在の具体的状況に当てはめてみるとどんなことに該当するのか考え、著者がそれを肯定的に捉えているのかそれとも否定的価値を込めているのかを判断し、それでわからなければ仕方ないので飛ばして読むという作業を黙々と進める。

そういう調子だったのでなかなかはかどらず、主に通勤電車内で睡魔と戦いながら一日50ページ弱読み進むのがやっと。

それほど分厚い本ではないのに、通読するのに丸一週間かかった。

全体の半分くらいに到達するまでに何度か挫折しかけました。

そこら辺りから、じっくり読むと極めて示唆的で重要と思える文章に出会うことができましたが、やはり全体としては晦渋としか言いようがない。

上記、『思想の英雄たち』で、同じ大衆批判の書としてオルテガ『大衆の反逆』に比べると、よく言えば精緻、悪く言えば衒学的といった意味の評がなされていたが、本当にそうだと実感した。

同時期に現れた全体主義批判のホイジンガ『朝の影のなかに』と比較しても、本書の方がはるかに難しい。

私みたいに普段哲学など一切読みませんよという人間にはやや厳しいところがある。

とは言え通読してみると、やはり得たものは少なくなかった(と思う)。

これはどう考えても自分みたいな人間のことを言っているなと感じて、半分非常に嫌な気分になり、半分は深刻に反省させられるという文章が、特に後半部分に頻出する。

少々無理しても挑戦してみる価値はあると思います。

多数者は現存在の満足を栄養と性愛と自己主張に求めているのであって、それらのうちのひとつだけでも削られるなら、人生は彼らになんの喜びもあたえないのである。さらにまた、彼らは自分自身を知るひとつの知り方を欲している。彼らは導かれることを欲しているが、しかもそれは彼らの方が導いていると考えるような仕方でのことである。彼らは自由であることを欲しないが、自由であるとは見なしたがる。彼らの意を迎えるためには、事実は平均的なもの、平凡なものでなければならないのだが、率直に、またそのものずばりに名づけられてはならず、普遍人間的なものとして美化されるか、少なくとも是認されなければならない。彼らにとって近づきがたいものは、彼らにいわせれば生活に無縁のものなのである。

支配は、大衆組織においては、幽霊のように眼に見えないものになる。ひとは支配と名のつくものをおしなべて廃止したがる。ひとは、支配がなければ人間大衆の現存在もまた存在しないという事実に対して、盲目なのである。それがために、世間に見られるものは、分裂、表面の取りつくろい、取り締りであり、また取り引き、掛け引き、妥協、投機、ペテンである。いたるところに、私利ゆえの腐敗の、そのつど特有なあり方が存在する。関係者はみなそれを知っていても沈黙を守っているものだから、そうした腐敗は起こるがままである。ひとつの事例が公になると騒ぎが起こされるが、その騒ぎもすぐにまた、たまたまひとつの徴候にぶつかったのにすぎないのだという暗澹たる意識のなかで立ち消えになってしまう。

全体の精神にもとづいて教育が実体的であるところでは、青年はそれ自体として未熟なものである。青年は尊敬し、聴従し、信頼し、そして青年としては何の効能も持たない。というのは、青年は未来のために準備中のものであり、未来のための可能的な職能存在だからである。しかし、解体の事態にあるときには、青年はそれ自身の身にそくして価値を獲得する。青年から、この世のなかにおいてはすでに失われてしまったものが、端的に期待されるのである。青年は、当然、みずからを起源と感じる。児童たちでさえも、校則に嘴を入れることを当然とする。あたかも、青年に、教師たちがもはや所有していないものを自分たちから創り出せという要求が出されているがごとくなのである。国家の負債がきたるべき世代に荷を負わせるように、精神的な財の蕩尽の結果もおなじことで、その財を、次にくる世代はあらためてみずから獲得しなければならないのである。青年は不当に重んぜられて台なしになるにちがいない。というのは、人間は、何十年も連続して成長して厳格に一歩一歩の歩みの連続を通じて形成されるときにのみ、人間になることができるのだからである。

集団秩序の現存在においては、すべての人の教養が、平均的人間の要求に接近する。単なる悟性にとって無造作に、たちどころに判明するところまで持っていく合理化の働きが、知識のあらゆるあり方を零落させる過程を持ちだすとき、精神性は大衆のなかに広まることによって頽廃する。水平化する集団秩序と共に、教養のある人の層が消滅してしまう――その訓練にもとづいて彼らが精神的創造物の反響でありうることにもなろうという、考えることや感じることの訓練を、継続的な稽古の基礎の上で発達させてきたところの教養のある人の層が。大衆的人間は、ほとんど時間を持たず、全体にもとづく生活を生きるわけではなく、それを利益にしてくれる具体的な目的がなければもはや準備も努力もしようとはしない。彼は待って熟させることを欲しない。すべてが、即座に、現在的な満足でなければならない。そして、精神的なものは、そのときどきの瞬間的な楽しみになってしまっているのである。エッセイがすべてのことをあらわすのに好適な文学形式であり、書物の位置には新聞がとってかわり、生涯の伴侶になる作品にかわって不断に別のものになる際物的な読みものが登場するのは、このことに由来する。ひとは迅速に読む。ひとは短いものを欲し、しかもそれは、心に刻みこむ瞑想の対象になりうるものではなくて、ひとが知りたがってすぐにまた忘れても差し支えないようなものを迅速に取り次いでくれるものである。ひとは、内容と精神的に一致して本来の意味で読むことはもはやできないのである。

あの場合この場合と、しばしば場合が生まれてくるために、人々がもはや互いに理解し合うことができなくなるほどの、ひとが取る立場の無際限さは、もっぱら、誰もがせめて何かを意味したいと粒粒辛苦してつくった自分の意見を無責任にも語ろうとあえてすることの結果なのである。ひとは、いま思いついたばかりのものを「単に討議にかける」あつかましさを持っている。無数の印刷された合理性が、多くの領域で、遂には、かつて一度は生命ある思索であったものの今ではもはや本来の意味では理解されなくなっている残骸の、混沌たる乱雑な流れを、大衆的人間の頭脳のなかで陳列することになる。

真にこの世界のうちにとどまることのできる者といえば、いかなる場合にも拘束をとおしてしかもつことのない肯定的なものにもとづいて生きている者だけである。外的な拘束に対する反逆は、それゆえ、単なる<否>として真実ならぬものであり、内的な混沌におちいるのが落ちで、その反逆の対象がもはやまったく存在しないときになっても、まだきっと反逆しつづけるであろう。反逆が真実のものであるのは、自分自身を拘束する力であるからこそ正当とせられる自由が、みずからの空間を得ようとして戦うその自由の闘争としてだけである。

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佐伯啓思 『ケインズの予言 幻想のグローバル資本主義(下)』 (PHP新書)

上巻『アダム・スミスの誤算』の続き。

新自由主義からの批判に対して、伝統的保守主義の立場からケインズをかなりの程度擁護するのは、西部邁『経済倫理学序説』と同じ。

本書も驚くほど明解で一貫した内容。

上・下合わせて丸一日で読めましたが、速読が一切出来ない私が新書版を一日二冊読んだのは初めて。

極端な市場主義の問題点についていろいろ考えさせられる。

末尾の著者の予測は去年になって完全に実現したと言える。

これは読む価値大です。

・・・・・一方で、資本主義の発展つまり人間の物質生活の向上のためには貨幣が存在しなければならないし、金融市場は拡大し発展しなければならない。だがそうなればなるほど、人間の生は貨幣的なものに依存して不確かな基礎の上に配置されることになる。それだけならまだしも、貨幣的なものの展開は、貨幣にしか確かなものをみいだせない人間を、貨幣の世界(金融のゲーム)の中に巻き込んでゆく。こうして、人々は、貨幣に生の確かさをみいだすどころか、金融の奴隷のごとき存在に落ちてゆく。自由を求める人間の活動の帰結は、この新たな隷従への道を歩まざるをえないのである。

ここに現代の資本主義のパラドックスとでもいうべきものがある。スミスやケインズは、社会に、人々の「富と徳」あるいは「知識と徳」を評価する価値規範が存在するとした。そしてそれがかろうじて、資本主義のパラドックスがもたらす新たな隷従を回避するとみたわけである。そして、グローバル資本主義は、それぞれの社会がもつ価値規範をほとんど風化させることによってこのパラドックスを剥き出しの形でわれわれに突き付けかねない。

人がすべて「純粋の経済人」になったとき、もはや社会の価値規範や規律は不必要となる。それは、人間の、経済への一面化であり、経済への奴隷化にほかならない。人間のもつ多面性は、市場の場でのゲームにおいて一面化されてしまう。そして、それをいまわれわれは「自立した個人」と呼んでいるのである。・・・・・

ケインズが見越したように、経済が相当期間の成長を続け、ある程度大きくなれば、その経済は「豊かさの中の停滞」に陥らざるをえないであろう。その結果、いずれ低成長経済に移行せざるをえない。一方、この「豊かさ」の中で、人々は、ただ退屈しのぎにその日その日を暮らすようになる。規範や倫理ではなく、スキャンダルや投機(スペキュレーション)が人々の精神を支配するようになる。「自由」は拡大するが、そうなればなるほど、人々は精神の緊張を失ってゆくだろう。社会の規範や「公共性」への配慮はますます希薄となってゆくだろう。「公共性」を定義するはずの国家そのものが人々の意識の対象としては疎遠なものとなってゆくだろう。スミスが述べたように、社会の基礎となる同感や、同感を可能とする人々の社会的関係はますます弱体化する。人々をつなぐものは、規範(ルール)の基礎となる「公平な観察者」の責任ある同感ではなく、無責任な「匿名」の風評のようなものである。名前をもったものの「観察(スペクテーション)」ではなく、匿名のものたちの「見世物(スペクタクル)」が支配する。政治は匿名のものたちの作り上げる「スキャンダリズム」や「ポピュリズム」へと推移し、市場は、やはり匿名のものたちの「投機」の様相を示す。・・・・・・

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佐伯啓思 『アダム・スミスの誤算 幻想のグローバル資本主義(上)』 (PHP新書)

ちょうど十年前、1999年刊。

アダム・スミスというと反射的に以下のような言葉が思い浮かぶ。

「自由放任」、「レッセ・フェール」、「見えざる手」、「市場の自動調節メカニズム」、「重商主義批判」、「自由貿易論」、「自由主義的古典派経済学」、「個人的利己心の肯定」、「封建的特権の批判」等々・・・・・・。

本書は、名誉革命後のイギリスにおいてスミスが直面した状況と彼の問題意識を探り、『国富論』と『道徳感情論』を読み直すことによって、上記の単純化されたイメージを覆し、なおかつ現在のグローバリズムの問題点を指摘するという構成。

書名に「誤算」と付いてますけど、基本的にスミスを批判的に見る本ではなく、その隠された思考を再現して、現代の視点から再評価する内容。

面白い。

論旨は明快で文章も優れているので、相当のスピードで通読できて、非常にすっきりと理解できる。

スミスの著作を適切に引用しながら、極めて鮮やかな切り口で議論を進めるので、一瞬、『国富論』を通読してみようかなという気にさせられる(次の瞬間には正気に返って「そりゃ自分では無理だ」となりますが)。

同じ著者の『アメリカニズムの終焉』および、堂目卓生『アダム・スミス』(中公新書)と併読すれば効果大。

下巻は次回記事にします。

全社会の安全をあやうくするおそれのあるような少数の個人の自然的自由は、もっとも自由な政府であろうとも、もっとも専制的な政府であろうとも、すべての政府によって現に抑制されているし、また当然抑制されるべきものである。

・・・・・実際、こうした表現を聞いて驚くのは、ただ、スミスを市場の自由放任主義者だとみなしてきたステレオタイプ的な理解の上にまどろんできた者だけである。スミスのいう自然的自由はつねに社会の秩序と両立できる限りでのことであった。当然ながら、社会の安全や秩序は、それを攪乱する可能性のある自由よりも優先されるべきであろう。

重要なことは、市場の自由や銀行業の自由がそのまま社会の秩序をもたらすとはスミスは考えていなかったということだ。それらは、あくまで、「土地と労働に基づく生産」に基礎づけられていなければならない。「土地と労働に基づく生産」だけが、比較的確実な収益を保証し、この確実な収益の上に、人々の確かな財産と計画の立つ生計が可能となるからである。こうした確実な生計と、ある種の徳、誠実、正直、勤勉といったものは不可分であろう。そこで、この確かな生計を営むことによって、人は社会の「是認」をえることができる。つまり社会という共同体の確かな一員として認められる。

よく知られた一節の中で、スミスは、分業が、人々の精神をいかに怠惰なものとするかを論じている。分業は人民大衆の大部分を次のような状況に陥れるのではないかとスミスはいうのだ。

かれはこういう努力(自分の理解力を働かせたり、発明力を働かせたりする努力・・・・著者)を払う習慣を失い、およそ創造物としての人間がなりさがれる限りのばかになり、無知にもなる。かれは精神が遅鈍になるから、何か筋のとおった会話に興をわかせたり、それに加わることができなくなるばかりか、どのような寛大で高尚な、またはやさしい感情をもつこともできなくなり、したがってまた、私生活の義務についてさえ、その多くのものについてどのような正当な判断も下せなくなる。かれは、自分の国の重大で広範な利害について、全然判断を下すことができないのであって、かれは戦時に自分の国を防衛することも、同じようにできないのである。・・・・・・こういうふうにしてかれ自身の特定の職業におけるかれの技巧は、かれの知的、社会的、軍事的な徳を犠牲にして獲得されるように思われる。

そうとうに厳しい言い方ではないか。単調な仕事の中で特定の職業の「専門家」になることが人間の精神を鈍磨し、「なりさがれる限りのばか」にし、無気力にもする。こうした状態が由々しき事態であるのは、『道徳感情論』で述べられたような、「相手の立場に身をおく」共感の前提となる公正な想像力など、ここからは全く期待できないからである。市場と分業の進展によって人民大衆がこのような状態におかれれば、「公正で中立的な観察者」などというものはとても期待できないであろう。とすれば、もはや、道徳の基礎を、これらの一般大衆の判断力に期待することはできなくなってしまうであろう。

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西部邁 『経済倫理学序説』 (中央公論社)

ジョン・メイナード・ケインズとソースタイン・ヴェブレンに関する論考。

両者の思考の根源と可能性を探り、「個人性、合理性および物質性にたいする関心を究極のものとみなして、各人のそのような関心の市場的調整をつうじて、人間と社会の進歩が実現されるのだとする」単純な経済的思惟を批判し、主流派経済学への懐疑へと進む。

本書が出た1980年代半ばは、社会主義的左翼の残党が依然一定の勢力を保持する中、保守派の間では雪崩を打って単純で教条的な市場主義への支持が増えていた頃で、それがついこの前まで優勢だったわけですが、そういう時期に(非伝統的な)新自由主義への懐疑とケインズの部分的擁護を述べた著者に驚くほどの一貫性を感じる。

経済学についての予備知識はほとんど要りません。

「ヴェブレンて誰?」という方がお読みになっても問題なし。

私も名前を知っているというだけですが、それでも著者の文体が持つ圧倒的な力のせいか、非常に強い印象とある種の見通しが得られる。

わからない用語や表現があってもどんどん読み進めばよい。

準備としては、『アダム・スミス』(中公新書)の記事で書名を挙げた『経済学の考え方』(岩波新書)あたりを一冊読むだけでもいいです。

類書として本書と併せて読むべきなのは、やはり間宮陽介『ケインズとハイエク』でしょうか。

内容は素晴らしいんですが、後に出た文庫版含め、品切れ。

こういう本はそう簡単に絶版にしちゃいけないと思うんですが。

自由の観念は、それ自らについて不断に思考してみる、懐疑してみるという回路が欠けているとき、結局はレッセ・フェールに堕ちるほかないものであろう。当時そういう回路は確立されていなかったし、今も確立されていない。自由は放縦と同義であり、そこで生じる様々の混乱を、国家が企業が、あるいは家族が、強制や懐柔やの手段をつかって場当りに繕っているにすぎない。レッセ・フェールという大衆の唸りは、あれこれの変調をほどこされながらも、已むことなく響いている。

自由が法によって制約されなければならないということ、しかもその法の支配は、特定集団の利益によって左右される制定法によってではなく、歴史の試練をくぐり抜けてきた普通法(コモン・ロー)によってなされなければならないということ、これが「新しい」自由主義の特徴である。この発想の底にはバーク流の保守主義の姿勢がある。人間は知的にも道徳的にも不完全な代物であり、したがって歴史の堆積によって生み出された慣習的なそして一般的な規則に頼るのでなければ、社会の仕組と個人の行為は安定しないであろうという考えである。新自由主義のいう個人の自由とは、このように、文化および歴史に繋がれたものなのであるが、個人が自分の歴史的係留のなんたるかを知るのは容易なことではない。・・・・・

新自由主義の思想は、政治の標語として利用されることばかり多くて、人々の習俗のうちにまだ根づいていないわけである。現に進行中の計画から自由への復古にあっては、人間の不完全性のために伝統の保守が必要とされること、そして伝統を維持するのが困難であることが少しも自覚されていない。たとえば、個人の全知全能を仮設するにひとしいような経済模型によって大きな政府の無効なることが証明されたりしている。また、市場における選択の自由を称揚する様々の言論は、市場志向の活動が過度に及ぶとき社会の慣習体系がつきくずされるかもしれぬという危険について、ひたすら楽観している。

顕著なのは進歩主義のイデオロギーである。個人や集団による自由の発動が、必ずや、個人の人格的発展と社会の調和的前進をもたらすであろうという思込みである。人間の不完全性を自覚すれば、つまり「無知の知」を知れば、社会全体を合理的に設計することが不可能だと分り、したがって社会主義やケインズ主義の間違いもわかる。しかし同時に、その人間の不完全性にかんする自覚は自由にかんする自己懐疑をも促すはずではないのか。とりわけ市場的自由によってもたらされる生活の変化をつうじて、慣習的な規則がどんどん形骸化し、ますます動揺するかもしれぬという懐疑がわいて当然ではないのか。この懐疑を封じるものこそ進歩主義の思想である。実は、新自由主義もその思想から自由だというわけではない。新自由主義が実際の経済活動に指針を与える際にレッセ・フェールに与しがちであるのは、それが自由への懐疑を失って進歩を信仰している点にあると思われる。またそれの主張する法と秩序がエスタブリッシュメントのための法制定を弁護するのに終わりがちなのも同じ理由による。つまり、政治の場面におけるレッセ・フェールを支持する結果、強者の論理がまかり通るのである。自由主義は、その新旧を問わず、自由の内包する自己破壊的な性質について、つまり自由の依って立つ基盤である慣習的な普通法が自由によって掘り崩されるという可能性について、無頓着である。

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松本重治 責任編集 『世界の名著40 フランクリン ジェファソン マディソン他 トクヴィル』 (中公バックス)

「世界の名著」の通し番号40というのは中公バックス版のもので、ハードカバー版だと違うかもしれません。

この巻の中身は、フランクリンの『自伝』、ジェファソンの『独立宣言』や書簡、ハミルトン・マディソン・ジェイの『ザ・フェデラリスト』抄訳、トクヴィルの『アメリカにおけるデモクラシーについて』抄訳。

以上のうち、フランクリンとジェファソンはそもそも読む気が起きず、『ザ・フェデラリスト』は岩波文庫で別の抄訳を読んでいるので、結局通読したのはトクヴィルの部分だけです。

このトクヴィルの主著は以前から必ず読まなきゃいけない本だなとは思っており、講談社学術文庫版の『アメリカの民主政治 上・中・下』と岩波文庫版の『アメリカのデモクラシー 全4巻』を手に取ったことはあるのですが、なにぶん大部の著作のため挑戦するのを躊躇してきました。

本書では、1部・2部構成の原著のうち、全体の序文と結語および第2部の全10章から6~9章を訳出して、100ページほどにまとめてある。

全体のからすればほんの抄訳に過ぎないが、民主主義に内在する「多数の専制」という危険と、当時のアメリカ社会がそれをある程度抑えることに成功していた要因である、法律家集団という擬似貴族層と強固な宗教的信念の存在について述べているキモの部分とのことらしいので、読めば極めて有益だと思います。

アメリカほど一般に、自主独立の精神と真の言論の自由(が支配すること)の少ない国を私は知らない。・・・・・・アメリカでは、多数が思想にきびしい枠をはめている。その範囲内では、文筆にたずさわるものは自由であるが、あえてそれからはずれようとすると災難である。火あぶりの刑の恐れはないが、あらゆる種類の不快と、日々の迫害の的となる。政界での活躍の途は封じられる。それを開きうる唯一の権威を傷つけたからである。名声にいたるまで、すべてのものが拒まれる。その意見を公表するまでは味方がいると信じていたのに、すべての前に自己を明らかにしたいまでは、もはや味方はいないかに見える。非難する人々の声は高く、見解を同じくする人々は、それを公表する勇気に欠け、沈黙して遠ざかるからである。彼は譲歩し、そしてついには日々の営みに身を屈し、あたかも真理を語ったのを悔いるかのように、沈黙にかえる。

鉄鎖と死刑執行人、これが往時の圧制の粗野な用具であった。(君主)専制に、もはや何も学ぶ必要がないかに見えていたのであるが、今日では文明によって専制までが完璧になった。君主は、暴力を、いわば物理的に(使用)した。(これに対し)今日の民主的共和政は、みずからが抑制したいと思う人間の意思が理知的になるのとひとしく、暴力を知能的にした。個人の絶対支配、すなわち、専制は、人の魂にまで立ち入るために、肉体にはげしい打撃を加えた。魂はその打撃を逃れて、肉体を超えて輝かしく高揚した。しかし、民主的共和政では、圧制の過程はこれと全く違う。肉体を措いて、直接、魂に向かう。主人は「私と同じに考えろ。でなければ殺されるよ」とはもういわない。「おまえが私と同じ考えでないのは自由だ。生命にも、財産にも、すべてに異状は生じない。しかし、私に楯ついたその日から、おまえは異邦人だ。市民としての特権が依然としてあるが、そんなものは無用になる。選挙において同胞の支持を求めても、誰もおまえを支持はすまい。自分を認めてくれるだけでよいといっても、同胞は口実をもうけて拒むだろう。おまえは社会には住むが、人としての権利を失うであろう。仲間に近づこうとしても、仲間は何かけがらわしいものかのようにおまえを避けるだろう。無実を信じる人々でさえ、おまえを見捨てるだろう。さもないと、今度は自分が忌避されるから。安心して行け。おまえの命はとらぬが、その日々は死よりも辛いことだろう」という。

絶対君主政は専制を不名誉にした。民主的共和政がそれを復権させ、少数の人々にはこれを重い負担とする一方、大多数の眼にはその忌むべき堕落の様相をおおいかくす。そんなことにならぬよう注意しよう。

旧世界の最も誇り高い国々では、同時代人の道徳的な欠陥と滑稽な言動とをありのまま描くような著作が公刊された。ラ・ブリュイエールが大貴族の章を書いたときには、ルイ十四世の宮廷に住んでいた。モリエールは廷臣の前で演じられた劇の中で宮廷を批判した。しかし、合衆国を支配する力は、このような戯れを決して望まない。わずかの非難にさえ傷つき、少しでも痛いところをつかれると猛り立つ。言葉つきから最も堅固な志操に至るまで、すべてを称賛しなければならぬ。すべての作家は、その名声がいかに高くとも、同胞市民を称える義務から免れることができない。多数は常に自讃の中に生きている。・・・・・・

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エミール・レーデラー 『大衆の国家 階級なき社会の脅威』 (創元社)

この記事で触れた中嶋嶺雄『国際関係論』(中公新書)の末尾に、国際関係論基礎文献というブックガイドがあり、そこでの必読書30点の中で政治思想分野で挙げられていた4冊のうちの1冊として本書の存在を知る。

(他の3冊はバーナード・クリック『政治の弁証』、ハンナ・アレント『革命について』、ホセ・オルテガ『大衆の反逆』

著者はドイツの経済学者で、一時日本で教鞭を取っていたこともあり、ナチ政権成立後アメリカに亡命、本書刊行の一年前の1939年に死去している。

この人の名前は以前から知っていたはずが、それはたぶん90年代初めに出た、ハンス・ファーレフェルト『儒教が生んだ経済大国』(文芸春秋)というドイツ人が書いた日本論の中での引用で知ったのかなとも思う。

(あるいは勘違いで、カール・レーヴィトと混同しているのかも。)

まず、ハンス・スパイヤーという人の書いた序文が本書の論旨を的確かつ平明に述べてくれているので、飛ばさずに熟読しましょう。

サブタイトルが本書の内容全てを語っています。

階級や身分が消滅し、人々が教会・組合・地域社会のしがらみから解放され、平等な個人として生きていくことができるようになると聞けば、我々は皆「そりゃ結構なことだ、それこそ民主主義だ」と思う。

しかし、そうした個人の原子化と社会集団の消滅こそがファシズムの勝利の大前提であったと著者は主張する。

様々な身分・階級・社会集団・中間組織が国家内に存在し、それらが相互の抑制と均衡のうちに共存することが自由の保障となっていた。

しかし、近代化によってそれらが解体した後出現した、「自由で平等で自立した個人」は、19世紀の社会主義者の理想主義的考えに反して、バラバラに孤立し、暴力的で不安定で、煽動に対する抵抗力をほとんど持たない群集に過ぎなかった。

この種の情緒的な群集の熱狂によって成立した独裁政治は、社会に残存するあらゆる集団を原子的個人に溶解し、一切の対抗勢力を持たないため、これまで存在したいかなる専制政府よりも、桁違いの暴虐をもたらす。(ジョージ・ケナン『二十世紀を生きて』等参照)

その意味で、著者はこのような恐るべき「大衆国家」を、封建主義から民主主義に至る全ての政府から区別し、社会における階層制の意義を強調する。

(本書ではスターリン主義下のソ連も大衆国家の枠内に入れているようである。)

ここで考えるのが、独伊に比べてより民主化されていたと一般的には思われる米・英・仏がなぜファッショ化をとりあえずは避けえたのかということ。

平板な個人主義と平等主義に対する懐疑という著者の問題意識にブレは無いはずなので、英・仏における隠微な階級意識や米国の根強い宗教感覚などの要因が歯止めとなったのか、それとも独伊が社会の平準化においてそもそも米英仏と大差は無く、別の要因や偶然が運命を分けたと見なしているのかなどということが思い浮かぶが、結局よくわからない。

よく読めばこの点における著者の主張も本書に含まれているのかもしれないが、私には明確に読み取れなかった。

なお、本書で解剖されている実例は主に独伊両国だが、わずかながら日本についての言及もある。

そこでは、同じ枢軸国であっても、日本には確固とした諸階層が存在し、(一般的通念からすると逆説に聞こえるが)十分に民主化されていなかったがゆえに完全なファシズム国家になることを免れているという意味のことが書かれている(と思う)。

この記述は非常に興味深い。

平等化された民主主義社会が、ある意味前近代社会よりも脆弱であり、全体主義化の危険がダモクレスの剣のように常時頭上にぶら下がった状態であることを教えられる。

以上大雑把な内容を書き出してみましたが、上手くまとめられませんね・・・・・。

実際読んで頂いて、私の誤読や重点の置き方のおかしな点を訂正して下さればいいのですが、この翻訳が出たのが1961年ですので、もう半世紀近くにもなり入手もやや困難ではないかと。

これは岩波文庫か中公文庫に収録されて常時在庫されてしかるべき本じゃないでしょうか。

出版不況で大変だとは思いますが、こういう良書が少しでも新刊販売のルートに乗って欲しいです。

なお、以下の引用は本書の主要な論点からは外れるかもしれませんが、印象に残った記述です。

以上で、民主主義も一つの教義にまで堕落しやすい政治体制であることがわかった。民主的な教義というものは、ふつう抽象的なもので、平等と自由の原則をもてあそび、忠誠な市民と政治的な無頼漢の自由との区別を忘れて、もっぱら形式的にこれらの原則を説明する。

あらゆるひとに自由に考え自由に行動することを許す民主的方法は、政治的にいえば、市民は理性的存在であって何事も知っており、明確な判断力をもち、本質的には慈悲深く寛容で共同の善を欲するのだという、十八世紀的信念のうえにたっていた。しかし、さらに悪いことには、利己的な目的の追求が個人的利害と公共の利益との完全な調和にみちびくという、仮説を信奉していたことである。民主主義は、市民というものが、自由主義制度を利用しさえすれば、だれでもそのうえに自由に書き込むことのできるいわば一枚の白紙であるということを悟らなかった。

要するに民主主義の目的は、「なんとしても国内の平和を維持する」ところにあると説明されたのだ。政治的集団が国家内でほとんど最高の権力的地位を獲得し、民主的な諸政党も敵との戦いを拘束された。なぜかといえば、権力をにぎるや否や、敵は暴力をもちいて全滅させるぞとおどしたからである。そうしたやり方さえ、正当で合法的な政治的見解の表現と考えられ、「憲法の精神からみて」国家により禁止されえなかった。ファシスト集団がユニフォームを着て警察にとってかわりはじめても、国家が軍隊の独占を主張しなくなり、嘲笑的な宣伝や虚言や中傷が、野放しの状態で新聞をにぎわすようになっても、政府がなんら忠誠な支持者を動員しなくなったとき、民主主義は、事実上、民主主義者によって放棄されたといっていい。かれらは十八世紀的幻想のとりことなり、ル・ボン、グレーアム・ウォーラス、ニーチェその他のひとびと―何事も知る必要があると主張していたひとびとであるが―の教訓も、すでにかれらには効力を失っていた。だが、民主主義が支持者を失っていたというのは正しくない。欠けていたものは組織であり、リーダーシップであり、先制攻撃を加える決断だったのである。

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佐伯啓思 『増補版 「アメリカニズム」の終焉 シヴィック・リベラリズム精神の再発見へ』 (TBSブリタニカ)

初版は1993年刊、この増補版は98年に出たもの。

以前飛ばし読みはしていたが、この度じっくり精読してみました。

「もっと早くそうすべきだった」というのが、読み終えた後の感想です。

著者は西部邁氏の一番弟子といった感じの方で、いわゆる反米保守の立場に立った文明論ですが、そういう見解を同じくしない人にとっても、非常に大きな示唆を与えてくれる本だと思います。

刊行から10年経った今でも、その論旨はいささかも古びておらず、重要性は反って増しているのではないでしょうか。

冷戦後の世界を展望する上で、まず19世紀のパックス・ブリタニカと20世紀のパックス・アメリカーナを、リベラリズム・デモクラシー・キャピタリズム・ナショナリズムの絡み合いとして、思想的に分析し、次にアダム・スミスとアメリカ建国の父たちが持っていた(君主制や世襲貴族制に反対するというのとは別の意味での)「共和主義」的精神を考察し、再び現代の問題に戻るという構成。

最後の増補された章では、教条的な市場主義とグローバリズムがもたらす破壊的作用が語られている。

非常に良い。

難解な部分はほとんど無く、スラスラ読めるが、中身は異様なほど濃い。

間宮陽介『ケインズとハイエク』と読み比べるのも良い。

ここで触れられている意味での「共和主義」(著者はシヴィック・リベラリズムと呼ぶ)に関しては、本書の参考文献欄にも載せられているジョン・ポーコック『マキァヴェリアン・モーメント』(名古屋大学出版会)という本があって、大変な名著と言われているそうですが、残念ながらこれは私の頭では絶対に読めないレベルの本でしょうから、端から諦めてます。

知的体力のある方は挑戦して下さい。

デモクラシーはナショナリズムのうちから国家利益という観念をとり、ナショナリズムはデモクラシーのうちから主権という観念をとる。・・・・・こうしたナショナル・デモクラシーとでもいうものの出現によって、デモクラシーとリベラリズムの対立という事態も一層明確になってくる。リベラリズムは、本来、強制力からの解放という意味では、民主的であれなんであれ、無条件の「主権」という考えとは両立しないのであり、また他者の自由の尊重という意味では「人民」という抽象的な包括概念とは両立できないのである。だからリベラリズムの検閲を失ったデモクラシーは人民主権の名のもとに暴走する可能性を常に秘めていると見なければならないだろう。

アメリカン・デモクラシーの行き先に不安をもっていたトクヴィルは、それでもまだこの時代のアメリカ人の精神の中に、強い公共心を見て心を動かされていた。しかし、150年後にそのトクヴィルのみたアメリカ的精神を再び検証しようとした社会学者ベラーがみいだしたものは、バラバラに分断された個々人と競争社会の中での心理的葛藤をサイコ・セラピーによって癒す人達の群れであった。ここにあるのは、「公共的生活」と「私的生活」の緊張の中で自分の使命を見いだしてゆく個人ではなく、物質的生活のあくなき追及にはしる「功利的個人」と、リアリティーの希薄な世界で自閉的に自己充足してしまおうとする「セラピー的個人」であった。セラピー的個人主義者は、公共的生活に対して無関心なだけではなく、その結果として私的生活を支えることもできなくなってしまうのだ。

「自由」は、何物にも制約されない自主的な意思決定とか個人の利益の追求とかいうような子供だましの観念で理解できるものではない。自由をありうるものとするのは、嫉妬や恨みをいかに制御し、名誉や称賛にいかにしてそれにふさわしい内実を与えることができるかということなのである。「自由主義」の根本にあるのは、利害の自然的調和などではなく、権力の背後にある人間の情念の問題なのだ。スミスやヒュームのような「情念」の哲学者は、全体主義に反対し、政府の規模を縮小することが自由主義であると思い込んでいる今日の気楽で合理的な政治学者、経済学者などよりはるかに深い洞察をもっていたというべきであろう。

・・・・・ふつう「市民的(シヴィル)」というのは、公的権力に対して擁護された私的なものを権利としてもつ自由で平等な個人をさす。それは公的なものに対して私的なものを擁護し、国家の権力に対して個人の自由を対峙する。これに対し「公民的(シヴィック)」とは、あえて「国家市民的」と呼んだように、あくまでそれが国家的共同社会における公的事項に参与する市民というニュアンスをもっていることを注意しておこう。ところで共同社会の公的事項とは、なによりまず外敵からの防衛であり、正義と思慮に基づく統治であろう。だからそれは勇気、思慮、正義といった徳を要求する。これを、プラトンの「共和国」にならって「共和主義の精神」といってもよかろう。

「共和主義」というと、専制君主制に対する反対ということから、人民主権のデモクラシーとすぐに結びつくのだが、これは必ずしも正しくない。・・・・・すくなくともスミスにおける共和主義的傾向はそうで(スミスは共和主義という言葉を使っているわけではないが)、むしろ、スミスにとっては、プラトンと同様、デモクラシーは、ある意味で危険なものに思われた。

「イタリーの住民の大部分にローマ市民の諸特権を与えたために、ローマ共和国は完全に滅亡した。つまり、そうなると、ローマ市民とそうでない者とを見分けることがもはや不可能になった。・・・・・あらゆる種類の賤民が人民の集会にはいりこめたし、真の市民をそこから追い出せたし、まるで自分たちが真の市民ででもあるかのようにしてこの共和国の問題を決定することもできたのである。」(『諸国民の富』第四編)

スミスはこれをむしろ、アメリカの代議制を擁護するために書いている。しかし、今日のアメリカ的大衆デモクラシーを見たらスミスはどのように述べたであろうか。共和国の政治をおこなえるのは「真の市民」だけだ、という。むろん「真の市民」とは何か、ということが問題となる。現代では、ローマとは比較にならず、「真の市民」とそうでないものを見分けるのは難しい、というより、もはやそのような問題をたてることさえできない。

・・・・・抽象的な自由と同様、抽象的な個人もあまり実用的な概念ではない。すくなくともアメリカ革命を導いたのは、抽象的な個人という裸の人間に戻ることではなく、様々な社会的関係の中で生きていく人々という座標水準のうちに実用的な法と制度を構成することであった。具体的な個人は根源的な自由よりも日常の幸福を追求するものであろう。それは剥き出しの個人ではなく、法や制度によって他人とつながった諸個人なのである。だから、自由も幸福も剥き出しの個人の「権利」というよりも、共通の法や制度のもとで共同作業として作り出してゆくものなのである。人間は個人というより、法的存在であり、ある職業や役割と不可分なのである。個人が法を守り役割を果たすのではなく、法や役割が個人を作り出すのである。その意味では、一人の人(パーソン)であることは常に仮面(ペルソナ)をつけることなのだ。

「幸福」とはベンサムのような功利主義者が述べた快楽の総和というようなものではなく、ひとつの役割を果たすこと、その結果として他人からの称賛をえること、要するに「名誉」と深く結びついたものなのである。ここに「幸福の追求」が社会的(公的)活動への参加と結びつく理由がある。

規範や価値の意識は、個々人の好き嫌いによって形成されるものではない。それは、一つの社会の歴史の中で作られるほかない。そしてそれを、人はとりあえず受け継ぐ以外にない。・・・・・倫理や規範は、社会集団の中にしかない。とりわけ、習俗(モーレス)の中に根を下ろした規範は、特定の社会の文脈の中にしかない。そして実は、「自立した個人」も、もしそうしたものがありうるとすれば、それは実際には、倫理や規範の意識を強くもった存在であろう。この倫理や規範は決して外部から教義や倫理法や訓示の形で与えられ強制されるものではない。むしろそれは、まさにウェーバーが描き出したプロテスタンティズムの精神をもった近代人のように、規範を内面化した存在でなければならないであろう。とすれば、「自立した個人」を育てるためにも、国家や共同社会という、グローバリズムの流れに抗する集団の自覚が必要となるほかないのである。

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キルケゴール 『現代の批判 他一篇』 (岩波文庫)

久しぶりに来ました、知的身分不相応の本。

キルケゴールというと、19世紀前半を生きた実存主義の先駆的哲学者で、主著が『死に至る病』で、相手にわざと憎まれるような形で婚約破棄しちゃった人で、確かデンマーク人だったかな、と高校の倫理の授業で習ったこと以外何一つ知らないし、もちろんその著作も一行も読んだことがない。

『死に至る病』の方は読んでも絶対わからないだろうと端から諦めて、『思想の英雄たち』でその存在を知ったこれを読んでみた。

(タイトルに「他一篇」とあるのは、「天才と使徒との相違について」という文章ですが、こちらは読んでおりません。)

100ページ余りの短い作品で、さほど難解な用語が使われているわけでもなく、読みやすい。

ちょっと変った成り立ちの本で、ある小説の書評の一部が独立して扱われるようになったものらしい。

内容は近代社会批判で、現代を「反省と水平化の時代」としてそれを否定的に捉えるもの。

この「反省」というのは、価値相対主義あるいは平板な合理主義・功利主義とか、そういうことでしょうか?

本文を読んでいくと、とりあえず文脈はきちんと追えるし、どういうことを言いたいのか以上のように大体の推測もできるのですが、私の能力では完全に読みこなせたとはやはり到底言えない。

しかし、ところどころ「これは・・・・・・」と絶句するほどもの凄い文章に出会う。

わが身にに引き寄せて考えて恥ずかしく感じたり、自分の阿呆さ加減と情けなさを否応無く自覚させられたり、今の社会の酷い有様をこれ以上ないほど的確に眼前に突き付けられたりする思いがする。

私がここであれこれ言うより、とりあえず読んで下さいとしか言えない。

とにかく凄いです・・・・・。

専制政治の腐敗や革命時代の退廃はしばしば描写されてきたが、情熱のない時代の堕落もそれに劣らず危険である。ただそれが曖昧であるために、あまり目立たないだけのことである。

・・・・・自分自身ではなにひとつ理解せず、また自分自身ではなにひとつする気もない、この無精な群集、この立見席の観衆は、そこで、気晴らしを求めて、世間の人のすることはみなおしゃべりの種になるためにおこなわれるのだ、という空想にふける。

この無精者は、いかにもえらそうに足を組んで御輿を据えていて、働きたがる人間は、王さまだろうと役人だろうと、国民の教師だろうと有能な新聞記者だろうと、詩人であろうと芸術家であろうと、だれもかれもがみんな、他人はすべて自分の馬だと思ってえらがっているこの無精者を引っ張ってゆくために、いわば馬車の前につながれるということになる。

仮にわたしがこういう公衆をひとりの人物として考えてみるとしたら(思うに、少しすぐれた個人であれば、たとえ一時的には公衆に属することがあっても、自分自身の内に組織統合する凝集力をもっているはずで、彼らが最も高い宗教性を獲得するにはいたっていなくても、それが彼らをささえてくれるだろう)、わたしはまずローマ皇帝のだれかを思い浮かべるだろう。

でっぷりと太った大男で、退屈に苦しんでいて、そこで思いきり笑いを発散できるような官能の刺激ばっかり欲しがっているといった人物である。機知という神の賜物はどうも俗世間のものではないからだ。

そこでこういう人物は、悪人というよりはむしろ無精者なのだが、しかし消極的な支配欲があるので、目さきの変化を求めてあちらこちらとうろつきまわることになる。ひとりの皇帝が暇をつぶすためにどんなにいろんなことを考えだしえたかは、古代の作家たちの著作を読んだことのある人ならだれでも知っているだろう。

そんなわけで、公衆は退屈しのぎに一匹の犬を飼っておく。この犬は文学界の卑劣漢である。いまだれかちょっとした人物が現れたとする、傑出した人間ならおそらくもっとお誂え向きだろう。

するとその犬がけしかけられて、退屈しのぎがはじまる。この犬は人にかみつく癖があるので、その人の上衣のすそをひっ裂き、無礼ないたずらのかぎりをつくす―ついには公衆のほうが飽きてしまって“もうたくさんだ”と叫び出す。これで公衆は水平化をなしおえたことになる。

ちょっとすぐれた男、少し強い男はひどい目にあったものだ、―そして犬のほうはというと、むろん犬のほうはどこまでも、公衆自身でさえ軽蔑している犬のままである。してみると水平化は第三者によっておこなわれたわけである。

つまり、無である公衆が、その卑劣さゆえにすでに水平化以上の、そして無以下のものであった第三者を介して、水平化をおこなったわけである。しかも公衆は悔いることもない。だって公衆の仕業ではないからである―犬のやったことだからで、よく子供に向かって、猫がやったんだね、と言われるのと同じことである。

しかも公衆は悔いることもない。だって本当に侮辱を加えたわけではなかったのだから。―ちょっとばかり退屈しのぎをやっただけなのだから。つまり、水平化の手先に使われるものの方がずぬけて腕利きであったとしたら、そのときにはその手先自体が水平化の邪魔になるだろうから、無精者の公衆の方が自分の使った手先に愚弄される羽目に陥ったことであろうが、すぐれたものを卑劣なものによってこきおろし、卑劣なものを同類によってこきおろすというのであれば、勘定はゼロでなんの儲けにもなりはしない。

しかも公衆は悔いようともしないだろう。公衆はもともとその犬を自分で飼っているわけではなく、ただ予約購読しているだけのことだからである。それにまた、彼らは直接に犬をけしかけてかみつかせるわけでもない。また口笛を吹いて犬に合図をするというわけでもない。

裁判沙汰にでもなったら、公衆は言うことだろう、それは私の犬ではありません、のら犬なんです、と。そしてその犬がつかまって、獣医学校に連れて行かれて撲殺されることにでもなったら、公衆はおまけにこうも言えるだろう。あの困りものの犬が殺されたのは、ほんとうにたいへん結構なことです、そうわたしたちはみんな望んでいたんです―予約者のみなさんでさえそうなんです。

ひとりひとりの個人が、全世界を敵にまわしてもびくともしない倫理的な態度を自分自身のなかに獲得したとき、そのときはじめて真に結合するということが言えるのであって、そうでなくて、ひとりひとりでは弱い人間がいくら結合したところで、子供同士が結婚するのと同じように醜く、かつ有害なものとなるだけのことだろう。

昔は、君主や傑出者や卓越者は、それぞれ意見をもっていたが、その他の人々は、自分たちは意見などもとうとも思わないし、もつ力がないのだという、断固とした覚悟をもっていた。ところが今日では、だれでもが意見をもつことができるのだが、しかし意見をもつためには、彼らは数をそろえなければならない。どんなばかげたことにでも署名が二十五も集まれば、結構それでひとつの意見なのだ。ところが、このうえなくすぐれた頭脳が徹底的に考え抜いたうえで考え出した意見は、通念に反する奇論なのである。

無名性は現代では、普通に考えられているより以上に独特のいちじるしい意義をもっている。・・・・・同じ人間がまるきり正反対のことを言うことができ、その人間の口から出たのではその人間自身の生き方に加えられるこのうえない辛辣な諷刺となるようなことを、平気で口にすることができるのである。

その発言そのものははなはだ分別のあるもので、議会に出してもりっぱに傾聴されて、議論の種にもなり、ちょうど工場でボロから紙が製造されるように、その議論の種から相当なものが製造できるほどである。しかし、たくさんあるそんな発言を全部寄せ集めてみたところで、とうてい一個人の人間的な談話ほどのものにもなりはしない。

・・・・・なににでも手引きがある。遠からぬうちに、そういういろいろな手引きの教えてくれることを大なり小なりまとめてそれを覚えこんでしまえば、それで一般教養が身についたということになるだろう。こうして人々は、植字工が活字を拾い出すのと同じように、それぞれ自分の能力相応に、きれぎれの知識を拾い出すことに巧みになっていくことだろう。

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マイケル・オークショット 『政治における合理主義』 (勁草書房)

『思想の英雄たち』で採り上げられていたので、以前から名前だけは知っていたイギリスの保守的思想家・政治学者の本。

全部で10個の論文のうち、表題作の「政治における合理主義」、「自由の政治経済学」、「合理的行動」、「保守的であるということ」の4章だけ読みました。

他には「政治教育」、「歴史家の営為」は何とか読めそうな気もしますが、つい面倒になってパスしてしまいました。

すべての知を、比較的単純な原理から成り言語化が容易な「技術知」と、実際の行動の中でのみ知りうる「実践知」に分け、前者のみを絶対視し後者を無視することの危険性とか、過去の信念・知識・偏見から切り離された「精神」が「合理性」を生み出すのではなく、幾世代もの行動への反省と分析の蓄積に照らして適切なものが「合理的」と呼ばれているに過ぎないといったことが書いてある(と思う)。

こんな一、二行の紹介ですら、ものの判った人から見れば失笑モノのことを書いてるのかもしれないが、私にはそれ以外のことは読み取れない。

幸い、訳者解説が短いながら簡潔に本文の思考を説明してくれてますので、一章読み終えるごとに当たってみると良いでしょう。

一部難解ですが、良質な本だと思いますので、是非お手に取って下さい。

私には無理でしたが、もちろん全部読むのが望ましいでしょう。

それぞれ自由全体を豊富化し安定的なものにしつつ我々の享受する自由を構成している多くの種類の自由の中で、我々は二つの自由が重要だと久しく認めてきた。そのひとつは結社の自由であり、もうひとつは私有財産を所有する権利において享受されている自由である。

第三の種類の自由がこれら二つと並べられることがよくある。言論の自由がそれである。これが自由の重要で基本的な形態であることは疑問の余地がない。それは我々の自由のアーチのかなめ石とさえみなしてもよい。

しかしかなめ石そのものはアーチではない。近年この形態の自由の重要性を誇張するむきがあるけれども、それは他の同じくらい重要な自由が失われることを我々からおおい隠すおそれがある。

人々の大部分は別に言いたいことを持っているわけではない。多くの人の生活は発言する必要感を中心に営まれているのではない。言論の自由をかくも異常に強調するのは我々の社会の声の小さな部分の仕業であり、部分的には正当な自己利益を表現している、というふうに想定してもかまわないだろう。

この利益は濫用しえないでもない。これが、写真を撮影し公刊する無差別の権利、あるいは私邸を監視したりはいりこんだりし防御のすべのない人々をだましたりゆすったりしてばかげたおしゃべりで空虚なことを言いたてる無差別の権利、発言をしようとしない人についてあてこすった文書を公刊する無差別の権利にまでひろげられるとすれば、自由への脅威であることが明らかとなってくる。

大部分の人にとっては、自由に発言する自由を奪われるよりも、自発的な結社の権利や私有財産を奪われるほうがはるかに大きな、かつ深刻に感じられる自由の喪失であろう。このことを現在のイギリスで言っておくことは重要である。なぜなら心得違いをしたジャーナリストや狡猾な圧制者の影響の下で、我々は言論の自由さえ安泰であれば重要なものをなに一つ失ってはいないのだなどと軽々しく信じすぎるようになっているが、これはとんでもないことだ。

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間宮陽介 『増補 ケインズとハイエク <自由>の変容』 (ちくま学芸文庫)

元は中公新書で出ていたものの文庫化。

1930年代の世界恐慌の後、財政政策を駆使し景気を刺激して経済を安定させることを説き、政府による市場経済への介入を肯定したのがケインズであり、その考え方が戦後の社会民主主義的福祉国家の背景を成していたが、1970年代以降の財政赤字とスタグフレーションによって挫折する。

そして80年代初頭から西側先進国で市場原理を重視し、「小さな政府」という言葉の下、規制緩和と競争強化を促す新自由主義的政策が現れてきて、その体現者がレーガン、サッチャー、中曽根の各保守政権。

国家による市場介入が非効率であるのみならず、圧政と独裁を生み出す根源であるとして、ファシズムや共産主義だけでなく、社会民主主義やケインズ主義も厳しく批判していた経済学者・社会哲学者フリードリヒ・ハイエクは、この新自由主義の思想的根拠とされ、時には現在の「市場原理主義」の祖ともされる。

ごく皮相なものではあるが、以上のような知識は事前に頭に入っていた。

そのケインズとハイエク、両者の自由観の相違と共通点を探るのが本書のテーマ。

まずアイザイア・バーリン(『ハリネズミと狐』の著者)にならって自由を、「・・・・・からの自由」(消極的自由)と「・・・・・への自由」(積極的自由)に分ける。

そもそも近代的自由は、恣意的強制からの自由としての前者の消極的自由として始まったものであり、ロックやスミス、バークなど主に英国系の思想家によって主張されてきた。

それが大陸系啓蒙主義的思想家たちが社会の実質的平等実現のために国家の社会への介入を肯定する後者の積極的自由を説きはじめると、国家権力の増大によって自由そのものが危機に瀕し、遂には破壊される。

ルソーやヘーゲルやマルクスがその流れにあり、ケインズ主義もその亜種と見なされる。

だから積極的自由を批判し、消極的自由を擁護して国家介入を可能な限り除くべしというのが普通の保守派の議論。

しかし、本書では自由を手にした人間が主体的努力行為を行なうということを前提にしていた消極的自由が、19世紀後半には単に私的領域での放恣な自由を享受することのみを絶対視し、社会を統合し安定させるための公的価値を一顧だにしない自由放任主義に堕落していたことを強調する。

社会的価値観の崩壊に伴い、経済面でも長期的視野に立った企業活動が衰弱し、無思慮な投機が幅を利かせ、社会を混乱に陥れる。

ケインズはそのような状況を前にして便宜として国家介入を主張しただけであり、また消極的自由の擁護者ハイエクも自由主義の自由放任主義への堕落をはっきりと認識しており、レッセ・フェールの標語を絶対視するような市場原理主義者では全く無かったというのが、本書の非常に大雑把な論旨。

福田恆存氏の『日本を思ふ』の記事で引用した部分とも関連するかと思えるが、私の頭では両者がどう繋がるか上手く整理できません。

この本は凄い。

以上のような、私の下手なまとめ方では本書の魅力は伝わらない。

是非現物をお手に取ってください。

第一章の導入部分はちょっと難しくて読みにくいなあと思ったが、第二章以後の自由論に入るとあまりの面白さに驚倒する。

目から鱗が落ちる。

本当に素晴らしい。

余計なお世話だが、本書のような傑作の版権はできるだけ手放さない方がいいんじゃないでしょうかと中央公論に言いたくなる。

人間の世界が皮一枚の実証の世界に縮減されてしまうと、その影響は「自由」にも及ばざるをえない。自由をめぐる問題の文脈は、自由か強制かという二者択一の文脈にすり替わってしまう。そのとき人間の自由意志をさえぎるものはすべて強制(実力)と見られることになろう。政府の施策はもちろんのこと、人々が長い間育んできた第二の自然たる慣習も、さらに人間の生活に規矩を与える形而上学的な理念さえも、個人の自由意志にとって何らかの拘束となる点で鉄の鎖と同類になってしまうだろう。

自由と放恣は紙一重の差である。自由主義はこの紙一重の差をはっきりと意識していた。自由主義の全重量はこの差にかかっていたといっても過言ではない。強制からの自由を唱えるといっても、それは好きなことなら何をやってもかまわないという自由ではなかったはずである。そもそも強制からの自由とは恣意的な強制からの自由のことであって、この恣意的な強制からの自由が恣意的な自由を表わすことでないことはおのずと明らかである。恣意を制約するものを消極的自由は内包していたはずである。

だが十九世紀後半以降、・・・・実証主義の興隆とともに、自由と恣意の区別は判然としなくなってくる。実証主義は自由を恣意から分かつ基準をもちえない。自由と恣意が互いに交換可能になるのは、鉄鎖や法が、さらには神さえも、互いに交換可能なものとなることの帰結である。「この時代の自由主義は」、とJ・H・ハロウェルは言っている、「自由主義の諸概念の形式をとどめてはいるが、その内容を棄てた一種の自由主義であるといったほうがよい。それは精神的内容に代って経済的内容を、自己超越の代りに自己内在を、永遠の救済の約束に代って自己充足的な「此処、今」を取る。それは一つの価値体系内での寛容に代えるに、精神的不可知論を以てする。それは「天職」の観念に代えるに富の蓄積、物質的快適および快楽を以てする。それはプロテスタント神学と密接な関係をもっていた初期資本主義の禁欲主義に代えるに、現世の財貨と快楽への飾り気のない耽溺を以てする」(『イデオロギーとしての自由主義の没落』石上良平訳)。そして彼はこう言うのだ、自由主義はナチスに破壊されたのではなく、むしろナチスは自殺した一個の思想体系の正当な継承者であった、と。

民主主義の陥りがちな多数者の専制という事態も、その元を辿っていくと、自然権に表わされるような人間の絶対視に行き着く。個々人が社会的な意見形成の究極の主体だとされ、しかもその個人が自己完結した不動の存在だとみなされれば、意見の決着には数を恃むよりほかなくなる。より良き見解に至ろうとすれば、相手を説得しようとするだけでなく、秀れた意見には説得される用意ができていなくてはならない。説得に応じるということは、自分より秀れた人間がいることを率直に認めることである。ところが、自足した人間には、これが不可能である。その結果、議論や討論は力と力の闘争に変じてしまう。数が力となり、勢い、人々は数を恃まざるをえなくなる。多数決は無限に長い意見形成過程に暫定的に終止符を打つための次善の策にすぎないのに、次第にそれは自己目的と化す。多いことは善いことだと考えられるようになる。こうして「本来、民主主義の理想はすべての恣意的な権力を防止することを意図したものであるのに、新しい恣意的権力を正当化するものになってしまう」(『自由の条件』)のである。

大衆社会とは自由主義と民主主義が化学反応を起こし、本来の自由主義と本来の民主主義を換骨奪胎して生まれた社会だとは言えないだろうか。つまり、大衆社会とは自足した個人や個性が様々な羈絆を脱し、強制からの自由を満喫している社会だということである。唯一無二の個性の名の下に、個人の一人一人があらゆる価値の究極の判定者となる。自分の外側にある価値に対しては不信を抱き、そのようなものは形而上学的妄想として軽蔑のまなざしを向ける。不信が高じて頂点に達すると、こんどはやすやすと軽信のほうに引き寄せられる。オカルティズムが魅惑的なものに変じ、宗教が一転してブームとなる。自由主義が内包していた懐疑と信仰の精神は、不信と軽信に変色してしまうのである。

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堂目卓生 『アダム・スミス』 (中公新書)

高校生の頃、数学が全く出来ないのに、「将来経済学部に行こう」と考えていた時期があった。

それで、宇沢弘文『経済学の考え方』(岩波新書)や正村公宏『経済学の学び方』(講談社学術文庫)、佐和隆光『経済学とは何だろうか』(岩波新書)、および、全編漫画・イラスト入りの入門書である、ナガイ・ケイ『THE WORLDLY ECONOMISTS SERIES』(富士書房)のスミス、マルクス、ケインズ、サミュエルソン、フリードマン、ガルブレイスの巻などを読んだ。(高校の図書室にはサムエルソン『経済学』(岩波書店)も置いていたが、これは読めなかった。)

結局自分の適性からして経済学部は無理と悟ったので止めました。

上記の本は一般常識としての一番初歩的な経済学(史)を知る上で役に立ったと思うし、世界史読書の観点からもそこそこ有益だと考えますが、アダム・スミスの著作である『諸国民の富(国富論)』も『道徳感情論』も今となっては絶対読めないので、せめてこういう入門書でも読んで、簡略な知識を仕入れるつもりで手に取る。

両書の内容を噛み砕いてごく平明に解説した本。

まずあまり知られていない『道徳感情論』から始めて、スミスの人間観・社会観を探るのだが、ごく丁寧に基礎から説明して、くどく感じられるほど内容の再確認をしながら記述されているので、読み通すのに何の困難も無い。

『国富論』の部分に入っても同じ。

『国富論』が刊行されたのは、アメリカ独立宣言と同じ1776年だが、スミスのアメリカ植民地独立運動に対する評価と態度が詳しく記されており、なかなか面白い。

基本的に植民地の分離独立を支持するという立場なのだが、高坂正堯氏がどれかの本で、スミスはアメリカ独立を支持したが、ただしイギリスが独立派を軍事的に制圧した後、一方的に独立を付与するのが良いと考えていたとして、それはスミスが権力政治を良く理解していた証拠だと賞賛されていたのを思い出した。

ただ、本書ではその種の記述は見当たらない。

全体の論旨は、スミスは倫理的諸価値を軽視した「市場原理主義者」や「自由放任主義者」では全くなかったんですよ、ということかな・・・・・?

私の頭では上手くまとめられません。

さほど長くも無いし読みやすい本なので、ご自身でお確かめ下さい。

スミスは、イギリスへの統合によって、アメリカ植民地は党派抗争を避けることができると考えた。スミスは述べる。

「[アメリカ植民地は]グレート・ブリテンとの統合によって、幸福と平静の点で多くを得るだろう。それは、少なくとも、小規模の民主主義国と不可分のものである悪意と敵意に満ちた党派抗争から植民地を解放するであろう。この党派抗争は、これまで、しばしば人民の愛情を分断し、形態においては民主的なものに近い政府の平静を乱してきた。この種の統合によって阻止されなければ、グレート・ブリテンからの完全な分離が起こるだろうが、そうなれば、植民地の党派抗争はこれまでの十倍も激しくなるであろう。現在の動乱が始まる前は、本国がつねに強制的な力で、こうした党派抗争が、はなはだしい野蛮と侮辱を超えるほどのものになるのを防いできた。しかし、本国の強制的な力が完全に取り除かれてしまえば、党派抗争は、すぐにも激化して、公然たる暴力と流血へと発展するだろう」(『国富論』五編三章)。

スミスの予言どおり、アメリカは、独立してから党派抗争を激化させ、一八六一年、南北戦争という「公然たる暴力と流血」を引き起こすことになる。

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西部邁 『思想史の相貌』 (徳間文庫)

『思想の英雄たち』(文芸春秋)の日本版みたいな本。

福沢諭吉から福田恆存まで、近代日本の13人の思想家批評集。

夏目漱石などの文学者や伊藤博文などの政治家も含む。

短いページながら、密度は非常に濃い。

興味が持てそうなら、一度お読みになるのも宜しいかと思います。

なお西部氏の最近の著作では、『日本国憲法を読む 上・下』(イプシロン出版企画)はお勧めです。

この方の本は大学時代以来相当読んでますが、高坂正堯氏と違って、反発を感じたり納得できなかったりしたことがよくありました。

そういう感じが薄れたり濃くなったりという状態だったのですが、上記の本は違和感を感じる部分がほとんど無く、非常にすっきりと得心できるものでした。

吉野が天皇主権を認め国民主権を拒絶したことをもって、民本主義と戦後民主主義のあいだの根本的差異とするのはいささか皮相の見方である。というより、そのようにして国民主権の想念にこだわるのが戦後民主主義の誤謬だというべきかもしれない。吉野は天皇主権を法の哲理として承認したが、それを政治の外部に追放することによって、主権の概念そのものを実質的に骨抜きにしてしまった。加えて、吉野は天皇の意志と国民の意志とが連絡し合っていると主張しているのであるから、抽象的かつ形式的なるものとしての天皇主権は、それを国民主権と呼び替えたとて、実質的にみて大した差はないということになる。いってみれば、天皇主権といい国民主権といい、象徴のレベルにあるにすぎないのである。

政治論として主権の概念に固執しなかったのは、吉野の先見の明である。どだい、主権なるものを政治の場において構想するのは馬鹿気ている。少なくともそれは近代の政治にはふさわしくない。なぜなら、主権とは「何ものによっても制限されることのない最高権力」のことであり、そんな凄い権力は、天皇という個人においてであれ、特権階級という少数者においてであれ、国民という多数者においてであれ、所有されてはいけないものなのだ。「無制限の権力」をもつことができるのは、ほとんど定義的に、完全無欠の人間のみである。神とかいうものは、たぶん完璧な存在なのであろうが、権力の神授説を否定したところに近代の政治がはじまったのだ。

デモクラシーにとって、主権の概念が不必要であるばかりでなく有害でもあることについては、H・ハートやF・ハイエクといった高名な法哲学者がとうに指摘している。日本の憲法学者は、ほかのことについては外国の言説の輸入業者よろしくやっているくせに、この主権無用(さらには有害)論については一言も紹介しない。その理由は簡単で、国民主権を事あるごとに繰り返すのが、日本の憲法学者の仕事であり、ハートやハイエクの説を広めようものなら、彼らは仕事にあぶれてしまうのである。吉野は天皇主権を棚上げすることを契機にして、主権概念そのものをデモクラシーの議論から放逐した、または遮断した。そこが民本主義の最も面白いところだと私は思う。

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G・W・ヘーゲル 『歴史哲学講義 上・下』 (ワイド版岩波文庫)

普段取り上げてる本のレベルからすると、「何をトチ狂ったんだ、コイツは」と思われるでしょうが、たまたま気が向いたので本書を手に取りました。

当然ながら、これまでヘーゲルなど一行も読んだことありません。

しかし、高校の倫理の時間に習ったようなことが頭に入っていれば、これは普通に読めます。

読むのに一週間ほどかかったが、通読はさして困難ではなかった。

長谷川宏氏による新訳のお蔭かとも思う。

最初の凡例で

訳語は、いわゆる哲学専門用語のたぐいをなるべく避けた。たとえば、原書に頻出するSittlichkeitは、「人倫」の訳語をあてるのが通例だが、本書ではこの訳語はとらず、文脈に応じて、「共同体」「共同精神」「共同の倫理」「共同感情」「社会性」「道徳的」などの訳語をあてた。

と書かれているのを読めば、それだけで相当わかりやすい翻訳になっているなと推測できる。

もちろん、所々よくわからない部分も出てくるが、少なくとも全く論旨がつかめずに立ち往生して放り出すということはなかった。

内容についてあれこれ書こうとしても、私の知能だととんでもない誤読を書き連ねることにもなりかねないので、これ以上無いほど大雑把な論旨だけ書くと、世界史とは自由の発展の歴史であり、その観点から見るとアフリカやシベリア、高地アジアなどは論外、中国とインドもダメ、ペルシアに代表されるオリエント世界でちょっとマシになって、ギリシアにおいて自由の可能性が大きく開花するが同時に強い限界もあり、結局完全な自由を実現するのはキリスト教的ゲルマン国家であり、それもカトリックではなくプロテスタント諸国がその完璧な体現者だ、というもの。

どんな素人でもやろうと思えば、いくらでも突っ込みたくなる史観ではあるが、私ごときがこういう大思想家に文句をつけても仕方ないので、19世紀初頭のヨーロッパ人にはこう見えたんだなとひとまず御説拝聴しておく。

なお、ギリシアとゲルマン国家の間にあるローマに対する評価がかなり低いのが印象的だった。

ローマの支配はペルシアに比べてもある意味で過酷であったが、その圧政によって人間精神が鍛え上げられ、キリスト教の誕生を可能にしたというふうに読める記述があった記憶がある。

この点、ヘーゲルの思弁的歴史観を批判したランケが『世界史概観』(岩波文庫)を、ギリシアを無視して、古代史のすべての流れが集積され近世史のすべての流れが流出する源とも喩えられるローマから始めているのと対照的で、ちょっと面白いと思った。

(しかし、これも枝葉の部分を誇張した誤読かもしれない。)

この種の本にしてはかなり読みやすい方だと思いますので、気が向いたら皆様もお読み下さい。

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マックス・ウェーバー 『社会主義』 (講談社学術文庫)

1918年6月に行われたウェーバーの講演。

当時は第一次大戦末期であり、前年ロシア革命が勃発、東部戦線ではブレスト・リトフスク条約で休戦が成立、ドイツ軍は西部戦線で最後の攻勢に出るが、この半年後に敗北する。

本文は70ページほどの短さなのですぐに読了できる。

官僚制化という近代社会の趨勢は社会主義革命によっても変えることはできないし、革命後はかえって国家官僚への国民の隷属が一層酷くなるであろう、というのが論旨。

他に、教条的マルクス主義の資本主義崩壊論の誤りを指摘したりしてますが、はっきり言ってあんまり面白くないです。

訳者の解説ではウェーバーの大戦前の社会民主党に対する批判とドイツ革命での態度について書かれていて割と参考になる。

ワイマール共和国の政党を左から右に並べると、共産党、独立社会民主党、社会民主党、民主党、中央党、人民党、国家人民党、ナチスとなりますが、ウェーバーは中道自由主義政党である民主党に参加。

(独立社会民主党はまもなく左右に分裂、存在を解消して左派は共産党に、右派は多数派社会民主党に合流。)

自由主義者は極左的な暴力革命を否定し、議会制民主主義の枠内に革命を留めようと努力し、ウェーバーも同様の態度を取る。

自由主義勢力や社会民主党が保守派や軍部と協力して、ドイツの共産化を阻止したわけですが、一昔前はそれが一部で「裏切り」と見なされていたわけですから、考えてみれば無茶な話です。

セバスティアン・ハフナー『裏切られたドイツ革命』(平凡社)のように共産主義にはっきり反対する立場でありながら、社会民主党が国制改革を徹底して押し進めず、労働者階級が権力を完全に掌握しなかったことを批判し、それが結局ナチの勝利に繋がったとする本もあるが、ちょっと首を傾げてしまう。

この本を読んだ時、事実上の選択肢としては存在しなかったと承知しながらも「そもそもドイツで帝政が続いて政治が民主化されなかったら、ヒトラーが政権を取る可能性は全く無かったんじゃないの?」という全く別な感想が浮かんできた。

国政の民主化は不可避だったにしても、林健太郎『ワイマル共和国』(中公新書)などを読むと共和政への移行はかなりの偶然が作用しているようなので、もし帝政が続いていたらという歴史のイフを考えて、政治権力から分離された権威の中心があったなら、日本やイタリアの例から見て軍部によるヒトラー打倒運動が成功した可能性がより高まったのではないかとも思えてくる。

こんなことは埒も無い素人談義に過ぎないと弁えつつも、本書の解説を読んだ後、どうしてもいろいろ考えてしまいました。

ただ本書自体はさして重要で面白いとも思えませんでした。

類書、というほど似たタイプの本では無いんですが、関連本としてマイネッケ『ドイツの悲劇』(中公文庫)は是非読むべき本だと思いますので、こちらも機会があればお手にとって下さい。

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『ショーペンハウアー全集 13』 (白水社)

最初に申し上げておかないといけないのは、この「哲学小品集Ⅳ」の巻のうち、冒頭の「法学と政治によせて」しか読んでおりません。

トーマス・マン『非政治的人間の考察』(筑摩書房)で引用されていたのを見て、是非読むべきだなと思ったので。

確かに素晴らしい内容ですが、30ページ余りとあまりに短すぎる。

とは言え、この哲学小品集からピックアップされた文章が、『読書について』『自殺について』『知性について』と文庫化されているなら、まずこれを他の文章との抱き合わせでもいいので刊行して欲しいと切実に思いました。

しかし、本書に接したほとんどの方は「何だ、こりゃ???」と感じるだけだと思います。

私自身、本書ほど徹底した反動主義的主張になぜこれほど心を動かされるのか、自分でも上手く説明できません。

乏しい脳味噌を絞って考えると、現代におけるある種の過剰な価値観への解毒剤としては、本書くらい副作用の強い薬を服用する必要があるということでしょうか。

私は非常に面白いと思いましたので、存在だけは紹介しておきます。

これが、完全に時代錯誤な頑迷家のたわ言なのか、それとも現代の相対主義の泥沼から抜け出すための導きの糸なのかの判断は、皆様にお任せします。

いたるところ、あらゆる時代に、政府や法律や公の機構に対する不満が絶えたことはない。しかしそれは大部分、人間の生活に不可分離にくっついている悲惨、神話的にいえば、アダムが受けた呪いであり、アダムとともに人類全体が受けた呪いともいうべき悲惨を、いつでも政府や法律などのせいにするからにほかならぬ。しかしそういった誤ったなすりつけを、「いまどき」の民衆煽動家以上に、嘘っぱちの鉄面皮なやりかたでやったものはない。彼らはキリスト教の敵として楽天主義者なのだ。世界は彼らにとって「自己目的」であり、したがってそれ自体において、すなわちその自然の性質のうえで、完全にすばらしくできあがっているのであり、至福の棲み家である。これを打ち消すような世界の巨大な禍を、彼らはすべて政府の責任に帰するのだ。政府がその責任さえはたしておれば、地上に天国が出現し、万人がなんら苦労しないでもたらふく食い、鯨飲し、おたがい宣伝しあったうえ、くたばることができるというのだ。じつはこれは彼らの称する「自己目的」をわたし流に言いかえたもので、彼らがはなやかなきまり文句で倦むこともなく唱えている「人類の無限の進歩」の目的とするところなのだ。

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マックス・ヴェーバー 『職業としての政治』 (岩波文庫)

久しぶりに来ました、「タイトルと読んだという事実以外に書くことが無い」本です。

ウェーバーの祖国ドイツが第一次大戦に敗北した直後に行われた講演。

大学時代、「薄くてすぐ読めそうだから」という理由で通読。

『職業としての学問』もほぼ同時に読んだ。

楽に読めたという記憶はあるが、強い印象を受けたという感じはしない。

これくらい短い本なら再読しろと言われるかもしれませんが、なかなかやる気が出ません。

ましてや『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)なんて到底読めない。

ウェーバーが同時期行った講演として、講談社学術文庫に『社会主義』という本が収められているようなので、こちらは機会があれば読んでみたいと考えています。

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トーマス・マン 『非政治的人間の考察 上・中・下』 (筑摩書房)

林健太郎『二つの大戦の谷間』で書名を知って以来、気になってた本書を通読。

トーマス・マンの作品で過去に読んだものと言えば、『ヴェニスに死す』か『トニオ・クレーゲル』のどちらか(それすら覚えてない)だけ。

『魔の山』も『ブッデンブローク家の人びと』も読んだことはないし、この先一生読めないままでしょう。

「それでいきなりこれかよ」と思われるでしょうが、これはっきり言って面白すぎます。

挫折してもいいから試しに手に取ってみるかという感じで読み始めたのですが、上巻の半ばくらいから全く目が離せなくなり、まさに巻置く能わずといった状態で普段の自分としては考えられないようなペースで最後まで読めました。

特に中巻が凄い。密度が濃すぎる。目から鱗が落ちるような文章の連続。

そもそも本書は、第一次大戦末期に反ドイツ的言論に反駁する目的で書かれた論文集。

言葉の定義として、著者はシュペングラーなど多くのドイツ知識人と同じく、「文化」を高貴な生と創造的精神に満ちた状態であるとするのに対し、「文明」は文化が堕落した、物質主義と凡庸で醜悪な精神の支配する社会と見る。

そういう視点から、米英仏の民主主義文明を排撃し、ドイツの非政治的市民文化を擁護する。

ドイツの西欧化・民主化を無条件に救いと見なしそのために祖国の敗北すら望む(実兄ハインリヒ・マンを含む)「文明の文学者たち」に激しい怒りをぶつけつつ、単純粗暴なナショナリズムに足元をすくわれることも避けた真摯な思索に深い感銘を受ける。

ゲーテ・ショーペンハウエル・(中期までの)ニーチェを導き手にして近代という時代の急所をズバリと突く思考の鋭さ、それを支える重厚な表現力の双方にひたすら圧倒される。

著者はワイマール共和国時代に入ると、ナチスを含む極右勢力のテロリズムに驚愕し、共和制と民主主義擁護の立場に転じ、ヒトラー政権成立とともに亡命、反ナチ運動に献身するわけですから、本書の立場は著者自身によって「乗り越えられた」とみるのが一般的理解なんでしょう。

ただ個人的には民主主義という立場に立たずに、本書のような立場でも反ナチであることはできるし、むしろその方がより本質的で有効なんじゃないかという気がしました。

もちろんこれは非常に大きな問題で、私ごときが偉そうに、したり顔で論じられることじゃありませんが。

いろいろ検索して見つけた以下の論文では、マンの政治的志向の変化は単なる「転向」と呼ぶべきものではないですよといったことが書いてあるようですので、興味のある方はご覧下さい。

「トーマス・マンとワイマール共和国」(PDFファイル)

とにかく凄い本です。是非お勧めします。

読み終えて数日経ちますが、未だに興奮がおさまりません。

今まで読んだ本の中でも一、二を争うほどの感動を与えてくれた本です。

息子のゴーロ・マンの『近代ドイツ史』(みすず書房)もそうなんですが、こういう無条件で推奨したい本に限って品切れで入手しにくいのが残念でなりません。

新潮社版『トーマス・マン全集』の11巻にも入っているようですので(ひょっとしたら抄訳かもしれませんが)、図書館で借りる場合こちらの方が探しやすいかもしれません。

筑摩書房におかれては、早急にちくま学芸文庫に収録し会社が潰れない限り在庫して頂きたいと切に願います。

あらゆる啓蒙主義道徳、人間の「真の利益」を説くすべての教義は、本来いかに精神的なものであろうとも、それどころか、初めのうちは人間の真の利益は「神のなかに生きる」ことだとさえ定義していようとも、ひとたび権力の座につき、大衆のこころを手に入れてしまうと、かならず権力獲得の程度に比例して堕落する。すなわち、物質化し、経済化し、非精神化する。他方、啓蒙主義道徳に忠誠を誓う大衆も、かならずますます欲の皮があつくなり、不満をつのらせ、ますます愚かになり、不信仰になる。そう、ますます非宗教的になる。宗教と政治とを分離できると考えているところに、自由主義の誤謬がある。宗教なしには、政治は、内的政治は、つまり社会政策は、結局のところやっていくことができない。というのは、人間という動物は、形而上的宗教をうしなうと、宗教的なものを社会的なもののなかに移しかえ、社会的生活を宗教的神聖さに高めようとするものであるが、その結果は、反文化的な社会的愚痴こぼしか、でなければ、社会的対立は解消できず、約束された幸福はいっこうに実現しないものだから、功利的争いの永続化と絶望か、そのいずれかに行きつくのがおちなのだ。宗教心は、たしかに社会的良心や社会的清潔欲とけっこう手をにぎりあえるものである。しかし、宗教心が発生するためには、まず社会生活の過大評価が消滅しなければならない。すなわち、和解は社会的領域以外のところに求めなくてはならぬという認識がうまれたときにはじめて、宗教心が生じる。社会生活の過大評価が精神を支配し、社会生活の絶対的神格化がはじまるところでは、宗教心は居場所をうばわれ、逃げだすほかない。あとに残るのは、絶望的な不和軋轢だけである。

普通選挙制を積極的に主張する人びとの議論は、それが精神的あるいは倫理的要求をかかげるかぎり、どれもこれも根拠のない議論であると思う。・・・・・ドイツ民族のように、いろいろな階層に分化し、それぞれの層の精神的格差が大きい民族にあっては、功績・年齢・教育程度・精神的位格などを考慮に入れ、よく考えた上で慎重に定められた多元的選挙制度が適している。・・・・・このような選挙制度の方が、普通選挙制度より相対的に公正であろう。人間社会の法秩序においてのぞみうるものは、いかなる場合でも、相対的公正でしかない。ところが、こういう選挙権は、すこしでも公正さに近づくために格差をつけるにあたっても十分に考えぬき、貴族主義的な品位をうしなわず、聡明であればあるほど、また、いろいろと工夫や創意を盛りこんであればあるほど、民衆には、それが公正な選挙制度であることがますますわからなくなる。民衆は、つねに最も単純な、最も稚拙な、最も原始的な種類の公正さしか、つまりまわりくどいことなどいわずに、すべての人に同じものをあたえてくれる公正さしか、公正な制度であるとはおもわない。しかも、その原始的な公正を絶対的な公正であると思いこんでいるために、貴族主義的な法律にたいしては、なんでもかでも情熱的に反対するのが道徳的であると考える。この情熱たるや、いかなる法秩序も完全ではありえないという意識をもつ者にはとうてい考えることもできないほど猛烈なものであって、おかげで、結局は民衆が勝利をおさめることになる。だから、今日なお政治をすることが可能だとすれば、民衆とその原始的にして反貴族主義的な法律熱にたよるほかない。・・・・・だが、精神や哲学やすぐれた思想も政治のなかには明らかにもはや求めることも言うべきことももたないということが事実であるからこそ、精神的生活を政治的生活から分離し、政治的生活にはおのれ自身の宿命的な道をすすむにまかせ、精神的生活をこのような宿命から解放し、晴れやかな独立性へと高めることが、どうしても必要なのだ。

デモクラシーとは、上から来るものであって、下から来るものではない。すくなくとも、そうあるべきである。デモクラシーは権利の要求であるべきではない。それは簒奪や不遜な要求ではなく、退位であり、恥じらいであり、断念であり、人間性であらねばならない。デモクラシーは、神の世界に政治が侵入してくる以前の姿に、すなわち、あらゆる差別を越えた、しかし、すべての差別を形式的には保持した兄弟愛に、もう一度もどるべきである。デモクラシーは(わたしは、一貫しておなじことをいっているのだが)、倫理であるべきであって、政治であるべきではない。それは人間が人間によせる善意、両方のがわからの善意でなければならない。というのは、奉公人が主人の善意を必要とするのとまったくおなじ程度に、主人もまた、奉公人の善意を必要とするからである。

自由――この否定概念は、実際、それ自身のなかにみずからの品位をふくんでいない(というのは、否定それ自体は、いかなる品位ももたないからである)。それは、その目的語によって、すなわち、それが否定し拒絶するものによってはじめて品位を獲得することができる。・・・・・自由を要求する人間の大多数がひそかに願っているのは羞恥と礼節からの自由ではあるまいかという猜疑がかならずしも不当なものではないと考えるには、なにもこちこちの人間嫌いである必要はない。自由概念の否定性は、まったく際限がない。それは一種の虚無主義的な概念であり、したがって、きわめて微量を服用した場合にだけ治療効果のある薬用毒物のごときものである。もう一度たずねるが、世界の、全世界の最も内奥の要求が自由概念によるよりいっそうの無政府化にではなく、新たな拘束にむけられているようなときに、そして、[進歩という―引用者註]信仰への信仰がさきにみたように心理的蒙昧主義に堕しつつあるときに、はたしてこの薬物を服用すべきであろうか。

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中川八洋 『正統の哲学 異端の思想』 (徳間書店)

著者名見ただけでギョッとした人もいるかもしれません。

西部邁氏の本を20年ほど読み続けていると、馬鹿は馬鹿なりに一定のイメージができてくるので、本書の各思想家への評価に特に違和感があるわけでもない。

君主制や貴族制はどれほど堕落しても全体主義を生み出すことはないが民主制は違うということ、全体主義は民主主義の反対概念ではなくその派生形態であるということにも異論はありません。

そういうことを思想家の著作の引用を多数散りばめながら論じていく文章は面白くないことはない。

高校教科書のレベルでルソーやマルクスは教えられても、バークやトクヴィルについては名前も出ないのはおかしいと私も思います。

正統派の保守的思想家の翻訳が著しく少ないというもの同感です。

アクトン卿の『フランス革命講義』、(呉智英氏が旧訳に度々言及する)タルモンの『フランス革命と左翼全体主義の源流』、ジョゼフ・ド・メーストルの『フランスについての考察』は特に訳書が出て欲しいです。

ただ、英米系の保守的自由主義思想だけが正しくて、あとは全てインチキと言わんばかりの論調が気になる。

それを現実政治上の親米英主義に繋げようとするところはもっと気になる。

それと、この方のレッテル貼りと罵倒癖は何とかならないんでしょうか。

本書はまだいいんですが、以前某誌でロマノ・ヴルピッタ氏(『ムッソリーニ』の著者)と論争した際の文章を読んで、「こりゃ酷いな」と思った記憶があります。

他の本も読んでみると、どうもファナティックで矯激に過ぎるという印象を持ってしまいます。

まあ、しかしそれは他人の振り見て我が振り直せということかもしれません。

私もはるかに低いレベルにおいてですが、このブログで大した知識も無いのに本を貶したり著者の悪口書いたりしてますからね。

そういうのが不快に感じられた方には謝っておきます。

また、一つ一つは短いものの、本書で引用されている思想家たちの文章には非常に考えさせられるものが多いです。

気が向いたら一度手にとってみるのも良いかと思います。

ただ私としてはやはり先ず西部氏の『思想の英雄たち』をお勧め致します。

「現代の独裁の重要な特徴の多くはデモクラシーの産物である」「近年における大衆民主制の出現と、伝統的諸制度の崩壊のおそれとが、・・・・・今日の独裁出現の歴史的前提である」(ジグムント・ノイマン)

「全体主義は大衆の国家である。・・・・・全国民を群衆に変形させ、情緒的緊張の状態におき、そして過去の価値を全面的に否定しかつ破壊する・・・・・体制である」(エミール・レーデラー)

「主権がどこにあるのかと問われるなら、どこにもないというのがその答えである。立憲政治は制限された政治であるので、もし主権が無制限の権力と定義されるなら、そこに主権の入り込む余地はありえない。・・・・・無制限の究極的な権力が常に存在するに違いないという信念は、あらゆる法がある立法機関の計画的な決定から生まれる、という誤った信念に由来する迷信である」(フリードリヒ・ハイエク)

「無制限の民主主義は、民主主義とは別種の制限された政府より、悪い」(同上)

「イギリス国体の優秀性は、・・・・・君主制的要素、貴族制的要素、民主制的要素が、それぞれ最高主権を分有し、最高主権の発動のためには、この三者全部の同意が必要であるとされる点である」(ウォルター・バジョット)

「近代の政治理論は、国家の権威のみを別としてその他すべての権威を一掃した。すなわち、国家のなかの内部集団、共同体、階級あるいは法人が自治的機能を有することを許さなかった。特権の廃止を絶対として、これらの権威の主体はことごとに解体させられた。自由は個人のものとなったが、自由はこれらの権威から切り離された。・・・・・その結果、個人の自由は国家権力に剥奪される危険にさらされるようになった」(アクトン卿)

「人権宣言は当然、人間のもつ義務の宣言と関連していなければならぬことを忘れ果てている・・・・・人権が人間のもつ義務から引き離されてしまった道は、諸君を善に導くことはしなかった。・・・・・義務の意識がなく権利のみを主張する結果、人間の利益と欲情の闘争の道へ、また相競って相互排除する権利の主張へと人間を押しやった。・・・・・人間の義務は権利よりも深い。・・・・・権利は義務から由来するものである」(ニコライ・ベルジャーエフ)

「<自然的>人間を解放すれば、生れてくるものは悪だけである」(同上)

「人間が単なる自然的、社会的環境の相似にすぎず、外的条件の反射、必然の子にすぎないのならば、人間には神聖な権利も、義務もない。つまり彼にあるものは、利益と欲望だけである」(同上)

「群集は軽信なばかりか、狂気でもある。群集についてこれまで述べたたくさんの性質は、また精神病院の患者の性質でもある。たとえば誇大妄想、不寛容、あらゆる点の無節制など。群集は狂人と同じで、たえず躁と鬱の両極を往復する。ときには英雄的にいきりたち、たちまち周到狼狽して自失する。群集はまさしく、集団的な幻覚をもつ」(ガブリエル・タルド)

「<世論>は、・・・・・あるときには流行の新しい主義(ドクトリン)に熱中して、これまでの慣習的な思想・制度を荒しまわったのち、それらにとって代わろうとする。あるときは<慣習>の威を借りて理性的な改革者たちを圧迫・放逐し、伝統のお仕着せという偽善的な仮装を身にまとえと強要する」(同上)

「人間の堕落を防止するためには、人々を愚劣にする主権というものを、誰にも与えないことである」(アレクシス・トクヴィル)

「国民主権のなかでは、国民は滅亡する。国民は機械的量のなかに埋没し、自分の有機的、全体的、不可分的精神をそのなかで表現することができない」「国民主権は、人間主権である。人間主権はその限度を知らない。そして、人間の自由と権利を侵犯する」(ベルジャーエフ)

「政治それ自体における偉大な、そして長期的に見ればおそらく最大のアメリカ的革新は、共和国の政治体内部において主権を徹底的に廃止したということ、そして、人間事象の領域においては、主権と暴政とは同一のものであると洞察した」(ハンナ・アレント)

「全体的支配は大衆運動がなければ、そしてそのテロルに威嚇された(としても)大衆の支持がなければ、不可能である。・・・・・大衆の信頼なしにはヒットラーもスターリンも指導者として留まれなかっただろう」(同上)

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ギュスターヴ・ル・ボン 『群衆心理』 (講談社学術文庫)

1895年に刊行されたル・ボンの主著として有名な本。

訳書タイトルの「ぐんしゅう」の漢字は、「群集」ではなく「群衆」を使っています。

さほど長大な本ではなく、文章も読みやすく比較的楽に通読できる。

それでいて近現代の世界史を理解するのに極めて重要な視点を提供してくれる。

オルテガ『大衆の反逆』と同じく必読の本と思われる。

借りてもいいですが、今も新刊書店で手に入るみたいですから、是非手元に置いておきたいものです。

群衆は、どんなに不偏不党と想像されるものであっても、多くの場合、何かを期待して注意の集中状態にあるために、暗示にはかかりやすいのである。一度暗示が与えられると、それは、感染によって、ただちにあらゆる頭脳にきざみこまれて、即座に感情の転換を起こすのである。暗示を与えられた者にあっては、固定観念が行為に変化しがちである。宮殿に放火する場合にせよ、あるいは献身的な事業を遂行する場合にせよ、群衆は同一の無造作をもって、それにうちこむ。すべては、刺激の性質如何によるのであって、単独の個人の場合のように、暗示された行為と、その実現に反対する理性作用全体とのあいだに存する関係如何には、もはやよらなくなるであろう。

群衆のうちに、極めて容易に流布する伝説が生み出されるのは、単に、物事を頭から信じこむ性質の結果とばかりはいえず、集合した個人の想像力によって、事件が驚くべき変形を受ける結果でもある。極めて単純な事件でも、群衆の眼に触れると、たちまち歪められてしまう。群衆は心象(イマージュ)によって物事を考える。ところで、心象がいったん喚起されると、今度は最初のとは少しも論理的関係のない、他の一連の心象が喚起されてくるのである。何かある事実を思い出すと、往々妙な連想が起こってくることがあるのを思えば、このような心理状態も容易に納得できる。理性がこういう心象の支離滅裂さを示すのであるが、群衆にはそれがわからないのである。想像力の変形作用が事件につけ加えるものを、群衆は事件そのものと混同する。そして主観と客観とを区別する能力を持たないから、心中に喚起された心象が、多くは観察された事実と縁遠い関係しか有しなくても、その心象を現実のものとして受けいれるのである。

群衆を構成する人々の気質が多種多様であるから、群衆がその目撃する何らかの事件に加える変形も無数であって、その意味も区々であるにちがいないと思われよう。ところが実際にはそうではない。感染の結果、この変形は集団のあらゆる個人にとって、同じ性質、同じ意味のものとなる。彼等の一人によって認められた最初の変形が、感染する暗示の核心となるのである。

最も疑わしい事件とは、確かに、最大多数の人々によって観察された事件をいうのである。

群衆の現わす感情は、よかれ悪しかれ、極めて単純でしかも極めて誇張的であるという、二重の性質を示す。この点についても、他の多くの点についてと同じく、群衆中の個人は原始人に似ている。微妙な差違を解し得ず、物事を大まかに見て、推移の過程を知らない。感情は、暗示と感染とによって非常に早く伝播し、それが一般の賛成を得ると、著しくその力を増大するのであるが、群衆における感情の誇張は、この事実によっていよいよ強められる。

群衆の感情が単純で、誇張的であることが、群衆に疑惑や不確実の念を抱かせないのである。それは、ただちに極端から極端へ走る。疑いも口に出されると、それがたちまち異論の余地ない明白な事実に化してしまうのである。反感や不服の念がきざしても、単独の個人の場合ならばさして強くはならないであろうが、群衆中の個人にあっては、それは、たちまちはげしい憎悪となるのである。

群衆の強烈な感情は、特に、異なった分子から成る異質の群衆において、責任観念を欠いているために、さらに極端となる。罰をまぬかれるという確信、群衆が多人数になればなるほど強まるこの確信、また多数のために生ずる一時的ではあるが強大な力の観念、それらが、単独の個人の場合にはあり得ない感情や行為をも、集団には可能ならしめるのである。群衆のなかにいれば、愚か者も無学者もねたみ深い人間も、おのれの無能無力の感じを脱し、その感じにとってかわるのが、一時的ではあるが絶大な暴力の観念なのである。

群衆における誇張癖は、不幸にもしばしば悪質の感情にも及ぶことがある。この悪質の感情は、原始人の本能の遺物であって、単独の、責任観念を持つ個人ならば、罰を恐れるがゆえに、これを抑制せざるを得ないのである。こうして、群衆が最も悪質の過激行為に走りやすい理由も説明される。

民族というものは、過去によって創造された一種の有機体である。どんな有機体とも同様に、民族は、祖先伝来徐々に蓄積されてきたものに手を加えなければ、変改することはできないのである。・・・・・

従って、民族の根本的な任務は、過去の制度を少しずつ改めつつも、それを保存することでなければならない。これは、困難な任務である。この任務を実現したのは、だいたいにおいて、古代ではローマ人、近代ではイギリス人だけであろう。

経験は群衆の精神に真実を確立し、あまりにも危険になりすぎた幻想を打破するために、有効な、ほとんど唯一の方法となる。・・・・・現世紀と前世紀とは、恐らく、後世の歴史家によって、奇異な経験の時代としてあげられるであろう。どんな時代にも、これほど多くの経験が試みられたことは、かつてなかったのである。

その最も大きな経験が、フランス大革命であった。純理の示すところに従っては、社会を徹底的に改造できないということを発見するために、二十年間に数百万の人間を殺戮し、ヨーロッパ全土を混乱に陥れねばならなかった。

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ヤコプ・ブルクハルト 『世界史的諸考察』 (二玄社)

ホイジンガについて『中世の秋』を読まずに『朝の影のなかに』を読んだように、ブルクハルトについても『イタリア・ルネサンスの文化』は読まずにこれを読む。

「まず主著を読めよ」と思われるかもしれないが、いくら名著でもその種の文化史の本は私にとっては荷が重い。

古典的著作については、無理をせず自分でも読めそうなものだけ着実に読んでいくという方針でやってますので、このブログでご紹介できるものははなはだ少ない。

もちろん意欲のある方はこの手の本をどんどん読んでいって頂ければ、非常に有益だと思います。

さて、本書はブルクハルトが普仏戦争とドイツ統一の騒然とした世相の時期に行った、全般的歴史観についての講義を、その死後出版したもの。

歴史を動かすものとして、国家・宗教・文化という三つの力を想定し、その相互規制関係をあれこれ叙述している。

ちょっと理解しにくいところも多いが、全くチンプンカンプンというわけでもない。

「?」と思った部分があっても、そこで立ち止まらずどんどん読み進めていけばいいと思う。

所々で大いに考えさせられる文章に出会い、感銘を受ける。

読み終えた後、ずっしり胸にこたえるものがあった。

歴史思想の本としてはさほど難しくないし、非常に重要な内容を含んだ本だと思うので、未読の方には是非ご一読をお勧め致します。

国家の建設に対して契約説を説くことは荒唐無稽である。ルソーにおいてもそれはただ理念的な仮説的な応急手段として考えられているにすぎない。彼は過去においてどうであったかを示そうとせず、自分の説ではどうであるべきかを示すに止まるからである。いまだにどんな国家も真の契約、すなわちあらゆる面から自由意志による契約によって成立したことはない。なぜならば戦慄しているロマン人と勝ち誇るゲルマン人との間にあったような割譲とか和解のようなものは決して真の契約ではないからである。それ故にまた今後もどんな国家もそのようにして成立はしないであろう。そしてたとえそのようにして成立しても、それは弱体な産物であろう。なぜならば絶えず根底についての紛争が生ずるであろうから。

・・・・・近代文化は18世紀に始まって、1815年以来強大な力で前進する中で、大きな危機に向って急速に迫って行くのである。なお国家が一見旧態のままであった啓蒙時代においてさえすでに国家は民衆によって事実上暗くされていた。それは決して日々の出来事について論争する民衆ではなくて、哲人として世界を支配した人々によってである。すなわちヴォルテールやルソー等々のような人々である。ルソーの社会契約説は七年戦争よりはおそらくいっそう大きな「歴史的出来事」である。とりわけ国家は反省的思索、哲学的抽象の最も強い支配下に陥り、主権在民の理念が訪れ、ついで営利と交易の世代が始まり、これらの興味が次第に世界を規定するものとされてくる。

・・・・・下層からして見れば国家のどんな特殊の権利ももはや認められない。すべてが論議の的であり、否根本において国家についての反省的思索は気分次第で国家形式の絶えざる変化を要求する。

しかし同時にこの反省的思索は、それが周期的に国家のために立てるその崇高な全プログラムを国家が実現しうるために、国家からいつもいっそう大きないっそう広汎な強制力を要求する。きわめて奔放な個人もその場合は個人が普遍の下に最も強力に束縛されることを願うのである。

国家はこのようにして一方ではそれぞれの党派の文化理念の実現であり表現であるべきであるが、他方では市民生活のよそおう目も綾な衣裳しかもただこのことのために万能な衣裳にすぎないのである。国家はすべて可能なことをすることができるが、もはや何物もしてはならない。すなわちその現存の形式をどのような危機に対しても防禦してはならない――しかも結局また人はやはり何よりも国家の権力行使に参加したいと願うのである。

こうして国家形式はいつも論議しうるが、権力の範囲はますます増大する。後のことはまた地理的意味でもそうである。すなわち国家は今や少くとも当の国民全体とその上なお何かをも加えて包括すべきであり、国家権力の統一と国家の版図の大きさとが崇拝の対象となる。

国家の神権(生命や財産に対するそのかつての恣意的権力)が根本的に消えて行けば行くほど、ますます広く人は国家のためにその俗世的権利を拡張する。組合権はいずれにしても死滅し、妨げるものとてはもはや存在しない。ついに人はあらゆる差別に対して極度に過敏になる。大国家が保証する単純化や平均化ではもはや充分ではない。現在の文化の主力である営利感覚は交通のためだけでも普遍的国家を本来前提する、ただしこれに対しては個々の国民の特性やその権力感のうちにまた強力な対抗力が働いているのは勿論である。

その間にやがてそこここで地方分権化や自治、アメリカ的単一化等々を求めて呻吟する声が聞えるのである。

しかし最も重大なことは国家の使命と社会の使命との間にある限界がまったく乱れ去るおそれがあることである。

これに対してフランス革命がその人権の宣言をもって最も強い衝撃を与えたのであるが、一方国家はその憲法中で市民権について合理的な定義を与えることによって済ますことができれば、有難いと思ったに違いなかったであろう。

いずれにしてもその場合カーライルが正当にも注意するように、人はまた人間の義務や人間の能力、さらにまた国土の可能的な生産についても深く思いをめぐらすべきはずであったであろう。

人権を近代的に起草するとなればそれは労働権と生存権を含むことを要求するであろう。

人はまさに最大の主要事をもはや社会に任せようとは欲しない。なぜならば人は不可能な事をしようと欲し、しかも国家の強制のみがそれを保証しうると考えるからである。

「組織」といい、「制度」というものが現在の文筆上や出版上の流通機構を通じて迅速にひろまる結果として人はそれをどこでも持つことを要求するばかりでなく、また社会のしないことが解っていたり予感されたりするすべてのことを日毎に増える借方の帳簿の中で直ちに国家に決済を強いるのである。いたるところで要求は昂まりそれに応ずる理論も昂まる。しかも同時にまた19世紀の苦悩に満ちた大規模の喜劇の主たるものというべき負債もまた増えるのである。未来の世代の資産をあらかじめ蕩尽するこのやり方がすでに19世紀の本質的性格としての心なき驕慢を証しているのである。

結局のところ、どこかで人間の不平等にふたたび敬意が払われるようになる時がこよう。しかし国家や国家概念がその間に何を経験するであろうかは、ただ神々の知り給うところである。

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A・ハミルトン、J・ジェイ、J・マディソン 『ザ・フェデラリスト』 (岩波文庫)

1787年制定されたアメリカ合衆国憲法への賛成を促すために書かれた著名な政治論文の抄訳。

いわゆる連邦派の人々の政治的主張を述べた本であり、アメリカ建国の父たちのうち、ジェファーソンに代表されるのとは違った、もう一つの流れを知ることができる。

と思って読んだのですが、どうもいまいち。

今まで読んだ乏しい本の記述から、三人の著者のうちアレグザンダー・ハミルトンに私は強い敬意を持っていたので、大いに期待していたのだが、目の醒めるような叙述はさほど多くなかった。

読み飛ばしたわけではなく、一文一文丁寧に文意を取りながらじっくり読み込んだのだが、権力の空間的分割としての連邦制と機能的分割としての三権分立制による抑制均衡原理の利点が淡々と書かれているだけ。

「民主主義の権化」アメリカの独立直後の指導者が書いたこの論説で、直接民主政への警戒がかなり垣間見られるところは少し面白かったが、それも強く印象に残るほどではない。

これだけの古典なので、9割方読み手の私の問題なのは間違いないが、エドマンド・バーク『フランス革命の省察』を読んだ時に、政治に関する叡智の泉だと思えたほどの、圧倒的な読後感は明らかに無かった。

まあ有名な本ですから、一読したのは悪くなかったとは思いますが。

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クラウゼヴィッツ 『戦争論 上』 (岩波文庫)

大学の講義テキストとして上巻だけ買った。

無理やり通読したが、なんだか訳のわからないままとりあえず目を通したというだけ。

私が読むような本ではなかった。

この岩波版は訳文が古く不必要に難解との評があるみたいだが、私の頭では他の訳で読んでも同じでしょう。

ピーター・パレット『クラウゼヴィッツ 「戦争論」の誕生』(中公文庫)は、著者が有名な戦史家らしいので、機会があれば読んでみようかなと思いますが。

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ルソー 『人間不平等起源論』 (岩波文庫)

また来ました、そもそも私が紹介する資格のない本です。

何卒ご容赦を。

本書についても覚えていることと言えば、文明社会の弊害の原因を私有財産制に求めるようなルソーの記述に、ヴォルテールが激昂して「これこそ貧者の暴力による富者の収奪を正当化するならず者の哲学だ」と書き付けたとか、ルソーへの手紙に「あなたの本を読むと、人は四本足で歩きたくなります」と記したとか、そんなことだけ。

もう十数年前に読んだきりですが、再読しようとは思いませんねえ。

あとルソーの本では岩波文庫『エミール』の上巻だけ読みましたが、何だかよくわからないまま適当に目を通しただけでした。

もっと平易な入門書として桑原武夫『ルソー』(岩波新書)はまあ読んでおいてもよかったと思いますが、それも強くお勧めはしません。

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フランシス・ベーコン 『ノヴム・オルガヌム』 (岩波文庫)

当ブログではネタに詰まると忘れたころにやってくる、この種の古典的著作。

いつもの通り、以前一応読みましたということ以外書くことが無いです。

まあ高校の倫理の時間に習った「洞窟のイドラ」とか「市場のイドラ」とかの事項について、ああこれがそうかと確認できるくらいには読めました。

これがデカルト『方法序説・情念論』(中公文庫)になると本当に字面を追うのが精一杯になった。

私の頭ではこういう本を読んで面白いと感じる能力が無いです。

残念ではありますが、まあ無理して読んでも身に付かないでしょうし、しょうがないですね。

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カント 『永遠平和のために』 (岩波文庫)

カント哲学などは私の理解可能範囲を遥かに超えるものなので全く読めないのだが、これは高坂正堯『国際政治』(中公新書)の参考文献でもあるので、国際政治学の古典として読んだ。

この手の本にしては比較的楽に読めます。

特にカントが平和的国家の条件として挙げる「共和政体」を、民主政とは厳密に区別している点が非常に示唆的で面白かった。

世界史初学者にとって必読とは到底言えませんが、それなりに興味深い本ですので機会があればどうぞ。

(以下『林健太郎著作集 第3巻 ドイツの歴史と文化』「ドイツ市民精神」より)

・・・・同様の思想を、彼[カント]は『永遠平和のために』・・・・においては「各国家における市民的憲法は共和的ならざるべからず」なる言葉を以て表わしている。しかしながら、このような彼の言葉から直ちに彼を普通の意味における「共和主義者」と考えることは全く正しくない。

即ち彼によれば、共和制とは決して国家の最高権力を有する人員の数によって決定されるものではなくて全くその「統治の形式」によって定まるものであり「共和政体とは執行権を立法権より分離する所の国家原理」に外ならないのである。而して国家の支配者が「君主であるか貴族であるか又は全人民即ち民主的連合であるかはどうでもよい」(『法律哲学』)のであるが、しかも彼は所謂民主政治を、多数の者が少数の者を圧迫し、乃至は全員ならぬ全員が議決し得るが故に専制政治に外ならないとなし(『永遠平和のために』)更には「人間は一つの動物であって、それは同種族に属する他の者の中に住む時は一箇の君主を必要とする」(『一般歴史考』)と言っている。

そして又「実践的意図においては、最高権力の根元はこれに従属する人民にとって探究すべからざるもの」であって、「国家における支配者は臣民に対して権利のみを有して何等の(強制的)義務を負わない。」あるいは「人民にとっては決して暴動の権利はなく、ましてや個別的人格者(王)としての彼に対してその権力の誤用を口実としてなす彼の人格あるいはむしろ彼の生命に対する冒瀆の権利の如きは全然存しない。」あるいは又「(誤った)国家組織の変更は時には必要とされるであろうが―――それはただ統治者自身によって改革を通じて遂行され得るものであって、人民によって従って革命を通じて遂行され得ない」という見解も亦、同じ『法律哲学』の中で彼が固く持するところである。

(このように立憲君主主義と啓蒙専制主義の支持者であったはずのカントは、ルイ16世処刑とジャコバン恐怖政治によってドイツの革命同情者のほとんどがその反対者に変わったときにおいても革命支持を基本的には止めなかった。それについて林氏は「これは彼自身の市民性が如何に強烈であったかを物語ると同時に、又彼の学説自身の弱さを示すものと言い得るであろう」と記している。)

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福沢諭吉 『文明論之概略』 (ワイド版岩波文庫)

福沢がギゾー『ヨーロッパ文明史』やバックル『英国文明史』などを換骨奪胎し、日本の独立に資する世論を喚起するために明治八年(1875年)刊行した史的文明論。

表記はさほど難しくなく、私でも楽に読めました。

主旨は退嬰的な旧道徳や上滑りの精神論、硬直した国体論を批判するものなのだが、個人的にはそれ以外の、進歩的啓蒙家の枠組みに入りきらない部分の主張がむしろ面白かった。

『学問のすゝめ』や『福翁自伝』を読んだことのない人(私も含む)でも、これは面白く読めると思いますので、ご一読をお勧めします。

・・・・事物の利害を論ずるに、その極度と極度を持出して議論の始より相別れ、双方互いに近づくべからざることあり。

その一例を挙げていわん。今、人民同権の新説を述る者あれば、古風家の人はこれを聞て忽(たちま)ち合衆政治の論と視做し、今、我日本にて合衆政治の論を主張せば我国体を如何せんといい、遂には不測の禍あらんといい、その心配の模様はあたかも今に無君無政の大乱に陥らんとしてこれを恐怖するものの如く、議論の始より未来の未来を想像して、いまだ同権の何物たるを糺さず、その趣旨のある所を問わず、ひたすらこれを拒むのみ。

また彼の新説家も始より古風家を敵の如く思い、無理を犯して旧説を排せんとし、遂に敵対を勢を為して議論の相合うことなし。畢竟双方より極度と極度を持出すゆえこの不都合を生ずるなり。

都(すべ)て世の政府は、ただ便利のために設けたるものなり。国の文明に便利なるものなれば、政府の体裁は立君にても共和にても、その名を問わずしてその実を取るべし。

開闢の時より今日に至るまで、世界にて試たる政府の体裁には、立君独裁あり、立君定律あり、貴族合議あり、民庶合議あれども、ただその体裁のみを見て何れを便と為し何れを不便と為すべからず。ただ一方に偏せざるを緊要とするのみ。

立君必ず不便ならず、共和政治も必ず良ならず。千八百四十八年、仏蘭西の共和政治は公平の名あれどその実は惨刻なり。墺地利(オーストリヤ)にて第二世フランシスの時代には独裁の政府にて寛大の実あり。

今の亜米利加の合衆政治は支那の政府よりも良からんといえども、メキシコの共和政は英国立君の政に及ばざること遠し。故に墺地利、英国の政を良とするも、これがために支那の風を慕うべからず。亜米利加の合衆政治を悦ぶも、仏蘭西、メキシコの例に倣うべからず。

政はその実に就いて見るべし、その名のみを聞きてこれを評すべからず。政府の体裁は必ずしも一様なるべからざるが故に、その議論に当(あたり)ては、学者宜しく心を寛にして、一方に僻すること勿(なか)るべし。名を争うて実を害するは、古今にその例少なからず。

前の論に従えば、立君の政治はこれを変革して可なり。然ば則ちこれを変革して合衆政治を取り、この政治を以て至善の止まる所とするか。いわく、決して然らず。

・・・・・合衆政治は人民合衆して暴を行うべし、その暴行の寛厳は、立君独裁の暴行に異ならずといえども、ただ一人の意に出るものと、衆人の手に成るものと、その趣を異にするのみ。

・・・・・立君の政治には、政府の威を以て人民を窘(くるしむ)るの弊あり。合衆の政治には、人民の説を以て政府を煩わすの患(うれい)あり。

故に政府、あるいはその煩わしきに堪えざれば、乃ち兵力に依頼して遂に大に禍を招くことあり。合衆政治に限りて兵乱少なしというべからず。

近くは千八百六十一年、売奴の議論よりして合衆国の南北に党類を分ち、百万の市民忽(たちま)ち兇器を取て、古来未曾有の大戦争を開き、兄弟相屠り同類相残(そこな)い、内乱四年の間に、財を費し人を失うこと殆どその数を計るべからず。

元とこの戦争の起る源因は、国内上流の士君子、売奴の旧悪習を悪(にく)み、天理人道を唱えて事件に及びしことにて、人間界の一美談と称すべしといえども、その事一度び起れば、事の枝末にまた枝末を生じ、理と利と相混じ、道と慾と相乱れ、遂には本趣意のある所を知るべからずして、その事跡に現われたるものを見れば、必竟自由国の人民、相互に権威を貪り、その私を逞(たくまし)うせんと欲するより外ならず。

その状、あたかも天上の楽園に群鬼の闘うが如くなり。もし地下の先人をして知ることあらしめなば、今この衆鬼子の戦うを見てこれを何とかいわん。戦死の輩も黄泉に赴くといえども、先人を見るに顔色なかるべし。

(アメリカ南北戦争を奴隷制度破棄と国家再統一のための混じり気の無い正義の戦いと見做さずに、民主共和政と言論の自由が齎し得る恐るべき破局と捉えた福沢の視線が私には非常に新鮮に思える。なおこういう歴史認識と人種・性・民族コミュニティに関する現在のアメリカ国内の文化戦争については、パトリック・ブキャナン『病むアメリカ、滅びゆく西洋』(成甲書房)が面白かったので名を挙げておきます。この本も多くの人にとっては「迷著」なんでしょうが、私にはかなりの程度名著に思える。)

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ニーチェ 『ツァラトゥストラはこう言った 上・下』 (岩波文庫)

タイトル見た瞬間もうお分かりでしょうが、毎日更新のノルマを果たすためだけの穴埋め記事です。ごめんなさい。

大学時代最後まで読みました。それは間違いない。

いや、読んだというより「眠気を堪えながら最後まで字面に目を通した」と言った方がいいかもしれない。

じゃあこの本とニーチェの思想について何か書いてみろと言われても、一行も書けない。

私程度の読者はこういうのを無理して読むより、以前紹介した西部邁『思想の英雄たち』ゴーロ・マン『近代ドイツ史』の該当箇所を読んでわかったつもりになっておけばいいんではないでしょうか。

特に後者の『近代ドイツ史』のニーチェを扱った章は素晴らしい。

難しい哲学的概念は全く使わずにニーチェの生涯と思想についてこれ以上ないと思われる程わかりやすく面白い文章で叙述してくれている。

この本が現在品切れなのは痛い。何とかしてください、みすず書房様。

と、またもや記事タイトルと直接関係無い本の話でお茶を濁して今日は終わりです。

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ロック 『市民政府論』 (岩波文庫)

これも『社会契約論』と同じですねえ。

ウンウン唸りながら亀の歩みで苦労して最後まで通読して、それで高校の政経や世界史で習ったこと以上の何を得たかというとよくわからない。

比較的短い本なので、一度読んでみるのも悪くないとは思います。

私自身としてはものすごく以前に一読しただけなんで、再読したらまた印象が違うのかもしれないが、今のところ再読する気はゼロです。

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ルソー 『社会契約論』 (岩波文庫)

読むことは読んだが、本当にただ字面を追っただけという感じ。

何か得たものがあったかと言われれば、首を傾げるほかない。

政治学や社会思想に興味がある人はともかく、私のようなただの素人世界史愛好家がこの種の古典を無理に読む必要があるかというと、相当疑問。

ということをわざわざ言うためだけの記事です。ごめんなさい。

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福田恒存 『日本への遺言』 (文春文庫)

著者の膨大な著作集から編纂した入門書。

1ページ単位の短文集なので、非常に読みやすい。

この人の逆説に満ちた華麗な言論には深く感心させられる。

福田氏を知らない人に是非手にとって頂きたい本。

日本の歴史学者には公式的な考へかたが支配的ですので、「天皇制」といふことも、あるいは明治の為政者が自己を権威づけるためにでつちあげたものだとか、あるいは長いあひだ日本人にしみついた封建的性格のためだとか、あるいは神道がいけないとか、いろいろに説明をしてをります。が、それだけで説明はつきますまい。絶対神のない日本では、つねに相対の世界のなかで具体的な人格に絶対者を求めようとする心理があるのではないか。その欲求は、おさへてもおさへても、隙をねらつて盛り上つてくるでせう。

私自身はもちろん「天皇制」には反対です。が、その理由は、天皇のために人民が戦場で死んだからといふことではありません。私と同じ人間を絶対なるものとして認めることができないからです。だからといつて、天皇を絶対視する「愚衆」を、私は単純に軽蔑しきれません。少くとも、絶対主義を否定し、相対の世界だけで事足れりとしてゐる唯物的な知識階級よりは、たとへ相対の世界にでも絶対的なものを求めようとしてゐる「愚衆」のはうが信頼できます。

(親戚が日本軍に殺されたオランダ人から)日本の民衆には敵意をいだかないといはれて、私たちはどうしてほつとできるのか。私は一億総懺悔などとばかばかしいことをいふつもりはないが、さればといつて、日本政府、あるいはその帝国主義軍隊と、この自分とはべつものだなどといはれて、「おゝ、さうだつた」と安心する気はありません。もちろん、私は私なりに、今度の負け戦さはやりきれなかつた。個人としてできうるかぎり軍閥政治に利用されたくないとおもつてゐました。その是非は別問題として、事実さうでした。が、いまになつて、日本の軍隊は悪いが、おまへは許してやるといはれれば、やつぱり不愉快です。私たちが戦争をとめられなかつたことからくる責任感ではありません。あれほど嫌つてゐたけれども、あの日本の軍隊はやはり自分のものだつだといふ気もちがあるからです。

超自然の絶対者を設定しなければ、私たち人間はエゴイズムを否定することはできません。すくなくとも論理的には否定はできない。ある人間のエゴを否定するために他の人間のエゴをもちだしてくるだけです。ある集団のエゴを、あるいはある階級のエゴを否定するために、他の集団、他の階級のエゴを使ふだけです。また、既成の、現在のエゴを否定するために、可能性としての、未来のエゴを強化するだけです。すべてのエゴを否定するためには、それをもちだすことによつて、どのエゴも得をしない現実の外にあるものを、いはば梃子として利用しなければならないのです。

日本人は封建時代に、現実的な絶対者をもつてゐました。それが明治になつてから天皇制に切りかへられた。そして戦後はさういふ絶対者を一気に投げすててしまつたのです。現在の私たちは単純な相対主義の泥沼のなかにゐる。なほ悪いことに、私たちはそれを泥沼とは感じてゐない。たいていのひとが相対主義で解決がつくとおもつてゐます。が、私は戦後の混乱のほとんどすべてが、この平板な相対主義の悪循環から生じてゐるとおもひます。私自身、ものを考へ、判断するばあひ、これにはまつたく手を焼いてをります。超自然の絶対者といふ観念のないところでは、どんな思想も主張も、たとへそれが全世界を救ふやうな看板をかかげてゐても、所詮はエゴイズムにすぎないといふことを自覚していただきたい。

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マルクス エンゲルス 『共産党宣言』 (岩波文庫)

有名な史料の一つとしてこれは読んでおいてもいいんじゃないでしょうか。

エンゲルスの『空想より科学へ』を加えてもいいですけど。

高校の時の私みたいに、これ読んで左派的考えを持つなんて阿呆な人間はもういないでしょうから。

大学に入ってレーニンの『国家と革命』を読んだときは「ああ狂信って怖いな」と思っただけでしたが。

無理に読む必要は全然無いですが、機会があればどうぞ。

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トマス・モア 『ユートピア』 (岩波文庫)

これも「教科書に出ているような古典にとりあえず目を通しておこう」ということだけで読んだ本ですね。

さほど難しい本じゃないですので楽に読めます。

そんな面白くもないですが。

私は単に「目を通した」というだけなので、本書からどんなものを読み取ったかと聞かれても困ってしまう。

興味のある方だけどうぞ。

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プラトン 『ソクラテスの弁明・クリトン』 (岩波文庫)

西洋思想史の第一ページにある本であり、短いので比較的楽に読める。

本来ならこれを読んだ後、教科書に出てくるような本を次々読破していくべきだったんだろうが、抽象的思考力ゼロの私はあと4、5点の作品を時代もバラバラで読むのが精一杯だった。

本書は読みやすいし、毛嫌いせずに一度手にとってみるのもよいでしょう。

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会田雄次 責任編集 『世界の名著 マキャヴェリ』 (中央公論社)

大学の政治思想史か何かの講義のテキストとして購入。

半ば意地になって無理やり読み終えた。

内容は有名な『君主論』と全然有名じゃない『ローマ史論』(本書の邦題は『政略論』)のセット。

『君主論』は当時のイタリアの都市国家の細々とした分裂状況に即した政論であり、初心者がこれで何か具体的な史実を憶えるということはほぼ不可能。

『ローマ史論』の方は、古代の歴史家リヴィウスの『ローマ建国史』の記述を元にあーだこーだと政治・軍事論を述べる作品なのだが、そもそも初心者には全く馴染みの無い、初期共和政の細かな史実を次々に例にしているのだから難渋で到底楽しく読めるものではない。

結論。教科書に載っている有名な古典として『君主論』に目を通したい人は岩波か中公の文庫を読めばいい。本書は初心者が無理して読む必要無し。

ちなみにこれをテキストにした講義はろくに出席しなかったので、単位を落としました。

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福田和也 『バカでもわかる思想入門』 (新潮社)

タイトル通り、プラトン・マルクス・孫子・親鸞・ハイデガーなど古今東西の思想家たちの入門の入門といった感じの本。

バカ話を交えたごく簡略な紹介だが、結構面白い。

暇潰しのつもりで寝転がりながらでも読める。

同じ著者で主に政治家を対象にした『超・偉人伝』(新潮文庫)も楽しい。

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ジョージ・ケナン 『二十世紀を生きて』 (同文書院インターナショナル)

晩年のケナンが自身の政治的哲学とアメリカ社会への視線を披露した本。

民主主義、平等主義、技術革新、市場主義、理想主義的外交などアメリカ文明を特徴付ける様々な要因に対して深い懐疑を示している。

格調高く極めて意義深い文章ながら、晦渋なところは全く無い。

著者の人格と識見が生み出した、政治哲学と社会批評の素晴らしい傑作。

私の念頭にあるのは、スターリンとヒトラー政権の最盛期の暴虐が現出したような、二十世紀の全体主義の現象である。両政権は、西欧文明の歴史上の他のすべての種類の政府と、いくつかの本質的な面で違っていた。極めて権威主義的または専制的な政府が、その法律を犯したり、その権威を危うくしたり逆らったりしたと認めた者を過酷、残酷に扱った例は歴史上、数多い。これら二つの独裁制が他のすべての専制と違うのは、その残虐の規模そのもの(他の場合は数百、またはせいぜい数千人だったが、両者は何百万人に被害を与えた)だけでなく、さらに重要なのは、その残虐の犠牲者の圧倒的大多数が、有罪でなく無実の人々だったことだ。何百万人もが、何をしたかでなく、何であったか、またはそう思われたか、さらには、実際思ったり言ったりしたのではなく、思っていると疑われるという、自分の責任でないことのために、迫害、断罪されたのだ。・・・・・(私が「全体主義」という用語を使う時、念頭に置くのはこの性格の政権だけだ。これら両政権と、独裁的権威主義の普通の諸形態ともいうべきものとの間には大きな違いがある。

・・・すべての政府システムを縦断し、他のすべてに勝る意義を持つ基本的な相違がある。それは「民主的」と「非民主的」な政府の違いと説明すれば最もわかりやすいだろうし、米国では特にそうだ。私個人としては、この関連で「民主的」という用語を使うのが嫌いだ。この用語は、そもそも米国の建国の父の多くが、建設中のシステムを説明するのに使おうとはしなかったろう。当時ですら「民主主義」という言葉は相当多くの意味になり、代表制政府の制度の強力な支持者ですら、軽蔑的に用いることがあった。さらに近年になると広く乱用されて、かってどんな意味があったにせよ、その大半が失われるに至った。

私は自分の見聞から、しかもその多くは社会主義国に住んだ経験からいうのだが、少数の者がよい暮らしをするのを阻むことができれば、他の者の暮らしはすべてよくなるという想定ほど、現実の経験によって広く徹底的に論破されてきた想定を知らない。

平等主義の逆は、少なくとも多くの人々の考えでは「エリート主義」であろう。この言葉が米国の公の論調で、実に多くの場合必ず軽蔑的な意味に用いられることに私は驚きを告白せねばならない。・・・・オックスフォード英語辞典には「(社会、または何らかの団体ないし階層の)選り抜きの部分または精華」とあり、この方が本当の意味に近い。「エリート」という言葉はこの意味に使うべきだと私は思う。

そこで伺うが、このどこが悪いか?込められた意味は、きざな夜郎自大や不当な特権付与ではなく、ただ一般大衆の中から、社会の一定の有用な機能を果たす資格のある者を採りたて、それにともなう責任を負わせるだけのことだ。この種の選抜があり得ることを否定する者は、我が国が基礎を置くところの選挙の原則そのものに楯突くことになる。

人間は結局のところ、平等に生まれるのだろうし、法の前には平等でなければならない。だが、人間の平等は大体そこで終わりだ。・・・・肝心の問題は、エリートなるものが存在しなければならぬか否かではない。問題は当のエリートの質であり、また特に、エリートを選抜する基準と制度である。特権的エリート、ましてや不当な特権を持ったエリートである必要はない。だが忘れてはならないのは、いかに不完全に遂行されているとはいえ、特別の責任には特別の手段(時には特別の便宜や権威の必要条件すら)が必要になることが多い、ということだ。また上級の地位には、少なくとも外見上の尊敬を要求する権利がある。・・・・

こうした理由から、確立した権威への尊敬を否定し、それを打倒しようとすることによって、自分の自尊心の背伸びをしようとする者に私は我慢がならない。たとえば自分の卒業式に変な下らない衣装で出てきて、してやったりと思い込む学生。行為の人物の個人的な弱点を笑いものにして、自分は賢く優秀なところを見せたと思うジャーナリスト。訪米した指導者のリムジンに卵を投げる者ども、などだ。他人を尊敬することができない者は、普通、自分をも尊敬することができない。だれも尊敬に値しないというのは、自分も尊敬に値しないと、知らず知らず告白することだ。

「エリート主義」への非難(その一部から私も免れなかったが)が私自身の心中に呼び起こした考えは、以上のようなものである。エリートは是非とも持とう。他人に尽くすエリート、良心、責任感、自制心にすぐれ、自分を顧みず他人のためになろうと心に決めたエリートを。だがこのエリートを持ったからには、理想に遠く及ばずとも、これを尊敬し、そんなものはなくてもよいというふりはしないことにしよう。他人は私のエリート主義傾向をうんぬんするが、かくて私は懲りず、臆せず、それを追及するだけだ。

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西部邁 『思想の英雄たち』 (文芸春秋)

この人は大学時代以来、高坂正堯氏に次ぐくらいの程度で、その著作を読み込んだ人である。

時には大きな反発を感じながらも、その思索を無視することはできず、知らない内に影響を受けた面が大きいと思う。

それと私の読んだ限りの全ての著作家の中で、この人の文章は一番上手いと思う。

合わない人もいるだろうが、私は西部氏の正確・怜悧・端正な文体に非常に感心させられた。

著作の多い人だが、とりあえず『大衆への反逆』(PHP文庫)、『生まじめな戯れ』(筑摩書房)、『人間論』(日本文芸社)あたりを読めばよいと思う。

だが世界史関係のブログで紹介するような本はこの『思想の英雄たち』くらいか。

エドマンド・バークからマイケル・オークショットに至る西欧の保守思想家の列伝風紹介。

歴史家のブルクハルトやホイジンガも載せられており、オークショットやギュスターヴ・ル・ボンなどあまり馴染みのない思想家について記されているのも有り難い。

一つの良質な近代西欧思想史として通読する価値有り。

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新渡戸稲造 『武士道』 (岩波文庫)

本書の内容が、必ずしも実在の武士に普遍的に存在した価値観と言えなくても別に問題ないと思う。

明治人が西欧列強に対抗する精神的バックボーンとしてこういう理念を生み出す基盤を武士階層が提供したことは間違いないと思うので。

読みやすいし面白い。部分的には感動的でさえある。

本書の理念と現実の武士の言動との落差を指摘して嘲笑的態度を取る前に、明治人の置かれた苦境と世界への自己主張の必要に対する努力を汲み取るべきだと思われる。

近代日本史の副読本として是非読みたい。

さて、当ブログを始めて半年余りですが、何とかほぼ毎日更新できました。

記事の質量とも大したことないからですが、怠惰極まる自分としてはよく続いたなあと。

年が明けても、しばらくの間は一日一タイトルのペースで更新できそうですので、宜しければまた覗いてみてください。

それではよいお年を。

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ジョージ・オーウェル 『1984年』 (早川文庫)

全体主義国家によって支配された近未来の世界を描いたデストピア小説。

これは怖い。すごく怖い。

直接的かつ暴力的な弾圧が多く描写されているわけではない。

だが思想、感情面までもが政府に管理され、目に見えないメカニズムで反抗者が「処分」されていく全体主義国家の恐ろしさがまざまざと感じられる。

スペイン内戦で共産主義の実態を知り、その後強い反共的信念を持ったオーウェルが、第二次大戦後スターリン治下のソ連に対してどれほど強い懸念を持っていたかがよくわかる。

著者の渾身の気迫が感じられる本なので、まだ読んでいない方は是非ご一読をお勧めします。

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E・H・カー 『カール・マルクス』 (未来社)

ゴーロ・マン 『近代ドイツ史』 上巻 より

[カール・シュルツの観察―引用者註]

「マルクスのいうことは確かに内容が充実しており、論理的で明確だった。だが私は、あれほど相手を傷つけ、我慢できないほど傲慢な態度をとる人には、一度も会ったことがない。彼は自分の考えと根本的に食い違っている見解に対して、ある程度敬意を払って検討する心遣いを示さなかった。自分に反論する人をあしらうときには、いつでも軽蔑の色が見えすいていた。また自分の気に入らない議論に答えるときには、いつでも同情に値する相手の無知を毒々しく嘲るか、またはそんな議論を持ち出した動機について相手の名誉に関わるような疑念を示した。私は、彼が“ブルジョア”という言葉をいうときの痛烈な嘲笑的調子(唾を吐き棄てるようなと言いたい)を今でもよく憶えている。ところで“ブルジョア”というのは、精神的、道徳的頽廃の泥沼深く落ち込んでいるということをはっきり典型的に示す言葉なのだ。そして彼は自分の意見に楯突く人を誰でも“ブルジョア”として非難した。」

彼が周囲の人々にこのように見えたことは疑いない。証人は余りに数多く、また感想は余りにも一致している。彼が実際にそのような人であったことも恐らくは疑いのないところだろう。彼はとてつもない知性に恵まれると同時に呪われた。このため彼は孤独を強いられ、相手に対して高姿勢だった。妻子に対しては確かに愛情を持っていた。また同情ということも知っていた。彼は産業革命とともに押し寄せた生活の惨めさに激しい怒りを覚えたのだった。彼の精神は逆境にあっても不屈だった。みずから自分に課した超人的任務に対する忠実さは完璧だった。これは賞賛すべき美徳だが、彼の場合は恐るべき権力意志、つまり正しさを押し通そう、自分だけの正しさを押し通そうとする意志にむしばまれていた。彼は、反対し、批判し、または別の考えを抱く人たちを剣で、剣でできないときは、毒に浸したペンで絶滅しようとした。だが、このような人は世界をよりよくすることができない。

こういう「困った人」であるマルクスの生涯を多くの皮肉と多少の同情を持って描いた伝記。

同じマルクス伝でも、高校の時読んだ大内兵衛『マルクス・エンゲルス小伝』(岩波新書)を再読する気はさすがに起きないので、非マルクス主義者による伝記としてはかなり有名なこれを選んだ。

マルクスの生活上の無能力と偏狭な性格、そしてそれがもたらしたトラブルを多く記している(なにしろ無二の親友のエンゲルスとも一度危うく断絶しかける)。

他の社会主義者・無政府主義者との抗争にも重点を置いた記述が興味深い。

またマルクス主義の理論自体を検討した章では、労働価値説・剰余価値説の誤りを私のような阿呆でもよくわかるように説いてくれている。

総合的に見て、読みやすくて面白い、非常に優れた伝記作品。

是非お勧めします。

(なおマルクス死後残された娘たちの不幸については佐藤金三郎『マルクス遺稿物語』(岩波新書)という本がありますので、興味のある方はどうぞ。)

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ジョージ・オーウェル 『動物農場』 (角川文庫)

人間たちの虐待に耐えかねた、とある農場の動物たちが団結して反乱を起こすという寓話の形式を借りた、ソヴィエト全体主義批判の小説。

これは非常に面白い。

虐げられたものたちの反乱の成功が、そのまま新たな抑圧の原因になるメカニズムを明快に記している。

比喩のレベルが高く、ソ連が辿った道への痛烈な皮肉と批判となっている。

まだ読んでいない方は是非一読をお勧めします。

ただ本作の後に附せられているエッセイ数本はやや退屈。

薄くなり過ぎるかもしれないが、『動物農場』だけを収録した文庫本を出してくれないだろうか。

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福田恒存 『日本を思ふ』 (文春文庫)

著名な文芸評論家の批評集。

前半の日本文化論は深い内容を持っているし、「近代の宿命」と題された評論は私程度の頭にはちょっと難しいが、西洋思想史として重要なものと思われる。

後半の自由論・平和論・歴史論にも思わずはっとするような指摘が多い。

直接世界史と繋がる本ではないが、同じ文春文庫の『日本への遺言』と並んで、熟読することによって歴史のよりよき見方への大きな示唆を得られる書物だと思う。

・・・・自由についても、まづ言葉の吟味が必要である。資本主義と共産主義、自由主義と全体主義とは、一つ自由における程度の差を競つてゐるのではない。それを程度の差と見る時、既に相手側の自由の意味を採用した事になり、本来の自由を抛棄した事になる。・・・・それなら本来の意味の自由とは何か。人間の自由とは何か。そもそも人間に自由はありうるのか。

言ふまでもなく、人間に生れる自由、生れない自由は無い。死ぬ自由、死なない自由は無い。なるほど自殺の自由はあるが、それはキリーロフのそれのやうに最も自発的な場合でも、結局は他動的、受動的である事を免れぬ。生といふ出発点において自由のない者が死において自由でありうる訳がない。人間は与へられた条件の中に無意味に投出され存在するだけで、その存在そのものの中に如何なる目的もないのである。人間は在つても無くてもよい。個人は在つても無くてもよい。偶然に在らしめられたのであり、偶然に無くさせられるだけの話である。その点、人間は他の生物や物質と何の相違も無いのであるが、ただ人間は自己がそういふものである事を、つまり自由の無い物質である事を、自覚する事ができる。その自覚の働きが精神であり、その働きによつて、人間は精神と物質に分裂した二重の存在になる。同時にその事によつて、人間は自由になる。あるいは自由の意識を所有する。

それは言換へれば、人間には自由が無いといふ事の自覚に過ぎず、その自覚に徹した時にのみ、人間は人間としての自由を獲得するといふ事である。本来の意味の自由とはさういふものなのである。その意味で、自由とは人間存在そのものの二重性を端的に表してをり、人間である事と同義語をなすと言つてよい。人間は自由であつて自由ではない。人間は自由でありえないが自由でありえる。この自由といふ言葉の両義語的性格にまつはるアイロニーとパラドックスのために、私達はマクベスのやうに惑はされるのである。

共産主義、全体主義に限らない、既に十九世紀の自由主義がこの両義性に躓いてゐる。といふより、人間の理性がこの両義性に躓いた時に、自由主義を生じたのである。つまり、人間は人間の中に単に意識として内在するに過ぎぬ自由を外在化する事によつて、自由を本来の両義性から脱卻せしめ、一義的な単純化を計らうとしたと言へよう。その結果、自由は単なる可能性の問題に留らなくなつて、現実の問題として捉へられるやうになつた。自由とは欲する自由ではなく、実現する自由となり、しかもその事を誰も怪しまないやうになつた。また消極的・相対的な方法としての自由といふ考へは失はれ、自由そのものが積極的・絶対的な目的と考へられ始めた。自由は生き方ではなく、生の目的、あるいは生そのものとなつた。言換へれば生そのものが人間の目的となつたのだ。生そのものを目的とする時、生は生以外の何物にも仕へる必要が無く、完全に自由である。

要するに、人間は精神の自由をすべて物質の自由に飜訳し直す事に熱中し始めたのである。自由は精神の所管から物質の所管に、あるいは物質の原理を発見し、それに適応する大脳の所管に移され、人間は自己、即ち人格になる努力を止めて、自己を物と合一せしめ、物になる作業に全精力を傾け出したのである。既にラッセルがさうであるやうに、道徳は快適の法則に還元され、幸福は快楽の同義語になる。

が、それで人間は満足しうるのか。自由の両義性から脱卻して、それを一義的に対象化し、可能性の代りに自由の現物を手に入れる事によつて、人間は果して自由になつたか。その前に、一義化といふ事によつて、それが目ざした両義性の矛盾は本当に解消されたのか。否である。矛盾はただ合理性といふ厚いアスファルトの下に押し隠されてゐるだけの事で、監視の目を免れて統御されぬまま卻つて危険な状態にあると言へよう。一口に言へば、人間は永遠に自由でないといふ根本前提を解消しえた訳ではなく、この二三世紀間に次々と行はれた自由の現物支給に目が眩んで、その大前提を忘れてゐたといふ事に過ぎない。だが、追放された人間存在の二重性と自由の両義性は復讐をもくろむ。それはどういふ形で現れるか。言ふまでもなく、自由喪失がそれである。自由が現物として己れの所有に帰した瞬間、人間は自由の意識、即ち自由感を失ふのである。生そのものが目的となり、生が生以外の何物にも仕へる必要の無い完全な自由を得た瞬間、人間の唯一の生き方は生命の法則に随ふ事となり、生き方としての自由を失ふのである。

その意味において、全体主義は一見さう見えるのと相反して、自由主義の延長線上にあり、その私生児に過ぎない。それは自由、民主主義、平和、その他、父親が目標とした理想を悉く一義化し平面化することによつて、攻撃力の集中を謀り、父親に認知を迫る。その事自体、自由の両義性の復讐でなくて何であろう。自由主義は全体主義を化外の民と見る前に、まづそれを鏡として己れの目鼻の特徴をそこに見出し、自分の過ち、あるいは弱味に気附かねばならぬ。

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ギルバート・チェスタトン 『正統とは何か』 (春秋社)

20世紀初頭に書かれたキリスト教的伝統擁護の書。

全編にわたって繰り広げられる逆説とユーモアによる伝統精神擁護のレトリックの見事さにほとほと感心してしまう。

何の予備知識も要りません。平明極まりない記述ながら、今までのモノの考え方を引っくり返すほどの力を持つ書物。

是非一読をお勧めします。

文明の最古の闇に帰って訪ねてみるがよい。文明の根は、何か聖なる石のまわりにからみつき、あるいは聖なる井戸のまわりをめぐっているのがわかるだろう。人びとはまずある一つの場所を尊崇したのだ。その場所のために栄誉が得られたのは実はその後のことなのである。人びとはローマが偉大であるからローマを愛したのではない。ローマは人びとがローマを愛したから偉大となったのだ。

十八世紀に勢力をふるった社会契約説は、今日では大いに批判の的となった。(もっともこの批判そのものにも大いに批判の余地がある。)社会契約説の意味するところが、ただ、すべての歴史上の統治の背後には諒解と協力の観念がある、ということだけであるのなら、その限りにおいてはこの説の正しいことは明らかである。

しかしもしその意味するところが、明確な利害関係の自覚から直接秩序と倫理が作られた、というところまで進んでくると、その限りではこの説は確実に誤っていると言うほかない。道徳の起源はそんなところにあるはずがない。

一人の人間が相手に向かって、「お前が俺をなぐらなければ俺もお前をなぐらない」と言ったなどという、そんな取引があった形跡はどこにもないのだ。ただ二人がお互いに、「われわれは聖なる場所ではなぐり合いはすべきでない」と言った形跡は厳として存在している。宗教を守ることで道徳が得られたのである。

人びとはわざわざ勇気をつちかったのではない。彼らは神殿のために戦い、気がついてみると勇気を持っていたまでである。彼らは清潔をつちかいはしなかった。ただ祭壇の前に立つために身を清め、気がついてみると清潔になっていたのだ。

たいていのイギリス人が共通に知っている太古の歴史の資料としては、旧約聖書に描かれたユダヤ人の歴史だけだが、これだけでも太古の事実を判断するには十分だろう。十戒というものも(事実上全人類に共通の戒律であるけれども)、要するに軍事上の命令にほかならなかった。つまり、砂漠を越えて聖なる箱を守って行くために発布された軍律だったのである。秩序の破壊が悪とされたのは、それが聖なるものを危険に陥れるからであった。そして、神のために休日を定めた時、彼らは人間のためにも休日を作る結果になったことを知ったのである。

・・・・聖職者が世界に暗闇と悪意をもたらしたという主張であるが、少なくとも私自身がつくづく世の中を眺めても、要するにそんな事実は一つも見当たらないのである。ヨーロッパの中で、いまだに聖職者が影響力を持っている国々というのは、暗いどころか正反対で、いまだに野外で歌い踊り、色鮮やかな衣装をつけ、芸術を楽しむまさにそういう国々にほかならぬ。

カトリックの教義や戒律は壁だと言うのなら壁としてもいい。しかしそれは遊び場を守る壁なのだ。キリスト教こそは、異教の快楽を維持してきた唯一の宗教である。たとえばこんな比喩はどうだろう。海の中に、断崖に囲まれた小島があり、島の上は平らな草原になっていて、そこで子供たちが遊んでいる。断崖のへりに壁がぐるりと立っている間は、子供たちは心の底から奔放にふざけまわり、どんな子供部屋もかなわないほどやかましく遊んでも安心だった。ところがその壁が急に壊され、断崖の危険がむき出しになってしまった。子供たちは海に落っこちはしなかったけれども、昔の友だちが彼らのところへ帰って来てみると、子供たちはみな、恐ろしさのあまり島の真中に身を寄せあってかたまっていた。彼らの歌声はもう絶えて聞こえることはなかったのである。

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岩田靖夫 『ヨーロッパ思想入門』 (岩波ジュニア新書)

評論家の呉智英氏と宮崎哲弥氏がそろって絶賛していたので手にとってみた。

ジュニア新書ということだけあって、思想哲学関係に全く疎い自分でも得るところがあった。

高校の倫理レベルの次に読む本としては適当ではないだろうか。

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エドマンド・バーク 『フランス革命の省察』 (みすず書房)

1790年の時点で書かれた反革命論で、近代保守主義のバイブルになった本。

世評の高さを知りながらも、これは基本的に素人には読めない本だと決め付けていた。

だが一度気合を入れてじっくり通読してみたら、ものすごく興味深い。

引用したい文章がいくらでも出てくる。

予想では保守主義の一般的思想を述べている部分はともかく、当時のフランスの具体的状況を論じているところは難渋で読み進められないと考えていたが、それもゆっくり読み込めばかなり面白い。

読もうと思う方にご注意。岩波文庫版や中公バックス版の翻訳も出ているが、必ずみすず書房版を買って下さい。

アマゾンのレビューでも触れられていますが、前二著には素人がざっと見ても翻訳に難がある。

中公版はともかく岩波版訳者の中野好之氏はどうしちゃったんでしょうか。ギボン『ローマ帝国衰亡史』の後半の訳は非常に立派だと思うのに。

現在のフランスの支配権力をどのような部類に属させて考えるべきか、私には判りません。それは純粋民主政を装ってはいますが、また、程なく有害低劣な寡頭制に直接繋がって行くのではないかとも思われます。しかし、差し当たりは看板通りの性質と効果を持った機軸と認めることにしましょう。私は如何なる統治形態であれ、抽象的原理からだけでは非難は致しません。純粋民主政の形態が必要な場合もあり得るでしょう(ただし極めて僅かな、極めて特殊な状況の下でだけですが)。

だが、これがフランスとかその他の大国に当て嵌まるとは私は思いません。現在に至るまで我々は、取るに足る程の民主主義の実例を見たことがありません。古代人はそれについてより良く知っていました。私は、民主政憲法を最も多く見て最も良く理解した著者達についてまったく読んでいないという訳でもないので、絶対的民主政は絶対的王政に劣らず正統な統治形態には数え難いという彼らの意見に同意せざるを得ません。

彼らはそれを、一国家の健全な国制であるよりはむしろ腐敗堕落と考えています。
もしも私の記憶が正しければ、民主政には暴政との驚くべき共通点が数多くある、とアリストテレスは見ています。この問題に関して私は確信を持ってこう言えます。即ち民主政において、多数者市民は少数者に対して最も残酷な抑圧を加えることができます。激しい分裂がその種の国家組織内に遍く拡がる時は、(実際縷々そうならざるを得ないのですが)、何時でもそうなのです。

そして、少数者に対するその抑圧は、たった一本の王笏の支配からおよそ懸念され得る殆ど如何なる抑圧よりも遥かに多くの人々に及び、しかも遥かに激烈に行使されるのです。こうした民衆による迫害の下では、個々の受難者は、他の如何なる場合よりも何層倍も悲惨な境遇に置かれます。一人の暴虐な君主の下では、彼らには傷の痛みを和らげてくれる人類の心安まる同情があります。苦しみの下にあっても、その高邁な堅忍不抜を鼓舞する人々の喝采があります。ところが多数者の下で悪に苦しむ人々は、あらゆる外からの慰めを剥奪されるのです。人間種属全体の陰謀に打ちひしがれ、彼らは人類から見捨てられた如くに見えるのです。

しかし、一先ず民主政には、私から見れば有ると思える、党派的暴政への不可避的傾向が無いと認めるとしましょう。また純粋形態の民主政は、それが他の諸形態と複合した場合と同じ程に大きな善を伴う(私は後者の善は確信しています)と認めるとしましょう。それでも、君主政の側には推奨に価するものは何も無いのでしょうか。私はボーリングブルックを数多く引用する者ではありませんし、一般的にも、
彼の作品が私の精神に何らか永続的印象を与えたことはありません。彼は不遜で皮相な著作家です。しかし私の考えでは、彼には一つだけ深みと確かさが無くもない言葉があります。彼は、自分としては他の形態の統治よりも王政の方を好むと述べているのです。共和政形態に王政的要素を接ぎ木するよりも、王政にどんな種類であれ共和制を接ぎ木する方がより旨く行く、というのがその理由です。私には彼の言い分は完全に正しいと思われます。歴史的に事実その通りですし、それは思索とも良く一致します。

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ヨハン・ホイジンガ 『朝の影のなかに』 (中公文庫)

ホイジンガの主著としては有名な『中世の秋』があるが、これは素人には到底読めない。

読んでもその良さを感じ取れる初心者は非常に少ないと思う。

それより本書にじっくり取り組んだ方がよい。

1930年代、左右の全体主義が荒れ狂う絶望的な状況の中で、歴史的に形成されてきた価値と自由を何とか次の世代に引き渡そうと希望したホイジンガの信念は深い信仰の域に達している。

哲学などほとんど読まない自分でも極めて深い印象を受け、何箇所も傍線を引き、2、3度読み返した。

特に最後の2章は感動的。絶望的状況の中でも希望の一片を保持して自らの義務を果たし続ける人間の高貴さを強く感じる。

人間の相互依存という原理が存分にその力を発揮し、そのいわば統率のもとに、さまざまなかたちの義務感が配列される。文化がそのような状況を示す度合に応じて、それだけいっそう純粋に、いっそうみのりゆたかに、およそ真の文化にしてこれを欠くことのゆるされぬあの奉仕の観念がかたちづくられる。神礼拝から、たんになんらかの社会的関係によってたまたま自分より上位におかれたものに対する奉仕まで。この奉仕の観念を民衆の精神から根こそぎとりはらうこと、これが十八世紀の皮相な合理主義の破壊的活動の最たるものであったのだ。

以前の時代には、一般に認められた理想というものがたしかにあった。たとえば、
その意味するところはともかく、神の栄光、あるいは正義、徳、知恵。定義の不完全な、古ぼけた形而上的諸概念だと、いまの人たちはいう。だが、これらの諸概念を捨て去ったとともに、文化の統一性もまた、疑念のまなざしのもとにさらされたのである。なぜというに、結局それに代わったものといえば、互いに抗争する一群の欲望に過ぎないのだから。
今日、さまざまな文化志向を互いに結ぶ言葉は、豊かな暮らし、権力、安全(平和と秩序ということもこれに含まれる)といった語彙のうちに見いだされる。すなわち、自然の本能からまっすぐに出てきただけのものであって、精神によって高められてはいない、ひとつにまとめるよりは互いに分ける方向にはたらく理想である。こんなものは、すでに穴居人類もこれを知っていた。

今日、しきりに国民文化、階級の文化が語られる。ということは、文化という概念が、福祉、権力、安全といった理想に従属させられているということだ。従属させることによって、人びとは、事実上、文化の概念を動物の水準にまで引き下げるのである。この概念は無意味になってしまう。一見矛盾する、だが、以上述べてきたところにもとづけばどうしても避けられぬ結論、文化という概念は、文化の志向性を規定するある理想がその文化をになう共同体のさまざまな利害関心の外側に、またそれを越えてつらぬかれるとき、はじめてその場を与えられるという結論が忘れられてしまうのである。文化は形而上に志向づけられなければならない。さもなければ文化は存立しないであろう。

国民教育が広くゆきわたり、日々の出来事が広くじかに広報され、分業のシステムが貫徹されている社会にあっては、一般の人が自分で思考し、自分で表現する機会はますます少なくなる。
このことは、なにか逆説ときこえるかもしれない。普通、人はこう考えている、知力の程度が低く、知識の普及が遅れている文化環境にあっては、個々人の思考は、なにしろ彼ら自身の生活する狭いサークルに限定され、支配されているのであってみれば、より高度に発展した文化環境におけるよりも、束縛される度合が強い、と。だから普通このようなプリミティブな思考は、典型的、画一的といった具合に性格づけられるのだ。ところが、他方、こういう事実がある。すなわち、ひたすら自分自身の生活環境をのみ対象としてねらう、このようなプリミティブな思考は、手段が制限され、視野が狭く限定されているにもかかわらず、いやむしろそれゆえにこそと
いうべきであろうが、より組織化の進む時代にあってしだいに失われてゆく自立性をある程度まで保持しているのである。かつての時代の農夫、漁夫あるいは職人といった人々は、完全におのれ自身の知識の枠内で図式を作り、それでもって人生を、世界を測っていたのである。自分たちの知力では、この限界を越える事柄については、一切判断を下す資格が無い、そう彼らは心得ていた。いつの時代にも存在するほら吹きも含めて、そうだったのである。判断不能と知ったとき、彼らは権威を受け入れた。だから、まさしく限定において、彼らは賢くありえたのである。表現手段の制約、このことこそが、彼らをして聖書やことわざに頼らせ、彼ら自身の言葉にしばしば様式を与え、彼らをして雄弁家たらしめたのである。

知識伝達の近代的組織化は、まことに残念ながら、このような精神活動の限定のもたらす有益な効果の喪失を結果した。・・・・・・たとえその人が知識への一途な希求に動かされている場合でも、いわば既成の文化一式の強引な働きかけにあって、そのいうがままに考え、判断してしまうという危険から身をかわすことは困難であろう。多種にわたる皮相な知識、批判の武器を備えていない視線にとってはあまりにも広すぎる精神の地平、ここに判断の能力は不可避的に弱まってゆかざるをえないのである。

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ホセ・オルテガ 『大衆の反逆』 (白水社)

読んでもわからないので、普段は哲学のての字も読まない。

よってこのブログでも古典的思想書などは紹介しない(できない)のだが、これは別。

一読してものすごい衝撃を受ける。

難解な用語、概念などほとんど使わず、日常言語だけで20世紀の壮大な悲劇を招いた原因を余すところ無く指し示している。

われわれが疑いもない理想と信じている民主主義というものが、どれほど脆い基盤の上に立った危険なものであるか深刻に思い知らされる。

著者の圧倒的な言語表現に感服する他ない。

さほど長大なものではなく、文章も明快で、素人でも読める。

ちくま学芸文庫版、中公バックス版もあるが、できれば「フランス人のための序文」(これがまた含蓄がある)が載せられている白水社版を買ってください。

とにかく一度読んでみてくださいとしか言えないすごい書物。

「選ばれた少数者」について語られる場合、よくある悪意のために、普通この言葉の意味が歪曲されている。つまり選ばれた人間とは、他人よりも自分が優れていると考える厚顔な人間ではなく、自分では達成できなくとも、他人よりも多くの、しかも高度の要求を自分に課す人間であるということを、知っていながら知らないふりをしているのである。

というのは、人間を最も根本的に分類すると、次の二種類に分けられることが明らかだからである。
すなわち一方は、自分に多くのことを課して困難や義務を負う人々であり、他方は、自分には何ら特別なことを課すことなく、生きるということがすでにある自己を絶えず保持することで、自己完成の努力をせず風のままに浮かぶブイのように暮らす人々である。

したがって社会を大衆と優れた少数者に分けることは、人々を社会的な階級に分けることではなく、人間的な階級に分けることであり、上層階級、下層階級といった階層分けとは一致しない。
たしかに上層階級には、それが上層となり、真にそうである間は、その階級の中に「大乗の車」を選んだ人を見いだす可能性はより多く、それに対して下層階級は、資質に欠ける個人によって構成されているのが普通である。しかし厳密に言えば、各社会階級のなかに真の大衆と真の少数者がいるのだ。

私は近年の政治的変革は、大衆による政治の支配以外のなにものでもないと信じている。かつてデモクラシーは、自由主義と法に対する情熱という効き目のある薬のお陰で穏やかに生き続けてきた。これらの原則を遵奉するに当たって、個人は自己の上に厳格な規律を保持するように義務付けられていたのだ。少数者は自由主義の原則と法の規範の庇護の下に活動し、生活を営むことができた。デモクラシーと法は合法的共存と同義語であった。ところが今日、われわれは超デモクラシーの勝利に際会しているが、そこでは大衆が法を無視して直接的に行動し、物質的な圧力によって自分たちの希望や好みを社会に強制しているのである。この新しい事態を、あたかも大衆が政治に飽き、その仕事を専門家に任せているかのように解釈するのは間違いである。事実はその反対である。政治を専門家に任せていたのは以前のことであり、それは、自由主義デモクラシーのことである。当時の大衆は、政治家という少数者にはいろいろな欠点や欠陥があっても、こと政治問題に関しては、結局のところ彼らの方が自分たちよりは少しばかり良くわかるのだと考えていた。しかし現在の大衆はその反対に、自分たちには喫茶店の話から得た結論を社会に強制し、それに法的な効力を与える権利があると思っている。私は、われわれの時代におけるほど群集が直接的に支配権を振るうようになった時代は、歴史上かつてなかったのではないかと思う。それだからこそ、私は超デモクラシーについて
語るのである。

われわれは大衆人の心理図表にまず二本の線を引くことができる。すなわちその生の欲望を示す線、つまり大衆人自身の際限の無い膨張の線と、安楽な生存を可能にしてくれた一切のものに対する徹底した忘恩の線を。この二つの傾向は、例の甘やかされた子供の心理を作り上げているものである。

私は本書を読まれる方の多くが、私と同じようにはお考えにならないのを十分承知している。それもまた極めて当然なことであり、私の主張を裏付けてくれるのである。というのは、たとえ私の意見が決定的に間違っているという結果になっても、私と意見を異にする読者の多くが、このように錯綜した問題について、ものの五分間も熟考したことがないのだ、という事実は常に残るからである。そのような人たちが、どうして私と同じように考えるだろうか?
前もって意見を作り上げる努力をしないで、その問題について意見を持つ権利があると信じていることからして、私が「反逆的大衆」と呼んだところの、人間としての馬鹿げたあり方に属していることを典型的に表明しているのだ。それこそまさしく閉鎖的、密室的な魂を持つということである。この場合は、知的閉鎖性と言えるだろう。こうした人間は、まず自分のうちに思想の貯えを見いだす。そしてそこにある思想だけで満足し、自分は知的に完全だと考えることに決めてしまう。彼は自分の外にあるものを何ひとつ欲しいとは思わないから、その貯えのうちに決定的に安住してしまうのだ。これが知的閉鎖性のメカニズムである。

したがってわれわれは、ここで、愚者と賢者の間に永遠に存在している相違そのものに突き当たる。賢者は、自分がもう少しで愚者になり下がろうとしている危険をたえず感じている。そのため彼は、身近に迫っている愚劣さから逃れようと努力するのであり、その努力のうちにこそ英知があるのだ。
ところが愚者は自分を疑うことをしない。彼は自分が極めて分別に富む人間だと考えている。愚鈍な人間が自分自身の愚かさのなかに腰をおろして安住するときの、あのうらやむべき平静さはそこから生まれている。われわれがどうやっても、住みついている穴から外へ出すことのできない昆虫のように、愚者にその愚かさの殻を脱がせ、しばしの間、その盲目の世界の外を散歩させ、力づくで日ごろの愚鈍な物の見方をより鋭敏な物の見方と比較するように強制する方法はないのだ。馬鹿は死なねば直らないのであり、救いの道は無いのである。だからこそアナトール・フランスは、愚かな者は邪悪な者よりも忌まわしいと言ったのだ。なぜなら邪悪な者は休むときがあるが、愚かな者は決して休まないからである。

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