カテゴリー「思想・哲学」の71件の記事

木崎喜代治 『幻想としての自由と民主主義  反時代的考察』 (ミネルヴァ書房)

著者については、本書を手に取るまで何も知らず。

略歴を見ると、『マルゼルブ フランス18世紀の一貴族の肖像』(岩波書店)という著書とマルテーユ『ガレー船徒刑囚の回想』(岩波書店)という訳書が載っている。

本書は、「シリーズ現代思想と自由主義論 3」だそうです。

1995年に書かれた草稿を元にして2004年刊行。

以下、内容をよく示している章名・節名を挙げる。

([ ]内は私の補足。)

「『自由』は絶対的権威を持っている」 [が]

「人間は自由ではない」

「かつて『自由』は悪であった」

「すべては信仰の自由から始まる」 [そこから]

「人間万能主義の世界観が生まれる」

「自由と放縦は同じものである」

「自由のうちに積極的なものはない」

「種々の拘束のうちのどれを選ぶか」 [こそが真に問われるべきことである]

「自由な人間は社会性を持つことができない」

「自由は解体の原理であって、創出の原理ではない」

「自由を超えて自律を目指す」 [べきである]

「議会制民主政治は『賢人政治』である」 [議会主義と近いものは民主制ではなく貴族制である]

「『市民』と『大衆』とを区別する」

「民主主義の平等の原則は下降化作用を持つ」

「平等な人間は容易に自分に満足する」 [その結果]

「人間というものの水準は低いところに定められる」 [さらに]

「名誉の観念は消失する」 [結局のところ]

「民主主義は人間を上昇させる契機を持たない」 [そんな人間性の真実を直視すれば]

「表現の自由は最高の原則なのか」

文明が誕生してから、全ての人間社会では、宗教的基盤による自由の抑制こそが社会の基礎であり、その抑制が存在しなければ社会も有り得なかった。

ところが、文明の発達と人智の複雑化によって宗教改革と、教義をめぐる宗教戦争が戦われるようになり、その惨禍から「信仰の自由」という観念が生まれた。

それ自体はやむを得ぬ、切実な成り行きだと言うこともできるが、個人が自身の信仰を選択できるということになると、そこから人間が神の上に立つ存在だという、恐ろしく不遜な考えが生じてくる。

しかも、切実かつ高尚な、信仰面に限定されていた「自由」の観念が、私的欲望の追求を正当化するためにほとんど無限に拡大解釈され、その低俗化に全く歯止めがかからなくなる。

人間の不完全性を直視しない自由の称揚が社会の混乱と荒廃をもたらし、その必然的帰結が近現代における全体主義である。

これを自由と民主主義の名の下に非難することは根本的に歪んでる。

なぜならそれらの綺麗事こそが全体主義をもたらしたのだから。

[自由民主主義を批判し否認する著者に対する]全体主義との類似性という非難についてはつぎのように答えよう。自由とは拘束の不在のことであり、そして、個人主義とは、とくに現在の日本では、私的利益の追求とほとんど同義であり、そのゆえに、自由と個人主義の称揚は個人を孤立化させ、したがってまた弱体化させる方向へと引きずっていく。そして、このように孤立化し無力化した自由な個人こそが全体主義的権力の恰好の標的となり、その権力によって簡単に絡め取られてしまうのではないか。その権力が政治的であろうと、オカルト的宗教的であろうと、事情に変わりはない。自由な人間とは、これまで詳論してきたように、空虚な人間である。そのゆえに、かれらは他者と共感し連帯するための恒久的な絆を持ってはいない。そして連帯とは拘束以外のなんであろうか。自由な人間は連帯を嫌悪し、孤立化し、無力化し、そして、そのゆえに外からの権力に容易に絡めとられる。これを自由からの逃走と呼んでもよい。

それに反して、自律した人間は空虚な人間ではなく、かれ固有の積極的な原理を自分自身の中心に据えていて、その原理にしたがって強く生きている存在である。そのゆえに、かれはその原理を通じて他者たちと共感し連帯することができる。かれは孤立的人間ではなく、社会的人間である。全体主義的権力が、連帯している社会的人間を捉えるのは容易ではない。したがって、むしろ、今日では閉鎖的利己主義と一体化した個人的自由の高揚や個人主義の称揚こそが全体主義を呼び込んでいるのである。社会性の喪失の結果、個人は同胞に助けを求めることができず、その代わりに、上方の国家権力や宗教的権威に助けを求めざるをえないことになる。

また、以下の文章も、自分自身のことを振り返れば、実に得心のいくものである。

古来から、しばしば、人間とは弱いもの、間違いを犯すもの、邪悪なもの、愚かなものとして定義されることがあった。しかし、そのような定義はいわば消極的な性質のものであり、恥ずべき行為を犯してしまった人間を慰め励まし更正させるために用いられる秘かな口実であった。それが、いまや、そうした行為を弁護するために堂々と積極的に白昼のもとに掲げられるのである。この種の人間の平等の仮定が積極的原則となるやいなや、人間の精神の世界における果てしない下降過程が始まる。人間を計る尺度として、その生物学的特徴しか存在しないということ、あるいは、少なくともそれがもっとも強力な尺度であるということは、賢明な人間たちを計る尺度がうまく機能しないということである。したがって、人々は、卓越した考えを表明したり、立派な行為をしたりする人間を見てもただ困惑する以外にはない。どのように対応すべきかが分からないのである。そして、自分が理解できないことを未練なく忘れ去る最善の方法は、それを嘲笑することであるらしい。こうして人間の愚かな行為は人間的だとして容認され、他方では、美しい行為や見事な行為は理解を超えているゆえに嘲笑される。・・・・・・

他の叙述では、西欧(特に英国)の日本と米国に対する文明的な優位は、より「民主的」だからではなく、全く逆に、民主主義への抵抗力を持っているがゆえであると書かれているのが印象的。

また新聞からラジオ、テレビへと情報メディアが進歩すればするほど、情報の内容が空疎で愚劣化すると指摘している。

このくだりは、高坂正堯氏の『不思議の日米関係史』の中での、日露戦争後のアメリカにおいて、ハースト系の新聞がデマに等しいような対日警戒論を煽ったことを記した後の、以下の文章を思い起こさせる。

実際、アメリカでもヨーロッパでも、十九世紀末にはそれまでに考えられない大部数の新聞が出現し、世論に悪影響を与えたのであった。どうやら、情報産業というものは、新しい形態のものが現われるとき、必ず、なんらかの悪影響を及ぼすものらしい。

民主主義の発展によってこそ、社会的弱者および少数者が保護されてきたという見方については、それら被差別者の地位を向上させてきたのは、心ある少数派市民であり、多数派の民衆はむしろ彼らを迫害してきたのであって、大衆自身が権力者以上に迫害の主体であったと述べている。

これはたとえ嫌な事実であろうとも、真実を直視するなら妥当だと認めざるを得ない見解です。

加えて、参政権は、現状では酒や煙草を摂取する資格と同様にある一定の年齢に達するだけで与えられるが、車の運転免許にも試験があるのに、なぜ政治に関与する資格が何の資質も問われず、自動的に与えられるのかと疑問を呈している。

考えてみれば、本当にそうです。

政治に関わる言論においては、とにかく、ほとんど全ての国民が(その政治的立場の相違に関わらず)、下は一般公務員から上は政治家まで(もっと酷い場合は皇族に至るまで)、少しでも公的立場にある人々に対して、一方的に罵詈雑言、誹謗中傷、揶揄嘲笑を浴びせ掛ける傾向があります。

つくづく思うんですが、あれ一体何なんでしょうか?

言ってる本人の資格や資質が問われることは、ほとんど絶無でしょう。

自分たちは「納税者」で「主権者」だからということで、どんなに無責任で、非現実的で、理不尽で、皮相で、短絡的で、一方的で、バランスを欠き、ステレオタイプで、冗談半分に近いようなもので、愉快犯的で、真の切実さに欠けるくせにそれを装い、支離滅裂で、品性下劣で、自らのことを完全に棚に上げ、他人を攻撃すること自体を目的とし、それで自分の卑小さから目を逸らし、日常の憂さを晴らすための、卑怯極まりない非難であっても全てが正当化されてしまう。

しかし、「納税者」って、あなた税金いくら払ってるんですか、公務員一人の年収も到底賄えないんじゃないんですかと言いたいし、そんなことより、たとえ億万長者で莫大な額の税金を払っていようとも、これまでの何十世代にわたる努力と試行錯誤の結果である政治・社会・文化の上に立ってこそ、自身の経済活動があり得たんだから、個人として要求できる発言権なんて限りなく微少なものなんだとわきまえるのが、まともな大人というものじゃないでしょうか(たとえ少額の納税者でもその多数が寄り集まった集団的意志ならば絶対的に尊重されるべきだという理屈に対しても同様)。

「主権者」だから当然だって言うのなら、そんな民衆は君主や貴族という身分以上に、「生まれながらの不当な特権者」だと言いたいです。

私自身がそうだから書くんですが、「主権者たる国民」の平均的姿は以下に描写されているようなものじゃないでしょうか。

われわれは大衆人の心理図表にまず二本の線を引くことができる。すなわちその生の欲望を示す線、つまり大衆人自身の際限の無い膨張の線と、安楽な生存を可能にしてくれた一切のものに対する徹底した忘恩の線を。この二つの傾向は、例の甘やかされた子供の心理を作り上げているものである。

私は本書を読まれる方の多くが、私と同じようにはお考えにならないのを十分承知している。それもまた極めて当然なことであり、私の主張を裏付けてくれるのである。というのは、たとえ私の意見が決定的に間違っているという結果になっても、私と意見を異にする読者の多くが、このように錯綜した問題について、ものの五分間も熟考したことがないのだ、という事実は常に残るからである。そのような人たちが、どうして私と同じように考えるだろうか?
前もって意見を作り上げる努力をしないで、その問題について意見を持つ権利があると信じていることからして、私が「反逆的大衆」と呼んだところの、人間としての馬鹿げたあり方に属していることを典型的に表明しているのだ。それこそまさしく閉鎖的、密室的な魂を持つということである。この場合は、知的閉鎖性と言えるだろう。こうした人間は、まず自分のうちに思想の貯えを見いだす。そしてそこにある思想だけで満足し、自分は知的に完全だと考えることに決めてしまう。彼は自分の外にあるものを何ひとつ欲しいとは思わないから、その貯えのうちに決定的に安住してしまうのだ。これが知的閉鎖性のメカニズムである。

したがってわれわれは、ここで、愚者と賢者の間に永遠に存在している相違そのものに突き当たる。賢者は、自分がもう少しで愚者になり下がろうとしている危険をたえず感じている。そのため彼は、身近に迫っている愚劣さから逃れようと努力するのであり、その努力のうちにこそ英知があるのだ。
ところが愚者は自分を疑うことをしない。彼は自分が極めて分別に富む人間だと考えている。愚鈍な人間が自分自身の愚かさのなかに腰をおろして安住するときの、あのうらやむべき平静さはそこから生まれている。われわれがどうやっても、住みついている穴から外へ出すことのできない昆虫のように、愚者にその愚かさの殻を脱がせ、しばしの間、その盲目の世界の外を散歩させ、力づくで日ごろの愚鈍な物の見方をより鋭敏な物の見方と比較するように強制する方法はないのだ。馬鹿は死なねば直らないのであり、救いの道は無いのである。
だからこそアナトール・フランスは、愚かな者は邪悪な者よりも忌まわしいと言ったのだ。なぜなら邪悪な者は休むときがあるが、愚かな者は決して休まないからである。

ホセ・オルテガ『大衆の反逆』より)

個々の民衆の資質を問わずに、すべての個人が平等だとされれば、その平等な個人の多くが同意した多数意見が絶対視される。

「価値としての多数性」をトクヴィルは「知性に適用された平等理論」と名づけた。要約すると、「知性は各人に平等に配分されている」とすれば、「多数派のほうがより多量の知性を有している」という子どもの理屈である。そういう幼稚な判断に立つ者だけが「民主主義は多数決だ」と言い張って憚らないのである。

また、「国民は等しく主権者である」というヒューマニズムの前提に立てば、この子どもの理屈に到達するのも必然といってよい。と同時に、この前提から「少数派排除」という(いわゆる「いじめ」の論理と同種の)アンチ・ヒューマニズムが出てくるのであるから、民主主義は立ち往生せざるをえない。

[西部邁『小沢一郎は背広を着たゴロツキである。  私の政治家見験録』(飛鳥新社)より]

・・・・・民主主義にあっては、多数性に(主権と呼ばれる)至高の価値をすら宛てがっています。今日では誰もわざわざ問うことを止めたのですが、多数性が最高の価値であるという命題は、誰も信じていないのに誰もが信じた振りをしている大嘘なのではないかと思われます。

トックヴィルは、その嘘を「知性に適用された平等理論」と呼んで批判しました。こういうことです。第一に、すべての人が知性を等しい質量で所有していると想定します。すると第二に、多数派のほうが(足し算として)より多い知性を保有しているということになります。したがって第三に、多数派の判断のほうがより優れているという結論になるのです。

日常生活にかんする慣習的な判断についてならば、ひょっとして、その平等理論は正しいのかもしれません。しかし、国家の政策をめぐる判断についてまでそれを主張するのは、やはり、歴然たる嘘というほかありません。

多数性にジャスティファイアビリティ(正当化可能性)はありません。もしあるというのなら、あらゆる政体が多数派の動向を気にして運営されてきたのですから、何万年も閲(けみ)した人類史は今や真善美の間近にまで達しているとみてよいということになってしまいます。しかるに、現代の文明は到る処で没落の兆候をみせつけているときています。少々なりとも敏感かつ正直な人なら、多数派にあってこそ(虚偽とはいわぬまでも)誤謬が大きい、と認めるに違いありません。歴史に進歩があったのだとしても、その進歩のアイディアやプランやプラクティスはどちらかというと、少数派の手によって担われてきたということも、あっさり承認するでしょう。

歴史の連続を保つものとしての伝統、それに精神的生命を吹き込んできたのは少数派のほうです。伝統によって生み出される権威、それを纏(まと)うのがオーソドキシー(正統)と呼ばれます。多数派は伝統から離れようとし、権威に逆らうこととしてのヘテロドキシー(異端)となります。

いや、通常の異端は慣習に抵抗する破壊主義的な少数派として歴史に登場するのです。そのあとを多数派が追う段階になって、伝統までもが失念されます。

そのとき、別種の異端が伝統の権威と権威ある正統の(反革命と俗称される)保守に起ち上がるという経緯を辿ります。ですから、多数性は正統性とも無縁とみてさしつかえありません。「ヘテロ」は「異なる」という接頭語で、その原義は「選びとる」ことです。変化という過去とは異なれるものを「選びとる」のが多数派の変わらぬ習性だといえます。

「知性に適用された平等理論」というあまりにも低俗な理屈を拒否してみると、多数性には正統性と正当性のそれぞれ一片も付与されていないとわかります。少なくとも、多数性が価値となるのは、権威の次元のことではなく、権力の次元においてのことにすぎないのは確実です。多数性は露骨きわまるフォース(物理的な力)にすぎません。

 それが(多数派の支持によって作り出される)法律によって正当化されるとき、そのフォースがパワー(権力)になります。状況の進展のなかで、法律にたいする多数派の恣意的な解釈が罷り通るようになると、そのパワーはヴァイオレンス(暴力)に転じます。「数の暴力」といわれているのがそれです。

「真理は細部に宿る」といわれるのと同じく、「真理は少数派の手にある」とみて大きく間違うことはありません。それにもかかわらず「知性に適用された平等理論」のまやかしが、多数派の故意か無知かによって守護されています。そして権力はすでに多数派の手にわたったのですから、この誤謬もしくは詐術の理論を社会のなかでつき崩すことは、あっさりいって不可能なのです。

 そのことに絶望する者が少しでも増えること、それ以外に希望はないというのがトックヴィルのいった「多数派の専制」ということなのだと思われます。

 

[西部邁『文明の敵・民主主義  危機の政治哲学』(時事通信社)より]

実際には「前もって意見を作り上げる努力をしないで、その問題について意見を持つ権利があると信じている」人間の付和雷同に過ぎないものが、自立した諸個人が自由な討議を経て決定した賢明な結論だと偽装粉飾される。

そんな世論が全ての物事の価値判断の基準になれば、国や文明が滅びない方が不思議でしょう。

多数派の大衆が、良質な市民になることは全く期待できない。

そうである以上、民主主義を擁護して、「ポピュリズム」のみを批判することは無意味であり、やはり民主主義自体を否定する視点を持たない限りどうしようもない。

一人一人の国民が、伝統と慣習の束縛を脱し、かけがえのない平等な個人として自らの権利を自覚し、あらゆる物事を主体的に考え、自分自身の意見を持ち、その意見を何ものにも制限されず自由に表現し、異なる意見を縦横に戦わせ、その結果得られた多数意見だけを国家と社会の意志決定の基礎とする、という具合になればなるほど、社会は底無しの腐敗堕落に吸い込まれ、国家は確実に破滅への道をひた走ることになる。

様々な形態はありえるでしょうが、根本的に、社会の中で、できる限り長い時間をかけて自然に形成された、いくつかの階層に分かれ秩序付けられた少数者に特別な権利と義務を与える以外に、文明を安定させる方法は無いんじゃないでしょうか。

史書を読めば読むほど、上記の考えが確信に近いものになっている。

そういう真実を直視することを拒否して、社会を原子的個人のみからなる平板なものに再構成しようとする行為が、混乱と無秩序を通じて、かつて排除された伝統的階層性など及びもつかない、途方も無い格差を伴う独裁と社会自体の破滅を生むのではないでしょうか(コーンハウザー『大衆社会の政治』)。

しかも、そうして生み出された独裁が崩壊したならば、またもや民主主義の名の下に、平等社会を築こうとする運動が続き、結果として再び新たな独裁の土壌を準備することになってしまう。

文明社会が完全に破滅するまで、この種の大衆運動が永久に続き、誰も止めることができない。

結局、言論の自由や民主主義、人権、全個人の平等などが公認かつ自明の価値になってしまったら、どんな時代のどんな国も、不可逆な滅びの道に入るしかない。

1789年以降(今のアメリカを見れば、本当は「1776年以降」と言いたい)、5000年かけて文明を築いてきた人類社会全体が、遅かれ早かれ、その道に入ってしまったんでしょう。

極めて平易な表現で、自分が普段漠然と考えていたことを明確に叙述してくれている本。

ただ、事例が卑近過ぎたり、論理の運び方に鋭さが欠ける嫌いもあるが、それも私のレベルに合っているとも言える。

今日では、本書は、旧来型の左翼よりも新自由主義者・市場主義者・個人主義者への批判として読むべきと思われる。

非常に貴重で有益な書。

強くお勧めします。

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佐伯啓思 『人間は進歩してきたのか  「西欧近代」再考  現代文明論(上)』 (PHP新書)

2003年刊。

著者の勤務する京都大学の全学共通科目「現代文明総論」という講義を基にした本。

上下二分冊だが、互いに独立した著作のようです。

京大とは言え大学一回生が特別な予備知識無しに受講できるレベルとのことなので、大して難しくない。

取り上げられている思想家もホッブズ、ルソー、マックス・ウェーバーなど誰でも知ってる人が多い。

以下、バラバラなメモ書き。

網羅性はあまり無いので、ご注意を。

近代を17世紀以降、政治面での市民革命、経済面での産業革命、文化面での科学革命の複合体として把握。

本書の基本的視座は以下の通り。

人間の自由の拡大、つまり規範的なもの、権威的なものからの解放は無条件に善であり、人間の移動性が増して空間的な活動領域が拡大することは望ましく、富を手にすることは無条件によいことだ――そういう価値観がここにはあります。ということは逆にいえば、規制や権威は悪であり、土地や共同体への執着は悪であり、いかなる不平等も許されるべきではなく、貧困はそれだけで悪だということになります。これが西欧の近代主義、啓蒙主義が生み出した進歩という考え方の核心です。

しかし、ほんとうにそうなのでしょうか。いっさいの規制や権威からの自由、共同体や土地から切り離された空間の無限の移動性(今日の情報ネットワークや世界を飛びまわる国際資本もそうです)、人間の自然的な差異を排したあらゆる意味での平等の達成、必要な生活をはるかに超えた過剰な生産や消費――こうしたことまでほんとうに無条件で是認すべきなのでしょうか。

近代的価値観の未達成ではなく、過剰こそが様々な弊害を生み出している。

ポスト・モダン思想も、自由や平等の追求を核心とする近代主義を根底から疑ってはおらず、都合の良い「近代」で都合の悪い「近代」を攻撃しているだけ。

次に、近代の成立時期の考察。

16世紀初頭を境に中世から近代に移行したのではなく、中世は14世紀に崩壊し近代合理主義の誕生は17世紀、その間300年は空白期であり、危機の時代であるという見方の提示。

ルネサンス人文主義とデカルト、ガリレイらの合理主義を区別する。

デカルト的思考は、共同体・人間関係・教育の中で育まれる、古典古代的な合理性ではなく、空白・危機の時代に対応して、社会の混乱と世界観崩壊の中、確信・信念を持ち得ない状況下での抽象的精神としての合理性。

宗教改革がローマ教皇と神聖ローマ皇帝の権威を否定、国王・領邦君主の自立を促し、聖書翻訳によって国家意識を生み出し、意図せざる結果として神中心の宗教的秩序から人中心の世俗的秩序への転換を進める役割を果す。

続いて、ホッブズ、ルソーの思想検討に入るが、ここでは結論部の以下の文章のみ引用。

まとめていえば、もともと、近代的な民主主義は古典的な共和主義の復活として出てきた。ところで古典的な共和主義は、市民的美徳をもって公共精神を宿し、共同体への愛着をもった市民を想定している。しかし、近代社会には、こうした市民を持ち込むことはすでにできなくなっている。そこで、その代用として、市民が一致して関心をもつ「公的なもの」を仮構せざるをえない。それが「国民の意思」です。現代的にいえば「世論」です。共和主義の支えを失った近代民主主義は、このようなフィクションを持ち込まざるをえない。そして、そのフィクションがあたかも実体であるかのように民主政治が営まれたときに、その民主主義は全体主義に転化してしまうのです。民主主義のなかには、あらかじめ何か全体主義的なものが含まれてしまっているといわねばなりません。

ルソーの「一般意思」概念が全体主義的独裁確立に利用されたというのは保守派のルソー批判の定番で、本書でもそうしたことは書いているが、同時にルソーの思想のうち、古典古代的共和主義再構成の面はアメリカ独立革命に、社会契約説と人民主権論の徹底という面はフランス革命に繋がっているとされ、前者に対しては一定の肯定的評価が与えられている。

古典古代的共和主義とは、国家の構成員の主体的政治参加を是とする立場。

しかしそれには共同体への防衛への献身、勇気・自己制御・節制・思慮・正義感など市民的美徳の涵養への義務が各個人に課されることが大前提。

この意味での「共和主義」は往々にして民主主義とは逆の内容を持つ。

『ザ・フェデラリスト』でハミルトンなどアメリカ建国の父たちが、自分たちが作ろうとしているのは民主政ではなく共和政だと繰り返し書いていたのを思い出した。

「デモクラシー」という言葉を偶像視するというか、呪文のように述べる今のアメリカ人とはえらい違いです。

ケナンのような「真のアメリカ人」とでも言うべき人はもう存在しなくなったんでしょうね。

・・・すべての政府システムを縦断し、他のすべてに勝る意義を持つ基本的な相違がある。それは「民主的」と「非民主的」な政府の違いと説明すれば最もわかりやすいだろうし、米国では特にそうだ。私個人としては、この関連で「民主的」という用語を使うのが嫌いだ。この用語は、そもそも米国の建国の父の多くが、建設中のシステムを説明するのに使おうとはしなかったろう。当時ですら「民主主義」という言葉は相当多くの意味になり、代表制政府の制度の強力な支持者ですら、軽蔑的に用いることがあった。さらに近年になると広く乱用されて、かってどんな意味があったにせよ、その大半が失われるに至った。(ジョージ・ケナン『二十世紀を生きて』(同文書院インターナショナル)

かつてアレグザンダー・ハミルトンは民衆を「巨大な野獣」と呼び、「人民の声は神の声だと言われ、この格言は広く引用し、また信ぜられているが、実際上の真理ではない。人民は乱暴で移り気なものである。正しい判断と決定を行うことはできない」と述べている。(アンドレ・モロワ『アメリカ史 上』(新潮文庫)。ただしモロワはハミルトンよりライバルのジェファソンを評価している。)

現在ではこんなこと正面切って主張されたら、奇異の念を抱くか強い反発を覚えるという方がほとんどでしょうが、アメリカ建国の父たちの、少なくとも半分がこのような考え方の持ち主であったからこそ、大規模な民衆運動がとりあえずは独裁や終わり無き内乱に転化しなかったのだとも思える。

そうでなければアメリカは、十数年後のフランスより先に、人類史上初の全体主義を生み出したという汚名を着たはずである。

ところがこうした精神は建国後、約半世紀しか続かず、1830年代のジャクソニアン・デモクラシーで決定的な堕落を遂げ、トクヴィルが指摘するような大衆民主主義国家に成り下がったとある人が評していたが、確かにそう思える。

われわれ民衆が無条件で主権者だとされるのは、君主や貴族という身分の存在よりも「生まれながらの不当な特権」だと言いたい。

少数者の特権と違って、それを抑制することや相応しい義務を課すことが不可能に近いだけ、一層タチが悪い。

個人的には言葉の真の意味での「共和国」には君主と貴族が不可欠だとすら言いたいくらいである。

言ってみれば、「真の共和政」は君主制と貴族制と民主制の三者が相互に抑制し合って均衡を保つ状態だとする見方もありうると思うのだが(引用文(中江兆民1))、実際には民主制のみが突出した国家が共和国と呼ばれ、なぜか「共和主義=民主主義」ということになってしまっている。

閑話休題。

以上が本書前半部の粗っぽい内容メモ。

(省略した論点もかなりあります。)

後半部は、カルヴァン主義と資本主義成立の関連を述べた、ウェーバーの有名な仮説や、フロイトの「自我」「エス」「超自我」の関係などについて。

プロテスタンティズムがローマ教会の階層性的権威を否定し神を内面化して自己制御・自己陶冶するキリスト教的個人主義を成立させ、それが近代的個人主義に繋がるが、信仰心の後退によって内面の支えがなくなり、利己主義を抑える術を失った個人主義が資本主義と近代市民社会を根底から堕落させていく、みたいなことが書いてある。

上記の内容メモは適当過ぎますが(最近根気が続かない)、本書自体はかなり面白いです。

実際に講義を聴いているような気分になれます。

下巻も機会があれば是非読みたい。

話し言葉でスラスラ読めるのも長所。

お勧めします。

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P・F・ドラッカー 『「経済人」の終わり』 (ダイヤモンド社)

1939年刊のピーター・ドラッカーの処女作。

これも以前から読もうと思ってはいたが、確か2、3回挫折しているはず。

この程度の長さと難易度の本を投げ出しているようではいけませんね。

今回はしっかり通読。

ファシズム全体主義分析の書。

文章はさして難しくないのだが、初心者はやや論旨がつかみにくい。

以下、誤読があるかもしれないが、とりあえず内容メモ。

キリスト教普及後のヨーロッパでは自由と平等がヨーロッパの二大基本概念となっていた。

まず初めはこの二つが精神的領域において追求された。

死後の彼岸ではあらゆる人間が平等であり、この世は死後の真の人生の準備期に過ぎないとする見方を全ての人間が受け入れていた。

この時期においては、人間は「宗教人」として理解されていたことになる。

それが、近世宗教改革以後、知性による聖書理解と個人による運命決定が押し進められ「知性人」に移行。

さらに自由と平等が社会的領域に求められるようになり、まず「政治人」が、そして「経済人」の概念が現れた。

「経済人」の概念とは人間にとって経済的地位、報酬、権利、利得を至上のものとする考え方。

それがブルジョア資本主義の背景を成していたが、20世紀に入り戦争と恐慌により、それへの確信が崩壊。

合理化・機械化・唯物化の進展が独自の力を持ち、人間には制御不能の存在になったことが示されたため。

さらに、ブルジョア資本主義と同様にマルクス社会主義も、ソ連の現状が知られるにつれ、もはや自由と平等を達成できないことが明白になった。

かつて「宗教人」の概念をもって人々を静かな諦観と従容と死後の救済を待つ態度に導いたキリスト教も、この情勢において大衆を導くことに失敗。

著者は通説とは異なり、19世紀を宗教的信仰復興の時代と捉えている。

実際、キリスト教的社会活動家によって労働条件を改善しブルジョア資本主義の弊害を是正する動きが多く見られた。

しかし20世紀においては、キリスト教は個人の貴重な避難所を提供することはできたが、社会全体を導くことはできず、反ってファシズムの本質を見誤り、それに親近感を持ち、ブルジョア資本主義・マルクス社会主義のみを否定しがちになる。

この「経済人」概念を中心とする旧秩序崩壊と新秩序不在の状況下、絶望した大衆が求めたのがファシズム全体主義。

本書ではファシズム特有の病的症状として、(1)積極的信条を持たず、他の信条への攻撃・排斥・否定を旨とする、(2)権力と組織の自己正当化・自己目的化、(3)仮の信条と公約の矛盾、不信にも関わらず、むしろそれゆえに絶望した大衆が支持を与えること、の三点を挙げている。

ファシズムは「英雄人」という人間規定を掲げるがその内容は空疎であり、もちろん真の社会の安定をもたらすことはできない。

著者はファシズムを支持する大衆を、夢幻と忘却を求める麻薬中毒患者に喩えている。

西側民主主義諸国は以上ファシズム台頭の真因を理解し、「経済人」を超えた理想を作り上げなければならない、といったことが書いてあるのか?

ざーっと読んで、あとはほとんど(特に後半部は)見返すことなく、おぼろげな記憶に頼って書いたので、変なことをメモしているかもしれません。

以上の記事はいつにも増して信用しないで下さい。

これも期待が大き過ぎて、読後感はあまり良くない。

同じドラッカー著なら、『傍観者の時代』の方がずっと面白かった。

特にはお勧めしません。

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正義論についてのメモ

マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)の記事続き。

第9章、道徳と責任について。

まず道徳的個人主義の考え方。

これは、習慣・伝統・受け継がれた地位でなく、一人ひとりの自由な選択がわれわれを拘束する唯一の道徳的責務であるとする立場。

カントの自律的意志、ロールズの無知のベールに覆われた仮説的同意の双方とも、この道徳的個人主義に基づき、独自の目的や愛着から独立し、自己の役割・アイデンティティを考慮しない個人を前提としている。

そこには愛国心・同胞愛・家族愛など、われわれが本能的に尊重すべきであると考える価値が入る余地は無い。

実際には、自己は社会的歴史的役割や立場から切り離せず、目的論的特性を帯びた物語の中で自分の役割を見出す存在だと、著者は主張する。

ここで著者は道徳的責任の三つのカテゴリーを提示。

1.自然的義務:普遍的 合意を必要としない

2.自発的責務:個別的 合意を必要とする

3.連帯の責務:個別的 合意を必要としない

1は殺人の禁止など、最も原初的な義務。

2は契約に基くもので、平等志向のリベラル派はしばしばこの段階に留まる傾向がある。

3は物語的説明から生れるもので、著者の大いに強調する部分。

第10章、「正義と共通善」、全体のまとめとして、以下の文章を引用。

この探求の旅を通じて、われわれは正義に対する三つの考え方を探ってきた。第一の考え方では、正義は功利性や福利を最大限にすること――最大多数の最大幸福――を意味する。第二の考え方では、正義は選択の自由の尊重を意味する――自由市場で人びとが行なう現実の選択(リバタリアンの見解)であれ、平等な原初状態において人びとが行なうはずの仮説的選択(リベラルな平等主義者の見解)であれ。第三の考え方では、正義には美徳を涵養することと共通善について判断することが含まれる。もうおわかりだと思うが、私が支持する見解は第三の考え方に属している。その理由を説明してみたい。

功利主義的な考え方には欠点が二つある。一つ目は、正義と権利を原理ではなく計算の対象としていることだ。二つ目は、人間のあらゆる善をたった一つの統一した価値基準に当てはめ、平らにならして、個々の質的な違いを考慮しないことだ。自由に基づく理論は一つ目の問題を解決するが、二つ目の問題は解決しない。そうした理論は権利を真剣に受け止め、正義は単なる計算以上のものだと強く主張する。自由に基づく諸理論は、どの権利が功利主義的考慮に勝るかという点では一致しないものの、ある特定の権利が基盤となり、尊重されるべきだという点では一致する。だが、尊重に値する権利を選び出すことはせず、人びとの嗜好をあるがままに受け入れる。われわれが社会生活に持ち込む嗜好や欲求について、疑問や異議を差し挟むよう求めることはない。自由に基づくそうした理論によれば、われわれの追求する目的の道徳的価値も、われわれが送る生活の意味や意義も、われわれが共有する共通の生の質や特性も、すべては正義の領域を越えたところにあるのだ。

私には、これは間違っていると思える。公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは、達成できない。公正な社会を達成するためには、善良な生活の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはいけない。

面白い。

明快な論旨の流れに引き込まれる思いがする。

本書の正義観も、結局個人主義に基礎を置いているという評も読んだことがあるし、いかにもアメリカ的だなあと興醒めする部分もないではないが、それでもリバタリアンの御託宣を聞かされるより、何十倍もマシである。

ただ、訳者による解説・あとがきの類が一切無いのは残念。

それが唯一の欠点か。

とは言え、読んで損はありません。

お勧めします。

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マイケル・サンデル 『これからの「正義」の話をしよう  いまを生き延びるための哲学』 (早川書房)

このブログではよくある、「おいおい、どこが世界史ブックガイドなんだよ」という記事。

ブームになってから随分経つが、県立図書館の貸出予約がようやく減ってきたので借りられたという次第。

ハーヴァード大学の学部生向け政治哲学講義を基にした本。

政治と道徳をめぐる問題について現代の具体的事例と理論的考察を常に往還しながら、議論を進めていく構成。

第1章、全体の導入部、正義の基準として何を重視するかについての三つの考え方を提示。

まず(1)幸福(の最大化)を追求する功利主義。

次に(2)自由(の尊重)を優先するアプローチ。

この「自由」派で現在優勢なのは市場主義的なリバタリアニズム(自由至上主義)だが、著者は一見それとは全く対照的なリベラル的平等主義者もこのグループに属するとしている。

リバタリアンが自由市場で人々が行う現実の選択を尊重するのに対し、リベラル的平等主義者は平等な原初状態において人々が行うはずの仮説的選択を想定し重視するがゆえに平等の主張を導き出しているとしている。

最後が(3)美徳(の涵養)を重視するコミュニタリアニズム(共同体主義)で、本書の主張もこれに基く。

第2章、功利主義の検討。

ベンサムに代表される考え方とその限界について述べる。

その思想に基き、あらゆるものを社会全体の快楽と苦痛の計算で判断すると、少数派の抑圧や社会の質的低落をしばしば無視することになる。

その欠陥を是正しようとしたジョン・ステュアート・ミルの努力は、実際功利主義自体の枠を乗り越えた概念に依存せざるを得なかったことなどを叙述。

第3章、リバタリアニズムの紹介、フリードマン、ハイエク、ロバート・ノージック(『アナーキー・国家・ユートピア』の著者)など。

リバタリアンの言うように、自分を自分自身の完全な所有者と見なすと、合意による殺人と人肉食(実際そういう例がドイツであったそうです)のように、どうしても正当化し難い事例への非難の根拠が無くなることを指摘。

第4章、前章に続き、リバタリアンが絶対視する市場が、不可避的に道徳的限界を持っていることを述べる。

富裕国が貧困国に代理母妊娠を委託するビジネスや奴隷売買の例を挙げ、各個人の「無制限の自己所有権」という考え方に反対している。

第5章、ここではカントの著『道徳形而上学原論』を採り上げ、その正義観を論ずる。

カントは、上記(1)幸福、(2)自由、(3)美徳の各アプローチの中では「自由」派に属する。

しかし、その自由観・正義論はリバタリアンとは全く異なる。

カントは、ある時点での利害、必要性、欲望、選好といった経験的理由を道徳の基準にすべきではないと言う。こうした要因は変わりやすく、偶然に左右されるため、普遍的な道徳原理(普遍的人権など)の基準にはとうていなりえない。選好や欲望(たとえ幸せになりたいというものでも)を道徳原理の基準にすると、道徳の本質を見誤るという根本的問題である。

われわれは自由を、何にも妨げられずに、したいことをすることだと考えがちだが、カントの考えは違う。カントの自由の概念は、もっと厳しく要求が多い。

道徳については義務と傾向性、自由については自律と他律、理性については定言命法と仮言命法、観点については英知界と感性界を対比し、それぞれ前者に価値を置く。

第6章、カントと同じく、(2)自由のアプローチを採りながらリバタリアンとは全く異なる考え方を展開するジョン・ロールズ(『正義論』著者)の思考紹介。

まず原初的社会契約における「無知のベール」という有名な想定。

次に社会で最も不遇な人々の利益になるような不平等のみを認めるという格差原理。

続いて以下四つの社会原理を比較。

1.封建制度=生まれに基く固定的階級制度。

2.自由主義=形式的機会平等を伴う自由市場。

3.実力主義=公平な機会平等を伴う自由市場。

4.平等主義=ロールズの格差原理。

個人の才能については、どんな才能が社会的に評価されるのかは自己決定の範囲外で時代情勢や偶然に左右されるし、個人的努力についても、その少なからぬ部分が生育環境や遺伝的特質に負う以上、努力や才能は個人の完全な所有物ではなく、実力主義社会は必ずしも公正な社会とは言えないとして、著者はロールズの平等主義を評価している。

第7章、アメリカで長年喧しい問題となっているアファーマティブ・アクション(少数派優遇措置)をめぐる論争について。

第8章、アリストテレスの正義論。

ここから(3)美徳のアプローチに入る。

まずアリストテレスの考え方を目的論的思考と定義。

これは、公正・正しさに関する問いを名誉・徳・道徳的真価から切り離すようになった近代以降衰退した考え方。

近代における分配の正義が所得・富・機会に関するものなのに対して、アリストテレスにおいては地位と名誉の分配こそ重要であった。

こんにち、われわれは、政治を特有の本質的目的を持つものとは考えず、市民が支持できるさまざま目的に開かれているものと考える。だからこそ、人びとが集団的に追求したい目的や目標をその都度選べるようにするために、選挙があるのではないだろうか?政治的コミュニティにあらかじめ何らかの目的や目標を与えれば、市民がみずから決める権利を横取りされることになる。誰もが共有できるわけではない価値を押しつけられるおそれもある。われわれが政治に明確な目的や目標を付与するのに二の足を踏むのは、個人の自由への関心の表われだ。われわれは政治を、個人がみずから目的を選べるようにする手続きと見ている。

アリストテレスは政治をそのようには見ない。アリストテレスにとって政治の目的は、目的にかかわらず中立的な権利の枠組みを構築することではない。善き市民を育成し、善き人格を養成することなのだ。

あらゆる都市国家(ポリス)は、真にその名にふさわしく、しかも名ばかりでないならば、善の促進という目的に邁進しなければならない。さもないと、政治的共同体は単なる同盟に堕してしまう・・・・・。また、法は単なる契約となってしまう・・・・・「一人ひとりの権利が他人に侵されないよう保証するもの」となってしまう――本来なら、都市国家の市民を善良で公正な者とするための生活の掟であるべきなのに。

アリストテレスには奴隷制容認のような、現在から見て明白な誤りもあったにも拘わらず、リベラル派の選択と合意の倫理に従うよりも、アリストテレス的な目的と適性の倫理に従った方が、より社会の道徳的基準の厳格化に資する場合もあると、著者は示唆している。

残り2章は次回。

(追記:続きはこちら→正義論についてのメモ

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フリードリヒ・A・ハイエク 『隷従への道  全体主義と自由』 (東京創元社)

第二次世界大戦末期、1944年に出た本。

主に引用文でハイエク、ハイエクと書いてるくせに(こことかこことか)、その著作は一冊も読んだことはなかった。

それはそれで情けないことではあるが、基本的に私には読めないレベルの著者なのでしょうがないかとも思っていた。

『自由の条件』や『法と立法と自由』などの大著はもちろん、最も一般向け著作と思われる本書ですら十数年前に読もうとして挫折していたくらい。

しかし今回なぜか読むべきかとの気分になり、手に取ってみた。

平等を志向する経済の計画化が自由を損なうことにより政治的独裁へと帰着することを主張したもの。

社会主義的要因以外の特殊なドイツ的要因が、全体主義をもたらしたと信ずることは誤りである。ドイツがイタリアおよびソ連と共通にもっていたものは、有力な社会主義的見解であって、プロイセン主義ではないのである。――そして国家社会主義は大衆から起ったのであり、プロイセンの伝統に浸り、その恩恵を受けた階級から起ったのではなかった。

本書においても、所々、自由放任的市場への留保が垣間見られないこともない。

ある大ざっぱな規則、特に自由放任の原則に関して、若干の自由主義者が行った融通のきかない主張ほど、自由主義を傷つけたものはおそらくないだろう。

反社会的特権の擁護に自由主義的文句を濫用する人々に対する当然のいらだち・・・・・

しかしその主旨はやはり以下の通りの見解となる。

大多数の人々が「原子的」な競争と中央指導との何か中間的なものを見出すことが可能であるに違いないと信じている。・・・・・われわれの目標は極端に分散的な自由競争でもなく、また単一計画による完全な中央集権化でもなくて、二つの方法の賢明なある混合物であるという思想ほど、一見してもっともらしく思われ、理性をそなえている人々に訴えるものはおそらくないであろう。しかし単なる常識がこの方面では当てにならぬ指針であることは明白である。・・・・・競争も中央指導もともにそれらが不完全である場合には貧しく無能力な要具となる。両者は同じ問題を解決するために用いられる択一的な原理であって、両者の混合はどちらも事実上作用せず、そしてその結果は、どちらかの体制が徹底的に貫かれるときよりも悪いということを意味している。

こんな風に言われても到底素直にうなずけるものではない。

市場というものを全面否定した社会変革運動が数千万人の犠牲者を出した人類史上最大の悲劇をもたらしたことはいくら強調してもし過ぎることのない教訓だとは思うが、かと言ってあらゆる場合において、どんな矛盾や弊害があろうとも、結局自由市場が最善の解答なんだと構えて突っ走っていくと、また「全能の国家介入」という狂信を招き寄せるだけじゃないんでしょうかという気分になる。

ナチス・ドイツ打倒における同盟国としてソ連の威信が最も高く、共産主義に同意しない人々もその多くが社会主義こそ「将来の波」と考えていた時期に出たことを考えると、知的勇気に満ちた立派な論争の書ということになるんでしょうが。

しかし少なくとも本書においてはハイエクにおける「隠れ保守主義者」の面はほとんど感じ取れません。

二十年近く前に通読していたら大いに納得・同意したであろう、本書の個人主義的・自由至上主義的・市場主義的考え方が、今となってはただひたすら疎ましい。

自分も世の中も随分変わりました。

むしろ副次的で主要論点から外れた記述が心に残ったりする(また例によって単独の引用文記事を近日中に挙げます)。

読みやすい参考文献は西部邁『経済倫理学序説』間宮陽介『ケインズとハイエク』など。

加えて、かなり骨が折れますが、教条的市場主義への「解毒剤」として、カール・ポラニー『大転換』(東洋経済新報社)でも読みますか。

同じ市場原理主義・リバタリアニズム批判で遥かに読みやすい本では、荒井一博『自由だけではなぜいけないのか』(講談社選書メチエ)を強くお勧めします。

これは私程度の読者でも十分通読できます。

しかし「社会主義」という言葉に決定的な負のイメージが付く一方、リバタリアン的言説が最も原初的で低劣な利己主義肯定のための屁理屈に使われている世間の風潮を考えると、今是非とも読まなきゃいけない本かなあと疑問に感じる。

私としては強くお勧めはしません。

・・・・・若干の与って力ある要因が集産主義の党派的、排他的となる傾向を強める。これらのうちで最も重要な一つのことは、個人が自分自身を集団と同一化しようとする欲求がしばしば劣等感の結果であり、したがって個人の欲望は集団の団員であることが、局外者よりもある優越感を与えるときにのみ満たされるということである。時とすると、集団の内部において曲げなくてはならぬ個人の激しい本能も、局外者に対する共同行動においては自由に発揮できるということが、個人を集団のなかへ飛び込ませるにいたるものと思われる。ラインホルド・ニーバーの『道徳的な個人と不道徳な社会』という書名には深い真理がある。――われわれは彼の命題から引き出される結論にしたがうことはほとんどできないが。実際彼がどこかで述べているように、「近代人の間には自分自身を道徳的であると考える傾向が強くなっている。というのは、彼らは自分の不道徳をますます多く集団に押しやっているからである」。集団のために働くということは、集団内における人々の、個人としての行動を支配する多くの道徳的拘束から、人々を解放するかのように思われる。

ピーター・ドラッカーは「新しい自由について語られることが多ければ多いほど、そこには自由がますます少ない」ことを正しく認めている。「しかしこの新しい自由はヨーロッパが自由について理解していたすべてのことのまったくの矛盾を覆い隠す単なる言葉にすぎない・・・・・、ヨーロッパにおいて説かれている新しい自由は、個人を不利にする多数の権利である」。

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ロバート・ニスベット 『保守主義  夢と現実』 (昭和堂)

原著が1986年、翻訳が1990年に出た本。

著者はアメリカ人。

150ページほどとごく短い。

エドマンド・バークを中心とした保守主義の概説。

第1章は、フランス革命の衝撃とそれに対するバークの批判からはじまった保守主義の起源、および19世紀以後の展開。

第2章は、伝統・偏見・権力・自由と平等・財産・宗教などについての保守主義の教義を概観。

第3章は、保守主義が主に19世紀のものの考え方に与えた影響。

第4章でガラッと毛色が変わって、1950年代の保守主義復興、60年代から70年代の新左翼への反発、80年代の米レーガン政権内における保守的党派の分類など、アメリカ国内の政治勢力の話が来てお仕舞い。

レーガン支持派として挙げられているのは、権力志向の極右・福音主義の宗教右派・自由至上主義者(リバタリアン)・直接民主制志向のポピュリスト・「小さな政府」志向の伝統的保守主義者など。

他に、新左翼と伝統的保守主義双方に対抗するニューライト・宗教右派が「新しい(ニュー)保守主義」で、右傾化した元リベラリストが「新(ネオ)保守主義」みたいなことが訳者註などに書いてあるが、この辺ややわかりにくい。

この章で、アメリカ史においては第一次大戦、第二次大戦、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争と民主党政権が戦争を始めて共和党政権が収拾する、といったことが書いてあり、確かに20世紀中はそうだったが、小ブッシュがすべてをぶち壊したのでそれも当てはまらなくなったなあと思った。

著者は、アーヴィング・クリストルやウィリアム・バックリーなどいわゆるネオコン人脈に連なる人物らしく、その点やや警戒心を持ってしまう。

ただし著者自身の考えは4章の一部を別にして強くは浮かび上がってこないので、まあいいでしょう。

著者が、社会主義・共産主義を批判して、自由民主主義と市場経済を擁護し絶対視するだけの自称「保守」ではないことは充分わかる。

バークに始まる歴代の保守主義者が中世封建制社会の長所を実にしばしば強調し、近代資本制社会そのものに強い批判の念を持っていたことを本書ははっきり記している。

しかし、やはり市場主義への批判は抑え気味ではないかと感じた。

バークやトクヴィルを経済的レッセ・フェール支持者として称賛している部分には強い違和感、というより嫌悪感すら感じた。

私有財産制の尊重を言うのはもっともではあるが、市場社会への批判が、巨大企業の独占や政府官僚への批判に留まるならば、結局新自由主義的言説に回収されてしまうのではと思った。

ただし、あまり知られていない人を含む豊富な引用文を交えながらの叙述はかなり効用が高い。

コンパクトな分量で訳文も読みやすいのも長所。

(ただし明らかな誤植が数ヶ所あったのは残念。)

末尾の訳者による保守主義の文献ノートも貴重。

翻訳のあるものは少ないが、名前を知るだけでも有益。

コーンハウザーの本でも名の出たヴィーレックやカークの翻訳を期待したいです。

「機械主義への信仰、物質的なものの全能性への信仰は、いつの時代でも弱さと盲目の不満の共通の避難所である。」[カーライル]

「いまやわれわれを煽りたて脅かしている階級間の、また様々な信条の間の闘いには、ただひとつの治療法しかない。それは忠誠と畏敬、人民の権利と社会的同情の制度として説明することのできるある制度[封建制]に本気で立ち返ることである。」[ディズレーリ]

「一見民主的な運動ほど、高度に組織され確信をもった小数者の意志が動きの鈍い未組織の大衆の意志を支配する有様を明確に説明する運動はない。」アーヴィング・バビット]

「貴族的な古い土地階級と新しい貨幣階級との間の――かならずしもつねに意識されてはいないが――ほんとうの戦争状態において、最も利用しやすいがゆえに最も大きな力は、後者の手中にあった。貨幣階級は、本性的にいかなる冒険にもすぐ応じるし、また貨幣所有者は、いかなる新しい事業にもとりかかる意志がある。・・・・・したがって、それは変化を望むすべての物が頼りとする種類の富である。」[バーク。革命派と新興ブルジョワ階級との結び付きを非難して。]

「邪悪なものは生起した。この邪悪なものは原理的かつ模範的になされている。そしてわれわれはそれが[終わる]時期について、われわれ自身の手よりもより高次の手の善意を待つほかない。・・・・・わたしが過去しばらくの間やり、これからもずっとやっていくであろうことは、積極的にも受動的にもこの大変動にいささかも手を貸さないようにすることだけである。」バーク]

保守主義者による自由主義批判の核心は、自由主義は要するに全体主義のための「おとりのヤギ」であるという点にある。近代人のなかではとりわけバークからドーソン、エリオット、カークに至る人々がそのように考えてきた。社会内の伝統的権威や役割から人々を解放するという不断の努力を通じて、自由主義は社会構造を弱体化し、「大衆型」人間の増加をうながし、そしてこれによって、出番を伺っていた全体主義者たちを招き入れたというわけだ。エリオットによれば、「人々の社会慣習を破壊することによって」、「彼らの自然な集団意識を個々の構成要素に解消することによって、・・・・・自由主義はそれ自身を否定するものへの道を準備することになる。」またクリストファー・ドーソンも、ムッソリーニの全盛期に、イタリア・ファシズムは基本的には近代自由主義が生みだしたものだと断定している。上記「自由主義」を「民主主義」「資本主義」に置き換えてもいいでしょう。]

保守主義者は、主として、確固たる正統性から離脱した人間はなんらかの混乱や平衡感覚の喪失に陥りやすいという十分に根拠のある確信に基づいて、宗教を支持した。バークが息子宛の手紙に書いているように、宗教は「人間の砦であり、これがなければ世界は不可解で、それゆえ敵対的となっていたであろう。」トクヴィルは、個人的には生粋のローマ教会信仰をもっていたにもかかわらず、臨終の信仰告白まではそれをひけらかさないように心に決めていたが、その彼の鮮かな説明によれば、政府と社会にとっての、また自由にとっての、宗教の価値は次の点にある。

政治における以上に宗教において権威の原理がもはや存在しないとき、たちまち人々は無拘束の独立状態に驚かされることになる。周囲のあらゆるものの絶え間ない動揺が人々に警告し、彼らを消耗させる。・・・・・わたしには、人が完全な宗教的独立と完全な政治的自由とを同時に保持しうるかどうか疑わしいように思われる。だから、わたしは、信仰が欠けているとき、人は服従しなければならない、また自由であるとき、人は信仰をもたなければならない、と考えたいのである。

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村上泰亮 『産業社会の病理』 (中公クラシックス)

著者のお名前はかなり以前から知っていたが、著作を読むのはこれが初めて。

1970年代前半に書かれた諸論文に加筆訂正の上、75年に中公叢書として刊行されたものが原本。

第一部が現代資本主義論、第二部が経済学方法論という構成。

この方が書かれた『反古典の政治経済学 上・下』(中央公論社)は日本の社会科学の金字塔だと言えるほど素晴らしい名著だと仄聞してはいるが、当然私レベルでは読めない。

実は本書も少し苦しい部分はあるが、何が書いてあるのか全く意味が取れないということもない。

所々深い印象を受ける文章がある。

たまには自分の関心と知的レベルを超えたこういう本を読むのも宜しいんじゃないかと思いました。

これまで人類は生命の必然から自分自身を解放するための努力をいろいろな形で試みてきた。生活の必然を超えたさまざまな活動、例えばスポーツ、音楽、造型美術、言語表現を用いた各種の芸術などの活動は、有史以来のすべての文化において(文化によって各種活動の相対的評価は異なるけれども)、人間にとって最高の生き甲斐とみなされてきた。生命の必然を超えた活動とはどこまでの範囲を含むのか、またそれらのさまざまな類似の活動のなかでどれが最も重要か、などの議論は実は果てしもない迷路である。例えば、ホイジンガのいうホモ・ルーデンスとしての人間における「遊び」、ハンナ・アレントのいう労働や仕事と区別された意味での「活動(アクション)」などの概念は、生活の必要とは関係なく自由に行われうる行動を把えようとするそれぞれの努力であろう。しかしここではその議論に足を踏み入れる余裕はない。いまは単に、生存を超えて永遠性と卓越性とをめざす活動が常に人類の最高の目標の一つであったことを、指摘すれば足りるのである。

例えば、古代ヨーロッパでの奴隷制は、貴族という名の一部階層にこの種の活動の自由を与えるための工夫として理解することもできる。有史以来の大半の人類社会の特徴であった階層制度は、この意味で少なくとも二つの面をもつものとみるべきであろう。つまり、一面においては、階級制度は大多数を占める下層階級に労苦と時に悲惨とをもたらすという影の面をもつが、他方においては、「永遠性」と「卓越性」の追求を一部上層階級に委託するという面をももっている。階級構造を物的搾取のための支配構造とのみみるのは、おそらく一面的であり(物的搾取の側面がないとみるのもまた一面的である)、この本での問題意識からすればそのような一面的認識は、産業社会の今後の重大な選択に関して誤りに導く可能性が高い。階級構造は、人類の生き甲斐追求についての一種の分業の制度化であったという事実認識を、その制度の是非を論ずる以前に、はっきりともつ必要がある。

このようにして、欧米の産業社会では、手段的能動主義=個人主義の価値複合体が産業化を推進するが、産業化の進行もまたそれらの価値観を強化するという相互補強的な関係が成立する。しかしそのなかで個人主義の強化は、個人の社会的統合という問題をひき起こす。またそのような個人主義の強化は経済システムの場で行われるから、経済システムとそれ以外のシステムとの間のバランスという問題が同時に起ってくる。

この問題に対する最も楽天的な考え方としては、適切なインパーソナルな制度によって統合は自然に達成され、人々を統合するための集団主義的価値観はとくに必要でない、という主張がある。例えば、経済上の自由放任主義は、市場メカニズムというインパーソナルな制度が統合機能を十分に果すという楽天的主張である。しかし第三章でも述べたように、市場メカニズムは必ずしも理想的には働かない。さらに問題になるのは、市場メカニズムのルールや適用範囲は、ときに応じて調整されなければならないが、そのようなルール自体を市場メカニズムで決めるわけにはいかない。どのように有効な制度も、結局、最終的には、統合への指向性をもった価値観が人々の間に存在することに依存している。これはわれわれが先に統合のシステムと呼んだもの、あるいはパーソンズが「社会におけるコミュニティ(societal community)と呼んだものの本質である。

個人主義と手段的能動主義との価値複合体の働きに対して危惧の念を抱いた人は、個人主義を尊重する人の中でも少なくない。産業社会を論じる文脈のなかでこの問題を初めて明瞭にとらえたのは、おそらくエミール・デュルケームであろう。彼の考えていた具体的な統合の制度は、国家と個人との間に「中間項的集団」を介在させることであり、それらの集団に培われた価値観に抑制的な働きを期待したのである。しかし彼の言う中間項的集団とは、具体的には職業団体、とくに同業組合であり、中世的自治都市という伝統的社会からの遺産に他ならない。彼の期待が空しかったことは、ほぼ歴史が証明しているように思われる。

同じような危惧の念を抱いていたのはシュンペーターである。彼は、資本主義は固有の統合機能を産み出さず、前産業社会以来の貴族階層の価値観(そして貴族に対する大衆の伝統的尊敬)と政治技能が、資本主義社会の統合機能を支えていた考える。

デュルケームとシュンペーターに共通しているのは、資本主義的産業社会が、それ独自の統合機能、統合のための抑制型価値観を産み出さなかったという考え方である。言いかえれば、資本主義は前産業社会からの遺産を食いつぶすことによって統合を保っている。しかしそのような遺産は、時代の推移と共に、とくに大衆教育の高度化によって使い尽くされていくのかもしれない。そのとき、手段的能動主義と個人主義の価値複合体に何が起るだろうか。

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アンソニー・クイントン 『不完全性の政治学』 (東信堂)

1976年に行われた講義を本にしたもの。

この訳本は2003年刊。

本文は150ページほどなので、楽に読める。

人間の知的・道徳的不完全性という前提から、(1)伝統主義、(2)社会有機体説、(3)政治的懐疑主義という、保守主義の三つの原則を導き出し、イギリス史上における保守思想家を順に論じていく内容。

著者は人間の二つの不完全性のうち、知的不完全性の方をより重視し、それを認識するにあたって宗教的信条を不可欠のものとはしていない。

具体的事例としては、13世紀のブラックトン、15世紀のフォーテスキュー、17世紀初めのエドワード・コークなどコモン・ローを擁護した法学者たちはひとまず触れず、エリザベス1世時代のリチャード・フッカーから始めている。

以後挙げられているのは、クラレンドン卿エドワード・ハイド、ハリファクス侯ジョージ・サヴィル、ボリンブルク(ボーリングブルック)子爵ヘンリ・シンジョン、デイヴィッド・ヒューム、サミュエル・ジョンソン、エドマンド・バーク、コールリッジ、ジョン・ヘンリ・ニューマン、ディズレーリ、ソールズベリ侯ロバート・セシル、フィッツジェラルド・スティーヴン、マイケル・オークショット

上記のうち二人だけ補足説明すると、クラレンドン卿は復古王政初期のチャールズ2世の首席大臣。

ハリファクス侯はクラレンドン失脚後の大臣で、ジェームズ2世にも名誉革命体制にも不即不離の関係を保ち、あらゆる政治的極端主義に反対した人物。

やや論旨がつかみにくい部分があるが、基本的には良書。

初心者でも十分読みこなせるレベル。

もし入手できれば読んでも損は無いでしょう。

保守主義の三つの特殊原理のまず第一は、伝統主義の原理であり、それは、確立された慣習や制度に対する保守主義者の愛着あるいは尊敬というかたちをとります。それと表裏の関係にあるのが、急激で、向こうみず、そしてもっと強く言えば、革命的な変化に対する保守主義者の敵意です。歴史的な進化の所産である社会秩序は、共同社会に蓄積された実際的知恵の結晶であり共同の成果なのであって、政治の経験を積んだ人々が、責任をもって決定を下さざるをえない諸状況のもとで行ってきた適応修正の積み重ねの結果としてあるのです。

第二の原理は、有機体主義の原理であり、社会は一体として自然に成長するものであり、組織された生きた全体であって機械的な寄せ集めではない、という社会観です。社会を構成するのは裸の抽象的個人ではなく、社会的存在として相互にかかわり合い、歴史的に受け継がれてきた慣習や制度に構造的に織り込まれて独特の社会性を帯びるにいたった人間です。社会の諸制度はこうして個々人にとって外在的で自由に取捨選択できるものでもなければ、個人的に利用できる面でだけ関心をもてば足りるものでもありません。むしろ、社会の諸制度が個々の人間を社会的存在たらしめるのです。

第三の原理は政治的懐疑主義の原理であり、政治的な知恵つまり人間社会の諸問題を適切に処理するのに必要な類の知識は、孤高の思想家たちの思弁的理論のなかにではなく、共同社会全体に歴史的に蓄積されてきた社会的経験のなかに見いだされるという信念です。そういう知識は、とりわけ、歴史の試練に耐えて確立された伝統的な慣習・制度の堆積や、またなんらかのかたちで政治にたずさわって広く実際的な経験を積んだ人々のうちに体現されています。社会はまことに複雑なものであって、およそ理論的な単純化になじまないのです。社会を首尾よく維持していくために必要とされる知識は、一面ではいわば暗黙の了解のようなかたちで多くの人々に共有されてもいますが、やはり基本的には個々の人間を越えた客観的な社会的諸様式のうちに具現されているといえます。

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ジグマンド・ノイマン 『大衆国家と独裁  恒久の革命』 (みすず書房)

原著は第二次世界大戦中1942年に出たもの。

著者はコーンハウザーの分類に従えば、民主主義的大衆批判者に属すると別の本で読んだ記憶がある。

本文に取り掛かると、まず第一章「現代独裁制の特質」という章で、次のような文章がある。

今日の独裁制はデモクラシーと全く相反する理念を代表するとはいえ、事実上それはデモクラシーの欠陥の直接の産物なのである。

近年における大衆民主政の出現と、伝統的諸制度の崩壊のおそれとが、現代政治に危機をもたらしているが、この二つの要因は同時に今日の独裁出現の歴史的前提でもある。

・・・・・独裁者たちがいかにデモクラシーを軽蔑しようと、彼等がその子であることに違いはない。そしてフランス革命以前の「アンシァン・レジーム」における絶対制と、今日にの独裁とを区別する根本的な相異は、まさにこの点にあるのである。デモクラシー以前の独裁政は、比較的容易に行なわれ得た。民衆の声を制圧する必要は殆んどなく、宮廷の派閥を統制し、貴族の陰謀を監視するだけで事が足りた。そこに民主主義革命が起り、無言の民衆はめざめたのである。その時以来、デモクラシーの経験を経た国々に再び独裁をもたらそうとする者は、(たとえその経験が束の間のものであろうと)その経験を忘れぬ民衆の疑問に答えねばならなくなった。この歴史的な記憶を克服し、配慮と統制とを忘れぬところに、「世論」の尊重が必要となったのである。

こうして「民衆的独裁」が、大衆民主政の時代に登場することになる。それはたしかにデモクラシーに対立するものではあるが、その根底には擬似民主的な基盤を見ることが出来る。「合法的」な権力掌握、選挙制に対する外見的尊重、人気維持に腐心すること――こういった半民主的な要素は、すべてこの新時代における独裁の存立に前提条件となるものである。現代全体主義の下での日常生活にプロパガンダの占める重要な役割は、この事実によって説明される。

こうしたかなり透徹した認識を示してはいるが、以下の章では上記のような「民主政と独裁政の近似性」という視点が掘り下げられることは極めて稀で、指導者・運動幹部・政党・官僚制・軍隊・宣伝・世代などの事項について、米英仏と独伊とソ連(および日本の例が少し)を比較対照し、最後の章で戦間期から全体主義台頭と第二次大戦勃発までの国際関係史を概観しておしまい。

具体的事例を多数挙げながらの分析と説明は、読みやすく興味深い点も無いでは無いが、正直かなり物足りない。

読み止しで終えるのももったいないと思ったので最後まで読み通したが、残念ながら期待をかなり下回る印象しか受けなかった。

大衆社会論としては、オルテガル・ボンヤスパースキルケゴールはもちろん、コーンハウザータルドに比べても劣る感じで、必読とまではやはり言えないと思います。

実に彼等は、最近の社会心理学における、いわゆる群集行動の、あらゆる特色をそなえていた。キャントリルは彼の『社会行動の心理』についての鋭い分析の中で、「群集の中の個人は、成人に達しない人間のさまざまな特徴を示すことが多い」と述べている。すなわち単純で粗野、均衡と思慮を欠くのが彼の通性である。自制を主調とする成熟した個性に彼が達していないことは明らかである。子供のように、彼の運命と内的均衡とは環境に全く依存している。その結果、彼は集団に完全に没入し、集団と自己とを、完全に同一視するに至る。

こうした集団への没入は、同時に外界の遮蔽を伴う。「群集成員個々の世界は、限定され制約される。」そのような「反対宣伝」の遮断は、たしかに生活を単純化し、文化的規範を固定化し、行動の予測可能性を保障し、安定を約束する。この「心理的自給自足」は、経験のない子供にとっては「保護関税」の役を果たす。しかし成人でありながら閉鎖的社会に身を託した、混乱した群集成員にとっては、それは個性の破壊を意味することは疑いない。厳重に防備を固めた城塞に逃避するなら、彼は独立の立場と判断とをもち得なくなる。それは、あたかも甘やかされ厚く保護されて育った子供が人生に備えるところないのと同様である。

そのような自己放棄の心理的効果は明らかである。自己の独自性の中に、すべての人が他人と異なる権利を認めるのが、自制力ある個性の力である。それは節度と寛容とを生み出す。個性を奪われた群集は自己中心で偏見をもち、狂信的である。

群集心理が全国民を捉えると、複雑な社会組織の網が破壊される。個々の成員が相異なるように、生きた社会の無数の異なった集団結社は、おしなべて灰色の大衆の中に融合されてしまう。この「大衆化」の過程――自由な組織の崩壊と階層ピラミッドの平板化――は、ある意味で現代における独裁者の出現にさきがけて進行した。現代の独裁者はこのような社会の崩壊の産物である。また逆に、そうした崩壊が彼等の支配確立の基礎となったとも言えよう。

第一次大戦後の革命運動の目的ならびに本質は、家庭まで含めたあらゆる自治的グループを解体し、明瞭な社会的意志をもたぬ一つの群集に仕立てることにあった。そのような群集は、常に圧政的指導者を要求し、感情的に動かされ満足を与えられることによってのみ結束を保つものである。それは常に動的な過程の中におかねばならず、鎮静は不可能である。これが現代の独裁的大衆国家の基盤である。しかしその成立の成否は、旧社会秩序を内外から崩壊させる長い過程を前提としている。

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